第十二筆「万雷」

 明け六つの鐘が鳴っている。大地を包む陽光はなく、外は薄暗い。障子を透かし、ひとつ、ふたつと数え切れぬほどの雫の影が畳の上に落ちている。
 軒先を打つ水滴の音は晩春の麗らかな陽気を飲み込み、芦雪ろせつの耳朶をも食んでいた。
「けほっけほっ……。はっ……は……。雨、か……」
 半身を起こせば、乾いた唇から少しばかり咳がこぼれる。芦雪は額に手を添え、熱がないことを確認して、胸を撫で下ろした。
 雨の日やその前日は、喘病の発作が出やすい。夢見も悪くなりがちだ。芦雪が変な夢を見たのもそのせいだろう。
「あれは本当に……夢、だったのか……?」
 こめかみに指を添え、ひとり呟く。生憎、芦雪の問いに答える者はいない。ただ雨音だけが、静かな部屋に響いていた。
 ——私はお前で、お前は私だ。
 守信の口癖が蘇る。夢で青年と交わした会話を、芦雪は今でも鮮明に覚えていた。
 数刻前まで身の中を這っていた感覚を思い起こすように、腹を撫でる。生憎と肌に夢の記憶は刻まれておらず、こそばゆいと思うだけに留まった。
 芦雪は重たい呼気を落とし、思い立ったように立ち上がった。中身を失った夜着は抜け殻のままに、文机に放っていた画帳を手に取ると、文机の前に腰を下ろし、筆を持った。
(もし、あれが……夢でなかったのだとしたら……)
 やや緊張した心持ちで筆先に墨をつけ、芦雪は力強く筆を走らせ始める。
 凛々しい目つきに、均整の取れた肢体。竹林に雄々しい身を横たえ、じっと先を見据える、橙と黒を羽織る美しい異国の獣。
 夢の中で描いた通りのものを、今一度紙上に描き起こしていく。不思議と手が描き方を覚えており、芦雪はただ、導かれるままに筆を動かした。
 淀みない筆の動きが止まる。再び現世に呼び起こされた絵中の獣は、その胸元にはなだ色の光輝を灯していた。
「……山吹。おいで」
 慈しむように、虎の四魂の名を呼ぶ。山吹は赤錆色のもやをまとい、瞬時に顕現した。
 大きな頭を芦雪の頬に擦り付け、低く喉を鳴らす。人懐こいのは、夢の中で触れ合った時と変わらない。
「ん……。くすぐったいよ、山吹」
 小さな笑い声を丸い耳に落とし、山吹の頭を撫でる。彼は満足そうに目を細めていた。
(やはり……。守信が言っていた通り、四魂が安定している……)
 芦雪は、再び自らの腹に手を添える。如何にして安定させたのか、その方法は皆目見当もつかない。力の不安定さが消えた事実だけが、静かに横たわっている。
 とはいえ、守信に礼を言うつもりはない。感謝の意を示すことは、あの不敵な笑みを浮かべた男に負けを認めたのと同義だ。もはや、これは意地だった。
(守信のやつ……。次会った時は、絶対に一発殴ってやる……)
 無理矢理に身体の中を犯され、支配されていく恐怖。さなかに感じた、本能的な快感。不意に走る震えに、芦雪は自身の身体を抱きしめた。
 ——殴るだって? おー、怖い怖い。
 脳裏に、肩を竦める男の姿が浮かぶ。止めどなく湧く悔しさを消し去ることもできず、芦雪は作った拳をその場に振り下ろし、歯噛みするしかなかった。
 しかし、芦雪はただ守信のことだけを覚えているわけではなかった。藤仁へ向ける想いに名をつけたことも、余すことなく覚えている。
 藤仁を恋しいと思う現状を受け入れたからといって、芦雪の役目が変わることはない。目付けとしての役を全うするべく、芦雪は通い慣れた藤仁の自室へと足を向かった。
 雨が世界を閉ざしているためか、廊下には薄明かりもなく、いっそう暗さを増している。藤仁の部屋に向かうまでの道のりを、やけに遠く感じた。
(……臆することなど、何ひとつない)
 藤仁の自室の前に着き、腰を下ろすと、暫し瞼を閉ざす。数瞬の間にできた闇は波打つ鼓動をなだめ、息を薄く止めれば跳ねる音が遠ざかった。芦雪はようよう、視界に光を招いた。
「藤仁。朝だぞ」
 声音は震えていない。普段通りを演じられている。大丈夫だ、と芦雪は己に言い聞かせながら、返答があるまで強ばる頬を指で揉みほぐしていた。
 しかし、待ち望む声は一向に聞こえてこない。
「……藤仁?」
 もう一度、恐る恐る名を呼ぶ。その時、襖の向こうで、低く鈍い音が大きく響いた。
「藤仁? おい、何かあったのか!?
 冬の静けさを未だ身にまとう青年が、大きな物音をたてる様など見たことがない。続く沈黙は芦雪の不安を煽り、心をざわめかせた。
「……っ、開けるぞ!」
 襖を蹴破らん勢いで開け放つ。眼前に映ったのは、畳の上に倒れ伏した男の姿だった。
「藤仁!」
 芦雪は叫ぶようにして、部屋の中に転がり込んだ。藤仁を抱え起こすと、彼の下ろした長い髪が波紋の如く広がる。髪間から覗く頬は紅に淡く染まっていて、眉間には苦しげな皺が刻まれている。熱を孕んだ荒い呼気だけが、静謐の中に溶けていた。
 男の前髪をそっとかき分け、額に手を添えれば、過分な熱だけが芦雪に応える。
「ひどい熱だ……」
 藤仁が小さく身動ぎ、口端が僅かに震える。だが、耳慣れた低い声音が紡がれることはない。外から聞こえる雨音が、いっそう強く芦雪の耳朶を叩いた。
(とにかく、早く寝かせないと……!)
