第十四筆「恋衣」

 今はもう通い慣れた、白壁の道。我が家同然の質素な屋敷門。門の軒先に掲げられた「尋夢庵」の金の文字が、平生と変わらぬ顔色で芦雪ろせつを見下ろしていた。
 日本橋の喧騒から抜け出したというのに、波打つ鼓動は未だ芦雪の頭の中で響いている。
 ──芦雪殿。ようこそおいでくださいました。
 春のようなやわい声音が、記憶にさざ波を寄せる。芦雪が庵の主と他愛もないやり取りを交わすことは、この先、決して無いだろう。
 ——自ら別れを告げた。写楽と藤仁を天秤にかけ、藤仁を選んだ。今日だけとはいえ、庵の主に成り代わり、白き面布かおぎぬを戴くことも己が決めた。その現実が、ただ結果として目の前に横たわっている。
 だというのに、「このまま写楽になれば、彼とともに過ごした記憶は消えてしまうのではないか」と、芦雪は今更怖気付いている。
(そんなわけないのにな……)
 己が定めた選択の果て、失われたもう一つの選択を哀惜するなぞ、随分と虫の良い話だ。芦雪は庵の名を見上げたまま、乾いた唇を僅かに噛んだ。
「芦雪様」
 隣に佇む少女の声音が静謐を破る。戸惑いが滲むそれに、芦雪の唇は緩やかに解けた。
「お松……。すまん、少し……感慨深いなと……。そう思ってただけだ」
 真意を苦笑に隠す。しかし松乃もまた、本意を晒すことはない。彼女も眉尻を少しばかり下げ、視線を地面に落とした。
「……尋夢庵の仕事についてお話しますね。こちらへ」
 木戸の軋む音が空気に溶け、淡い輪郭を残して二人を手招く。芦雪は松乃に促されるまま、庵へ続く小路に足を踏み入れた。
 初夏の陽光を透かす青紅葉に風が渡り、瀟々しょうしょうと音をたてる。こちらにおいでと、紅葉が小さな手を鳴らすたび、地に落ちた翠影が揺れていた。
 尋夢庵を初めて訪れた時、小路の両脇に連なる紅葉の並木に葉々はなく、随分と心もとなさそうに見えていたというのに。今ではすっかり翠を携え、芦雪を優しく出迎えている。
 この景色を見ることはないのだろうと、残念に思っていたあの日が嘘のようだ。随分と、遠いところまで来たような気分だった。
 くつ脱ぎ石の上に、二つの草履が並ぶ。松乃は、障子を開けて足早に八畳間の奥へと進むと、薄暗い床の間の前で立ち止まった。哀傷が滲む視線の先には、一幅の掛軸がある。
 初夏の時節には幾分合わぬ、早春の肉筆画。梅と鶯の花鳥画だ。
 水を多分に含んだ墨の舞うような筆致が、紅、萌木などの淡い色合いで彩色され、麗らかな春の一場面が表現されている。梅花のか細い枝には一羽の鶯が羽を休め、一足先に春を告げる小さな花々を見上げていた。
「この絵がどうかしたのか?」
 芦雪の問いに、松乃の肩が小さく跳ねる。彼女が答えを紡ぐまで、芦雪は静かに待った。
 松乃の細い指先がかの鳥に触れる。墨の輪郭をなぞりながら、少女は掠れた声で述べた。
「……この絵は、庵の守り絵なのです。亡き父が私たち兄妹に……『写楽』に遺してくれた、鶯の四魂……」
 取り戻せない過去を懐かしむように。我が子をかいなで包み込む母のように、優しく。桜色の唇は諦めの色を宿しつつも、春月の弧を描いていた。
雛梅ひなうめ。おいで」
 松乃が名を紡ぐと、淡い紅の光がうぐいすの胸元に宿り、春の息吹が二人の間を吹き抜けていく。風は淡墨うすずみと黒鳶の髪尾をたおやかに攫い、梅花のまるい花びらと春の香を運んだ。
 鼻腔を掠めた甘やかなそれに、芦雪は感嘆の息をこぼすでもなく、眉根を顰めた。
 鶯。梅の香り。庵の守り絵。四魂。紅の光。和魂にぎみたま
 ——まさか。芦雪が目を見開いた、その刹那。紅の光輝が力強く瞬き、雛梅と呼ばれた鶯の四魂が浮世での姿を得て、二人の前に顕現した。
 萌木色の羽が宙を舞う。雛梅は、静謐にかすかな羽音を落としながら松乃の肩に留まると、やっと出会えたと言わんばかりに、少女の頬に頭を擦り寄せた。
「雛梅……。ごめんね、なかなか会いに来られなくて……」
 早春の香りを羽織る萌木の鳥は、松乃の謝罪など意に介していない。つぶらな瞳は、少女ただ一人を映していた。
(……間違いない。このうぐいすは、俺が江戸入りした日に尋夢庵まで導いた四魂だ)
 先刻の松乃の吐露から推測するに、うぐいすの四魂は故人である兄妹の父親のものだろう。
 彼らの父親も直霊なおひの絵師だった事実には驚いたが、兄妹ともに異能をその身に宿しているため、納得がいく。だが、彼が生み出したという鶯の四魂は、異質な存在だった。
 本来、四魂は主を喪えば、浮世に顕現することは永遠に叶わない。生みの親である絵師が四魂に刻まれた名を呼び、祈りと願いを宿しためいを下してこそ、彼らは実体を得る。
 では何故、主を亡くしたはずの雛梅は顕現できているのか。そして何故、かの鳥は芦雪が江戸入りした日にわざわざ目の前に現れ、あまつさえ尋夢庵まで導いたのか。
 全ての答えを知っているであろう少女に目を奪われたまま、芦雪は思考の海に沈んだ。
