第十三筆「仮面」

 翠を濃くした葉々が、一粒の水滴を落とす。生み出された雫は、地面にできた小さな水面に波紋を広げた。
 雲間からは、瑠璃の空と白銀の月が僅かに顔を覗かせており、鳴り響く時の音を静かに迎え入れていた。
 浮上する意識が、徐々に身体に馴染んでいく。芦雪ろせつは目を閉じたまま、小さく身動みじろいだ。
(……温かい)
 まるで、愛おしい人の腕に包まれているような。腹の中に据わる熱も、背中に吸い付くような温もりも、全てが心地良い。
 幸福な空気を肺に深く招き入れ、芦雪は瞼を上げた。
 静謐が保たれる部屋の中で、行灯の明かりが優しく揺れる。耳元に穏やかな吐息が触れ、黒鳶色の長い髪が一房、音もなく眼前にしなだれ落ちた。身体は、陶器のように滑らかな二本の腕によって背後から引き寄せられ、包まれている。
 恐る恐る首を後ろへと傾げれば、雪月風花をその身にまとったような、風雅で俗離れしたかんばせがある。彼は規則的な寝息をたて、長い睫毛を時折小さく震わせていた。
(そうか……。俺は、藤仁と……)
 今まで経験したことのない快楽に溺れ、藤仁の腕の中で眠ってしまったようだった。強烈な快感に耐えきれず、泣いて喘ぐことしかできなかった情事のが、頭の中で反芻される。恋しいひとと肌を重ねた恥ずかしさと、場の空気に流された自身の愚かさ、正常でない藤仁を受け入れてしまった罪悪感が、芦雪の中で辛酸甘苦の如く溶け合っていた。
 胸元に絡む、節くれだった手に己の手を添える。後処理もままならず、藤仁も疲れ果ててそのまま意識を失ったのだろう。
 芦雪は背後の人物の眠りを妨げぬよう、腰を浮かそうと脚に力を入れる。雨音も消えたはずの部屋の中で、ぬめりけをまとった音が、やけに大きく響いた。
「あっ……、ん、ぅ……!」
 芦雪の唇から、小さく声が漏れる。緩やかに、身体を内から溶かしていくような甘い感覚が、頭の中で火花を咲かせていた。
(俺の中に……藤仁のが、入ったままだ……!)
 中にはまだ、藤仁が居座っている。一度それを認識すれば、愉悦に混じった小さな声が次々に喉をついて出た。
「んっ、あ……っ、は……」
 抜こうと身体を捩れば捩るほど、中で馴染んでいるものが刺激に弱い部分に当たり、息があがる。最悪なことに、中のものは芦雪を引き留めるかの如く、頭をもたげ始めていた。
「っ、は……ぁ……」
 耳元に、艶めいた喘ぎ声が降り立つ。芦雪は我に返り、再び後ろに首を傾げた。
 幸か不幸か、藤仁の瞼は固く閉じられたままだった。苦しげに眉間に皺を寄せているものの、起きてはいないようだ。だが、男としての本能がそうさせているのか、湧き出る快感を逃すまいと、藤仁は無意識に腰を擦りよせる。繋がった部分が、やんわりと責め立てられた。
「んっ、あぁ……っ……!」
 ここで声を出してはならないと、僅かに残る理性が叱咤する。芦雪は唇を噛み、喉奥に力を込めて、こみ上げる声を必死に押し殺した。
「——っ……!」
 声にならない悲鳴が身体を震わせた時、ようやく中の異物を取り出すことに成功した。腕の檻が緩んだ隙を逃さず、芦雪は布団の中からようよう這い出る。
(あ……危なかった……)
 はやる息を整えながら、芦雪は今まで入っていた夜着を怖々めくった。
(あー……。これは大変だ……)
 思わず夜着から手を離すと、芦雪は片手で顔を覆った。淡い橙の光が暗闇の中で照らし出したのは、布団の布地にできた染み。二人の口付けから漏れ出た露と汗、欲の名残だ。
 藤仁の下腹部は飛び散った白濁でまみれ、行為の余韻を明確に伝えていた。あまりにも目に毒だった。
 芦雪が己の腹上に手を下ろせば、ぬるりとした感触が這い寄る。驚いて視線を腹に移すと、芦雪の下腹部までもが白い欲で濡れている。それが己の放ったものだと気づくのに、随分と時間を要した。
 追い討ちをかけるように、己の後孔から何かが漏れ出る感覚が脚の付け根を伝う。嫌な予感はそのままに、慌てて溢れる蜜を受け止めれば、掌中にはやはり、白き耽溺の跡が落ちていた。
(藤仁のやつ……。中に出しやがったな……)
 後ほど、湯屋に行って掻き出さなければならない。やることが増えた、と芦雪は肩を落としたが、すぐさま顔を上げ、夜着をもう一度取り払った。
 己の処理をする前に、まずは藤仁の片付けをせねばならない。松乃の目に決して触れさせてなるものか。彼女なら仰天して失神しかねない。芦雪は、枕元にあった水桶と手拭いを手に取った。
 芦雪は、自らの身体を軽く拭いてから小袖に腕を通すと、横たわる藤仁に向き直る。藤仁の腹回り、胸元、顔を水に濡らした手拭いで丁寧にぬぐい、痕跡を跡形もなく消した。
 藤仁を起こさぬように、慎重に新しい襦袢に着替えさせ、夜着を肩まで掛け直した。
「これでよし。……次は中だな」
 芦雪は腕で額の汗を拭うと、白濁が浮いた水桶と手拭いを持ち、部屋を後にした。


(あー……。腰が痛い……)
 桶の中身を空にしてから、芦雪はおぼつかない足取りで居間へと向かった。腰には鈍い痛みがのしかかっている。歩く度に骨が軋み、口元が自然と歪んでしまうのも無理はない。
