第二十一筆「巡逢」
その日の空は、まさに
昼を過ぎ、八ツ時〔15時〕に差し掛かろうとしている今の時分でも、武家屋敷の白壁は空の青さに映え、まるで天とともに終わりない江戸の威光を示しているようだった。
(確か……この辺だったはず……)
流屋のある日本橋から、東へと緩やかに下った場所──
芦雪は周囲に人がいないことを確認し、大きく息を吸って、同じだけ吐く。自身の身なりを今一度確かめてから、半月ほど前の記憶を頼りに、とある屋敷の周囲を歩き始めた。
目的とする人物に会えるかは、運次第だ。正式に会おうと考えたところで、身分の差により目通りすら叶わぬだろう。
四魂を遣いにやっても良かったが、藤仁が頑として首を縦に振らなかったために、結局は運に頼った力技に頼らざるを得なくなった。
約束された期限のうちに、果たして彼に会うことはできるのだろうか。緊張と弱気の走る丸まった背を叱咤しながら、芦雪は歩を進めた。
屋敷の長屋門の前を横切る。門は固く閉じられ、門番は番所に引きこもっている。中から何者かが出てくる様子もなければ、外から人が
(そう上手くいくはずもないか……)
少しの落胆を覚えるも、すぐに頭を振って平静を取り戻す。芦雪は、どこまでも伸びる白壁に沿い、歩き続けた。
一つ目の角を曲がったところで、やや離れた前方から、あるものが芦雪の目端を掴んだ。
見覚えのある
生憎と後ろ姿しか見えないが、間違いない。相変わらずの運の良さに感謝しつつ、芦雪は声を張り上げた。
「春久殿!」
「芦雪……? そなた、芦雪か!」
振り返った青年は、見立て通り春久だった。
芦雪は彼のもとまで駆け寄り、息を整えてから深々と
「久しいな。……と言っても、半月ぶりだったか。体調はどうだ?」
「あれから数日は寝込みましたが、今はすっかり落ち着いております。春久殿は……」
芦雪も頬を引き上げて己のことを語れば、春久はかすかに眉尻を下げ、困ったように微笑んでいた。
「私は、変わらず元気だよ。冬吾も変わらずで……。これから見舞いに行くところでな」
春久の掠れた声尻に、心臓を締め付けられる。
「冬吾も変わらず」ということは、彼の容態は悪いままなのだろう。供も付けず、お忍び姿であることを鑑みるに、春久は友を案じる心のまま、家臣の目を盗み、屋敷を抜け出て来たに違いない。
黒檀の瞳に差す憂いは、深く遠く、よどんでいる。闇に魅入られ始めた彼を、今ここで見捨てるわけにはいかない。
かねて春久に伝えたかった言葉を裡に宿し、芦雪は意を決して口を開いた。
「春久殿。御無礼を承知で申し上げます。これから、少しお時間を頂けませんか?」
「時間を……?」
「春久殿に会わせたい者がおります」
「それは……一体……」
「説明は後でさせてください。今は、私とともに来て頂けませんか」
戸惑う春久を連れ、芦雪は足早に
大仰な屋敷が立ち並ぶ場所にひっそりと建つ、簡素な屋敷門。その向こうには真っ直ぐに敷石が伸び、両脇に夏の深まりを表す青紅葉が植わっている。
「ここは……」
「怪画絵師が棲まう庵。通称、尋夢庵です」
芦雪が告げた事実に、春久は息をのむ。二人で石の小路を行けば、ひとつの寂れた庵が姿を現した。
「写楽! 連れてきたぞ!」
かつての友の名とともに、
(久しぶりだな……この姿の藤仁を見るのは……)
柳色の小袖に身を包んだひとりの青年が、芦雪らを一心に見据えている。しかし、その
芦雪が懐古の息を漏らす一方で、青年──写楽は春久の前まで歩み寄り、唯一感情を表す唇をほのかに緩めた。
「ようこそいらっしゃいました。……貴殿が、春久殿ですね?」
「あ、あぁ……。そなたは……まさか……」
「私は写楽。そこにいる芦雪の友人であり、また怪画を従える……しがない町絵師です」
