第十八筆「澪標」

 堕ちたはずの意識が、浮世の水面に顔を出す。
 は、と息を詰める。見慣れた自室の天井。薄藍に染まった障子。宵を照らす月明かり。
 不躾な男の手に覆われていた視界に陰はなく、今はひどく明瞭だ。
 反して、思考の巡りは随分と鈍い。芦雪はようよう半身を起こし、額に指を添えた。
 ──……いいかい、眞魚まお。使えるものは、全て使え。
 ──全ては、お前わたしの欲のために。
 艶のしたたる声音が、記憶の向こう側で手招いている。かぶりを振れど、男の残響はいたずらに花開き、やがて芦雪を煽るように散っていく。
 思考の狭霧を割って、脳裏に白き手が差し出される。持ち主の顔は霞に覆われ、何者なのかとんと見当もつかない。結い上げられた髪尾の影だけが、ただ静かに揺らめいている。
 頭に浮かぶを打ち消そうと、芦雪は固く瞼を閉ざす。体内の血は脈打ち、鼓動が荒々しく響いている。不揃いなそれはやがて耳鳴りに変わり、余計に息苦しくなった。
(俺は今……『誰として』生きている……?) 
 おのが自由を求めた過去。家族に身を捧げると決めた未来。孤独を抱えた男とともに在ろうとする現在いま
 ──俺は「誰」だ。どれが「俺」なんだ。俺の「本心」はどこにある?
 何度問いかけても、霧中の男は答えない。芦雪が手を取るのを、ただ待っている。
 脂汗が一筋、芦雪のこめかみを伝う。男の手を振り払うように重たい瞼を上げると、頭上にやわい影が差した。
 見知らぬ男が跪いている。芦雪は肩を跳ねさせ、怖々とそれを見た。
 日ノ本で類する者はいないであろう艶やかな褐色の肌に、色素の薄い髪。胸元は淡い紅の光で彩られ、宵闇の中で己の存在意義を煌々と主張している。
「お前は……」
 芦雪の声に、男は顔を上げる。薄明かりに浮かぶ、秋の夕暮れを溶かした瞳に敵意はない。懐古を浮かべる敬愛と、深甚とした忠誠のみが宿っている。
 額を彩る黒々とした二本の角と尖った耳端は、彼がこの世ならざる者である事実を声高に告げていた。
茜音あかね……?」
 覚えのない名が、自然と芦雪の口をついて出る。遠ざけていたはずの過去の面影が、閑かに今の芦雪と重なった。
 芦雪は震える手を伸ばし、男の頬に添える。親指の腹で輪郭を撫でれば、男──茜音あかねは待ちわびたように眦を緩め、芦雪の手に自ら頬を擦り寄せた。
(あぁ、そうだ。懐かしい……。茜音あかねは私の四魂の中でも、随分と甘えん坊な子だった)
 淡い紅の光芒。かつて守信がこぼした切なる祈りを、一身に受けて生まれた鬼神の絵の四魂。それが茜音あかねだった。
 いくら過去を否定しようとも、彼の頬をなぞるたびに込み上げる郷愁には、嘘をつけなかった。
 だが何故、茜音あかねは名を呼ばれる以前に絵から抜け出し、こうして芦雪の元へと参じたのか。守信の差し金だろうか。
 ──藤仁を助けるなら、私の四魂を使いなさい。
 烏夜の中、守信が告げた助言が思考の波間をすり抜ける。芦雪の身体は急激に温度を失い、茜音あかねに触れる指先が強ばった。
(藤仁……。そうだ、藤仁は今どこにいる?)
 あの男のことだ、芦雪を揶揄からかうための方便に違いない。否、守信の戯言であって欲しい。
 夢の中でかすかに耳にした白銀の音が、未だ胸騒ぎを駆り立てている。
 芦雪は夜着を跳ね除け、茜音あかねをその場に置いて藤仁の部屋へと向かった。手燭も持たず、闇に慣れた目と身体の記憶を頼りに、長い廊下を足早に歩く。
 目的の部屋の前に着くと、芦雪は躊躇もないままに、襖に手をかけた。
 手のひら一枚分の隙間から中を覗く。夜着の端は見えず、ただ敷き詰められた畳のみが芦雪の視線を受け止めた。
 部屋の中に主の温度はなく、吐き出されるはずの寝息すらも存在しない。やはり、藤仁は留守にしているようだった。
(藤仁……やっぱり外に……?)
 ──よその四魂に襲われている。守信の言葉が再三耳元にまとわりつき、芦雪の焦燥を色濃く塗りかえる。
 芦雪の視界は歪み、ふらついた足が均衡を保とうと、一歩後ずさる。それでも回る世界に耐えきれず、支えを失った腰が床へと落ちる直前、芦雪は逞しい腕に抱きとめられた。
「茜、音……」
 ──ご命令を。
 意思を宿した物言わぬ瞳が、雄弁なまでに語っている。おのが存在意義を果たさせてくれと。荒波の中、ようやく見つけた流木にすがるように。
 思考の霞がほのかに晴れて、脳裏に差し出されたままの幻影の手が、現実味を増す。芦雪は鈍く痛む喉を鳴らした。
(ここでこの手を取って、俺が俺でなくなったとしても……。俺は、藤仁を……)
 目を閉じる。実体を持たぬ何者かは、瞼の裏で芦雪を見据えたまま動かない。
 芦雪は唇を噛むと、震える指を狭霧に伸ばし、迷いなく──恐れていたもう一人の自分の手を取った。
 ぬくもりのない手が芦雪の手を握り返し、少しずつ互いの淡いを溶かしていく。分かたれていたものが一つに戻っていく感覚に、もう後戻りはできないのだと肌で感じた。
 たとえ、そうなのだとしても。目の前に使える力があるのなら。大切な人を守れる力があるのなら。恐れる理由も躊躇する理由も、今の自分には必要ない。
「……茜音あかね。力を貸してくれ」
 決然と名を呼ぶ芦雪に、人ならざる者は当たり前のようにこうべを垂れる。忠実なる過去の四魂を前に、霞向こうに消えていく何者かは、口端を大きく引き上げていた。


 流屋の眠りを妨げぬよう、芦雪は慎重に裏口の戸を閉めた。木戸の軋む音は輪郭を持たぬまま、無音の闇に消えていく。
 藤仁のもとへ、と寝床を飛び出したのは良いものの、芦雪は彼の行方に心当たりがあるわけではなかった。隣に寄り添う茜音あかねを見上げても、深い夜には些か似つかわしくない、やわらかな眼差しが返ってくるだけだ。
 守信とともに耳にした白銀の一閃。あれが芦雪の部屋まで音尾を伸ばしたということは、藤仁はさほど流屋から離れていないはずだ。御用地や武家地が軒を連ねる日本橋の外れか、もしくは木挽町こびきちょうへと繋がる京橋の方向か。藤仁の足跡は自ずと絞られる。
木挽町こびきちょう……」
 芦雪は唇に指の背を添え、馴染みのない町名に思考を寄せた。
 木挽町こびきちょうは、職人や文化人が多く居を構える町方である。歌舞伎座を初めとする芝居小屋を中心に日々賑わいを見せており、恍惚とした高揚感で満ち溢れている場所だ。
 とはいえ、その八割は武家地として定められており、中でも狩野家の一角、木挽町こびきちょう狩野家の屋敷が錚々たる佇まいで街並みを臨んでいるのは有名な話だ。
 ふた月前、藤仁が写楽として采梅あやめから手に入れた紹介状の大元──画所えどころもまた、かの木挽町こびきちょう狩野家の屋敷内にある。江戸に住まう者なら、誰もが知っている事実だった。
 つまるところ、木挽町こびきちょうに寄りつく人間といえば、武家の他には目当ての役者を見に来た者だとか、木材商に用がある者に限られている。近所といえど、芦雪には足を伸ばす理由もない地であった。
(まさかとは思うが……。藤仁が夜な夜な出かけてる先が、画所えどころなわけないよな?) 
