第十四筆「恋衣」
今はもう通い慣れた、白壁の道。我が家同然の質素な屋敷門。門の軒先に掲げられた「尋夢庵」の金の文字が、平生と変わらぬ顔色で
日本橋の喧騒から抜け出したというのに、波打つ鼓動は未だ芦雪の頭の中で響いている。
──芦雪殿。ようこそおいでくださいました。
春のようなやわい声音が、記憶にさざ波を寄せる。芦雪が庵の主と他愛もないやり取りを交わすことは、この先、決して無いだろう。
自ら別れを告げた。写楽と藤仁を天秤にかけ、藤仁を選んだ。今日だけとはいえ、庵の主に成り代わり、白き
だというのに、「このまま写楽になれば、彼とともに過ごした記憶は消えてしまうのではないか」と、芦雪は今更怖気付いている。
(そんなわけないのにな……)
己が定めた選択の果て、失われたもう一つの選択を哀惜するなぞ、随分と虫の良い話だ。芦雪は庵の名を見上げたまま、乾いた唇を僅かに噛んだ。
「芦雪様」
隣に佇む少女の声音が静謐を破る。戸惑いが滲むそれに、芦雪の唇は緩やかに解けた。
「お松……。すまん、少し……感慨深いなと……。そう思ってただけだ」
真意を苦笑に隠す。しかし松乃もまた、本意を晒すことはない。彼女も眉尻を少しばかり下げ、視線を地面に落とした。
「……尋夢庵の仕事についてお話しますね。こちらへ」
木戸の軋む音が空気に溶け、淡い輪郭を残して二人を手招く。芦雪は松乃に促されるまま、庵へ続く小路に足を踏み入れた。
初夏の陽光を透かす青紅葉に風が渡り、
尋夢庵を初めて訪れた時、小路の両脇に連なる紅葉の並木に葉々はなく、随分と心もとなさそうに見えていたというのに。今ではすっかり翠を携え、芦雪を優しく出迎えている。
この景色を見ることはないのだろうと、残念に思っていたあの日が嘘のようだ。随分と、遠いところまで来たような気分だった。
初夏の時節には幾分合わぬ、早春の肉筆画。梅と鶯の花鳥画だ。
水を多分に含んだ墨の舞うような筆致が、紅、萌木などの淡い色合いで彩色され、麗らかな春の一場面が表現されている。梅花のか細い枝には一羽の鶯が羽を休め、一足先に春を告げる小さな花々を見上げていた。
「この絵がどうかしたのか?」
芦雪の問いに、松乃の肩が小さく跳ねる。彼女が答えを紡ぐまで、芦雪は静かに待った。
松乃の細い指先がかの鳥に触れる。墨の輪郭をなぞりながら、少女は掠れた声で述べた。
「……この絵は、庵の守り絵なのです。亡き父が私たち兄妹に……『写楽』に遺してくれた、鶯の四魂……」
取り戻せない過去を懐かしむように。我が子を
「
松乃が名を紡ぐと、淡い紅の光が
鼻腔を掠めた甘やかなそれに、芦雪は感嘆の息をこぼすでもなく、眉根を顰めた。
鶯。梅の香り。庵の守り絵。四魂。紅の光。
──まさか。芦雪が目を見開いた、その刹那。紅の光輝が力強く瞬き、雛梅と呼ばれた鶯の四魂が浮世での姿を得て、二人の前に顕現した。
萌木色の羽が宙を舞う。雛梅は、静謐にかすかな羽音を落としながら松乃の肩に留まると、やっと出会えたと言わんばかりに、少女の頬に頭を擦り寄せた。
「雛梅……。ごめんね、なかなか会いに来られなくて……」
早春の香りを羽織る萌木の鳥は、松乃の謝罪など意に介していない。つぶらな瞳は、少女ただ一人を映していた。
(……間違いない。この
先刻の松乃の吐露から推測するに、
彼らの父親も
本来、四魂は主を喪えば、浮世に顕現することは永遠に叶わない。生みの親である絵師が四魂に刻まれた名を呼び、祈りと願いを宿した
では何故、主を亡くしたはずの雛梅は顕現できているのか。そして何故、かの鳥は芦雪が江戸入りした日にわざわざ目の前に現れ、あまつさえ尋夢庵まで導いたのか。
