第十六筆「師兄」

 露をまとった土の香りが、清やかな朝を告げる。
 この頃、肌に貼りつくような暑さは日に日に増している。栗花落つゆりも明けが近いのだろうと芦雪ろせつ は思っていたが、頬を撫でる風と淀んだ空は、あざけるようにそれを否定していた。
 骨が軋む音を拾いながら、ゆっくりと身を起こす。視界を遮る前髪をかき上げ、現れた自室の景色に、ほっと息を吐いた。
 その時ふと、袖を引かれる感覚が身をつたい、芦雪は思わず目を下げた。
「……お前は寂しがりだなぁ」
 呆れたようでいて、喜色を隠そうともしないげんが口をついて出る。芦雪を引き留めるように袖に手を伸ばしていたのは、ひとりの男だった。
 布団には黒鳶色の波紋が広がり、昨夜まで吸い合っていた薄い唇は、かすかに寝息をこぼしている。癇癪を起こしていたことが嘘のように、陰を含んだ涼やかな目元は、穏やかさを湛えて閉じられていた。
 指に馴染んで久しい動作で、寝入る男の髪を梳く。時折震える長い睫毛と、いたいけさの残る寝顔を眺めるうち、芦雪の口端は自然と緩んでいった。
 こうして、芦雪がの男——藤仁ふじひとの隣で朝を迎えるのも、今はもう慣れたものだ。
 互いに緊張の糸を張り巡らせ、がんじがらめになって身動きすら取れないでいる一方、足元の一線は曖昧にしたまま、簡単に飛び越える。名のつかぬ奇妙なえにしは緩むことなく二人の間で強固に結い上げられ、何食わぬ顔で日常の中に存在していた。
 慣れとは恐ろしいものだ。当初は新鮮に感じられていた物事も、三、四と重ねていけば感覚は麻痺し、やがて色褪せる。初めこそ藤仁との関係に異を唱えていた警鐘も、近頃は静かなものだった。彼と夜を明かして始まった今日という日も、いずれ何ら代わり映えのない日常の一部になるのだろう。
 思考を覆う狭霧が、日に日に意識の輪郭を白く溶かしていく。藤仁との関係を諌めようとする者も、そうすべき理性でさえも、既に芦雪の中には欠片ほども存在していなかった。
 ──何を迷うことがある?
 守信と芦雪の狭間で、誰かが口端を引き上げている。
 手段は何であれ、ともに在りたいと願った者の隣に立てている。あまつさえ、絵試へ挑むための力さえも、もうすぐ手に入るというのに。
 ──何が不満だ? 何が不安だ? 何が未練だ? 今あるもので十分だろう。
 己の中に居座る者に説き伏せられても、芦雪は未だ、明確な答えが下せないでいる。
(今の関係に見て見ぬふりをする俺を……お前は、どう思ってるんだろうな……)
 藤仁は近頃、ふとした拍子に薄く口を開いては、再び固く閉ざすことを繰り返している。
 彼も何かを考えている。二人の間に横たわるものに、何らかの答えを出そうとしている。
 隣で見ている時間が長いからこそ、芦雪にはそれが痛いほどに分かった。
 友であり、弟と兄であり、恋い慕われる者と慕う者であり、師と弟子めいた複雑な縁。
 それら全てを結んだのは芦雪自身だ。ゆえに藤仁には、全てを断ち切る権利がある。それを行使する日もいずれやってくるだろう。始まりと同じように、音もなく。
(その時、俺は……この気持ちごと、お前を手放してやれるだろうか)
 終わりの時を自身に問いかけるのは、もう何度目だろう。藤仁への気持ちを自覚した時から、別れを告げる覚悟はできているはずなのに。 
 惑う心に向き合うこともできず、芦雪はただ、藤仁の頭を撫でる。指が艶やかな髪を梳くたび、男の眉根はむず痒そうに寄せられ、芦雪の胸裡を愛おしさで満たしていく。
「藤仁。朝だぞ。朝餉を食べよう」 
 藤仁の耳元に顔を近づけ、目覚めへと優しく誘う。やがて、眠りの水底にいた瞼が小さく震えて、現れた瞳はかすかに芦雪を捕らえた。
 おはよう、と男の頬に指を伸ばせば、それは音もなく絡め取られ、身体ごと引き寄せられる。視界が天を向いたと同時に、芦雪は皺の寄った夜着に沈められていた。
 二人の隙間を行き交う吐息に、雨音が混じっている。湿気をまとい、濃くなった緑と土の匂いが、藤花の香りとともに芦雪の鼻腔をくすぐった。
(……あぁ。雨、降ってたのか)
 宿した笑みはそのままに、男の頭に手を伸ばす。麗美な顔は導かれるように近づいて、芦雪を覆う影も濃さを増していく。
 額、瞼、頬、そして唇に、小さな雨が降る。激しさを増す前触れのような慈雨だった。
 ——このまま雨が降り続ければいい。そう願いながら、芦雪は目の前の欲に身を委ねた。


 市中に降り注いでいた雨が、ひとつ、ふたつとその足音を消していく。にびの雲間からはほのかに陽光が差し、紅を水で溶かすように、空を淡く彩り始めていた。
