第十七筆「良師」

 天の恵みが一日、二日と減り、栗花落つゆりの季節がようやく明けた頃。入れ替わるように、蝉声せんせいの微雨がちらほらと降り始め、煩わしい暑さが江戸を訪れていた。
 日本橋も例に漏れず、人の忙しなさに加えて溽暑じょくしょは勢いを増している。そんな今が稼ぎ時と言わんばかりに、昼前から冷や水売りの「ひやっこい、ひやっこい」という張りのある掛け声が通りを響き、母屋にいた芦雪の耳にも届いていた。
(冷や水……飲みたいなぁ……)
 渇いた喉に水を流し込んで得られる、あの爽快感。喉を鳴らして水を身体に招き入れたあと、内から伝わる冷気に大きく息を吐く。こうして想像しただけでもたまらない。清冷の水に白糖、もしくは白玉を加えて涼を取るのもまた一興だろう。
 藤仁の画室に漫然と座ったまま、芦雪は人知れず生唾を飲み込んだ。
 暑さへの逃避から、芦雪は眼前の男に目を戻す。相変わらず、彼は沈黙を守っている。自身の頬をなぞる汗に気を取られることもなければ、芦雪を見据えるでもない。
 ただ、手にした一枚の紙面を音もなく見つめていた。
「……どう?」
 先に沈黙を破ったのは芦雪だった。期待の色も声音に混ぜ、動かぬ藤仁の口元を恐る恐る見守る。
(今回は、上手くできたと思うんだが……)
藤仁が手にしている紙は、芦雪が描きあげたばかりの模写だ。今はその出来栄えを見定めている時間である。
 何を言われるか気が気でない芦雪とは反対に、藤仁は未だ何かを考えているようだった。現に、問いかけへの返答はなく、口元に指の背を宛がったままだ。
 ただ待つばかりの状況に耐え兼ね、芦雪は尻下にある足先をもぞもぞと動かす。沈黙が続くたび、不安と焦りは大きくなっていくばかりだった。
 どうにも間をもてあまし、やはりもう一度、藤仁に視線を預ける。
 長い指が、形の良い唇を薄らとなぞる。数日前、雨中にまぎれて芦雪はあれに吸い付き、またあれも芦雪の汗ばむ肌にすがるように触れていた。
 行為に慣れはしても、事実は記憶となって不意に蘇る。生娘でもあるまいし恥じらうことはないが、自然と想起してしまうのは別段おかしなことでもあるまい。
「……芦雪」
 雨降る夜のものよりも幾分低く、親しみのみが溶け込んだ名の音。思考にかかっていた霞は儚く散り、意識が現実に引き戻された。
「あっ、う、はい!」
 もつれる舌をどうにか動かしながら藤仁を見れば、涼やかな目元には幾分似つかわしくない、やわらかな眼差しがほどけていた。
 その視線は、「よくできている」と芦雪の腕前を認めた甲の意を宿しているのか、はたまた「もう少し頑張りなさい」と哀れみを込めたていの意を示しているのか。
 場の空気を濁すように、芦雪はへらっとだらしのない笑みを浮かべてみせる。藤仁は、それに眉根を寄せて不快感を示すでも、嫌悪感を含ませるでもない。口の端を少しばかりもたげ、たおやかに言った。
「全然だめ」 
「だああああああ!!
 年下の師より放たれた結果は、普段と変わらぬてい評価であった。
 かすかに灯っていた期待はあえなく霧散し、落胆の重しが心の湖面に沈んでいく。広がる波紋は芦雪の手から力を奪い、握りしめていた愛用の筆が床上を転がった。
「今回こそは」と、何度目と分からぬ模写に挑んだというのに。
 此度の画題は得意の走獣であったし、常よりも筆先が走っていた。少なからず己の中では自信のある出来栄えだった。それだけに、湧き上がる口惜しさは尋常ではない。
 行き場のない感情を持て余し、芦雪は行儀悪く両足を投げ出してその場に寝転んだ。
「あー!! もー!!
 幼子よろしく手足で宙を掻いたが、得られたのは藤仁のため息だけだ。彼は現実を見ろと言わんばかりに、手にした紙の表面を反転させる。視界の端には見たくもない不合格の絵がちらつき、余計に悔しさが募った。
「前にも言ったろう。ここ、手癖で描かない。絵手本をしっかり細部まで見ろ」
「見てますぅ……」
「では何故、敢えて太めの線を加えて力強さを出しているんだ? 模写に自己を入れるな。これでは見ているとは言わん。模写を何のために行っているのか、その認識から改めないと、いつまで経っても上達せんぞ」
 突き放すように正論を並べられ、ぐうの音も出ない。藤仁の指摘が正しいとわかっているからこそ、今ばかりは素直に認めることが難しい。
 起き上がる気力も湧かず、芦雪は横になったまま頬を膨らませた。 
「……芦雪。君、飽きてきているだろう」
 投げ出した足先が、かすかに震える。かりそめとはいえ、流石は師である。彼の言葉は芦雪の図星を的確に突いていた。
ひとりで黙々と模写に励んでいた頃は、飽きるという感情とは無縁だった。師と呼べる者はゆかり以外に作るつもりもなく、彼と再会できる日を心待ちにしながら、ただ自身だけを信じて、無我夢中に絵と向き合ってきた。
 選ぶ画題もいつ描くのかも、何をするにも決定権は自分にしかない。それは自由でこそすれ、「果たして己に技量はともなっているのだろうか。これは正しい鍛錬法なのだろうか」と、焦りと懐疑も同時に育てあげる。
 そのうえ、御用絵試への刻限は着実に迫ってきている。常に不安に苛まれ、模写に飽きるどころかいくら描いても描き足りないような心地さえした。
 師という指標がないことは、自由でありながらやはり心もとないものだった。星月のない闇夜をさ迷うように、少しでも気を抜けば、自分がどこにいるかさえも分からなくなる。