 松乃はしばし鶯との戯れを楽しんでいたが、芦雪の視線に気づいたのだろう。彼女は黒鳶色の水面をかすかに揺らして言った。
「……以前から私の力についてお話していたとはいえ、驚かれましたよね。突然申し訳ございません」
 芦雪が力なく首を横に振れば、松乃は雛梅の頭を撫でながら続けた。
「芦雪様たちの力とは対極に位置するもの。あらゆる四魂と想いを交わし、この世に呼び出せる一方、四魂を生むことはできない。……私は、直霊なおひの鑑定士と呼ばれる存在です」
 苦悶とも、諦めとも取れる歪みが、少女に暗鬱とした陰を落としていた。
 以前からそうだった。松乃は己の力を前にすると、悲哀に溢れた表情を滲ませる。写楽やゆかりの四魂に触れ、芦雪に代わって想いを交わしていた時でさえも。
 力のことで、これまで苦労したのだろう。ただでさえ、生まれた時から人とは違う世界が目に映るのだ。彼女ほどの長い歳月ではないものの、芦雪にも身に覚えがある。
 ──やはり、「鑑定士」の力はすごいな。他人の四魂をこうも簡単に操るとは。
 かつて己の唇で紡がれた、されど身に覚えのない言葉の記憶。感嘆と喜悦をまとった、艶のある声音が過去にさざ波を起こす。
 もう一人の己を名乗る者。されど、芦雪にとって不愉快極まりない男。脳裏で朽葉色の双眸と視線が絡む。同時に、透き通るように白い肌を青ざめさせた松乃の顔がよぎった。
(この記憶は……なんだ……?)
 過去の面影が、封じられた箱の中から出ようともがいている。淡い翡翠色の光を掻き分け、芦雪が箱と蓋の隙間を覗こうとすれば、頭を巡る血潮が音をたてて行く手を阻んだ。
 見えない。過去が。音が。色が。想いが。ここはどこで、自身は何者なのか。今、言葉を乗せようとしている声音は、果たして誰のものなのか。
 分からない。何も。考えれば考えるほど、視界は墨が溶けだしたように暗色に揺らぎ、己ではない何者かに濃く、深く染まっていく。
(鑑定、士……。黒鳶色の……瞳……)
 冬を待つばかりの、朽葉色では決して届かぬ力。やわらかな春の陽と慈愛を深く含んだ一対の黒鳶色が、かつて幼い私を優しく見下ろしていた。
 若くして苦労を重ねてきたのであろう眦の皺が緩み、重さの伴わぬ温もりに頭を撫でられる。その手に触れたいと願い、けれど永遠に叶わなかった。それだけは覚えている。
 今、あのひとと似た存在が眼前にいる。ならばもう一度、願うことは赦されるだろうか。
(私は……守信は……、貴方に……)
 ──ただ、抱きしめて欲しかった。誰かの切望に喘ぎ、芦雪は松乃に手を伸ばした。 
「芦雪様?」
 鈴を転がすような声音に、芦雪は我に返った。
「どうかされたのですか?」 
「あ、あぁ……いや、その……」
 行き先をなくした指を額に添え、芦雪はかぶりを振った。
——……馬鹿だな、私は。
 艶を帯びた嘆息が、思考の湖面に落ちる。男の憂いは波紋を作り、やがて消えていく。
 水墨の霞はいつしか晴れ、己を見上げる大きな瞳と目が合う。芦雪は、しどろもどろに視線をさ迷わせた。
 不意に、萌木の小さな頭が視界の端に映る。一重の疑問が衣となり、再び芦雪の思考を包んだ。
「……なんで、君はあの時……俺を尋夢庵まで導いたんだ?」
「あの時……?」
 松乃は要領を得ない様子で、芦雪の問いを繰り返す。一方、咄嗟に口をついて出た疑問が形になったおかげか、芦雪は平静を取り戻し始めていた。
(……大丈夫。これは俺の言葉だ)
 芦雪は胸を撫で下ろしながら、順を追って述べた。
「俺が江戸入りした日にな。宿でうたた寝していたら、雛梅が飛んできて。俺を尋夢庵まで導いてくれたんだよ。……お松、だったんだよな? 雛梅を俺のもとへ遣わしたのは」
「え? いえ、それは……」
 言葉が途切れる。松乃は形の良い眉を顰め、視線を床に落としている。
「お松じゃないのか?」
 怪訝に思い、今一度問えば、松乃は慌てて首を横に振った。
「あ、いえ! 芦雪様が江戸入りされた日……ですよね? えぇ、確かにこうして雛梅を顕現させてはおりましたが、それは頼まれたからで……」
 滔々と流れ始めていた答えは、岩に当たったかの如く唐突に堰き止められる。今度は芦雪が首を傾げる番だった。
 松乃が故意に顕現させたのでなければ、それを依頼してきた人間が芦雪を尋夢庵まで誘導したかったということだ。何故、そうする必要があったのか。続きを促すように、桜色の唇を見つめていると、松乃はひとつ息を吐いて、再び芦雪を見上げた。
「……芦雪様。江戸入りされた日、その……不運な目に遭われたりしませんでしたか?」
 その問いは、一体何と関係あるのだろう。少しやきもきしつつ、芦雪は答えた。
「いや。その日はむしろ、物凄く幸先が良かったぞ。騒ぎから助けた茶屋の娘に蕎麦を馳走になったり、その娘が偶然宿屋に縁のある者で、宿泊先がすぐに見つかったり……。あの時は神仏の導きによるものだと思っていたんだが……。まぁ不気味ではあったが、お松の言うように不運に見舞われるよりはずっと良かったよ」