 藤仁と事を終えて互いの後片付けをしたあと、芦雪は何食わぬ顔で居間に赴き、松乃と二人、朝餉を口にしていた。藤仁はといえば、事の処理を終えた途端、珍しくも再び微睡まどろみ始めたため、芦雪の自室に置いたままだ。今頃、彼は眠りと現実の境を揺蕩たゆたっていることだろう。
「兄上ったら、相変わらず朝が弱いんだから……」
「……まぁ、昨夜も遅くまで起きていたようだから、許してやってくれ」
 芦雪は作り慣れた苦笑を貼り付け、松乃の小言を受け止める。彼女は手にした椀にため息を落とすと、諦めたように小さく頷いた。
 松乃は想像すらしていないだろう。自身の目の前に座す男が、先刻まで兄と乱れた情事に及んでいたなどと。
 行為の跡とも言うべき鈍痛が、咎めるように芦雪の腰を這っている。芦雪は嘘を重ねたまま、静かに椀を置いて朝餉を終えた。
(さて……。今日も一日、きびきび働かないとな)
 軋む腰を撫でながら、芦雪はその場から立ち上がった。
「あ、芦雪様! こちらをお忘れです!」
 鈴を転がすような松乃の声に、肩を叩かれる。目を下げた先に差し出されていたのは、一通のふみだった。
「あぁ……。いつものか。ありがとう、お松」
「いいえ。今回はどんなお話が書かれていたのか、あとで教えてくださいませ」
「きっと、いつもと変わらないよ。『兄上は、いつ京に帰って来られるのですか』の一言で締めくくられてるさ」
「ふふ。心配しながらも帰りを待ってくれている家族がいることは、何にも代え難いほどに尊いことです。……お返事、ちゃんと出してあげてくださいね」
 返事を溜め込んでいることなど、松乃にはお見通しだったらしい。彼女は有無を言わせぬ笑みで釘をさすと、二つ分の膳を持って居間から出ていった。
(まったく……。お松には敵わんな……)
 自然と浮かぶ苦笑を帰路に落としながら、芦雪も自室へ歩みを進める。やがて現れた襖を引けば、出迎えたのは、人の気配も凪いだからの部屋だった。
(……藤仁のやつ、自分の部屋に帰ったのか)
 微睡まどろみに身を委ねる者の寝顔はなく、後片付けに使った小桶や手拭いの影、果ては情事で汚れた敷布すら消えている。先刻まで二人で乱していた夜着は丁寧に畳まれ、部屋の隅に置かれていた。
 朝餉を摂りに部屋を出る前、こもった雄の匂いを逃がそうと障子を開けたはずだったが、藤花の甘やかな香りだけは、未だ鮮明に漂っている。
「やれやれ……」
 藤仁がいないことへの気落ちとも、それに対する呆れとも取れる声をこぼしながら、芦雪は文机の前に腰を下ろし、手にした文をようようさらい始めた。
 乾いた紙の音とともに、清涼な丁子ちょうじの香りがほのかにたつ。半年前まで慣れ親しんでいたそれは、郷里の健在さを伝えているようで、芦雪の頬はやわく緩んだ。
(ふふ。『眞魚まお兄上、京にはいつお戻りになるのですか?』だと。静夏しずかはこればっかりだなぁ……。可愛い子だ)
 差出人である弟の頭を撫でるように、並ぶ文字に指を添える。ようやく手に馴染み始めたであろう、しかしほんの少したどたどしさの残る筆跡に、途方もない懐古と愛おしさが掻き立てられた。 
 今年で齢八つになる弟の静夏しずかは、字を覚えてから——とりわけ、芦雪が江戸へってからというもの、毎月と言っても過言ではない頻度でふみを寄越してくる。
 武家の子らしく、物心ついた時から寡黙な子だったが、心の端をつついてやれば表情を崩すような、ひどく可愛らしい一面もある子だ。京を離れてから知ったことだが、紙上ではせきを切ったように饒舌になるところも、何とも言い難いほどにい。此度送られてきたものも、郷里での日常や両親の近況、そして幸之介のことが数多の文字で綴られており、いつも通り「帰りを待っている」という言葉で締めくくられていた。
(溜まった返事を書いてやらなきゃな……。静夏しずかも待ちくたびれているだろうし……)
 文をたたみながらそう思案した矢先、端に小さく記された文字に視線を引き留められた。
「『追伸、これ以上お返事をくださらないのであれば、様子を見にゆき兄上とともに江戸へ参ります』……? ふふっ。静夏しずかのやつ、面白い冗談も言えるようになったんだなぁ」
 ものの半年で、兄よりも余程成長していると見える弟の文句に、ひとしきり笑う。芦雪は文を手にしたまま、差出人の顔を思い浮かべた。
 寡黙で幼いながらに、己が述べた言葉を頑なに貫く静夏しずかは、藤仁によく似ている。それこそ、江戸へ来たばかりの頃は、藤仁に彼の面影を重ねていたほどだ。
 静夏しずかも青年と呼べる歳までに成長すれば、藤仁のような男になるのだろうか。
 今一度、追記された文字を追う。弟の言葉と、彼の未来とも言える藤仁の頑固さが重なり、嫌な汗が背筋を伝った。
(……いやいや。冗談、だよな?)