 藤仁は正式な紹介状、それも画所えどころの塾頭である采女うねめの名が記されたものを持っている。
 画所えどころで絶大な権力を持つ采女うねめが、後ろで手を回しているのだ。武家の出ではない藤仁が真昼間に訪ねたとて、周囲がとやかく口出しすることもなかろう。わざわざ人目を忍び、夜に赴く必要はないと見える。
 とすると、藤仁が木挽町こびきちょう方面へと向かった可能性は低いだろうか。
 芦雪はこんこんと思考の水底に沈む。意識が底地へと降り立つ直前、それは水面の淵から引き上げられた。
「……ん? どうした、茜音あかね?」 
 茜音あかねは、どこか拗ねた様子で芦雪を見下ろし、袖端を引いている。同時に、彼が音もなく手で示したのは、月明かりに白む地面と、その上に落ちた身の細い花びらだった。
 松風の季節には似合わぬ、初秋を表す白。芦雪が手に乗せれば、それは風を含んで身を揺らした。
(菊の花びら……? 菊が咲くにはまだ早い。何故、こんなものが裏口の前に……)
 訝しげに菊花の一部を観察し、芦雪はふと顔を上げる。
 灯りのない夜道を照らすように。芦雪の行き先を導くように、点々と。白をまとう花びらたちは、流屋の裏口から表通りへと軌跡を残していた。
 芦雪が惑う間に、掌中の花弁は夜風に誘われ、再び地面へ舞い降りていく。その身が地に横たわる前に、それは赤錆色のもやに姿を変え、儚く霧散した。
「……っ、茜音あかね! 行くぞ!」
 芦雪は地を蹴り、その場から駆け出した。
 赤錆色のもやは四魂の証しであり、残り香だ。つまり、この花弁は何者かの四魂の一部である。それが流屋から表通りへ──木挽町こびきちょうのある京橋方面へと伸びている。
 嫌な予感が芦雪の背筋を伝い、蒸し暑さに生まれた汗を凍てつかせた。
 日中の喧騒が嘘のように、通南の表通りは静まり返っている。月光で薄藍に染まる問屋たちは木戸で締め切られ、人の気配もない。はためく袖の衣擦れと、風を切る音だけが芦雪の耳元をすり抜けていった。
 こんなに必死に走るのは、江戸に来てから何度目だろうか。
 つい数年前までは、芦雪にとって走るという行為は考えられないものだった。両親がそれを禁じていたし、幼馴染の幸之介も口にこそしなかったものの、芦雪の歩調に合わせて行動していた。芦雪の足は、歩くためだけにあった。
 よくよく思い返してみれば、必死になって何かを追いかけるという心持ちすら、故郷では無縁だった。
(俺、江戸に来てから走ってばかりだなぁ……)
 ゆかりを探して、小さな噂を聞きつけては江戸を駆け回った。その根底には、自身の憧憬と家族のために奥絵師になるという責務があった。ゆかりと御用絵試は、江戸に来た芦雪が決して見失ってはならない澪標みおつくしだった。
 藤仁と出会ってから、二人で日々を重ね、想いを重ね、身体を重ねて。雷雨になれば、芦雪は藤仁の行方を追って町を駆けた。藤仁はいつしか、芦雪のもうひとつの澪標みおつくしになっていた。
 たとえ、この想いが不毛だとしても。この身が朽ち果てようと。最期を迎えるその時まで、藤仁のそばにいたい。
 これまで考えたことすらなかった己のためだけの願いが、波すらたたぬ海原の真中でひっそりと佇んでいる。
 ──俺はこれから、どちらのしるべを目指して走れば良い?
 答えが分かりきった問いに自嘲が漏れる。芦雪は荒い息を吐きながら、菊花のみちが途切れるまで走り続けた。
 眼前のしるべが動きを止めたのは、芦雪が京橋を渡り始めてからのことだった。橋のかかる川辺沿いの町並みが、遠目にも見える。
 紺屋町と呼ばれるかの地は、江戸の藍染めを手掛ける染物屋が軒を連ねる場所だ。真昼間であれば、白雲が浮かぶ晴天を背景に、藍染めの布地が幾重にもはためき、町を彩る様子が見れただろう。
 しかし、今は草木も眠る深い夜だ。染め物は一枚としてなく、代わりに木戸が下ろされた景色が、星月の薄明かりによって薄浅葱に染められていた。
茜音あかね? どうした?」
 橋を中ほどまで渡ったところで、芦雪の隣を走っていた茜音あかねが足を止める。彼は橋から見える川辺沿いの紺屋町を、じっと見据えていた。
 キン、と金物の擦れる音が鳴る。
 芦雪が弾かれるように顔を上げた時、茜音あかねは既に前傾に体勢を変え、後ろ腰に差した二振りの刀を抜き切っていた。
 夜風に誘われ、菊花の花弁が宙を舞う。月明かりを背に、小さき白は己が身の陰を色濃くしていく。
 不意に、路地の物陰から一人の青年が飛び出した。彼は川辺に転がるようにして片膝をつき、何かに気づいたのか、背後を振りかえって何かを叫ぶ。その、刹那のことだった。
 低い唸り声とともに、むせかえるほどの血の香りと赤錆のもやが路地からあふれ出る。
 毒々しいほどに鮮やかなはなだ色の光が三つ、姿を現す。もはや日常に溶けこみ、見慣れたものとなった光ともやは、四魂の証しだ。それはやがて、三匹の勇猛な唐獅子へと形を変えていく。
 彼らは大人の背を優に越える体躯をしならせると、青年に牙を剥いた。
「っ、茜音あかね!」 
 芦雪がみなまで言わずとも、鬼神の四魂は心得ている。彼は胸元を彩る光を強く表出させると、自らの刀に小さな稲妻をまとわせ、橋の欄干を強く蹴って跳躍した。
 バチバチと、千鳥が鳴くような音が宵闇を駆ける。青白い閃光とともに、二振りの雷鳴が青年と唐獅子の間に割って入った。
 茜音あかねと獅子たちの衝突に、凄まじい光と風が吹き荒れる。川面はさざめき立ち、雷撃を反射して輝く。茜音あかねが刃を大きく横に振り抜いた時、獅子の咆哮が二つあがった。
 芦雪は欄干に飛びつき、茜音あかねの背後にいる青年──藤仁を見つめる。彼は唐突に現れた助太刀の存在に気を取られ、瞠目したままその場から動けないでいるようだった。
 安堵の息を吐いたのも束の間、芦雪は、はっとして再び顔を上げた。
 茜音あかねの攻撃により、先にあがった鳴き声は二つ。飛び出した唐獅子は三匹のはずだ。
 ──では、あと一匹は?