 藤仁から絵の指南を受けるようになってそれをつくづく実感し、感謝もしている。
 一方で、彼が師となってから、絵への向き合い方が日々形を変えているのもまた事実だ。
 芦雪の絵の長所はどのような部分で、反対に短所はどこなのか。短所を補うために今必要な処置は何なのか。さすがは流屋の筆頭絵師とも言うべきか、藤仁は芦雪の模写を通して、芦雪の悪癖を浮き彫りにしては、今のように根本から叩き直していた。
 良い意味で自由が恋しく、また模写に飽きるようになったのも、藤仁が師にならなければ知りえなかったものだ。
 芦雪はうつ伏せになり、両肘を床について顔を持ち上げると、恨めしげに藤仁をひと睨みした。
「だって……。お前に絵の指南を受け始めて、早ふた月経ったけどさ。ずーっと決まった草花図か走獣の絵手本を模写するばかりじゃないか。つまらなくもなる。たまには自分で選んだ画題で自由に描くとかさぁ……。他にも方法はあるだろ? ……ね、だめ?」
 目の前の男には暖簾に腕押しに過ぎないと分かっているが、上目遣いで小首を傾げてねだってみる。
 一粒の汗が、藤仁の頬から滴り落ちる。皺ひとつない青褐あおかちの膝上には薄い染みが作られ、やがて消えていく。
 無音のさなか、視線だけが絡み合う。陰を含んだ瞼が重たげに降りて、藤仁はようやく口を開いた。
「だめ」
「ケチ!」
 芦雪は精一杯になじったが、何処吹く風か。藤仁は、普段の立ち居振る舞いからはよほど考えられぬ淀みのなさで、再び唇を動かし始めた。
「絵における『線』は基本だ。複数の画題に対しても、一定の太さで引けるよう身体に叩き込む。自由に描くのはそれからだ。君は観察眼こそ長けた絵を描くが、細部の描き込みや画題の数が多い場合には、途中で飽きる傾向にあるだろう。そのせいで、美しく引かれていたはずの輪郭線に荒々しい雑味が入って、彩色も単なる誤魔化しに……」
「あーあーあー! 分かった、分かったってば!」
 藤仁の指南は、いつだって的確で正しい。彼の教え全てを聞く必要はどこにもないが、その指摘は誰よりも芦雪の中の「正解」に近しいのも事実だ。ゆえに、反論の余地は全くと言って良いほどになかった。
 何より、藤仁は誰よりも絵に真摯で、正確無比の技を腕に宿している絵師だ。芦雪が思い描く正解を最も深く理解し、実現させているうえ、現に客や兄弟弟子からも彼の技量は厚く信頼されている。反抗という選択がいかに愚かか、芦雪とて分からぬわけではない。
(それに……。藤仁は俺にとって……)
 思わず唇を噛む。芦雪は藤仁を恋い慕う以前に、絵師としての彼を心から敬愛している。だからこそ、その正しさが好ましくもあり、時に腹立たしくもあった。
「ちぇっ……」
 どうしてだか、藤仁の全てに負けたような気がして。拗ねたように口先を尖らせつつ、芦雪はゆっくりとその場から立ち上がった。
 藤仁の手から己の模写を奪い、床に落ちた筆を拾って座り直す。己の不出来具合をまじまじと見返したくはないが、これも絵試に挑むために必要なことだ。
(絶対に……絶対にだ。模写地獄は来月……は無理かもしれないが、せめて夏中に終わらせる。秋までには『君に教えることはもうない』って藤仁に言わせてやるからな!)
 恨み言のようなものを呟きながら、命が宿る前の紙面に今一度向き直る。黒の水滴を僅かに跳ねさせながらも、芦雪が筆先を墨で濡らし始めれば、藤仁は驚いたように目を見開いていた。
 けれど、それも刹那のことで。切れ長の眦は穏やかに緩み、唇には息をこぼすような笑みが携えられる。
「舌打ちしない」
「……うるさいな」
 これでは、どちらが兄で弟か。たしなめ、たしなめられる軽快なやり取りを交わしていた時、昼九つを知らせる時の音が、画室を渡った。
「……っと。納品の時間か」 
「あぁ……。今日だったか」
「そ。ちょっと行ってくる」
 藤仁が芦雪の師となってふた月。それは、芦雪が尋夢庵の主・写楽の顔となってふた月が経ったのと同義である。その間に受けた依頼は片手で足りるほどだったが、特に困ったことも起きず、芦雪は何の問題なく藤仁に成り代わり、写楽として機能していた。
 芦雪は、部屋の隅に置かれた箪笥の引き手を手馴れた様子で引っ張り、中から一つの巻物を取り出す。巻緒で丁寧に封がされたその外題げだいには、「比翼連理花鳥図」と記されている。これから依頼人に納品するもので間違いない。
「納品は一つだから、すぐに帰って来れそうだ。ついでに、新しい依頼書がないかどうかも見てくるな」
「わかった。……昼餉はどうする?」
「お前が飯の心配をしてくれるなんてな。ふふっ、昼から雨かな?」
 意地悪く口端を引き上げて揶揄からかえば、藤仁はばつが悪そうに顔をしかめていた。
 造形の整ったかんばせが歪むたび、言いようのない愉悦がさざ波のように押し寄せる。全てに負かされてばかりだと思っていた弟分に対し、してやった気分だ。
 芦雪は藤仁の隣に腰を下ろすと、小さく笑い声をこぼしながら彼の肩に腕を回した。
「そんなに拗ねるなよ。どこかで適当に見繕って食べるから。お松にはいらないって昨日のうちに言伝ことづててあるしな。……そうだな、いい子でお留守番してる藤仁くんのために、兄上様が土産でも買ってきてやろうか?」
「必要ない。子ども扱いするな」