「っ、おっと……」
「芦雪様!」
 廊下の角を曲がった折に、松乃と出くわした。芦雪は慌てて歩みを止める。
「危なかったな。……すまない、よく前を見てなかった俺が悪い」
「とんでもございません! ちょうど、お部屋に伺うところでしたので、お会いできて良かったです」
 松乃は夕餉の乗った膳を軽く持ち上げて見せ、穏やかに微笑んだ。
 あと少しでも目覚めるのが遅れていれば、松乃はあの惨状を目にすることになっていたはずだ。間一髪だったと、芦雪は密かに胸を撫で下ろした。
「遅くまで兄上を見ていただいて、本当にありがとうございます。店も閉めましたし、看病は交代いたしますね。夕餉は居間で召し上がられますか?」
 松乃の申し出に思案し始めたところで、芦雪の腰に鈍痛が走った。思わず手で庇えば、目の前の少女は小首を傾げる。
「腰がどうかされたので?」
「え!? あー……これは……そう! さっき、廊下で転んで腰を打ってしまってな!」
「まぁ! お怪我は?」
「す、少し痛むだけだから大丈夫だ」
 乾いた笑いを浮かべながら、芦雪は軽く手を振る。松乃の顔を真っ直ぐに見れず、いたたまれなくなった。
「すまない、お松。今から湯屋に行ってくるよ。雨のせいか、身体が気持ちが悪くてさ」
「今からですか? もう閉まる時間ですが……」
「大丈夫。あそこの番頭とは仲がいいんだ。少し話せば入れてくれるだろ。……夕餉は帰ってから頂くよ」
「本当にごめんな」と松乃の頭を軽く撫でると、芦雪は少女の返事を聞く前に、逃げるようにして流屋を出た。


 風が強いと、湯屋は店を開けない。湯を焚く火が強風に煽られて、火災の元となるのを恐れているのだ。江戸は土地柄のせいか、火事が起きやすい。ゆえに、どれほど銭を持った豪商でも家に内風呂をつけることはない。日本橋の豪商の一角を担う流屋も例に漏れず、皆湯屋を利用していた。
 雨は上がっているが、昼までは風も強かった。湯屋は店を開けていないやもしれない。
 芦雪は不安に駆られつつも、痛む腰を叱咤する。はやる心臓はそのままに、今はもう通い慣れた近所の湯屋へと急いだ。
 湯屋の前に着くと、八間行灯の灯りがやわく漏れている。見慣れた墨色の頭が紺の暖簾から顔を出し、「湯」と書かれたそれを外そうと、髪先を揺らしながら動いていた。
 安堵の息が口をつき、芦雪は目当ての人物に声を投げた。
「ゆき。もう店じまいか?」
「おや、せつさん。今日は随分と遅いね」
 芦雪をせつ、と呼ぶ男は、この湯屋の番頭だ。濡羽色の瞳に垂れた眦が印象的で、左頬の黒子ほくろが彼の人好きのする顔立ちをより強めている。
 ゆきは、湯屋の番頭である前に、芦雪の唯一の酒飲み仲間でもあった。
「少しばかり仕事が残っててな……。すまん、今から入れるか……?」
 芦雪は恐る恐る、首を小さく傾げて尋ねる。ゆきは外した暖簾を手にしたまま、困惑した様子で口を開いた。
せつさんひとりだし、湯もまだ抜いてないから俺は別にいいけどよ……」
「本当か!? 助かる! 今度何か奢るよ」
「お、言ったな。それ、忘れるなよ?」
 ゆきは芦雪の肩に腕を回し、悪戯な笑みを口元に湛えた。
「……で? 次はいつ飲む?」
「もう奢られる予定を立てるのか? ゆきは相変わらず飲兵衛だな」
「二日に一度、深川で飲んでる奴に言われる言葉じゃねぇな」
「ふはっ。それは違いない」
 ゆきとは、尋夢庵が居を構える深川の煮売酒屋〔現在の居酒屋〕で、ふた月前に知り合った。芦雪が休みの度に尋夢庵に通う傍ら、決まった店で酒を一杯引っ掛けてから帰路につくのがすっかり習慣になり始めていた折、偶然ひとりで飲んでいたゆきと相席したことがきっかけで、よく話すようになったのだ。
 ゆきも、幼い頃は身体が弱かったようだ。ゆえに「ゆき」と女の名をつけられたという話は、よく彼との飲みの肴になる。本人は不満らしいが、ならば改名をすれば良いと勧めると、「親が俺を守るために付けた名にケチつけるのか!」と朱に染まった顔で辻褄の合わぬ怒り方をするため、結局は気に入っているのだろう。
 身体が弱いことや酒好きなこと、出身が同じ京であること、日本橋で働いているという根幹の部分が共通していたこともあり、ゆきの方が五つ歳上ではあるものの、芦雪は彼と会ってすぐに意気投合した。
 かと言って、さほど深い話をする仲でもない。ゆきは芦雪の身分も年齢も気にせず接してくるため、芦雪にとっては楽しいことだけを共有する悪友のような存在だった。彼と言葉を交わすと、幼馴染の幸之介とのやり取りが蘇ってしまうのも、きっとそのせいだ。
「ま、飲みの予定は湯上がりにでもたてようかね。とりあえず入んな」
「ん。ありがとうな、ゆき」
 ゆきは破顔して頷くと、芦雪の肩から腕を外し、店の引き戸に指を掛けた。その時ふと、彼はもう一度芦雪の方へと振り返り、己の首元を指で示して言った。
せつさん、首元の……。虫刺されかい?」
「首?」
「そう。その左側のとこ。赤くなってて痒そうだ」
「やだねぇ。もうそんな時期か」と、ゆきは呆れたように口元を歪めて、湯屋の中へと入っていった。
(虫刺され……?)