「……まずい!」
 芦雪は橋を駆け抜け、藤仁のもとへ走り寄る。
 藤仁の背後は川だ。ひっそりと息を殺し、藤仁の喉元を掻き切らんと現れる者など、この場にいやしない。ただし、それは此度の相手が、ひとであったならばの話だ。
 風の合間を縫い、一筋のもやがはなだ色の軌跡を残して川面に降り立つ。もやの隙間から鋭い爪がすらりと伸びて、雄々しい唐獅子の脚が水面に足を着けた。
 獅子の腕が大きく振り上げられる。それが藤仁の背に食い込む直前、芦雪は己が身を滑り込ませた。
「っ!」
 白銀の金切り声があがる。芦雪が抜いた刀と獅子の爪はかち合い、火花を散らしていた。
 向かって来る者全てを薙ぎ倒さんばかりの力と勢いが、芦雪の腕を襲う。こめかみを嫌な汗が伝い、力を入れた足先が震える。今にも押し負けてしまいそうだったが、ここで後ろに下がるわけにはいかない。
 藤仁の安否を確かめようと、芦雪は後ろに目を向ける。するとちょうど、こちらを振り返ったばかりの彼と視線が絡んだ。
「芦雪!? 何故、君が……」
「良いから! 今は黙ってろ!」
 藤仁はひどく狼狽していた。手にした絵巻の端を握り、芦雪に疑問と焦燥をぶつけている。けれど、今の状況を彼に説明している時間はない。
 獅子に対抗できる四魂を呼ぼうにも、芦雪の画帳は流屋に置いてある。唯一の頼みである茜音あかねは、ひとりで二匹の四魂を相手にしている最中だ。彼の力を頼るには、あまりに距離と無理があった。
(万事休すか……!)
 唐獅子にかざした刀刃と鋭い爪が噛み合い、不快な音をたてる。闇夜に爛々と輝く獰猛な黄金の瞳が、邪魔だと言わんばかりに芦雪を睨みつけていた。
 我慢の限界に達した獣は、荒い鼻息を放って口を開ける。隠された牙が、芦雪を食らわんと大きく振りかざされた。
「あらあら。随分と無粋な狗ねぇ……」
 獅子の唸りが途切れる。葉上の露を宿したような、透き通った声があたりを渡る。月光を背に、白花の花弁が幾重にも宙を舞っていた。
 声の持ち主は、音もなく獅子の背後に降り立つと、手にした一枝ひとえの菊花に赤錆のもやをまとわせ、瞬時に細身の刀へと変化させた。
「芦雪さん。──そこを、動かないでくださいね」
 聞き覚えのある女人の声は、歌うように告げる。芦雪が息を飲む間もなく、彼女はしなやかに、唐獅子に腕を振り下ろした。
 ギャウ! と、犬に似た鳴き声が虚空を打つ。倒れた獅子の背には真一文字が刻まれ、黒々とした傷口を作っている。
 本来であれば流れるはずの赤い血潮はない。ただ、掠れたもやが表出している。眼前の存在は、やはり血の通わぬ異形でしかなかった。
 芦雪は我に返って刀を再び鞘に戻し、居合の構えを取るが、獅子はその場に倒れ込んで小刻みに身体を震わせるだけだ。背後の女人に目を向け、微動だにしない。芦雪のことなど、視界に入れてすらなかった。
 獅子を斬った女人は白の面布かおぎぬで顔を隠し、紅を乗せた唇に三日月の形を宿している。口元でしかその表情を窺い知ることはできなかったが、彼女は今の状況を愉しんでいるようだった。
「お前の相手は私よ。先刻そう言ったのに、どうして私の前から逃げてしまったの?」
 湿り気を含んだ空気の中、女人の声だけが凛と冴えている。彼女は手にした刀を獅子の首元に突きつけ、くいと顔を上げさせた。
「本当にいけない子。私の愛しいあるじ御子おこを……藤仁様を手に掛けようだなんて」
 獅子の背に刻まれた傷は豊かな毛並みに隠され、風になぶられて乾いた音をたてている。
 獅子が傷を塞ごうとしているのかと思いきや、真一文字に変わりはない。変化を見せているのは、その奥だった。
 毛並みの隙間から覗いた、小さな白。傷口の中で、まるで膿のように何かが蠢いている。
(あれは……菊の蕾と葉々……?)
