第二十筆「心願」
かすかな熱に身を焼かれ、喉が渇く。下腹の疼きに刺激されて、芦雪は重い瞼を上げた。
涼月の冴えた薄光が、火照る身体をわずかに冷ます。
未だ不明瞭な視界を横に移す。闇に色を濃くした
(そうか……。ここは……藤仁の……)
焦燥と疑問が混じった雨上がりの朝は、とうに姿を消している。あれから、藤仁の部屋で図々しくも寝入っていたようだ。
静謐に衣擦れの音がほどければ、
「……目が覚めたのか」
陰を刻んだ大きな手が、芦雪の額に添えられる。己よりも冷えた体温が心地良かった。
「今……何時……?」
「九ツ半〔午前一時〕ぐらいだ。……まだ寝てろ」
ともすれば、一日の半分以上を藤仁の部屋で寝て過ごしたということになる。霞む思考は罪悪感で満たされ、余計に心細くなった。
芦雪は藤仁の袖端を少しばかり握り、掠れた声で言った。
「藤、仁……。おれの……部屋、で……寝て、良いから……な……」
藤仁は、ひとに寝顔を晒さない。月日を重ね、また手指の数では足りぬほどに彼と肌を重ねているが、彼が眠っている姿は滅多に見ない。互いの癇癪を宥めるように情事に及んだ後は、必ずと言って良いほど芦雪が先に寝入り、藤仁よりも後に目を覚ます。
彼はそばにひとがいると眠れないのだろう。同じ部屋では尚更、寝づらいはずだ。
「おまえも……早く……ねろ、よ……」
果たして、気遣いは伝わったのだろうか。藤仁は芦雪の額から手を離すと、淡く口端を綻ばせて頷いた。
「あぁ。……おやすみ」
つられて、芦雪もへにゃり、とだらしなく唇を緩める。小さくやわらかな雨が一粒、額に落ちるのを感じながら、芦雪は再び意識を手放した。
ひぐらしの鳴き声が瞼を撫でる。映る景色に変わりはない。二度目となる朝も、藤仁の部屋で迎えたようだった。
(もう朝、か……)
薄闇の中で、カナカナカナ……と寂寥を誘う声が遠く響いている。この蝉声が聞こえなくなる頃、蓮花は薄桃の花びらを手放し、やがて秋を招き入れるのだろう。
不意に、昨日出会ったばかりの春久の顔が脳裏に浮かんだ。
「芦雪? 起きたのか?」
襖を開け、音もなく部屋へと入ってきたのは、藤仁だった。
まだ明け方だろうに、既にその身なりは整えられている。普段はもう少し長く眠っているはずだが、珍しいこともあったものだ。
芦雪がようよう身を起こせば、藤仁は枕元に腰を降ろし、芦雪の背に手を添えた。
「身体は?」
「大丈夫だ。熱も下がったみたいだし。……ありがとうな」
男の薄い唇から、安堵を含んだ息がこぼれる。にひ、と頬を引き上げて笑ってやれば、黒鳶の瞳は呆れたように細くなった。
「今日も奉公は休んで、ゆっくり過ごせ。特に急いでいる依頼も納品もないだろう」
「そうだなぁ。やり取りしている先も今は返事待ちのところが多いし……。じゃあ……お言葉に甘えようかな」
芦雪の素直な応えに藤仁は小さく頷いたきり、何も口にしなかった。
こうして藤仁の不器用な優しさや心遣いを見つけるたび、まるで宝物を貰ったように、芦雪の心は弾む。
このまま、心臓が転がり落ちてしまうのではなかろうか。ありもしない想像に芦雪は襦袢の衿元を握り、はたと気づいた。
「もしかして、俺が寝てる間に着替えさせてくれたのか?」
「……先刻に。寝苦しそうに汗をかいていたから」
藤仁はなんでもないことのように言うと、長い睫毛を伏せた。
身体も丁寧に拭いてくれたのだろう。まとわりついていたはずの汗はなりを潜め、こざっぱりした感覚だけがある。
早朝から彼の身なりが整っているのは、芦雪の着替えを行ったあと、己もついでにと済ませたからなのやもしれない。
「ほら、髪も整えるから。向こうをむいて」
芦雪が思案している間に、藤仁は櫛を手に芦雪の髪に指を通した。
髪を伝う男の優しい手つきに、形容しがたい面映ゆさを覚える。芦雪は促されるままに、藤仁に背を向けた。
(熱を出すのも悪くないな……)
ひと房、またひと房と丁寧に指が触れて、芦雪の髪は頭の高い位置に束ねられていく。藤仁が髪紐を手にしたところで、不意に湧き立った疑問が芦雪の口をついて出た。
「なぁ。俺が尋夢庵に依頼を出した時、お前はなんで俺の髪紐を欲しがったんだ?」
男の手が止まる。芦雪はみたび瞬きを繰り返したが、答えはない。突然、
男は迷っているようだった。彼の唇は小さく動いては結ばれ、その場でたたらを踏んでいる。小首を傾げて先を促すと、藤仁はようやく声を絞り出した。
「……もうひとつだけ。思い出が欲しくなったんだ」
限りある言葉の中に、全てを込めたような答えだった。憂いを帯びた低い声音は、やがて沈黙に消える。
もうひとつ、ということは、既に彼の中には別の思い出があることを示している。加えて、芦雪の髪紐が欲しくなった。
(それは……一体、何のために……?)