 芦雪は藤仁に肩を貸し、立ち上がった。藤仁の弛緩しきった身体は、襦袢じゅばん越しにも伝わるほどの熱を帯び、重みを増している。
 敷かれたままの布団と夜着には、人の抜け殻の形が保たれている。芦雪の呼び声に応えようとしていたのが垣間見え、それがどうにもいじらしい。
 覚束ない足取りながらに、芦雪は藤仁を布団の中へと横たえた。
「どこか痛むところはあるか? 吐き気は?」
「……ぅ……っ……」
「喋るのもつらそうだな……。無理に喋らなくていい。今はとにかく寝てろ。な?」
 肩まで掛け直した夜着の上に手を置き、芦雪は藤仁に優しく言い聞かせた。
(お松を呼びに行かないと……。医者の手配に薬の用意も……)
 幸いにも、流屋からほど近い日本橋本町には、薬種問屋が密集している。医者が捕まらなければ、薬屋に駆け込むほかない。
 芦雪が立ち上がって銀鼠の袖を翻せば、袖を引かれる感覚が身を伝った。
「い、かない、で……」
「藤仁……」
「おね、がい……」
 つゆを宿した黒鳶の双眸と視線が絡む。芦雪は思わず、結んでいた唇を緩ませた。
「……大丈夫だ。お松を呼びに行くだけだから。すぐ戻る」
 赤ん坊を抱きしめるように、藤仁の頭を撫でる。幾分体温の低い手を彼の頬に添えると、彼はほっとしたように瞼を閉じた。
(藤仁のやつ……。こんな顔もできるのに、今まで隠してたんだな……。もったいないことしやがって)
 風邪で引き起こされた表情だったとしても、藤仁の可愛らしい一面に変わりない。不謹慎だとは自覚しつつも、溶けぬ淡雪が芦雪の心に降り積もり、温めていくようだった。
 切長の瞳を縁取る長い睫毛が、小さく震えている。熱に苛まれて生まれた白露が、藤仁の頬を伝っていく。それでも、彼の瞼は降りたままだ。
 男が静かに寝息をたて始めたことに安堵して、芦雪は彼の涙を指先で拭った。
「……すぐに戻るからな」
 呼び声は藤仁に届いていないだろう。しかし、心細さに身を竦ませる幼子を、少しでも安心させたくて。芦雪はそう囁かずにはいられなかった。
 部屋を出て、小走りに松乃のもとに向かう。居間の襖を開けると、ちょうど探し人が朝餉の膳を運んでいるところだった。
 相変わらず、彼女は鶺鴒せきれいのように忙しない。尾に代わり、襷でたくし上げた振袖が空気を含んで、芦雪の前を舞い踊っていた。
「お松。おはよう」
「あら、芦雪様。おはようございます。兄上はまだ部屋に?」
 朝、芦雪の隣に藤仁がいないのは常だ。松乃は不審に思うでもなく、膳を畳の上に降ろしながら兄の行方を問うた。
「それなんだが……。藤仁が風邪をひいたようでな。熱も高いから、今は寝かせてる」
 藤仁の箸が松乃の手から抜け出し、軽やかな音を立てて膳の上へ落ちた。
「まぁ! 兄上が熱を?」
 どうしましょう、と松乃は瞬時に立ち上がり、右往左往に視線をさ迷わせる。彼女は桜色の唇に手を添え、顔を僅かに青くしていた。
「今は寝かせて、様子を見るしかないな。普段診てもらっている医者はいるか? その手配と、医者が捕まらなければ薬の用意をしないとな。それと水桶と、藤仁の身体を拭く手拭いを貰いたいんだが……」
「は、はい……。昔から琳也先生と懇意にしているお医者さまがいらっしゃるので、その方をお呼びします……! それと……それと水桶と手拭いですね、わかりました! 少しお待ちくださいませ!」
 芦雪の指示を懸命に反芻し、松乃は別の忙しなさをまとい直して、居間から出ていった。
 残された芦雪に寄り添うように、膳の味噌汁の湯気がほのかに揺れている。
(そういえば、藤仁の飯のことも考えなくてはな。薬を飲ませるのに、少しは腹に入れさせておきたい。粥の用意もしなくては……。他に滋養のつくものは……)
 自身が病床についていた折、母が作っていたものは何だったろうか。看病で疲れた気配を滲ませることもなく、匙を使って粥を口元まで運んでくれた、母の優しい微笑ばかりが芦雪の脳裏を掠めた。
「芦雪様!」
 松乃のはつらつとした声が、意識を引き上げる。彼女の手には水を張った小さな桶と手拭いがあり、小走りに戻ってきたせいか、桶に張った水面は音をたて、揺れていた。
「こちらでお願いいたします! 私は急ぎお医者さまを呼んで参りますので、それまで兄上をお願いできますか?」
「もちろんだ。二人のことは君たちの御母堂に……野菊殿にも伝えておくな」
「ありがとうございます! よろしくお願いいたします」
 松乃は、桶を芦雪に半ば押し付けるように渡して礼を述べると、再び居間を飛び出した。
 まるで桜の花を散らしていく、一陣の春風のようだ。
「……兄妹でも、藤仁とは大違いだな」
 急を要する状況だというのに溢れてしまうこれは、きっと彼への思慕だろう。人の気配が薄れた居間でひとり、芦雪は苦笑を携えた。


「では、お大事に」
「はい。ありがとうございました」
 芦雪と松乃は二人揃って頭を下げ、母屋の玄関口で医者の背を見送った。
 雨音とともにその姿が溶けて消えたのを見計らい、芦雪が戸を閉める。人の気配がひとつ薄らいだ場は重い沈黙に包まれ、いつしか強まった雨音が、二人の心にも暗雲を連れてきていた。
「お松、すまない……。目付けとして、もっと藤仁の身体に気を配っておくべきだったのに、こんなことになってしまって……」
「いいえ。今回ばかりは、兄上の自業自得です。芦雪様の日々のお言葉や、私の小言を聞こうとしなかった兄上に問題があります。……きっと、いい薬になるでしょう」