 芦雪の疑問を置いて、白き命は獅子の身体を宿主として次々に花開いていく。その度に女人は笑みを深め、呻き声をあげる獅子の頭を優しく撫でていた。
「それすらも分からないのなら──お前は、消してしまおうね」 
 女人の胸元が一瞬、薄紅に強く輝く。獅子の瞳が大きく見開かれた瞬間、獣の身は呆気なく弾け飛んだ。
 墨と血の匂いが染みついた、大小の塊が降り注ぐ。呆然と立ち尽くす芦雪の前には、季節外れの菊の花々が、女人の微笑を彩るように咲き誇っていた。
「芦雪さん」 
「……なんだ?」
 女人は淡黄の袖口で口元を覆い、慈しみに溢れた笑い声をこぼしていた。
 ただ返事をしただけなのに、何故笑われるのか。芦雪が首を捻っていると、女人はひとしきり笑んで満足したのか、再び口を開いた。
「私のこと、誰だとか聞かないんですね。何故、貴方の名を知っているのか、とか。……お気遣い、ありがとうございます」
「今、いちいち聞いている暇はないからな。助けてくれたのなら、貴女は味方だろう」
「説明の手間が省けて助かります」
 女人の優雅な会釈を目端に留め、芦雪は後ろを振り返る。気を張りつめ、表情を強ばらせた男が佇んでいる。顔色は薄藍の景色よりも深く青ざめており、薄い唇には色がない。
 彼は白鷺が息づいた絵巻を胸元に引き寄せ、己が手首を強く握りしめていた。
「藤仁」
 芦雪は、澪標みおつくしの名を紡ぐ。
 彼は何も言わない。芦雪から一歩、また一歩と距離をとる。恐れるように。己に触れないでくれと、懇願するように。
 もう一度名を呼ぼうと芦雪が口を開いた時、藤仁の身体はふらりと傾いた。
「藤仁!」
 咄嗟に腕を伸ばし、男の身体を受け止める。どうやら、気を失ったようだった。
 怪我をしたのだろうかと不安に駆られ、藤仁の胸元や手足に視線を流すが、鮮血の跡はどこにもない。芦雪は思わず、安堵の息を落とした。
「芦雪さん。藤仁様のお身体は私が。彼は私のあるじですから」
 女人は芦雪に代わり、藤仁を己が腕で包む。母親にも似た慈愛の眼差しが、男の寝顔に降り注いでいた。
 宵の静けさが戻り、川面のさざめきがあたりに響く。妙な胸騒ぎが、再び芦雪の裡を満たしていた。
 芦雪が素早く周囲に目を巡らせると、弾け飛んだはずのはなだ色の光が川面に浮かんでいるのが見える。何故、と声をあげる間もなく、散らばった獅子の肉塊ともやがはなだの光輝に集結し、形を整え始めていた。
 女人は音もなく立ち上がり、ひとひらの花弁を藤仁に落とす。闇の中、彼の身体は淡い光に包まれ、やがて輪郭を溶かして消えた。
 恐らく女人──藤仁の四魂が彼にその力を及ぼし、彼の身を安全な場に移したのだろう。
 女人は芦雪に背を向けたまま、刀をみたび構えて芦雪に言った。 
「……ここら一帯には、我々の痕跡を消す灰滅かいめつの結界が張られているようです。唐獅子の四魂たちの主か、もしくはその仲間が施したものかと。となれば、主犯はここからそう遠く離れてはいないはず……。芦雪さんはそちらをお願いします」
「でも……それだと貴女が……!」
「おかまいなく。こちらの守りは、私ひとりで十分ですわ。それに、本体の絵を破壊しさえすれば、この唐獅子たちは止まりますから。芦雪さんが彼らの主を探して、絵を破壊してくだされば、何の問題もございません」
 薄明かりに照らされた横顔に、不安の陰はない。紅色の唇は麗しさと自信を損なうことなく、悠然と弧を描いていた。
「恐らく、術者は木挽町こびきちょう方面にいるはずです。……さ、お早く!」
 かすかな迷いが芦雪の袖を引くが、今は彼女の示した道が最善だ。
「……っ、茜音あかね! 来い!」
 主の声を聞き、茜音あかねは瞬時に駆け戻る。彼の元いた場所には、先まで彼が相手にしていた二匹の唐獅子が地に伏しており、その身は焼けて黒々としていた。
 獅子たちは胸元の光輝にもやをまとわせ、肉体の回復に努めているようだったが、光に力強さはない。茜音あかねに追いすがる気力さえ、今は失ってしまっているのだろう。
 芦雪は冷えた視線を獅子らに向けたあと、振り返ることなく、木挽町こびきちょうへと走り出した。


 女人が示した術者たちは、四半刻とかからず見つかった。
 単純な話だ。木挽町こびきちょうに繋がる通りを、絵巻を手にした男二人が堂々と歩いていたのだ。
 おおかた、唐獅子らがいつまでたっても獲物を持ち帰らないことにしびれを切らし、様子を見に来たのだろう。彼らの絵巻からはもやが漏れ、足跡のように軌跡を作っていた。
 芦雪が口を開くその前に、茜音あかねが男らの眼前へ躍り出る。男たちは悲鳴をあげる間もなく首根を掴まれ、起き上がれぬよう地面に叩きつけられた。
 二つの呻き声が静寂しじまを揺らしたかと思えば、二人は互いに顔を見合わせて言った。
「……っ! ……おいっ、あいつに直霊なおひの絵師の仲間がいるなんて聞いてねぇぞ……!」
「そんなもの、私だって聞いてない! そもそも、今日は確認のみの指示だったのに、貴様が身の程を知らずに出しゃばるから……!」
「うるさいな! お前だってそれに乗ったんだろうが!」
 捕縛されている身だというのに、男二人は姦しく口論している。茜音あかねが鬱陶しげに捕縛の力を強めると、二人の声はやがて小さくなっていった。
 芦雪は、低くなった頭を見下ろして薄らと笑みを作り、彼らの前に片膝をついた。
「どうも、こんばんは」
「ひっ……っ、げほっけほっ……」
「あぁ、茜音あかね。力を入れすぎだ。少し緩めて」
 忠実なる四魂が少しばかり男らの首根から手を離せば、男のひとりが苦悶に満ちた表情で切れ切れに言った。
「っ、な、んで……ここ、に……俺ら以外の、直霊なおひの……絵師、が……!」
「それはこちらの台詞だ。……紺屋町で暴れている唐獅子たちの四魂。あれを顕現させたのはお前たちだな。大事そうに抱えているその絵巻が本体の絵か?」
「……っは。たとえそうだったとして、なんだって言うんだ? まさか、私たちに差し出せとでも言うんじゃないだろうな」
 挑戦的に言い返したのは、痩せぎすの体躯を墨色の長羽織で隠した男だ。口調も仲間の男に向けるものと同じく尊大で、黒縮緬ちりめんの丸頭巾ずきんの影に潜む眼光は尖鋭さを保っている。
 芦雪と茜音あかねが刀を抜く素振りをひとつとして見せないため、殺されはしないだろうと高をくくっているのだろう。
 随分と舐められたものだ。
 腹の底が冷えていくのを感じながら、芦雪は男の頭巾を掴み、顔を上げさせる。
 男の煽るような笑みが深まる。濁りきった眼は、芦雪を映して小さく垂れた。
「……なんだ? やるなら、さっさと貴様も四魂を使えばいいだろう。四魂なら、自分の手を汚さずに済むからな。……私たちと一緒だ」