芦雪が頭を捻っている間に、己の髪を持ち上げる手は既に動き始めていた。
「この髪紐は?」
固く閉ざされたはずの口が再び開き、簡素な問いが投げられる。
藤仁の手に握られた素朴な髪紐は、写楽に渡った艶のある千歳緑のものとは異なり、随分と大人しく渋いものだった。いわゆる、仙斎茶色の組紐だ。
芦雪がまとう爛漫な雰囲気からは些か浮いて見えるようで、松乃や酒飲みの友人であるゆきにも首を傾げられたのは記憶に新しい。
「あー……これは薬入れの
「髪紐にしてるんだ」と笑って答えると、藤仁は少しの間を持て余した末に言った。
「……なら、代わりのものを贈ろう」
予想だにしない提案に、今度は芦雪が沈黙を持て余すことになった。
あれは絵への報酬として渡したものだ。特段未練もない。代わりのものをねだり、ましてや返して欲しいと今さら請うほどのものでもない。
けれど、藤仁が「思い出に」と己の髪紐を求めた理由とその過去を、直接聞きたくて。取り合ってくれぬだろうと理解しつつも、芦雪は
「代わりを買ってもらわずとも、お前があの髪紐を返してくれれば済む話だけど?」
「だめ」
「なんでだよ」
「あれはもう……俺の……」
藤仁は平坦に、数瞬の間もなく否定したが、やはり最後は歯切れ悪く言葉を終えた。
──その先が聞きたいのに。何故、彼はこうも頑ななのだろう。今年で八つになる芦雪の弟の方が、よほど饒舌だ。
「じゃあさ。お前の髪紐、俺にくれないか? 交換ならいいだろ?」
与えた髪紐は報酬だ。代わりのものは求めない。求めるつもりもなければ、求めるのは筋違いだと理解している。そう己に課したばかりの決め事が、一瞬にして覆った。
藤仁に何かを強要するべきではないし、する資格も権利も芦雪にはない。ただ、少しばかり仕返しがしたくなったのだ。寄せては返す波のような男に。
芦雪の真意を考えて、少しは身を寄せられる浜辺の気持ちになれば良いと思った。
藤仁は、やはり黙ったままだった。流れる時とともに静けさは濃くなり、男が困惑していることが浮き彫りになる。ある種の達成感に満たされ、芦雪は思わず笑みを深めた。
つかの間、無骨な手に収まっていた淡墨が、芦雪の肩に落ちる。加えて、藤仁は結わえていた自身の髪をもほどいてしまった。
わずかに空気を孕んだ、黒鳶色の髪。毛先は静かに揺れ、同時に芦雪の心を揺さぶる。
今紫の光艶が刹那に視界をかすめ、節のはっきりした手が、芦雪の髪に伸びた。
「結んでやるから。……後ろ、向いて」
身体の中から潮騒が聞こえる。人のいない胸裡の浜に、波が次々に押し寄せる。砂は少しずつさらわれて、水面に遠く波の綾を広げている。
波は浜辺の気持ちなど知るよしもない。引いたかと思えばこうして身を寄せて、何食わぬ顔をして砂粒を奪い、深く深く海の底に沈ませていく。芦雪にとって、藤仁とはそういう男だ。
「……い、良いのか?」
「君から言ったんじゃないか」
「そう、だけど……。その髪紐……大切なものじゃないかと……思って……」
先刻までの明朗さは、一体どこへ行ったのか、芦雪はしどろもどろに答えた。
今紫の髪紐は、藤仁が常に身につけているものだ。年月を経て僅かに傷んでいるものの、品の良い艶は損なわれておらず、これまで大切に使われてきたことが容易に窺い知れた。
仕返しの文句として自分から言い出したことだが、果たして芦雪が手にしても良いものなのだろうか。
芦雪の心境を見透かしたのか、藤仁は芦雪の髪を結い上げながら淡々と言った。
「大切なものだからだ」
未だ底の見えぬ理由を明瞭に述べながらも、男は手を動かし続けていた。
「できた」
「あ、ありがとう……」
四半刻すら経っていないだろうに、藤仁が髪に触れていた時間は、永遠にも思えた。
下がったはずの熱が、結いあげた髪に宿っている。芦雪は礼節以外の
首元を髪紐の端が掠め、慣れない感触に鼓動が跳ねる。熱の走る首筋を見せまいと、芦雪は慌てて藤仁に向き直った。
「っ、お、俺が写楽に渡した髪紐はどこに? 藤仁の髪も結ってやるよ」
「あれは、その……着けられない……」
藤仁は所在なさげに視線を床に流し、陰を含んだ瞼をわずかに伏せた。
先刻からそうであったが、藤仁は髪紐のこととなるとひどく狼狽する。日頃から静謐さを湛え、その上無駄を嫌う性質だからか、彼はいつだって嘘が下手だ。ゆえに、藤仁は言いたくないことは貝のように己が身に閉じ込め、決して口にしない。
