幕間「心魂」

  ──……『水仙の君』が、江戸に来ている。
 しんしんと舞う風花が溶け、音のない寒さが続いた、晩冬のある日。庵の庭をひとつ、ふたつと彩る水仙の香りが、白く染まった兄の息を優しく包みこんでいた。
 待ち侘びた春に、ようやく出会えたかのようだった。滅多に目にすることのない笑みが彼の横顔に宿っていたのを、松乃は今でもよく覚えている。
「水仙の君」は、兄の藤仁にとっての唯一であり、文字通り、神さまに等しいひとだった。
 彼はまだ見ぬ春を江戸に引き連れ、花を次々に綻ばせたかと思えば、今度は薄紅の花弁さえも巻き込んで、春嵐さながらに吹き荒れる。
 悪戯が好きで、向こう見ずで、周囲の心配なぞ気にも留めない。その身を案じて触れてしまえば、雪のように跡形もなく消えてしまいそうで、余計に不安が募った。だからこそ、自然と視線を奪われてしまう。
 それが、松乃にとっての「水仙の君」だった。 
 ──君はいい子だなぁ、お松。
 彼の大きな手が頭を撫でてくれるたび、松乃は途方もない安堵で満たされた。遠慮がちに瞼を上げると、慈愛にあふれた淡墨の眼差しが降り注ぎ、指の先まで麗らかな温もりに包まれるようで。彼──芦雪が兄の唯一になったのも、よく分かるような気がした。
 眦まで蕩けてしまいそうな、芦雪のやわらかな笑みを見るのが、松乃はとても好きだった。それ以上に、彼の隣で穏やかに口元を綻ばせる藤仁の姿が、ひどく愛おしかった。
 二人の兄が、このまま同じ時を重ねてくれたら。それはどれほどの幸福となるだろう。
 しかし、兄の藤仁は臆病だった。
 募るばかりの想いは、「愛しい」という感情なのだと、ただ肯定できないでいる。大切になったものを再び誰かに奪われ、伸ばした手も届かなくなる未来に耐えられないのだ。その強さを、藤仁はあの日、父とともに喪ってしまった。
 ゆえに、藤仁は残された今を守ることに必死になるばかりで、心に灯した芦雪への激情に名をつけることもなく秘めたまま、口を噤んでいる。
 藤仁にとっての本当の幸せが、彼の目の前にあるのなら、失うことを恐れず、迷わず掴み取って欲しい。ただ心安らかに息ができる居場所があるのなら、すがるためだけの今なぞ捨てて、未来を自由に生きて欲しかった。 
 そして芦雪もまた、松乃へ向けるものとは違う温度を視線に宿し、藤仁を見つめている。
 彼も何かに躊躇し恐れ、手を伸ばすことを諦めているようだった。芦雪がまとう、哀しみを含んだ陰が濃くなるたび、松乃は己のことのように胸が苦しくなった。
 ──嗚呼、誰か。誰でも良い。二人を繋ぐ弱さを、戸惑いを、迷いを、どうか断ち切ってくれたら。
 きっかけさえあれば、きっと彼らは一歩踏み出せる。食い違った歯車が、あるべき軌跡に戻るはずだ。
 彼らが互いに大切に想い合っていると分かるからこそ、二人をそばで見守る者として、松乃はそう祈らずにはいられなかった。 
(妹である私の言葉では、きっと届かない。二人と対等で、二人を理解してくれている方であれば……あるいは……。二人の背中を押してくれるのかな……)
 果たして、そんな都合の良い人間がこの江戸にいただろうか。松乃は茫洋とする思考のまま、自室の明かりを見つめた。
「どうした、おひいさま。考え事か?」
 冬の湖面の如く、深く澄んだ女人の声が耳朶に触れる。意識はうつつに引き戻され、松乃は顔を上げた。
琥珀こはく様……」
 年月を経て薄く黄ばんだ屏風に、ひとつの影が揺らめいている。
 人の身とはかけ離れた、すらりとした瑞鳥の体躯に、腕の代わりに広げられるは白き翼。幸魂さちみたまたらしめる黄金の光が彼女の胸元を飾り、今が宵闇に飲まれた時分であることを強調している。この世の全てを見通すかのような黄橙の瞳は、人々を照らす太陽そのものだ。
 現世に存在するはずのない白鳳凰の姿を象った四魂、琥珀こはくは、不安げに松乃を見下ろしていた。
 彼女は、幾星霜を生きている異形とは思えぬ、無垢な幼さを目に宿し、薄絹の羽先で松乃の頬を撫でる。可愛らしい、と口にすれば、きっと拗ねてしまうだろう。
 松乃は小さな笑みをいくつもこぼしながら、己に添えられた羽に手を重ねた。
「……兄上が、穏やかに笑うようになった日のことを思い出しておりました」
「藤坊が? ずっと、しかめっ面しかせんあやつがか?」
「その兄上は、半年前までの兄上ですよ。……近頃も少し、何か思い悩んでいる節はあるようですが」 
「そうか。まぁ、藤坊など知ったことではない。笑うも良し、悩むも良し。あやつはあやつで好きに生きよ。わたしとおひいさまには関係のない話だ」 