 ゆきに指摘されたものの、示された場所には痒みがなければ痛みもない。本当に虫刺されなのだろうか。
 芦雪が思考の海に沈みかけた時、藤仁の腕に包まれていた記憶のが脳裏をよぎる。
 意識を泥の中に沈ませる前、首元に静かに感じた痛みの答え。それがこの虫刺されではないかと、もう一人の自分が囁いた。
(まさか……あいつ……)
 芦雪は首に止まった虫を叩くかのように、勢いよく首元に手を当てた。
(いやいやいや。ありえない。……ありえない、よな?)
 これはあくまでも推測に過ぎない。そもそも、意識を失う前に感じたことなど、本当にあったことかも危うい。しかし、もしかすると、と何故か期待してもいる。
せつさん? どうした、入らないのか?」
「わ、悪い。すぐ入る!」
 再び顔を出したゆきに意識を引き戻され、芦雪は首元に手を当てたまま、慌てて湯屋の中へと足を踏み入れた。
 当然だが、常に浴客で溢れている板の間には誰もおらず、広々としている。
 身分も性別も隔たりなく、湯の中に入ってわいわいと会話が飛び交う社交場がこうも静かなのは、なかなかに見る機会はないだろう。
(幸か不幸か、これはこれで助かったな……)
 これから、中にあるものを掻き出さなければならないのだ。それをひとに見られなくて済む。芦雪は高座に座るゆきに湯銭を渡すと、さっさと小袖を脱ぎ、衣棚の中に半ば押し込むようにして入れた。念の為、肉付きの悪い尻にそろりと触れて、白い蜜が溢れ出ていないか確認するが、ぬめりとした感触はない。
 腹を決めて、芦雪が小桶を手に流し場へと向かおうとすると、後ろから肩をつつかれた。
「ほい。小桶を貸しな。湯くみはもう帰らせちまったから、岡湯は俺が汲んでやる」
「ありがとう、助かる」
 ゆきは小桶を片手に、小走りで浴槽の隣にある上がり湯部屋へと入っていくと、暫し姿を消す。柄杓ひしゃくで湯を掬う音が響いたあと、部屋の小さな引き戸が開いて、ゆきの手と湯の入った小桶だけが現れた。
「はいよ。足りなくなったら言いな。汲んでやるから。三助できるけどいるか?」
「いや、大丈夫だ。……寧ろ一人がいい」
「なんだなんだ。男同士なんだから恥ずかしがるこたぁないだろ?」
 ゆきの軽快な笑い声が届き、小桶に張った湯面が揺れる。桶を受け取り、芦雪は長い前髪をかきあげて嘆息を吐いた。
「恥ずかしいとかじゃなくてだな……。まぁいいや。ゆきを待たせるのも悪いし、ささっと入ってくるな」
「俺のこたぁ気にしなくていい。湯ぐらい、ゆっくりつかりな」
「……すまん、恩に着る」
 心の中でゆきに平伏しながら、芦雪は上がり湯部屋から少し離れた流し場へと移動し、腰を落ち着ける。湯につけた手拭いであらかた身体を洗ってしまうと、いよいよ本題だ。
 生唾が喉を伝う。細く息を吐きながら、芦雪は自分でも滅多に触れることはない後孔へと指を這わせた。
「……っ、ぁ……」
 中は柔らかかった。火照りが冷めていないせいか、少し触れただけで声がこぼれる。
 藤仁の指と陰茎を咥えこんでいた窄みは、己の指では満足できないと悟っていたのか、先刻のようにうねりはしなかった。
 未だ異物感が色濃く残る秘部を慎重に分け入り、藤仁に吐き出された白濁を掻き出していく。とろり……と蜜が腿を這う感覚が、再び頭の中に侵入する。芦雪は自然と漏れ出る声を堪えようと、奥歯を噛み締めた。
 早く済ませたい思いが先走るあまり、もう一本指を差し入れた。
 ──ここ。君が一番気持ち良いと感じるところだ……。覚えた?
 藤仁の低い声音が、記憶の耳朶を食む。
「ふ……っ、ぅ…… あ゛ぁっ……!」
 喘ぎ声を押し殺そうとしたとて、教えこまれたばかりの感覚は正直だ。刺激に弱い部分に指の腹が擦れて、目の前で光の粒が弾けた。
(声、出したらだめだ……! ゆきに、聞かれてしまう……!)
 芦雪は唇を噛み締め、早く、早くと流れゆく白濁にただ願うことしかできない。微弱な愉悦に耐えながら肩で息を放つと、ようやく白い欲の流れに終わりが見えた。
 芦雪は胸を撫で下ろし、指を引き抜いた。
「んっ……あ……、はっ……ぁ……っ……」
 二本の指は白濁と湯の水滴をまとい、水音を爪弾く。白い体液は流し板の上を流れ、やがて消えていった。
 ——あぁ。もったいないな。一瞬でもそう思った己に、芦雪はぞっとした。
 その事実から目を背けたくて、指に絡みついた藤仁のしるしも、桶の中で丁寧に拭って流す。秘蕾の口も余韻がひとつとして残らぬよう、念入りに洗った。
 もう十分だろうと思ったところで、芦雪はかすかに疼く下腹部に触れる。中で何かが蠢いているような、けれど何かを失って空虚感に喘いでいるような感覚だけがあった。
(……もう一度だけ、中を……洗っておこう……。きっと洗い足りなかったんだ。そう、これは洗うだけ……)
 何故か自身に言い聞かせるように、抜いたばかりの指を、再度後孔へと挿れた。
「っ……は、ぁ……!」
 異物の侵入をやわく受けとめる中に、芦雪の三本の指が這う。しかし、今この瞬間も、物足りないと思ってしまう。芦雪の窄みは、藤仁の形を覚えてしまっていた。
(これならきっと……。次に藤仁を受け入れる時は、すんなり入りそうだ……)
 口端が小さく上がり、数瞬の間に我に返った。
 ——……今、何を考えた? 藤仁と次があると考えたのか?