 藤仁の風邪は、過労からくるものだろうと診断された。しばらく十分な休養を取り、滋養のつくものを食べさせるよう咎めるように言われ、芦雪はただ、うなだれるしかなかった。
 今朝見た藤仁の目の下には、赤茶けたくまがあった。夜もあまり眠れていないはずだ。
 近頃は、遅くまで画室の明かりが漏れていたのを知っている。写楽としての依頼と、流屋での依頼の絵を描いていたからだろう。
 工房が受けた依頼で、断れるものや納品日に融通の利くものは、芦雪の方で予め見直しを図り、物量を調整していた。しかし、藤仁の中で積み重なった疲労の軽減には繋がっていなかった。絵に関わることには、藤仁はしなくても良い無理をする人間だと、芦雪は理解していたはずだった。その認識が甘かったのだ。
 毎夜、画室の前を通る折、「無理はするな」と外から声をかけておくだけで、今とは少し違う未来になっていたやもしれない。写楽のこともあって気まずいという、子どものような理由で声をかけなかった自分を、芦雪は強く恥じた。
 二人はそれ以上何も口にせぬまま、藤仁の部屋の前に戻った。
「芦雪様。あとは私が引き受けますので、お仕事に戻られて下さい」
「だが、お松も仕事があるだろう」
「私の代わりは、他にもおりますゆえ……。私の身内のために、これ以上芦雪様のお手を煩わせたくないのです……」
 眉尻を下げ、困ったように微笑む松乃には、やはり歳不相応な影が見え隠れしている。この少女もまた、物事を抱え込んでいる。自分は後回しで、人のためが第一だ。
 その根幹には、兄妹が琳也の養子である生い立ちも、少なからず関係しているのだろう。
 芦雪自身にも身に覚えがあるからこそ、「もっと抱え込まずに話して欲しい」と軽率には言えなかった。
 芦雪は襖にかけていた手を下ろし、行き場を失った指先を握り込んだ。
「迷惑ではないが……。そうだな。お松がそう言うなら任せるよ。また何かあれば……」
 言葉が途切れる。——否、鈍い音が飲み込んだのだ。
 何かが倒れたような、重く乾いた音。二人は顔を上げる。音の在処ありか、それは間違いなく藤仁の部屋の中だ。
 松乃が襖に手をかけるよりも早く、芦雪は襖を開け放って部屋の中へ飛び込んだ。
「ど、こ……」
「藤仁……!」
 熱に浮かされた藤仁が、何かを探して布団の中から這い出ている。芦雪は慌てて駆け寄り、自らに伸ばされた手を握った。節のはっきりしている手は、身にまとう冬の空気を溶かしてしまいそうなほどに熱い。
「ろ、せ、……」
 芦雪の名をか細く呼ぶ声が、強く耳奥を刺す。心臓を握られたような心地に陥り、芦雪は小さく息を漏らした。藤仁の手を握ったまま、上半身を抱きしめるように彼の肩を抱くと、朧気に揺れる瞳と目が合った。
「ろせ、つ……。ど、こに……」
「ここにいるよ。どうした?」
 手を強く握り返せば、藤仁は芦雪の胸元に頭を預けて囁いた。
「いなく、ならない……で……」
 薄い唇から、途切れ途切れに言葉が紡がれる。迷うような、それでもすがりたいと叫んでいるような切望が、確かに入り混じっていた。
「ずっと、おれのそばに……、いて……」
 芦雪の肩が跳ね、握っていた手を思わず離す。けれど藤仁は、離れた芦雪の手におのが手を再び重ね、指を絡めた。二度と離れたくない、と言うように。
 熱に浮かされたがゆえの、戯れのような言葉と行為だと理解している。しかし、たったそれだけのことで、醜く淀んだおりが芦雪の体内で蠢き、胸をいっそう苦しくさせた。
「大丈夫だから」と藤仁に何度も囁きながら、彼を布団の中へと戻す。肩まで夜着を掛け直し、やはり優しく頭を撫でれば、藤仁は満足したように再び瞼を閉じた。絡めた指を、芦雪から離すことはないまま。
「兄上……」
 普段は微塵も見せぬ、兄の心の隙を垣間見て、驚いているのだろう。松乃も戸惑うように部屋の中に入ると、芦雪の隣に腰を下ろす。眠りについた藤仁の顔を覗き見て、彼女は強ばっていた唇を動かした。
「……芦雪様。申し訳ございませんが、兄上のことをお願いしてもよろしいでしょうか? 本日のお仕事はお休み頂いて問題ございませんので」
 唐突な申し出に、芦雪は思わず瞠目する。
「それは……構わないが……」
「本当に申し訳ございません……。兄上ったら、芦雪様を離そうとしないのだもの……」
 松乃は繋がれたままの二つの手を見て、苦笑を湛えていた。
「……でも、かえって怪我の功名だったかもしれません。こういう状況にならない限り、きっと意地を張ったまま、兄上は素直になれなかっただろうから」
 暗鬱を含んだげんを放ち、松乃は立ち上がった。
「では、よろしくお願いいたします。何かあれば、すぐに呼んでください」
「あ、あぁ……。ありがとう……」
 物憂げな黒鳶の眦が、やわく緩む。松乃は何かに安堵した様子で頭を下げ、退出した。
 部屋には、強まる雨音と吹き付ける風の音が響く。二つの気配は霖雨に閉ざされた部屋に溶け、静謐さを際立たせていた。
 藤仁の吐き出す息は、相変わらず苦悶と熱に満ちている。芦雪は彼の額に貼り付いた前髪を梳き、手ぬぐいで汗を拭った。
(身体も拭いてやろう。汗をかいて寝苦しそうだ……)
 藤仁を起こさぬよう、絡めた指を慎重に外す。夜着を少し剥ぐと、静かに上下する胸元が見えた。襦袢じゅばんの衿元ははだけ、均整のとれた胸板が覗いている。汗ばんだ肌が、それをいっそう艶めかしくさせていた。
(他意はない……!)
