第十五筆「蜜約」

 地のふちに夕陽が溶けだし、江戸の街並みが茜と瑠璃の淡いに包まれ始めた頃。芦雪ろせつが流屋の母屋に戻り、勝手口の戸を閉めた時のことだった。
「芦雪様! おかえりなさいませ!」
 黒鳶色の髪先がなびき、勢いよく芦雪の胸元に飛び込む。
「おっと……。随分と熱烈だな、お松」
 妹分の身体を難なく受け止めれば、兄とよく似た面差しが上向く。愛らしい少女の眼は潤み、不安と安堵が溶け合っていた。
「遅いです……っ! 心配……、したんですから……!」
 芦雪が何も言わず、微笑んだまま松乃の頭を撫でてやれば彼女は反抗するように、芦雪の胸元を何度も叩いた。待つばかりの身だった彼女は、不安に駆られていたのだろう。
「悪い、心配かけたな。ちょっと寄り道してたんだ。庵の仕事は問題なく終わったよ」
 庵の仕事、という一言に、松乃はらしからぬ態度に我に返ったようだった。芦雪に振り下ろしていた拳が動きを止める。
「そう、ですか……。こちらこそご迷惑をおかけして……。此度は本当に、本当にありがとうございました……」
 松乃は芦雪から身を離すと、力なく頭を下げた。未だ不安と安堵の波が消えないのか、彼女の肩は震えている。
 芦雪の指先は、再び松乃に向かいかけるたが、引かれた線を前に戸惑いが先立ち、結局それはただ空気を掴むだけに留まった。
「……藤仁の様子はどうだ?」
 芦雪の口から絞り出されたのは、場を和ます冗談などではなく、少女の兄の名だった。合わせて、口端をだらしなく緩めて見せると、松乃は形の良い眉尻を下げ、平生に見る微笑を湛えた。
「まだ熱はありますが、朝ほどではありません。先程お薬も飲ませましたし、安静にしていれば明後日辺りには全快しているかと」
「そうか……。良かった」
 藤仁にも、松乃にも。大切な二人に何もなくて良かった。やはり、今回の己の決断は正しかったのだ。たとえ、彼女に不安と心配を強いたのだとしても。
「……藤仁の様子を見てくるな」
「はい。夕餉もできておりますので、あとで居間においでくださいね」
「あぁ。いつもありがとう」
 小さく頭を傾げる松乃に見送られ、芦雪は軋む床音とともに藤仁の自室へ向かった。
 母屋の最奥にある藤仁の部屋は、朝と何ら変わり映えのない様子で沈黙を守っている。昨日、襖を隔てた向こう側で、部屋の主と身体を重ねたことは記憶に新しい。熱を孕んだ吐息や、耳を刺すような自身の甘い喘ぎ声が、未だ部屋の中から漏れ聞こえてくるようで、芦雪は慌ててかぶりを振る。
 記憶を頭の隅に追いやり、嘆息をひとつ、部屋の前に落としてから、「藤仁、開けるぞ」と控えめに声を投げた。
 襖を開ければ、障子窓を透かしてもなお鮮やかな夕彩が芦雪を出迎え、視界を埋める。胸元を静かに上下させて寝入る者の山並みは、畳の上に小さくも濃い影を落としている。西日が彼の瞼を撫でているせいか、その眉間には皺が刻まれており、幾分眩しそうだった。
 芦雪は暫しその場で思考した後、かすかな衣擦れの音を軌跡に残しながら、障子窓に向かっていく。ちょうど、藤仁の寝顔へと日が射し込む辺りに背を向けると、彼の枕元にようよう腰を下ろした。
 長く伸びた影が花のかんばせを包み、男の眉間の皺が少しばかりほどける。それに安堵して、芦雪は小さく口端を引き上げた。
 下ろされた前髪をそっと掻き分けながら、藤仁の額に手を添える。掌に薄く汗が伝うが、松乃の言う通り、熱は徐々に下がりつつあるようだった。平熱とまではいかないものの、快方に向かっているのが肌越しにも感じられた。
 藤仁の長い睫毛が、小さく震える。やがてゆっくりと瞳のとばりが上がり、露を宿した黒鳶色の水面が漫然と芦雪を映した。
「……悪い。起こしたか?」
 男の髪先を指に絡め、芦雪は惑う心をどうにか宥める。唇を慣れた形に成して問えば、藤仁は未だ揺蕩たゆたう意識のままに、薄く口を開いた。
「ろせつ……」
「ん?」
「君は……ろせつ、だよな……?」
 微睡まどろみを含んだ掠れた声が、名を紡ぐ。芦雪の鼓動は音をたて、大きく跳ねた。
 頭の中では、他人事のように守信の忍び笑いが響いている。芦雪がどう答えるのか、期待しているかのようだ。
(……黙ってろ)
 ──ふふっ。はいはい。
 当の本人はさも愉快そうだ。どこまでも自由な青嵐は、密やかな笑い声とともに虚空に消えていった。
 あれがもう一人の自分などと、決して認めたくない。認めねばならない事実は推測を含めて多分にあるが、今首肯せねばならぬことでもない。
 これから藤仁に言うことは嘘ではない。芦雪は逆立った思考でそう言い訳した。
「お前の言う通り、俺は芦雪だよ。……それ以外に、何に見える?」
 藤仁の髪先に指を通し、常と変わらぬ笑みを浮かべてみせる。一心に己を見る視線が、訝しげに肌を刺していた。
 嘘はついていない。ただ、一部の事実を伝えていないだけだ。
 負けてなるものかと、芦雪は笑みを崩さず、藤仁を見つめ返した。
 永遠の時の狭間にいるのではないかと、芦雪が冷や汗を流し始めた頃。藤仁は何かに安心したように瞼を瞬かせ、場に張り詰めた糸がほのかに緩んだ。
 彼は、薄く露を張り熱を持った瞳で、芦雪が現実に佇んでいることを確認しては、小さく息をこぼす。親の所在を確認し、安堵する姿は幼子そのものだ。生憎と芦雪は藤仁の親ではないが、それがどうにもいじらしく愛らしく思えた。
「なんだなんだ。お熱の藤仁くんは、寝惚けてるのかな?」
「……なんでもない」
 からからと笑いつつ、再び黒鳶色の髪を梳く。藤仁は視線を外し、小さく身動みじろいでいた。
「あのさ、藤仁。昨日……」
「……?」
「あ、いや……」
 胸裡でくすぶっていた火花が、赤々と煌めく。それに背を押されて、藤仁は何かに安心したように、瞼を瞬かせたのだは唇を動かし始めたものの、すぐに口を噤んだ。
 ──きっと、熱に浮かされていた藤仁は忘れている。芦雪と身体を重ねた事実など。聞く意味のないことは聞かなくていい。自分だけが覚えていれば、それで。
 芦雪は目を細め、藤仁の頬に指先を伸ばした。
「……今日の依頼、お松の協力もあって無事に済んだぞ。後でお松に礼を言っておけよ」
「ん……」