 今思えば、やはり雛梅に会った日は、あまりに事が上手く進みすぎていた。何の気なしに笑いながら言えば、松乃はますます頬を強ばらせていた。
「……? どうかしたのか?」
「あ、えと……た、単に、雛梅が出会い頭に悪戯をしてないか気になっただけです! あの日も、この子がねだるものだから顕現させて遊ばせていたのですけど、途中どこかへ飛んでいってしまって……。悪戯好きなところがあるゆえ、もしかしたら視える芦雪様を見つけて、構って欲しくて庵まで導いたのかもしれません! あの日は、うちの四魂たちがご迷惑をおかけしました……」 
 松乃はいつになく饒舌に述べた。先程まで歯切れが悪かったのが嘘のようだ。疑問の流れを堰き止めていた岩は崩れ、求めた答えは呆気なく流されていった。
 結局、故意に何者かが雛梅を芦雪のもとへ遣いにやったのではなく、雛梅が顕現したいと松乃に頼み、遊びに出た先で偶然芦雪を見つけただけだったようだった。
 松乃は、話は終いだとでも言いたげに、懐から一通の文を取り出すと、己の肩口に視線を投げた。
「さて、謎も解けたところで……。雛梅、今日の依頼人の……采梅あやめという方が来た日の記憶を芦雪様に渡してもらえる?」
 主の一声に、雛梅は芦雪の肩に舞い降りる。僅かに肩に触れる鉤爪の感触に戸惑っていると、雛梅は小さな頭を芦雪の頬に擦りつけ、動きを止めた。
 頬を通して、命の鳴動が伝わる。淡い紅の光輝が瞬き、粒となったそれらは芦雪の頭の中へ入り込んだ。
(これは……雛梅の記憶か……)
 色のない水墨のが、脳裏に映し出される。面布かおぎぬの男と、藤仁と歳も変わらぬ青年が向き合って座り、何かを話し込んでいる。
 ──今回の依頼は婚礼衣装を……。
 ──……亡き彼女のためにも……。
 ──では、報酬は画所えどころへの紹介状と……。
 二人が淡々と交わすやり取りが、草子の頁をめくるように現れては消え、芦雪の記憶として鮮明に刻まれていく。警戒。心配。慈愛。庇護。そして、安堵。雛梅が持つ過去の欠片は、彼が当時感じた形なき羽衣をまとい、芦雪の頭の中を漂う。
 どうやら雛梅は、大切な人を守り、人と人とを繋ぐ和魂にぎみたまとしての役割を、主亡き今も忠実に果たしているようだった。
「……ありがとな、雛梅」
 これまでも、絵中から写楽を見守っていたのであろう守り人に、小さく礼を言う。だが、当の四魂は、なんてことはないとでも言いたげだ。芦雪から身を離すと、振り返ることもなく松乃の肩へと舞い戻っていった。
「念の為、依頼人からの文もお渡ししておきますね。雛梅の記憶は大丈夫そうですか?」
「あぁ。問題ない。しっかり頭の中に入ってる」
「それは良うございました。こちらが写楽の着物です。あとは面布かおぎぬ。お手数ですが、依頼人が来る前にお召し変え頂けますと……」
 松乃に差し出されたのは、見慣れた柳色の小袖だった。受け取ってその場で広げると、藤花の甘い香りがたち、鼻先をかすかにくすぐる。
(そうか……。俺は、これを着なきゃならないのか……)
 友の小袖であり、同時に、恋しいひとが友の姿になるために袖を通していたもの。
 芦雪は、身の入っていない小袖を胸元に引き寄せ、強く抱きしめた。
(本当に……写楽殿はもう、いないんだな……)
 小袖に焚き染められた春花の香りだけが、友との離別をただ肯定していた。


 青天の霹靂とは、まさに眼前の出会いを言うのだろうか。
「写楽殿。此度は依頼の品を制作頂き、誠にありがとうございます」
 写楽、もとい芦雪の前には、一人の青年が悠然と畳の上に腰を下ろしている。彼は深々と頭を垂れ、指の先まで洗練された礼を紡いだ。
 墨に一筋の伽羅きゃら色を差したような長い黒髪が一房、形の良い耳からしなだれ落ちる。艶やかな絹髪は、先を輪にして玉結びに結わえられ、彼の性別を曖昧にしている。紅海老色の着流しに髪色が映え、かの青年の美麗さを際立たせているようにも思えた。
 青年は衣擦れの音を一音も落とすことなく、顔を上げる。頬に落ちた長い睫毛の影が消え、葉から滴る露の如き一対の煌めきが、芦雪を見据えていた。
(似てる……)
 此度の依頼人、采梅あやめという名の青年には、何故か守信の面影があった。
 朽葉色の双眸が、面布かおぎぬの下で揺れる視線を絡め取る。采梅あやめの口端には穏やかな春の三日月が宿り、傲岸不遜な影はない。
(まさかこいつは……過去の俺の……)
 芦雪は、即座にかぶりを振る。守信にさえ問えていないことだ。確信も持てぬまま結論を出すのは早計である。
 早鐘を打つ鼓動を抑え、芦雪は浮かべ慣れた笑みを貼り付けた。
「……ご丁寧にありがとうございます、采梅あやめ殿。こちらこそ、本日はご足労おかけして申し訳ございません。どうぞ、楽にしてください」
 今は、己が為すべきことだけを考えるのだ。写楽として依頼人に納品物を渡し、報酬を受け取る。それ以外に、思考してはならない。
 本題に入ろうと、芦雪が再び口を開こうとした時、青年の眼光に尖鋭さが宿った。