全ての答えを知っているであろう少女に目を奪われたまま、芦雪は思考の海に沈んだ。
松乃はしばし鶯との戯れを楽しんでいたが、芦雪の視線に気づいたのだろう。彼女は黒鳶色の水面をかすかに揺らして言った。
「……以前から私の力についてお話していたとはいえ、驚かれましたよね。突然申し訳ございません」
芦雪が力なく首を横に振れば、松乃は雛梅の頭を撫でながら続けた。
「芦雪様たちの力とは対極に位置するもの。あらゆる四魂と想いを交わし、この世に呼び出せる一方、四魂を生むことはできない。……私は、
苦悶とも、諦めとも取れる歪みが、少女に暗鬱とした陰を落としていた。
以前からそうだった。松乃は己の力を前にすると、悲哀に溢れた表情を滲ませる。写楽やゆかりの四魂に触れ、芦雪に代わって想いを交わしていた時でさえも。
力のことで、これまで苦労したのだろう。ただでさえ、生まれた時から人とは違う世界が目に映るのだ。彼女ほどの長い歳月ではないものの、芦雪にも身に覚えがある。
──やはり、「鑑定士」の力はすごいな。他人の四魂をこうも簡単に操るとは。
かつて己の唇で紡がれた、されど身に覚えのない言葉の記憶。感嘆と喜悦をまとった、艶のある声音が過去にさざ波を起こす。
もう一人の己を名乗る者。されど、芦雪にとって不愉快極まりない男。脳裏で朽葉色の双眸と視線が絡む。同時に、透き通るように白い肌を青ざめさせた松乃の顔がよぎった。
(この記憶は……なんだ……?)
過去の面影が、封じられた箱の中から出ようともがいている。淡い翡翠色の光を掻き分け、芦雪が箱と蓋の隙間を覗こうとすれば、頭を巡る血潮が音をたてて行く手を阻んだ。
見えない。過去が。音が。色が。想いが。ここはどこで、自身は何者なのか。今、言葉を乗せようとしている声音は、果たして誰のものなのか。
分からない。何も。考えれば考えるほど、視界は墨が溶けだしたように暗色に揺らぎ、己ではない何者かに濃く、深く染まっていく。
(鑑定、士……。黒鳶色の……瞳……)
冬を待つばかりの、朽葉色では決して届かぬ力。やわらかな春の陽と慈愛を深く含んだ一対の黒鳶色が、かつて幼い私を優しく見下ろしていた。
若くして苦労を重ねてきたのであろう眦の皺が緩み、重さの伴わぬ温もりに頭を撫でられる。その手に触れたいと願い、けれど永遠に叶わなかった。それだけは覚えている。
今、あのひとと似た存在が眼前にいる。ならばもう一度、願うことは赦されるだろうか。
(私は……守信は……、貴方に……)
──ただ、抱きしめて欲しかった。誰かの切望に喘ぎ、芦雪は松乃に手を伸ばした。
「芦雪様?」
鈴を転がすような声音に、芦雪は我に返った。
「どうかされたのですか?」
「あ、あぁ……いや、その……」
行き先をなくした指を額に添え、芦雪は
──……馬鹿だな、私は。
艶を帯びた嘆息が、思考の湖面に落ちる。男の憂いは波紋を作り、やがて消えていく。
水墨の霞はいつしか晴れ、己を見上げる大きな瞳と目が合う。芦雪は、しどろもどろに視線をさ迷わせた。
不意に、萌木の小さな頭が視界の端に映る。一重の疑問が衣となり、再び芦雪の思考を包んだ。
「……なんで、君はあの時……俺を尋夢庵まで導いたんだ?」
「あの時……?」
松乃は要領を得ない様子で、芦雪の問いを繰り返す。一方、咄嗟に口をついて出た疑問が形になったおかげか、芦雪は平静を取り戻し始めていた。
(……大丈夫。これは俺の言葉だ)
芦雪は胸を撫で下ろしながら、順を追って述べた。