 恋しいと思う相手と言えど、同じ男だ。自ずと頬に走る朱には知らないふりをして、芦雪は念仏のように何度も「他意はない」と心の中で呟いた。
「よし……。これで大丈夫だろう」
 藤仁の身体を丁寧に拭い、襦袢じゅばんの衿元を直す。手拭いを水桶の中に入れて洗えば、小さな水面が揺れ、飛沫の音が跳ねる。音に倣って、水鏡に映る己の顔も歪んで見えた。
「ろせつ……」
「ん? ……あぁ、悪い。起こしたか?」
「だいじょうぶ……」
 意識が朦朧として舌が回らないのだろう。藤仁の幼子のような物言いに、どうしたって愛しさが溢れる。芦雪は濡らした手拭いを藤仁の額の上に置き、夜着をかけ直した。
「ろ、せつ……」
「はいはい。どうした?」
「ちゃんと……そばに、いる……?」
「あぁ。いるよ」
 何度も何度も、藤仁は芦雪の存在を確認する。病の時は誰だって心細くなる。それは芦雪が一番よく理解している。ゆえに、彼は芦雪の名を繰り返し呼ぶのだ。それ以上の理由も、それ以下の意味もない。
「また、手でも握るか?」
「……うん」
「ふはっ。今日の藤仁くんは、随分と甘えん坊だねぇ……」
 冗談で言ったつもりだったが、藤仁は素直に頷き、自ら手を差し出した。芦雪は悪戯な笑みを携えたまま手を握り、畳の上に横になる。
「ほら。俺はここにいるから。安心して寝な」
「ん……」
 先刻まで苦しげだった藤仁の表情が、ほんの少し。本当に少しだけ、緩んだ気がした。
 その変化は自分が起こしたのだと思うと、悪戯が成功したような心地になる。芦雪は、藤仁の寝顔をいつまでも見つめていた。


 真昼九つの鐘が鳴る。芦雪が藤仁のそばで微睡まどろみ始めて二刻が過ぎたが、未だ雨はやまない。
 藤仁の身体は、火照りを増すばかりだった。一方で手足の先は氷のように冷たく、本人もひどく寒いと言うので、芦雪は卵酒を作って飲ませた。
「藤仁。ほら、飲めるか?」
 椀に入った薄黄の汁物を匙ですくい上げ、藤仁の前に差し出す。彼はぼんやりと天井を見つめていたが、匙を見ると少しだけ口を開けた。
「ひとくちで良いから、胃の腑の中に何か入れような。あとで薬も飲もう」
 母親に似た語り口で、芦雪は卵酒を雛鳥の口に運ぶ。藤仁はそれを素直に受け入れ、三口ほどではあるが、喉に通した。医者から渡された薬も飲んだゆえか、芦雪の不安はようやく地に足を着ける。
「……よしよし、えらいな。薬も飲めた」
 あとはよく寝るだけだ、と藤仁の前髪を梳けば、彼はやはり、満足げに口端を上げる。触れるたびにあどけない顔をされるものだから、芦雪の庇護欲と慈愛は大いに刺激された。
(ふふ……。可愛いなぁ……)
 藤仁を夢の中へと誘うように。そして、自身がかつて両親にしてもらったように、芦雪は優しく彼の頭を撫でる。藤仁は麗美な眦を細め、緩慢に瞬きを繰り返していたが、つゆを帯びた瞳に瞼が降りる気配はない。
「なんだ、寝れないのか?」
「……ん」
 芦雪は長い前髪をかき上げ、どうしたものかと頭を悩ませる。ふと、伏せ目がちに微笑む郷里の母の横顔が浮かんだ。
「それなら、子守唄を歌ってやろう」
「うた……?」
「あぁ! これなら、きっとお前もすぐにぐっすりだ!」
 何を隠そう、長きにわたって病床についていた芦雪自身こそがそうだったからである。生憎と芦雪は藤仁の母親ではないし、藤仁も子どもではないが、少しは気が紛れるだろう。
 善意やある種の郷愁から、芦雪は懐かしい旋律を紡ぎ始めた。
「……ろせつ。もう、いい……」
「ん?」
「もういい……」
 藤仁は固く目を閉じているものの、眉間には皺が刻まれ、陰を深くしている。
「もう? まだ寝てないじゃないか」
「きみのうた、が……ひどすぎて……。寝れたもんじゃない……」
 どうしたことだろう。藤仁にとって、芦雪の郷愁の旋律は騒音も同然のようだった。癪に障り、芦雪は頬を膨らませて病人相手に反論した。
「酷い? どこが!? こんなに美声を響かせて、優しく歌ってるのに!」
「ふ……」
「あ、笑いやがったな」
 一体、何がおかしいのか。芦雪は憤慨しかけたものの、年の離れた弟に子守唄を歌った時も、途中で遮られてしまったことを不意に思い出した。
 ——あにうえ……。わたし以外の方の前で、お歌は歌わないでください。死人がでてしまいます……。
 当時は、我が弟ながら、随分と生意気に育ったものだと小突いたのが懐かしい。後日、幼馴染の幸之介にも鼻高々に歌を聞かせたが、「ひっでぇ……」と顔を青ざめさせていたのも同時に思い出した。
(もしかして、俺は酷い音痴だったのか……?)
 芦雪は途端にいたたまれなくなり、口先をすぼめた。
「……はぁ。わかったよ。じゃあ子守唄はなしだ。代わりに寝物語でもしてやる」
 寝物語なら、耳障りが悪いことはあるまいて。生憎、赤本〔挿絵の入った本。御伽草子など〕は手元にないため、そらんじられる物語に限られる。ともすれば、芦雪が選択できるものはひとつしかない。
「『怪画絵師と墨愛づる姫君』な。これなら、お前も知ってるだろ?」
 それは、日ノ本で生きる者ならば、誰もが幼き頃に聞かされる寝物語だ。今や奥絵師の一角を担う狩野派がその昔、民草に口伝した不思議なおとぎ話である。
「ほら。もう一度、目を閉じて……」
 芦雪は藤仁の返答を聞くこともなく、彼の瞼にやわく触れる。そしてそのまま、頭の中で連なる文字を、淡々と声に乗せた。
「むかーし、むかし。あるところに、四郎二郎という少年がおりました。彼は幼いころからからだが弱く、外で遊べません。ですから、友という友がおりませんでした。ある日、友がいないことを寂しく思った四郎二郎は絵を描きはじめます。友がいないならば、絵で描いて作ってしまえばいい。そう考えたのです……」