「……今日は、写楽殿ではないのですか?」
 ぎし、と軋んだ音を立てたのは、畳の床板か。芦雪の身体だったのか。
 芦雪は口元の笑みは崩さぬままに、面布かおぎぬ越しに朽葉の水面を見た。
「というと?」
「お会いしたのは一度きりですし、私の勘違いかもしれませんが……。どことなく、何かが違うような気がしたもので」
 相も変わらず、双眸には穏やかな初冬の陽光が灯っているだけで、虎視眈々とした強かさは露ほどもない。彼は純粋に、自身が感じた疑問を問うている。
 ……否。そのように演じていると言った方が正しかった。
 采梅あやめという青年は、嘘を嘘とも思っていないほどに、自然に偽りを口にしている。嘘をつくことに慣れ、その裏では目的の炎が消えることなく、ゆらゆらと揺れていた。
 芦雪が写楽ではないと確信した上で、彼は問うているのだ。藤仁はどこにいるのか、と。
 雛梅の記憶で見た限りでは、采梅あやめと藤仁の間では目立ったやり取りはされていなかった。依頼の文も淡々としたものだ。出で立ちも大店商家の跡取り息子、と言ったところだが、滲み出る所作からは武家特有のものが見て取れ、下級武士とはいえ同じ武家である芦雪には隠しきれていない。
 とすれば、彼の目的は、身分を隠してまで藤仁に接触を図ることだったのだろうか。
(考えすぎだ……。考えすぎであってくれ……)
 接触を図ろうとする理由は、どうあっても分からない。しかし、どうしても彼が悪意を持っている可能性を否定できない。ならば今は写楽を。藤仁を守ることだけを考えねば。 芦雪は、数瞬の間に下ろした瞼を上げると、密やかに笑みをこぼして言った。
「……ご明察。けれど、惜しい」
「え?」
「私も写楽、にございますよ」
 采梅あやめが僅かに息を飲む。一瞬の隙を見逃さず、芦雪も淡々と嘘を重ねた。
「怪画絵師、写楽の姿はひとつにあらず。商人、武士、青年、少女。その日の気分によってまとうかたちを変えます。要は着物と同じ。『写楽』はこの庵の屋号に過ぎませぬ」
『写楽』は一人ではない。藤仁には仲間がいるのだと、芦雪は敢えて示唆した。
「本日、貴方の目の前にいるのは武家絵師・写楽。私の姿など、所詮は数ある着物のうちのひとつに過ぎませぬ。けれどもし、いずれかの着物の下にある素肌を暴こうなどと無粋な真似をする方がいるならば……」
 あくまでも童のように。尋夢庵の主の、明確な正体を悟られぬように。芦雪は悪戯な微笑を形作り、放った。
「──たとえ依頼人であろうと、容赦はいたしません」
 芦雪は、面布かおぎぬの下で鋭く研いだにびの光を無粋者へと向けた。
 薄暗い庵に剣呑な空気が漂い、肌が僅かにひりつく。
 しばらくして、力を抜いたような、安堵に近いため息が、対峙する青年の唇から漏れる。彼は瞼をやや伏せると、やはり優美に笑んだ。
「……なるほど。確かに、着物を暴いて美しい肌を白日の下へ晒そうなぞ、無粋な話です。失礼いたしました」
 采梅あやめは乱れのない動作で指先を畳につけ、深々と頭を下げる。顔を上げてもなお微笑は穏やかで、見慣れた不敵さはない。だが何故、彼の笑みに苛立ちが募るのか。
(それもこれも、大嫌いな守信に似てるせいだ……)
 もたげた口端を崩すことなく、芦雪は指先を強く握りこんだ。かの男とは違う、身をわきまえた采梅あやめの慎ましさが、余計に煩わしさを煽った。
 嘘で塗り固められているのは己も同じだというのに、采梅あやめはそれ以上に得体が知れない。身分を隠してまで庵を訪れている意味も、藤仁に接触したがっている意図も、牽制にも笑みを絶やさず楚々として頭を下げ、素直に引き下がる仕草も、何もかもが癪に障った。
(……面布かおぎぬをつけてて良かった)
 当初、写楽との距離を表す面布かおぎぬにもどかしさを感じていたが、今は心から白妙の存在に感謝するほかなかった。鏡を見ずとも、自身の顔がどれほど醜く歪んでいるかが分かる。
 小袖の下に据わる肌守りに手を添え、胸裡でさざめく潮騒を宥める。波の音が少しずつ遠くなっていくのを感じて、芦雪は緩慢に立ち上がった。
「……さて。そろそろ、本題に移りましょう」
 背を向けたとて、采梅あやめが身動ぐ気配はない。やわい視線だけが芦雪の背を撫でている。
 どこまでもいけ好かない男だ、と心中で舌を打ちながら、芦雪は控えていた品に触れた。
 芦雪の背丈ほどあるそれは、白い布で覆われている。布端に指をかけ、再び采梅あやめを振り返る。淡々と、粛々と。芦雪は写楽として、言葉を並べた。
「こちらが、ご依頼の品です。お納めくださいませ」
 抑揚のない声音とともに布を取り払えば、藤仁が描いた絵が、二人の前に姿を現した。
「あぁ……これはまた……。やはり、想像以上に美しい……」
 采梅あやめの感嘆の息が、僅かに震える声が、庵の中に揺蕩たゆたう。
 衣桁いこうに掛けられた、一幅の白繻子しろしゅすの打掛。艶のある白い絹地を、金、紅、千歳緑が彩り、見る者の目に華やかさを与える。
