第十一筆「夢幻」

 ——ひとに抱きしめられるというのは、かように胸が苦しくなるものなのか。
 真綿でゆっくりと、喉が締め付けられていくような。けれど、包まれる腕から伝わる甘やかな痺れを、心地良いと思ってしまうような。
 相反する不可思議な感覚は、芦雪ろせつの中で熱を持ち、互いに境をなくして溶け合う。
「写、楽……殿……」
 藤仁、と名を呼びそうになるのを堪え、芦雪は彼の胸元をそっと押し返す。己の声が震えていないか、それだけが心配だった。
 やわい力を受け、甘い拘束が緩やかにほどける。芦雪が顔を上げれば、面布かおぎぬの男の艶やかな唇が目に入った。
(いっそ、もう一度……)
 芦雪は、柳色の布地に爪を立てる。二人の視線を隔てる白い布が、ひどくもどかしい。 薄絹に指をかけ、取り払ってしまうことは簡単だ。だが、顔があらわになったその時、写楽との今までの関係は、砂のように脆く、儚く、風に連れ去られて消えてしまうだろう。
 刹那、息を飲む音が、かすかに芦雪の耳端を掠めた。
「……っ、失礼、いたしました……!」
 写楽の慌てぶりは凄まじかった。彼は芦雪を膝上から下ろして隣に座らせると、謝罪とともに平伏したのだ。
「夢を……見ていて……。君……いえ、貴殿が私の前からいなくなってしまう、夢を……。申し訳ございません、とんだご無礼を……!」
 近頃になって、ようようやわく解けていた言葉遣いは、再び他人行儀なものへと戻っている。越えようとしていた境界が亀裂に変わったように思えて、言いようのない不安と悲哀が芦雪を襲った。
(お前を揶揄からかって、心を乱そうとしてるのはこっちだってのに……。いつだって、かき乱されるのは俺ばかりだ……)
 芦雪は焦燥を握る掌を開き、写楽の両頬に添えた。
「芦、雪……殿……?」
 面布かおぎぬの顔が上がる。薄い唇は困惑の色を宿していた。
「……っ」
 芦雪は衝動とも言うべき激情に飲まれ、写楽を抱きしめた。永遠のように感じられた先刻の刹那よりも、強く。
「……!? な、何を……!」
「……大丈夫。俺はここにいるから」
 ——お前が俺から離れていくことはあっても、俺がお前から離れていくことはない。
 ただ、写楽を安心させるように。幼子を宥めるように、芦雪は広い背を優しくさする。写楽は初めこそ腕の中で身動いでいたが、やがて恐る恐る、芦雪の背中に腕を回した。
「ふふ。写楽殿でも、寝ぼけてしまうことがあるんだな」
「それが……その……はい……。お恥ずかしい話、私は寝ぼけ癖が酷いようで……。その上、しでかしたことを覚えていないものだから、よく妹にも叱られるんです……」
 写楽は、今にも消え入りそうな声で白状する。今しがた芦雪を抱きしめたことも、あの艶事紛いの出来事も。彼は何一つ覚えていない。明確な意志も理由もなく、ただ彼の本能が為したことなのだ。随分と、性質たちの悪い男に捕まってしまった。
 己への呆れを呼気にまとわせ、芦雪は写楽から腕を離して言った。
「……写楽殿にも、妹がいるんだな。藤仁と一緒だ」
「……はい」
 眼前の男と藤仁の共通点をわざとらしく指摘してやったが、本人にその意地悪は届いているのだろうか。肯とも否とも取れぬ、曖昧に濁した一言が返され、話は打ち切られた。
「……芦雪殿。お久しゅうございます」
「そうだな、久しぶり……と言っても、半月ぶりだが」
「ひと月の間違いです」
 同じような会話を松乃ともしたなと芦雪は苦笑したが、写楽は不満そうだ。形の良い唇をすぼませ、顔を庭へと背けてしまった。
「笑い事ではありません。ただ庵で待つばかりの私は、幾年もの歳月を感じましたよ」
「おおげさだな。すまない、少し……奉公で忙しくてな。文でも送ればよかったかな」