 つい先刻まで、己が不貞腐れていたというのに、今は形勢逆転である。藤仁の長い睫毛は少しばかり伏せられ、輪郭の整った頬に小さな影を落としていた。
(おや。本当に拗ねちゃって。こういうところが可愛いんだよなぁ)
 心の端に愛おしさが滲んでいく。お互いに好き合っていたのなら、両腕で力いっぱい抱きしめても赦されるであろうに。
 いくら夢想したとて、それができる立場になるわけもない。結局、宙をさ迷っていた芦雪の手は、幼子の頭を軽く撫でるに留まった。
「……さて。では、行ってくるとしようか。昼餉は何を食べようかなぁ」
 希望に満ちた爛漫な声音。やわらかく蕩けた眦。緩く持ち上がる口端。藤仁が望む普段通りの姿を身におろし、芦雪は再び立ち上がった。 
 相変わらず緊張感の欠片もなく、飄々とした様子に不安を覚えたのだろうか。藤仁も釣られて腰を上げると、歩き出した芦雪の後を追ってきた。
面布かおぎぬは?」
「持った!」
「刀も。自分の身分を忘れるな」
「生憎、あってないような身分だから、忘れても問題ないですー」
 藤仁との他愛ないやり取りが、木漏れ日のように廊下を照らす。
 たとえ、好き合っている関係ではないとしても。互いの淋しさを埋めるために利用し、利用されるだけの、身体のみの繋がりだとしても。
 ──こうして藤仁の隣で笑って、また彼を揶揄からかえるなら、己は十分幸せ者なのだろう。
「……なにを笑っているんだ」
「ふふっ。なんでもないよ。じゃ、行ってくる」
 芦雪は草履を履き、軽やかに土間へと降り立つ。藤仁の視線に見守られながら、慣れた動作で勝手口の引き戸に手を掛け、芦雪は庵への道のりを一歩踏み出した。
「待て」
 伸ばした足先が宙を掻く。振り返って藤仁に目を戻せば、黒鳶の水面には言いようのない不安が広がっており、芦雪のまなこにまで波を寄せた。
 何故呼び止められたのか。何を憂慮することがあるのか。物言わぬ彼は、いつだって芦雪には言葉足らずだ。
 やはり、今日もとんと理解が及ばず、芦雪は先を促すように小首を傾げた。
「……紅、さし忘れてる」
「へ? ……あ、やべ」
 言われてみれば、今日はまじないを施そうと目尻に触れた覚えがない。芦雪が慌てて草履を脱ごうと足に手を掛けたところで、藤仁がそれを制す。彼は深い吐息をその場に残し、一度母屋の中へと引っ込んでから、紅板と筆を携えて戻ってきた。
「少し……上を向いて」
「お、藤仁くん自らやってくれるのか? これはありがたい」
「こら。動かない」
 芦雪の茶化しは、あっという間に輪郭を失う。節のくっきりとした手が芦雪の頬に添えられ、色を濃くした瞳が芦雪を見つめていた。
 二人を隔てるのは、僅かな空白のみ。芦雪がほんの少し足先に力を入れて顔を寄せれば、口付けができてしまえそうな距離だ。
 とはいえ、よく晴れた夏の真昼間に藤仁がそれを求めることはなかろうて。彼は水で溶かした紅を筆先にまとわせると、芦雪の目尻に鮮やかな軌跡を引いていく。
「……尋夢庵における鉄則は?」
 藤仁の問いが、無為の沈黙を飲み込む。
 写楽に成り代わる時に投げられる、今はもう耳に染み付いたお約束だ。芦雪はいつものように胸を張って、揚々と答えた。
「『武士からの依頼は受けない』!」
「人前では?」
「『四魂の宿った絵を描かない』!」
「先日、君が俺に約束したことは?」
 抜き打ちの質問に、今まで調子の良かった唇は途端にぎこちなくなった。
 芦雪は約束を忘れたわけではない。決して。何かしらした覚えはあるが、記憶によればいくつか候補が挙がるのだ。ここではどれを選ぶのが正解だろうか。芦雪の口は錆び付いたように薄く開いては閉じてを繰り返し、視線は上に下にとさ迷った。
「えーっと、どれでしたっけ。思い当たる節があり過ぎて、どれがどれだったか……」
「ははは……」と乾いた笑いを絞り出せば、藤仁は指で紅を薄く伸ばしながら、何度目と分からぬため息を落とした。
「『予定外の寄り道をしない』。それと、『余計なお節介を焼かない』。……いいな?」
 余計なお節介とは、先日、芦雪が通りすがりに諍いの輪に飛び込んだことを指している。悪漢に絡まれた町娘を助け出したおかげで彼女に怪我はなかったものの、彼女を庇った芦雪が怪我を負った。本末転倒な話である。
 結局、芦雪が得られたものといえば、娘からの大仰な礼と肩口にできた大きな痣、おまけに松乃と藤仁からのありがたいお叱りだけだ。
 考えるよりも先に身体が動いてしまうことは、ままあるものだ。仕方のないことだと芦雪は思っていたが、藤仁にとってはそうではなかったようで、先のように「二度と余計なお節介を焼かない」と約束させられ、今に至る。
 藤仁の指先が目尻から離れ、芦雪にやわくかかっていた影も遠のいていく。
「返事は?」と念押しの一言が添えられて、芦雪はようやく我に返った。
「今日はきっと大丈夫だ。藤仁に魔除けの紅も塗って貰ったしな。この芦雪兄上さまに任せなさい!」


「尋夢庵の写楽」という存在は、一筋の蜘蛛の糸のようだと思うことがある。
 哀しみ、苦しみ、憎しみ、愛おしさ。やり場のない、形なき情に溺れ喘ぐ依頼人に寄り添い、心を砕き、四魂を従えて手を差し伸べる。
 写楽が──藤仁が庵を開く本当の目的が何であれ、人々の力になりたいと己の力を揮い続ける姿に、嘘偽りはないはずだ。
 ──では、藤仁には?