 足元には、金と紅で縁った波が表され、浜辺と小さな岩に身を寄せている。岩間からはほっそりとした千歳緑の松が曲線を描いて枝を伸ばし、金、若木色の葉々を開いていた。
 松の枝の軌跡を辿れば、紅梅が松に寄り添うようにしてわらい、打掛をまとう者を梅で染めていくかの如く一面に描かれている。
 決して起こりえぬ春の情景ではあるものの、松と梅が一本の樹として息づく様は、まるで夫婦めおとのようだ。小さな岩も、吉祥文様である蓬莱山ほうらいさんを表しているのであろう。現にその麓の浜辺には、宝珠、七宝、隠れ蓑、打ち出の小槌など宝尽くしが配され、実に福々しさに満ち溢れていた。絵師が直接布地に図様を描く「描絵かきえ技法」が繊細に施された、意匠としても秀逸な一品である。
 これこそ、藤仁が自身の身体に鞭打ってでも納品しようとしていたもの。
 ——采梅あやめの亡き許嫁のための、婚礼衣装だった。
 芦雪はただ、息を飲んだ。藤仁の絵を前にすると、己から引き出された感情を形にするのも憚られてしまう。
 色彩のみで丁寧にたどられた、没骨もっこつの輪郭。見ている者でさえも気が狂いそうなほどに繊細で、実物に正確な装飾。張り詰めた現実の緊張感に混じる、幻想的な空気。静謐をまとう意匠の中に隠された激情。「美しい」と一言で賞するには、あまりに足りない。 
 これを受け取る采梅あやめは今、何を思っているのだろう。彼は打掛を前にしても、未だ微動だにしない。だが、冬を待つ寂しげな瞳だけは、薄い露の潤みを宿して揺らめいていた。
「写楽殿」
 静寂のとばりを上げる声が、かりそめの名を紡ぐ。采梅あやめは芦雪を見ていない。吉祥を寿ぐ打掛を見据えたまま、唇を薄く開いていた。
「……なんでしょう」
 呼び声に応えれば、采梅あやめは瞬きを繰り返し、しばし視線を畳の上に置く。彼の瞳を縁取る長い睫毛が、意を決したように上向いたのは、それからすぐのことだった。
「打掛に触れても……、よろしいでしょうか……」
 目の前の事実を確かめるように。赦しを請うように。青年は僅かに頭を傾げる。唇は笑みを湛えているが、静かに泣いているようにも見える。
 芦雪は無言で頷き、衣桁いこうから打掛を外す。依頼の品が依頼人の手に渡ると、打掛は新たな主との出会いに安堵するように、薄明かりの中で白く照り輝いていた。
「松に梅。流水の波間に蓬莱山、宝尽くし……。あの依頼内容から、よくここまで……」
 采梅あやめが愛おしげに絹地の表面に触れると、打掛の意匠は彼に寄り添い、黄金色の光を瞬かせる。その光は、幸福と癒しを司る四魂、幸魂さちみたまの証しだった。
(藤仁のことだ。采梅あやめ殿の身の上に心を砕いた結果が、幸魂さちみたまとなったんだろう……)
 打掛の生みの親の顔を浮かべ、芦雪は呆れにも似た嘆息を放った。
 依頼人である采梅あやめは今年、本来であれば許嫁と祝言を挙げるはずだったという。
 許嫁はもとより筒井筒の仲であり、歳も近く家同士の仲も良好だった。二人が夫婦めおととなる約束をするのは、当然と言えば当然の流れであった。
 だが、二人の別れは音もなく唐突に訪れる。普段外出の少なかった許嫁が珍しく出かけたきり、神隠しにあったかのように行方不明になったのだ。探しに出た彼女の父、そして兄弟とともに。
 采梅あやめにとって、彼女は初恋相手だった。ゆえに幾年が過ぎようと、諦めるという選択肢はなかった。当時の彼女の足取り、行き先での行動、出かけた目的、消息を絶つ直近での交友関係はとうに調べあげ、使える手は全て使った。
 されど八年。彼女は未だに見つかっていない。認めたくはなかったが、恐らくもう亡くなっている可能性の方が高かった。たとえ骨となっていようと、彼女の消息が掴めるまで、
采梅あやめは嫁は取らないと心に決めていた。しかし、それを家の人間が許すはずもない。
「此度、家の取り決めで別の娘との婚約が決まりました。私にはもう、一年の猶予しか残されていない……。本当なら私が……僕が、あの子にこれを着させてあげたかった……」
 今回、写楽を頼ったのはそのためだと、彼は震える声音で述べた。この婚礼衣装は、彼女を諦めるためのものだったのだと。 
「もう一度だけでいい。一目でいい。ただ、あの子に逢いたい……」 
 采梅あやめは瞼を伏せ、打掛の松の意匠に額をつける。祈りにも、懺悔を請うにも似た表情には、先刻までの嘘偽りの色はない。
 彼が身にまとう、見えない面布かおぎぬがほどけていく。予期せず采梅あやめの素顔を垣間見てしまったような気がして、芦雪の鼓動が一瞬、大きく跳ねた。
「写楽殿。此度は本当にありがとうございました。少ないですが、どうかお納め下さい」
 采梅あやめは、打掛を衣桁いこうに戻したあと、再び目に見えぬ面布かおぎぬをつけて穏やかに微笑み、和紙に丁寧にくるんだ包金つつみがねを差し出した。
(俺が依頼した時は、藤仁は金目のものは一切要求しなかったのに。今回は請求したのか。依頼人や内容によって、その辺は変えてるのか……?)