絵師を名乗る男の洗練された
「芦雪……。これは、どういう……」
「……先日はお話しすることが叶わず、大変申し訳ございません。先程この者が申し上げました通り、彼は我が友人であり、春久殿が依頼を出したいと仰っていた絵師、写楽。彼に春久殿が命の恩人なのだと話しましたところ、依頼を引き受けよう、と……」
よどみなく流れる芦雪の口上は、大半が真実だが、末尾のものは偽りである。
藤仁は、春久が武家であることを理由に、頑なに「断る」と明言していた。にも関わらず、何か思うことでもあったのか、はたまた考えを改めたのか、彼は唐突に「今回だけ引き受ける」と掌を返したのだ。
芦雪の体調が本調子に戻る頃には、藤仁は既に本件の依頼に取り掛かっており、心変わりの真相を尋ねる暇もなかった。加えて、昨日の夜更けに何の前触れもなく芦雪の部屋を訪れたかと思うと、「絵が完成した。明日、さっさと渡して片付けるぞ」と絵を寄越した。
まさか藤仁自身が写楽に身をやつし、こうして共に春久と会うことになるとは、芦雪は露ほども想定していなかった。
「依頼のお品は既にできております。さ、どうぞ中へ」
平生の藤仁とは似ても似つかぬ写楽を横目に、芦雪は深く息を吐いた。
春久にとっては窮屈に感じるであろう八畳間に、三者が膝を付け合わせる。互いに居住まいが落ち着いたのを見計らい、写楽は淡々と絵を広げた。
「納品の絵はこちらになります」
「これは……」
「──蓮池図、にございます」
薄桃に色付いた一輪の蓮花と、一粒の露をおおらかに受け止める蓮の葉々。
蓮の花弁には細く、柔らかな線が丹念に引かれ、葉には墨や緑青の滲み、濃淡を敢えて加えることで、蓮自体の立体感を表現すると同時に、画面に奥行きを持たせている。
地には、池の水面と思われる波の綾がほのかに配されている。葉の下から顔を覗かせる白い蕾とともに、静かな画中にも時の流れを感じさせる一品である。
「冬吾殿と、蓮見に行かれたいのだとお伺いしたものですから。恐れながら、冬吾殿の今のお身体では、移動は障りになりますれば。絵の中の蓮で申し訳ございませんが、これならばお二人で蓮見ができましょう。少しでも、冬吾殿の御心のお慰みになれば、と……」
写楽は
「……触れても?」
「構いません。これはもう、貴殿の絵ですから」
春久の長い指が、蓮花の絵に向かう。その手はかすかに震えていた。
表面に触れるか触れないか。それほどの微小の隙間を空け、春久はほんの僅かに触れる。
まるで壊れ物を扱うかのような、慎重な動作だった。
蓮の輪郭に指先が掠めれば、かの絵に宿った四魂──
藤仁は、この絵に何の祈りを込めたのだろう。
生憎と、春久の目に祈りの光輝が映ることはなかったが、彼は心から蓮の絵を慈しむように、蓮の花弁に指を添えた。
「あぁ……良い絵だな……。毎年、冬吾と見ている蓮のように美しく、心を温めてくれる……。これならきっと、冬吾も喜ぶ……」
黒檀の瞳には薄い水面が張られ、
蓮の四魂は、冬吾だけでなく、彼の病に心を痛め続けている春久の心をも癒しているのやもしれない。そうだとすれば、いかにも藤仁らしいと、芦雪は小さく笑んだ。
(けど、四魂の力とて万能ではない。間に合うかどうかは五分五分だが……。この蓮池図で冬吾殿と蓮見を重ねれば、冬吾殿の身体も持ち直すかもしれない……。いや、そうであってくれ……)
春久は、墨で象られた蓮花を前に、今なお微笑んでいる。この微笑が続くことを、芦雪は祈らずにはいられなかった。
「写楽。それに芦雪も。正式な依頼を出していないのにも関わらず、ここまで心を砕いてくれて……。礼を言わせてくれ」
居住まいを正し、春久が頭を下げようとしたところで、芦雪は慌てて止めに入った。この場で誰よりも家格が上の尊い身である者が、簡単に頭を下げて良いはずがない。