「怪画絵師と墨愛づる姫君」は、友のいない怪画絵師の少年が、絵から抜け出して行方知れずとなった唯一の友、小鳥を探して旅に出る話である。物語の作者である狩野探幽かのうたんゆうは、一体どのような思いで、文字を綴ったのだろう。
 芦雪は物語を諳んじながら、百五十年以上も前の時代を生きた人間に、思いを馳せた。
 狩野探幽かのうたんゆうの名を、この日ノ本中で知らぬ者はいない。
 早熟の天才絵師。絵に愛された時代の寵児。今の狩野派の礎を築いた者。彼の人を呼ぶ称号は様々だ。
探幽たんゆうは、弱冠十一歳でその才を公方様に認められ、二十代にして江戸城、大坂城、名古屋城、二条城と名だたる城郭の障壁画を一手に任されたような人間だ。年若い頃からそれほどの腕前があれば、そりゃ伝説にもなるわな……)
 探幽たんゆうの絵の腕が功を奏し、数ある奥絵師の一派に過ぎなかった狩野派は、瞬く間に帯刀及び将軍に謁見できる地位までに登り詰めた。
 だが、探幽たんゆうという絵師の功績はそれだけに留まらない。
 彼は、登り詰めたその地位を利用して将軍家に掛け合い、武功よりも絵の腕前が何よりも賞賛される時代へと塗り替えたのだ。それを助長したのが、彼が作った制度──およそ百年前から現在まで続いている御用絵試、というわけである。
 未だ身分制度が燻る泰平の時代に異色な価値観を植え付けたことを鑑みても、狩野探幽かのうたんゆうは間違いなく、優れた絵師だったと言える。
 若い頃から、己が才と家の重圧を一身に背負い、抑圧された日々を送っていたはずだ。だからこそ、このおとぎ話に「自由」という救いを求めずにはいられなかったのだろう。
「四郎二郎は、傷付いた友、小鳥を癒してくれた心優しき姫に恋をし、姫もまた自由と外の世界を教えてくれた四郎二郎を好きになりました。二人は夫婦となり、共に絵を描きながら、末永く幸せに暮らしましたとさ。……おしまい」
 物語を紡ぎ終わり、息を吐く。視線を藤仁に戻せば、彼は穏やかに寝息をこぼしていた。
 眉宇に宿っていた険しさも、今は解けている。芦雪は藤仁の眠りを妨げぬよう、握っていた手を外し、懐から画帳を取り出して開くと、愛用の筆を手に、筆先を走らせた。
(藤仁の病が、早く治りますように……)
 落とされたささやかな祈りは、黄金色の美しい光となり、刺繍が施されるように紙面に織り込まれていく。
「来い、絹蝶きぬちよ
 墨で形作られた新たな命は、芦雪の祈りと名を受け取り、淡い黄金色の光をまとって顕現する。それは時に、神使として崇められるもの。人々が病魔に冒された時に現れ、平癒へと導くと信仰される瑞鳥、白鷺しらさぎだった。
 絹蝶は胸元だけでなく、細い肢体にも黄金色の光を羽織り、藤仁の枕元に佇んでいた。
絹蝶きぬちよ。頼んだぞ」
 主から初めて受けためいに、絹蝶きぬちよは喜色を隠そうともしない。薄雲のように儚く折り重なった繊細な羽を大きく広げ、羽ばたいた。羽の動きから生まれた淡い光の粒たちは宙を舞い、やがて小さな胡蝶へと姿を変えて、次々に藤仁の身体の中へと溶けていく。
 雨が作り出す薄暗さが、絹蝶きぬちよの力をより夢幻的なものにしている。淡い光に包まれる藤仁も、羽衣を手にした天女のように見え、芦雪の視界を美しく彩った。
(あぁ、できた……。俺でも幸魂さちみたまを……人のために、四魂を生み出せるんだ……)
 自身のためにしか使えなかった弱々しい力が、ようやく身体に馴染んだ気がした。
「早く……良くなると……いいな……」
 藤仁の隣に寝転ぶ。目の前の幻想的な風景を眺めながら、芦雪は瞬きを繰り返していた。


 雲を割る微かな光。激しく地面を打ちつける雨音が、芦雪の瞼を撫でる。
「ん……?」
 霞む視界を擦り、芦雪は小さくあくびをした。いつの間にか眠っていたようだった。
 部屋の中は、夜のとばりが降りたように暗い。雨から障子を守るため、一寸の隙間だけ開けて雨戸を閉めているせいもあるだろう。
 朧気な思考のままに身を起こし、火打石で行灯あんどんを灯す。やわい光が部屋の中を満たし、藤仁の整った横顔に陰を与えた。
 芦雪は、彼の額に手を添え、熱の有無を確かめる。
 癒しを司る四魂、幸魂さちみたまの力のおかげか、熱は僅かながらに残っている程度で、朝に比べれば下がっている。
「良かった……」
 だが、四魂の力を借りての回復など、所詮は付け焼き刃だ。一時的なものに過ぎない。
 それでも、藤仁の寝顔や寝息が穏やかになったのは、純粋に喜ばしいことだ。
 不意に、外から溢れんばかりの稲光と雷鳴が、雨戸の隙間を蹴破った。
「うわっ……! びっくりした……」
 地を這うような低い雷鳴は、身体に重みを轟かせただけでなく、部屋全体を微弱ながらに揺らす。芦雪は思わず声をあげた。
(凄い雷だ……。大きかったな。近くに落ちたのか?)
 天上の鬼神が喧嘩でもしているのだろうか。相手は風神、もしくは雲龍だって有り得る。
 芦雪は、脳裏に想像の墨でを描き、伝説上の異形たちに思いを馳せた。
(あまりここまでの雷鳴を聞いたことがないから、なんだか楽しくなってしまうな!)
 薄暗い部屋の中でひとり、芦雪はにんまりと笑みを広げる。雷を聞いて笑うなど、酷く変わっているとは自覚している。普通は雨戸を締め切り、耳を塞いで部屋の中で家族と身を寄せ合うものだ。
 しかし、入道雲の如く大きくなる好奇心には抗えない。芦雪は外の様子を窺おうと、その場から立ち上がった。
「いやだ……! 行くな!」
 雷の音で目が覚めたのか。藤仁は半身を起こし、芦雪の銀鼠の袖口を強く握って、芦雪を引き止めた。
 先程までの穏やかさが嘘のように、藤仁の呼吸は随分と荒くなっている。男の握る袖から小さな震えが伝わり、彼が怯えているのが分かった。
 戸惑うままに芦雪が腰を下ろせば、藤仁は芦雪の胸元にすがりついてしまった。
(今日は随分と素直じゃないか。一体どうした?)