 そもそも、八歳という年少な者が東海道の旅を潜り抜けるのは、容易なことではない。たとえ幸之介を伴っていたとしても、その前に幸之介が止めるだろう。
 所詮は子どもの戯れだ。現実的な話、彼の脅しともいえる追伸は冗談にしかならない。
 何を本気にしているのか。暑さでついぞ頭が回らなくなってしまったのだろうか。
 ——ありえない。芦雪は首を横に振りながら文をたたみ直したが、「……さすがに今日あたりには返事を出すか」と考えを改め、筆を手に取った。
「芦雪さま。今、大丈夫でしょうか?」
 たどたどしくも、慇懃いんぎんげんが背に触れる。落ち着きのある男の声だ。松乃や野菊以外の者が芦雪の部屋まで声をかけに来るのは、なかなかに珍しい。
「構わない。いかがした?」
 筆を置いて返事をすれば、安堵にも似た吐息が聞こえ、数瞬の間に襖が開かれる。部屋の前には二人の青年が座し、芦雪を見つめていた。
 一人は体格がよく、均整の取れた肉感を藍染めの着流しの下に隠した男で、肌は太陽の恵みを十分に受けて焼けている。確かな意志を瞳に携えた精悍な面差しは、流屋工房の兄貴分と呼ばれるに相応しい顔つきだ。
 もう一人は、兄貴分とは打って変わって、体格はどちらかと言えば芦雪に近く、薄い。浅縹あさはなだの着流し越しにも線が細く見えるものの、輝くまなこと浮かべた笑みは、はつらつとしていた。
 犬と猫、兄と弟を表したような二人は、名をそれぞれ、実秋さねあき秋治郎しゅうじろうといい、両者とも流屋に属する絵師である。実秋さねあきは工房の中で最年長であり、対して秋治郎しゅうじろうは最年少だ。
 秋を名に冠する彼らは、年が離れていても馬が合うようで、行動を共にすることも多い。ゆえに、工房の皆からは「二秋ふたあき」の愛称でまとめて呼ばれている。
 芦雪が流屋に奉公し始めたばかりの頃、二人揃って何かと世話を焼いてくれていたのが、今となっては懐かしい。芦雪が藤仁を笑わせようと躍起になっていた時には、彼の普段の様子や知り得る限りの過去を教えてくれたのも二秋ふたあきだった。
二秋ふたあき殿自ら、こちらに来られるのは珍しいな。何か用か?」
「それが、最近流屋に弟子入りした門弟たち用の絵手本を探そうという話になり……」
「蔵! 蔵に入る許可が下りたんですよ、芦雪さま! 琳也りんや先生の貴重な蒐集しゅうしゅう品が見れる絶好の機会! ともに見に行きましょう!」
 実秋さねあきの丁寧な説明を遮り、秋治郎しゅうじろうが身を乗り出さんばかりの勢いでまくし立てた。 
「……秋治郎しゅうじろう。俺が今話している途中だろう」
「いいじゃないですか。早く蔵に行きたくて堪らないんですよ、こっちは。琳也先生の蔵に入れるなんて、滅多にないんですから! 大兄さんの出だしが遅すぎるのが悪い」
「お前なぁ……。これは仕事の一環であって、遊びじゃねぇんだからな。芦雪さまにも別のお仕事があるんだ。無理にお誘いしてご迷惑をおかけするのも……」
「そんなことは分かってます。……でも、芦雪さまも気になりますよね? だって琳也先生は、江戸の商人たちの中でも指折りの骨董品蒐集家ですし、見たこともないお宝をたくさんお持ちかもしれないんですよ。それに、藤仁兄さんの過去の絵も見れるかも」
 二人の会話から察するに、彼らは絵手本を探すために蔵へと入るつもりらしい。
 流屋への弟子入りは秋治郎しゅうじろう以降なく、今回が久方ぶりである。とすると、当時使われていた絵手本をどこにしまったかも定かではないはずだ。
 そこで、蔵を管理する琳也、もしくは今は不在の彼に代わって、松乃と野菊が「蔵の中のものならば、絵手本になる作品が一つや二つあるかもしれない」と提案したのだろう。
 二秋ふたあきはそのお役目を任命されたのだと容易に推察できた。大方、楽しいことは複数人でと、日々口癖のように言う秋治郎しゅうじろうが、せっかくなら芦雪にも声をかけようと言い出したに違いない。
 確かに、絵師としてだけでなく、蒐集家としても名を馳せる琳也の骨董品の数々には、そそられるものがある。それこそ、審美眼の鋭い琳也に選び抜かれ、大金をはたいてまで買われた珍品もあろう。
(でも……。俺は、藤仁が過去に描いた絵の方が気になるな……)
 今でこそ、藤仁は流屋の筆頭絵師としての地位を築き上げているが、彼がここに至るまで、どのような学びを経たのか。何を見て作品に昇華させてきたのか。純粋に好奇心がくすぐられた。
 仮とはいえ、芦雪は藤仁に絵の指南を受けている身でもあるし、彼の過去の絵から今後に活かせる何かが見つかれば儲けものだ。
 芦雪はひとり頷きを深くすると、二秋ふたあきに満面の笑みを向けた。
「よし。せっかくだし、俺も行こう」 
「やったぁ! やっぱりそうこなくっちゃ」
「え、良いのですか!?