春久は年相応ながらに、身分に分け隔てない優しい心根の持ち主ではあるが、それが美徳とされるのはごく一部だ。彼の青さは、いずれ思いもよらぬところで不幸を招くこともあるだろう。
「これは、私が勝手に写楽に頼んだことでありますれば。春久殿が頭を下げることは、何一つとしてございません」
「そうは言ってもだな……。そうだ、画料もあろう。それは……」
「……不躾な物言いをお許しください。春久殿の偶然の友である私からの……冬吾殿への見舞いの品として、どうかお受け取りください」
芦雪が述べた「友」という言葉に、春久は肩を震わせる。彼が再三口を開こうとしたところで、珍しいことに写楽が口を挟んだ。
「画料についてはご心配なさらず。此度の依頼の報酬は、あとで芦雪にしっかり払ってもらいますから」
「え、俺!? あ、いや、もとよりそのつもりだけど……。ちなみに、今回は何を……?」
「ふ……。さぁて。何でしょうね」
場に張り巡らされていた緊張の糸は、いつしか緩んでいる。春久は丁寧に巻き直した絵を胸元に引き寄せると、出会った時と変わらぬ、朗らかな笑みを浮かべて見せた。
「本当に恩に着る。これから見舞いがてら、冬吾とともにこの絵で蓮見をしようと思う」
本来の形とは多少異なってしまうが、念願の蓮見ができることに心が浮き足立っているのだろう。春久は礼を述べながらも、そわそわと落ち着かない様子で、視線を右に左にと動かして続けた。
「それで、もし構わぬなら……。その……ともに冬吾の屋敷へ行かぬか? 情けない話、なにぶん今は一人で冬吾の顔を見るのが怖くてな……」
「冬吾の屋敷」というと、恐らく春久と同じ旗本以上の武家屋敷だ。
芦雪が隣に座る写楽──もとい、藤仁に視線を流すと、彼は小さく息を吐き、「……では、お供いたします」と静かに答えた。
三人は
「……なぁ。本当にお前も来て良かったのか?」
「君一人で行かせられるわけがないだろう」
「俺に信用がないってこと?」
「それ以外に何がある」
春久の背後で、芦雪と藤仁は密やかなやり取りを交わしていた。
藤仁に心配されずとも、芦雪は仮にも武士の身であり、それなりの作法も心得ている。芦雪にとっては、藤仁の方が不安の種であると同時に、武家を嫌う彼が何故、此度は着いて来たがったのかが理解できなかった。
漆喰の白壁を横目に歩を進めていると、不意に春久が立ち止まる。その視線の先には、春久の屋敷と比肩しうる大きな長屋門が、堂々とした佇まいでそびえ立っていた。
(お、大きい……)
芦雪は薄く口を開き、門構えを見上げる。己の実家のそれとは比べ物にならない。
藤仁も同じように考えているだろうと隣を見やるが、彼は
「ここだ。中へ入ろう。──御門番!」
春久と藤仁は番所から出てきた門番の後に続き、困惑する芦雪を置いて、重厚な門の内側へ入っていく。
芦雪も慌てて敷地の中へと足を踏み入れたところで、門番の浮かない顔が目に入った。彼は春久に何かを話したあと、屋敷へと駆けていった。
「どうかされたので?」
「それが……。いつもなら、こちらに使いの者が来て屋敷へと通すのだが……。何やら今、屋敷内が慌ただしいようでな。使いの者も不在のようで、少し様子を見てくる、と……」
常とは異なる応対に、春久の朗らかな笑みはやや陰っていた。
門から屋敷に向かって、一筋の敷石が伸びている。その先は屋敷の玄関へと繋がっており、式台で控えているはずの取り次ぎの者の影はひとつとしてない。門番の言うように、確かに不在のようだった。
「まぁ、そなたらもさように緊張はしなくて良い。気楽にせい。此度は私の友としてここにおるからな」