 存外にやわい頬を指の背で撫でてやると、藤仁はくすぐったそうに目を眇める。彼の何気ない表情ひとつで、愛おしさが先立つ。明確な形を持たぬ期待はその影に隠れ、やがて朝顔のように弱々しく萎れていった。
 あれは、もう二度と見ることはない、儚い夢だ。想いを吐露する術はなく、するつもりもない。こんこんと募る恋しさを、ただくゆらせるだけである。胸裡に広がるけぶりは幻であり、一時の気の迷いにほかならないのだ。
 唇には弧を宿し、芦雪は平静を装い慣れた声音で言った。
「……あぁ、そうそう。采梅あやめ殿からな、報酬も貰ったんだ」
 袂から包金つつみがね画所えどころの書状を取り出し、藤仁に差し出す。
「これ、そこの文机に置いといて良いか? 采梅あやめ殿から返された小箱も一緒に……」
「返された……?」
 捧げ持った桐の小箱に身に覚えがないのか、藤仁は眉尻を跳ねさせ、疑問を呈した。
「貸したものじゃないのか? 本人は借りたものを返すって言ってたから、てっきりそうなのかと思ってたんだが」
 藤仁の背に手を添えて助け起こしつつ、小箱をその手に握らせる。芦雪は羽織っていた上着を脱いで、彼の肩に預け変えると、自らも重い腰を上げて文机に二つの報酬を置いた。
「何を貸してたんだ?」
 桐箱を開けた藤仁に視線を送りながら、先刻と変わらぬ位置に腰を下ろして問う。だが、彼は微動だにしない。動揺と不安を溶け込ませた双眸が、箱を見下ろしていた。
 白色のゆらぎを身に宿した、親指ほどの小さな唐獅子の彫り物。かの獅子はやしろを守る狛犬の如く、掌に収まる大きさの台座に行儀良く座っている。材質は水晶だろうか。部屋を包む夕陽を僅かに透かし、唐獅子の表面を這う一筋のひび割れに、影が落ちている。
 藤仁は、片耳を失った獅子の輪郭を丁寧になぞり、かすかに濡れた声を絞り出した。
「父の……形見だ」
 遠い過去に思いを馳せるように、陰を含む瞼が伏せられる。長い睫毛が震え、深き慈愛を湛えた瞳が再び現れた時、藤仁は小箱の蓋を静かに閉じた。
(ほんの僅かだが、台座の端に朱が残っていた……。形状と大きさからして、あれは落款らっかん印だろうか。藤仁の言葉から察するに、藤仁のお父上が生前絵に使っていたもの……?)
 落款らっかん印とは、絵や書画における署名と同様の役割を持つ印のことだ。作品が完成した時、落款らっかん印を押すことによって、「この作品を作り上げた」という作者としての証明や、作者の独自性が生まれる。
 世に名を馳せる絵師であれば、落款らっかん印を人に渡すことは決してない。印さえ手に入れば、その印ひとつで贋作を真作だと偽ることも可能であるし、悪用されかねないからだ。
 それなのに何故、藤仁は危険を冒してまで、依頼人の采梅あやめに自らの父親の落款らっかん印を貸していたのか。彼の父が絵師だったという事実は、ちょうど松乃から小耳に挟んだばかりだ。著名な絵師だったのか否かは定かではないが、無名だから貸しても良いとはならない。
 なにせ、父親の形見だ。芦雪が藤仁の立場であれば、他人に渡すことも、あまつさえ触れることさえ許さない。大切な者が遺してくれたものとは、そういうものだ。
 藤仁が落款らっかん印を貸した真意に皆目見当もつかず、芦雪は首を傾げるほかなかった。
「芦雪」
 淡い藤花の揺らめきが、顔を上げた芦雪を閉じ込める。
 心の内に入ってこいと、招かれているような。けれど暗鬱としたものは手渡したくないと、迷っているような。部屋から音が連れ去られ、芦雪は眼前の男をやけに遠く感じた。
「……ありがとう。……その……。色々、助けて……くれて……」
 無音の湖面に落とされたのは、ささやかな礼節だった。 
 あまりに唐突なことに、芦雪は目を瞬かせたが、一方の藤仁は視線を己の手元へと戻している。返答がないことが心もとないのか、彼は小箱の縁を指でなぞりつつ、唇を小さく引き結んでいた。
「……明日は雪か?」
 やっとの事で芦雪の口をついて出たのは、明日の天気を心配する言葉だった。口に出すはずの思いは形にならず、喉元でほどけて胸中に還っていく。おかげで、藤仁はひどく不服そうに口端を引き下げていた。
「なんでだ」
「いや、だってさ……。藤仁が俺に礼を言うなんて、初めてじゃないか?」
 藤仁は、一人で抱え込むがゆえに、何でも己だけでこなす。芦雪に助けを求めてきたことなど一度たりともない。目付けの毎日の呼びかけなぞ、藤仁は本来必要とせず、芦雪に礼を言う必要もない。
 一度だけすがりついてきたのは、後にも先にも昨日の──雷が鳴っていた時だけだ。昨日の藤仁は平常ではなく、身も心も弱っていた。
 ゆえに、いざ真面目に礼を言われると、素直に受け止めきれないのだ。無力に思える己でも、藤仁の力になれたのだと心の足裏をくすぐられているようで、面映くて仕方がない。
「……まぁ、俺がいつもお前の世話をしてるようで、逆に世話になってるってのはあるかもしれないけどさ。発作の時とか」
「ふ……。それは違いないな」
「ひど……」
 くすくすと、春の木漏れ日のような笑い声があがる。写楽と同じやわらかな声音と、弧を描いた薄い唇。友の面影が重なり、芦雪もつられて屈託なく笑った。
(あぁ……。好きだなぁ……)
 兼ねてから望んでいた、自身にだけ向けられる春花の綻びを改めて目にし、芦雪はしみじみと思慕の深さを理解する。
 ──なればこそ、覚悟を決めねばならない。
 芦雪は居住まいを正し、呼吸を整える。油断すると胸から鼓動が転がり落ちそうになるのをどうにか堪え、眦を緩めた青年を真っ直ぐに見据えた。
「なぁ、藤仁」
 改まった雰囲気と、いつになく真剣な眼に不安を覚えたのか。藤仁の表情から友の面影は消え失せ、冬の如き固さを帯びて息を詰めている。
 心の底地で、今か今かと決意の焔が揺れる。灯したばかりの温度が消えぬように、芦雪は輪郭のないそれに薪を焚べた。
「尋夢庵の……写楽の顔として、今後も俺を使え」
 ぱき、と。何かが爆ぜた音がした。切れ長の黒鳶色はこれ以上ないほどに見開かれ、夕彩を反射して煌めいている。
 芦雪が口にした提案は、部屋の沈黙をより深く、濃くしていくばかりだった。藤仁は何も言わず、ただ静かに、放たれた言葉を少しずつ己の中に溶かしている。芦雪は、ままよと続けた。