 芦雪は指を引き抜き、かぶりを振る。そして、やはり手が擦り切れてしまうのではないかというほどに、桶の中で指を洗った。
(どうして……俺は期待ばかりしている……!?
 己の持つ想いが一方的ではないと、浅はかな期待はするべきではない。温度を失い、もはや水となった岡湯に指先をつけ、芦雪は強く瞼を閉じた。
(寒い……。早く湯に浸からないと……)
 身体が冷えたせいなのか、肩に震えが走る。小桶はそのままに、芦雪はおぼつかない足取りで鳥居形の柘榴ざくろ口を潜り、湯煙で薄暗くなった浴槽に身を沈めた。
 湯が身体を包み込み、内から温める。だが、芯はずっと冷えたままだ。芦雪は膝を抱え、背中を丸めた。
「なぁ、藤仁……。どうして、お前は俺と……」
 問いの答えを知る者は、ここにはいない。芦雪の呟きだけが、ただ湯の泡とともに儚く消えていった。


 古びた濃い木目が、芦雪の視界を埋める。平生、忙しない思考は、今となっては朧気だ。
「おい、せつさんよ。大丈夫か?」
「だいじょうぶ……」
「ゆっくり浸かれとは言ったけど。湯あたりするまで入って良いって意味じゃねぇぞ?」
「めんぼくない……」
 木戸が下ろされた店々に紛れ、湯屋の二階は未だ、煌々と明かりを灯している。昼間は休憩所の役を担うその場所で、芦雪は大の字に寝転んだまま、ゆきから説教を受けていた。
 ゆきの手は、今の時節には幾分早い団扇うちわを握っている。それが身を揺らすたび、芦雪の火照った頬に微風がかかり、ひどく心地良かった。
「……何か、悩みでもあるのか?」
 団扇の動きが止まる。風に代わり、いつになく強ばった声音が芦雪の頬を撫でた。
「んー……。悩み……ってほどのことじゃない。少し、考えごとをしてただけだよ」
「なんだ、立て込んでた仕事のことかい?」
「まぁ、そんなところかな……」
 端を濁した言葉がほどける。ゆきは「煮え切らないねェ」と苦笑しながら、再び団扇で風を送り始めた。
「俺は聞いてやることしかできねぇけどさ。……あんまり抱え込むなよ」
「……あぁ」
 深く追及してこない友の優しさが、今の芦雪にとっては有難かった。
「じゃ、酒もう一本追加でせつさんの奢りな」
「はぁ!? それはないだろう!」
「わざわざお前のために店を閉めずにいてやって、更にはこうして介抱もしてやってんだ。酒二本で済んでありがたく思いな」
「いてっ」
 額を軽く小突かれて、芦雪は呻き声をあげる。正論なだけに、何も反論できない。熱を失いつつある頬を膨らませ、芦雪はゆきに背を向けて丸まった。
「さ。もう身体も少しは冷めた頃だろう。不貞腐れてないで、そろそろ帰んな」
「うー……」
「唸るんじゃない。……ほらよっと」
 ゆきは芦雪の上半身を無理やり持ち上げて起こすと、しっしと蝿を追い払うかのように手を振る。反撃にと、芦雪が舌先を出せば、ゆきは肩を竦めていた。
「……ゆき」
「なんだい」
「今日はありがとうな。……助かった」
 拗ねたように唇をすぼめながらも、礼を言う芦雪が奇妙に思えたのか。ゆきは暫し目を瞬かせたあと、やはり破顔した。
「いいってことよ。気をつけて帰んな」
 芦雪も同じだけの笑みを返すと、少しばかり軽くなった腰を持ち上げる。見送りの視線に守られながら、芦雪は銀鼠の裾をはためかせ、湯屋をあとにした。


 空に差す闇色が濃くなり、朧月の眼差しが明瞭に注がれ始めている。
「ただいま……」
 流屋の皆はちょうど寝静まった頃だろう。芦雪は呟くように、帰宅の言葉を述べた。
 勝手口から中に入り、静かに戸を閉める。土間に繋がる六畳部屋の小上がりに目を向けたところで、眼前に端座する一つの人影が芦雪に向かって深々と頭を下げた。
「おかえりなさいませ、芦雪様」
「わっ! ……あぁ、お松か。びっくりした……」
「びっくりした、ではございません! 心配して待っておりましたのに!」
 板床に置かれた手燭の明かりが、少女の面貌かたちを僅かに照らす。彼女は形の良い眉を吊り上げていて、桜色の愛らしい唇は常よりも固く引き結ばれていた。
「すまんすまん。心配かけたな。……夕餉も食べずに出てしまって、申し訳ない」
 松乃には謝ってばかりだ。心の内で苦笑しながら、芦雪は少女の頭を撫でた。
 彼女はされるがままだったが、やわく丸みを帯びた頬は、依然空気を含んでいる。芦雪が伺いを立てるように松乃の頬を指でつつくと、彼女は諦めたように小さく息をこぼした。
「……夕餉はどうされますか?」
「もちろん頂くよ。……あ、もう片付けた?」
「取っておりますとも。すっかり冷えきっておりますが。えぇ、それはもう」
 説教を諦めはしても、少女の腹の煮え湯は沸き立ったままだ。嫌味を放った唇は小さく尖っていた。
(……俺も、十五のお松と変わらんな)
 先刻までの自身の姿が重なり、叱られているというのに、芦雪は愉快でたまらなかった。
「そう拗ねないでよ、お松」
「拗ねてなどおりません。少しも。様子がおかしいまま湯屋へ行かれた芦雪様の心配をすれど、何故わけを話してくださらないのかと拗ねたりなど、誰がするものですか」