「なんだ、俺は行かない方がいい理由でも?」
「いやいやいや! 嬉しいですよ、そりゃ」
 目尻を下げて大仰に喜ぶ秋治郎しゅうじろうの隣で、実秋さねあきもほっとしたように笑う。
 実秋さねあきは年の功とでも言うのか、出会って半年経った今でも、芦雪の身分を慮り、遠慮がちになる節がある。しかし、ふとした拍子に浮かぶ彼の笑みや砕けつつある言葉遣いは、芦雪への親しみを感じさせた。
「では、二秋ふたあき殿。皆本業の仕事もあることだし、早めに行ってささっと済ませようか」
「えーっ、そんなの勿体ないですよ!」
秋治郎しゅうじろう……。お前という奴は本当に……」
 芦雪が立ち上がったのを皮切りに、三人は肩を並べて蔵へと向かった。 


 母屋の東側——ちょうど、松乃の自室の裏手となる場に、三つの蔵が悠然と佇んでいる。
 土壁に漆喰しっくいを塗り重ねてできた白き壁に、重厚な観音扉。軒下には、流屋の屋号文様である流水の紋章が飾られており、琳也が築いた流屋の威風を感じさせる。
 実秋さねあきは喉を鳴らしつつ、赤錆た鍵を懐から取り出すと、左端の蔵の前に立った。
 鍵を回してかんぬきを外し、重々しい扉を開ける。蝶番が軋んだのか、古びた音が蔵の中に響き渡り、芦雪の鼓膜を震わせた。
 観音扉を開放すると、雲間から顔を出したばかりの陽光が、我先にと内部へ射し込む。
 薄暗い蔵の中は十坪程の空間となっており、一般的な蔵のおよそ倍の大きさであった。
 出入口から壁際まで、木製の棚が等間隔に整列している。その中には、一体どこで掻き集めたのかと問いたくなるほどの大小様々な桐箱が、所狭しと並べられていた。
 茶道具、屏風、掛軸、蒔絵まきえの調度品、紙製の小物。おおよその輪郭が箱越しにも垣間見え、琳也の美への執着にめまいがしそうだ。
「はー……。噂には聞いてましたが、実際に見てみると圧巻ですねぇ……。一生分の骨董品を見た気分です」
「ふふ。そうだな。この中から目的のものを探すのは、随分と骨が折れそうだ」
 棚と棚の境に設けられた、人が一人通れる程の小路を通り、秋治郎しゅうじろうと芦雪は上から下へ、左から右へと物珍しげに視線を漂わせる。
 二人を先導する実秋さねあきは言葉こそ発していなかったが、緊張しているであろうことだけは、硬さを帯びた背中から推測できた。
 中ほどまで進んだところで、実秋さねあきの足が止まる。秋治郎しゅうじろうと芦雪は眼前の背中や肩に鼻頭をぶつけ、玉づきに「ぐぇっ」だの「うえっ」だのと呻き声をあげた。
「もー。大兄さん、いきなり止まらないで下さいよぉ……。芦雪さま、大丈夫でした?」
「あ、あぁ。大丈夫だ。……鼻の頭を打ったが」
 芦雪は鼻先を撫でながら、実秋さねあきの横顔を見上げる。彼は、左手側にある木棚に目を留めたようだった。
「……この棚が、骨董品と工房作品の境界だな。ほれ、そこの箱書はこがきに『琳也』と『藤一とういち』の号が記されてる。流屋に関する絵は、ここ周辺に納められている可能性が高い」
「本当だ! では、この棚より奥の方を重点的に見ていきましょうか。で、絵手本らしきものがあればそれを回収して……。無ければ、先生たちの絵で絵手本になりそうなものを見繕っちゃいましょう」
 秋治郎しゅうじろうの提案に実秋さねあきと芦雪は頷き、各々分かれて手近な棚から捜索を始めた。
(藤仁の雅号は『住吉藤一とういち』だったな。ひとまず、絵手本の文字に注意しつつ、藤一とういちの名も探していこう)
 芦雪は、桐箱の表面に書かれた箱書を順に見ていき、自身の個人的な目当てである「藤一とういち」の桐箱を見つけては、次々に抱えていく。
 六つほど集めたところで視界が悪くなったため、一度木棚の森から抜け出て、蔵の出入口にほど近い、作業用の開けた場に移動する。
 しかし、どうやら皆考えることは同じらしい。芦雪以外の二人も、これはと思うものを各々抱えてやって来て、言葉もなく頭を突き合わせ、絵を広げ始めた。
 芦雪は波打つ鼓動を宥めながら「藤一とういち」の箱を開け、丁寧に結われた巻緒を解いていく。
(これは……)
 軸を下ろして現れたのは、墨の濃淡のみで描かれた、白き花穂かすいの群生だった。
 繊細な筆致で、あしの穂をひとつひとつしなやかに描きながらも、部分部分には肥えた線を這わせている。冴えた月明かりの下で、芦花が薄らと浮き上がっている様が見事に表されていた。
 中央にゆらりとたなびく霧は、銀泥ぎんでいと墨を丁寧に使い分けて表現されており、狭き画面の中でも、幻想的な空気を漂わせている。
あしの花の群生、か。懐かしいな……。以前、三嶋大社で見た景色を思い出す……)
 三嶋大社を訪れ、ゆかりと邂逅を遂げて数日が経った頃。京へ戻る前夜のことだった。
 供として連れ添ってくれていた幸之介に黙って宿を抜け出し、大社の見納めにと向かった先で、芦雪は目にしたのだ。月に照らされ、闇の中でも白く輝く花穂かすいの雪原を。
 夜風に吹かれ、小さく音をたてながらも決して折れることなく、しなやかにあり続ける溶けぬ雪に、芦雪は憧れを重ねた。