与えた髪紐を着けられないと述べるその理由も、今後明かすことはないのだろう。
(着けられないと断じている点からして、藤仁、もしくは髪紐が着けられる状態にないということか。それは何故か……)
芦雪は指の背を唇に宛てがい、かつて己が手にあった髪紐を思い浮かべて思案する。
光の加減で独特な艶を放つ千歳緑の髪紐は、紐と呼ぶには些か身の幅が広く、遠い異国の空の下では「りぼん」と呼ばれるものだった。
髪とともに風に揺れ、翠玉にも似た光芒を残してやわく煌めく。藤仁の長い黒鳶の髪を結い上げれば、さぞかし美しい
──この男には少し……否。良い意味でも悪い意味でも、周囲の目を惹いてしまうに違いない。
「あー、分かった。あれはここいらでは見ない髪紐だからだろ。異国由来の光沢もあるし……。お前、派手なもの身に着けたり、自分が目立つの苦手だもんな」
ともに過ごす中で知った藤仁の好悪を指摘してやると、彼はわずかに目を見開いたが、すぐさまばつが悪そうに表情を歪め、再び芦雪から目を逸らしてしまった。
どうやら図星であったらしい。悪戯が成功した気分に駆られて、芦雪は小さく笑った。
今日のほんの些細な戯れも、藤仁の中で優しい記憶の一部になってくれたらいい。それが芦雪の髪紐を通してのことならば、きっとこれ以上の幸福はない。
とはいえ、藤仁が今後も芦雪の髪紐を使わないのであれば、いずれ見る機会も手に触れる機会も減る。此度の思い出の輪郭は、やがて失われていくだろう。それは少しだけ、寂しいことのように思われた。
芦雪は藤仁ににじり寄り、顔を覗きこむ。男の身体が小さく揺れ、暗色に染まる双眸が眇められたが、芦雪は構わず口を開いた。
「なぁ、藤仁」
「……なんだ」
「今日、組紐屋に行こう!」
満面の笑みを浮かべた己の顔が、黒鳶の水面に溶けていく。藤仁はみたび瞬きを繰り返したあと、幼子のように小首を傾げた。
「……なぜ?」
「お前の新しい髪紐。一緒に選びに行こう。俺から贈らせてくれ」
たくましいまでに燦々と照る太陽の腕が、寂れた庵を包んでいる。
庵に寄り添う
しゅるり、と落ちる衣擦れの音さえも耳に心地良い。黒鳶色の髪を梳いてはひと房、またひと房と丁寧にすくう。芦雪は買ったばかりの髪紐を手に、音ひとつこぼさぬ背中をまじまじと見据えてから、満更でもなく息を吐いた。
(ふふ。やっぱり、藤仁の髪にはこれくらいの色の方が落ち着いて見えるな。我ながら完璧な選択だった!)
ほんの半刻ほど前の買い物風景を頭の中に思い描き、芦雪は忍び笑いを湛えた。
──藤仁、これはどう?
──……。
──うーん……。その顔は違う、の意味だな。じゃあ、これは?
──……。
──これもだめ? 難しいなぁ……。
昼餉を済ませたあと、芦雪と藤仁は通南の外れに開かれた組紐屋に赴いていた。
組紐は髪を結うに限らず、刀の下緒を主として始まり、羽織紐や
芦雪は藤仁を隣に伴い、店内に並べられた組紐たちを端から端まで眺めた。職人の手によって、丁寧に繊細に、未来で使う者の顔を想って織られた色彩が目にまぶしく、自然と心も躍った。
芦雪は、藤仁が日頃身につけている小間物の組紐の色や雰囲気を思い出しつつ、紺や菫色など落ち着いた色合いのものを手に取っては彼の髪に当て、「どう?」と尋ねるも、難色を示されるばかりで良い結果は得られない。
希望こそ言わず、ただ「選んで欲しい」と言う割には、彼にとって芦雪が提案したものは、どれも不服らしかった。
藤仁に似合いそうな色、好みそうな色で選んでいるのが気に入らないのだろうか。せっかく贈るのなら、気に入ってもらいたいと思うのは当然のことだ。ゆえに、藤仁が好みそうな色を挙げたのだが、彼はそれすら思わしくないようだった。
ため息混じりに菫色の組紐を元の位置に戻したところで、見慣れた彩りが芦雪の視界に飛び込んできた。
それはかつて、芦雪の髪を結い上げていたものよりもわずかに深い、千歳緑だった。白光を受けても宝玉のような艶こそ見せないが、日の下でも、薄闇の中でさえも色の深みは損なわれず、慈愛に満ちた穏やかさを常に湛えている。
芦雪は導かれるようにして、かの組紐を手に取った。
──これとか……どう?