 人々のため、身を削るように四魂を生み出す彼が苦しんでいるとき、一体誰が彼に手を差し伸べてくれるのだろう。
「此度は、本当にありがとうございました」
 安堵に満ちた声にはっとして、芦雪は面布かおぎぬの端を揺らす。大事そうに木箱を抱えた依頼人の男が深々と頭を下げる姿が、薄い布地越しに映った。 
「……いえ。お気をつけて」
 人々が思い描く怪画絵師の微笑みを宿し、芦雪は依頼人の背を見送った。
(……今回も問題なく終わったな。以前来た采梅あやめとかいう男みたいな、裏のある雰囲気もなかったし)
 男の姿が見えなくなったのを見計らい、芦雪は再び庵へと戻った。
 芦雪が写楽の顔となってふた月。桁外れの報酬と画所えどころへの紹介状、藤仁の父親の形見を置いていった采梅あやめのような依頼人は、未だ現れていない。
 早々訪ねてくる種類の人間ではないし、尋夢庵の仕事においてそう警戒する必要はないことも分かっている。ただ、妙な胸騒ぎが芦雪の心を駆り立てているに過ぎない。
「はぁ……。疲れたな……。色々と……」
 写楽の在り方も。藤仁の真意も、抱える苦しみも。答えのないことも、考える必要のないことすら延々と考え、ただ思考だけが摩耗していく。
 深く息を吐き、面布かおぎぬの紐を解く。写楽の顔を脱ぎ捨て、芦雪は誰もいない八畳間の中心に、大の字になって寝転んだ。
 天井に庭池の水面が反射し、ぼやけた影がゆらゆらと揺れている。まるで水底から地上を見上げているようで、魚にでもなった気分だ。
「魚……。昼餉は天麩羅屋台にでも行くか……」
 考えることを放棄した頭は影とともに穏やかに波打ち、目前の予定について思案する。
 畳の上に沈めた身体が重い。瞼も視界を遮ろうとしている。起き上がりたくない。何かを食べるのも面倒だった。
 何も考えず、夢の中に深く深く意識を沈ませてしまいたかったが、藤仁に「早く帰れそうだ」と言ってしまった手前、ここで長々とまどろむのも気が引けた。
 重い身体をどうにか起こす。漫然と宙を見据えた時、書棚が芦雪の目端を掠めた。
(そうだ、納品帳記を書かないと。すっかり忘れてた……)
 納品帳記は、これまで写楽が描いた作品について概要をまとめたものである。主に依頼内容と納品日、作品の写し、宿した四魂について綴られ、尋夢庵の足跡として前代から引き継がれている。写楽に成り代わるようになってからは、芦雪が記録を請け負っていた。
 意地でも立つことを嫌がる脚を慮り、芦雪は赤子のように這いながら書棚の前へ向かう。棚の中には、数冊の書物が横置きに積み上げられている。目的のものを手に取ろうと手を伸ばしたものの、それはぴったりと天板に吸い付き、なかなか離れようとしない。
「誰だ、こんなに隙間なく無理やり入れた奴……! ……俺だ!」
 過去の自分をなじりながら、芦雪は両手を使って書物の端を引っぱり、少しずつ手前にずり寄せていく。しばし格闘し、山吹色の表紙が半分ほど見えてきたところで、それを力いっぱいに引き寄せた。
「よし、取れた! ……っ、わあああ!」
 目的のものは取れたが、帳記の下に積まれていた他の書物までもが畳の上に落ちていく。書物の雪崩になすすべもなく、芦雪は眼前の惨状にただ息を吐いた。
「やれやれ……」
 散らばった書物を拾い上げては、少しずつ棚の中に戻す。徐々に畳の地が姿を現し始め、しばしの時をかけて、ようやく最後の書物を手に取った。
 頁の端が擦れ合い、乾いた音がかすかに生まれる。先の動きに倣ってそれも棚にしまおうとすれば、紙よりも鮮やかな白が畳の上に落ちた。
「ん……? 何だ……?」
 紙間に現れたそれを手にして、まじまじと見つめる。季節外れの冷たさを閉じ込めた淡い香りが、揶揄からかうように芦雪の鼻先をくすぐった。
 雪花の如く、六つから成る白き花弁に、天を見上げる橙の眼。それらは薄い紙に貼り付けられ、もとの瑞々しさと立体感はとうになかったが、見覚えのある瑞兆花としての威厳はそのままだった。
「水仙の押し花……? これまた、しゃれたのが出てきたな」
 書物から滑り落ちたのを鑑みるに、この押し花は栞として用いられていたのだろうか。
 押し花を挟んでいたであろう箇所は開き癖がついていたようで、身に添えられた芦雪の指をかわすように、頁が自然と開かれていく。空気を含んだ紙端は、やがてぴたりとその動きを止めた。
 ──弥生 愛宕あたご山にて。
 月日と場所のみが淡々と綴られた、見覚えのある流麗な筆跡。簡素な文字の下には、桜の折枝や花びらの写生が配され、過ぎ去った春が精緻な線で紙面を彩っている。
 だが、紙上で息づいているのは墨の桜だけではなかった。
「これ……俺……?」
 無邪気に満面の笑みを浮かべた顔。何かに驚き、目を見開いた顔。舞い落ちる花びらを静かに見つめる横顔。口元に米粒をつけ、ほのかに頬を膨らませている顔。
 そこには、己がよく知る男の──否。
 正しく、芦雪の表情を画題とした写生が施されていた。
 慌てて見返した表題には、「画帖」とだけ記され、他の頁も一貫して草花や風景の写生、または何かの絵の写しで満ちている。所々に身を置く文字の筆跡と綴られた年月から、藤仁の過去の画帳であることが推測できた。
(『弥生 愛宕山にて』ってことは、この写生は以前行った花見の時に……? ……いや、待て。あの時、藤仁が俺を見ながら筆を動かしてたのって……)
 ──ありえない。あの藤仁が?