 そしてその後、大社の境内にて、ゆかりが肌守りを渡してくれたあの瞬間から、芦雪の未来は決まったのだ。いつか、ひとの心を救える絵師になるのだと。自身がゆかりにそうしてもらったように。
 芦雪は今一度、眼前の絵に視線を落とした。
 かつての藤仁も、不意に目にしたあしの景色を雪原のようだと思ったのだろうか。絵に起こすぐらいだ。美しいと感じたのは間違いないだろう。
 異なる時の流れの中で、彼と同じことを考えた刹那が一時でも存在していた。その事実に、胸の奥は一つの灯火によって温められていくようだった。
 ──藤仁がこの絵を描いたのは、一体いつなのだろう。
 温められて芽生えた好奇心に導かれ、芦雪は絵が入っていた箱の蓋を裏返した。
 そこには詳細な月日は書かれておらず、ただ四年前の年号と藤仁の雅号、そして「芦花両岸雪図」とだけ記されていた。
 四年前といえば、藤仁が十七の年だ。そう歳月は経っていない。比較的新しい作品のようだった。
 そもそも、藤仁はいつから、琳也の弟子として絵を描いているのだろうか。彼のことは知っているようで、やはり何も知らない。
 芦雪は箱の蓋を開けては裏返し、藤仁の歩んだ時を遡っていく。手元の箱を開け終わるたびに棚へと戻り、「藤一とういち」の箱を持ちだして、それが生み出された年月をたどった。
(んー……。記された年号から察するに、藤仁が琳也殿のもとで本格的に絵を学び始めたのは、十七の頃……になるのか? それ以前の年号が見当たらない……)
 四年前に描かれた芦花の絵は、今の藤仁からそう離れていない作品かと思っていたが、どうやら違ったようだ。芦花と同じ十七の頃以前の絵が見当たらないこと、そして芦花の絵には詳細な月日が記されていない点から、むしろ最初期のものとも考えられる。
 思わず息が漏れる。初期の絵からして、藤仁の技量は今の芦雪以上だ。弟子入りする前から相当に力があったと窺えるが、幼少期から絵の手ほどきでも受けていたのだろうか。 いずれにせよ、年号から逆算するに、藤仁は琳也に弟子入りして、僅か四年で筆頭絵師の地位にまで登りつめたことになるのだから、彼の才にはいっそう信憑性が出てくる。
 その時、芦雪はふと思い立って、藤仁がこれまで描いた絵を年号順に並べ変える。やがて完成した圧巻とも言える光景を前に、芦雪は生唾を飲み込んだ。
 藤仁の筆致の変遷を見るに、十八の頃までは選択された色彩も画題も、比較的明るいものが多い。雪月風花を好み、水を多分に用いて淡さを表現する、琳也の情趣的な画風に類似点が見られる。
 輪郭の肥痩ひそうを活かしつつ、光の表現を取り入れた手法を鑑みるに、師や兄弟弟子の作品から大いに刺激を受けていたのだろう。周囲に良い出会いでもあったに違いない。
 だが、十九の頃からだろうか。選ばれた画題は冬の夜や雪景色の山水図、くず、朝顔など蔓性の草花図が大半を占め、色使いは淡さなど忘れて、いっそ毒々しいまでに鮮やかだ。
 草花の蔓は、目の前にあるものにしがみついたまま、誰かに助けを求めるように天を目指して這っている。画面いっぱいに張り巡らされた蔓と葉の構図を見ていると、花を表現したかったというよりも、蔓を通した何者かへの渇望、欲を主題として扱っているようにも思えた。
 当初、力強く表現されていたはずの輪郭線は、年を重ねるごとに病的なまでに細く、細密になり、色のみで画題を描く付立つけたての技法に変化している。
 全てを計算し尽くした、理知的だが欲にまみれた空気。神仏がこの世に生み落とした自然に、傲慢な美をまとわせた画題。見ているこちらの息が詰まるような、ある種の孤独や苦悶を表すほどの筆致。事実の破綻と破滅を肯定する鮮やかさ。
 一筋の寒気が背を走り、芦雪の身体はわずかに震えた。
(藤仁……。お前は……ずっと、ひとりで……)
 十九歳以降、藤仁は絵の中でずっと何かを叫んで、もがいていたのではないだろうか。誰にも打ち明けられず、たった一人で苦しみを抱えて。
 誰かにすがりたい。助けて欲しい。
 ──けれど、そんな自分に触れないで欲しい。
 藤仁のこれまでの絵を通して、見てはならない、彼の黒々とした一面を身勝手に暴いてしまったような気がして、いたたまれなくなる。
 この気持ちは傲慢だ。少しでも、藤仁の苦しみを分かち合いたいなどと。彼が奥底で願っていることすら、何一つ知らないくせに。
 傷口に触れるように、芦雪はそっと絵の表面をなぞると、名残惜しさを絵の上に残したまま、軸を巻いて静かに箱の蓋を閉じた。
 引っ張り出した絵たちをもとの棚へと戻そうと、芦雪が腰を浮かしかけた時だった。紐解いていない箱が一つ残っていたことに気がついた。
 箱書きには、「花枇杷はなびわ小禽しょうきん図 金川かながわ潭麗たんれい筆」と達筆な跡でその云われが綴られている。
 どうやら、藤仁の絵を持ってきたものだと思っていたが、取り違えていたようだ。だがせっかく持ってきたのだし、と芦雪は再びその場に座すと、いそいそと箱を開けた。
