第十九筆「焦熱」

(はぁ……。どうしたもんか……)
 天上には、分厚い雲が幾重にも重なり合っている。にびのそれに一針刺せば、堰を切ったように今にも雨が降り出しそうだ。
 芦雪は空模様につられて肩を落とし、とぼとぼと帰路についていた。
(春久殿の願いを、どうにか叶えて差し上げたい……。彼には恩義がある。だからこそ、俺個人としても手を差し伸べたいが……)
 春久が周囲にひた隠し、身分を偽ってまで尋夢庵に依頼したかった、ささやかな願い。
 それは彼の幼馴染である冬吾とうごと、上野の不忍池しのばずのいけまで蓮見に行きたいというものだった。
 芦雪は未だ目にしたことはないが、浮き島の弁天堂から見える薄桃の珠花たちは、それは見事なものだと小耳に挟んだことがある。蓮花の群生を肴に、宴や酒を楽しむのが江戸の晩夏の過ごし方のようだ。
 確かに、かの景色は江戸の名所のひとつとしても選ばれている。かつて、幸之介が浮世絵を手に「いつか見てみたい」とこぼしていたことを、芦雪はぼんやりと思い出した。
 ──冬吾とは毎年、欠かさず蓮見をしていてな。『また来年も見よう』と、あいつと未来の約束ができる蓮見の時間が、私は一等好きだった……。でも、今の冬吾はもう……。とこから起き上がることも、明日を迎えることさえも危ぶまれる身体になってしまった……。
 歪む表情を見られまいとするように、春久は片手で顔を覆い、震える声を精一杯に振り絞っていた。 
 ありふれた日々の中で結ばれた約束というものは、ある日突然叶わなくなる。
 頭では理解していた事柄を突きつけられ、春久は追いつかぬ心をひとりで抱えきれなくなっていたのやもしれない。
 それから彼は、ひとつふたつと自身と幼馴染のことを語り始めた。
 親同士がそもそも幼馴染であったこと、生まれ月も一月違いということから、春久と冬吾が友となるのは必然だった。二人は生まれた時から何をするにも一緒で、実の兄弟のように育ったが、性格は全くの正反対だったようだ。
 健康的な身体に、はつらつとして朗らかな春久。一方、芦雪と同じ喘病を患った身体に、物静かで思慮深い冬吾。 
 年月を経て、二人は身体付きも良くなってきたものの、冬吾は今でも頻繁に発作を起こす始末だった。 
 彼の身にいつ起こるかも分からぬ発作を心配した春久は、どこに行くにも彼に連れ添い、同じ時を過ごしてきた。彼にとって冬吾は半身であり、冬吾にとってもまた、春久はそうであっただろう。
 ──周囲からは『日輪の春久、月輪の冬吾』と、よく揶揄からかわれていたものよ。なれど、好きなものは不思議と被ってなぁ。共に過ごす時間が長いと、好みも似通うのかもしれぬ。おかげで初恋相手も被ってしまって、あの時は本当に困ったよ。
 当時の記憶をなぞり、春久はひどく楽しげに笑んでいた。 
 けれど、冬吾の身体を蝕む病は、二人の未来を静かに侵食し始めていた。
 冬吾は三月程前から風邪をこじらせ、ここ半月に至っては、ずっと熱が下がっていない。
 意識もどこか朧気で、起き上がることもままならず、とこにつかざるをえない状態が続いている。それに拍車をかけるようにして、喘病の発作の頻度は増え、悪化の一途をたどっているようだった。 
 つい先日、春久が見舞った際には、「もう一月半ともたないだろう」と、御匙についぞ告げられてしまったという。
 当時の春久は、一体どれほどの絶望に苛まれたであろうか。昨年まで当たり前のように約束した未来が、抵抗もできぬままに指の隙間からこぼれ落ちていく。当事者でない芦雪には計り知れなかった。
 今は初夏がようやく江戸に降り立ち、蝉時雨も盛んになり始めたばかりだ。蓮が見頃を迎える晩夏まで、短くとも、もう一月はかかる。冬吾の身体では、蓮が花開くまでの時の流れにさえ、耐えることは不可能に近かった。
 それを深く理解しているからこそ、春久は尋夢庵の怪画絵師が生み出す一時いっときの奇跡に、夢を見たに違いなかった。 
 ──……話しすぎたな。そもそも、絵を飾っただけで願いが叶うなど、有り得ぬ話だ。今のは戯言だと思って忘れてくれ。
 やはり穏やかに微笑んだ青年の瞳には、諦めと悲哀の陰が色濃く差していた。
 大切なひととの別れが近いと悟ったとき、手が離れていくその刹那まで、最も想いの深い記憶にひたってともに過ごしたいと願うのは、当然のことだろう。遺される側が無情な現実を受け入れるためにも、ある種必要なことだ。
 芦雪自身、いつ大切な者を遺してこの世を去るかも分からぬ身体を持つからこそ、冬吾の無念が、春久の願いが、心の寒さが、寂しさが、痛いほどに分かった。
 しかし、春久は武家の人間だ。彼では尋夢庵の掲げる「武士からの依頼は受けない」という規則に抵触する。芦雪を介して藤仁に頼んだとて、写楽が受け入れるはずもない。
 そもそも何故、藤仁は武家からの依頼を断固として拒絶するのか。以前、それとなく彼に尋ねたことがあった。
 ──断る理由? そんなもの、簡単な話だ。誇り高きお武家様は、俺が手を差し伸べずとも、悩みぐらい自分で解決できるだろう。地位も権威もあるからな。
 ──じゃあ、仮にも武士である俺からの依頼は、なんで受けてくれたんだ?