「藤仁が何らかの事情で動けなくなった時、困るのはお前だろう。庵への依頼人にも迷惑がかかるし、庵の評判にも関わる。事情を知る妹の松乃にも任せられないのなら、備えとして別の人間を控えさせておいた方が良い」
「そんなことには……」
「なってるじゃないか、現に今日。それをどう説明するつもりだ?」
「それ、は……」
 何事にも常に明瞭に、歯切れ良く応える藤仁だが、今ばかりは違った。ひどく曖昧で、言葉の矛先に迷いがある。覆い隠された藤仁の一端を、ようやく垣間見れたような気がした。
 流屋の筆頭絵師、果ては尋夢庵の主としての二重生活が、長きに渡り藤仁の身体を蝕んでいる。今しがた芦雪が放ったものは、藤仁の負担を減らしてやりたいという兄心、いわばお節介から来るものも勿論ある。しかし、それは建前だ。
(藤仁は写楽の立場を利用して、これから何かを為そうとしている。良いことならいいんだ。俺の邪推に過ぎないのなら、それで。だがもし……そうじゃなかったとしたら……)
 日頃から、絵に対して強迫的なまでに真摯な姿勢。写楽の姿で見せた、狩野派への嫌悪と不信感。それにもかかわらず、狩野派の画所えどころとの繋がりを求める理由。采梅あやめから紹介状を受け取った時に感じた予感。重なる些細な違和感が小骨となり、今なお芦雪の喉に引っかかっている。
(もし、藤仁が写楽の立場を利用して、何かを為そうとしているのなら。俺はこいつを止めなければ……。いや……)
 ──守らなければならない。藤仁がこの先、こうむるかもしれぬ困難から。自罰的に何かへと駆り立てる恐怖心から。ひとり強くあろうとする孤独から。
 藤仁とともに、写楽としての面布かおぎぬを戴く。この決断と覚悟は、いずれ藤仁を守る盾となるはずだ。お節介だろうと、余計なお世話だと突き放されようと、構うものか。
(お前をひとりにさせない。……させるもんか)
 淡く茜をまとう藤仁の長い睫毛は、やはり惑うが如く下向いている。小箱を包む両手には力を込めたまま、彼は押し黙っていた。
「あー、もう! わかった!」
 煮えきらぬ沈黙に耐えかね、芦雪は声をあげた。突然切り裂かれた空気に驚いたのか、藤仁の肩が小さく跳ねたが、生憎と芦雪には知ったことではない。
 芦雪は長い前髪をかき上げながら、ため息混じりに口を開いた。
「本音を言うとな。今、ゆかり殿の行方を追うのに難航してるんだ。お前の四魂も頑張ってくれているみたいだが、二人だけではどうにも難しい。彼の消息を掴むためにも、もっと色んな人間から話を聞きたいんだ。……だから、尋夢庵に身を置きたい」
 本当の願いなぞ、口が裂けても言えない。守られることを、藤仁は望んでいない。
 ならば、ともにいてやれる理由を、いていい理由を、今ここで無理矢理にでも作る。自身が江戸へ来た目的を、言い訳に使ってでも。
「藤仁は、いざという時の尋夢庵の人手が欲しい。互いの利は一致してる。悪い話じゃないだろ? ……藤仁。俺と取引しよう」
「取、引……」
 藤仁は、芦雪が持ちかけたそれを舌上に乗せ、反芻している。小箱を包む無骨な手は、かすかに緩んでいた。
 取引という形ならば、と思い至ったのか。藤仁は少し考え込む素振りを見せたあと、やがて小さく頷いた。
「よし、交渉成立だ。改めてよろしく頼む」
「あぁ……」
 思惑も、己の腹の底も。決して藤仁に知られてはならない。月を覆い隠す叢雲さながらに、芦雪は満面の笑みを貼り付けた。
 一方、自分で了承したというのに、藤仁は浮かない顔のままだ。力を失くしたはずの両手は、すがるものを求めるように、形見が入った小箱を強く握り直していた。
「怖がることは何もない」と、藤仁の手の上に重ねかけた指先は、やはり宙を掻いて膝上に舞い戻る。それを悟られまいと、芦雪は笑みの形を思い出し、藤仁ににじり寄った。
「なぁ、ついでにさ。もう一個、俺のお願いを聞いてくれたりしない?」
「なんだ、突然」
「いや、今のお前なら何でも聞いてくれそうだなーと。……ね、藤仁兄上?」
 以前は拒絶で斬って捨てられた得意の上目遣いで、芦雪は揺らめく黒鳶の双眸を見つめる。平常でない今の彼なら、及び腰な自分を全て忘れさせてしまうような、面白くも可愛らしい反応を返してくれるのではないか。芦雪は、そんな期待を寄せていた。
 すると藤仁は、芦雪の幼い企み通り、ふいと視線を手元に落とした。
「内容による……」
「へぇ。聞いてくれるんだ?」
 久方ぶりに、してやったような充足感が体内に満ちる。渇きに喘ぐ心に享楽の水が与えられ、芦雪は藤仁を見つめたまま、湧き出る欲にふけった。
「じゃあ、そうだな……。俺の絵のお師匠様になってくれる?」
 ひと月前に断られた願いを、ここぞとばかりに口にする。今回も、為すすべもなく拒否されることはとうに分かっている。ただ、今は藤仁を揶揄からかうための文句があれば、それで良かった。
 案の定、藤仁は身を固くし、瞼をかすかに震わせている。芦雪は思い切り口端を引き上げて、悦に浸った息を漏らした。
 嘘だよ、と彼の肩を叩こうとして、手を伸ばした時だった。暗色を深くした一対の眼が芦雪の動きを絡め取った。
 瞳の奥を見透かそうとするような。芦雪ではない誰かを探しているような。隠し通そうとしていた腹中をも暴かれたように感じ、芦雪は畳についていた手のひらを取り戻した。
 刹那、藤仁は目を伏せて小さな息を落とすと、形の整った唇を開いた。
「……良いだろう。君の師になろう」
「えっ……」
「勘違いするな。ゆかり殿が見つかるまでの間だけだ」
 藤仁に迷いはない。明瞭で歯切れよく、淡々と話を進める平生の姿がそこにあった。
 何故、以前にべもなく断ったはずの願いを、今になって了承したのか。やはり今の藤仁は平常でないからか。単に気まぐれなのか。
 けれど、御用絵試まで時間が残されていない芦雪にとっては、願ってもない話だった。この際、受け入れてくれた理由を聞く意味はない。心の端は喜色に濡れ、芦雪の表情は月の如く歓喜に満ちて輝いた。
「その代わり……見返りが欲しい」
 芦雪の視界が、二度瞬く。藤仁が付け加えた条件は、芦雪の凪いだ脳裏を突風のように駆け抜けていった。
「み、見返りって……。写楽の仕事を手伝うのじゃ駄目なのか!?