 尊大な男は、くつくつと下卑た笑い声を落としている。
 これは慣れた目だ。四魂を願いと祈りのために使役するのではなく、何者かの私欲に使うことに疑問も反感すらも覚えなくなった目。そして、自由を諦めてしまった目だ。
 冷えたはずの腹底が、静かに沸き立っている。怒りではない。単なる苛立ちだ。
 ──人の願いを、祈りを。かつて私がささやかに願い、叶わなかったことすらも、簡単に踏みにじるのか。何の自覚もなく。この男は、四魂のことを何だと思っているのだろう。
 明瞭だった芦雪の視界が、自由と後悔と、憤懣ふんまんの朽葉に染まる。芦雪は再び男の頭を強く掴み、ずいと顔を寄せて言った。
「わかっているなら。さっさと絵を出せ。私は気が短いんだ」
「は? だから……」
「聞こえなかったのか? ──絵を出せ」
 抑揚のない低い声が、芦雪の喉から吐き出されていく。まるで別者が放ったようだった。
 それだけではない。不思議とあふれる万能感。腹に据わる欲と、目の前の煩わしい現実。混ざり合うはずのない感覚がぶつかり合い、芦雪の理性は悲鳴をあげていた。
 雲に隠れた月が顔を出し、辺りをいっそう青白く照らす。夜の薄明かりが芦雪の頭上に降り注いだ時、尊大な男は双眸を見開き、驚愕に満ちた様子で芦雪を見つめ返した。
「その、目……。お前、まさか狩野家の……」
「狩野家が、なんだ?」
「ヒッ……」
 先刻までの余裕綽々とした態度はどこへ行ったのだろう。男は何かを思い出したようにひどく怯え、目を逸らしてしまった。
(なぁんだ。もう終いか……)
 ──これでは、つまらないではないか。
 芦雪は掴んでいた頭を手離し、そのまま地面に落とした。男の呻き声と、がちがちと歯の噛み合わぬ音が耳端を掠めたように思えたが、きっと気のせいだろう。
 今度は、仲良く並んでいるもう一つの丸顔頭を手にして、芦雪は淡々と問いを重ねた。
「お前たちの目的はなんだ? 何故、あの男を狙った?」
「おっ、俺たちは別にっ……! 上の指示に従っただけで……」
「上? 上とは誰のことだ? 知っていることを全て話せ。……俺が言っている意味、分かるな?」
 芦雪は、腰に据わる刀の柄頭つかがしらを軽やかに叩いた。
 明確な脅しだった。唐突に突きつけられた己の立ち位置に、丸顔の男は吃りながらも精一杯に舌を動かす。
「何も知らねぇ! 『奥勤め』として命令されただけなんだ……! お、お前だって知ってんだろ! なんでわざわざ聞くんだよ! その目……狩野家の者なら、あの男のことだって、生け捕りにしろっていう棟梁のめいだって、裏の意味を知って……」
 刹那。男たちの身体が強く震える。
 口元を発端として、翡翠の光が瞬く間に彼らを包みこみ、やがて跡も残さず儚く散る。二人の瞳孔が上向くと同時に抵抗も失われ、男らは再び地に伏してしまった。
 舌でも噛み切ったのか。芦雪が両の頭を掴んで顔を覗けば、二人とも情けなく泡を吹いている。どうやら昏倒しただけのようだった。
「はぁ……。つまらんなぁ……。なぁ、茜音あかね」 
 呼びかけられた茜音あかねは小首を傾げるばかりだ。それも当然か、と苦笑を携えながら、芦雪は彼に指示を出し、気絶した男たちを仰向けにさせる。芦雪に渡すまいと咄嗟にしまい込んでいた両者の懐をまさぐり、探し求めていた二本の絵巻を奪った。
 乱雑に巻かれた緒を解き、二つの絵に目を落とす。
 現れたのは、雄々しい松と岩が左右に配され、中央に大きな空白が存在する画面だった。本来であれば、この空白には唐獅子たちが息づいていたはずだ。
(なんて……哀しい絵だろう……)
 受け継がれた粉本を写すのみに留まり、先人の技術から何も学ぼうとしない筆致に、願いと祈りを忘れたからの画題。伝統という型にはまった大人しい構図。
 四魂は主を選べない。目の前の男たちは、直霊なおひの絵師としての自覚もない者なのだろう。その下に生まれた四魂らが、不憫でならなかった。
 芦雪は、音もなく刀を引き抜く。月光を返す銀の波紋には、迷いのない眼が映っている。
 今しがた浮かべたばかりの悲哀も贖罪もなく、芦雪はただ真っ直ぐに、刀刃を二つの画に突き刺した。
 瞬間、濃い血の香りと大量の赤錆色のもやが表出する。刀を横に引いて画面を裂けば、芦雪の周囲を悶えるように行き交っていたもやは動きを止め、空気に溶けて消えていった。
 チン、と鯉口にはばきが触れる。張り詰めた糸はようよう緩み、意識が明瞭になっていく。
 浮き足立っていた思考が、ようやく地に足をつける。芦雪が我に返ったのは、茜音あかねが細い稲妻で男らの身体を縛り上げ、芦雪の前に差し出した時のことだった。
「……あぁ。ありがとう、茜音あかね。ひとまず、こいつらは物陰に隠しておこう。あとで彼女に引き渡すなり、夜が明けてから奉行所に突き出すなりしよう」
 茜音あかねは芦雪の指示に小さく頷き、近くに転がっていた筵を男らに乱雑にかぶせて路地裏に置いた。
(藤仁は……無事、だろうか……)
 目的を果たしたせいか、一抹の不安が滲む。芦雪は茜音あかねとともに、藤仁たちのもとまで再び駆け戻った。
 紺屋町の川辺は、何事も無かったかのように静まり返っていた。はなだ色の光も、赤錆色のもやの残滓もひとつとしてない。唐獅子たちは気配の面影すら残さず、姿を消していた。
 藤仁は無事、目を覚ましたようだった。女人に助け起こされて地に膝をつき、手首を未だ強く握りしめていたものの、遠目から見ても怪我で庇っているわけではなさそうだった。
 芦雪の気配に気づいたのか、藤仁は主人然とした口調で寄り添う女人に言った。
「……もういい。お前は下がれ」
「かしこまりました。では、私は術者らの後処理をしてから、松乃様の守護に戻ります」
「頼む」
 女人は、藤仁のめいにすぐさま立ち上がった。
 面布かおぎぬの端が小さく揺れる。見えないはずの彼女の視線が刹那、己のものと絡んだような気がして、芦雪は息を飲んだ。
 紅を乗せた唇に、先刻までの妖しさはない。ただ、やはり見覚えのある慈母の微笑みだけが湛えられていた。
「のぎ……」
 よぎった名を紡ごうとしたが、彼女は自身の唇に人差し指を当て、制した。言うな、ということだろう。
 女人が軽く会釈した途端、芦雪との間に一陣の夜風が強く吹く。芦雪が瞼を閉じ、もう一度目を開けた時には、彼女は既に消えていた。
 四魂の証しである、赤錆のもやと菊花の白をあとに残して。
「……茜音あかね、お疲れさん。お前も戻れ」
 ものも言わず、ただじっと芦雪の傍らに控えていた茜音あかねを見上げる。
 先刻まで猛威を振るっていた鬼神の姿は、一体どこへ行ったのだろう。黄昏時の彩りを閉じ込めた瞳は、親に置いていかれる幼子のような心細さを湛えていた。百年と時が経っても、彼は甘えん坊のまま変わらない。