 琥珀は素っ気なく言い放つと、そっぽを向いてしまった。顕現して共に過ごしている時ぐらいは、目の前の自分のことだけを考えていろ、とでも言いたげだ。
「そうだぞ、ひい様。君は兄君のことを気にかけすぎではないか。過保護と言っても良い」
 琥珀に同調するように、音もなく松乃の肩に降り立ったのは、一羽の小禽しょうきんだ。小さな身体に似合わず、落ち着きのある男性の声が放たれ、松乃の耳奥を震わせる。
「本来、彼は君の守護者だ。直霊なおひの鑑定士を守るためだけに存在する、特別な直霊なおひの絵師。なのに君ときたら、他の絵師から兄君を守るために我々の力を行使して。全く、これでは本末転倒ではないか」
浅葱あさぎ様……。それは」
「大体、君はだな」
 ──また始まった。
 耳元で紡がれる言葉の数々は、聞き慣れた説教の形を成していた。まるで父親だと思うこともあるが、口にすれば琥珀こはく同様に拗ねてしまうに違いないので、喉元で留めている。
 浅葱あさぎは艶めく黒の長尾を上下に動かし、白き羽毛に覆われた腹を僅かに膨らませる。いわゆる鶺鴒せきれいを象った彼も、琥珀こはくと同じ四魂だ。
 琥珀こはくと異なるところがあるとすれば、矛を司る荒魂あらみたまであることぐらいだろう。彼の胸元では、淡いはなだ色の光が誇らしげに瞬いていた。
「であるからにして。……おい、ひい様。聞いているのか?」
「聞いておりますとも」
「ならばよろしい。いいかい。今言った通り、私たちの力はひい様のためだけに使うんだ。それ以外でむやみやたらと使うんじゃないぞ」
「……肝に銘じておきます」
「松乃のためだけに我らの力を使え」などと、よく言えたものだ。半年前、彼らの言う守るための力で、反旗を翻すように松乃に刃を向けたのは誰だったのか。彼らは覚えていないのだろうか。
 芦雪の中に居座る、もう一人の彼が目覚めたあの日、浅葱あさぎたちは自らの生みの親である彼の呼びかけに応じた。身を挺して松乃を守ったのは、藤仁とその四魂たちだ。間違っても目の前の者たちではない。
 とはいえ、浅葱あさぎたちは四魂としての本能に従っているに過ぎず、彼らに責任があるわけでもない。ここで反論するのは単なる八つ当たりだ。
 聞き流していた浅葱あさぎの説教が沈黙に消えたのを見計らい、松乃は再び口を開いた。
「時に琥珀こはく様。半年前、蔵の片付けを皆さまと私でしたことを、覚えておいでですか?」
 松乃が、四魂たちと思い出話を交わすのは珍しい。琥珀こはくにとっても想定外であったようで、嬉々とした様子で、彼女は大きく頷いた。
「我らが総出で、眠った古画たち引っ張り出した日のことか? それなら覚えておるぞ。旧友にも会えたしな」
「はい。私も久しぶりにお会いする四魂の方も多く、大変楽しゅうございました。その後、琥珀こはく様は散歩に出かけるとおっしゃって、人の身に姿を変えて出かけられて。心配になって、私も探しに追いかけて……」
「そうそう。久方ぶりに顕現したのもあって、つい興がのったんだ。水仙の花も見頃になり始めていて、冴えた空気も気持ち良くてな。……御用絵試の立札が出ていたことだけは、癪に障ったが」
 琥珀こはくは昨日のことを話すかのように、よどみなく答える。不意に何かを思い出したのか、彼女は黄橙の瞳を伏せ、かすかに息をこぼしていた。
「……なるほど。だから私が琥珀こはく様を見つけた時、大変にご機嫌だったのですね。珍しく尋夢庵に寄って、『雛梅と遊びたいから顕現させてくれ』だなんて仰るくらいに」
「それはそうだ。あの日はなにせ、探幽の……」
「探幽の?」
 松乃はゆったりとした微笑を崩すことなく、琥珀こはくが落としたげんを丁寧になぞる。続きを促すようでいて、かの日に己がしでかしたことを振り返らせるように。
 失言にようやく気が付いたのか、琥珀こはくは松乃の促しに応える代わりに、視線を上に下にと泳がせている。未だ松乃の肩に身を置く浅葱あさぎは、自身の頭を器用に羽で覆い隠し、深いため息を漏らしていた。
 ──畳み掛けるなら、今しかない。松乃はあくまでも平静に、ありのままの事実を淡々と並べた。
琥珀こはく様はご存知でしょうか? あの日はちょうど、芦雪様が江戸入りした日なのです。彼は江戸入りを境に、急に良いことが続いたとおっしゃっている。極めつけに、雛梅が尋夢庵まで導いたのだとか」
 芦雪が写楽の顔になると決めた日に、彼は庵を守る鶯の絵を前に、ぽつりとこぼした。
 ──……なんで、君はあの時……俺を尋夢庵まで導いたんだ?