「俺が江戸入りした日にな。宿でうたた寝していたら、雛梅が飛んできて。俺を尋夢庵まで導いてくれたんだよ。……お松、だったんだよな? 雛梅を俺のもとへ遣わしたのは」
「え? いえ、それは……」
言葉が途切れる。松乃は形の良い眉を顰め、視線を床に落としている。
「お松じゃないのか?」
怪訝に思い、今一度問えば、松乃は慌てて首を横に振った。
「あ、いえ! 芦雪様が江戸入りされた日……ですよね? えぇ、確かにこうして雛梅を顕現させてはおりましたが、それは頼まれたからで……」
滔々と流れ始めていた答えは、岩に当たったかの如く唐突に堰き止められる。今度は芦雪が首を傾げる番だった。
松乃が故意に顕現させたのでなければ、それを依頼してきた人間が芦雪を尋夢庵まで誘導したかったということだ。何故、そうする必要があったのか。続きを促すように、桜色の唇を見つめていると、松乃はひとつ息を吐いて、再び芦雪を見上げた。
「……芦雪様。江戸入りされた日、その……不運な目に遭われたりしませんでしたか?」
その問いは、一体何と関係あるのだろう。少しやきもきしつつ、芦雪は答えた。
「いや。その日はむしろ、物凄く幸先が良かったぞ。騒ぎから助けた茶屋の娘に蕎麦を馳走になったり、その娘が偶然宿屋に縁のある者で、宿泊先がすぐに見つかったり……。あの時は神仏の導きによるものだと思っていたんだが……。まぁ不気味ではあったが、お松の言うように不運に見舞われるよりはずっと良かったよ」
今思えば、やはり雛梅に会った日は、あまりに事が上手く進みすぎていた。何の気なしに笑いながら言えば、松乃はますます頬を強ばらせていた。
「……? どうかしたのか?」
「あ、えと……た、単に、雛梅が出会い頭に悪戯をしてないか気になっただけです! あの日も、この子がねだるものだから顕現させて遊ばせていたのですけど、途中どこかへ飛んでいってしまって……。悪戯好きなところがあるゆえ、もしかしたら視える芦雪様を見つけて、構って欲しくて庵まで導いたのかもしれません! あの日は、うちの四魂たちがご迷惑をおかけしました……」
松乃はいつになく饒舌に述べた。先程まで歯切れが悪かったのが嘘のようだ。疑問の流れを堰き止めていた岩は崩れ、求めた答えは呆気なく流されていった。
結局、故意に何者かが雛梅を芦雪のもとへ遣いにやったのではなく、雛梅が顕現したいと松乃に頼み、遊びに出た先で偶然芦雪を見つけただけだったようだった。
松乃は、話は終いだとでも言いたげに、懐から一通の文を取り出すと、己の肩口に視線を投げた。
「さて、謎も解けたところで……。雛梅、今日の依頼人の……
主の一声に、雛梅は芦雪の肩に舞い降りる。僅かに肩に触れる鉤爪の感触に戸惑っていると、雛梅は小さな頭を芦雪の頬に擦りつけ、動きを止めた。
頬を通して、命の鳴動が伝わる。淡い紅の光輝が瞬き、粒となったそれらは芦雪の頭の中へ入り込んだ。
(これは……雛梅の記憶か……)
色のない水墨の
──今回の依頼は婚礼衣装を……。
──……亡き彼女のためにも……。
──では、報酬は
二人が淡々と交わすやり取りが、草子の頁をめくるように現れては消え、芦雪の記憶として鮮明に刻まれていく。警戒。心配。慈愛。庇護。そして、安堵。雛梅が持つ過去の欠片は、彼が当時感じた形なき羽衣をまとい、芦雪の頭の中を漂う。
どうやら雛梅は、大切な人を守り、人と人とを繋ぐ
「……ありがとな、雛梅」
これまでも、絵中から写楽を見守っていたのであろう守り人に、小さく礼を言う。だが、当の四魂は、なんてことはないとでも言いたげだ。芦雪から身を離すと、振り返ることもなく松乃の肩へと舞い戻っていった。