藤仁の好悪を通さず、ただ己の感覚だけで選んだものをおずおずと差し出す。
──その……千歳緑ってさ。長寿の象徴だから。お前、夜更かしばっかりしてるし、寿命短そうだなと……思って……。
全て言い訳だった。闇夜に紛れてひとり戦おうとする藤仁を案じ、自身がそばにいない時は彼の身を守ってくれるよう、この色に願をかけたのだと、何故言えなかったのだろう。
(それに、千歳緑は不変の象徴だから、なんて。きっと女々しいと思われるよな……)
全てを諦めた春久の表情と、まだ見ぬ彼の幼馴染の面影が頭から離れない。理不尽によって、今にもほどかれてしまいそうな彼らの縁が、きっと芦雪の中にかような願いを生み出してしまったのだろう。
──藤仁との縁が、この先も途切れることなく続きますように。彼との間に、永遠の別れなど訪れませんように。
藤仁との未来が喪われることを恐れ、またその真意すら素直に吐露できぬ己が、どうしようもなく恥ずかしい存在のように思えた。
藤仁は組紐を前にしても、何も答えなかった。霧のように湧いた沈黙が二人を包み、店前を行き交う賑わいを強調している。
──これにしよう。
藤仁の簡潔な首肯に、顔を上げる。やわらかな眼差しが、まっすぐ芦雪に注がれている。それを目にして初めて、芦雪は胸に秘めた願いを赦された気がした。
過去の記憶から抜け出して、視界一面に愛しい黒鳶色を映す。芦雪は名残惜しいとも思いつつ、藤仁の髪から手を離した。
「ほい、できた」
「……ありがとう」
深みのある千歳緑は、春を含んだような髪色に映えており、よく馴染んでいる。
──藤仁との縁が、この先も途切れることなく続きますように。
未来への想いが、願いが、男が小さく身じろぐたびに目の前で揺れる。
(春久殿のことを話したら……。藤仁は、協力してくれるだろうか……)
芦雪が憂えた息を放つと、
「……藤仁。話がある」
芦雪は意を決して、昨日の出来事について話し始めた。
尋夢庵からの帰路の途中、発作が出てしまったこと。その時、武家の身分である春久に救われたこと。彼には余命わずかな幼馴染がおり、その幼馴染のため、彼は尋夢庵に依頼を出したいと願っていたことを、詳らかに話した。そして、それを芦雪個人は引き受けたいと思っていることも。
「断る」
藤仁は思っていた通り、芦雪の伺いを両断した。
理由は聞かずとも分かる。春久が武家の身だからだ。それも恐らく、彼が旗本以上の御家であることも絡んでいる。
「念の為聞くが、断るのは春久殿が武家の身分だからだよな?」
「そうだ。君も知っての通り、尋夢庵の写楽は『武家からの依頼は受けない』。今回の件は依頼としての土俵にも上がれない」
──ならば何故、お前は武士である俺の依頼を受け、四魂を授けた?
喉元までせり上がった疑問が反論として飛び出しかけたが、すんでのところで飲み込む。
今藤仁と交えたいのは話し合いであり、感情が先走る喧嘩ではない。そのうえ、尋夢庵の主は藤仁であって芦雪ではない。依頼を受けるか否かは藤仁の一存で決まる。当然だ。
そう理解していても、春久らの行く末を未来の己に重ね、また藤仁も話を聞けば己と同じように思うやもしれぬと傲慢な希望を抱いていたために、芦雪の心は落胆すると同時に、ふつふつと煮え始めていた。
「……お前に何がわかる」
「なんだと?」
「先の見えた未来に絶望する者の気持ちが、お前にわかるか? 大切な者を遺して死に赴き、そのうえ死ぬ直前まで、周囲には貴重な金と多大な迷惑をかけ続ける。遺される側もそうだ。方々に手を尽くしてもどうしようもなく、ただ喪われていく現実を日々目の当たりにして、それを受け入れるしかない。お前にその気持ちが、わかるか……?」
芦雪の頬を、一筋の雫が伝う。幼き頃から死の淵を覗き込む日々を歩みながら、これまで誰にも明かさず、ひとり胸裡に抱え続けてきたやるせなさが、堰を切ったように溢れた。
腹の底がどうしようもなく熱い。何故わかってくれないんだと、芦雪は悔しさでどうにかなってしまいそうだった。
これではただの八つ当たりだ。藤仁にも掲げる信念があり事情がある。勝手に期待して、勝手に落胆したのは芦雪だ。筋違いだということぐらい、芦雪自身よく理解している。
血を吐くように告げた言葉たちが刃のように跳ね返り、張り裂けそうなほどに苦しい。
(ならば、俺が……)
目の縁からこぼれ落ちる涙を乱暴に拭い、芦雪は藤仁を見据えて言った。
「写楽が……藤仁が描けないのなら、俺が二人のために描く」
「……っ!」
春久らの話を聞いても眉ひとつ動かさなかった男の顔色が瞬時に変わったが、今の芦雪には知ったことではない。