 ──……君は、そういうのじゃないだろう。
 返ってきたのは答えにならぬ答えで、その後、話は打ち切られてしまった。
 武士も人間だ。誰にも打ち明けられぬ悩み、ひいては願望もある。生まれる感情に身分の隔たりなどないし、あってはならない。
 聡い藤仁のことだ。それを理解しているはずだが、武家からの依頼となると、何故か頑なに首を横に振る。
(尋夢庵の主は藤仁だ。理由がなんであれ、あいつの意志を一番に尊重してやりたい。でも、春久殿の願いもどうにか叶えて差し上げたい……)
 ──一体、どうすれば。芦雪は長い前髪をかき上げ、行き場の無い手で頭を掻き回す。
 あれでもない、これでもないと唸りながら歩いていると、突然、視界が大きく揺れた。
「げっ。不吉ぅ……」
 足下を見下ろせば、右足の草履の鼻緒が擦り切れている。もうすぐ日本橋の区画に入るというのに、この仕打ちはないだろう。
 芦雪は神仏に恨み言を呟きながら、そろそろと道の端に寄る。鼻緒の処置をしようと手拭いを取り出したところで、追い討ちの雫が静かに頬へと降り立った。
「ちょっと待て……」
 芦雪の恨み言を寛容に受け止めるほど、神仏の御心は広くはなかったようだ。こぼしたばかりの「不吉」の二文字を現実のものとするように、濁りきった曇天は瞬く間に雨天へと変貌した。
「わーー!! 濡れる濡れる!」
 土砂降りの雨が、地面を激しく打ちつける。芦雪の身体はあっという間に濡れ、大粒の露が銀鼠の衣に溶けていく。
 道を行き交っていた人影も、叢雨の襲来に一目散に逃げていき、軒の影や行き先へとその姿をくらませた。
(雨宿り……雨宿りできるところは……!)
 芦雪は鼻緒の切れた草履を手に持ち、目に入った朱色の鳥居に向かって走っていく。
 かくりよとうつつの境を潜り、境内を抜けると、古びた社殿が目に入った。これ幸いにと軒下に入り、雨粒が遮られたところで、芦雪はようやく一息ついた。
「……びぇっくしっ! あー、くしゃみ出た……」
 芦雪は社殿に祀られた神々に礼の一つもせず、「少し借りる、すまん」とあたかも友人にものを借りるかの如く呟いてから、小さな階段に腰を下ろした。
 人の気配はない。無礼な芦雪をわきまえよとたしなめるのは、雨音だけだ。
「はー……。今日は始まったばかりというのに、散々だなぁ……」
 愚痴を垂れながら手拭いを取り出すも、それは既に水を含んでいる。知らぬ間に、手拭いとしての役目を終えていたようだった。
 芦雪は仕方なく、泥で汚れた足袋を脱ぎ、右足を濡れた手拭いで拭くに留めた。
 頬に張り付く髪が鬱陶しい。雨が上がったらすぐにでも湯屋に駆け込みたいところだが、これから風が吹き始めれば、店は閉まってしまうだろう。
 芦雪はひとつ息を吐いて、横にあった大きな賽銭箱に身を預けた。
 降り続ける雨の軌跡を、じっと見つめる。通り雨かとも思ったが、弱まる気配はない。栗花落つゆりは終わったのではなかったか。
 意識の輪郭が、次第に形をなくしていく。力の抜けた身体は熱を帯び、指先の感覚は冷える一方だった。
「……っは……っ、けほっけほっ」
 小さな咳が、喘鳴をともなって胸を突き上げる。芦雪は苦い顔をしながら、袂から薬袋を取り出した。
 春久の屋敷を出る折、お守り代わりにと持たされたものである。こちらは外の包み紙がほんの少し湿っていただけで、無事だったようだ。
 勢い良く包み紙をひっくり返し、中身を全て舌上に流し込む。口内に広がる独特な風味に顔をしかめているうち、やがて生薬は喉奥へと消えていった。
「ふぅ……」
 再び息を吐く。このまま雨が止むまで、安静にしておくほかない。
 弱った己の身体を、ひとりで面倒を見るのは慣れている。心細さはない。いつもと少し違うのは、雨が降っているのにひとりでいることぐらいだ。
 それを寂しい、と。肌恋しいと思ってしまうあたり、芦雪はあの男に溺れきっているのだろう。
「取引」などと耳ざわりの良い言葉を並べて、利用して、互いの身体で欠けたものを埋めようとしている。それが善か悪かと問われれば、悪であることは百も承知だ。頭でそう理解していても、身体が言うことを聞くとは限らない。
 雨粒は、未だ地面を叩いている。肩に触れる木肌の冷たさが、今は妙に心地良かった。
