つゆり映え

- 妖怪が文字を並べるてがろぐ -
個人的には、トーハクや出光美術館の学芸員さんの解説の書き方やその筆致が好きで……私の文体や創作も多大な影響を受けている……
みんな美術館に行こう……!!
好きフォロイが原田マハのこと挙げてくれたり、何気なく言ったつぶやきを覚えててくださってるのありがたすぎる……🙏
私が美術館に行くのって大体創作に詰まった時とか、好きな絵師の絵があるとか、何も考えずただ絵のことだけ見つめて頭空っぽにしていたい時だな……
絵の前でだけ、思考は自由を得るので……
あと、すんごいニッチなあれやけど特定の美術館の学芸員さんの解説の筆致がめちゃくちゃ好きで美術館行ってる
ウワーーーッ名曲のSAKURAドロップスから藤芦概念を感じ取って頂くだなんて恐れ多すぎる……!!!!ありがとうございます😭🙏
この曲はいつも聞くたびに少しかすれた艶のある声色が切なくてメロディラインもほの暗くて胸が苦しくなってしまって歌詞をまじまじと追うどころではなくて、聞いてはしばらく封印を繰り返すくらいに私が勝手に拗らせてる曲なんですけど、今日改めて拝聴しながら歌詞を追ったら「ろ、芦雪……!?!?」ってなりました……
「恋をして」世界の全てが変わって己の全てを捧げて、痛みはずっと続くのにすり減る自分だけを置いて季節は何度も過ぎ去っていく芦雪……ウッ……てなってるとこ
MVは見たことなかったんですけど、若冲の動植綵絵が!?!?!?!?使われてる!?!?!?!?この儚い雰囲気の曲に!?!?!?!?ってなって、でも「動植綵絵」は万物を仏と尊ぶ若冲にとってのある種の宗教画であったとも言われていることも思い出し(若冲は敬虔な仏教徒だった)、その考えが歌詞にリンクしてる部分もあって二重でびっくりした
「何度も」とか「季節を巡る」とか「一回りしては戻り」とか“““繰り返す/巡る”””をたびたび出してるのも仏教の輪廻転生や永遠の教えそのものジャン……それを終わったはずの恋、それでも思い出して終われない恋になぞらえてるのも天才ジャン……
そういえば、天涯も言うなれば「芦雪が藤仁を幸せにするまで何度も世界をやり直す」話だからそもそも動植綵絵に対して親和性高いな……新たな気づき……畳む
今年行きたい展覧会
このへん行きたい~
今年は琳派と鈴木其一&長沢蘆雪が豊作だなー!!!

ほとけの国の美術
https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenr...
京都 細見美術館の名品
https://shizubi.jp/exhibition/20240413_h...
犬派?猫派?
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2024/...
夏と秋の美学
https://www.nezu-muse.or.jp/sp/exhibitio...
物、ものを呼ぶ
https://idemitsu-museum.or.jp/exhibition...
日本美術と儒教
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition...
鈴木其一が生まれたのは、長沢蘆雪が42歳の頃
その2~3年後、蘆雪は謎の急死を遂げるので、2人が確実に共に生きたといえる時代は実質2年間だけ
図らずも天涯の2人もそうだね
長沢蘆雪って藤花の絵を結構描いてるんだけど、その理由としてはまァ、師匠の円山応挙の代表作《藤花図屏風》の影響が強いっていうのと、木の寿命の長さから古来より神が宿るだとか、花房の重なりが仏の来迎の雲に見えるとかで、吉祥のモチーフとして親しまれていたからというのが大きいのかなぁとも思いつつ……
鈴木其一も藤花が好きで、色違いで同じ構図の藤花図複数描いてたりするし、自身が養子として入った家の当主も代々「藤」の名を受け継ぐから色々と思い入れがあったんだろう
生きた時代は多少違えど、こういう部分で好きな絵師の共通点を見つけると嬉しくなってしまう
キリスト教といえば、安土桃山時代に建てられた南蛮寺にある絵を元に日本の絵師たちは異国の動物を描いたんじゃないかって話、結構好き
象とか確かその説挙げられてた気がする
そういや、展覧会で見た構図が面白い牛図、梅の描表装も相まってすごく印象的だったんだけど、鑑賞者を見つめるまんまるな瞳に綺麗な藍色が使われていて、「制作期が18世紀だしベロ藍かな~。当時のトレンド取り入れてるあたり勤勉だな~」て思ってたんだけど、図録の解説読むと「藍」としか説明されてなかったからどうなんや……真相は闇の中……となっている
気になるなぁ……
念願の長沢蘆雪展に行った話

諸事情で行けないとあきらめていた長沢蘆雪展に弾丸日程で行ってきました。開催が明日までなので本当に滑り込み。
行けてよかった……。背中を押してくれた父母に感謝……🙏🙏
以下からいつも通りの思考整理用だらだら覚書です。てがろぐで新鮮な覚書綴るの初めてなのでうきうきしてるし文章がしっちゃかめっちゃかしてる。