 その時、松乃は確信した。芦雪と兄妹との間に縁が結ばれたのは、偶然でも必然でもない。誰かが故意に出会わせたのだ。
 松乃は肩口の鶺鴒せきれいと、未だ優雅さを失わぬ白鳳凰を順に見回すが、両者とも視線を合わせようとすらしない。 
 行灯油が溶ける匂いが、音もなく松乃の鼻先を掠める。明確な線を持たぬ炎はゆらりと形を変えて揺れ動き、この場にいる者たちの存在を、ただ影として映し出していた。
「……聡明な四魂の皆様は、すでにお気づきのはずです。芦雪様は、貴方がたと大変縁が深い方だということに」
「それはひい様もだがな」
「今そのような話はしておりませぬよ、浅葱あさぎ様」
 縮こまる琥珀こはくに助け舟を出そうとしたのだろう。浅葱あさぎが間に入ろうとするが意味はない。
 松乃は笑みを絶やさぬままに、彼をたやすく切って捨て、琥珀こはくににじり寄った。
「ねぇ、琥珀こはく様。まさか、芦雪様に何か術をかけ、あまつさえ雛梅を利用して、我々と故意に縁を結ぼうなどと考えておられませんでしたよね?」 
「そ、そんなことは考えておらぬし……。術もかけては……ないぞ。うむ、あれはかけたうちに入らん」
「考えたし、かけたんですね?」
 ──一体どう説教したものか。松乃の推測は、やはり現実となっていたのだ。
 茫々たるこの江戸で、兄妹が芦雪と巡り会えたのは最上の幸福であり、同時に最下の絶望でもある。それを手招いたのは、十中八九、琥珀こはくだ。
 己の本能と価値観に従うことしかできぬ、無垢な異形だ。人が有する善悪の定義を詳らかに敷衍ふえんしたところで、彼女は到底理解できないだろう。
 琥珀こはくは悪くない。手網を握りきれていなかった松乃の失態である。 
 既に結ばれてしまった縁を断ち切ろうにも、今となっては失うものがあまりに多すぎる。ならばせめて、今後芦雪の身に災禍が降りかかるようなことだけは避けたい。
 松乃は得も言えぬ頭痛から、額に指を添えた。
琥珀こはくぅ。今のうちに素直に吐きな。うちのおひいさんは怒らせると怖ぇんだから。鬼神の俺よりもおっかねぇ!」
「あははっ。茜音あかねの言う通りですね」
 楽しげに跳ねる声がふたつ落ち、剣呑な空気をほのかに照らす。琥珀こはく揶揄からかうように忠告したのは、壁に背を預けて笑む一人の青年だった。
 日ノ本では見慣れぬ褐色の肌に、色素の薄い髪が映えている。額を華やかに飾る、黒々とした二本の角は、自らを鬼神だと名乗った通り、彼が浮世の者ではないことを有り体に示していた。
 一方、彼の傍らで同じく忍び笑いを含んでいるのは、一匹の神鹿しんろくである。
 細身の体つきは野を駆ける俊敏さを湛え、栗色の眼には人々に知恵を分け与える聡明さを宿している。雄々しい角からは小さな梅の花々が芽吹き、やはり彼も尋常ならざる存在であることが窺い知れた。
「う、うるさい! 茜音あかね、特にお前は探幽の前でだけはしなをつくっていい子ぶりおってからに! 探幽がお前の本性を知ったらなんて言うか、今世では見ものだな!」
「ふん。そんなヘマ、この俺がするわけないだろ。俺は甘え上手で通ってきたんだ。おかげで、この前もたくさん撫でてもらえたぞ」
 茜音あかねは恍惚とした表情を作り、嘲笑を含んだ流し目で琥珀こはくを見た。分かりやすいほどの挑発に、無垢な心を持つ彼女は簡単に乗せられる。
 白き翼は大きく開かれ、胸元の黄金色の光は煌々と強くなる。一方、茜音あかねも前傾に態勢を整え、後ろ腰に差した刀の鯉口を明瞭に鳴らした。
琥珀こはく様、茜音あかね様! いい加減にしてください! それに萌木もえぎ様も笑わないで! 少しお静かに!」
 松乃は眦をつり上げ、三人に向けて声を張るも、「……ふん!」だか、「へーへー、仰せのままに」だか、「わかりましたぁ。……あー、お腹が痛い」だか、たしなめをたしなめとも思っていないであろう三者三様の返事が届いただけだ。
 再び沈黙が場をならしたが、松乃の頭痛は酷くなる一方だった。
茜音あかね様や萌木もえぎ様だけじゃない。浅葱あさぎ様も琥珀こはく様も、どうしたって私の手には余る……)