 芦雪が依頼した時、要求されたものは髪紐だった。それ以外に求められたものはなく、そのうち友人としての縁を結んでしまったがゆえに曖昧になっていたが、あの時、何故報酬を金銭にしなかったのだろう。藤仁は隠し事ばかりだ。
 芦雪は、少ないという割に厚い包金を手に持ち、怖々と手の中で観察していると、采梅あやめが何かを思い出したように声をあげた。
「そうそう。本題のものをお渡しするのを忘れるところでした。こちらもお納め下さい。……画所えどころの紹介状です。それと、お借りしていたものもお返しします」
 采梅あやめが再び懐から取り出したのは、封紙ふうじがみに身を包む一通の書状だった。加えて、小さな桐箱も差し出される。
画所えどころの紹介状……? それに、借りていたものの話なんて、藤仁は……)
 雛梅に分け与えられた記憶を手繰り寄せながら、心の中で小首を傾げる。芦雪の疑問を知る由もない采梅あやめは、苦笑混じりに手にしたものたちを畳の上に横たえた。
「私もまぁ……形ばかりではありますが、画所えどころに通う身ではありますので。紹介状については、写楽殿を私の縁者として認める私の署名と、画所えどころで懇意にしている采女うねめ殿の署名も貰っておりますから、問題はないかと」
采女うねめ殿から!?
 己が写楽だという自覚も投げ打ち、芦雪はうわずった声をあげた。
 画所えどころ采女うねめ。二つの言葉を昨今耳にしたことのない人間は、今や日ノ本にはいない。
 画所えどころとは、今を時めく奥絵師の家系、木挽町狩野こびきちょうかのう家が開く画塾のことだ。原則として武家の子か、狩野派の縁者でなければ門戸を叩くことすら許されない。
 江戸に居を構える上級武家たちは、子に教養のひとつとして絵の手習いをさせるため、画所えどころへ通わせる。それゆえ、門弟の多くの身分は武家で構成されていた。
 つまり、画所えどころに出入りしている采梅あやめは、武家の子か狩野派の縁者にほかならない。先刻から見え隠れする仕草や、戸惑いもなく大金を出せる金銭感覚から、恐らく前者だろう。だが、今の芦雪にとって注目すべき部分は、他にあった。
采梅あやめ殿。その……采女うねめ殿というのは……あの采女うねめ殿で間違いありませんか?」
「あの?」
木挽町狩野こびきちょうかのう家の次期当主。画所えどころの塾頭。狩野探幽たんゆうの再来。……『絵試荒らし』の筆頭。その全ての異名を冠する、あの采女うねめ殿か、という意味です」
 狩野采女うねめの名は、実に様々な色で溢れている。生を受けたのが木挽町狩野こびきちょうかのう家当主の息子、という立場も、少なからず噂に拍車をかけているだろう。しかし、市井にその名が降りるほどに、彼の絵の技量は凄まじいと聞く。将軍家から最も厚い寵愛を受けている絵師たる事実が、何よりの証拠だ。木挽町狩野こびきちょうかのう家の直近の興隆も、一説によれば采女うねめの力が大きいとされる始末だった。
 また、画所えどころの名が広く知られているのも、塾頭である采女うねめを筆頭とした門弟たちが、腕試しと称し、毎年御用絵試へと参加していることも影響している。 
 武家の子とはいえ、狩野派の画技を直々に学ぶ者たちだ。その腕前は、やはり画力の基礎という面でも他の追随を許さない。実力不足を痛感して戦意を喪失し、絵試の途中で辞退する市井の挑戦者たちも多い。
 奥絵師たる資格を既に持っている采女うねめに加え、その画技を少なからず身につけた身分の高い者たちが参加するのだ。町絵師や商人出の参加者からすれば、たまったものではない。
 ゆえに、彼を含む画所えどころの門弟たちは、俗に言う「絵試荒らし」としての悪名をも浮世に轟かせていた。
 そんな華々しくも妖しい面も兼ね備える彼が、得体の知れぬ一介の町絵師のために、画所えどころの紹介状に署名をした。普通ならばありえぬ事だ。
 采梅あやめの答えを神妙に待つ芦雪の様子に、彼はさも愉快そうに笑い始めた。
采女うねめ殿はごく普通の男ですよ。私と歳も変わりませんし。楽しいことが大好きで、好奇心旺盛。門弟たちには、ひょうきん者で通ってるような奴です。奥絵師として課せられる城内の御公務も放り出して、城下へ遊びに行くこともあるんですよ」
 同世代の若き天才に対して、彼の身近な者が告げた事実は、彼の印象を大きく塗り替えるものだった。密かに尊敬の念を抱いていただけに、芦雪は開いた口が塞がらない。「楽しいことが大好きなひょうきん者」であるがゆえに、彼は署名を快諾したとでも言うのだろうか。
 一方、采梅あやめは得たい反応を得られたとでも言うのか、ひとしきり跳ねるような笑い声をあげる。嘘をまとった見えぬ面布かおぎぬはなく、年相応とも言える面持ちをしていた。
「以前お会いした時にも思いましたが。既に卓越された技術をお持ちの写楽殿でも、やはり画所えどころの存在は気になるので?」
「まぁ……それなりには……」
 采梅あやめの疑問は最もだが、藤仁の真意を知らぬ芦雪には、言葉を濁す以外に術はない。後ほど藤仁から礼の文でもしたためさせ、書面で軽く説明させるに限る。芦雪は動じず、悠々と口を開いた。