「念の為、依頼人からの文もお渡ししておきますね。雛梅の記憶は大丈夫そうですか?」
「あぁ。問題ない。しっかり頭の中に入ってる」
「それは良うございました。こちらが写楽の着物です。あとは
松乃に差し出されたのは、見慣れた柳色の小袖だった。受け取ってその場で広げると、藤花の甘い香りがたち、鼻先をかすかにくすぐる。
(そうか……。俺は、これを着なきゃならないのか……)
友の小袖であり、同時に、恋しいひとが友の姿になるために袖を通していたもの。
芦雪は、身の入っていない小袖を胸元に引き寄せ、強く抱きしめた。
(本当に……写楽殿はもう、いないんだな……)
小袖に焚き染められた春花の香りだけが、友との離別をただ肯定していた。
青天の霹靂とは、まさに眼前の出会いを言うのだろうか。
「写楽殿。此度は依頼の品を制作頂き、誠にありがとうございます」
写楽、もとい芦雪の前には、一人の青年が悠然と畳の上に腰を下ろしている。彼は深々と頭を垂れ、指の先まで洗練された礼を紡いだ。
墨に一筋の
青年は衣擦れの音を一音も落とすことなく、顔を上げる。頬に落ちた長い睫毛の影が消え、葉から滴る露の如き一対の煌めきが、芦雪を見据えていた。
(似てる……)
此度の依頼人、
朽葉色の双眸が、
(まさかこいつは……過去の俺の……)
芦雪は、即座に
早鐘を打つ鼓動を抑え、芦雪は浮かべ慣れた笑みを貼り付けた。
「……ご丁寧にありがとうございます、
今は、己が為すべきことだけを考えるのだ。写楽として依頼人に納品物を渡し、報酬を受け取る。それ以外に、思考してはならない。
本題に入ろうと、芦雪が再び口を開こうとした時、青年の眼光に尖鋭さが宿った。
「……今日は、写楽殿ではないのですか?」
ぎし、と軋んだ音を立てたのは、畳の床板か。芦雪の身体だったのか。
芦雪は口元の笑みは崩さぬままに、
「というと?」
「お会いしたのは一度きりですし、私の勘違いかもしれませんが……。どことなく、何かが違うような気がしたもので」
相も変わらず、双眸には穏やかな初冬の陽光が灯っているだけで、虎視眈々とした強かさは露ほどもない。彼は純粋に、自身が感じた疑問を問うている。
……否。そのように演じていると言った方が正しかった。
芦雪が写楽ではないと確信した上で、彼は問うているのだ。藤仁はどこにいるのか、と。
雛梅の記憶で見た限りでは、
とすれば、彼の目的は、身分を隠してまで藤仁に接触を図ることだったのだろうか。
(考えすぎだ……。考えすぎであってくれ……)
接触を図ろうとする理由は、どうあっても分からない。しかし、どうしても彼が悪意を持っている可能性を否定できない。ならば今は写楽を。藤仁を守ることだけを考えねば。 芦雪は、数瞬の間に下ろした瞼を上げると、密やかに笑みをこぼして言った。
「……ご明察。けれど、惜しい」
「え?」
「私も写楽、にございますよ」
「怪画絵師、写楽の姿はひとつにあらず。商人、武士、青年、少女。その日の気分によってまとう
『写楽』は一人ではない。藤仁には仲間がいるのだと、芦雪は敢えて示唆した。
「本日、貴方の目の前にいるのは武家絵師・写楽。私の姿など、所詮は数ある着物のうちのひとつに過ぎませぬ。けれどもし、いずれかの着物の下にある素肌を暴こうなどと無粋な真似をする方がいるならば……」
あくまでも童のように。尋夢庵の主の、明確な正体を悟られぬように。芦雪は悪戯な微笑を形作り、放った。
「──たとえ依頼人であろうと、容赦はいたしません」