冬吾に蓮の絵を見せるのが待ちきれないのか、春久はやはり爛漫とした様子で頬笑する。
それにつられて、芦雪も口元の笑みを深めようとした、その時のことだった。
「春久兄上っ!」
美しい花浅葱の振袖を身にまとった少女が、玄関から飛び出し駆けて来る。
歳の頃は松乃よりも少し下だろうか。見る者に冷涼とした印象を与える振袖に反し、顔立ちには未だあどけなさが残っている。
屋敷の奥から、「姫様!」と少女の行動を諌める老婆の声が聞こえるが、彼女は見向きもしない。長い袖を煩わしげに後ろに流し、石畳の上を必死な様子で駆けて、春久の胸元へと飛び込んだ。
「ふゆ。相変わらず、お前はお転婆だな。
肩で息をしながら春久にすがりつくふゆを抱きとめ、彼は穏やかに問う。だが、春久を見上げる瞳からは真珠のような涙がいくつもあふれ、彼女の頬を幾重にも覆っていた。
「兄上が……冬吾兄上がっ……!」
必死な様子で春久に縋りつく理由。彼女の口から出た冬吾の名。屋敷の慌ただしい様子。
春久は全てを理解したのだろう。彼は瞬時に顔色を変えた。
「早く……早く……! 冬吾兄上に……会ってあげて……!」
「冬吾っ……!」
長い廊下といくつもの次の間を抜け、三人がふゆと彼女の付き人に導かれた先は、屋敷の最奥──冬吾の寝所だった。
布団の上には、一人の青年が横たわっている。苦しげに目を閉じた彼のそばには、彼の両親と思われる女人と年を重ねた壮年の男が寄り添い、泣きすがっていた。
目で部屋を見渡すも、家臣と思しき数人が部屋の隅で控えているのみで、御匙はまだ来ていないようだった。
春久は寝所に着くや否や、絵を藤仁に預け、転がるように冬吾のもとへ駆け寄った。
濡れた呼吸と喘鳴が、部屋の中に浮かんでは溶け、消えていく。冬吾の顔から温もりを宿す色は失われつつあり、彼の命は残り僅かであると、この場の誰もが理解していた。
(間に合わなかったか……!)
冬吾の病状は、当初の御匙の見立てよりも進行が速かった。とてもではないが、藤仁の四魂といえど、今の冬吾を癒しきるのは難しいだろう。
芦雪は為す術なく、藤仁とともに部屋の隅に腰を下ろすしかなかった。
ふと、床の間に掛けられた一幅の絵が、芦雪の視界に入る。
たっぷりととった余白の中に、凛と咲き誇る一輪の花菖蒲。深みのある紫の花弁の上には黒胡蝶が降り立ち、羽を休めている。
なんてことはない、初夏を迎合する肉筆画である。
──黒胡蝶の胸元に、よどんだ
(あの、光……)
何故、ここに四魂の──
狩野派の絵は、日ノ本の武家と切っても切り離せない関係にある。将軍家に莫大な益を献上した、もしくは功をおさめた家には、褒賞や更なる繁栄の証しとして、将軍家から狩野派の絵が贈られるのだ。
冬吾の家に狩野派の──それも、授かれば今の日ノ本では最も栄誉とされる
それはともかくとして、
導かれる答えはひとつだ。
とは言っても、黒胡蝶に宿る
絵中の胡蝶は花菖蒲に止まったまま、風を含んで軽やかに羽ばたいている。黒くよどんだ
(まさか……)
──あの
「藤……」
「もうやっている」
芦雪の推測が
「──
主から初めて
蓮の絵がまとう微細の光の粒は冬吾の枕元へ向かい、一輪の蓮花を形作る。やがて、朝露を弾くように花弁が音もなく開き、光の雫を滴らせる。それを、大きく身を開いた葉がひとつひとつ受け止めていく。
葉の上で形を成した一粒の露は、当然のように冬吾の上に落ちていき、波紋を伴って彼の体内へと吸い込まれていった。
(冬吾殿の呼吸が少し落ち着いた……? やはり、あの
ぽたり、と畳の上に滴が落ちる。かすかな水音に意識を引き戻され、芦雪は隣の怪画絵師を見やる。力を行使したことで気力を消耗しているのだろう。男のこめかみからは、玉のような汗が滲み、彼の頬の輪郭をなぞっていた。