(もし、俺も冬吾殿のように、またとこにつくことになったとしたら……。いずれ迎える最期の時を、俺は……)
 先の見えぬ未来が頭の片隅に浮かんでは、淡雪のように溶ける。
 薬の影響か、はたまた身体がまとう熱のせいなのか。芦雪の意識は、湖面に浮かぶ小舟のようにまどろみ、行き先を告げぬまま岸から離れていく。
 ──このまま少し、眠ろうか。芦雪は、重さを増す瞼に身をゆだねた。 
 薄闇が芦雪を包む。遠く聞こえる雨音には時折、ぬかるみを踏みしめ水面を蹴散らす音が混じっていた。
「はぁっ……はっ……」
 耳慣れた息遣いが、かすかに芦雪の耳朶を食む。薄らと目を開けた先に現れたのは、傘の紺地だった。縁は白い流水紋で彩られ、天に施された蛇の目模様と目が合う。
 やがて静かに傘が取り払われ、雨を厭う者の姿があらわになる。
「藤仁……?」
 芦雪の前に佇んでいたのは、肩で息をする一人の男だった。それも、未だ夢の中をさ迷っているはずの。 
「なんで……」
 芦雪の瞼は羽のように軽くなる。賽銭箱に預けていた身体を起こし、芦雪は黒鳶色の瞳を見つめ返した。
「……墨が切れたから、墨屋に……。その途中で雨に降られて……。それで……」
 相当慌てていたのか、藤仁は荒い息を吐きながらも、簡潔に理由を述べた。
 傘があるとはいえ、今も降り続ける雨の勢いは強まるばかりだ。買ったばかりの墨を濡らしてしまうのは流石にいただけないし、いつ苦手な雷鳴が響き渡るとも分からない。
 そこで、雨が弱まるまで少しだけ雨宿りをしようと、彼は芦雪と同様に、目に入った神社にやってきたのだろう。
 藤仁が背を向けて傘を閉じている間、芦雪は動きの鈍った思考で、男がここに至るまでをそう推測した。
「……前もって言ってくれれば、俺が買って帰ったのに……、っ、けほっけほっ」
 小さく咳が漏れ、芦雪は慌てて口元を押さえる。藤仁ははっとしたように振り返った。
「……発作か?」
「……っ、大丈夫だ……。すぐ、落ち着く……」
 男は芦雪の返しを最後まで聞くことなく跪くと、芦雪の口元にあてがわれた腕を掴んだ。
「大丈夫じゃないだろう。薬も……」
「薬はさっき飲んだ……」
 空になった包み紙を取り出し、わざとらしく揺らして見せる。切れ長の瞳は瞠目していたが、それも一瞬のことだった。
「こんなにずぶ濡れになって……。君は、喘病を患っている自覚はあるのか?」
 乾いた手拭いが芦雪の髪や顔に触れ、丁寧に包む。つい先程まで藤仁の懐にいた布地からは、彼の香りがした。 
 まるで藤仁に包まれているように感じて、芦雪はゆっくりと目を閉じ、身を任せた。
 芦雪の額に、節のはっきりとした大きな手が添えられる。熱があるのではと案じているのか、その手はいつまでも離れなかった。
 再び瞼を上げれば、黒鳶の物憂げな輝きに目を奪われる。芦雪の喉は咳を忘れたように、小さく震えた。
「少し熱いな。……立てるか? 動けるうちに帰ろう。俺が支える」
 藤仁の手が、額からようよう離れていく。藤仁が腰を上げ、背を向けても、芦雪の中の鼓動はいつまでも響いている。
 ──雨の日は、口に出すのも憚られるような場所に触れられ、また身体を繋げ合っているというのに。額に手を添えられたぐらいで、何故こうも心が跳ねるのだろう。
 藤仁の言葉に、芦雪は素直に頷くことしかできなかった。
 足裏に力を込めて立ち上がったところで、芦雪は「あ、」と思わず声をこぼす。草履の鼻緒が切れていたことをすっかり忘れていたのだ。
 その場でたたらを踏む芦雪に、藤仁は怪訝そうな表情を浮かべている。芦雪は不格好な笑みを浮かべながら、鼻緒の切れている草履を見せた。
「はは……。ちょいと運が悪くてさ。帰る前にこっちを直さなくちゃな」
「貸せ。すぐに直す」
 藤仁は手にした傘をずいと芦雪に押しつけ、代わりに草履を奪って再び跪いた。
 黒鳶色のつむじがよく見える。それが理由もなく面映ゆく思え、芦雪はいつものように冗談を口にした。
「直すなんて手間かけなくても、お前が俺を抱えて帰ればすぐ済む話だけどな?」
 芦雪の声が朗々と響き、場の静けさを散らす。藤仁はそれにつられたのか、やがて手の動きを止めた。
「なーんて……、っ!?