 この世を揺蕩たゆたう、全ての四魂と意思疎通が図れる力があったとて、松乃は彼らの本当の主ではないのだから、手に余って当然だ。彼らを御そうなどという浅はかな考えは、はなから捨て去らなければならない。
 松乃は今一度琥珀こはくを見据えるも、彼女の視線は未だ畳の上に座したままだ。細い躯体がしおしおと縮こまっているのを見ると、問い詰めるのも何やら可哀想だとも思ってしまう。
 松乃は改まった咳払いをし、「……それで?」と半端に研がれた鋭さで続きを促した。
「あぁ、えーっと……。探幽のはく……今は芦雪だったか。やつが江戸に帰ってきた日、懐かしい気配を感じて、ついひと目無事を確かめとうて様子を見に行って……。笑った顔がまた、探幽が悪戯を思いついた時とよう似ておってなぁ」
 当時の記憶に魅せられたのか、琥珀こはくの声音は楽しげで、主への愛おしさにあふれていた。
 芦雪は元の主ではないというのに、彼の中に醒めぬ幻影を見ているのだろう。琥珀こはくは芦雪にかつての面影を重ね、またその存在に焦がれているようだった。
「せっかく江戸へと帰ってきたのだ。何にも囚われず、今世こそは探幽の思う通りに生きて欲しかったし、できるならば我らがその道を守ってやりたいと思うて……。飯を食うのにな、どの店に入ろうかと悩んでいるようだったから、そこでちょいちょいと術を……」
「やっぱり、術をかけてるんじゃないですか」
 松乃のぴしゃりとした物言いに、消え入りそうなほどに細かった声尻は形をなくす。やがて窺うように、黄橙の眼差しが松乃に触れた。
 ──あぁ、頭が痛い。
 琥珀こはくが吐露した真実は、松乃の視界をいとも簡単に歪ませた。
 芦雪が江戸入りを果たし、昼餉を決め兼ねていた時、ちょうど居合わせた騒ぎから助けたのが茶屋の娘だったのも。助けたその娘がたまたま宿屋に縁のある者で、宿に困っていた芦雪に口利きしてくれたのも。芦雪がゆかりに再び会いたいと願った時、偶然にも現れた雛梅の導きで尋夢庵に辿りつけたのも。
 全ては、幸魂さちみたまたる琥珀こはくが手招いた、芦雪のための強運が作用していたのだ。
 彼女のかけた術はあまりにも強力で、半年経った今でも、芦雪は未だ運で守られている。
 琥珀こはくが故意に雛梅を顕現させたのは、あわよくば彼と己の縁を繋ぎたかったからだろう。結果として、藤仁と松乃は、必然的に芦雪と邂逅することになった。
 ろくな返しも思い浮かばず、松乃は呆れと諦めに眩む眼で琥珀こはくを睨んだ。
「すまぬ、おひいさま……。だが仕方なかろう。なにせ、百数十年ぶりに探幽のはくこんが揃ったのだ。それを喜び、我らとの再会を望んでしまうのも許しておくれ」
「ただ喜ばれるだけならば結構なことです。なれど、貴方がたが彼の未来に干渉することだけは、どうかお控えください。ご心配なさらずとも、芦雪様のそばには肌守りが……万桜まおがおります。あの子ならきっと、彼を守り通してくれる」
 以前、芦雪に「こいつとも話してやってくれ」と促されるまま、肌守りの四魂──万桜まおに触れた時、松乃はゆかりの祈りを垣間見た。
 芦雪の胸元で佇む桜の四魂はただ、彼への深い思慕だけをその身に宿していた。
 儚くわらう桜吹雪は、芦雪を病魔から──全ての災いから守り通すだろう。己に課された祈りと願いを賭してでも。
「だからどうか……どうか、芦雪様には今後関わらず、そっと見守ってくださいませ。一人の人間が彼として生まれ、己の全てを賭して生き、やがて穏やかに逝く。芦雪様は探幽様ではございません。貴方がたの主でもありません。心の端にでも良い。それを留めておいて頂きたいのです」
 何卒、と松乃は頭を下げる。少女の小さな頭が畳に向かう様子に、四魂たちは焦燥に駆られたのか。はたまた、己らの行いに我に返ったのか。
 羽や衣擦れの音とともに、皆一様に「……御意」と答えた。
「……だがな、おひいさま。今世こそ自由に、幸せに生きて欲しいと思うてしまうのは、何も芦雪にだけではない。我らは、おひいさまにとて同じように思うておる。ただぬしらを想い、行く末を案じておるだけなのだ」