 ふいに飛び込んできた温もりに、驚きを隠せない。迷いに迷った末、芦雪は藤仁の広い背を擦りながら、腕を回して抱きしめる。
「よしよし。どうした?」
「怖い……」
「うん……? 何がだ?」
「かみ、なり……。嫌い、なんだ……」
 藤仁の告白に歓喜せんばかりに、外では再び雷鳴が轟いた。藤仁の肩が強く震える。彼の耳にかかった長い髪が一房、はらりとしなだれ落ちた。
(なるほど。呼吸が荒いのも、こうして震えているのも、雷のせいか……)
 しかし、そうは言っても、この怖がり方は異常だ。雷で嫌な思い出でもあるのか。
 またひとつ、藤仁を覆い隠す過去が闇の中に浮かび、芦雪の疑問を大きくした。
(でも、まぁ……。こういう時にすがってくれるのは嬉しいな……)
 口元にやわく弧を描かせると同時に、芦雪は浅慮な己に、ほとほと呆れた。
「大丈夫。芦雪兄上がそばについてるから。雷なんてどうってことない」
「ほん、とう……?」
「そうとも。何かしてほしいことがあるなら、遠慮なく言えよ」
 芦雪は弟を慰める兄のように優しく語りかけながら、藤仁を再び布団の上に寝かせ、指の背で頬を撫でた。
「ん……」
 藤仁は蕩けた目尻のままに瞼を閉じ、芦雪の指に頬を擦り寄せてくる。
(あぁ、なんて……なんて愛らしい……!)
 今日の藤仁は幼子そのものだ。平生の凍てつくまでに麗しい姿からは、かけ離れている。
 行灯の淡い光が、再び眠りについた者の唇に艶やかな明かりを与える。ひと月前、藤仁と重ねた感触と熱が芦雪の脳裏をよぎった。
 ——この瞬間を、魔が差したというのだろう。芦雪は顔を寄せ、眠る藤仁の唇に自らのそれを重ね合わせていた。
「……っ」
 互いのやわい感触が脳に直接伝わり、芦雪は我に返った。
(何をやってるんだ、俺は……!)
 想いを伝えるつもりもない相手の寝込みを襲うなぞ、最低にも程がある。瞬時に顔を離し、手拭いを持った手を、藤仁の唇に伸ばした。
 差し出した手が、強く掴まれる。瞼を上げた藤仁と視線が絡み、血の気が引く。また眠ったのだとばかり思っていた藤仁は、起きていたのだ。
 間違いなく、地を這うような声で罵倒される。芦雪は迫り来る緊張と恐怖を受け止めるため、固く目を閉じた。
「もっと、して……」
 返ってきたのは、罵る言葉ではなかった。恐る恐る、藤仁に視線を向ける。熱を孕んだ黒鳶色の瞳が、一心に芦雪を見上げていた。
「何でも……してくれるんだろう……?」
「っ、いやでも、今のは……」
 言葉の意味を飲み込む数瞬の間に、芦雪の頭は藤仁に引き寄せられていた。先刻別れを告げたばかりの唇が、待ち焦がれていたかのように重なる。角度を変えて触れ合うだけだった口付けは、徐々に欲を孕んだ深いものへと変わっていく。
「んっ……は……、ふ、ぅ……」
「……ん……口、もっと開けて……」
 部屋の中で響いていた雨音と雷鳴は、既に遠く消えている。ただ、互いの唾液が混じり合う水音だけが、芦雪の頭の中を犯していた。
「ふ、ぁ……ッ、ん……や、……!」
 僅かながらに理性が働く。芦雪は唇を離そうとするが、手負いの獣が許すはずもない。
 抗えぬほどの強い力で布団の中へ引き込まれ、両手首を絡め取られて組み敷かれた。
 ——こんなことをするために、四魂の力で癒したわけじゃない!
 理性が必死に叫んでいる。目の前の男の尊厳を守るためにも、蹴り上げて逃げてしまおうかとも思ったが、相手は病人だ。振り上げようとした芦雪の脚は、力なく敷布を掴んだ。
 いつしか、芦雪の小袖のあわせははだけ、白い腿まで藤仁の視線に晒している。肌は僅かに汗ばんでおり、口を吸い合っただけで快楽を拾い上げていたことが、ありありと分かってしまう。
 藤仁は、熱のせいとも思えぬ衝動的な光を瞳に宿し、芦雪を見下ろしたまま口端を引き上げた。
「気持ち良いのか……?」
「……っ!」
 藤仁が確かめるように布越しに指で触れたのは、芦雪の陽物だった。未だそれは小袖と肌着で守られているものの、膨らんでいるのが容易に窺い知れる。
「口付けだけで、君はこうも興奮するんだな……」
 陰を深めた喉仏が艶めく。藤仁は小さな笑い声とともに、二人を隔てる布を取り払った。「見、るな……!」
 身を固くした陰茎を藤仁に視姦され、芦雪は顔を背ける。恥辱からなのか、見られて悦んでいるとでも言うのか、芦雪の前は小さく震え、早くも先走りをこぼしていた。
「ふ……。泣いてるみたいだ」
「藤、仁……っ、ん、あ……っ!」
 熱をまとった指が芦雪の陽物に絡みつき、緩やかに扱かれる。鈴口から溢れるつゆは藤仁の手の動きを滑らかにし、無骨な手が上下するたび、あられもない音を発していた。
 強弱をつけた愉悦が頭に入り込み、芦雪の唇から小さく喘ぎ声がこぼれる。藤仁の熱が移ったように、芦雪の身体は火照り始めていた。
「やだ……! やめろってば……! ん、っ……、はっ、あ……!」
 芦雪の理性は、未だ警鐘を鳴らしているものの、欲はそれを飲み込まんばかりの勢いで昂っている。もはや制止の言葉を紡げているのかも定かではない。藤仁はやはり微笑を携えたまま、淀みない動きで芦雪の前に指を這わせ続けていた。
「君は……俺が笑った顔が好きなんだろう……?」
「っ、な、んで今……っ、それ……」
 かつて写楽の前で吐露した、芦雪の願い。何故、それを今になって言うのか。
 熱で霞む視界に藤仁を映す。彼は、芦雪の膨らんだ茎に顔を近づけている。
「……俺は、君が嫌がる顔が好きなんだ」
 引き上げられた口端から、濡れた呼気が漏れる。息が芦雪の陰茎に触れ、立てた脚が嫌な予感とともに跳ねた。