芦雪は、
薄暗い庵に剣呑な空気が漂い、肌が僅かにひりつく。
しばらくして、力を抜いたような、安堵に近いため息が、対峙する青年の唇から漏れる。彼は瞼をやや伏せると、やはり優美に笑んだ。
「……なるほど。確かに、着物を暴いて美しい肌を白日の下へ晒そうなぞ、無粋な話です。失礼いたしました」
(それもこれも、大嫌いな守信に似てるせいだ……)
もたげた口端を崩すことなく、芦雪は指先を強く握りこんだ。かの男とは違う、身をわきまえた
嘘で塗り固められているのは己も同じだというのに、
(……
当初、写楽との距離を表す
小袖の下に据わる肌守りに手を添え、胸裡でさざめく潮騒を宥める。波の音が少しずつ遠くなっていくのを感じて、芦雪は緩慢に立ち上がった。
「……さて。そろそろ、本題に移りましょう」
背を向けたとて、
どこまでもいけ好かない男だ、と心中で舌を打ちながら、芦雪は控えていた品に触れた。
芦雪の背丈ほどあるそれは、白い布で覆われている。布端に指をかけ、再び
「こちらが、ご依頼の品です。お納めくださいませ」
抑揚のない声音とともに布を取り払えば、藤仁が描いた絵が、二人の前に姿を現した。
「あぁ……これはまた……。やはり、想像以上に美しい……」
足元には、金と紅で縁った波が表され、浜辺と小さな岩に身を寄せている。岩間からはほっそりとした千歳緑の松が曲線を描いて枝を伸ばし、金、若木色の葉々を開いていた。
松の枝の軌跡を辿れば、紅梅が松に寄り添うようにして
決して起こりえぬ春の情景ではあるものの、松と梅が一本の樹として息づく様は、まるで
これこそ、藤仁が自身の身体に鞭打ってでも納品しようとしていたもの。
芦雪はただ、息を飲んだ。藤仁の絵を前にすると、己から引き出された感情を形にするのも憚られてしまう。
色彩のみで丁寧にたどられた、
これを受け取る
「写楽殿」
静寂の
「……なんでしょう」
呼び声に応えれば、
「打掛に触れても……、よろしいでしょうか……」
目の前の事実を確かめるように。赦しを請うように。青年は僅かに頭を傾げる。唇は笑みを湛えているが、静かに泣いているようにも見える。
芦雪は無言で頷き、
「松に梅。流水の波間に蓬莱山、宝尽くし……。あの依頼内容から、よくここまで……」
(藤仁のことだ。
打掛の生みの親の顔を浮かべ、芦雪は呆れにも似た嘆息を放った。
依頼人である
許嫁はもとより筒井筒の仲であり、歳も近く家同士の仲も良好だった。二人が
だが、二人の別れは音もなく唐突に訪れる。普段外出の少なかった許嫁が珍しく出かけたきり、神隠しにあったかのように行方不明になったのだ。探しに出た彼女の父、そして兄弟とともに。
されど八年。彼女は未だに見つかっていない。認めたくはなかったが、恐らくもう亡くなっている可能性の方が高かった。たとえ骨となっていようと、彼女の消息が掴めるまで、
「此度、家の取り決めで別の娘との婚約が決まりました。私にはもう、一年の猶予しか残されていない……。本当なら私が……僕が、あの子にこれを着させてあげたかった……」
今回、写楽を頼ったのはそのためだと、彼は震える声音で述べた。この婚礼衣装は、彼女を諦めるためのものだったのだと。
「もう一度だけでいい。一目でいい。ただ、あの子に逢いたい……」
彼が身にまとう、見えない
「写楽殿。此度は本当にありがとうございました。少ないですが、どうかお納め下さい」
(俺が依頼した時は、藤仁は金目のものは一切要求しなかったのに。今回は請求したのか。依頼人や内容によって、その辺は変えてるのか……?)