「それは、君がゆかり殿の消息を追うためという願いと、俺の人手が欲しいという要望で相殺されただろう。何かを願うなら、同等の対価が必要。……これは、君の言う取引だ」
 藤仁は至って冷静だった。淡々と、粛々と、芦雪が呈した事実と理論とをありのままに並べていた。
(言うんじゃなかった……)
 片手で顔を覆ってしまうのも無理はない。気遣いから放った言葉が、形を変えて返ってくるとは、一体誰が思うだろう。しかし、藤仁に絵の指南を請える千載一遇の機会を、ここで逃すわけにもいくまい。
 見返りは銭だろうか。藤仁も絵師とはいえ商人だ。貴重な時間を芦雪に割き、そのうえ己がこれまで血の滲むような研鑽で培ってきた技術を少なからず伝えるのであれば、相応の銭がなければ割に合わない。当然の見返りだ。
 覚悟を決め、されど提示されるかもしれない額に僅かな不安を抱えつつ、芦雪は「……で、俺は何をすれば良い?」と問うた。
 藤仁の唇は強ばり、鳴りを潜めていた戸惑いを色濃く見せている。腑に落ちない反応に芦雪が小首を傾げた時、彼は囁くように小さな声で答えた。
「雷が鳴る日は……そばに、いてくれないか……」
「へ?」
「……そばに……いてくれるだけでいい」
 男の瞳に滲んだ、淡い春花の色が揺れる。水面に映る芦雪の影は頼りなげに輪郭を溶かしている。
「そんなの……」
 ──頼まれなくたって、いくらでもそばにいてやるのに。
 けれど、その一言を藤仁に渡すのは、幾分難しいように思えて。
「……あぁ。分かった」
 ただ頷いて、安心を与えるように微笑んでやることだけが、今の芦雪にできる、精一杯だった。


 何者も寄せつけぬ静謐さを保つ母屋の石庭に、薄い影が落ちている。人々の活気も息づく昼時だというのに、空にはにびを湛えた薄雲が敷き詰められ、色の少ない庭をいっそう侘しいものにしていた。
 芦雪は、石庭を臨む縁側でひとり胡座をかき、休憩も兼ねて庭の石苔を眺めていた。
(雨……降りそうだなぁ……)
 ここ二、三日は天候に恵まれ、松乃は「お洗濯物がすぐに乾いて嬉しいです」と年相応に愛らしい笑みで喜んでいたが、今日明日は彼女の表情も曇ってしまうかもしれない。
 藤仁が倒れた五日前も雨が降っていた。雫が滴る足音とともに、入梅の日が静かに近付いているのだろう。
 雨が続く時期は、人々の表情と心に暗鬱とした陰を落とすが、芦雪にとっては逆だ。
 障子窓を透かして映る、一線の影たちを見るのが、幼い頃から好きだった。外と内を隔てる障子を引けば、ぬるい空気が頬を撫で、同時に、土と葉の青く濃い香りが鼻腔をくすぐるのもたまらない。地面を優しく、時には激しく叩く雨の音を、薄暗い部屋の中で楽しみながら、穏やかに意識を手放していくあの感覚も良い。
 何より、雨の日は皆が家の中にいる。芦雪は外に出ることもままならず、とこの上で過ごす時間が長かった故に、晴れの日は独りだった。家族や幼馴染を外に連れ出す太陽が嫌いだった。
 しかし、陽の姿が雲の衣をまとって雨を置いていくと、家族は決まって家の中で手仕事をしながら、芦雪の布団の周りに集まり、そばにいてくれる。身体が多少丈夫になった今でも、かの思い出は鮮やかに、数少ない記憶を彩っている。
(それに、雨が降ったらきっと……雷も鳴る……)
 ──雷が鳴る日は……そばに、いてくれないか……。
 藤仁が全快し、再び普段の姿に戻ってから早三日が経つ。だが、彼と交わした取引は生憎と履行する機会がないままだ。
 雨が降れば、雷も鳴る。雷が鳴れば、藤仁のそばにいられる。不純な動機だが、この一件で、芦雪はますます雨の日を心待ちにするようになっていた。
「芦雪さん」
 透明感のある声音に名を呼ばれる。芦雪が振り返ると、松乃の面影を宿したひとりの女人が佇んでいた。
「野菊殿……。いかがなされた?」
 年齢を感じさせぬ瑞々しい風貌と佇まいは、相も変わらずだ。成人した息子や娘がいる母親には見えない。松乃がもう少し歳を重ねれば、姉妹でまかり通ってしまいそうだ。
 驚く芦雪をよそに、野菊はたおやかに笑んだまま、湯のみと小皿の乗った盆を少しばかり持ち上げて言った。
「贔屓にしている店の草餅が手に入りまして。丁度八つ時ですし、おひとついかが?」
 人の良い微笑には有無を言わさぬ強制力があり、芦雪は頷くほかない。野菊は母親然とした笑みを深めると、悠然と腰を下ろした。
 彼女がまとう空気が揺らぎ、清やかな薫香が漂う。嗅ぎなれた墨の香りに、芦雪の心は凪いでいく。野菊から香るこのかおりは、松乃とともに日々、藤仁や工房の絵師らのために大量の墨を磨り、顔料に混ぜるにかわを煮出しているからだろう。
 身の回りの世話や細やかな仕事を文句一つ言わずこなす母娘には、日々頭が下がる。
「はい、どうぞ」
「かたじけない……。 野菊殿の分は?」
「私は先程頂きましたよ。お気遣いありがとうございます」
 野菊は頭をやや傾げて優美に答えると、再び目の前の菓子と茶を手で指し示した。小皿の上には、蓬の若芽を溶け込ませた草餅が座っている。芦雪はおずおずとそれを手に取り、ようよう口に含んだ。
「……あのね、芦雪さん。実は、二人きりでお話ししたいことがありましたの」 
 草餅の欠片を口内に招き入れ、喉を鳴らす。舌上にはねっとりとした小豆の甘みが残り、喉が渇いていく。芦雪は湧き出る不安を宥めるように茶を飲み込むと、「……話、とは」と硬い声を絞り出した。
「尋夢庵の仕事。……手伝って下さるのでしょう? そのお礼を、お伝えしたくて」
 野菊は縁側の床板に指をつけ、深々と頭を下げた。
「尋夢庵はそもそも、先代の写楽……子どもたちの実父が遺してくれた、数少ない大事なものだから。きっと、藤仁も心から芦雪さんに感謝していると思います。だから、そばで見守る者としてお伝えしたかったのです」
 面差しに寂寥を湛え、野菊は再び礼を述べた。芦雪の中で凝り固まっていた暗色は途端にほどけ、強ばった肩から力が抜ける。芦雪は「大したことはしていない」と何度も首を横に振り、彼女の頭を無理矢理に上げさせた。
「ご亭主も写楽殿……だったのですね……」
「えぇ。あの人……綾信あやのぶ様も本業は別にあったのですけど、そちらの仕事は家業ゆえに好きになれなかったみたいで。ですから写楽の仕事は、生家への反抗と趣味で始めた人助けの真似事なのですよ」