「さすがだな……。
藤仁は
(
何故、ここで彼の名が出てくるのか。あれは
芦雪が茫洋と思考を巡らせるさなか、藤仁は銀鼠の袖を引いて蓮花の絵を差し出した。
「芦雪。俺ができるのはここまでだ。……もう時間がない。最期に絵を……飾ってやれ」
今考えるべきは、降って湧いた疑念についてではない。芦雪は絵を受け取り、促されるままに春久のもとへと駆け寄る。
「春久殿」
「あぁ……あぁ、ありがとう……!」
春久は我に返ったようだった。絵を受け取るや否や、控えていた家臣に指示を出し、床の間に飾られていた花菖蒲の絵を外させる。
「ほら、冬吾。私の友人がな、お前のために蓮の絵を描いてくれたんだ。今年も蓮見に行きたがっていただろう。これなら、いつでも……いつでも、私と蓮を……」
床の間に飾り直した蓮の絵を示しながら、春久は冬吾の手を握る。冬吾の手は、友と同年とは思えぬほどに薄く、骨が透けて見えるようだった。
目の縁から溢れては流れていく涙に、春久の黒檀の瞳は今にも溶け落ちてしまいそうだ。
「ふ……。なんて、顔……してるんだよ……」
呆れたように笑いたかったのか。冬吾は色を失った唇をぎこちなく動かし、春久を優しく
「あぁ……綺麗だ、なぁ……。蓮の、はな……」
枝の如く細くなった腕が布団から這い出し、黄金色に輝く蓮に向かって伸びるが、当然のように届くはずもない。精一杯に伸ばした腕は、やがて力無く布団の布地へと沈んだ。
「よかっ、た……。今年、も……また、お前と……蓮、を……」
安堵を含む冬吾の言葉は、彼の咳に阻まれる。湿り気を孕んだ喘鳴はまるで溺れているようで、ひどく痛々しい。見ている側が辛く、春久が先に音を上げた。
「冬吾……っ、もう……もういい! 喋るな! 喋らなくていいから……!」
「はる、ひさ……。そんな……かお、しないで、くれ……。ほんの、少し……離れる、だけ……だから……」
冬吾は震えながらも友の手を離し、残った力を振り絞って春久に手のひらを向けた。
「おれ、たち、は……てん、がい……ひりん、だろう……?」
乾き、閉じかけているであろう喉を無理矢理に開いて、冬吾は誓いの言葉を投げかける。
差し出された手のひらに、春久が迷いなく手を合わせれば、天と地のように離れていた二つの手は、ひとつに重なった。
「約束、して……くれ……。いつも……みたいに……。蓮、の……まえ、で……」
春久は嗚咽を飲み込みながら、何度も。逝かないでくれとすがるように、何度も。冬吾との未来の約束を、絵中の蓮の前で紡いだ。
「じゅん、あい……っ……、
冬吾は、春久の言葉に満足したのだろうか。皺の這う眦から静かに涙をこぼし、ひび割れた唇に、穏やかな笑みを灯した。
「また……いつ、か……。とも、に……みに……」
冬吾の掠れた声が細く、淡く、次第に空気にほどけていく。
「冬吾……? 冬吾……、冬吾!!」
春久が何度、名を呼ぼうとも。その手を握ろうと。彼が何かを返すことはない。友を喪った慟哭と消失感にすすり泣く声が混ざり合い、部屋の中は悲哀に満ちあふれていた。
天涯比隣、
たとえ遠く離れていても、心はそばにいる。花へと降り立った天の雨が地を伝い、やがていつの日かもう一度、雨となって花と巡り逢うように。
──君との再会を、ここに約束しよう。
澄み渡っていた青空は、いつしか分厚い白雲に覆われている。
天は、冬吾の旅立ちを迎え入れたのだろう。友との再会を願う夕立の雨が、静かに降り始めていた。
薄藍の月明かりが、周囲の星々を霞めさせながら、静かに江戸の街並みを照らしている。
今宵の月は、手が届きそうなほどに大きい。数刻前まで、夕景に激しい雨が打ちつけられていたのが嘘のようだ。