「そんな顔するな。……また会いに行くから」
 艶めいた褐色の頬を指の背で優しく撫でてやると、茜音あかねはようやく頷いた。
 彼の胸元で煌々と光る紅が一瞬、鮮やかさを増して。凛、と鈴音が鳴ると同時に、彼もその場から姿を消した。
 小さく息を吐く。芦雪は焦燥に跳ねる鼓動をどうにか宥め、片膝をついたまま微動だにしない男を見下ろした。 
「大丈夫か?」
 平静を装った気遣いとともに、手を差し出す。しばしの間があり、藤仁は迷うように顔を上げた。
 彼は眼前の手を取ろうと腕を伸ばし、双眸に芦雪を映した刹那、瞠目した。
「その、目……は……」
 藤仁の喉奥から絞り出されたのは、悲鳴染みた何か。それは最後まで紡がれることはなく、言葉尻は宙に浮いたまま、その場に留まっていた。
 先刻の男たちも口にしていた。「その目は」と。彼らが何を指しているのかが分からず、芦雪は小首を傾げるほかない。
 一方、藤仁の眼光は鋭くなるばかりだった。長い歳月をかけて研いだ刃で、芦雪の瞳の奥を一突きしてしまいそうな、黒々とした澱みが向けられている。
 頭の中では、「おや。わかりやすい子だな」と不遜な忍び笑いが響いていたが、芦雪が苛立ちを募らせるよりも前に、「あとは若いお二人で」などと余計な一言を置き土産に、すぐさま気配を消した。
 ふ、と肩にまとっていた重みが消える。身に宿った万能感は失せ、さざめきだった芦雪の心の湖面は凪いでいく。
 藤仁は何かを感じ取ったのだろうか。芦雪を射抜く黒鳶の眦はようよう緩み、力が抜けた視線は地面へと向かった。
 それに僅かながらに安堵して、芦雪は再び口を開いた。
「どうしてこんな時間に外に出てるんだ。危ないだろ」
「……眠れなくて、夜風に当たっていただけだ。そしたら……たまたま。居合わせた四魂に絡まれた」
「っ……お前……!」
 何故、この期に及んで藤仁は見え透いた嘘を吐くのか。喉元まで追及のげんが這い寄る。
 爪先が手のひらに食い込み、芦雪は己の無力さを思い知らされた気がした。
「……眠れないなら、次から俺を起こせ。お前が眠くなるまで晩酌してもいいし、話し相手にでもなるから」
 ──俺がお前のそばにいる。だから、全てをひとりで抱え込まないでくれ。孤独に慣れようとしないでくれ。
 芦雪は手に懇願を乗せて藤仁の腕を掴み、無理矢理に立ち上がらせるものの、嘘と沈黙を貫き通す男に、芦雪の秘めた願いが届くはずもない。藤仁は先刻とはまた異なった鋭さを眼に宿して言った。
「君は何故……、四魂を顕現させた? 俺との約束を忘れたのか?」
「それは……」
 ──人前で、四魂の宿った絵を描かない。
 今はもう慣れきった口上が、芦雪の脳裏をすり抜ける。
 芦雪は約束を破ってはいない。茜音あかねは守信の四魂だ。厳密には芦雪の四魂ではない。そのうえ、人前で四魂の宿った絵を描いたわけでもなかった。
 藤仁は、芦雪が直霊なおひの絵師であることを周囲に悟られないようにするため、このような約束を口うるさくさせているのだろう。それは人前で四魂を顕現させ、めいを下すことも含まれているに違いなかった。
 芦雪とて、物分かりの悪い幼子ではない。藤仁が結ばせた約束の意味に薄々気付いてはいる。だが、今の芦雪が藤仁から聞きたいのは、己を守るための言葉などではない。
「こんな非常時に何言ってるんだ。仕方ないだろ。そもそも、藤仁が危ない目に遭うようなまねを……」
「君は!」
 湿り気を含んだ闇が、小さく震える。
 黒鳶の瞳からは、剣呑とした光は既に失われている。ただ、泣きすがるような必死さのみがそこにあった。
「君は、どうして……! どうして、素直に守られてくれないんだ……!」
「藤仁……?」
「頼むから……。お願いだから……、四魂だけは……顕現させないでくれ……」
 藤仁の顔がゆっくりと近づく。彼は弱々しく身体を震わせながら、自らの額を芦雪の肩に擦り付ける。無骨な手が銀鼠の布地に皺を刻み、冷えきった吐息が耳端を掠めた。
「ごめん……」
 行き場を失った手で、藤仁の頭を撫でる。
 芦雪の口をついて出た一言は、交わした約束を反故にしたことへの謝罪なのか。それとも、今後も聞き入れてやれないことへの懺悔なのか。
 込めたはずの想いのかたちは、芦雪自身すらよく分からなかった。


 忍び寄る不穏の影が、星月とともに地平の彼方へ沈みゆく。ざわめきだった一夜は何事もなく明けたが、迎えた朝は芦雪の心と同じにび色を差し、冴えない空模様を描いていた。
(雨、降るだろうか……)
 朝餉を食べ終えた時、芦雪はふと、尋夢庵に足袋を忘れたことを思い出し、仕事前にと慌てて庵を訪れていた。その咄嗟の選択は悪手だったやもしれない。
 芦雪は重い瞼を擦りながら、霞む空を見上げてため息をついた。
 今朝、藤仁はやはり居間に現れなかった。
 なにせ、四魂と争ったのは昨日の今日だ。かすかに震えながら芦雪にすがりついていたことと言い、昨夜彼の身に何かあったのは間違いない。今も夢の中で、何者かの悪意にうなされているのかもしれない。
 そんな状態で起きた折に、苦手な雷雨に刺激されれば、藤仁は間違いなく癇癪を起こしてしまうだろう。より不安定になる可能性も否定できない。
 芦雪は足袋を履くと、庵を出て帰路を急いだ。 
(これは、まずいな……)
 身体の雲行きさえも怪しいと感じ始めたのは、武家屋敷の区画に足を踏み入れた時のことだった。湿った土の香りが鼻腔をかすめ、生ぬるい風が頬を撫でる。嫌というほど慣れた感覚が、芦雪の喉元を塞いだ。
「けほっけほっ……」
 ぬめり気のある咳が数回、漏れ出る。一筋の脂汗が頬を伝い、喉への閉塞感が不自然なほどに増していく。
 ヒュー……、ヒュー……と掠れた呼気が頭の中で響く。思考は自身の音に侵食され、絡みつかれたように動きが鈍くなる。
 思わず、近くの白壁に手をつく。空気を求める唇は震え、足からは力が抜けていく。
(薬……。発作の薬を、飲まないと……)
 芦雪は胸元をまさぐり、薬の入った印籠いんろうを探すが、陽の恵みを十分に受けていない白い手は空を切るばかりだ。
(……そうだ。すぐ戻るからと思って、文机の上に……)
 よりにもよって、芦雪の命を繋ぐ薬は流屋の自室に置いたままだ。江戸に来てから、普通の人間と同じ生活が送れていると過信したがゆえの隙だった。
 苦しい。息ができない。もう何年も抱えて慣れきっている感覚だというのに、頭がおかしくなりそうだった。
「誰、か……」
 ──助けて。
 咄嗟にこぼれた誰かとは、芦雪にとって一体誰を指すのだろう。