 純をまとった羽が松乃の頬に触れる。顔を上げた先で松乃を出迎えた瞳には、果たして何者が映っているのだろう。眼前の小娘ではないことは確かだ。
 松乃は瞼を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
「……私も同様に、探幽様ではございません。あくまでも、私は探幽様のこんを……彼の記憶を持つだけの娘。それ以上でも、それ以下でもない」
 松乃の答えに、静かに佇んでいた萌木もえぎは珍しく悲観的にため息を吐いた。
「たとえ、そうなのだとしても。……難儀なものですね。探幽の記憶の影響か、おひい様は歳の割に随分と大人びてしまって……。嫌でも若い頃の探幽を彷彿とさせる……」
「それは私の性分です。諦めてくださいませ」
 松乃は反射的に萌木もえぎの所感を切り捨てる。彼はやはり、海原の底地に沈むように深い息を漏らしていた。
 古来より、ひとのたましいこんはくで成り立っているとされてきた。
 こんはひとの精神と心の中身を司り、はくは身体と心の器を司る。
 理性と野性。無と欲。相反する二つの性質は、どちらが欠けてもひとのたましいとして成立しない。
 百数十年前、探幽の生前の願いを聞き届けたある四魂の力により、もとよりひとつだった彼のたましいは、死に赴く間際にこんはくに分かたれた。
 輪廻の輪を巡り、各々の片割れに代わるものを求め、さまよい、その果てに宿主となるたましいを見つけた。そうして、半身を失ったはずの探幽の魂魄こんぱくは、奇しくも同じ現世に再び降り立った。
 それが松乃と芦雪なのだと、探幽の四魂たちは口を揃えて言うのだ。
 己を生み落とした主を、たましいの形で認識する四魂たちの言うことだ。松乃と芦雪が探幽の魂魄こんぱくを各々有しているのは間違いないであろうし、現に松乃の中に居座る彼の記憶がそれを肯定している。
 探幽の四魂たちが、松乃と芦雪をそれは厚く庇護するのは、探幽の面影を追っているからに過ぎない。二人を松乃と芦雪という一人の人間として認識してはいないだろう。
 四魂たちに罪はない。それが彼らの本能で、全ては亡き主への恋しさから来るものだ。
 何より、松乃には直霊なおひの鑑定士としての稀有な力がある。時の移ろいとともに主を亡くし、身ひとつで世を揺蕩たゆたう全ての四魂が、理由もなく惹かれてしまう空蝉であり、四魂と意思を交わし統べる、墨愛づる姫君に他ならない。
 だからこそ彼らは、本来の主ではない松乃を過剰なまでに愛し、守り、従う。肉親を亡くし存在意義を失った幼子しこんにとって、松乃は新たな母親なのだ。
 だが、彼らは知らないだろう。その無邪気さと眩しさは松乃や周囲を傷つけ、また、ある種の欲に目をくらませているなぞ。松乃は奥歯を噛み締め、袖口を握った。
(私を私として慈しんでくれるのは、今はもう……兄上と琳也先生だけ……。私は、私に残された二人だけでも守りたい……。探幽様の記憶を利用してでも)
 己のせいで、全てを失った兄のために。彼に代わり、自分が今を守る。だからどうか、惜しみなく愛を注いでくれる兄だけは、未来を生きて幸せになって欲しいと願ってしまう。
 決意の焔が、瞼の裏でくゆる。決断しひとり立つ松乃の手を、記憶の中の幼子が握った。
 ──ぼくが大きくなったら、お松はぼくのおよめさんになって。だから、ひとりでいなくなっちゃだめだよ。
 松乃の父、綾信と同じ朽葉色の大きな瞳を細め、ひとりの男子おのこが頬を引き上げて笑う。
 女の松乃よりもよほど愛らしい顔立ちで、筒井筒の彼は、枝垂れ梅の隙間から視線を捧げていた。
(あのひとは今……どうしているだろう……)
 かつて、家族以外にもいた。松乃をただの少女としてその目に映していたひとが。
 日々御家から受けていた重責もあろうに、それをおくびにも出さず、屋敷に篭もりがちだった幼い松乃を外へと連れ出し、笑いかけてくれた彼は、今も筆を手に戦っているのだろうか。木挽町こびきちょうの広大な屋敷で、ただひとり。