 写楽は、元を辿れば兄妹の父が始めたものだった。二人に遺されたという鶯の四魂、雛梅が尋夢庵の守り役を務めているのも、今思えば納得がいく。
 芦雪が驚きを深める中、野菊は当時に思いを馳せるように瞼を伏せる。「……本当に、変わった人だったのですよ」と、小さく笑い声をこぼしながら、彼女は語り始めた。
 兄妹の実父である綾信は、彼らと同じ直霊なおひの絵師であったという。
 幼い頃から力の使い方は心得ていたが、己の力を人のために使いたいと決心し、庵を営み始めたのは、藤仁が生まれてからのことだった。
 綾信は生来より、ひとり気ままに過ごすことを好んだ。家業に必要な才は十分に備わっていたものの、青年期はそれらも長男としての自覚もないままに家業を放り出し、度々出歩いては気に入ったものを絵に描いて過ごしていたようだった。
 その後、嫌々ながらも家の取り決めで妻を娶り、一男一女を授かった。血脈を繋ぐことを課せられた人間にとっては当然のことだが、彼の中では大きな変化だったに違いない。
 守るべき血を分けた小さな存在がこの世に産まれ落ちて初めて、彼は自分以外の者を視界に入れることを覚えた。
「綾信様は、亡くなる最期の瞬間ときまで、子どもたちの行く末を案じていた。だからこそ、託された私は二人を守らなければと思うております。たとえ、この身に代えようとも」
 庭を見据えて断じる整った横顔は、凛とした静けさをまとい直している。彼女の黒鳶色の眼に、春海の女浪めなみに似た穏やかさはない。迫り来るもの全てを薙ぎ払わんとする、嵐の男浪おなみの猛々しさが含まれていた。
「藤仁を……どうか、見守ってやってね」
 慈愛に満ちた声音で告げる野菊の口元には、元のたおやかな弧が宿っている。彼女は誰よりも我が子のことを想う、ひとりの母の眼差しを芦雪に向けていた。
「あの子は、どんなに苦しくても悲しくても、決して周囲に見せない子だから……」
 風に煽られた庭木の葉々が擦れ合い、野菊が告げたばかりの言葉を呑み込んでいく。
 縁側にかかる薄雲の影は濃くなり、草木の青い匂いをまとった風が頬を撫でる。それは二人の間を吹き抜け、僅かに障子を揺らして、輪郭を残さぬままに消えていった。
 芦雪が薄く唇を開いた時、庭の石を黒々と染めかえる音が、瞬く間にその場を支配した。
(雨……)
 待ち望んでいた天の恵みが降り注ぐ。浮世を包むだけに留まっていた慈雨は、やがて家屋の軒やぬかるんだ地面を強く打ち始め、自らの音を楽しむが如く激しさを増した。
「いけない、この雨では藤仁が……。ごめんなさい、芦雪さん。私はこれで失礼を……」
 翠雨を目にした野菊は立ち上がり、我が子の名を口にする。芦雪は思わず、急ぐ彼女の袖を引いた。
「……藤仁が、なにか?」
「あぁ、その……。あの子ったら、先刻起きたかと思えば、庵に絵筆を取りに行ってくると言って出かけたばかりなの。傘を届けにいかなくてはと……」
 どうやら、藤仁は今日も真昼間に身を起こしたようだ。松乃によれば、芦雪が目付けになった今では減った方だと言うが、ひと月に二、三度は朝を寝て過ごすことがある。
 今は流屋の注文も庵の依頼も落ち着いているため、夜通し仕事のために絵を描いているわけではなかろう。単に、藤仁の悪癖が片鱗を見せているのだ。
 大方、昨日は気の向くままに自分の世界に入り込んで、意識が自然と闇夜に沈むまで絵を描いていたに違いない。いざ、目を覚まして続きでも描こうかと思った矢先、愛用の筆が足りないことに気付き、尋夢庵に向かったのだろう。彼の行動経緯が容易に推測でき、随分と彼の思考に馴染んだ己に芦雪は呆れた。
 稲光を含む黒雲は、まだ姿を見せていない。今は雷の心配はなさそうだが、雨影は濃さを増し、酷くなる一方だった。
 ふと、寂れた庵の縁側でひとり、水滴の軌跡を見つめる藤仁の背中が脳裏に浮かぶ。
 日頃から絵屋の誰とも関わろうとせず、進んで独りでいようとする藤仁と、想像の彼の姿が重なったのだ。芦雪の頭の中で息づく藤仁は、寂しさにひとり耐えているかのように見えた。
「……俺が行きます」
「え?」
「この雨では、野菊殿の綺麗な着物が汚れてしまう。それに俺は、彼の目付けですから」
 雷はまだ鳴らない。己の責務は、まだ履行しなくて良い。けれど、藤仁のそばに行かなければと。今の彼に寄り添えるのは、自分しかいないのだと。芦雪は責任感と傲慢さが混じる感情を、「藤仁の目付け」としての称号で覆い隠した。
 随分と都合の良いお役目だなと笑ったのは、青嵐を含む不敵な青年だったのか。それとも、底無しの渇望からじっと己を見上げている何かか。
 芦雪は、空になった湯のみと小皿を盆に乗せて持ち、立ち上がれば、見慣れた黒鳶色の瞳は戸惑うように揺れていた。
 束の間、野菊は芦雪から盆を取り上げると、双眸に慈愛の色を戻して言った。
「じゃあ……。お願いしようかしら」
「はい。では、行って参ります」
「お気をつけて」
 野菊の見送りに背を押され、芦雪は二人分の傘を持って尋夢庵へと駆け出した。


 雨粒たちが視界を霞ませているせいか、通い慣れたはずの道のりは遠い。辺りが夜の衣をまとったように暗いこともあり、知らない場所へ向かおうとしている心地さえしてくる。
 ぬかるみに足を取られては傘が揺れ、はみ出す芦雪の肩は、容赦なく濡らされる。武家地の証しである白壁の道を通り抜け、庵の簡素な屋敷門をくぐった頃には、淡い銀鼠の着流しは濃い灰色へと染め変えられていた。
「藤仁、いるか? 迎えに来たぞ」
 身体を軽く手拭いで拭きながら庵の障子を開け放ち、殺風景な八畳間に視線を巡らせる。
 その時、背後の暗雲が稲光に割りさかれ、眼前の薄暗さが瞬きの間に取り払われた。
 青白い光が芦雪の視界を埋めつくし、同時に部屋の隅でうずくまった塊を映し出す。芦雪が瞠目した直後、腹の奥を揺さぶるような低い轟きが地を走り抜けた。
 天地を駆け抜ける音に耐えられなかったのか、膝を抱えて耳を塞ぐ塊は震え、その後は身動みじろぎひとつしなくなった。
「……藤仁? 大丈夫か? いたなら返事くらい……」
 うずくまる塊──もとい藤仁のもとまで歩み寄り、芦雪が畳に膝をつけば、彼は顔を上げて、何の警戒もなく芦雪の胸元に手を伸ばした。
 雨に濡れた布地には濃い皺が刻まれ、衣擦れの小さな音と浅い呼吸音が跳ねる。