 目下の画帳が、その「ありえない」を平然と否定している。これは藤仁自らの意思のもとで生まれるに至った絵なのだと。
 しかし、藤仁が芦雪の表情を写すなぞ、一体何の理由がある。それも一つ一つの表情を細やかに、ましてや本人よりも遥かに魅力的な者として描くなぞ。
 芦雪は恐る恐る、墨で形作られた己を見つめ直した。
(藤仁から見た俺は……こんな顔をしてるのか……)
 春の花弁を巻き込み、どこまでも自由に吹き荒れるような、爛漫な笑み。喜怒哀楽を惜しげもなく晒す瞳。
 希望に満ち溢れ、闇や穢れなどは欠片ほども見えない。藤仁の視界を通して見る自身の姿は、あまりに眩しかった。
「そっか……。そっかぁ……」
 膝から力が抜けていく。芦雪は、だらしなくその場にへたり込んだ。
 花見の折、芦雪も藤仁の顔を盗み見ては、彼を絵に起こしていた。これまで目にしてきた藤仁の表情を、ひとつひとつ。
 どうすれば、藤仁は自分に笑いかけてくれるのだろう。そんな、身勝手な願いを筆に宿して。
 あの時の藤仁は、芦雪と同様に、何かを思って芦雪を描いていたのだろうか。
 彼が芦雪に抱く気持ちは何であれ、花見のほんの一時の間でも、藤仁の心に住めていた。その事実を、眼前の絵は雄弁に物語っている。
(過去の一瞬でも、藤仁の心に俺がいたと知れただけで……今の俺には過ぎた幸せだ) 
 内に広がる途方もない喜びを大切にしまいこむと、芦雪は瞼を降ろし、深く息を吐いた。
 望み、期待、思慕。その全てを、吐息とともに捨て去るように。
 押し花の栞を元の頁に挟んだあと、他の頁に損傷がないか、画帳の中身が見えない程度にざっと頁を手繰る。全てに問題がないことを確認し、芦雪は胸を撫で下ろした。
 そのまま表紙を閉じようとした時、見覚えのある形が視線を引き留めた。
(この紋様……俺の……)
 万華鏡の如く、小さな花弁を幾重にも重ねた一輪の花。芦雪の虚弱な身体を現世に繋ぎ止めている、薬守りの紋。
 藤仁の画帳の一頁目に息づいていたのは、芦雪の印籠いんろうの──三椏みつまたの花紋の写しだった。
 写しの周囲には事細かに多量の文字が綴られていたが、そこに普段の流麗さはない。
 書いた本人は相当に慌てていたのか、大半が墨の滲みで潰れており、読み取れる単語も僅かだ。芦雪は目を凝らして、荒れた筆致をたどった。
(『依頼人の願い』『父上の奇魂くしみたま』『呪い』……。『はくの表出』『万桜の守り』……? これは、どういう……)
 依頼人の願い。父の奇魂くしみたま。呪い。繋がりも脈絡もないはずの言葉たちによって、過去に放たれたげんが洪水の如く呼び起こされた。
 ──確か、写楽という名の絵師だったか。お前が持ってる印籠いんろうの……三椏みつまたの花の絵に奇魂くしみたまを生み落としたあいつだ。お前が幼い頃にあの絵師から奇魂くしみたまの呪いを受ける前は、それはよく二人で一緒に遊んでいたものだよ。
 ──この絵は、庵の守り絵なのです。亡き父が私たち兄妹に……「写楽」に遺してくれた、鶯の四魂……。
 ──尋夢庵はそもそも、先代の写楽……子どもたちの実父が遺してくれた、数少ない大事なものだから。
 夢の中で突然会えなくなったのは、写楽の施した奇魂くしみたまのせいだと憎々しげに漏らしていた守信の愚痴。
 尋夢庵に飾られた鶯の絵の四魂、雛梅は、直霊なおひの絵師である父が描いたものだと述べた松乃の懐古。
 尋夢庵の主である写楽の先代を務めていたのは、兄妹の実父である綾信だったと告げた野菊の哀思。
 芦雪は懐をまさぐり、手に馴染んだ印籠いんろうを取り出した。
 花紋には亀裂が入っているものの、漆の黒き艶はそのままだ。三椏みつまたの花は、ただ己に課された薬守りとしての役目を、今なお楚々として果たしている。
(まさか……この印籠いんろうの紋様は、先代の写楽が……綾信殿が施したもの……?)
 守信の言葉と藤仁の画帳の写しに間違いがなければ、三椏みつまたの花紋には元々四魂が──奇魂くしみたまが宿っていたことになる。
 江戸へ着いて以降、気づかぬうちに紋にひび割れができた影響か、今や四魂の名残は見る影もない。宿った魂は破壊され、三椏みつまたの花に戻ってくることも未来永劫ないだろう。
 物心ついた時から、「決して手放してはならぬ」と父に持たされている薬入れを、芦雪は怖々と見下ろした。
 画帳の走り書きに「依頼人の願い」と綴られていることから、綾信に三椏みつまたの花を描くよう依頼したのは、恐らく芦雪の父だ。写楽に願ったということはつまり、彼はどうにもならない悩みに──幼い芦雪にまつわる何かに苛まれていたことを示していた。
 やはり、芦雪の身体に関する悩みだったのだろうか。たとえそうだとして、何故、綾信は癒しを司る幸魂さちみたまや守護を司る和魂にぎみたまではなく、精神を司る奇魂くしみたまを紋様に宿したのか。
 奇魂くしみたまが失われた今、身体にこれといった異変はない。そもそも、これまで奇魂くしみたまにどのような力を受けていたのかすら自覚がなかった。守信や藤仁の言う「呪い」も、一体何を指すのか分からないままだ。
(父上に……久しぶりにふみを出すか。三椏みつまたの花からは四魂もいなくなってしまったしな。その報告をすればあるいは……写楽に願ってまで叶えてもらいたかったことも、印籠いんろうをずっと持たせてくれた意味も教えてくれるかもしれない)
 芦雪は画帳を閉じ、青褐あおかち色の表紙を撫でた。
 互いの父親の間に、希薄とはいえ過去に繋がりがあった。その事実に、心臓の血潮は音をたてて脈打っている。
 そもそもいつ、どこで、そして何故、藤仁はかの紋様を写し、あまつさえ錯乱したように走り書きを残したのか。藤仁への溶けぬ不安と疑問は、日に日に降り積もるばかりだ。