「……町絵師とはいえ、金子きんすを頂いて絵を描く身ですから。己の画技を少しでも高め、良いものを依頼人の方々に納めたいのです。なればこそ、天下の狩野派のお力にあやかりたいと思うのは、おかしなことでもありますまい」
 藤仁は、御用絵試や狩野派に対し、軽蔑や嫌悪を含んだ感情を抱いている。ゆえに、今芦雪が出した答えは間違っている。
 藤仁が狩野派を嫌う理由も、画所えどころへの出入りを望む真意も、未だ彼の身に秘められたままだ。相反する彼の行動は、芦雪の不安を煽り続ける。藤仁は、何か良くない、大きなことを考えていやしないだろうか、と。
 柳色の小袖の端に、爪先が食い込む。刻まれていく皺が深くなるたび、焦燥が大きくなっていくように思え、芦雪はそれすらからも目を逸らしたくなった。
 采梅あやめは、呈された答えにしばし間を持て余していた。朽葉色の双眸に尖鋭さはない。ただ静かに端座し、真摯に芦雪を見据えていた。
「……そうですね。こうして、私の依頼にまで心を砕いて下さるような方なのですから。度々の御無礼、お許しください」
「いえ、そのようなことは……。頭を上げてくださりませ」
 麗しき青年は、伏せた顔を上げる。刹那の間に、彼の薄い唇が物言いたげに開かれた気もしたが、見間違いだったのだろう。人の良い笑みは、打掛を手にして庵を出るまで、崩れることはなかった。


 庵の畳に落ちる影が、茜色とともに伸び始めた頃。芦雪は、かりそめの姿から元の姿に戻り、帰路途中にある水茶屋に足を伸ばしていた。
 客も女二人以外におらず、随分と寂れている。これ幸いにと、芦雪は店先の縁台に腰掛け、店の娘に出されたぬるい麦湯を啜る。渇いた喉を麦の燻した香りと潤いが伝い、先刻までの緊張がほぐれた。
(無事、写楽の仕事は終わったものの……。結局、采梅あやめ殿はよく分からん御仁だったな)
 気に食わないほど、守信の面影があった理由も。藤仁が画所えどころとの繋がりを求めた真意も。何ひとつ分からぬままだ。手を伝う陶磁の温もりだけが、優しく芦雪を労っていた。
(藤仁が『大きな納品だ』と言っていた意味。無理を強いてでも庵に向かおうとした理由。その全てが、『画所えどころの紹介状』のため……ひいては、画所えどころと縁を結ぶ采梅あやめ殿との接触を図るためだったのだとしたら……)
 藤仁は一体、何を考えているのだろう。彼が気を失う前、「君には関係ない」「君を巻き込みたくない」とこぼしたのも、まるで自身が大きな争いの渦中にいるような、あるいは、これからそれを起こすような物言いだった。
「藤仁……。お前は、どうして……」
 未だ身に残る藤花の甘やかな香りに、一筋の苦味が混じったように思えた。
「ねぇ、おまさ。聞いてるの?」
「聞いておりますよ、お嬢様」
 密やかな話し声が背を撫でる。芦雪は麦湯を口に含んだまま、小さく背後を振り返った。
 芦雪が腰掛ける縁台の斜め向かい。赤い野点のだて傘の下の縁台に、一人の少女と女人が座っている。彼女らも寂れた水茶屋を彩る客だ。
 少女は埃よけの白い揚げ帽子を被り、濃紫の縞と松皮菱の文様が目を惹く、藤色の振袖に身を包んでいる。緋色の中着が振袖との色差も相まって美しく、離れていても上等なものだと分かる。
 女人は少女の付き人だろうか。薄はなだの落ち着いた小袖をまとい、流水と水車のあしらいで足元にささやかな華を添えている。少女のものとは違い、目を惹く美しさはないものの、品の良さが滲み出ており、二人が武家の人間であることを暗に示していた。
 どこぞの武家の娘のお忍びに違いない。芦雪は視線を前に戻し、麦湯を飲み込んだ。
「あら。じゃあ何の話をしていたか、今言ってご覧なさいな」
「全く話を聞いておりませんでしたので、初めからお願いしてもよろしいでしょうか?」
「もうっ! おまさのばか!」
 小禽しょうきんのさえずりに似た声が飛び、それを深みのある声がやわく受け止める。
 二人の間には、武家の姫とその付き人の主従関係があるはずだが、行き交う会話にはそれがなく、気の置けない関係性が窺える。妹と姉のやり取りを聞いているようにも思え、随分と微笑ましい。
 おかげで、先刻までの不安が多少なりとも和らぎ、芦雪の口端は無意識のうちに緩やかに上がっていた。
 芦雪が再び椀の縁に唇を付け、残りのものを全て口に入れた時だった。少女のやや興奮した声が芦雪の耳孔を貫いた。
「先程、草子問屋で聞いた噂のことよ! 采女うねめ様が祝言を挙げられるって!」
「げほっげほっ!」
 咳き込みとともに、芦雪は麦湯を吐き出した。地面は色を変え、銀鼠の袖に飛沫が散る。
 まさか、数刻と経たぬ間に采女うねめの名を聞くことになろうとは、誰が思うだろう。それも祝言にまつわる話は寝耳に水だ。二人の会話に、芦雪は意識的に耳を傾けた。
采女うねめ様……と言いますと、お嬢様の絵の手習いのお師匠様でしたか。まぁ、所詮は噂ですから。ご本人から聞いたわけではありませんし」
 女人の淡々とした言葉に、芦雪の思考は動きを止めた。
(娘で絵の手習いを……それも奥絵師である采女うねめ殿が師を務めるということは、まさか……この娘御、将軍家の子女か!?