「尋夢庵として受けられないのなら、俺個人で描けば問題ないだろ? 俺も
これまで不安定だった
認めるのは癪に障るが、全ては守信と交流を重ねてきたことが功を奏しているのだろう。
四魂の力を以てしても、冬吾に巣食う病を根底から消し去ることはできない。だが、幸福と癒しを司る
心優しい春久のことだ。冬吾への見舞いの品だとでも言って渡せば、必ずや受け取る。
芦雪が着々と腹を決めていくのをよそに、藤仁は今にも掴みかからんばかりの勢いで、声を荒らげた。
「絶対にだめだ! それだけはやめろ!」
「何故だ? 尋夢庵の名は使わないし、春久殿の前で絵を描くわけでも、四魂を顕現させるわけでもない。ただ四魂の宿った絵を描いて、それを見舞いの品として春久殿に渡すだけだ。お前との約束は守ってる。何がいけない?」
「それは……っ」
藤仁は浮かした腰を下ろす。薄く口を開いては閉じ、結局常のように閉ざしてしまった。
意地の悪い言い方をしていることは分かっている。藤仁が反論できないことを見越したうえで、彼が芦雪に日々言い聞かせている約束を盾に使った。
ぬるい風が二人の間を緩やかに抜け、
先刻までの穏やかさが嘘のように、剣呑な静けさが庵を包んでいる。藤仁は膝上の拳を強く握り込むと、深い吐息を空気に溶かして言った。
「……とにかく。だめなものはだめだ。武家からの依頼は受けない。君も絵を描くな。いいか、絶対にだ」
話は終いだとでも言いたげに、彼は「帰るぞ」と立ち上がる。
千歳緑の紐緒が揺れて、
自室の障子の隙間から、目の覚めるような青が滑り込む。
陽は高くのぼり、それを遮る白雲の姿は輪郭すらない。蝉声はまだ見ぬ焦がれびとを求めて、耳障りなまでに勢いを増している。
(今日も暑いな……)
芦雪は布団に身を横たえたまま、茫洋と小さな空を眺めていた。
「芦雪様。お加減はいかがでしょうか?」
涼風がかすかに吹いて、風鈴と少しばかり戯れる。蝉騒の中でもよく通る愛らしい声が、部屋の襖を叩いた。
「お松か……。大丈夫だよ、入っておいで」
芦雪の招きに応じ、襖がわずかに開く。深みのある松葉色の袖が現れ、その持ち主は小桶を手に、音もなく部屋へと入ってきた。
「お熱はどうでしょう? ここ数日、下がったり上がったりしておりますけれど……」
「今は多分下がってるよ。もしかしたら、もう治ったかも」
枕元に腰を下ろした松乃に薄く笑いかければ、彼女は眉根を寄せた。
「……失礼いたしますね」
少女の額が芦雪のそれと合わさる。己のものではない体温にほのかな涼を感じて、芦雪は瞼を下ろし、唇を緩ませた。
発作を起こし、藤仁の部屋で世話になった記憶も薄れぬうちに、芦雪はここ七日ほど布団のうえで過ごしている。
風邪をひいているわけではなさそうだが、微弱な熱が腹を元として始終体内を巡り、なかなか外へと出たがらないのだ。
芦雪と藤仁の間に介在するひりついた空気を察したのか、松乃はつきっきりでの看病を自ら買って出た。そればかりか、藤仁を芦雪の部屋に決して近づけさせなかった。
──そのように険しいお顔で来られても困ります。芦雪様に障りが出たら、どうするおつもりですか。兄上は頭が冷えるまで、ここには来ないで。
──だが、俺は……。
──来ないで。
数日前、部屋の前で繰り広げられていた兄妹のやり取りを思い出し、芦雪は不謹慎ながらも小さく笑みをこぼしてしまう。
藤仁はやはり、可愛い妹には頭が上がらないのだ。彼女に取り付く島もないほどに言い切られ、広い背中はとぼとぼと自室に戻って行ったことだろう。こうして想像するだけで、芦雪は面映ゆい気分に駆られた。
一方で、松乃に世話をかけていることに申し訳なさを感じるとともに、藤仁と顔を合わせず済んでいることに、芦雪は心から安堵してもいる。
頭の中の彼と顔を合わすことはできても、今はあの射貫くような視線を受け止められない。数日前の喧嘩が互いに尾を引いて、まともに話すことすらできないように思えた。
芦雪の様子を見ようと部屋を訪ねて来るあたり、藤仁には重ねて何か言いたいことが少なからずあるのだろう。
動きの鈍い頭で、芦雪が考えを巡らせていると、松乃は額を離して口元を歪めた。
「……芦雪様のうそつき。まだ少し、お熱がありそうですよ」
「何を言う。俺のうそつきは今に始まったことじゃないだろ」
「堂々と言うことではありません」
芦雪の軽口は、なすすべなくいなされる。藤仁が妹に頭が上がらないのは周知の事実だが、それは芦雪も同様だった。
僅かに唇を尖らせて見せるが、松乃は素知らぬふりをして、水に濡らした手拭いで黙々と芦雪の身体を拭いていく。