 血の鳴動が、煩わしい耳鳴りに変わる。芦雪はただ、肌守りを握りしめ、脈打つ痛みに耐えることしかできなかった。


 世は短夜に染まりつつあるというのに、不遜な男が支配する夢の中は、芦雪にとってはいつだって長く感じられる。
 相変わらず、あたりは烏夜うやの色に満たされ、美しい星月すら見えやしない。自身以外に何もないこの虚空こそが、あの男の趣味であり本質の現れなのかもしれない。
 芦雪は不貞腐れた表情のまま地に腰をおろし、そう思案した。
「私がいる時に考え事とは、随分と大人になったものだね、眞魚まお。もう少し眉間の皺を取ったらどうだ」
「うるさいな。考え事ぐらい自由にさせろ。あと皺はお前のせいだ」
「ふふ。そうか、私のせいか」
 軽やかに忍び笑いをこぼすのは、この夢の主である守信である。
 彼に遠慮という言葉は存在しない。現に、守信は芦雪の背後に座し、芦雪の背に隙間なく己が背を預けている。降りかかる重さがひどく煩わしく、芦雪は時折それを押し返したが、音の外れた鼻歌が返ってくるだけだった。
 芦雪はささくれだった心を宥めようと、大きく息を吐いた。
「で? 夢の中でまでしなければならない考え事とは何だ? 人生の先輩として、この私が聞いてやろう」
 何故こうも、守信は自信に満ちあふれ、芦雪の先達に値する人間だと自負できるのか。全くもって理解不能だった。
 守信は芦雪の肩口に頭を乗せて首を逸らし、反転する世界を臨んでいる。朽葉色の瞳は星を宿したように煌めき、楽しげに芦雪を見つめていた。
「……守信」
「ん? なんだ?」
 兄が弟を想うような、親愛を込めた声が応える。名を呼ばれるのが嬉しいとでも言いたげに、声色は喜色に満ちていた。
「お前は……過去の俺、なんだよな」
「そうだよ。お前は私で、私はお前だ。私は過去のお前の姿であり記憶であり、今のお前でもある。……まぁ、今の私はこんの欠けたはくであって、厳密には完全な私ではないし、眞魚まおそのものでもないけれど」
 いかにも楽しくてたまらないと言いたげに、守信は大仰に両手を広げてみせた。
 やはりこれまで推測してきた通り、守信は過去の芦雪であり、記憶なのだ。彼はそれが具現化した存在に過ぎない。いわば前世に近しいものであろう。
 そんな荒唐無稽な話があってたまるかと言いたいところだが、四魂や直霊なおひの絵師こそがこの世の条理を逸した存在だ。守信のようなものがいたとて、今更おかしくはない。守信に常々嫌悪感を抱いてしまうのも、自己嫌悪に近いものと思えば納得がいく。
 推測をもとに、芦雪が守信という不可思議な存在に理解を深めていくなか、自然と湧いたもうひとつの想像が口内を乾かしていく。芦雪は狭まった喉をようよう開きながら、硬くなった唇をそぞろに動かした。
「それなら、守信は……」
「どうした。今日はやけに質問が多いな」
「過去の俺である……守信は……。狩野探幽、だったのか?」
 朽葉色が僅かに眇められる。常なら不敵に上がる口端は平坦なままで、深い吐息を一つまとったきり、何も口にしない。それがきっと、二人の間に横たわる答えなのだろう。
 芦雪は喉奥を伝う生唾を、音をたてて飲み込んだ。
 無理を強いてまで写楽であろうとする藤仁を止めるため、守信の囁きのままに梅樹の四魂を──紅雪こうせつを操った日の翌日。芦雪は不本意ながらに、流屋にあるとされる「守信が描いた絵」に触れて回った。
 居間の掛軸。松乃の部屋に置かれた屏風。勝手口に繋がるひかえの間の襖絵。
 絵に作者の名は記載されておらず、ただ悠久の時を経た作品であることと、それらは琳也が趣味で収集した骨董品の一部であることしか窺い知ることはできなかったが、全て守信の言う通りだった。
 古画に宿った四魂は、何故か芦雪の命を聞いた。芦雪が生み落としたわけでもない、過去に主を亡くしたはずのものたちが、芦雪の呼び声にその魂を震わせたのだ。
 困惑を指先に乗せたまま、芦雪が襖絵に宿る紅雪こうせつに再び触れたとき、驚愕と憎悪に満ちた兄妹の声が、霞む記憶に波紋を広げた。
 ──これ、は……探幽様の……!
 ──探、幽……貴様……ッ!
 己に向けられたげんを思い出し、芦雪は唐突に理解した。芦雪の中に居座る守信は、狩野探幽の幻影なのだと。描いた覚えもない古画の四魂は、己の中に存在する幻に従っているに過ぎないのだとも。
 未だ黙したままの守信をじっと見つめていると、彼は芦雪に預けていた頭をようよう持ち上げる。振り返った朽葉の眼は、芦雪をただ真っ直ぐに射抜いていた。 
「仮に、私が探幽だったとして。お前は何か変わるのかい?」
「……別に。何も」
「だろう? なら、それは聞く必要のない些事さ」
 立ち上がった守信は芦雪に背を向け、大きく伸びをした。
「あぁ、そうそう。一つだけ言えるとすればね」
 明るい声が闇に響く。訝しむ芦雪をよそに、守信は得意げに人差し指を立てて言った。
「お前には、守信って呼ばれたいな」
 視界が瞬く。男の言葉を理解するのに、芦雪は随分と時間を要した。
「どうして?」
「どうしてって……。そんなの、探幽って名前が嫌いだからに決まってるだろう」
 自分の基準がさも世の常識のように言い放つのが、守信という男だ。彼の本質をよく現した一言である。
 無意識のうちに芦雪の手は拳へと変わったが、数瞬の間に男の手に包まれ、途端に勢いをなくした。
「探幽の名は、周囲の願いと欲と、虚飾で厚く塗り固められた幻だよ。そこに本質も中身もありはしない。御用絵試と一緒さ。……皆が見ている『探幽』とは、一体誰のことなんだろうな?」
 何故、探幽の名を発するたび、自由を謳うはずの瞳は、深い哀しみの色を湛えるのか。唇は諦観の笑みを宿すのか。
 守信がその意味を明確にひらくことはない。彼は語り口を緩めることはなく、滔々と言葉を重ねた。