 絵を戒めている巻緒を解き、軸を下へ下へと下ろしていく。現れたのは、枇杷びわの白き花々をつけた一つの枝と、それを物珍しげに眺める一羽の小禽しょうきんの絵だった。
「これはまた……美しいな……」 
 輪郭線は丁寧に引かれ、葉や枝、花は色をやわく重ね合わせて、立体感を演出している。内から外にと濃くなる葉の緑は、やがて訪れる春を心待ちにしているかのようだ。
 春を待ち侘びる花の甘い香りに、心惹かれたのだろうか。一羽の小禽しょうきんが地に降り立って小首を傾げ、白花をじっと見つめている。その様子はひどく愛らしく、画面に目を向ける者を和ませる。
 いわゆる折枝せっし画と呼ばれるこの絵は、古来の大陸より流行した花木図の様式のひとつで、日ノ本でも好まれている画題だ。
 潭麗たんれいという絵師は、大陸画に関心があったのやもしれない。さらに、花の茎やがくにも金泥きんでいで細かく状体が描かれているところを見るに、彼は物事を細かく捉える観察眼も持ち合わせた、優れた絵師に違いなかった。
 絵手本としては、申し分ない——否。
 絵を嗜む者であるならば、一度はこの絵を写しとるべきではなかろうか。
「なぁなぁ、秋治郎しゅうじろう
「どうしました?」
「この絵、絵手本にどうだろう。画題としては少し季節外れにはなるが、そこまで難しいものではないし……。何より筆致が美しい」
「本当だ……。大陸の画題に対して、大和絵風の線の引き方。色合いも水墨画のような濃淡が出ていて、良い出来栄えですねぇ」
 そばに座る秋治郎しゅうじろうに絵を見せながら、「だろ?」と同意を求める。芦雪は無邪気な笑みを携えて、再び絵を覗きこんだ。
「それは……」
 背後で、実秋さねあきの驚きと悲哀の混じった声が落ちる。芦雪と秋治郎しゅうじろうが振り返る間もなく、実秋さねあきは二人の横に腰を下ろすと、何も言わず花枇杷はなびわの絵を取り上げ、巻緒を手早く巻き直してしまった。
「ちょっ、大兄さん! いきなりどうし……」 
「これは、しまっておいてくれ……」
「え……?」
 実秋さねあきは絵を箱の中にしまい、静かに蓋をする。表面に綴られた「潭麗たんれい」の文字を撫でる指先は、塞がった傷跡に触れるように、かすかに震えていた。
「その……この絵を描いた『潭麗たんれい』殿が、どうかされたので……?」
 芦雪の問いかけに、陰を含んだ実秋さねあきの瞼が静かに降りていく。再びそのとばりが上がった時、彼は沈んだ面持ちのままに答えた。
「今はもう……ここにはいない弟子の絵だよ」
「いない? 独立でもされたのか?」
「いや……。破門だ」
「破門!?
 芦雪はうわずった声をあげた。実秋さねあきは芦雪の反応を得て、少し逡巡するように目を下げてから、今度は秋治郎しゅうじろうへと向き合った。 
秋治郎しゅうじろう。うちに……流屋に入る前、誓約した事項を覚えているか?」
「え? あ、はい……」
 芦雪の響き渡った声の余韻のせいなのか、はたまた「破門」という字面に衝撃を受けていたからなのか。秋治郎しゅうじろうは、茫洋とした表情のまま、実秋さねあきの質問に小さく頷いた。
 流屋へ弟子入りを志願する者はみな、最初に琳也のもとで誓約を取り交わすことを義務付けられている。とはいえ、誓約とは名ばかりの、至って単純で属する絵師にとっては利があるものばかりだ。
 琳也側が仕事の斡旋を取り計らうこと。
 流屋に所属が決まったら、琳也が用意した長屋に住み、兄弟子たちと衣食住をともにすること。
 二日に一度は必ず休みを取り、絵だけに没頭しないこと。
 家族に関わることや自身の都合で金銭の具合が悪くなった場合は、流屋で工面するのですぐに申し出ること。
 七日に一度は、武芸の稽古を受けること。
 ──そして。
「御用絵試は、決して受けてはならないこと、です……」
 ひくり、と芦雪の喉が震える。
 琳也もそうだとは思いもしなかった。かつて、御用絵試の立札を前に、忌々しそうに唇を歪ませた写楽の——藤仁の横顔が脳裏に浮かぶ。
 秋治郎しゅうじろうは浮かない顔付きのまま、琳也の過去の言葉を続けた。
「『金が欲しいならいくらでもくれてやる。数多の技を身につけたいのであれば、望む他流派への推薦文も書くし、伝手の限りで新しい師を紹介しよう。だから、御用絵試だけは受けないと約束しろ。今、ここで』と。どの門弟にも必ず仰います」
 神仏に希うように。親を置いて消えてしまわないでくれと、子に泣きすがるように。琳也は頑なに御用絵試そのものを拒絶するのだという。
 単に、狩野派という他流派の門戸を叩くことを良しとしないのは理解できる。ながれ派の開祖ならば当然だろう。だが、琳也はそれを理由としていない。
 何せ、自ら明言しているのだ。「数多の技を身につけたいのであれば、望む他流派への推薦文も書くし、伝手の限りで新しい師を紹介する」と。