 四つの異形と松乃の間で、時は形のない川のように、静かに流れていく。先刻まで騒がしかったはずの四魂たちは皆口を噤み、松乃を見守っていた。
「松乃様。今、よろしいでしょうか」
 固く閉じられた襖の向こうで、女人の声が響く。松乃は些かの間を伴って「……はい」と答えた。
 部屋の襖が音もなく開く。同時に、訪ね人は深々と頭を垂れた。やがて見知った黒鳶色のつむじが上がり、麗らかな微笑が現れる。
「母上……」
「今は野菊、にござりますよ。松乃様」
 訪問者は野菊だった。澄んだ墨の香りを羽織り、己と兄によく似た面差しに慈愛を宿して我が子を見守る心優しき彼女は、兄妹の母の役目を課された、綾信の四魂である。
 彼女は、松乃と藤仁を守護するためだけに生み落とされた、父の愛と祈りの結晶だった。
 野菊は故人である兄妹の実母、きくと同じ容貌をしているという。それを知るのは、今は藤仁だけだ。
「母と同じ顔だ」と言われても、松乃にはよく分からない。ただ、自身と兄には母の面影が色濃く受け継がれていることだけは知っている。
 ──お前たちが私に似なくて良かった。……冬を待つだけの朽葉の色を身に宿すなぞ、私だけで十分だ。
 綾信は幼い松乃の頭を優しく撫で、常々そう口にした。父に似た部分といえば、父方の一族が代々血によって繋ぐ才、直霊なおひの絵師としての異能を有すことだけだった。
 とはいえ、それも藤仁に限った話で、松乃の異能は、母方の血に依拠するものだが。
 結局、父の一族の象徴たる色は、生まれ落ちた時点で兄妹揃って身に現れておらず、綾信はたいそう安堵していた。それだけは、今でもよく覚えている。
 霞む記憶とともに、肩から力が抜ける。何年と時を経ても変わらぬ野菊の視線を受け止めながら、松乃は苦笑をこぼした。
「……ごめんなさいね、野菊。それで、何かあったの?」
「はい。今夜もまた客が……。先日追い払ったばかりですのに、懲りない方々です。私のみで対応することも可能ですが、いかがいたしましょうか」
 夜も色濃くなる時分に訪れる客は、松乃にとって日常の一部であり、目の上の瘤だ。
 緩んでいたはずの気は再び引き締まり、自然と口元が強ばる。松乃の隣に腰を下ろしたばかりの萌木もえぎは、神鹿しんろくの証したる角を傾げ、訝しげに口を開いた。
「客? また狩野家の密偵が?」
「えぇ。藤仁様と松乃様の素性に、まだ確証は掴めていないようで。先日も記憶なかみを弄って送り返したばかりですのに」
「今度は首を送り返した方が良いかしら……」と野菊は己の頬に手を添え、嘆息を吐く。まるで、明日の献立に悩むかのようだ。
「兄上は? 無事?」
「藤仁様は、芦雪様とともにお過ごしです。客が来たことはまだ報告しておりません」
「そう……。なら、今日は兄上に報告しなくて構いません。私たちの方で処理しましょう。処理後の報告も、私にだけで問題ありません」
「承知いたしました」
 せめて、藤仁が心安らぐ者とともにいる時だけは、現実に横たわる物事を全て忘れて過ごして欲しい。そのためには、何人たりとも邪魔を入れさせるわけにはいかなかった。
(先日、兄上が会合の帰りに襲われたのは恐らく偶然。密談を嗅ぎつけられたとも考えにくい。……でも、ここ一年で狩野家の密偵が江戸に放たれる頻度が増えた。御用絵試の開催期間も早まってる……。きっと、狩野家も焦ってるんだ)
 ふた月ほど前から、藤仁は協力者と夜な夜な密談を交わし、計画を進めている。松乃は協力者の名までは知らない。藤仁が教えたがらないのだ。
 ──昔から、俺たちとは縁が深い者だ。……彼なら信用できる。俺たちの父上の形見だからと、自らの御家の落款らっかん印を返してくれるような人間だよ。
 松乃を安心させるように、藤仁は信用するに値する理由を並べていた。
 用心深く、家族以外に信を置かぬ兄が、問題ないと言うのだ。不意に現れた協力者は、藤仁の懐にするりと入り込めるほど、相当に兄の性質を理解しているに違いなかった。