 冗談だよ、と訂正を入れるその前に、芦雪の肉付きの悪い腰が強く引き寄せられる。身に起こっている状況を理解する間も与えられぬまま、芦雪の視界は上向き、両足は宙を掴んでいた。
 藤仁に横抱きにされていると気付くまで、芦雪は三度ほど瞬きを繰り返した。
「……冗談だぞ!?
「だが、君の言う通り、こちらの方が早い」
「いや……でも……」
「傘、差せるか? ……少しだが、まだ雨が降っているから」
 藤仁の息づかいが、艶のある低い声音が、心の足裏をくすぐる。濡れた吐息が芦雪の耳端を伝い、じわりじわりと身に熱を広げていく。
「もう少し寄りかかって。それだと濡れる」
「……十分、もう濡れ鼠だよ。これ以上濡れても問題ない」
「はぁ……。君は、いつだって減らず口だな」
「ふふん。それは褒め言葉として受け取ってやる」
 呆れを含んだため息が、芦雪の頭上に落ちる。
 雨が世界を包んでいるというのに、藤仁との間に暗鬱とした影はない。常の戯れにも似たやり取りと慣れぬ火照りに、芦雪はひそやかに笑みを深めた。


 水滴を孕む雲が、暗い表情のまま頭上を流れていく。先刻よりも雨足は落ち着き、雷の気配は薄れている。
 辺りは些か薄暗かったが、芦雪の胸裡は明るい。藤仁に横抱きにされたまま傘を差し、音の外れた鼻歌を口ずさんでいた。
 通りを歩く人々も皆、番傘や蛇の目傘を手にしているせいか、その表情は見えにくい。決して濡れまいと、傘を前に倒して歩く者もいる。彼らには、己が傘の色しか見えていないのかもしれない。 
 だからだろうか。大の男が男を抱き抱えて平然と歩いていようが、特に目を留められることもなく、冷やかしの声を投げられることもなかった。
 雨香に混じり、甘い藤花の匂いが芦雪の鼻腔をくすぐる。顔を上げると、目の前には見慣れた端正な横顔がある。
 藤仁は冴えた眼差しで前を見据え、歩を進めている。そこに、芦雪に対する煩わしさ、嫌悪といった色は見えない。いたって平然としている。
 雨宿りに入った神社から流屋までの道のりはやや距離があるが、藤仁は文句や嫌味ひとつ言わない。腕に芦雪を抱えたまま、ただ淡々と歩き続けていた。
「……相変わらず、君は歌が下手だな」
「ほっとけ。気分が良けりゃ、自然と鼻歌も歌いたくなるんだよ」
「お前の腕の中は、乗り心地が最高だからな」と、芦雪は調子良く述べる。藤仁はそれに反応するのも時間の無駄だと思っているようで、無言を決め込んでいた。
 おかげで、今の芦雪はいつになく手持ち無沙汰だった。藤仁は絵師にしては力があるのだなあ、などと呑気なことまで考えてしまう始末だ。
 それを視線から感じ取ったのか。藤仁は芦雪の背に回した手に、やわく力を込めた。
「軽いな、君は……」
「そうかぁ? お前の腕力が強いだけだろ」
「君が軽すぎるんだ。本当に食べているのか?」
「毎日、藤仁と同じものを食べてるけどな。お松が作った美味い飯をさ。それも半年」
 ともに過ごした年月を示せば、藤仁は形の良い眉宇をかすかに動かした。
「……そうか。もう……半年も経つのか……」
 瞳を縁取る長い睫毛が、頬に小さな影を落とす。引き結ばれた唇はわずかに緩んでいた。
 刹那、藤仁は湛えていた表情を覆い隠すようにして、やれやれと息をこぼした。
「全く……。君が流屋に来てから、月日の流れが格段に早くなった」
 額面上ではいかにも迷惑そうな感想だが、奥深いところには信頼と親愛が込められていることぐらい、兄貴分である芦雪にはよく分かっている。たった半年。されど半年だ。既に両の手指では足りぬ日々を、藤仁と重ねてきた。
 込み上げる懐古と喜びを抑え、芦雪は屈託なく口端を上げて言った。
「俺もさっき、そう考えてたんだ。でも、それはきっと……」
 紺地の傘の下、雨音が二人を包んでいる。水滴の跳ねる音と不揃いなふたつの鼓動。それ以外に、何も聞こえない。
 ──きっと、お前とともに過ごす毎日が、幸せすぎるせいだろう。