「私は、私だけに与えられた自由を奪われたくないし、ひとから自由を奪いたくない。ゆえに、その両方を縛る探幽の名は嫌いだ。身体を失った今、私はただの私として息をしていたいだけなんだよ」
 芦雪の握りしめられた指先が、守信の手によって解かれていく。いつになくやわらかな声音で紡がれた彼の心中は、輪郭を残すことなくぬばたまに溶け、やがて静かに消えた。
「……なら。自由を強く望むお前は、どうして探幽の名で御用絵試なんて作ったんだ?」
 守信の真意を聞き、芦雪はなおさら分からなくなった。
 御用絵試制度とはすなわち、この世で最も尊い存在から絵の腕前を認められ、選ばれるということだ。また選ばれるために、参加者は一様に腕を磨き、対策をし、競い合う。
 そこに自由などない。選ばれる絵を描くという制約と、一元化された普遍がつきまとう。
 自他ともに自由であり続けることをどこまでも望む者が、何故自身を縛る「探幽」の名を使い、更に他者の自由を制限するような制度を作ったのか。
「そりゃあ、どんな身分の者でも可能性を……」
「それは表向きの理由だろう。それに、何故絵試を厭う人間が現れる? お前は一体、何が目的で絵試を作った?」
 藤仁や、流屋の棟梁である琳也が良い例だ。彼らは、頑なに絵試そのものを否定する。
 そうするのは、二人が絵試を忌避する何らかの根源が、華やかな祭典の裏で密かに執り行われているからではないか。
 物怖じせぬ芦雪の追及は、守信の退路を断つものだったらしい。彼はやれやれ、と珍しく肩を竦め、芦雪の隣に再び胡座をかいた。
「……狩野家の……『狩野派』としての流派の特徴が何か、お前は知っているか?」
 唐突に紐解かれたのは、狩野派についての簡単な問いだった。虚をつかれて思わず小首を傾げてしまったが、芦雪は淀みなく解を呈した。
「狩野派は、武家好みの大陸画を画題として用い、水墨による力強く雄大な線と余白を基調とする流派だ。だからこそ、武家社会である日ノ本では絶大な勢力を誇ってる。そしてその技巧は、基本的に血脈にのっとって相伝される……。この二点か?」
「ご名答。よく勉強しているじゃないか。感心感心」
 軽率にも守信の手が芦雪の頭に伸びたが、芦雪は素早く跳ね除ける。軽い音とともに「おー、こわい」と思ってもないだろう言葉が返され、芦雪は威嚇するように睨めつけた。
眞魚まおの言う通り、狩野派は血脈によって技を次へと繋ぐ流派だが、それは狩野家の才を色濃く残そうとせんがためだ。だからこれまでは、狩野家と血の縁のある家同士での婚姻が繰り返されていたんだが……。まぁ、近親者同士の婚姻とくれば、みなまで言わずとも分かるだろう。血の弊害が出たわけだよ」
 ひらひらと手を振り、守信はなんのことはないと他人事のように語るが、恐らく彼はその弊害を実際に目にしている。狩野家の才に固執し、是が非でもそれを残そうとする家の方針を、当時憂うことはなかったのだろうか。
 守信も探幽として生きていた時、狩野家の才に強いられ、家に強いられ、追い求める自由を制約されていたに違いないはずだ。思うことが無かったわけではないだろう。
 守信の言う、抑圧され閉塞されて生まれた血脈の弊害は、外部からの力と介入がなければ、永遠に解決することはない呪いだ。
(ん……? 外部からの……力……?)
 ──まさか。
 一筋の推測が、思考の湖面に降り立つ。芦雪は食い入るように守信を見つめた。
「血の弊害を解決するため、外部から狩野家の才ある血を得ようと、御用絵試を……?」
 一度濃度を濃くし、子々孫々と伝わる血の弊害を薄めるためには、狩野家以外の血が必要になるが、ただ薄めるだけでは狩野家が有する才を守れない。
 そう踏んだ過去の狩野家は、更に選別にかけることにしたのではなかろうか。写生力、発想力、絵の技法における知識、絵の真贋を見極める力の有無を絵試内の四つの試練に課すことで、自らが欲する才により近いものを得ようとしたのやもしれない。
 芦雪の推察に、守信はやはり満足そうに口端を引き上げていた。
「ご明察。御用絵試は狩野家の才を損なわず、その血脈を安全に繋いでいくための制度だ。狩野家内で濃くなった血を薄めつつも、未だ市井内で眠る才を狩野家で独占し、次代へ繋ぐ。ゆえに、御用絵試で狩野家の仲間入りを果たした者は、生まれが商人であろうと農民であろうと武家であろうと、狩野家の者としての勤めを強いられる。莫大な富や名声、地位と引き換えにな」
「良い考えだろ?」と得意げに守信は語るが、つまりは狩野家が抱える問題を、市井の民の欲や弱みに漬け入り、解消させたに過ぎない。
「そんな、お前たちの御家事情で民たちを……!」
「繋がれた血脈と狩野家の才は、泰平の世が末永く続く限り、将軍家だけに捧げられる。だから将軍家も絵試に対して何も口出ししないし、単なる絵師集団でしかない狩野家も、将軍家に強く出る権利と地位を得られる。ただの市井の民でしかなかった者たちももれなく、だ。そういう制度なんだよ、御用絵試は。誰も損なんてしてないし、命を取られるわけでもない。……今となっては、それも形だけの骸かもしれんがな」
 芦雪の反論を遮り、ただ静かに説く守信の横顔に情の影はない。「狩野探幽」の号を賜うに至った、狩野家の怪傑がそこにいた。
 当時の守信が、民を巻き込むことに心を痛めたのかは分からない。それが最低限の損であり、また困窮した民にとっても最大限の益になると判断したはずだ。
 百年という歳月を経てもなお続いている御用絵試を見れば、彼の判断は正しかったと言わざるを得ないのかもしれない。
(藤仁と琳也殿が絵試を好ましく思っていないのは、狩野家の御家事情に巻き込まれる民たちを憂いていたから……?)