▼内容
・長沢蘆雪という絵師
・蘆雪の絵は本当に「かわいい」だけなのか

▼長沢蘆雪という絵師
長沢蘆雪は江戸中期に活躍した絵師。けれど、その出生も若くして迎えた死も多くの謎を抱えたひとで、確定事項として分かっているのは、かの有名な円山応挙の高弟で、身分が下級武士だったということだけ。あとは残された多くの絵画たち。
そんな謎多き人物だからこそ、今でも人々の興味をひきつけてやまないのかもしれない。私もその一人。好きを昇華させ5mmの行間5kmに広げて創作BLに混ぜこむぐらいの不遜レベルです本当に申し訳ない(創作への昇華のさせ方は102103で綴った通り)。
昨今はSNSの「蘆雪犬」バズりにより若い人の間でも名前が有名になりつつあるので、ちょっと嬉しい。
今回の展覧会でもちらほら自分と同年代ぐらいかな~の方(特に女性)がいらっしゃったり、親子連れの方々がいらしたり。絵画の鑑賞と同時に現在の鑑賞者層も把握できてとても面白かった。
今回の展覧会の監修者および琳派研究の第一人者である河野元昭先生曰く、「時代が奇想(蘆雪の画風)を求めている」影響もあるらしい。自由や自律、柔軟性を求めるこの令和の時代、確かに蘆雪の画風に合っているのかもしれない。
少し前までは辻惟雄先生の「奇想の系譜」で見出された一風変わった面白い絵師、ぐらいの認識だった。それを境に美術史界でも再評価が進んでた感じでした。人の世の流れとは分からんもんですね。
ちなみに、その「奇想の系譜」で見出された絵師の中には伊藤若冲がいて、若冲の方が先に有名になっちゃった。なんか悔しい(?)。

▼蘆雪の絵は本当に「かわいい」だけなのか
昔の日本美術ってなんか小難しい……知識もないし見方もわからない……てなってる世間の印象を払拭するためか、最近はやたら「かわいい」をピックアップして紹介される江戸美術。特に蘆雪はそれが顕著で「かわいい子犬を描く絵師」として師の円山応挙とともに紹介されがち。
確かに「かわいい」は世間一般の共通認識として持てる感覚であり、鑑賞者の間口も広がる。一番取っ付きやすいラベリングなのかもしれない。
私は世間一般が「そうである」とすることに「本当にそうなん?」て意味なく考えることが好きな人間なので、「本当に蘆雪の絵は“かわいい”だけなのか」をメインのお題として、今回の展覧会の鑑賞に挑みました。
書けば長くなるのでめっちゃ簡潔に言うと、結論は「否」ではないかな~と。また「かわいい」ともてはやされているのは、「蘆雪が自身の感覚/世界を正しく鑑賞者に伝えるための工夫を惜しまなかった結果」なのではないかなと思いました(個人の感想)。上手く伝わってるのかよく分からんが伝わって欲しい。
たとえば、子犬を始めとする動物画。雀、四十雀、幼子。蘆雪はそれらのほとんどをデフォルメ化して描いている。それにより、わかりやすく「かわいい」が誇張されている気がする。
蘆雪は写実主義の円山応挙の高弟であり、写実性には申し分ない技能があるし、それが滲み出ている作品も多く残されている。
虎図などは毛の1本1本を丁寧に細密に描き、ふわりとした毛並みを忠実に再現しているし、山水図においては狩野派の画技を学んだのかもしれない筆致も時折見え隠れしている。
なのに、動物画(特に小動物)となると意図的に筆致が変わる。世間一般で言う“蘆雪らしさ”が出てくる。
それは、蘆雪が特に「愛らしい」と感じていたモチーフだったからこそ、自身の感覚/世界が正しく伝わるよう敢えてかわいいが分かりやすくなるデフォルメ筆致で描いていたのではないか。結果として、我々鑑賞者に「かわいい」を想起させることに成功している……。
なんて頭のいい絵師なんだ……好きだが??(突然のオタク)
対比として、花鳥遊漁図巻や虞美人図では写実性を重んじた筆致が適用されていて、きちんと「美しい」という感情が先立つ。色香や香り、光の加減、空気感を余すことなく伝えている。その時、「かわいい」という感情は凪いでいる。
つまるところ、現代風に言えばモチーフによって絵柄変えてるんですよこの人。なんなの???
かと思えば、依頼人の「こういうところに飾る絵が欲しい」という要望があれば、依頼人の望んでいる感情が得られる筆致に極力合わせて作品を手がけている。ものすごい力量だと思うこれ。
蘆雪は奇抜な構成の絵も多いので、変人で師に反発し自身の画技を鼻にかけた傲慢な性格だったのではとも言われているけど、依頼人の要望に合わせようとする姿勢や残された手紙の史料を見るに、至極真っ当な人で、相手のことも思いやれる、心に寄り添える優しい人柄だったのではないかな~って今回じっくり絵を眺めて思いました。
多くの筆致に対応できるよう、古画への研究やトレンドの収集、努力も惜しまない人だったのかもな、とも。
俺だったら努力どうこうの前に意味わからん要望投げてくるクライアントに暴言吐いてるとこ。蘆雪は本当に絵を描くことが好きで、その絵でひとをあっと驚かせたり喜ばせることが好きだったんだろう。
若い頃、「生涯、丹青三昧(絵を描くことに生涯を尽くす)」という言葉を度々口にしていた、との説もあるらしいので。畳む