 冗談を交えて形にするはずだった言葉は、芦雪の内に留まったままだ。芦雪は藤仁の胸元に頭を預けながら、再び口を開いた。
「……いや。なんでもない」
 芦雪に宿るものと同じ音が、耳元で重なる。藤仁は何も口にしなかったが、彼の音は、言葉の続きを問うように強く、芦雪のものよりも速く響いていた。
(言えなかったのは……そう。いつもと違う雨の日だから。ただ二人で身を寄せあってるだけだから……。なのに藤仁の香りと心音を近くに感じて、調子が狂ったせい……)
 ──きっとそうに違いない。芦雪は己にそう言い聞かせた。
 乱れる思考を落ち着かせようと、藤仁の鼓動に耳をすませるが、耳が感じるものは音だけではない。藤仁の体温、布を隔てた胸板の感触。彼を形作るものすべてを、静かに受け止めていた。
「……どうした。さっきからひとりで笑って……」
「ふふ。いんや。藤仁は体温が低いと思ってたけど、そうでもないんだなぁって」
「なんだ、それは……」
「さぁて。なんだろうな?」
 芦雪はくすくすと笑い声をこぼしながら、もう一度、藤仁の鼓動に耳を傾けた。
 雷雨が世界を包み、閉ざされた闇の中で身体を繋げるとき、芦雪の手に絡む指先は、いつだって冷たかった。何かにおびえ、芦雪を含む全てを拒絶しているというのに、「俺をひとりにしないで」と、ぬくもりを求める矛盾した孤独があるように思えた。
 だが、今ある体温は、ただ穏やかに芦雪に寄り添い、受け入れ、包んでいる。
(もし、これまでの藤仁が俺の幻想に過ぎないのだとして……。今の藤仁に俺が触れたら、こいつはどんな反応をするんだろう……)
 芦雪は自然と持ち上がる口端に身をゆだねながら、藤仁の首筋に指先を這わせた。
「……知ってるか? お前の首のつけ根、ほくろがあるんだ。自分じゃ見えないだろ」
 焦らすように、男の体温をより高めるように。首筋から首元までを薄らとなぞり、芦雪しか知らぬ秘密にやわく触れる。
「……っ、ん……」
 思ってもみなかった感覚が首元を走ったのか、藤仁は小さく息を漏らした。
「……こら。やめなさい」
「やめなさいとはなんだ。俺の方が兄貴だぞ!」
「生憎だな。君を兄だと思ったことなんて、一度もない」
「藤仁くんったら、年長者への敬意が足りないなぁ」
「君、熱のせいでおかしくなってるのか?」
 藤仁のなんの気ない返しに、芦雪は手を止めた。
(あぁ、そうか……。俺が今、異常なほど藤仁に触れたいと……もっと体温を感じて、もっと違う顔を見たいと思ってしまうのは、熱のせいなんだ……)
 行き過ぎた好奇心と、湧き上がる肌恋しさは、喘病の熱が為すものなのだ。たとえ、行為の意味をのちに問われたとしても、「熱のせい」と言えてしまえる。
 ならば、今この刹那の時だけは、藤仁への想いも、願いも、自身の欲も全て、解き放ってしまっても何ら問題ないのではないか。
 小さく息を吸って、藤仁の耳元に唇を寄せる。吐息を受けて小さく震える男の耳朶に、芦雪は熱に濡れた声をそっと落とした。
「……そうだ。俺は今、熱のせいでまともじゃない」
 艶の滲む鎖骨から首元へ、首筋から耳へと指先を移し、芦雪は静かに笑む。
「……っ、ふ……」
「ふふっ。そうだったな。……藤仁は耳が弱いんだ」
 形の良い耳の縁を丁寧になぞる。秘されたものを探し当てるように、上から下へ、緩慢な仕草で指を動かしては、藤仁の変化をつぶさに観察する。戯れにやわらかな耳たぶを軽くつまみ、耳裏にまで指を沿わせれば、男の肩がかすかに跳ねた。
「……藤仁くんはこれが好き? もっと触ってやろうか?」
「や、め……っ……!」
 藤仁の両手が塞がっているのを良いことに、芦雪の思考は愉悦にまみれ、溺れていく。
(今、この耳を食んで、舌を這わせたら。藤仁はどんな顔をするんだろう……)
 霞む視界に理性は喘ぎ、警鐘を鳴らすこともない。まだ見ぬ男の表情を想像し、芦雪は口端を引き上げて、くぱりと口を開けた。
「ん……!」