「……っ!? ちょ、まさかお前……、あぁっ……!」
 藤仁は長い横髪を耳にかけ、蜜のしたたる陽物に舌を這わせた。初めは先端に口付けられるだけだったが、それは徐々に男の口内に招き入れられる。ぬるりとした感触が芦雪の敏感な裏筋を撫で、腰が震える。藤仁はとめどなく溢れる先走りを、音をたてて吸い上げ始めた。
あ゛!? は、ぁ……、やめ……っ……ぁ……!」
「ふ……。可愛い声……」
 芦雪が嬌声をあげるたび、藤仁は弄ぶように管の中身を吸い、舌先を這わせて輪郭をなぞる。暴力的な快感が芦雪の頭の中を白く染め上げ、視界は霞んでいく。
「っ、は……だめ、だって言ってんだろっ……! こ、んな……」
「だめ……? どうして?」
「お、前……風邪、ひいてるし……。それに、こういうことは……」
 ——好き合っている者同士でやるものだ。その言葉が思うように出てこず、芦雪は唇を噛んだ。
 芦雪は藤仁を好ましく思っている。だが、藤仁は芦雪に親しみを持ってくれてはいても、芦雪の持つ好意とはきっと形が違う。
 強く抵抗もできず、目の前の欲に眩んでいるのが情けない。一時の夢に乗じてしまえと囁く自分にも嘔気がした。芦雪は痛む喉を叱咤しながら、最後の理性を振り絞った。
「だから……。こういう、ことは……やめよう……」
 涙をこぼす芦雪に、何か思うことがあったのか。藤仁は陰茎の括れを名残惜しそうに舐めたあと、ちゅぷんと音をたてて口内から解放する。芦雪の陽物と男の唇は銀糸でつながり、行為の余韻を伝えていた。
 芦雪は、藤仁が止まったことに安堵の息を吐いた。
「……やだ」
「は……?」
「やめない」
「ちょ、藤仁、はなし聞けって……っ!? ぁっ、ん……!」
 藤仁は鈴口に親指の腹を当て、唾液に濡れた表面を撫で抉る。芦雪が嬌声をあげ、快感に背を反らしても、男の手の動きは性急なままだ。口寂しいのか、藤仁は既に膨れた芦雪の胸の飾りを口に含んだ。
「も、はな、せってば……! あっ、あぅ……っ……」
 芦雪が抵抗の意を示すたび、藤仁は咎めるように刺激を送り込む。前と胸の両方を同時に責め立てられ、喉奥からは悲鳴染みた啼き声が出る。目の前で愉悦の火花が散り、薄暗いはずの部屋が明るいと錯覚してしまう。芦雪の身体は、いとも簡単に絶頂に登りつめた。
「も……、い、く……っ……!」
「……好きなだけ、出して」
 ゆっくりと覆いかぶさってきた藤仁が、耳元で囁く。男の耳に掛かっていた黒鳶の髪はしなだれ落ち、芦雪の頬を撫でる。藤花の香りがやわく立って、下腹で疼いていた芦雪の欲は、一気に弾け飛んだ。
「——っ! あっ……ん、く……!」
 芦雪は、藤仁の手の中に白濁を吐き出す。ひと月前よりも量が多く、色が濃い。藤仁は満足そうに口端をもたげ、手で受け止めた精を指に絡みつけた。伏し目がちに己が指を口の中に入れ、唾液をまとわせる姿は、平生の姿からは考えられないほどに煽情的だった。
 黒鳶の双眸は、欲と興奮で光艶を宿し、喜色に濡れている。眼前で荒い息を吐く獲物ろせつを射ったまま、藤仁はただ笑んでいた。
「ね、もっとちょうだい……」
 芦雪の喉から、空気が消える。藤仁は、唇の端に白い余韻を残したまま、芦雪の小袖を全て剥ぎ取ると、自身も鬱陶しげに襦袢を脱ぎ、畳の上に放り投げる。
「ちょ、待っ……な、何を……」
 芦雪の視界は反転し、藤仁の手でうつ伏せにさせられる。肉付きが良いとは言えない尻に無骨な手が触れたことで、これから何をされるのかを芦雪は察した。
 このまま続ければ、ひと月前の二の舞になる。好きでもない男と最後まで肌を重ねるという経験を、藤仁にはさせたくない。今の芦雪は、藤仁の男としての尊厳を守ってやらなければという使命感だけで理性を留めていた。
 力を振り絞り、芦雪は布団から這い出ようとするが、腰を掴まれてしまえば終わりだ。瞬く間に、布団の上に引き戻されてしまった。
「どこに行くつもりだ……?」
「そんなのっ、逃げるに決まっ……!?
 震える芦雪の秘蕾に、ぬるりとした感覚が這う。見ておらずとも、藤仁が秘部を舐めているが脳裏に浮かぶ。羞恥から、甘やかな吐息が自然と漏れた。藤仁は濡れそぼった後孔から唇を離すと、芦雪の精と己の唾液を合わせ、指を中に押し入れていく。
「ぅ……、あ゛……っ……!」
「ん……、思ったよりもやわらかいな……。果てたばかりだからか……?」
 小さな疑問の吐露とともに、芦雪の枕元にあった棚に手が伸び、やがて表面に薄墨の白椿が描かれた薬包が姿を現した。
(あれ……。まさか通和散……!?
 何故、交合に用いる秘薬が藤仁の部屋にあるのか。考える暇を与えられるはずもない。
 藤仁は通和散を口に含み、ぬめりの増した唾液を指にまとわせる。再び、指をもう一本と増やして、芦雪の中を分け入った。
「ふ、……ぁ……あ……っ!」
 つぷ、と空気を含んだ音が落ち、新たな圧迫感が芦雪の下腹部を襲う。藤仁の余った手は、緩く勃ったままの芦雪の陰茎を握り、扱き始める。
「はぁ……、は……っ、んん……!」
「こうやって両方触るの、気持ちいいだろ……」
 藤仁の言う通り、陰茎から伝う快感は、下腹の異物感と秘蕾の縁に走る痛みを徐々に薄れさせ、二本の指を馴染ませていく。中を押し広げるようにして抽挿が繰り返されるたび、蜜で溢れた後孔はひくつき、艶やかな水音を響かせた。
(なん……だ、これ……? むずむず、するような……、でもなんか……)
 決定的にはなりえない感覚が芦雪の背中を這い、汗が頬を伝った。
「あっ、ん、……ぁっ!?