 それ以外が理由である可能性も否めないが、裏事情を知るがゆえの拒絶も考えられる。
 以前、芦雪と同じ武家絵師だという徳兵衛が御用絵試を受けていることを知り、藤仁が写楽として「彼が選ばれる」ことを嘆いていたのも、徳兵衛がこの先、狩野家の者としての勤めを強いられる未来を見据えたうえでのことならば、辻褄が合うような気がした。
 結局、藤仁の嘆きは現実のものとなった。御用絵試の最終結果が今日、ついに貼りだされたのだ。
 選ばれたのは、京出身の町絵師と江戸に暮らす浪人、そして徳兵衛だった。
 藤仁は立札を見たのだろうか。同じ直霊なおひの絵師である徳兵衛と深い交流はなかったようだが、歳も近く、受ける衝撃と絶望は大きいはずだ。兄弟子である藤之進とうのしんが御用絵試に受かった時と同じように、彼は今この時も、苦悩に苛まれていやしないだろうか。
 守信によって解かれたはずの芦雪の手は、再び強く握り込まれていた。
「で? 絵試を執り行う目的を聞いたわけだが。お前は受けるのをやめるのかい?」
 不敵な妖しさを取り戻した視線が、物言わぬ芦雪を絡め取る。
 芦雪は手のひらに爪が食い込むのも構わず、指先に力を灯したまま首を横に振った。
「やめない。……やめられるわけがない」
 芦雪が御用絵試を受けるのは、困窮する家のためであり、正当な跡継ぎである弟を自身の代わりに家の当主につかせるため。全ては、家族のためだ。
 奥絵師になれば、望むものが手に入る。銭も、ひとりで生きていくための地位も、力も。
 狩野家が民を利用するならば、こちらも利用してやるまでだ。そうしなければ、芦雪のように弱い者は生き残れない。
「それでこそ、眞魚わたしだな」
 小さく息をこぼすように微笑を湛え、守信は芦雪の頭を乱暴に撫で回す。
 本来であれば振り払うところだが、泥臭く欲深い理由で絵試を試みようとする汚い自身を、唯一肯定して貰えたような気がして。結局、芦雪は口先をすぼめるに終わった。
「……眞魚まお。お前は我慢してはいけないよ」
 慈愛に濡れた声音をあとに残し、手のひらが離れていく。親が子を想うような、願いと哀しみに染まったげんに、芦雪は思わず問うた。
「それは……何を……?」
「全てを」
 かすかに、芦雪の喉元が締まる。 
 全て、とは何か。家族のために絵試を受けることに対してか。それとも、藤仁への秘めた想いについて言っているのか。
 もしくは、己の中に居座る全ての欲への言葉なのか。
「もりの……」
「というわけで」
 紡がれるはずだった名は遮られ、芦雪は両脇の下を掴まれて軽々持ち上げられる。
 気が付けば、もはや慣れ始めている守信の膝の感触が、のうのうと尻の下に存在している。背後から守信に抱きすくめられ、芦雪は瞬く間に両手の自由を奪われていた。
「……は?」
「いつもの、今日もやるぞ」
「待て、何が『というわけで』なんだ!? 意味がわからん離せ! やだってば!」
「まぁまぁ。……大人しくしないか」
「……っ、ぁ……!」
 芦雪の輪郭をなぞるように、薄い腹上に手を置かれる。たったそれだけのことで、別れていたはずのものたちが腹の中で悦びのままに絡み合い、境目をなくして溶けていく。
「あ、ぁ……っ、ひ……」
「ふふ。上手上手。お前は快楽には素直だからねぇ。一体、誰に似たんだか」
「うる、……さい……っ!」
 唯一自由のきく足でもがこうが、抵抗は全て無に帰される。次々に生まれては合わさっていく塊の境目が小さく脈打つたび、芦雪の腹中で何かが滴り落ちていく。愉悦の雫を受け止める中は「もっと寄越せ」と疼き、目眩がする程に気持ちが良い。
 最も聞かれたくない者の前で夜伽のような喘ぎ声が漏れ、芦雪は泣きたくなった。
 四半刻は経っただろうか。守信と芦雪の魂が混ぜ合わさった影響なのか、はたまた無駄に抵抗したせいなのか。守信が腹から手を離した頃には、芦雪は彼の肩にしなだれかかり、浅い息を繰り返していた。
 ──刹那。白銀の閃く音が、かすかに闇夜を震わせる。
 守信は芦雪を抱きすくめたまま、忌々しげに頭上を見上げた。
「……外が、何やら騒がしいな」
「外……?」
「恐らく藤仁だろう。……なんだ、また四魂に襲われてるのか」
 守信は辟易とした様子で肩を竦める。芦雪の頭に顎を乗せ、昼寝でもしそうな悠長さだ。
「……また? またってどういうことだ?」
「気づいてなかったのか。あいつ、半月に二、三度はよその四魂に襲われてるぞ」
「なっ……」
「時折、昼方まで起きてこないことがあるだろう。あれは、夜出かけてるからだ。別の直霊なおひの絵師たちから恨みを買うようなことでもしてるんじゃないか? 理由は知らんが、大体はよその四魂を引っ掛けて帰ってくるからな」
 藤仁が朝に弱いことや、昼まで起きてこないことがあるのは確かに事実だ。まさかその理由が、夜な夜な出掛けているからなどとは思いもしなかった。それも、四魂に襲われているなぞ。
「今日もそうなんじゃないか。近くまで後を追ってこられたのか、それともこの辺りで出くわしたのか……」
「ならっ、助けに行かないと……!」
 芦雪は咄嗟に腕の拘束から逃れようと身をよじるが、背後の男がそれを許すはずもない。余計に力を込められ、必死に抵抗する芦雪を揶揄からかうように、耳元に唇が寄せられた。
眞魚まお
「うわっ!?」
「ひとりで無理をしてはいけないよ。今のお前には、私がいる」
 芦雪の視界は守信の手に覆われ、闇に染まる。耳朶に触れる濡れた吐息が、教え諭すような言葉たちが、溶け込むように頭の中へと入り、やがて思考を侵食していく。
「藤仁を助けるなら、私の四魂を使いなさい。そちらの方が自身で描くよりも早いし、よほど効率的だ。……いいかい、眞魚まお。使えるものは、全て使え」
 守信の発した音が芦雪の内を巡り、ゆっくりと染めかえる。腹中にできた新たな塊は、もとより存在していた大きなものに吸い寄せられ、ひとつになって悦びに浸っている。
 自分の身体が自分ではなくなっていくような。かねてより喘いでいた空虚に何かが注がれ、満ち足りていくような。そんな不可思議な感覚だった。
「もり、のぶ……」
「可愛い私の眞魚まお。将軍家も、狩野家も。いずれ知るであろう御用絵試の本当の目的も。最愛の藤仁も。皆がお前の盤上の駒だ。上手く使いなさい」
 星のない烏夜うやの中。男の妖艶な繊月だけが、うっそりと溶けだしていく。
「──全ては、お前わたしの欲のために」
 芦雪の意識はどこともしれぬ奈落へと、音もなく堕ちていった。