つゆり映え

- 妖怪の生態観察所 -
文披31題_Day5「三日月」


 蝉時雨がやみ、外は人の気配が薄れ始めている。
 夏の空気が色濃くなろうとも、どの季節も夜になれば静かだ。他と違うことと言えば、宵が短くなったおかげで同居人の寝顔を見る時間が減ったことぐらいだろう。
(雪希の寝顔、見るのは好きなんだけどな。小さい頃から寝顔だけは変わらなくて可愛いんだ。……本人には言わないけど)
 かつて絵の前で舟を漕いでいた幼子を思い出し、紫苑はひそやかに声をこぼした。
「はー。風呂暑かったー」
 噂をすればなんとやら。乱雑にバスタオルを被った同居人──雪希が部屋に戻ってきた。
 彼は身体の線が見えぬゆったりとした服装に着替えているが、髪を丁寧に拭っていないせいか、服には水滴が落ちた跡がある。これでは着替えた意味がない。
「こら。まーた髪濡らしたまま歩いてんな。……こっち来い。拭いてやるから」
 紫苑は雪希を招き寄せると、彼を自身の前に座らせた。
「お願いしまーす」と間延びした依頼が跳ねる。素直に背を向けた男を前にして、紫苑はため息をつきながら彼の頭をバスタオルで包んだ。
「今日は三日月なんだねぇ……。誰かの爪痕みたい」
 窓から見える白き清光に、雪希はぽつりと呟いた。
「そういやお前、小さい頃は三日月のことを『月が笑ってる』なんて言ってたな」
「よく覚えてるね、そんなこと」
「そりゃあな。……忘れないよ」
「どうして?」
 髪を拭う手が止まる。紫苑は口を噤んだ。
 ほんの少し波打つ髪の癖も、幼き頃から変わらない。こうして気兼ねなく紫苑に甘えてくるところも、真摯に問いかけてくるところも。
 それに安堵してはいても、恐れもまた日々増えていく。月を見て思うことが変わるように、彼はどうしたって変わる。変わっていく。年齢も、身体付きも、考え方でさえ。
 雪希にとっての過去は、紫苑にとっては昨日のことだ。昨日のことを忘れるはずがない。紫苑のその当たり前が、雪希には当たり前ではない。
 人間は怪画ではない。不変なる存在ではないのだと、雪希の幼き頃の話をするたび、まざまざと現実を突きつけられる。怪画と人間の差を。
「それは……話せる人間なんて、身近な人間じゃ雪希ぐらいだし……。覚えてて当然だろ」
 半ば己に言い聞かせるような答えだった。紫苑は再び雪希の髪を拭い始めた。 
「そこは『雪希の言葉だから』って言ってくれたらもっと最高だったなー」 
「なに言ってんだ。……ほら終わり! 髪乾かして来い」
「んふふ。ありがと」
 雪希はおどけながら部屋を出ていった。
 髪を乾かす風の音が遠く聞こえる。紫苑はぼんやりと窓を見た。
「……月が笑ってる」
 爪痕には見えない。紫苑はひとり、ただ月を眺めていた。
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