 熱と孤独を孕んだ、黒鳶色の瞳。視界に揺れる長き髪尾。墨に混じった藤花の甘い香り。
(こんな時でも……思い出すのはただ一人、か……)
 声にならない言葉が、思考の隙間から落ちていく。
 彼は庇護すべき相手だ。助けを求められ、それを受け入れはしても、その反対はありえない。芦雪が彼に助けを求めるのは、お門違いだ。
 だからこそ、早く帰らなくてはならない。他でもない、彼のもとに。
 雨が降り始めたら、彼はきっとまた泣いてしまう。涙を拭って頭を撫でて、長い髪を梳き、優しく抱きしめてやるのは、今は芦雪の務めだ。
 たとえ、かつての兄弟子の身代わりなのだとしても。彼をひとり、孤独の中に遺すわけにはいかない。
 芦雪の視界は、意思に反して歪む一方だった。手を伸ばした先に、求める者のかたちはない。では、眼前に迫る影は、一体誰のものなのだろう。
「……そなた、どうした。具合が悪いのか?」
 耳慣れぬ低い声音が、奈落に落ちかけた意識をかろうじて引き留める。芦雪の背にそっと手を添えたのは、名も知らぬ一人の男だった。
 黒檀を思わせる一対の瞳には、僅かながらに憂いの色が滲んでおり、整った鼻梁は品が良い。必要以上にものを紡がぬであろう唇はやや厚く、理知的に引き結ばれていた。
 泥の中、凛と佇む初夏の菖蒲に似た青年だ。まとう清廉さは、育ちの良さを示している。
 歳の頃は芦雪と同じ二十二、三か、それよりも少し上、と言ったところだろうか。
(腰のものは、二本差し……。着流しを召されているが、この方は……恐らく……)
 気を抜けば遠のきそうな意識は、なけなしの理性と思考を振り絞る。芦雪が青年から身を離そうとすれば、聞くに堪えない掠れた呼吸音が漏れる。青年は瞬く間に顔色を変えた。
「──こちらへ!」
「……どこ、へ……」
「今は私に従え。立てるか?」
 青年は芦雪の腕を掴んで自らの肩に回し、芦雪を立ち上がらせると、今まさに芦雪が手をついていた白い塀の向こう側──広大な武家屋敷の敷地内に足を踏み入れた。
 青年は慌てる門番を軽くいなし、足早に玄関へと向かう。
 下級武士といえど、芦雪にとって武家屋敷は見慣れたものだったが、運び込まれた屋敷の造りや敷地の広さは、芦雪の家よりも遥かに家格が上だと告げている。
 世に敷かれた身分と貧富の差を、こんな時でもまざまざと見せつけられた気がした。
「若様。お戻りなさいませ」
 慌ただしい外の様子に気づいたのだろう。下男が青年を出迎えるが、彼はそんなものは要らぬと言わんばかりに矢継ぎ早に指示を出した。
「出迎えは良い。今すぐ乾燥させた酔仙桃すいせんとう煙管きせる、火打ち石を私の部屋に用意しろ。すぐにだ。冬吾とうごに使っているいつもの量を持ってこい。一刻を争う」
「かしこまりました。すぐに」
 下男は指示を受けるや否や、瞬時に事の次第を理解し、すぐさま玄関から姿を消した。
光明みつあき! 光明はおらぬか!」
 青年は切羽詰まった様子で、別の名を叫んだ。
 瞬く隙もないままに、品位の欠片もない足音が玄関に響き、やがて一人の青年が現れた。
「若っ! 探しましたぞ! ……その格好、まさかまた一人で町に……」
「安心しなさい。まだ出る前だ」
「出るつもりだったんですね?」
「うるさい。そんなことより、麻杏甘石湯まきょうかんせきとうがまだお前の部屋にあったろう。すぐに私の部屋に持ってきてくれ」
「冬吾様の生薬を……? それは構いませぬが……」
 光明と呼ばれた青年は、かすかに芦雪へ視線を流す。初めこそ怪訝そうな様子であったが、芦雪の尋常ならぬ呼吸音と胸を突き上げるような咳の数々に、目を見開いた。
「この者も、冬吾様と同じ……」 
「私の知り合いだ。先程、そこで会ってな。察しの通り、喘病の発作が出ている」
「っ、すぐに薬を用意いたします……!」
 光明は現れた時と同様に、やはりせわしい音を立てながら走り去っていった。
「……騒がしくてすまぬな。ひとまず、私の部屋にてすぐに処置しよう」
 青年は困ったように眦を下げる。小さな嘆息には、やるせなさと諦めが含まれていた。


「落ち着いたか?」
「はい……」
 芦雪が青年の屋敷に運び込まれ、半刻が経った頃。青年に支えてもらいながらも、芦雪はようやく、唇から煙管きせるを離した。
 小さく息を吐き、芦雪は己が胸に手を当てる。
 規則正しい鼓動。乾いた息の音。開ききった喉元の感覚。症状は幾分か落ち着いたようだった。相変わらずの悪運の強さには呆れが先立った。
 発作は中等だった。江戸に来てから、時折熱こそ出していたものの、ここまでの発作に見舞われたことはなかった。芦雪が自覚している以上に、疲労が溜まっていたのだろう。
「喘病を患う者は皆、酔仙桃すいせんとうの煙を吸うと容態が落ち着くようだな。そなたも例に漏れなかったようで安心した。頭痛や吐き気はあるか?」
「頭痛、吐き気ともに問題ございませぬ。煙のおかげで喉元が開き、ようやっと呼吸が落ち着きました」
 芦雪は灰落としに丁寧に燃えかすを落とすと、煙草盆の上に煙管きせるを置いた。
 持ち運びやすいよう手が付けられた盆には、艶やかな黒漆に金の蒔絵まきえが施されている。
 煙管きせるを置いたものの、芦雪の視線はかの文様の美しさに釘付けになっていた。
 流水の中に松の生えた岩が配され、鶴が羽を大きく広げて飛んでいる。岩の上には亀も姿を現し、空を舞う鶴を羨ましげに見つめていた。
 やわく、長くひかれた流水紋は、画中に穏やかさと静寂を手招き、この世の風景ではない幻想的な雰囲気を際立たせている。
 更に目を凝らせば、手の金具にも長寿と結びつく菊枝が表されているのがわかる。実に吉祥に満ちた優品である。
 蓬莱ほうらい文様に菊の意匠が印象的なこの煙草盆は、使う者の健康と長寿への願いが込められた品だと容易に推測できた。
 芦雪は畳に額を擦りつけんばかりに、隣に座る青年に向かって平伏した。
「かたじけのうございます。本当に、何とお礼を申し上げれば良いのか……」
「気にせずとも良い。私も喘病の対処には慣れているからな。雨が降る前は発作が出やすいということも、よく知っている」
 青年は、なんてことはないと軽快に笑う。芦雪は恐る恐る顔を上げた。
 青年が下男らに指示を飛ばしていた折に、度々挙げられていた「冬吾とうご」という名。推測の域に過ぎないが、その冬吾という人物は青年の身内の者で、芦雪と同じ喘病を患っているのではなかろうか。
 何度も死の淵を覗き見るような病とともに生きているのは、芦雪だけではない。位の高い人間の身内でさえ抱えて、受け入れて、息をしている。
 身分は違えど、病は誰にでも等しく理不尽だ。それにある種の共感が湧いたせいか、芦雪は思わず青年に問うた。