 指が出入りする口の奥、その腹側にあるしこりのような部分を、男の指が撫でる。
 とんとん、と指の腹で軽く叩かれれば、芦雪の身体は強く震えた。
「ここ。君が一番気持ち良いと感じるところ……。覚えた……?」
「お、ぼえ……っ? ふ……、っく……ぅ……」
「声、我慢しなくて良い……。たくさん出して……」
「い……あっ……! そこ、や、ぁ……、あ゛ぁっ……」
 軽く小突くだけだった動きが前置きもなく強くなり、しこりをぐっと潰された。快感の悲鳴が芦雪の喉をつき、溢れた涙が敷布を濡らした。
 何度目と分からぬ抽挿のさなか、二本の指が引き抜かれる感覚が伝わり、ようやくこのおかしな快感から逃れられるのかと期待する。だが、藤仁の長い指は数を増やし、再び中を突き始めた。
「ひぁ!? あぁっ……!」
 刺激に弱いしこりを弄ばれる。その間にも、前を扱く手が止まることはない。
あ゛、う、ぁ……! ……——っ!」
 後頭部から腰へと突き抜ける快楽に身を任せ、芦雪は二度目となる吐精をした。立てていた両腕からは力が抜け、身が布団の上に沈む。敷布に染み付いた藤仁の香りが芦雪の鼻腔をくすぐり、白に濡れた屹立は、再び頭をもたげ始めていた。
「……芦雪」
「ぅあ……、っ……」
 腕を引かれ、膝立ちのまま、背後から藤仁に抱きしめられる。頬に手を添えられ、荒々しく唇が重なった。
「ふ……。ん、ぅ……」
「……っ、は……」
 舌先が絡み合い、境目が分からなくなるほどに互いの唇を貪る。息をする間も惜しく思え、芦雪は快感に導かれるまま、藤仁の露を求めた。
(……もう、なにも……考えられない……)
 熱を持った滑らかな肌が、芦雪の汗ばんだ背中と重なり合う。分かたれていたものが再会し、もう一度ひとつになったかのような錯覚を覚えた時、やわく解れた後孔に、硬い何かが押し込まれた。
ん゛っ……!? はっ、は……ぅ、あ゛……?」
「ん……、きついな……。流石に、まだ全部は入らないか……」
 光の粒が弾け、薄闇に染まる眼前が眩しい。藤仁のいきり勃ったものは芦雪の腹中を満たし、肉壁を擦りながら奥へ奥へ歩を進める。芦雪の中はそれ以上の侵入を阻むように、ぎゅう、と藤仁を締め上げた。
「あ……、っん……」
 耳に、藤仁の微かな喘ぎ声と濡れた吐息がかかる。芦雪が小さく身を竦ませれば、彼は芦雪の耳朶に舌を這わせ、やわく食んだ。
「あまり……締めるな……」
 普段は絵筆を握る大きな手が、宥めるように芦雪の頭を優しく撫でる。
(……どうして)
 ——どうして、愛おしげに俺に触れる。答えを聞いてしまえば、今を包む艶美な夢が儚く散ってしまう。芦雪の問いは形を成す前に、部屋の静寂しじまに消えた。
「ね……。もう、動いてもいい……?」
「あう……っ……。う、動くな……ぁ……!」
「今日は初めてだし、そんなに動かない……。浅いとこ、たくさん擦ってやるから……」
 藤仁は芦雪の腕を強く引き寄せ、膝立ちのまま、ゆっくりと腰を動かし始めた。中に埋められたものが先端まで引き抜かれ、勢いをつけて、再度埋め込まれる。引き締まった下腹部と肉づきの薄い尻が触れ合い、ぱちゅ、と軽い音が響いた。
 高く張った雁首で弱いしこり部分を探し当てられ、芦雪の身には何度も刺激が送り込まれる。緩慢な抜き差しが繰り返されるたび、藤仁の肉茎は媚肉の壁を逆撫で、よりいっそう、芦雪の悦びを掻き立てた。
「——っ、やだっ、もうやめ……っ! これいじょ、イき、たく……っ、あぁ……!」
「やめない」
「だめ、だめだって言ってる、のに……! も、また……!」
 熟れすぎた二つの果実は空になり、芦雪の先端は、透明な液を滴らせるだけだ。芦雪が嬌声をあげれば腹の中がうねり、藤仁は静かに喘ぎ声をこぼす。
 耳端に藤仁の息が触れ、腰に震えが走る。芦雪は思わず、中の陽物を己の弱い部分まで導き、藤仁の腰の動きに合わせて、ゆるゆると尻を擦り付ける。下生えが触れる感覚すら、中の疼きを煽って気持ちが良かった。
「ふぅ、……っ、あ、あぁ……き、もち、い……」
「ここ……? そんなに、良いなら……ッ!」
 肌と水音が重なる。微かな笑い声とともに、一際強く腰を叩きつけられた。
あ゛!? ……っ、ん、はぁっ、あ゛ぁ……!」
 行き止まりまで、腹の中は一筋の熱で埋め尽くされる。目の前も思考も全てが真っ白になり、快感から声をあげているのかも、息が苦しくて喘いでいるのかさえも分からない。
「は……っ、芦雪、もう……!」
ぁ゛っ、……まって、っ……ぁ……っ!!
 藤仁の呻く声とともに、腹中の亀頭が膨らみ、高まった欲が弾ける。中に飛沫が注がれ、芦雪は藤仁の一部に満たされていく。開いたばかりの芦雪の蜜壷では全てを受け止めきれず、繋がった箇所からは、とろとろと藤仁の種が溢れ出ていた。
「ん……、ふ……ぁ……。腹……あつ、い……」
 重なった二つの腰が跳ねる。部屋は、二人の濡れた呼気の音に支配されていた。
 藤仁は背後から芦雪を抱き込み、肩にすがったまま身を横たえる。もう一度、芦雪の顔を自分の方へと向かせ、触れるだけの口付けを慈雨のように降らせた。
「あっ……ん、はぁ……っ、……ふ、じ……」
「っ、ふ……。芦、雪……」
 角度を変え、啄むように合わさる唇。どちらのものとも分からぬ銀糸が芦雪の口元を伝い、布団の布地に新たな染みを作り出していく。
(あぁ……。今なら、このまま死んでもいいかもしれない……)
 家のことも己の立場も全て顧みず、儚い夢の中に堕ちていけたら。馬鹿げた妄執が、芦雪の思考に幾重にも霞を重ねていった。
「芦雪……。俺は……君を……」
 首元に、小さな水音と微かな痛みが走る。耳朶に優しく落ちる言葉を最後まで聞き届けぬまま、芦雪は重い瞼を閉じた。