 先日、熱に浮かされながら雷に怯えていた藤仁だったが、それは平常も変わりないようだった。障子の隙間から遠雷の鳴き声が滑り込むたび、彼は顔を伏せたまま肩を震わせた。
「大丈夫。もう大丈夫だから……」
 行き場をなくして宙をさ迷っていた両腕を、戸惑いながらも藤仁の背中に回す。大丈夫、大丈夫と繰り返しながら撫でれば、ほのかな吐息が肩越しに伝わり、心苦しくなる。
(本当に……藤仁は雷が苦手なんだな……)
 ──雷が鳴る日は、そばにいて欲しい。
 数日前に渡された願いは、藤仁にとっては切実なものだったのだ。彼のそばにいるため、それを利用しようとしていた邪な自分がみっともなく思え、芦雪は目を伏せた。
 雨粒を煽るように、空には再び雷鳴が轟いている。水滴が重なり合う音は大きくなるばかりで、とても外に出られる状態ではない。藤仁を迎えに来たものの、しばらくは庵で雨宿りしていた方が良いだろう。
 せめて、雨戸を閉めて音を遮ってやろうと芦雪が腰を浮かせば、強く袖を掴まれた。 
「もう、どこにも……どこにも行かないで……! おれの、俺のそばにいて……っ」
 藤仁は必死に袖口を握りしめる。孤独への怯えが、その瞳に滲んでいた。
 芦雪は、強く力が込められた指に手を添え、ひとつひとつ外しながら穏やかに言った。
「雨戸を閉めるだけだ。どこにもいかないし、すぐに戻るから」
 取り乱す藤仁をその場に置いて、半ば駆け足気味に縁側の雨戸を閉めていく。藤仁のもとへ戻って行灯あんどんに火を灯せば、闇の濃さを増していた八畳間はやわい光に照らされる。
「ほら。雷の音も少し遠くなった。もう何も怖いことなんてない。俺がそばにいる」
「うそ、つき……! みんな、皆おれを置いて、どこかへ……っ」
「俺はどこにもいかないよ」
「うそ……! うそだ!」
 嘘じゃない。否定のげんは、雨戸を突き破る雷鳴に飲み込まれる。藤仁の濡れた浅い呼吸に嗚咽が混じり、普段の落ち着きは鳴りを潜めていた。
「父、上……っ、……藤之とうのしん……兄、上……!」
 呼気の狭間に藤仁が絞り出したものは、亡き父を求める言葉。そして、聞き馴染みのない目上の者を慕う呼び名だった。
 藤仁にはかつて兄がいたのだろうか。家族は母と妹、義父だけだと聞いていたが、兄がいたなら何故その存在を隠していたのか。
 全てに口噤む男が、当然答えを明かすことはない。芦雪の思考がたたらを踏む間に、温もりを宿した何かが、芦雪の膝上に染み込んだ。
「藤仁……? お前……」
 震える男の頬に、あえかに触れる。涙で溢れかえり、今にも溶けてしまいそうな黒鳶色の瞳。頬を伝う雫は夜空を駆ける流星のように美しく、芦雪は息をするのも忘れてしまう。
 しかし、目の前に現れた儚い美しさは、残酷なまでに現実を教え込む。彼の眼に、芦雪は映っていない。映っているのは別の誰かだった。
 すがる相手も、宥める相手も、芦雪でなければならない理由はないのだと、そう言われているようだった。芦雪がそばにいると真っ直ぐに伝えた本当の意味も、想いも、藤仁には何一つ届いていない。
 身を焦がす想いは、己の中に留めると決めた。想いに見返りを求めてもいない。それは散々理解している。なのに何故、こうも歯痒いと思ってしまうのか。
「ねぇ、どうして……っ、どうして、二人とも……、おれをおいていくの……!」
 藤仁の泣きすがる言葉に、張り詰めた何かが切れた。
「藤仁!」
 芦雪の呼び声に、幼子は身を固くする。僅かに春を含んだ瞳は、ここにはいない誰かをなおも見つめ、醜く歪む淡墨うすずみの輪郭など欠片も見えない。孤独に怯える泣き顔さえも、己だけに向けてくれたなら、どれほど良いだろうと、芦雪は奥歯を噛みしめる。
(……何でもいい。今だけでいい。俺だけを見て欲しい……)
 走り出した欲は、瞬く間に芦雪の理性を飲み込み、喰らい尽くした。
 噛み付くように、藤仁の唇に己のそれを重ねる。雨戸を閉めた庵の中で、水音が落ちた。
 つい数日前に感じた柔らかさを、今でも覚えている。温もりも、感触も、息遣いも全て。過去の記憶と今の感覚が交わり、やがて甘やかな痺れへと変えていく。ちゅ、と表面を軽く吸い上げ、芦雪が名残惜しげに唇を離すと、熱を孕んだ黒鳶色と視線がもつれ合った。
「ろ、せつ……」
「……やっと、俺を見たな」
 恋しい者の視界に己が入った。たったそれだけのことで、芦雪の心は喜びに震える。芦雪は、もの言いたげな藤仁の口を、再び塞いだ。
 今度は小鳥が啄むように。胡蝶が花に降り立つように。触れるだけの、戯れの口付けを角度を変えて繰り返した。互いの境目が分からなくなりそうなほどに触れ合い、どちらからともなく身を離す。
 二人分の吐息は畳の上に落ち、形を残すことなく空気に溶けて消えていった。
「な、藤仁。これなら……俺しか見えないだろ?」
 切れ長の瞳から溢れた涙滴を、親指の腹で拭う。口以上に情を語る男の眼には、過去の面影を追う意志は薄れ、目の前で薄く笑みを浮かべた芦雪を真っ直ぐに映し出していた。
「……っ」
 藤仁が息を詰めたと同時に、彼の指先が芦雪の後頭部に回る。何を、と問う暇も与えられず、芦雪の天地は反転し、視界が苦悶に歪んだ男の表情で満たされた。
 押し倒されたのだと理解するよりも前に、藤仁が芦雪の首元に顔をうずめる。濡れた息が弱い部分に触れ、やがてぬるりとした感触が肌を這う。強く吸われる音が芦雪の耳朶を食み、僅かな痛みと背中を走る快感に、鼻にかかった甘い声が漏れた。
 藤仁の荒い息と、芦雪の愉悦にまみれた息は混じり合い、庵の静謐さをより強調していた。
 再び二人の間で視線が交差し、芦雪は藤仁の首元に両腕を巻き付け、口付けをねだる。藤仁は迷いなく、唇を重ね合わせた。
「ん……、んぅ……」
「……っ、は……」
 息をするために少しばかり開かれた唇の隙間から、赤い舌がちらりと覗く。芦雪は育ちつつある劣情のままに藤仁の口内に舌を差し込み、挑発し、導くようにして絡ませ合った。
 くちゅ、と互いの唾液がひとつになる音が頭の中を響いて、外の音など何一つ聞こえなくなる。唇が離れてもなお、貪り合っていた舌先は銀糸で繋がり、芦雪がどちらのものともわからぬ唾液を飲み込めば、糸はやがて一つの玉となり、芦雪の口元を伝った。
「藤仁……。二人でこうしていれば、きっと……雷の音も聞こえない……。だから……」