額、首元と布地が優しく肌に触れ、心地良さに息が漏れる。彼女はこの半年で身体に染み付いた所作に倣い、芦雪の襦袢の腰紐を緩ませて、胸元、腹、背中にまとわりついた汗を取り去っていった。
「では、こちらの新しいお着替えを。まだ汗が気になるところがあれば、手拭いをお使いください。一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
「食欲はいかがでしょう? 軽く粥でも持ってきましょうか?」
「いや……大丈夫だ。いつもすまない」
「お気になさらず。もうすぐ冷や水売りが来る時間ですので、代わりにそちらをお持ちしますね」
芦雪が重ねて礼と謝罪を口にするも、松乃は首を横に振るばかりだ。
着替えが持ち主の手に渡ったのを確認してから、少女は部屋の隅にあった衝立を動かし、芦雪と自身の間に置く。「終わったらお声がけ下さいね」と律儀に述べると、彼女は衝立越しに背を向けて座り直した。
相変わらず、松乃は手際が良い。無駄な動きは一切無く、隙すら持ち合わせていない。必要なことをしっかり聞いたうえで、順序だてて着実に物事をこなしていく。
歳の割にそそっかしいところはなく、物腰もひどく落ち着いている。普段から大人の動きをよく見ているからこその賜物だろうが、彼女と言葉を交わしていると、時折妹ではなく姉と話しているような気になる。
落ち着いている、というのは藤仁にも当てはまることだ。彼の場合は、常に周囲に気を張っている、の方が正しいかもしれないが。
ここ数日、熱とともに考えを巡らせていく中で、芦雪はふと気づいたことがある。
藤仁が過去を話したがらないのと同様に、思えば松乃も己の過去を口にしない。そればかりか、彼らは「自分」というものをあまりにも開示しないのだ。
かの兄妹がそうならざるを得なかった、共通の過去があるのだろうか。
(まぁ、こればかりは本人たちに話す意志がなければ、聞くわけにもいかんしなぁ……)
いつか、二人が己の過去を話してくれたその時、芦雪はようやく彼らの本当の兄貴分になれるだろう。今はただ、限りある時間に縛られながらも、兄妹のそばで見守ってやることしかできない。
だからこそ、彼らが誰かに助けを求めるようなことがあるならば、誰よりも早くその手を掴んで、引き上げられるようになりたい。そのためにも、今の二人にしてやれることを少しずつ、積み重ねていくのだ。
肌着に袖を通しながら、芦雪はまとう意志を新たにした。
「あ、そうだわ。芦雪様」
「んー……? どうした?」
衝立の向こう側から、松乃の声が手毬のように飛んでくる。悠然と腰紐を結わえつつ、間延びした反応を返すと、彼女はなんの気ない様子で続きを紡いだ。
「芦雪様が気にかけておられた、尋夢庵の依頼の文ですが。今日、依頼箱の中に……」
「依頼の文があったのか!? 誰から……っ、まさか春久殿……!?」
「依頼の文」と聞くや否や、芦雪は結びかけの紐から手を離し、衝立に手をかけて身を乗り出した。春久から依頼が来るやもしれぬと、気を揉む日々が続いていたが、ついにその時が訪れたのだろうか。
兄と同じ黒鳶色のつむじを見下ろせば、彼女は「わっ!」と酷く驚いた様子で、衝立の影から身をのけ反らせた。
「ろ、ろろ芦雪様っ! ちゃんと前を隠してください……!」
「へ? なんで今更慌てるんだよ? 先刻も、普通に背中とか腹とか首周りとか、ひいては胸元までしっかり見て拭いてくれてたじゃないか」
「それとこれとは違いますっ!」
松乃は朱を差した顔を振袖で隠し、半ば叫ぶように反論する。
乙女心は、何年経ってもよく分からぬものだ。松乃に紐を結わえ直すよう言われたものの、芦雪の中では困惑が先立っていた。
芦雪は居住まいを正すでも、己の格好を見直すでもなく、だらりと腰紐を垂らしたまま、松乃に問うた。
「で? 依頼の文が来たのか?」
「いえ、依頼の文ではなく……。お礼の文です。五十嵐様という木材商のお方から……」
松乃は相変わらず袖で顔を覆い隠し、更には視線をも背けた状態で、器用に一通の文を差し出した。
木材商の五十嵐というと、ちょうど十日ほど前に納品した依頼者だ。「比翼連理花鳥図」という、
夏の訪れを謳歌する二羽の鳥と、彼らが羽を休める連理の枝。雄々しい木の根元には、朝顔、百合、桐花などの初夏の草花たちが、新しい季節を喜び讃えるように葉々や蔓を伸ばし、たおやかに
藤仁が得意とする繊細な筆致とその装飾性に、五十嵐が感嘆の息を漏らしていたのは、記憶に新しい。
「どうにかして、父に生きる気力を取り戻して欲しい」と願った彼に、藤仁はかの絵とともに