芦雪が依頼した時、要求されたものは髪紐だった。それ以外に求められたものはなく、そのうち友人としての縁を結んでしまったがゆえに曖昧になっていたが、あの時、何故報酬を金銭にしなかったのだろう。藤仁は隠し事ばかりだ。
芦雪は、少ないという割に厚い包金を手に持ち、怖々と手の中で観察していると、
「そうそう。本題のものをお渡しするのを忘れるところでした。こちらもお納め下さい。……
(
雛梅に分け与えられた記憶を手繰り寄せながら、心の中で小首を傾げる。芦雪の疑問を知る由もない
「私もまぁ……形ばかりではありますが、
「
己が写楽だという自覚も投げ打ち、芦雪はうわずった声をあげた。
江戸に居を構える上級武家たちは、子に教養のひとつとして絵の手習いをさせるため、
つまり、
「
「あの?」
「
狩野
また、
武家の子とはいえ、狩野派の画技を直々に学ぶ者たちだ。その腕前は、やはり画力の基礎という面でも他の追随を許さない。実力不足を痛感して戦意を喪失し、絵試の途中で辞退する市井の挑戦者たちも多い。
奥絵師たる資格を既に持っている
ゆえに、彼を含む
そんな華々しくも妖しい面も兼ね備える彼が、得体の知れぬ一介の町絵師のために、
「
同世代の若き天才に対して、彼の身近な者が告げた事実は、彼の印象を大きく塗り替えるものだった。密かに尊敬の念を抱いていただけに、芦雪は開いた口が塞がらない。「楽しいことが大好きなひょうきん者」であるがゆえに、彼は署名を快諾したとでも言うのだろうか。
一方、
「以前お会いした時にも思いましたが。既に卓越された技術をお持ちの写楽殿でも、やはり
「まぁ……それなりには……」
「……町絵師とはいえ、
藤仁は、御用絵試や狩野派に対し、軽蔑や嫌悪を含んだ感情を抱いている。ゆえに、今芦雪が出した答えは間違っている。
藤仁が狩野派を嫌う理由も、
柳色の小袖の端に、爪先が食い込む。刻まれていく皺が深くなるたび、焦燥が大きくなっていくように思え、芦雪はそれすらからも目を逸らしたくなった。
「……そうですね。こうして、私の依頼にまで心を砕いて下さるような方なのですから。度々の御無礼、お許しください」
「いえ、そのようなことは……。頭を上げてくださりませ」
麗しき青年は、伏せた顔を上げる。刹那の間に、彼の薄い唇が物言いたげに開かれた気もしたが、見間違いだったのだろう。人の良い笑みは、打掛を手にして庵を出るまで、崩れることはなかった。
庵の畳に落ちる影が、茜色とともに伸び始めた頃。芦雪は、かりそめの姿から元の姿に戻り、帰路途中にある水茶屋に足を伸ばしていた。
客も女二人以外におらず、随分と寂れている。これ幸いにと、芦雪は店先の縁台に腰掛け、店の娘に出されたぬるい麦湯を啜る。渇いた喉を麦の燻した香りと潤いが伝い、先刻までの緊張がほぐれた。
(無事、写楽の仕事は終わったものの……。結局、
気に食わないほど、守信の面影があった理由も。藤仁が
(藤仁が『大きな納品だ』と言っていた意味。無理を強いてでも庵に向かおうとした理由。その全てが、『
藤仁は一体、何を考えているのだろう。彼が気を失う前、「君には関係ない」「君を巻き込みたくない」とこぼしたのも、まるで自身が大きな争いの渦中にいるような、あるいは、これからそれを起こすような物言いだった。
「藤仁……。お前は、どうして……」
未だ身に残る藤花の甘やかな香りに、一筋の苦味が混じったように思えた。
「ねぇ、おまさ。聞いてるの?」
「聞いておりますよ、お嬢様」
密やかな話し声が背を撫でる。芦雪は麦湯を口に含んだまま、小さく背後を振り返った。
芦雪が腰掛ける縁台の斜め向かい。赤い
少女は埃よけの白い揚げ帽子を被り、濃紫の縞と松皮菱の文様が目を惹く、藤色の振袖に身を包んでいる。緋色の中着が振袖との色差も相まって美しく、離れていても上等なものだと分かる。
女人は少女の付き人だろうか。薄
どこぞの武家の娘のお忍びに違いない。芦雪は視線を前に戻し、麦湯を飲み込んだ。
「あら。じゃあ何の話をしていたか、今言ってご覧なさいな」
「全く話を聞いておりませんでしたので、初めからお願いしてもよろしいでしょうか?」
「もうっ! おまさのばか!」
二人の間には、武家の姫とその付き人の主従関係があるはずだが、行き交う会話にはそれがなく、気の置けない関係性が窺える。妹と姉のやり取りを聞いているようにも思え、随分と微笑ましい。
おかげで、先刻までの不安が多少なりとも和らぎ、芦雪の口端は無意識のうちに緩やかに上がっていた。
芦雪が再び椀の縁に唇を付け、残りのものを全て口に入れた時だった。少女のやや興奮した声が芦雪の耳孔を貫いた。
「先程、草子問屋で聞いた噂のことよ!