芦雪は母屋の縁側で胡座をかき、空に手をかざす。当然だが、闇夜に輝く宝玉を掌中に収められるはずもなかった。
日が地平に落ちゆくまで降り続けていた雨のおかげか、今は夏を忘れさせるほどの涼が江戸の夜を包んでいる。時折吹く風は、少々気の早い秋の虫の音を運んでいた。
虫の
(結局……春久殿と冬吾殿は、望んだ最期を遂げられたのだろうか……)
酒の甘い香りを鼻奥に感じながら、芦雪は数刻前の出来事に思いを馳せた。
春久と冬吾は、ともに蓮見に行くことは叶わなかった。結果的に言えば、芦雪たちは間に合わなかったのだ。
けれど、これまで幾度となく重ねてきた未来への約束は、冬吾が命を終えるその時に、優しい記憶とともに再び交わされた。墨で象られた、美しい蓮の花の前で。
冬吾の屋敷を出たあと、春久は涙で赤くなった眦を垂らし、藤仁と芦雪の手を固く握りしめて言った。
──ありがとう……。そなたらのお陰で、冬吾とまた蓮見の約束を……天涯比隣の誓いを結べた。私はこれから、彼との再会を心待ちにしながら……この蓮の絵とともに余生を過ごそうと思う。
「あの世にも、この絵ほどに美しい蓮の花が咲いていれば良いがなぁ」と、冗談を交えて笑う春久は、ひどく儚く、また身を切られるように痛々しかった。
(春久殿は……強いな……)
もし、芦雪が大切な者を遺し、この世を去ったとして。何の未練もなく、あの世へと旅立てるだろうか。あるいは、大切な者に先立たれたら。自身は、春久のように強く笑って、余生を過ごそうと思えるだろうか。
考えうる先を想像した時、芦雪の喉奥に鈍い痛みが走る。夜風に湯上がりの身が冷えたのか、ひどく心細かった。
──もう、部屋に戻ろうか。
芦雪は内に巣食い始めた寒さを払うように、今一度、月を見上げた。
「……またか。君は」
耳慣れた低い声が、夏の涼夜に響く。芦雪が振り返るよりも先に、両肩に人肌の温もりが掛けられる。
芦雪の身を包んだのは、藤花の香が焚き染められた紺の羽織だった。心細さを誘う寒さは消え失せ、芦雪は思わず紺の布地を胸前まで引き寄せた。
「藤仁……」
「今夜は冷える。薄着で外に出るな」
芦雪の背後から現れたのは、藤仁だった。彼は小言をこぼしながら、芦雪の隣に当然のように腰を下ろし、胡座をかいた。
彼は芦雪へとかすかに視線を寄越すが、何も言わない。急にどうしたのだろうと芦雪が小首を傾げていると、藤仁は芦雪の手に握られた
「なんだなんだ、藤仁も酒が飲みたかったのか?」
「たまにはな」
「おや、素直なこった」
短夜に溶ける温度が二つ並び、月も気をよくしたのだろうか。ひとりで見上げていた時よりも、幾分か薄明かりの鮮やかさが増したように思えた。
「……なぁ、藤仁」
漂う沈黙を破ったのは、芦雪だった。藤仁は口に含んでいた酒を飲み下し、艶を返す喉仏をわずかに上下させる。
(春久殿たちを見て……どう思った、なんて聞いたら……お前は……)
──聞いて何になる。冬吾のように、芦雪が病に苛まれたまま死に赴いたら、藤仁はどう思うかなぞ。
黒鳶の髪間に、千歳緑の髪紐が揺れている。
長寿と、不変の象徴。芦雪が目の前の男に込めた願い。それを受け入れ、常に身につけるようになった藤仁の姿。
何故だか、それに背中を押してもらえたような気がして。芦雪は躊躇しながらも、先刻まで抱えていた問いの形を、少しばかり変えて言った。
「俺が京へ帰る二年後にさ。『天涯比隣』の約束を頼んだら……。お前は、『
黒鳶の双眸が見開かれる。猪口の脚が縁側の床板に触れ、色も宿さぬ乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
「……返さない」
「え」
芦雪の伺いを拒絶し、藤仁は膝上に置いた手を強く握りしめている。
「……嫌いなんだ。その約束」