仲睦まじい夫婦であった五十嵐の両親だが、母親が此度急逝したようで、後に遺された父親は「もう一人では生きていけない」と嘆き悲しみ、床に伏せがちになったのが事の発端だった。
五十嵐の母の死を境に、父は食も細くなり、痩せこけて笑うこともなくなった。大きく頼もしかった背中が小さくなっていく様を、息子である自分は、ただ側で見ていることしかできないのだと、五十嵐は小さな庵の中で、苦悩とともに己が無力さを吐露していた。
写楽から絵を受け取ったあと、彼の父親はどうなったのだろう。恐る恐る文を開き、芦雪は中身を改めた。
「そうか……。お父上は、笑顔を取り戻されたのか……」
狭い身幅の文には、溢れんばかりの喜びと感謝を表した文字が、幾重にも綴られていた。
文によると、五十嵐は父の部屋に写楽の絵を飾り、茫然自失とした父の隣に腰を並べて、二人で絵を眺めながら母との思い出を語らったようだった。
──そうだ……そうだった……。あいつとの間にお前を授かったのが、ちょうど夏が訪れ始めた日で……。二人で育てていた朝顔が、この絵のように、それは見事に咲いた日でなぁ……。『何があっても、この子を守ろう』と……約束したんだ……。たとえどちらの身に何かあっても、遺された方はこの子のためにも生きて、笑って、最期まで守り抜いて、幸せにしてから死ぬんだと……。
「このままでは、きっとあいつに叱られてしまうな」と、絵の中で寄り添う夫婦の
彼は、生きる理由を思い出したのだろう。その後少しずつではあるが、五十嵐と二人で食事をするようになり、笑うことも増えた。それに伴うように、身体も回復し始めているようだった。
(あぁ、良かった……)
芦雪は思わず、唇を緩ませた。
藤仁の
芦雪はただ、写楽の顔として折衝役をこなし、いくつかの言葉を交わしただけだったが、まるで自分のことのように嬉しさが募った。己の師として、友として、彼の絵を愛している者として、誰よりも誇らしかった。
芦雪はその場に座り込み、紙上の文字を撫でる。文に皺が滲むのも気にせず、胸元に引き寄せて抱きしめた。
(こんな風に春久殿も……少しでも気力を取り戻してくれたら……。せめて、冬吾殿と蓮見の日を迎えるというささやかな願いだけでも、叶えて差し上げたい……)
これはただの夢想だ。藤仁には絵を描くつもりもなければ、芦雪が彼らのために筆をとることすらも厭うている。
(それでも……俺は……)
自身に手を差し伸べられるだけの力があるのなら、誰に咎められようと、春久たちのために心を捧げた絵を描きたい。五十嵐親子の心を結び、絆を繋ぎとめた藤仁のように。
──かつて己を死の淵から救ってくれた、ゆかりのように。
「芦雪様」
「ん……?」
「芦雪様は何故……その、春久様と冬吾様というお侍さまに肩入れなさるのです?」
それは、至極簡潔な疑問だった。芦雪は顔を上げて、銀箔の散る衝立を見た。
「依頼の文の件にしてもそうですが……。芦雪様はずっと、寝ても覚めてもお二人のことを気に掛けておられるので……」
小さな境界の向こう側にいる者の表情は、当然だが分からない。ただ純然たる問いが、隔たりとして二人の間に横たわっていた。
「……冬吾殿にな。これからの自分を重ねてしまったんだよ」
なんてことはないと、芦雪は努めて声を明るくしたつもりだったが、絞り出した言葉尻はかすかに震えていた。
芦雪も冬吾と同じ喘病を身に抱え、いつ起こるともしれぬ発作のことを思っては、明日のことを考える余裕などなかった。江戸へ来たのも、いつ命が燃え尽きても自身の生に悔いが残らぬよう、遺していく家族が未練にならぬようにするためだった。
藤仁に出会ってから、いつしか未来を望むようになった。日々と想いを重ねるうち、藤仁の隣で見たい景色、ともに食べたいもの、感じたいもの、話したいことが膨らんでは増え、やがて受け入れたはずの死を、恐れるようになった。
身分さえ違えど、冬吾とは同じの身の上だと思った。病を抱えて生きながらも、春久と笑い合って未来の約束をする姿が、とても他人事とは思えなかった。
「もう死ぬとわかっているのなら、せめて。最期の一瞬まで、大切な人との幸せな記憶に包まれたまま逝きたい……。俺はこんな身だし、いつもそう思ってるから。だから……」
遺して死に赴く冬吾にも、遺されて生きる春久にも、ともに記憶を紡いだことは幸せなことだったと、不幸ではなかったと思っていて欲しい。
彼らを救うことで、自身すらも救われたいと思う身勝手な願いだとわかっている。でももし、春久たちのささやかな祈りが叶えられたなら、芦雪が藤仁の千歳緑に込めた願いも、不変のものとして、途切れることなく続いてくれるのではないだろうか。