 では、琳也が御用絵試を忌む原因は何だと言うのか。理由が分かれば、同じく絵試を嫌う藤仁の真意も同時に分かるやもしれない。そう期待して、芦雪は実秋さねあきに続きを促したが、彼は首を横に振るばかりだった。 
「俺たちには『御用絵試を受けるな』と。ただそれだけで。潭麗たんれいはその誓約を破って御用絵試を受け、結果として破門になったんです。……ずーっと、奥絵師への憧れを胸の内に秘めて、捨てきれなかったのかもしれやせんねぇ」
「今となっては、絵試を受けた真意は潭麗たんれい以外には分かりませんがね」と付け加えながら、実秋さねあきは肩をすくめた。
 潭麗たんれいは破門されたものの、その後、望み通り奥絵師の地位を拝命した。先の絵を見て誰もがたやすく理解できる通り、彼の卓越した技量が御公儀にも認められたのだろう。
 そもそも潭麗たんれいは、琳也が流屋を創設して初めてできた内弟子だった。琳也の技術を間近で目にする機会も多く、また絵に対して真摯に向き合い、素直に物事を吸収する生来の性格もあって、彼の腕前は瞬く間に伸びた。多忙な琳也の絵の代筆を任され、また工房の顔として筆頭絵師の地位を与えられるほどにまで、その地位を確固たるものにしていた。
「それで、潭麗たんれいが筆頭絵師になった数年後に、同じ内弟子として藤仁が入門しまして。境遇が似てるだとか、藤仁があんなんだから、思わず世話を焼きたくなるとかで。そういう色々をひっくるめて、潭麗たんれいは藤仁のことを、それはもう実の弟のように可愛がりましてね。周囲の誰が見ても肯定するほど、二人は仲の良い兄弟弟子でしたよ」
 だからこそ、実秋さねあきはとんと分からなかったと言う。潭麗たんれいが、藤仁にも御用絵試を受けると打ち明けなかったことが。筆頭絵師という立場を得ていながら、どうして御用絵試を受けようと思うに至ったのかさえも。
「破門すると琳也先生がおっしゃったときは、藤仁が食ってかかって。えらく庇ったり、潭麗たんれいにも考え直せと説得しようとして……。藤仁も動揺していたのだと思います」
「あの藤仁が……?」 
「えぇ。それはもう。けど、潭麗たんれいは結局破門されて、奥絵師になっちまった。今はもう、琳也先生の前ではヤツの絵も名も、もちろん御用絵試についても禁句です。……ま、藤仁は潭麗たんれいが奥絵師になってからも、ふみでのやり取りはしてるみたいですよ。近況は藤仁づてに時折聞いておりましたが、そういえば最近はぱったり聞かなくなったなぁ……」 


 空を染め上げていた鮮やかな茜色が、西の淵へと消えていく。その後を追うように現れた月のもとには、闇夜に仕える瑠璃、藍、紺の彩りがつどっていた。
 朝の絵手本捜索に加え、一日の仕事を淡々と終えた芦雪は、朝と同様に松乃とふたり、居間で夕餉を口にしていた。
 隣の空白を一瞥するも、そこに温度はない。藤仁は芦雪とともに湯屋へ行ったあと、「散歩してくる」と言って出かけてしまったのだ。
 普段通りならば、「せめて夕餉の時ぐらいは皆で食べるようにしろ」と口を酸っぱくして引き止めていたところだが、今日はどうにも気まずく、そうするのが憚られた。
(それもこれも、蔵で見た藤仁の絵のせいだけど……。結局、俺が知りたかったことはあまり分からないままだったな……)
 二秋ふたあきと蔵を捜索し、本来の目的であった絵手本は無事見つかった。芦雪個人の目的でもあった藤仁の過去の絵も見られたものの、藤仁自身の過去については、深い部分まで窺い知ることはできなかった。
 ほんの少し彼の芯を垣間見られたと思いきや、見えたものは幻のように、風にさらわれて消えていく。藤仁は己のことを話さない分、いつもその繰り返しだ。
 誰にだって、言いたくないことの一つや二つあるのは当然のことである。根掘り葉掘り聞くようなことはしたくない。芦雪ですら、聞かれたくないことや踏み込まれたくないことは多分にある。そんな自身を棚に上げ、藤仁に開示を強要するのも、こうして裏で密かに調べようとするのも、本来筋違いであろう。
 ——ならば、目の前に横たわる事実から、少しずつ今の藤仁のことを知っていけば良い。それで十分ではないか。
 そう思う反面、藤仁に仲の良い兄弟子がいたことや、彼と今でもふみを交わす仲だという事実が、澱となって芦雪の心を覆っていく。
 身体を重ねているからなのか、かりそめの師弟として彼と過ごす時が増えたからなのか。日に日に、藤仁に対して欲深くなっていく自身が恐ろしい。
 芦雪がため息を吐くと、それを捉えた松乃は、椀を置いて口を開いた。
「あの……。何か、苦手なものでも入っておりましたでしょうか……? あっ、もしかして魚が焦げておりましたか!? 焦げた部分は私の方に移動させたと思っていたのですが、もしそうなら……!」
「へ? あ、いやいやいや! そういうんじゃないんだ! 今のは……少し、考えごとをしていてな! お松の作る飯に嫌いなものなんてないし、焦げてもない。今日も美味しく頂いているよ」
 すまない、と謝れば、松乃は安堵したのか、胸を撫で下ろしていた。