 そんな協力者との数回目の会合帰りに、先日の出来事は起きた。藤仁の戻りが普段よりも遅かったため、松乃は野菊を迎えに遣わせたが、彼女まで帰ってこなかったのだ。
 狩野家の密偵に会合の存在が知られたのだろうかと、松乃が余分に不安を募らせたのは言うまでもない。
 苦渋の思考の末、探幽の四魂である茜音あかねを呼び寄せ、藤仁と野菊の様子を見に行かせた。
 すると、ここでまた誤算が起きた。茜音あかねは久方ぶりの外で気分でも良かったのか、以前から再会を願っていた芦雪のもとへ向かった。
 ただ、芦雪の寝顔を見に行くだけだったなら良い。良くはないが、それだけならばまだ引き返せた。けれど、事は松乃の想定を遥かに逸脱した方向へと進んだ。
 茜音あかねの存在から何かを感じ取った芦雪が、彼とともに外へと出ていってしまったのだ。
 彼らの行動は、結果として密偵から藤仁と兄妹が抱える秘密を守った。それに安堵した一方で、松乃は茜音あかねに対し、今後芦雪と関わることを強く禁じた。
 今世の姿が少女とはいえ、松乃は茜音あかねの親の気質を受け継いでいる。重なる面影に加え常とは異なる相当な剣幕に、彼も気圧されたのだろう。鬼神の姿が名折れになるほどに、茜音あかねはしおしおと身を縮こまらせ、お叱りを甘んじて受け入れていた。
 茜音あかねの報告によれば、芦雪はかつての探幽と何ら遜色なく、茜音あかねの力を御していたようだった。松乃と藤仁が最も恐れていたことが、着実に動き始めている。
こんを宿す私と出会って……。あの日、不運にも芦雪様に触れてしまったせいだ……。魂魄こんぱくがひとつになろうともがいて、綻び始めていた三椏みつまたの花の奇魂のろいが、一気に崩れた……)
 芦雪のたましいと探幽のはくは、徐々に融合が進んでいる。綾信が生み落とした三椏みつまたの花の四魂が必死に食い止めていたであろう境界を蹴破り、取り返しのつかぬところまで。
 近頃、芦雪が連日熱を出していたのはそのせいだろう。器であるたましいが、本能で探幽のはくに抵抗しているのだ。
 熱を測るという名目で、芦雪と額を合わせ、中にいる者の気配を探ろうとすれば、それは強い拒絶を示した。
 ──私に触れるな。この子と私の邪魔をするな。
 このまま芦雪が直霊なおひの絵師の力を使い、また探幽の四魂たちを顕現させ続ければ、きっと彼は彼でなくなってしまう。それだけは、何としてでも阻止したかった。
 己を置いて進む、兄と協力者の計画。日を空けず、藤仁と松乃のもとへとやってくる悪意ある訪問者。松乃のもう一人の自分と言っても過言ではない、芦雪の変化。
 目の前では、数々の陰流が己が行き先を目指して進んでいる。誰かに頼らねば何も変えられぬ、無力な小娘には為す術もない。
 初めから、松乃に残された選択は一つしかないのだ。他人の四魂と想いを交わし、それを己が武器、己が盾として揮うこと以外、松乃は方法を知らなかった。
(私たち兄妹の行方が叔父上に知られるのも、兄上が復讐に身を焦がしてしまうのも。芦雪様が変わってしまわれるのも。もはや時間の問題やもしれない……。母上の生家に……住吉家に助けを求めれば、あるいは……。それでも、今の私に手出しできることは、ごくわずか……)
 己の手を見下ろす。誰かを守るには、あまりに小さい。結局、松乃は力ある者にすがることしかできぬ、矮小な存在でしかないのだ。
「松乃様……?」
 野菊が眦を下げて問う。名を呼ぶ声音には、我が子を案じる母の想いが湛えられていた。
「あー! もう見てらんねぇ!」
 皆一様に驚き、顔を上げて声の主へ視線を注ぐ。沈鬱な淀みを破ったのは、茜音あかねだった。
 彼は松乃のもとまで歩み寄って跪くと、真っ直ぐに松乃を見上げた。
「おひいさん。今来てる密偵も含めて、片っ端から狩野家の全員を殺っちまおう。木挽町こびきちょうの屋敷に乗り込んでさ。俺もおひいさんの守護の四魂だし、やるなら徹底的に仕留めてやる。木挽町こびきちょうが済んだら、残りの三家も順々に壊滅させりゃあいい。そうすれば、おひいさんの憂いも全て晴れる。そうだろ?」