今回の展覧会で、ますます長沢蘆雪という絵師が好きになりました。大阪で開催されてた方と前期展に行けなかったことだけが悔やまれる。
今度は関東でもやって欲しいな~!
天涯は“歴史小説”ではないし、“時代小説”ともまた違っていて、あくまでも史実をもとにした和風ローファンタジーとして書いている
学生時代に見たどこかのテレビの文芸特集インタビューの中で、敬愛する原田マハ先生が「私の書くアート小説は、9割のフィクションと1割の史実でできてます。話の整合性を取るためにもその1割の史実への取材を徹底してやることを重要視してて、かなり気をつかって基礎作りしてるんですよ」「それもあって物語の最後に必ず『これは史実をもとにしたフィクションです』と書くんですけど、これはそれだけでなくて、読者自身にも『どこがフィクションで、どこが史実なんだろう』って調べてもらいたいって思いもあって」畳むみたいなニュアンスのことを仰ってて、私も天涯においてはそうありたいなって思いながら書いている
皆に長沢蘆雪と鈴木其一のことを知ってもらいたい……
史実ではBLしてないことは大前提ですここは百合の不遜な趣味ですお許し下さい
長沢蘆雪も鈴木其一も残ってる史料が多くなくて、明確なことが何一つ言えない
天涯における芦雪と藤仁は、先行研究や史実に残ってる手紙をもとに想像や推測を多分に織り交ぜてキャラ構成している
天涯芦雪の悪戯好きな部分、目上の人間に対し礼節にしっかりしているところ、子どもや子犬、己より小さきものに注ぐ愛情のある眼差し、長澤家の養子であることは、史実、彼の絵、残された手紙から抽出した
藤仁も同様で、蕪漬けが好物であること、絵以外には興味がなく自分に無頓着であること、植物の画題を好み狂気じみた丁寧な筆致で成り上がり絵屋を率いていること、仲の良い兄弟子がいたことは全部史実、彼の絵、残された手紙から抽出
そこから史実が不透明な部分は行間として自身で推測したり物語として繋がるよう逆算して整合性をとったりしてる
芦雪が養子に出された経緯とかはまさにそう畳む
今日は父と久しぶりに長沢蘆雪の話をした
彼の自由への狂気と、毒殺自殺病死など諸説ある人間として壊れた終わりは、円山応挙という高名で高潔な師と、それに従順で閉塞的な師弟関係が初期になければ生まれなかったという話になり、ものすごく腑に落ちてしまった
同時に、鈴木其一の病的な丁寧さと張りつめたような繊細さを孕む筆致も目に鮮やかな色使いも、酒井抱一という鬱屈とした師弟関係ないしは師の死による解放がなければ生まれることはなかったんだな、て……
二人とも生きた時代は少し違う絵師だけど、よく考えるとこうした共通点があって、私はその部分を各々深く愛していることに気づけた畳む

父と美術の話をするといつも発見があるので面白い
知識はその作品への解像度を上げるための鍵でしかない
もちろん、「最低限の弁えとして絵師の分かりうる生涯を思考の前提に置かなければならない」のはある種当然であり過去の人間に敬意を払うという意味ではマスト項目ではあるけど、それを強要し正解不正解を押し付ける雰囲気が敷居を高めている原因のひとつなのもまた事実
それだと文化財を守っていけない、人に興味を持って貰えない
難しい問題だ……
何を願い、何を伝えたくて何を筆先に込めたのか
絵を前に思考することは受け取り手に唯一与えられた自由で、正解も不正解もない
あるとすれば、より真実に近いか、そうでないかぐらいの認識の差
美術は知識がないと分からない、敷居が高いって言われてるのが日本人が大好きな「正解不正解論」から来てるんだろうなって思うととても悔しい
本当はこんなにも自由な世界なのに
展覧会に行く前は大体いつも緊張する
そもそも展覧会てアーティストの主張の場として始まってることもあって、「展覧会は絵を介して当時の絵師の主張に耳を傾ける場」みたいな認識が私の中で形成されているからなんだろう
その認識形成は明らかに大学時代の美術史概論~実習までの一連の教育が影響している
教育ってこわい