 ありもしない誤解を生じさせてしまったことに、芦雪の中で申し訳なさが募る。芦雪は箸を置くと、身振り手振りを交えて明るい声音で語り始めた。
「それが今朝、二秋ふたあき殿と蔵に行って潭麗たんれい殿の絵を見てな。彼は藤仁と仲の良い兄弟弟子だったと聞いて……。あの寡黙で頑固な藤仁にも、可愛がってくれるような兄弟子がいたんだなぁと……」
 直後、かつて目にした藤仁の涙が、芦雪の脳裏を掠める。
 雷鳴が轟く中、彼の薄い唇からすがるように落とされた者の名が、瞬く間に駆け巡った。
「……なぁ、お松。お前たち兄妹には、兄もいるのか?」
 松乃はきょとんと小首を傾げた。しかし、すぐに首を横に振りながら応える。
「おりませんが、どうしてです?」 
「そう……か……。いや、あのな。藤仁が以前、雷に怯えてた時に言ってたんだよ。『藤之進とうのしん兄上』って。泣きながら……。そう、兄弟子殿の他にも、それについても色々と思い出して、考えてしまってな」
「考え事ばかりは良くないな」と芦雪は前髪をかき上げながら、乾いた笑いとともに口端を引き上げる。いつものように松乃も微笑み返してくれるものかと思いきや、彼女は瞠目したまま、身動きひとつすらしていなかった。
「お松……?」
「あ、いえ……、その……」
 松乃は我に返ったようだったが、戸惑うように視線を畳の上に泳がせている。今度は芦雪が首を傾げていると、少女はぎこちなくも唇を動かし始めた。
藤之進とうのしんは兄弟子の……潭麗たんれいの名です」
潭麗たんれい殿の?」
「はい……。潭麗たんれいは雅号なのです。芦雪様ももうご存知の通り、私たち兄妹のことを本当の弟、妹のように可愛がってくださった方でしたので……。私も兄上も、あの方のことは『藤之進とうのしん兄上』と呼んでお慕いしておりました」
 遠い過去に思いを馳せるように、松乃の眼は瞼に閉ざされ、優しい語りが居間に満ちた。
「それこそ今の芦雪様のように……天気の悪い日は、兄上に一日中ついていてくださるような……。本当に、心の優しいお方でしたよ」
 つきり、と。芦雪の胸裏に、一筋の痛みが走る。
 雷に怯え、ひとりになることに怯える藤仁をかつて宥めていたのは、兄弟子の潭麗たんれい——いや、藤之進とうのしんだったのだ。ゆえに、藤仁と曖昧な関係が始まったあの日、彼は藤之進とうのしんの面影を追ってその名を口にしていたのだろう。
 今でも、藤仁は藤之進とうのしんに会っているのだろうか。仲の良い兄弟弟子で、彼が破門されたあともふみを交わしていたと実秋さねあきは言っていた。
 奥絵師となり、身分に差ができたとはいえ、藤之進とうのしんが会おうと呼び寄せれば、何の問題もなく会えるはずだ。
 松乃を見つめ、無言のままに続きを請う。だが、彼女の唇は再び閉ざされていた。
 大きな瞳には苦悶の色が差し、兄と同じ黒鳶色の水面が揺れる。芦雪に注がれる視線は、芦雪を通して別の誰かを見ているようだった。
 刹那、少女の眦が緩む。松乃は、困ったように微笑んで言った。
「……こうして、藤之進とうのしん兄上を懐かしいと思うことはできても、今はもう会えません。彼は……亡くなっておりますから」 
「亡く……なった……?」
「えぇ。去年の秋に。狂犬たぶれいぬに噛まれた折、その毒気にやられてしまって……」
 ——藤之進とうのしんは亡くなっている。告げられた事実が頭の中を吹き抜け、両肩に重苦しくのしかかってくる。松乃にとっても家族同然だった者の死を、今一度思い出させてしまったことに何と言えば良いのか、それすらも分からなかった。
「兄上の落ち込みようは、それはもう見ていられないほどでした。このまま藤之進とうのしん兄上の後を追ってしまうのではないかと、不安になるぐらいに」
 松乃は当時を思い返しているのか、膝上に置いた指先に力を込めていた。
 松葉色の振袖に小さな皺が幾重にも刻まれたが、しばらくすると、それらはゆっくりと解けていった。
「それから半年が経って。芦雪様に出会ってからというもの、少しずつではありますが、藤之進とうのしん兄上に出会う前の兄上に戻ってきていて。……芦雪様に江戸へ来て頂いたこと、そして私たち兄妹に出会ってくださったことに、感謝してもしきれません」
「本当にありがとうございます」と松乃は泣き笑いにも似た表情で礼を述べた。
 芦雪は首を振って否定する一方で、松乃の言葉にも腑に落ちてしまった。やはり藤仁は、芦雪自身を見ていないのだと。
 彼は芦雪を通して、かつて慕っていた兄弟子の面影を求めている。芦雪は、ていの良い身代わりなのだ。
 だからこそ藤仁は、芦雪との関係に思うことはあっても、何も言わないのだろう。
 縁を絶ち切ってしまえば、もう一度現れた藤之進とうのしんの幻影が消えてしまうのではないかと、彼はその終わりを恐れているのだ。
(たとえそうなのだとしても、俺は……)
 ——心は繋がらなくとも、身体だけは繋がっていたい。
 とめどない欲に、芦雪の思考は飲み込まれていく。己ではない何者かが、頭の中で口端を上げて笑っていた。