 松乃は口が達者な上に、聡い娘だ。芦雪の心の機微など、お見通しのようだった。
「すまん。藤仁の体調のことを考えていたら、少し不安になってな。藤仁はどうだ?」
「……おかげさまで、朝よりは熱が下がっております」
 恋しい者と同じ色を宿した双眸が、芦雪の瞳の奥を見つめている。この、もっともらしい嘘も見抜いているに違いなかった。
「……そうか。あとは俺がそばで見ておく。明日も早いし、お松はもう寝な」
「それは……」
「迷惑かけるからって? そういうのは考えなくていい。……俺が、あいつのそばにいてやりたいんだ。目付け役としても、放っておけないんだよ」
 ほんの少しの嘘と本音の糸をより合わせ、芦雪は作り慣れた微笑を浮かべた。
 物言いたげな松乃の口が薄く開く。だが、それも喉元で留められ、再び固く閉じられた。
 不自然な沈黙が二人を包む。芦雪が小さく身動ぎした時、松乃は深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。では、芦雪様にお任せいたします」
「あぁ。そうしてくれ」
「でも、夕餉を召し上がってからにしてくださいね」
「ふはっ。……分かってるよ。ありがたく頂くな」
 芦雪は松乃の頭に優しく触れ、唇に穏やかな弧を宿す。そして少女が見守る中、冷めた夕餉を腹に入れ終えてから、再び藤仁の部屋に戻った。
 行灯の薄明かりが男の寝顔を照らし、部屋の静謐さを強調している。彼の眉間には皺が深く刻まれており、吐き出される呼気も僅かに熱を孕んでいた。
(眠ってはいるが……幾分寝苦しそうだ……)
 芦雪の中で不安がじわりと滲み、思わず藤仁の額に手を当てる。男の汗が薄らと掌を這い、湯上がりの身に病魔の熱が伝わった。
 このまま、藤仁の体温に溶かされてしまうのではないか。そう思ってしまうのは、果たして熱のせいなのか、彼に触れているせいなのか。
「……っは。無理するからだよ……ばーか……」
 乱れた黒鳶色の前髪を、静かにかき分ける。芦雪は皮肉の入り混じった苦笑を落とし、藤仁の額を指で弾いた。


 嗅ぎ慣れて久しい、春花の香りが鼻先を掠める。淡い陽の光が、重たい瞼に目覚めの口付けを落とし、芦雪は睫毛を震わせた。
 小禽しょうきんのさえずりが遠く、頭上を通り抜けていく。瞳のとばりを上げれば、見慣れぬ天井が芦雪を出迎えた。藤仁の看病をしているうち、闇夜の空気に誘われ、彼のそばに伏せって眠ってしまったようだった。
 藤仁の熱は下がっただろうか。少し動くだけで身体中の骨が軋み、悲鳴をあげたが、芦雪はそれに構わず身を起こした。
 ふと、肩から何かが降り立ち、空気を含んだ裾が芦雪の視界を小さく舞った。
(何故、俺は藤仁の夜着を被っている……?)
 嫌な予感に駆られ、芦雪は横たわっているであろう者に視線を寄越す。けれど、芦雪の隣に敷かれた布団は、もぬけの殻だった。
 布団に手を添えると、人肌の残り香とともに布の感触が伝う。どうやら、布団の主はほんの少し前まで、確かにここにいたようだ。
 昨夜、藤仁の身体には熱が舞い戻っていた。なればこそ、すぐに起き上がって動き回れるほどに回復したわけではあるまいて。かわやにでも行っているのだろうか。
 ——明後日で大きめの納品が終わるので、しばらくはのんびり過ごせそうです。
 写楽の澄んだ声音が、芦雪の記憶を打つ。微かに脳裏をよぎったそれは、まるで虫の知らせのように、瞬く間にさざ波を広げた。
 写楽によれば、今日は尋夢庵にとって大きな納品がある日だ。一抹の胸騒ぎが芦雪の鼓動を早める。
「まさか……!」
 芦雪は夜着を放り投げて立ち上がると、藤仁の行方を追って慌ただしく部屋を出た。
(藤仁のやつ……本当に世話が焼ける……!)
 薄暗い廊下を大股で歩く。その間にも、苛立ちと不安が焦燥となって渦を巻き、芦雪の中で辛酸苦の如く混じり合っている。
 一時でも、藤仁から目を離してしまった後悔と、自責の念までもが芽吹く。芦雪は、爪先が食い込むほどに指を握りこんだ。 
 ——眞魚まお
 男の声が肩を叩く。冷えて固くなった指先が、僅かに緩んだ。
 幼名で芦雪を呼ぶ者は、江戸ではただ一人である。その者の顔を思い浮かべ、芦雪はげんなりと顔を顰めた。
 ——可愛い私の眞魚まおちゃん。私の声が聞こえてるだろう。返事をしないか。
 艶を帯びた青年の声が、おのが幼名を反芻する。耳孔ではなく、頭に直接的に語りかけてくるものだから、耳を塞ぎようもない。頭の中を、一足早い夏の蝉時雨が降り注いでいるようで、ひどく騒がしかった。
 今は、彼に構っている暇などない。芦雪は、なおも響く声に聞こえぬふりをして、居間へと向かった。
 無作法にも勢いよく襖を開けるが、そこには藤仁どころか、朝支度で忙しないはずの少女すらも見当たらない。常ならば、畳の上に行儀良く整列している人数分の膳の輪郭もなく、鶺鴒せきれいの掛軸絵だけが、ただひっそりと芦雪を見据えていた。
(もう明け六つも過ぎた頃だ。お松もいないのは何故だ……? 何かあったのか?)