芦雪を通して過去の誰かを見ているような眼差しは、暗くよどんでいた。男の口元には歪んだ微笑が湛えられ、今にも泣き出しそうだった。拒絶したはずの者が何故、傷付いた顔をしているのだろう。
藤仁は、再会を願う誓いを芦雪とはしたくないと、この拒絶はそう言ったのと同義だ。これまで守ってきた美しい雪原を踏み荒らされたようで、芦雪の中でやるせなさが募った。
「そっ……か……」
やはり、聞かなければよかった。勝手に期待した方が悪い。芦雪はただ、横たわる事実を受け入れるほかなかった。
冷えた夜風が頬を撫でる。二人の間には、再び重苦しい沈黙が舞い降りていた。
間を持て余した末、芦雪は徳利を持ち上げて空になった
芦雪の口から、小さなため息が漏れる。再び見上げた空には、あるはずの月がない。いつの間にか薄雲が掛かり、かの光を覆い隠してしまったようだった。
これでは、月見酒のしようがない。酒もない、月もない、気まずい間柄の男がただ二人、縁側に腰掛けるだけで何になる。
藤仁の横顔に視線を移す。細々とした星明かりの下でも、彼の形の良い輪郭は明瞭だった。そうと分かるほどに、芦雪はずっと、藤仁の横顔を見つめてきた。
「
気づけば、芦雪は古歌の一部をこぼしていた。
かつての歌人は、何を想ってこの月見の歌を友へと吟じたのか。少なくとも、理由がなければ隣にいることすら難しい友へと向けた、哀しい歌ではなかろう。
(俺たちとは正反対じゃないか……)
この場で引用するのもおこがましく、恥ずかしさが
「……酒がもうないな。追加してくるよ」
芦雪は、その場から逃げ出すように腰を上げた。徳利を持ち、台所へと向かうべく藤仁に背を向ける。
「……里には」
冴えた声音が、空気を震わせる。足がその場に引き止められ、芦雪は背後を振り返った。
「里には月は、照らずともよし」
藤仁が口にしたのは、古歌の下の句だった。彼は、闇に包まれた空を依然見上げている。小憎らしいほどに、芦雪には見向きもしない。
我が背子と 二人し居れば山高み。里には月は 照らずともよし。
──月見の最中、せっかくの月明かりが高い山で遮られたとしても。君が隣にいるのなら、月明かりはなくとも構わない。
「……酒。必要か?」
わずかに熱を孕んだ双眸と問いかけが、惑う芦雪を絡め取る。藤仁の口元には、やわらかな三日月が姿を現していた。
雨雲はおろか、月もなく、酒もない。藤仁がここにいる理由はひとつとしてない。だと言うのに、彼は「酒は必要か」と問うてくる。
──それは、つまり。
これまで藤仁に秘して抱いてきた罪が、彼とともにいるために求めていた理由が、裡の吊り糸から逃れて地に転がる。
今、己は赦されたのだろうか。理由なく、藤仁のそばにいて良いのだと。
視界をほのかな水滴が覆って、眼前の美しい容貌が霞む。喉を熱が伝い、鈍痛が走った。
酒を含んだがゆえの、戯れの一言だったのかもしれない。されど、芦雪にとってそれは己が存在への肯定であり、何よりも遠く、ずっと求め焦がれた
零れ落ちそうになる安堵の雫を、慌てて袖口にしまう。今藤仁に向けるべきは、きっとこの顔ではない。
芦雪は弾けるような笑みを浮かべて、再び藤仁の隣へと腰を下ろした。
「……いや。酒も月もなくとも、お前がいるから良いかな、俺は。からかって遊べるし」
「ふ。言ってろ」
なんだと、と藤仁の頭を乱暴に撫でれば、珍しく跳ねるような笑い声がこぼれる。
たとえ、藤仁が「
ふたりで穏やかに過ごすための首肯を得られただけでも、今は良しとしよう。
夜半には幾分似つかわしくない、木漏れ日のような二つの声が空を渡る。月は雲に身を隠したまま、夜だけが更けていく。
薄明かりのない空で瞬く星々はただ静かに、縁側に光を注ぎ続けていた。