「げほっげほっ!」
咳き込みとともに、芦雪は麦湯を吐き出した。地面は色を変え、銀鼠の袖に飛沫が散る。
まさか、数刻と経たぬ間に
「
女人の淡々とした言葉に、芦雪の思考は動きを止めた。
(娘で絵の手習いを……それも奥絵師である
武士階級のうち、女の身で絵の手習いができ、その師に奥絵師を当てがえるのは、この日ノ本では将軍家だけだ。
お忍びと言っても、とんでもない御家の姫君道中だったらしい。何故、深川の寂れた水茶屋で護衛も付けず、のうのうと茶を啜っているのか。城では警備も人の目も多いはずだ。それをどう掻い潜って城下まで降りたのか。
芦雪の中では、またもや別の不安が渦を巻き、心臓が強く脈打つ。初夏の風も涼やかな夕暮れ時に、冷や汗が止まらなかった。
慌てて周囲を見渡すが、店には芦雪と二人以外に人はおらず、先程まで店先に立っていた娘も店奥に引っ込んでいる。通りを行き交う人々もまばらで、二人の会話を聞き取れる位置にいるのは芦雪だけだ。思わず、芦雪は胸を撫で下ろした。
しかし、そんな芦雪の心境を二人が知る由もなく、話は流れゆく川の如く進んでいく。
「あ、お嬢様は
「うるさいわね。
「まぁ、怖い」
女人は姫君の脅しにも屈せず、
「ですが、市中まで噂が広がっているということは、強ち嘘でもないかもしれませんね。あの方は殿からのご寵愛も厚いですし、ご結婚も考えられるお年頃でしょう」
「御家のために結婚するのは仕方のないことよ。……私だって、そうだもの……」
先刻までの勢いはどこへ消え失せたのか、姫君の言葉尻は頼りない。庵の依頼人である
「だけど……納得いかないのは、その相手……。何故、住吉家の娘なの……」
乾いた音が響く。姫君が縁台に椀を置いたのだろう。彼女は濡れた声を絞り出した。
「私と同じ家系の者との婚姻なら許せる。今の彼に見合ってるもの。でも……住吉家なんて、以前まで
衣擦れの小さな音と、椀が縁台に足を着けた音が合わさる。芦雪が恐る恐る背後を見ると、女人が姫君を抱きしめ、背中を撫でていた。姫君も、目の前に現れた女人の胸元にすがりつき、鼻をすすっている。
「……姫様。これはどうしようもない、仕方がないことなのですよ。住吉家も、源流は土佐家の血を引く家柄。下手をすれば、時の将軍家よりも長い歴史を誇る名家です。
会話の端々から推測するに、
本家筋の京の一大絵師家系、土佐家も含めれば、住吉家も狩野家と同格の歴史と威光を誇り、宮家との繋がりも深い。狩野家と土佐家は、将軍家が京に坐していた頃から家同士の繋がりが強く、また一時は敵対関係にもあったというのは、界隈では有名な話だ。かつては両家が姻戚関係を結び、互いの流派の画技を取り込もうとしていた歴史もあったと聞いたことがある。
此度の
武家の婚姻とは、そういうものだ。家と家の繋がり、互いの利益、御家繁栄のため。男と女が添い遂げるための儀式ではなく、白無垢の下には重責と思惑が渦を巻いている。
芦雪自身も、御用絵試に敗れ、長澤家を継ぐことになれば、二年後には
未来で待つ空虚感に喘ぎ、空になった椀を握りしめる。芦雪は無言のままに椀を縁台に置き、手早く勘定を済ませると、姫君と女人の言葉から逃げるように、水茶屋を後にした。