 武士階級のうち、女の身で絵の手習いができ、その師に奥絵師を当てがえるのは、この日ノ本では将軍家だけだ。
 お忍びと言っても、とんでもない御家の姫君道中だったらしい。何故、深川の寂れた水茶屋で護衛も付けず、のうのうと茶を啜っているのか。城では警備も人の目も多いはずだ。それをどう掻い潜って城下まで降りたのか。
 芦雪の中では、またもや別の不安が渦を巻き、心臓が強く脈打つ。初夏の風も涼やかな夕暮れ時に、冷や汗が止まらなかった。
 慌てて周囲を見渡すが、店には芦雪と二人以外に人はおらず、先程まで店先に立っていた娘も店奥に引っ込んでいる。通りを行き交う人々もまばらで、二人の会話を聞き取れる位置にいるのは芦雪だけだ。思わず、芦雪は胸を撫で下ろした。
 しかし、そんな芦雪の心境を二人が知る由もなく、話は流れゆく川の如く進んでいく。
「あ、お嬢様は采女うねめ様にご執心でしたね。天女のようなお美しさですし、納得ですが」
「うるさいわね。いとまを出されたいのかしら」
「まぁ、怖い」
 女人は姫君の脅しにも屈せず、揶揄からかうように小さな笑い声を落としている。笑い事ではないぞと芦雪は内心思ったが、彼女は優雅に麦湯を啜って続けた。
「ですが、市中まで噂が広がっているということは、強ち嘘でもないかもしれませんね。あの方は殿からのご寵愛も厚いですし、ご結婚も考えられるお年頃でしょう」
「御家のために結婚するのは仕方のないことよ。……私だって、そうだもの……」
 先刻までの勢いはどこへ消え失せたのか、姫君の言葉尻は頼りない。庵の依頼人である采梅あやめも、此度望まぬ婚約が決まったと諦めたように述べていたのが記憶に新しい。
「だけど……納得いかないのは、その相手……。何故、住吉家の娘なの……」
 乾いた音が響く。姫君が縁台に椀を置いたのだろう。彼女は濡れた声を絞り出した。
「私と同じ家系の者との婚姻なら許せる。今の彼に見合ってるもの。でも……住吉家なんて、以前までおもて絵師だったような、ぽっと出の家系じゃない……。姫君の姿を見たことがあるけれど、取り立てて見目麗しいわけでもなかった。髪や瞳は……春を含んだような美しい色だったけれど……。でも、それだけじゃ采女うねめ様にふさわしくないわ……」
 衣擦れの小さな音と、椀が縁台に足を着けた音が合わさる。芦雪が恐る恐る背後を見ると、女人が姫君を抱きしめ、背中を撫でていた。姫君も、目の前に現れた女人の胸元にすがりつき、鼻をすすっている。
「……姫様。これはどうしようもない、仕方がないことなのですよ。住吉家も、源流は土佐家の血を引く家柄。下手をすれば、時の将軍家よりも長い歴史を誇る名家です。采女うねめ様にも覆せない事情があったのやもしれませぬ」
 会話の端々から推測するに、采女うねめが婚姻関係を結ぶ先は、同じ奥絵師家系である住吉家のようだった。昨今、狩野家の奥絵師としての活躍がめざましく、他の奥絵師家系の名はなかなかに聞かないものの、住吉家も奥絵師の一角を担う一族である。
 本家筋の京の一大絵師家系、土佐家も含めれば、住吉家も狩野家と同格の歴史と威光を誇り、宮家との繋がりも深い。狩野家と土佐家は、将軍家が京に坐していた頃から家同士の繋がりが強く、また一時は敵対関係にもあったというのは、界隈では有名な話だ。かつては両家が姻戚関係を結び、互いの流派の画技を取り込もうとしていた歴史もあったと聞いたことがある。
 此度の采女うねめの婚姻も、その踏襲である可能性が高い。土佐家の分家筋である住吉家と関係を結ぶことで、住吉家の大和絵やまとえの系譜を引く画技や、宮家との繋がりを取り込もうとしているのだろう。
 武家の婚姻とは、そういうものだ。家と家の繋がり、互いの利益、御家繁栄のため。男と女が添い遂げるための儀式ではなく、白無垢の下には重責と思惑が渦を巻いている。
 芦雪自身も、御用絵試に敗れ、長澤家を継ぐことになれば、二年後には采女うねめや姫君と同じ境遇に立つことになる。その時、自身は姫君のように「仕方のないことだ」と割り切れるようになっているだろうか。春花のかんばせが、心残りになっていやしないだろうか。
 未来で待つ空虚感に喘ぎ、空になった椀を握りしめる。芦雪は無言のままに椀を縁台に置き、手早く勘定を済ませると、姫君と女人の言葉から逃げるように、水茶屋を後にした。