 襖にかけた指先に、嫌な汗が滲んだ。
 ——なんだなんだ。眞魚まおはまた藤仁を探しているのか。あいつのことなんて、放っておけば良いじゃないか。子どもでもあるまいし。 
 鳴りを潜めていた蝉時雨は青嵐となり、頭の中を駆け巡る。芦雪はため息を吐いて、ようよう声の主の名を口にした。
「守信……。お前なぁ……」
 ——おやおや。やっと反応したね。耳が悪くなったわけではなさそうで、安心したよ。
「お前がぎゃんぎゃんうるさいから、敢えて黙ってただけだ。見ての通り、生憎と今は立て込んでるんだ。俺が夜寝るまで大人しくしてろ」
 ——ふぅん。この私に命令とは、随分と偉くなったものだねぇ。せっかく私が出てきてやったというのに……。お前をそんな子に育てた覚えはないぞ。
「奇遇だな。俺も、お前に育てられた記憶なんぞ微塵もない」
 目に見えぬはずの者と視線が交じり、互いに激しく火花を散らす。芦雪は唇に薄い笑みを湛えたまま、居間の襖を閉めて再び廊下を歩き始めた。
 ——今度はどこに行くんだ?
「どこでも良いだろ。少しは静かにできないのか」
 ——どうして静かにしなきゃならない? 私はお前なのに。
「頭の中がうるさくってたまらないからだ」
 芦雪が反論したとて、守信は懲りることなく二も三も返してくる。頭痛が走るのも無理はない。芦雪は眉間を揉んで痛みを軽減させようとするが、守信は飽きもせず口を開きっぱなしにして言葉を織り続けるため、その抵抗も徒労に終わった。
 呆れを宿した音が、静かな廊下に消える。芦雪はこぼした息をひとつ、その場に残したまま、母屋の勝手口へと歩みを改めた。
 居間を訪れる前、藤仁の画室を覗いたが、当然のように主の痕跡は塵一つなかった。ならば、次は絵屋に行くほかない。松乃、もしくは兄妹の母、野菊がいるはずだ。二人であれば、藤仁の行方を知っているやもしれない。
 芦雪は迷いなく来た道を引き返した。はやる足並みに軋んだ音が返され、薄暗い廊下に溶けては消えていった。
 ——眞魚まお。そういえば、以前夢の中で教えた私の四魂たちとはもう話したか?
 六畳間の襖に掛けた指が、守信の声音に止められる。芦雪は小さく舌を打った。
「……何の話だ?」
 ——もう忘れたのかい。言ったじゃないか。流屋の母屋には、私が描いた絵があると。
 おぼろげな記憶が、夢幻の別れ際に放たれたげんふちを密やかになぞる。
 松乃の部屋に飾られた絵、居間にある掛軸絵、そして眼前の六畳間を守る襖絵。それらには守信の四魂が宿り、彼自身である芦雪も使役できるようになっているとは、なんとも荒唐無稽な話だ。
 ——藤仁が見つからないのであれば、私の四魂たちに聞いてみてはどうだ。快く教えてくれるだろう。……ほら、この六畳間の襖絵に問うてみようじゃないか。
 芦雪のまとう苛立ちには目もくれず、守信はただ楽しげに、襖に描かれた水墨画に視線を導いた。
 雪のつもる岩と、白い月。黒々とした梅樹の枝には尾長鳥が羽を休め、頭上の月を一心に見つめている。雌雄が欠け、己の伴侶を求めて月を見上げる尾長鳥の横顔は、かすかな愁いを帯びている。
 四季に根ざした絵だというのに、寒々しい印象を受ける。画面に満々と余白が設けられているからだろう。花鳥を敢えて右側に寄せることで、雄大な自然とともに在る静夜が強調されていた。
 丁寧に花鳥の輪郭を捉えた水墨の筆致が、淡麗瀟洒な風を呼ぶ。芦雪の裡で荒れ狂っていた潮騒はいつしか鳴りを潜め、凪いでいる。芦雪は両膝をついて、吸い寄せられるように襖絵を見つめた。
 襖絵は、墨の状態からして随分と古いもののようだった。豪商で知られる流屋の母屋に、貴重な古画や骨董品があっても、何ら不思議ではない。
 しかし、これは守信が……芦雪が描いた絵だと、艶を帯びた声が告げる。哀しげに月を見つめる尾長鳥と梅樹の枝に震える指を這わせれば、淡い紅の光が嬉しげに瞬いた。
(これは……俺の四魂だ……)
 生み落とした覚えのない絵に、芦雪は我が子のような愛しさを抱いていた。あまつさえ、途方もない懐古までもが身を満たしている。
 ——否。それ以前に、絵に残る筆致と余白を多分に使った表現法を、己はどこかで目にしなかったか。人々が祈りを捧げる場所で。主君が座す、畏れと敬意の入り混じった場所で。数年前、その絵を前に、己は画帳を手に筆を走らせなかったか。
「守信……。お前は……」
 脳裏に居座る青年の口端が、不気味なまでに吊り上がっている。息とも声ともつかぬ音が、芦雪の喉奥からこぼれた。
「兄上……! まだ熱がありますでしょう! 今、庵に行かれるのは……」
「うるさいっ、止めるな!」
 諍いの声が襖を突き抜ける。暗色を濃くする少女の声と、それを跳ね除ける青年の声。芦雪が探し求めていた、ふたつの音だった。
 ——なぁんだ。四魂に尋ねる間もなかったな。もう見つかってしまったか。
 つまらん、と守信が口先を窄める様子が眼前に浮かぶが、芦雪は安堵の息を吐いた。
 腰を持ち上げ、襖を横に引く。尾長鳥は水墨の白月に隠され、後に残された絵中の月明かりは、青褐あおかちの広い背中と少女の横顔を照らし出していた。