 ──もっと。欲を孕んだ芦雪の言葉が、最後まで紡がれることはない。再び降ってきた藤仁のやわい感触に覆われて、全てが消えていった。
 藤仁への想いに歯止めをかけていた理性も、友としての情も、年上としての矜恃も。そして、これは取引の一環なのだという冷たい現実も。何もかもが思考からこぼれ落ち、芦雪は快楽の海に沈んだ。
 着物を互いに脱ぎ捨て、体温を分け合うかのように肌を合わせる。交わった場所から溶け合うような錯覚を覚え、決して理解し合えない藤仁と深い部分で繋がれたように思える。
 芦雪は、目の前の多幸感とおごりに、ただ溺れていった。


 その日から、噛み合わない歯車は回り始めてしまった。いつしか藤仁との間では、雷の日はただそばにいるだけでなく、身体を重ねるという暗黙の了解が形を成していた。
 言葉もなく、なし崩しに起こしてしまった行為というものは、取引の本質を音もなく歪ませる。藤仁の恐怖心をあやすためだけに始まったやり取りは、雷の鳴る日だけに留まらなくなった。
 雨中に生まれた歪みに芦雪が拒絶を示すことも、戸惑いを見せることもない。芦雪はただ、藤仁とひとつになることがさも当たり前であるかのように、変質を静かに受け入れていた。それは、口を閉ざした藤仁も同様のようだった。
 小さな雁の涙が落とされて、静かに栗花落つゆりの時期が訪れれば、自ずと取引を履行する機会は増えた。今日という日も、湿った空気が肌にまとわりつき、茹だるような暑さだった。
 藤仁から絵の指南を受けている最中、紙上の水面に波紋を広げたのは墨ではなく、芦雪の頬から滴った汗だった。今にも雨が降り出しそうな曇り空と同じ表情を浮かべた藤仁を宥め、真昼間から無理矢理に外へと連れ出し、湯屋でともに汗を洗い流した。
 涼暮すずくれとはよく言ったものだが、これから暑さが増すばかりの季節がやってくる。涼を感じる頃合いにはまだ遠い。初夏が過ぎれば雨音や雷鳴は遠のき、藤仁と身体を重ねる機会は少なくなる。それはそれで残念だな、などと芦雪は欲に麻痺した思考で、帰路途中に漫然と曇天を見上げた。
 芦雪のなけなしの理性を煽るように、合図の一粒が頬を撫でる。塵と汗を洗い流したばかりの身体に、少しずつ雨粒たちが染み込んでいく。芦雪は色が濃くなっていく地面に視線を落とし、暫し瞼を伏せる。
 雷はまだ鳴っていない。これから雨足が強くなるのかすら、不明瞭だった。だが、必要な事実は、今雨が降っているか否か。ただそれだけだ。
 己を嘲る息を僅かに吐き出し、芦雪は隣に佇む男に視線を投げかけた。
「庵……、行くか?」
 果たして、自分はなんでもないように笑えているのだろうか。これは取引の一環であって、藤仁から受ける恩恵の代金に過ぎないのだと。それに対し、自分は拒絶も嫌悪も、何も思うことなどないのだと。
 藤仁は、芦雪が浮かべる表情から、何を思ったのだろう。 
「……あぁ」
 彼はやはり長い睫毛を伏せ、静かに頷くだけだった。


 天から滴る雫が、地にある全てに等しく降り注ぎ、ざあざあと音をたてている。庵を閉ざす雨戸越しにも、かの音は芦雪の耳朶をかすかに打っていた。
 湯屋で結い直したばかりの腰帯を互いに寛げ、惜しげもなく肌を晒す。一糸まとわぬ揃いの姿になり、藤仁が一組の夜着の上に腰を下ろせば、芦雪の耳奥を叩くものは、情事によって生まれゆく音だけになる。
 芦雪は、己の手の中で育て、勃ち上がった藤仁の屹立を口内に招き入れ、唾液をたっぷりとまとわせてから舌先で輪郭をなぞる。それを咥えたまま、緩慢に頭を上下に動かすと、淫靡な響きが頭の中を満たした。
「ん……、ぁっ……」
「ふふ。……気持ちいい?」
 珍しく、藤仁の艶を帯びた喘ぎ声が薄暗い八畳間に落ちる。常であれば藤仁が口淫をし、芦雪の細い腰を掴んで荒々しく掻き抱いては、かすかに愉悦の声を漏らす。彼がそれをしないのは、今日ばかりは特別だからだ。
「この前は発作のせいで、あまりそばにいてやれなかったから……。今日はたくさん、俺が甘やかしてやる……」
 歪んだ取引が為されるはずだった、先日の雨の日。芦雪は喘病の発作に見舞われ、藤仁のそばにいることは叶わなかった。雷が空を駆けることがなかったのは、不幸中の幸いと言ったところだろう。藤仁は顔色を青くしつつも、熱に苛まれる芦雪の手を握り、片時も離れなかったというのは、後日松乃から聞いた話である。
 本当に目が離せない。藤仁は弟のように、可愛い男だ。
 芦雪は、小さく息を吸い込むと同時に口を開け、藤仁の陽物を再び咥え込む。刺激に弱く、また彼が好んでいるであろう裏筋に舌を這わせ、口内で擦り合わせていく。
 返しの段差に唇を沿わせ、先端の窄みを舌先で抉りながら音を立てて吸えば、藤仁の口から明確な喘ぎ声が紡がれる。まだ触れられてもいない芦雪の後孔は、いずれ収まるものを求め、切なげに締まった。
「ろ、せつ……っ!」
「……なんだ、もう達しそうなのか?」
「わかっ、てる……くせに……」
「ふ……。口の中、出していいよ」
 芦雪はわざとらしく、藤仁のいきり立ったものに吐息をまとわせ、煽る。舌上には熱を持った白濁が吐き出され、芦雪の口内には雄臭い匂いと、未だ慣れない苦味が広がった。
 美しい顔立ちをした藤仁も、やはり男だ。それをまざまざと見せつけられるこの瞬間が、芦雪は一等好きだった。
 溜めた己の唾液と絡め、藤仁の種汁をこくりと飲み込む。口よりもよほど饒舌な黒鳶色の瞳が、今しがた白濁を飲み込んで上下していた喉仏を、何か言いたげに見つめている。
 芦雪が眦を蕩けさせて微笑を向けると、鳴神の声が二人の視線を断ち切った。
 低く轟く音に、行灯あんどんの淡い光に照らされた藤仁の肩が、かすかに震える。藤仁にはまだ雷を気にする余裕があるようだった。ならばより深く、彼を欲で満たさなければ。
 ──雷鳴が聞こえなくなるまでに。
 芦雪は眼を細め、存分に甘やかしていた陰茎から顔を離した。耳に掛けた淡墨うすずみの髪が一房落ち、己の白い肌を埋める。
 悠然とした動作で男の胸元に身を預けながら、芦雪は輪郭の整った頬に手を伸ばした。
「……大丈夫。怖がらなくていい。お前のそばには、俺がいる」
 藤仁を夜着の上に沈ませ、芦雪は彼の頭を優しく撫でた。
 庵の外では雨の薄衣が掛けられ、稲妻の青白い閃光が時折刺繍される。雨水の衣からこぼれた雷鳴の糸は雨戸の隙間を縫い、横たわる藤仁に忍び寄った。