 藤仁の掠れた声が漏れる。芦雪はそれに気を善くして、吐息をまとわせた唇で耳朶を食み、強く吸いたてる。そのたび、雨音以外の濡れた音と声が傘の中で響き、芦雪の加虐心をいっそう煽った。
 熱が背筋を舐め、触られているわけでもないのに気持ちがいい。耳端を伝う唾液を受け止めつつ、芦雪は何かに突き動かされるようにして、男の耳に何度も舌先を這わせた。
「芦雪っ、……」
 藤仁の肩が大きく跳ねる。彼の耳は食べごろの果実にも似た色を差し始め、ひどく気分が良かった。
 やわい感触を存分に味わったあと、今度は首筋に吸いつく。雨音に混じるかすかな喘ぎ声を楽しみながら、芦雪はしばしの時をかけ、ようやく舌先を離した。
 二人の隙間を銀糸が繋ぎ、やがて途切れて、傘の中には深い静寂が戻る。
 刺激を受けて湧き上がる欲求に抗えなかったのか、流石の藤仁も足を止めている。彼の頬は淡く色めき、黒鳶の水面までもがさざめいている。薄い唇は何かに耐えるようにして、固く引き結ばれていた。
「ふ……。可愛い」
 芦雪は笑みを深め、藤仁の頭を撫でた。
 予想以上の反応だった。鉄壁とも言える仏頂面を崩せるなぞ、そうあることではない。故郷の弟にも時折思うことがあるが、今の藤仁はまさに、食べてしまいたいほどに愛らしい。芦雪の内は、不思議な達成感で満ち満ちていた。 
 幸せを噛み締めながら眼前の男に頬笑を向けてやれば、藤仁は悔しげに唇を噛んで芦雪を睨みつけたあと、ふいと視線を逸らしてしまった。
「藤仁。無視は一番良くないぞ」
 芦雪は男の目元を親指でなぞり、瞼に口付けを落とす。悪戯を込めたひとつの慈雨があがると、長い睫毛は小さく震えて、やがて上向いた。
「……君は、何がしたい……?」
「何がしたいかって? そんなの、もっとお前の色んな顔が見たいだけだ。それだけじゃ、理由として不十分か?」
 雨はいつしか止んでいる。芦雪の歌うような言葉だけが、朗々と藤仁に降り注いでいた。
 ──あぁ、楽しかった! 晴れ晴れとした感情のままに藤仁を揶揄からかえたのは、一体いつぶりだろう。
 芦雪は傘を畳み、薄れつつあった焦熱にほっと息を吐いた。
「……言ったな」
「へ?」
 何を、と問う暇もない。藤仁は止めていた足を再び動かし、平然と帰路をたどっていく。
(ん……? あれ!?
 罵倒や嫌味のひとつでも飛んでくるかと、芦雪はほんの少し期待していたが、得られたのは無為の沈黙だけだった。先刻のことはなかったことにされたようで、喜色に濡れた胸裡は、落胆に染まっていく。
(もしかして、あしらわれたか……? いや、逆に刺激が足りなかった?)
 芦雪が困惑している間も、藤仁の足は休むことなく歩を進めていたおかげか、四半刻と経たぬうちに、二人は流屋の母屋の前に着いた。
 小首を傾げつつ、芦雪が宙に浮いた足をぶらつかせていると、母屋の勝手口から見知ったひとりの少女が現れた。彼女の小さな手には、桶が携えられている。
「あら、二人ともおかえりなさ……って、芦雪様!? どうかなさったのですか!?
「おー、お松。ただいま」
 鈴を転がすような声音を驚きで満たして出迎えたのは、松乃だった。藤仁に抱えられた芦雪を見て、彼女は桶を放り出し、二人の元へと駆け寄ってくる。
「芦雪様、どこかお怪我を!? まさか、また発作が……」
 確かに発作は起こったが、怪我はしていない。ただ鼻緒が切れただけだ。
「大丈夫だよ。お松が心配するほどじゃ……」
「少し熱がある。俺の部屋で寝かせるから、松乃は何もしなくて良い。そのまま店に戻りなさい。台所に竹瀝ちくれきだけ用意しておいてくれ。後で取りに行く」
 藤仁の矢継ぎ早の指示が、芦雪のなだめを飲み込む。
 松乃は、幾許かの戸惑いを滲ませながらも兄の指示に頷くと、芦雪から傘を預かり、慌ただしく母屋の中へと姿を消した。
 藤仁もそれに続いて、母屋内に足を踏み入れる。抱えていた芦雪をようやく小上がりに下ろし、片方だけになった草履を手際よく脱がせて、彼自身もさっさと草履を脱いだ。
「いやー、助かったよ藤仁。じゃあ俺は部屋にっ……!?