(結局、自分のためだ……。二人のためじゃない……。俺は、いつだって勝手だ……)
熱があるせいなのか。近頃は涙脆くてたまらない。
つん、と鼻の奥に痛みが刺して、視界が薄い水面にさざめく。芦雪はかすかに鼻をすすって、袖口で乱暴に目元を拭った。
「っ……、とまぁ、そういう理由だよ……」
少しばかり濡れた息をまとわせながら、芦雪は少女に返した。
「そう……ですか……。そう、ですよね……」
求めていた答えが得られたのか、はたまた、無理矢理に溜飲を下げたのかは定かではない。松乃は芦雪の言葉に首肯したようだったが、彼女がどのような思いを表情に宿していたのかだけは、窺い知ることはできなかった。
行灯油の匂いが、薄闇にくゆる。それに混じって、季節外れの春花の香りが、からかうように鼻先をくすぐっている。
明かりが灯される時分ということは、周囲は既に夜半の空気に包まれているのだろう。真昼間に松乃と言葉を交わしたあと、芦雪は熱に導かれるままに深く寝入ってしまったようだった。
固く閉じた瞼を押し上げるのも面倒で、芦雪の朧気な意識は上に下にと
それはしばし何かを確かめるように留まったあと、やがて芦雪の前髪を梳き始める。
慈愛の込められたやわらかな手つきに、芦雪の口元は自然と緩んだ。
「お松……? 悪いな……こんな時間、まで……」
「悪かったな。松乃じゃなくて」
輪郭がぼやけた礼節を受け取ったのは、姉のような妹ではなかった。
悪いと口にしておきながら、そこに謝罪の意図はなく、むしろ拗ねた色が滲んでいる。
「藤、仁……?」
意識が明瞭でなくとも、身に馴染んで久しい名は忘れない。芦雪は掠れた声に乗せて、紡ぎ慣れた者の名を呼んだ。
露を含んだ空気に、男の吐息が溶けていく。ほんの少しだけ笑んだようでいて、同時に何かに呆れているような。
芦雪に名を呼ばれた者は、「そうだ」と肯定する代わりに、芦雪の長い前髪を、ただ静かに梳いていた。
松乃に「芦雪の部屋に近づくな」と言われているであろうに、彼女の目を盗み、こうして闇が濃くなる時分を選んで、わざわざ足を運んだのだろうか。
「ふ……。悪い子だなぁ……」
数日前から続いていた、剣呑とした空気感は既にない。芦雪は弟をたしなめるように、髪に触れる無骨な手に己のそれを重ねた。
よどみなく髪の上を滑っていた手が、小さく跳ねて止まる。強ばって温度を失った肌は、芦雪がまとう熱が移ったのか、ほんの少しだけ温もりを取り戻していた。
「芦雪」
「ん……?」
「君は……春久と冬吾という青年たちを、どうしても助けたい?」
淡い光に照らされて、男の姿形は陰を濃くしている。先日とは打って変わって優しく、彼は迷うように問うも、その表情はよく見えなかった。
芦雪は問いの真意を読み取ることもままならず、ただ額面通りに受け取って頷いた。
「自分が、四魂の宿る絵を描いてでも?」
「あぁ……」
「それで……君が君でなくなったとしても……?」
芦雪がここにいることを確かめるように、大きな手が頬に添えられる。
「当たり前だろ……。俺に……助けられるひとがいるなら……俺の身はどうなろうと、構わない……」
──たとえ何があろうと、最期はお前の隣に戻ってくる。だから、見えない何かに恐れなくて良い。
芦雪は藤仁の手に頬を擦り寄せ、以前口にすることが叶わなかった願いを囁いた。
「それにな……。春久殿と冬吾殿は……俺にとって……願掛け、なんだよ……」
息を呑む音が、耳端を撫でた。確かな形を持たぬ明かりの焔がゆらりと揺れて、藤仁の影を歪ませている。
彼はそれきり、何も言葉を発しなかった。だんだんと部屋の静けさが深くなる。芦雪の意識は、腹に据わる熱に導かれて、再びまどろみ始めていた。
「……依頼。今回だけ受けてやる」
頬に触れた手が離れて、芦雪の投げ出された手に重ねられる。互いの隙間を埋めるように、すがるように、藤仁は芦雪の指に己のそれを絡ませた。
「だから。……だから君は、絶対に絵を描かないで。四魂の宿った絵を……」
藤仁は、絡ませ合った指を持ち上げ、己が額に当てる。彼は芦雪が四魂を生み出すことを何よりも恐れて、ただ懇願していた。
「頼むから……。君はずっと、君のままで……俺だけの君でいて……」
涙滴のない濡れた声は祈りだけを乗せ、途切れ途切れにも紡がれる。重なる手は震えている。伝わったはずの温もりは再び失われて、彼の手はひどく冷えていた。
「おれは……いつだって……。お前、だけの……」
口をついて出た想いは、果たして届いたのだろうか。それも定かでないままに、芦雪の意識は熱に引きずり込まれ、闇の中に消えていった。