 形も実体も定かでないものを遮るように、芦雪は男に顔を近づける。毛先が緩く丸まった長い髪が、組み敷いた彼の頬をくすぐっていた。
 拘束性のない淡墨うすずみの檻に、恋しい存在を閉じ込める。外界の恐怖から守るように。自分以外が見えなくなるように。二人の視線だけが、閉じられた世界で静かに絡み合っていた。
(ふ……。いつもと位置が逆だな……)
 心中で忍び笑いを携え、藤仁の薄い唇にやわく吸いつく。庵の中で慈雨を降らせていると、藤仁の舌先が伺いをたてるかのように、唇の表面をつついた。仕方がないな、と隙間を少しばかり開ければ、すぐさま芦雪の舌は絡め取られ、歯列に合わせて上顎を嬲られる。
 弟をあやすための口付けは、いつしか甘美な痺れに変わっていった。
「ん、ふ……っ、ぁ」
「……っ、は」
 角度を変えて口吸いを繰り返すたび、芦雪の前と、再び頭をもたげ始めた藤仁の陽物が擦れ、芦雪はたまらなくなる。はやる鼓動と快楽に飲み込まれ、下生えが触れ合う感覚すら気分がいい。芦雪の腰は自然と動き、裏筋の弱い部分に藤仁のものを擦り付ける。まるで自慰をしているような気分に駆られ、それがまた芦雪の中の興奮を煽った。
「んっ、ぁ……、あぁっ!」
 びゅく、と芦雪の先端は耽溺を吐き出し、藤仁の整った筋肉の輪郭を汚した。互いの浅い息を、唇が離れた僅かな隙間で吸い合えば、芦雪の思考は徐々に溶け落ちていった。
 芦雪は、藤仁の腹に落ちた白濁を塗り広げながら、それを唾液とともに指先に絡ませ、熟れてひくつき始めていた己の後孔に、ゆっくりと差し挿れていく。
 粘着質な音が背後から聞こえ、果てたばかりの芦雪の陰茎は、再び硬さを帯びる。とうに藤仁の形を覚えて緩みきっている秘蕾は、簡単に三本の指を咥え込み、時間をかけてほぐす必要もなくなっている。芦雪は一度指を引き抜いて、半身を起こした。
 涼やかさをまとう目元が、今では肌を焼くほどの熱を灯して芦雪を見上げている。藤仁が何を求めているかなど、口にせずとも芦雪は理解していた。
「な……。もう、俺の中に挿れたい……?」
「ん……」
「ふふ。こういう時は素直だなぁ、お前は」
 情事に身を沈めた藤仁には、無駄な葛藤も沈黙も、戸惑いさえもない。仕草はひどく質素だ。それがまた好ましいと、芦雪はくすくすと笑みをこぼすと、硬さを帯びている藤仁の陰茎に触れ、後孔に添えた。
「は……、はぁ……っ、ぁう……」
 自身の指で解し、興奮でくぱりと口を開けた秘蕾は、十分に膨らんだ藤仁の陰茎をいとも容易く飲み込んでいく。芦雪は荒い息をは、はと落とし、下へ下へと腰を落とした。
 力を抜いて、身体の内へ藤仁を招いているうち、彼の先端が腹の内側にあるしこりに触れる。少し掠めただけで頭が真っ白になるほどの快感を与えられ、芦雪は腰を振った。
「ん、は……ぁっ……。ここ、好き……っ……」
 先端が狭まった奥を小突き、繋がった箇所から音が跳ねる。自身が好きな部分に藤仁のものが当たるよう、彼の腹に手をついて、何度も身体を上下させながら肉壁を擦った。
「なぁ……ふ、じ……ひと……。きもち、いい……?」
 腰の動きを止めることなく、視線を下に向ける。藤仁は目を固く閉じ、薄く開いた唇の隙間から、熱を孕んだ吐息をこぼして感じ入っていた。
(あぁ……。なんて、可愛いんだろう……)
 俗物とは縁遠く見える麗美な容貌かたちをした男が、己に組み敷かれ愉悦に身悶えている。
 目の前の事実が芦雪の背筋を舐め、震えが走る。思わず意識的に中を締め付け、藤仁の陽物に肉びらをまとわせた。
 奥に埋めた物をずるずると先端まで引き抜き、またゆっくりと収める。その度に、耳を塞ぎたくなるほどの淫乱な音が響き、藤仁の小さな喘ぎ声が漏れた。芦雪の前からは先走りが次々に溢れ出て、根元まで輪郭をなぞっていく。微弱な愉悦とともに、透明な露は芦雪の双珠を伝い、藤仁の腹の上に落ちた。
 それが合図だったのだろう。藤仁はおもむろに芦雪の細い腰を掴んで、下に引っ張った。
「ひ、やっ……、あ゛ぁ……っ!」
 最奥が開き、藤仁の陰茎が芦雪を乱暴に暴く。少し動くだけで中はうねり、引き起こされた愉悦で、芦雪の口端からは唾液がこぼれていた。
 芦雪の双珠が上下に揺れ、二人の行為の激しさを物語る。それでも、藤仁は何かが足りないと渇きに喘ぎ、泣いているようだった。
「おれ、は……お前のそばに、いるから……。雷の、音が……聞こえなく、なる……まで……。ずっと……」
 芦雪は、藤仁の汗ばんだ額に口付けを落とし、何度も囁いた。藤仁の不安が溶けて消えてしまうまで。瞼、頬、首、鎖骨へと慈雨を降らせては、彼の癇癪を優しく宥める。
 ──俺がお前のそばにいる。お前を守る。お前から離れたりしない。
 ──だから、今だけは俺を見て。過去の面影を、どうか探さないで。
 雷の音が聞こえなくなるまで。恐怖心がなくなるまで。芦雪は快感だけを追いかけた。
「あ、っ、ん……ぁっ!」
 藤仁によどみなく揺さぶられ、動きに合わせて長い陰茎を引き抜くたび、逆立った肉びらが悦びに震える。鳴り止まぬ激しい水音と二つの喘ぎ声に思考を焼き切られ、芦雪は床に手をついてけ反りながら吐精した。それでもなお、中を締め付ける後孔を見せつけてしまい、藤仁の劣情を余計に膨らませた。
 藤仁は上半身を起こし、白濁をとろとろと流しながら果て続ける芦雪を掻き抱いて、更に中を突き上げた。
「ろせつ……っ!」
「っ、ふ、じ……! も、い……ってる、から……っ、あ゛ぁっ……!」
 堕ちて。堕ちて。底の見えない奈落まで、理性が溶け堕ちていく。信じられる確かなものは、目の前の温もり、不揃いな鼓動、痺れるような快楽。それだけだ。
 藤仁の過去も、彼が己に向ける気持ちも、芦雪は何一つ知りえない。否、知ってはならない。
 ──けれど互いを奥深くまで埋め、重ね合わせている今だけなら、藤仁の全てを知りたいとこいねがうことは許されるだろうか。たとえそれが、己を破滅へと導くのだとしても。絶望も不幸も、藤仁となら、何だって構わない。
(……なんて、簡単に言えたら良かったのに)
 芦雪は快感に滲む視界のまま、藤仁の肩越しに宙を見据える。
 中が濡らされ、満たされていく感覚が思考に入り込む。今はもう、諦めとともに慣れ始めているそれを決してこぼさぬよう、芦雪は藤仁の背中に爪を立てた。