 二人は、土間と勝手口を繋ぐ六畳間の小上がりに腰掛けている。藤仁は、寄り添う妹を邪険に振り払っていた。
「どうしても……俺が、行かないと……。父上が遺してくれたこの仕事を……こんな……、風邪、くらいで……」
 絞り出された声は昨日と変わらぬ熱を含み、僅かに覗く頬も病魔の薄紅に染まっている。 しかし、藤仁は強い意志を持ち、目的を目指して立ち上がろうとしている。やっとのことで冷たい土間に足をつけたようだったが、その足元はおぼつかない様子だった。松乃は振り払われてもなお、目の前で倒れそうになる兄に寄り添い、彼の身体を支えていた。
「……庵へは、私が行きます。だから兄上は」
「お前はだめだ……。今日は、野菊もいないんだぞ……」
「でもっ、こんなお身体じゃ……!」
「今日、だけは……! 今日だけは、行かなきゃならないんだ!」
 熱に浮かされた声。前へと進もうとする足。手には見慣れた白い布。「明後日に大きな納品がある」と告げた写楽の横顔。
 全てが一つに繋がる。やはり藤仁は、写楽として尋夢庵へ向かおうとしている。
(そうだよな……。藤仁、お前はそういうやつだったな)
 藤仁という人間は、ひとを想わずにはいられない。ひとのためならば、破滅に身を投じようとする危うさがある者。そして、それを決して表には出そうとしない、不器用な男だ。
 呆れとも、諦めともつかぬ微笑が芦雪の口端に宿った。視界に、焦燥や不安はもうない。
 芦雪は六畳間に足を踏み入れ、兄妹のもとへ歩み寄ると、藤仁の手首を掴んだ。
「芦、雪……」
 黒鳶色の瞳が揺れる。小さな水面は熱を宿し、芦雪を映している。影で淡く紫がかったそれは明けの空のようで、故郷をたった日のことを思い起こさせた。
 ——いつだって、夜明けは別れと出会いの気配を連れてくる。
 場の沈黙を空の肺に招く。迷いのない芦雪の唇は、明瞭にげんを放った。
「『写楽』には、俺がなる」
 息を飲む声が二つ、冷えた土間に落ちる。一つは驚きと安堵をまとったものが。もう一つは、疑念と絶望で溢れたものが。
 掴んだ手は小刻みに震え、写楽ともの温もりは失われていく。きっとこの瞬間に、彼と永遠の別離を迎えたのだ。
 瞼の裏に浮かぶ面布かおぎぬの微笑に、芦雪は奥歯を噛み締めるが、その事実から目を背けぬよう、写楽の面影を宿す男を真っ直ぐに見据えた。
「藤仁が写楽なんだろう」
「そ、れは……っ……」
 藤仁が手にする白き証しが、音もなく土間に舞い落ちる。これまで面布かおぎぬの下に隠されていた孤独、悲哀、絶望が水墨のように溶け合って。ただの町絵師に戻った青年の美しいかんばせが歪む。いつも芦雪に優しく向けられていた薄い唇は震え、弧を描くことはない。
 芦雪は土間に身を伏せた白妙しろたえを手に取り、表面を撫でた。
「今日だけ、俺が写楽になろう。そんな身体で会われたんじゃ、依頼人にも失礼だしな」
 藤仁の視線は庵の主たる証しを射抜き、微動だにしない。芦雪の指先が布の上を滑るたび、見開かれた黒鳶色が小さく揺れた。
「……そう心配するな。写楽おまえとは、三月みつきともに過ごした仲だぞ? お前になるなんて、わけないさ。それに、愛想良く演じるのだって俺は得意で……」
「君は……君は、どうして……!」 
 苦笑混じりの宥めを遮り、藤仁は芦雪の両肩を掴んだ。長い指が食い込み、衣擦れの音が耳朶を這う。芦雪は思わず眉間に皺を寄せた。
 いつ。なぜ。どうして。藤仁の冴えた容貌は、数多の疑問と焦燥を帯びていた。
 芦雪は藤仁の手に己が手を重ねようとしたが、肩への拘束が緩んだのが先だった。力無く指が滑り落ち、やがて芦雪の胸元にすがりつく。藤仁は幼子のように首を振りながら、芦雪の肩口に額を預けた。
「……君には……君には関係ない……。関係、ないんだ……。巻き込みたく、ない……」
 静かに懇願する声音は濡れ、背中は震えている。口にする願いに相反し、銀鼠ぎんねずの布地を握る力は強まるばかりだ。昨日、雷に怯えていた姿を、嫌というほど思い出させた。
 藤仁は怯えている。写楽の背負う責任、兄としての立場、誰かに背を預ける恐怖。そして、ひとりであらゆるものに立ち向かわねばならぬ心細さに。
 芦雪はやはり昨日と同じように、藤仁の広い背に腕を回した。自らを怯えさせるものを、ひとりで見据えなくて良いのだと、言い聞かせるように。
「なぁ、藤仁。確かに俺は部外者だよ。でも、その前に俺は写楽の友で、お前の目付け役で……。それに何より……」
 唇の動きが淀む。腔内は乾き、喉奥が水を求めて、心とともに小さく悲鳴を上げていた。
 ——今は、己が声に耳を傾けるべきではない。胸を刺す痛みを無視して、芦雪は言った。
「何より、俺は……お前の友だ……」
 藤仁の肩が跳ねる。背がまとう震えは止まっていた。
 彼の耳にかかる艶やかな髪が一房、はらりとこぼれ落ち、汗に混じった春花の甘い香りが、ほのかに苦味を帯びて芦雪の鼻腔を掠めた。
「藤仁の力になりたい。俺が今のお前に願うのは、ただそれだけだ」
「芦雪様……」