 芦雪がそそくさと自らの足で立ち上がろうとする前に、藤仁は再び、芦雪の腰を強く引き寄せる。口を挟む間もなく、藤仁は帰ってきた時と同じように芦雪を横抱きにしたまま、彼の自室へ歩を進めた。
 部屋の前に着いたは良いが、藤仁は芦雪を抱えているために、襖を開けられないようだった。それに気づいた芦雪は、今こそ何を考えているか分からぬ男の腕から逃げ出す絶好の機会だと、慌てて声をあげた。
「藤仁。俺はもう大丈夫だから。ほら、草履も脱いだしさ。俺を下ろさないと襖も……」
 ──開けられないだろ? そう言い切る前に、藤仁は足先を器用に使って襖を開けてしまった。
 常日頃から己を律し、所作の全てを折り目正しく映す男が、手が塞がっているという理由ひとつで、行儀悪くも足で襖を開けた。
 とんでもないことが目の前で起きている。このような藤仁らしからぬ姿を、芦雪は今まで見たことがなかった。
 一体どういうことだろう。藤仁までおかしくなったのか。全ては雨がおかしくしたのか。
 雨は上がったばかりだ。雷も鳴りを潜めている。ならば、何が彼をおかしくさせた?
 芦雪の思考は混乱を極め、瞼は意味もなく瞬きを繰り返す。藤仁が部屋へ一歩踏み入れば、今しがた起きたとでもいいたげな夜着の抜け殻が、二人を出迎えた。
 藤仁は墨を買いに、雨の中を外出したのではなかったか。これではまるで、起きた直後に慌てて外に出たような──。
 おかしな疑問が、ふっと頭の中を浮かんだその瞬間。芦雪の世界が反転する。
 己は今、夜着の上に放り出されるようにして寝かされている。そこまで理解が及んだのは、藤仁が芦雪を組み敷き、片手で芦雪の両手首を絡めとったあとのことだった。
「……藤仁? ……あっ、ちょっ……!」
 制止の声をあげたところで、すでに遅い。芦雪の小袖と襦袢はあっという間に乱され、袴の腰紐がくつろげられる。役目を放棄した衿元には、藤仁の手が忍び寄っていた。
 胸元には男の指が這い、やがて鎖骨、首筋へと場所を変えていく。うなじにほど近い部分を、藤仁の節くれだった指が撫で上げる。焦らすように、執拗に、指の腹が芦雪の首元を這った。
「ふっ……、う……」
 刺激に弱い部分を指が責め立て、意思のない声がこぼれる。閉じかけた瞼の隙間からは、じっとこちらを見下ろしている黒鳶の双眸が見え、背筋に震えが走る。 
 藤仁は芦雪の首筋に顔を埋め、吐息をまとった低い声音でくつくつと笑った。
「……芦雪兄上は、首筋が弱いんだったな」
(それはさっき、俺が言った……!)
 芦雪が藤仁の耳に指を這わせて言ったことを、彼は意趣返しとして紡いだのだと、すぐにわかった。
 直後、指よりも遥かにやわらかな感触が首筋を伝う。常に与えられる激しさはなく、戯れにも似た吸い方で、藤仁は軽い水音を次々に落としていく。それは痺れるような快感にはなりえず、ひどくもどかしい。芦雪は身をよじることでしか、抵抗を示せなかった。
 ──熱い。ただ、ただ、身体は火を放つかのように熱を帯びている。
 喘病によるものなのか、はたまた首筋から生み出される微弱な悦楽によるものなのか。芦雪の理性となけなしの抵抗は、藤仁の慈雨によって徐々に崩れていった。
「ふ……。これが好きなら、もっと触ってやろうか?」
「待て、ほんとに、ちょっと待っ……!」
 小さく息を吸う音が、芦雪の耳元で弾ける。獣の眼光を宿した男は、噛みつくようにして芦雪の肌を強く吸いたてた。
「ん、っぁ……!」
 首筋に、馴染みある痛みが走る。それは、やがてひとつ、ふたつと数を増やし、花開いては存在を主張するが、それだけでは男の気は済まなかったようだ。藤仁は花びらを散らさんばかりに、己が跡をつけた場所に再び舌を這わせた。
「あっ……ん、ふ……」
 首筋に愉悦を与えられている間も、胸元への刺激は続いている。丁寧に切り揃えられた爪先が、かりかりと胸の蕾を擦り、芦雪の中で快感を重ねていく。芦雪の吐息が明確な喘ぎ声へと変わる前に、藤仁はようよう首元から舌先を離した。
 隔てるものもなく外に晒され、また今し方まで自身が触れていたであろう芦雪の胸の粒を、男はじっと見下ろしている。
「藤、仁……? っ、あ!」