 夕暮れを溶かした瞳が、行灯の明かりを映してさざめく。郷愁を誘う彩には、ただ主に笑って欲しいと精一杯の願いがこもっていた。
 やはり、茜音あかねは今も昔も優しい子だ。松乃は艶が滴る褐色の頬に手を添え、親指で彼の目元をなぞった。
 色素の薄い髪を梳きながら、幼子にするように頭を撫でてやれば、鬼神の瞳はくすぐったそうに眇められた。
「ありがとうございます、茜音あかね様。私のことを考えてくださって……。ですが、貴方は私の四魂ではありません。こうして私と思いを交わすことはあっても、貴方様の主は永遠に探幽様のまま。……だからこそ、私たち兄妹の事情で、殺戮になど加担して欲しくない。それに、事はそう簡単にいくものではないのですよ」
「ですからいつも通り、密偵への手出しも無用です」と付け加えれば、茜音あかねは咄嗟に何かを言いかけて、すぐに口を閉ざしてしまった。
「ならば、今宵は僕の出番ですかね」
 茜音あかねとのやり取りを静かに見守っていた萌木もえぎは、鷹揚と腰を上げ、穏やかに続けた。
「傷つけなければ良いのですよね? お任せ下さい。野蛮な茜音あかね浅葱あさぎとは違って、奇魂くしみたまの僕なら相手方を丁重にお帰しできるでしょうから。それに、しばらくここに来ないようにさせることだってできる。人間なんて、精神なかみをちょいといじればすぐですよ」
 神鹿しんろくたる威厳を身にまとわせながら、萌木もえぎは翡翠色の輝きで胸元を満たす。
 忍び笑いを含む声に慌てて待ったをかけようとしたが、松乃の肩口に腰を据えた鶺鴒せきれい、もとい浅葱あさぎの方が、その反応は早かった。
和魂にぎみたま茜音あかね荒魂あらみたまの私も、矛と盾の力が強いだけだ。ひい様を一番に守り、敵を一掃できる誇り高き四魂だぞ。精神と記憶を操るなぞ、萌木もえぎの方がよほど野蛮ではないか!」
「そうだそうだ!」
 均されたはずの沈黙が、再びざわめきに満ちていく。「私の方が」「いや僕が」「やはり俺の方が」「何を言うておる、このわたしが」と四者とも口を開き、収拾がつかない。
 舞い戻った頭痛にこめかみを抑えつつ、松乃は苦笑する野菊に向けて目配せする。彼女は素直に頷くと、来た時と同様に音もなく襖を閉め、部屋を後にした。
 騒がしい四魂たちの声に耳を傾けながら、松乃は小さく息をつく。野菊に頼ってばかりで申し訳なさが募るが、今呼び出せる四魂は生憎と手元にいない。
 何より、藤仁の四魂たちを顕現させることで、松乃が裏で手を回していることを、藤仁に勘づかれたくなかった。
 ──せめて、己にできることぐらいは。松乃は唇を噛み、淋しき諦観にひたった。
「なんだ。結局、野菊がひとりで行ったのか」
 言い争いに飽きたのか、浅葱あさぎが松乃の頬に身を寄せた。澄んだ墨の香りがたち、鼻腔をほのかにくすぐる。
 それにほんの少し、気が緩んだせいだろう。松乃の唇は、自然と開いた。
「……いつまで、このようなことを続けねばならないのでしょうね」
 随分と曖昧な本音だった。しかし、浅葱あさぎは四つの四魂の中で最も年月を重ねているせいか、松乃の真意を察し、淡々と述べた。
「この江戸で、狩野家が永遠の繁栄を願う限り。あるいは、君と兄君がこの世で生き続ける限り、ではないか。ひい様」
「そうですね。……本当に、浅葱あさぎ様のおっしゃる通りです」
 浅葱あさぎの答えが全てだった。
 ──ただ兄と共に、余生を平穏に暮らしたいだけなのに。時折四魂に触れ、かつて絵師たちが込めた願いと祈りを読み取って。昔の人々も、今を生きる己と何も変わらない、ささやかな幸せを望んで生を全うしただけなのだと肌で感じながら、今を大切に、静かに息をしていたい。望むのは、ただそれだけなのに。
 彼らがそれを許してくれないのは、一体何故なのだろう。
 分かりきった自問を繰り返しながら、松乃は思考に沈む。主の鬱屈とした疑問を感じ取ったのか、浅葱あさぎは松乃から目を逸らし、静かに断じた。
「──恨むなら。君たちが狩野家の者として生まれた、その運命を恨むんだな」