「恐れながら……その……。ご家族のどなたかが喘病を……?」
 青年の睫毛が大きく上向く。暫しの間に、彼は壊れ物がこれ以上崩れぬよう、大切に包むようにして告げた。
「いや……。家族ではない。幼馴染だよ」
 黒檀の瞳が、暗色を濃くしたように見えた。
 何故、彼は諦めを含んだ眼差しで、煙草盆を見つめるのか。芦雪が怪訝に思っていると、青年は我に返ったように瞼を上げて微笑んだ。
「……名を、聞いていなかったな。私は春久はるひさ。そなたは?」
 敢えて苗字を省いたのは、萎縮している芦雪を慮ってのことだろう。芦雪は礼を尽くすように顔を伏せ、自らも名のみを名乗った。
「申し遅れました。私は芦雪、と申します」
「ろせつ……芦雪、か……。なんとも風雅な名よ。『河辺に咲く真白な芦の花に、川の両岸に積もる雪。どちらとも見分けがつかない程に美しい、一面の白』……。禅の詩偈しげ、『芦花両岸ろかりょうがんの雪、煙水一江えんすいいっこうの秋』が由来か?」
「左様にございます。芦雪は通称と号になりますれば……」
「号……? そなた、私と同じ武士の身ではないのか? 腰のものもあるゆえ……」
 不思議そうに頭を傾げた春久に、芦雪は瞬時に閉口した。
 江戸に来てから、「芦雪」という絵師としての名乗りに慣れていたからこそ忘れていたが、相手は恐らく旗本以上の武家だ。本来であれば、自らも武家としての名を名乗るのが礼儀である。
 芦雪は慌てて唇を開いては、「いや、でも……」と迷うように閉じ、たたらを踏む。様々な思考を走らせ言い淀んでいると、それを見ていた春久が先に口を開いた。
「あぁ、何も咎めているわけではない。単に不思議に思うただけだ」
 彼は苦笑を携え、発言の意図をひらいた。その優しさや気遣いは、年相応とも言えよう。
 彼の器の大きさと分け隔てない接し方に感嘆の息を漏らしつつ、芦雪は再び頭を深々と下げた。
「申し訳ございません。私は武家の出……ではありますが、その家格は春久様の御家よりも遥かに下。本来であれば、このようにお目通りもできぬ徒士の出ゆえ、春久様に御無礼があったかと……」
「家格など、今は気にするな。これも何かの縁。そう固くならずとも良い。偶然にできた友だとでも思うてくれ。春久、と気軽に呼んだって良い。私が許す」
「されど……」
「二度は言わぬ」
 有無を言わさぬ短いめいに、恐れ多さが背筋がなぞる。芦雪は畳の目に視線を擦りつけた。
 藤仁と出会ったばかりの頃、「名で呼んでくれ」と申し出た芦雪に対し、彼も今の己と同じような心地に陥ったのだろうか。
 思えば、あれから半年が経った。冬が溶け、春が去り、夏が訪れて。芦雪と藤仁の間に横たわる関係もその度に形を変えて、今に至る。
 月明かりのもとで交わした互いの名と、僅かながらの言葉。あの瞬間から、二人は始まったのだ。随分と遠いところまで来たように思う。
 芦雪は再び顔を上げる。穏やかに笑む春久の姿は、まるでかつての己を見ているようだった。
「……御意」
 芦雪から望んだ答えを得られ、春久も満足したのか、「それで良い」と彼は朗らかに笑い声をあげた。
「して、芦雪。号、ということは、何かしらの文芸を嗜んでおるのか?」
 下男に運ばせた白湯を芦雪にも勧めながら、春久は興味津々といった様子で問うた。
「文芸……。そう、ですね。まだまだ若輩ではありますが、絵を少々……」
「絵か! それはまた良いな。私には生憎とそちらの才がなくてな。教養として簡単な教えは受けたが、すぐに師に匙を投げられてしまった。今では専ら鑑賞側よ。門派はどこだ? やはり狩野派か?」  
「正式な弟子ではありませんが……。今は日本橋の流派ながれはで、手習い程度に教えを請うております」 
「そうかそうか。あそこの絵師は、装飾に富んだ美しい絵を描く。贔屓にしている商家の主人からの評判も良い。良いところに教えを請うたな」
 春久は芦雪の答えを聞いては頷き、笑みを深める。
 芦雪の容態は落ち着いたというのに、彼は追い出そうという素振りひとつしない。むしろ、ゆっくりしていけと歓待する始末だ。
 気を遣うなとは言われたものの、だからといっていつまでも図々しく居座るわけにもいくまい。奉公もあり、藤仁のこともある。それに、松乃にまた心配をかけてしまうだろう。
 きっと、彼女は眼を潤ませながらも精一杯に目尻を吊り上げ、小言を募らせる。芦雪は妹分のお叱りにめっぽう弱かった。
 話を早々に切りあげるべく、芦雪はそれとなく話題を変えることにした。
「……そうだ、春久殿。俺を助けてくださった時、どこかへお出かけされる予定だったんですよね? すみません、邪魔をしてしまいました」
「あぁ……、いや。出かけると言っても、すぐ側の、ある場所にちと用があっただけだ。気にするな」
 やわらかく口端をもたげた春久だったが、ほんの僅かに、彼の唇が何かをためらうような素振りを見せた。ひとに言いづらい場所にでも行くつもりだったのだろうか。
 現に、彼は生真面目そうな人柄には幾分似合わぬ着流しを、ゆるく身にまとっていた。
 また、先の光明みつあきの言動からして、供も連れずに目的地を訪れたいようだった。彼は一体、朝早くからどこへ行くつもりだったのか。
 いらぬ好奇心が、芦雪の中で軽快に足踏みし始めている。それをどうにか宥めながら、芦雪はいとまをもらう時機を見計らった。
「……芦雪。そなたは、その……尋夢庵、という名の庵のことを知っているか?」
 心臓の音が大きく脈打つ。部屋にまで渡ったのではないかと錯覚し、芦雪は思わず顔を上げた。
「尋夢庵……にございますか?」
「あぁ……。なんでも、ある一人の絵師が悩みを抱える者のために絵を描いているという。その者が描いた絵をひとたび飾れば、悩みはたちどころに消え失せるらしい」
「それはまた……御伽草子のような話で……」
 芦雪は、知らぬ存ぜぬと乾いた笑みを浮かべることしかできない。
 まさか春久の口から尋夢庵の名が出てくるなぞ、一体誰が考えただろう。その庵の絵師の「顔」は、貴方の目の前におりますとも到底口に出すこともできず、芦雪は緊張で波打つ胸元を押さえた。
「先刻は、その絵師が住む庵に行くところだったのだ。どうしても会うてみとうてな」 
「そう、なのですね。ですが何故……その尋夢庵の絵師に会おうと思われたのです?」
「……叶えてもらいたいことが、あってな……」
「叶えてもらいたいこと……?」
 瞬きの沈黙が場をならす。芦雪が固唾を飲んだ音が、やけに大きく響いた。
 影を落とす春久の睫毛が上がり、憂いを含んだ黒檀の瞳が現れる。彼はまだ見ぬ怪画絵師に向け、ささやかな願いを告げた。
「幼馴染の……余命幾ばくもない冬吾と、最期に蓮の花を見に行きたいのだ」