 男にくすぶるおかしな気もようやく晴れたかと思いきや、彼は常と同じように芦雪の乳頭に吸いついた。唇でやわく食んでは舌先で執拗に捏ね、もう一方には依然指先で刺激を送り込む。乳嘴は唾液に濡れそぼって徐々に色づき、先を待ち望むように膨らんでいく。
 藤仁に与えられた微弱な快楽は、音もなく芦雪の下腹部に集まる。自由を奪われている芦雪には身悶えることでしか耐える術はなく、目には自然と涙が滲んでいた。
「ふじ……ひ、と……。 も……、おれ……」
「ん……?」
 藤仁は名残惜しげに乳頭から顔を離すと、艶麗に口端をもたげ、芦雪の陽物を撫でた。
「んっ、あ……!」
 焦らすような感触に、芦雪の喉はついに喘ぎ声を発した。
 ──違う。俺が欲しいのはそれじゃない。もっと決定的で、頭の後ろが痺れるような。自分が自分でなくなってしまうほどの快楽が欲しい。
 芦雪はゆるゆると腰を動かし、自ら男の手に陰茎を擦りつけて、強い快感をねだった。
 それに気を善くしたのだろう。露に濡れた男の唇から、小さな笑い声が落ちた。
「……君こそ、随分と可愛らしいじゃないか」
 褒美だとでも言いたげに、藤仁は芦雪の導き通り、襦袢越しに陰茎に手を添わせ、上に下にと強く撫であげる。輪郭に沿ってやわく揉まれ、紺の布地には淫靡な染みが広がった。
「ぁ、はぁっ、あ……!」
「声、抑えて……」
 抑揚なく告げられた直後、愉悦に喘ぐ声は激しい水音に塗り替えられる。二人の境目をなくすかのように、角度を変えて何度も唇が重ねられ、互いの舌先が絡み合った。
 唾液が混ざり合い、身も心も蕩けていく。ぬめりをまとった陽物は、藤仁の膨れたそれと布越しに擦れ合い、ひどく切ない。 
 昂る欲に耐えきれず、芦雪の先端から溢れた先走りは、涎のように腿の付け根を這った。
「んっ、ふぅ……、ぁ……」
「……ん、はぁ……」
 求めた快楽が少しずつほどけて、欲の器に輪郭を広げていく。茫然自失とした芦雪を置いて藤仁は唇を離し、満ち足りた微笑を浮かべていた。
 この表情は、自分こそが引き出したのだと。そう言わんばかりに、男は芦雪の泣きぼくろを親指でやわくなぞった。
「藤……仁……。お、前……」
 絡め取られた手はいつしか解放され、芦雪を包んでいた薄い影も離れている。
 霞む視界に藤仁を映すが、その眼に熱と艶は既にない。感情を宿さぬ、見慣れたそれへと戻っていた。
 冴えた麗美な容貌が再び近づく。口付けられるのかと、溶け落ちた芦雪の理性は期待に踊ったが、唇が重なることはない。
 藤仁は芦雪の耳元に顔を寄せると、淡々と言った。
「年下だからといって甘く見ていると、いつか痛い目を見るぞ。……勉強になったな」
 自身が乱したであろう芦雪の襦袢の衿元を直し、丁寧に夜着をかけ直す。藤仁は、そのまま己の着流しの乱れも早々に直してしまうと、その場から立ち上がった。
「大人しく寝てろ」
「着替えを持ってくる」と付け足し、男は部屋を出ていった。いつものように折り目正しく、襖を手で開けて。
 してやられた芦雪は、半端に募った欲を吐き出すこともできず、布団の中で縮こまった。
(びっくりした……。いや、びっくりした……!)
 明らかに、今回は芦雪が調子に乗りすぎた。まさか藤仁が逆襲染みたことをしてくるなぞ、誰が予想しただろう。
 夜着を顔の上まで引き被る。藤仁の香りがたち、下腹部に集まったままの欲が余計に煽られる。これは一体、何の拷問だ。
 ただ、いつものように彼を揶揄からかいたいだけだった。だというのに何故、あの時、「耳を食んで舌を這わせてみたら」などと愚かなことを考えたのか。
 何度自問を繰り返しても、芦雪自身の中に答えを見出すことはできなかった。
(そういえば……。墨を買いに出たって言う割に、手荷物が傘以外無かったような……)
 見間違いかもしれない。買ったものをどこかに置き忘れ、ましてや芦雪を迎えに行くためだけに外に出るなど、藤仁にはありえぬことだ。妹の松乃に対してでもあるまいに。
(寝よう……寝て忘れよう……)
 ──これもきっと、全て熱のせい。藤仁に及んだ蛮行も、彼が墨を持っていなかったように見えたのも。
 先程までの行為を忘れるように。否、忘れるのだと決意するように。芦雪はくすぶったままの熱を押さえつけ、固く瞼を閉じた。