 これまで、二人のそばで呆然と佇んでいた松乃の声音が、やわく響く。芦雪の名を呼んだだけの一音。けれどそこには、やっと訪れた安息に安堵する音もまた混じっていた。
「……そもそも、肝心のお前は高熱で人前に出られる状態じゃない。それに、部外者でないお松には任せられない事情がある……。そうだな?」
 藤仁は顔を伏せて芦雪にすがりついたまま、何も答えない。ならばと、芦雪は松乃に視線を預け変え、大丈夫だと安心させるように頷いて微笑んでみせる。
 少女も、初めこそ真相の溜飲に苦しげに胸元を押さえていたが、のちに小さく頷いた。
「だが、今日は写楽にとって大きな納品がある。……これはお前が一昨日、俺に言ってた言葉だ。賢いお前なら、どうするべきかわかるな?」
 藤仁の濡れた吐息が落ちる。それは肯か、はたまた否か。芦雪がもう一度、目の前の幼子に問いかけようとした時だった。
「だめだ……」
 白露を乗せた長い睫毛が上を向く。顔を上げた藤仁と視線が絡んだ。
「藤仁?」
 暗流揺蕩たゆたう黒鳶色の奥を覗き込もうとすれば、藤仁は震える唇を噛み、芦雪を突き放した。
「それ、でも……俺が……俺が行かないと……!」
 ——行くな。咄嗟の一言が言えなかった。藤仁に伸ばした手は空を掴む。
 何故、芦雪を拒絶した男が今にも泣き出してしまいそうな顔をするのか。
 ——俺では頼りないか。お前の力になるに値しないか。突きつけられた己の無力さに、芦雪は温もりが失われた手を見下ろした。
 ——眞魚まお
 頭の中で、ひとつの青嵐が吹き抜ける。静かに思考の水面を打つ、鷹揚とした守信の声。背後から男の腕に包み込まれるような、密やかな感覚。
(このまま、藤仁の手を離してはいけない……。ならば、俺は……)
 藤仁のために、今何をしてやれるだろう。答えはいつだって誰も教えてくれない。守信の歪んだ笑みだけが、ただ芦雪の眼前に浮かんでいた。
 ——眞魚まお。私の四魂を使いなさい。
 差し出された守信の手を取るように、芦雪は再び藤仁に手を伸ばした。
(たとえ、破滅に向かう力を、この身に宿すことになろうとも……俺は……!)
 妖しい繊月の導きのままに、芦雪は脳裏に浮かんだ名を紡いだ。
紅雪こうせつ
 音をまとった名が響き、六畳間の襖絵が紅の光に包まれる。尾長鳥の細く甲高い鳴き声とともに、藤仁の足元は赤錆色のもやに覆われていく。
 刹那。藤仁を射抜かんばかりの勢いで、鋭い梅の枝々が土間に数多芽吹いた。芦雪の手足となった梅樹の四魂は、藤仁の身体を容易く絡め取り、瞬く間に彼から自由を奪う。
「これ、は……探幽たんゆう様の……!」
 松乃の驚愕に震えた声がこぼれ、春の花木に捕らえられた藤仁も同じく瞠目する。
「探、幽……貴様……ッ!」
 藤仁の瞳は激しい憎悪を宿し、梅花の檻の隙間から芦雪を睨みつけていた。
 芦雪の思考は霞がかり、眼前の事実に実感が湧かない。心の機微に爪痕すら残さぬ、些末なことのように思えた。ただ、藤仁が憎々しげに呼んだその名だけに苛立ちが募る。芦雪は鷹揚に藤仁の前に立ち、彼に再び手をかざした。
「……その名で、私を呼ぶな」
 それは守信の言葉だったのか。芦雪のものだったのか。考えることすら煩わしかった。
 かざした手を右に一閃する。藤仁を捕らえる枝々は、次々に梅花の蕾を芽吹かせ、白く丸い花弁を七重、八重と開かせていく。
 溶けぬ香雪こうせつは、異名に違わぬ深く甘い香りで藤仁を包み、舞う花びらは彼の瞼に慈雨の如く口付けを落とした。男の憎悪の濃色は春の雪に連れ去られ、眉間に刻まれた皺もやがてほどけていく。
「病人は大人しく寝てろ」
 乱雑な言葉が口をついて出る。けれど芦雪の手は自然と藤仁の頬に伸び、親指の腹で愛おしげに撫でた。
 触れた温もりに安堵したのか。それとも、四魂の力に抗いきれなかったのか。藤仁は瞳のとばりを降ろし、ようやく意識を手放した。
 力の抜けた藤仁の身体を、梅樹の四魂である紅雪が優しく捧げ持ち、やがて主に向けて差し出す。芦雪は我に返り、忠実な四魂から藤仁の身体を受け止めた。
「兄上!」
 弾かれるような声とともに、松乃も芦雪に駆け寄り、気絶した藤仁の顔に視線を落とす。静かに寝息をたてる兄に安心したのか、彼女は小さく息を吐いた。
「芦雪様……あの……」
 藤仁と同じ、慈愛に溢れた黒鳶色の双眸が芦雪を捉える。少女の口元は何かに迷い、一度唇を開いては、また閉じてしまう。
「どうした?」
 彼女はきっと、いつから写楽が藤仁だと気付いていたのかと問いたいのであろう。芦雪は、紡がれるはずの言葉を静かに待った。
「思い、出されたのですか……?」
 松乃が口にしたのは、どこか釈然としないものだった。
(思い出す? ……何を?)
 芦雪は小首を傾げる。期待しているようで、そうであって欲しくないと願うような。何故、松乃がそんな表情を浮かべているのか、そもそもの問いの意味がとんと分からない。
「……? 何をだ?」
「あ、えと……。い、いえ。なんでもありません……」
 松乃は瞼を伏せ、顔を俯かせる。長い睫毛が薄桃を差した頬に小さな影を落とし、藤仁によく似た唇を僅かに震わせていた。