 写楽と同様に、真実を口に出すこともできない。芦雪はへらりと形の崩れた笑みを浮かべ、写楽の顔を覗き込んだ。
「写楽殿こそ、うたた寝とは珍しいじゃないか。尋夢庵の仕事が忙しいのか? 無理はするなよ。なんなら、今日は出直そうか……」
 写楽の正体である藤仁も、近頃は端午の節句に向けた絵の納品が重なっていた。画室の襖の隙間から、遅くまで明かりが漏れていたのを、芦雪は知っている。
 流屋の筆頭絵師としての生活、ひいては尋夢庵の主としての二重生活は多忙だろう。飯を頑なに口にしようとしなかったのは、食べるのが面倒だったのではなく、食べる暇がなかったからなのだと、ようやく腑に落ちた。
(帰宅したら、藤仁の納品予定を見直そう。断れそうな依頼も切っておかないと……)
 誰にも隙を見せぬ藤仁が、尋夢庵でとはいえ、うたた寝していたのだ。彼の身体が悲鳴をあげ始めているのは明白だった。
 芦雪が縁側から立ち上がれば、行く手を阻むように手首を強く掴まれた。
「大丈夫です。ちゃんと休めておりますよ。今日はたまたま……お昼寝日和だったので。それに、明後日で大きめの納品が終わりますし、しばらくはのんびり過ごせそうです」
「……本当に?」
「本当です。嘘をついているように見えますか?」
 ——現に、写楽は藤仁だという大きな嘘をついているじゃないか。
 喉元まで這い上がるそれを到底口にすることもできず、芦雪は結局「……見えないよ」と小さな嘘を重ね、再び縁側に腰を下ろした。
 それから、二人で他愛もない話をふたつ、みっつと交わし、おやつに舌鼓を打って過ごした。常と変わりなく、ただ穏やかに。
 茜色に染まる空の下で帰路につきながら、芦雪は肌守りを握らずにはいられなかった。
(写楽の時は楽しそうに笑うのに、どうして藤仁の時は途端に……俺に素っ気なくなるんだ……?)
 藤仁の姿をした写楽と、写楽の姿をした藤仁。一体、どちらが本当の「彼」なのだろう。
 芦雪の胸裡には、疑念と暗鬱とした陰が渦巻いていた。


 ぬばたま色が一面に満ちている。月が支配する闇夜を思い起こさせるが、かの空には星月ひとつ浮かんでいない。深く濃い陰が、果てなく広がっているだけだ。
 不可思議な虚空にひとり、芦雪は地に腰を落ち着けていた。
(夕方に尋夢庵から帰って、お松と飯を食べて、湯屋に行って、それから……藤仁と顔を合わせないように早々に寝支度をして……寝たはず……)
 夜着を引き被った記憶はある。つまり、これは夢だ。しかし、こうも意識が明瞭とした夢は珍しい。いつにも増して奇妙にも思える。
 藤仁と写楽のことを思い悩むあまり、かような夢を見ているのだろうか。
「この夢……。いつになったら覚めるんだ?」
 手持ち無沙汰で、なんともつまらない。芦雪はその場に寝転んだ。視界にはやはり、宵闇が満々と広がり、星明かりは身を潜めていた。
「そう寂しいことを言うな」
 軽快な声音が、光芒を引いて降り注ぐ。墨に一筋の朽葉色を差したような長い黒髪が、闇を孕んで軽やかに揺れた。
「こうして夢の中で相見あいまみえるのは久しぶりだな、眞魚まお」 
 幼名を呼ばれ、芦雪は思わず半身を起こした。妖しい艶を身にまとう青年と、視線が交わる。歳の頃は芦雪より少し上だろうか。
 肩下まである長い髪は縛られておらず、色のない空間に一筋の光艶を与えている。朽葉色の瞳に恐れや不安と言った面持ちはなく、堂々と芦雪を見据えていた。
 薄い唇はやわく弧を描き、口元の黒子ほくろが不敵さを強調している。ふと、藤仁と松乃の顔が脳裏に浮かんだ。
「誰だ……?」
 芦雪が怪訝に思いながらも問えば、青年は胸元を叩き、自信に満ち溢れた様子で述べた。
「私はお前で、お前は私だ。お前が生まれた時から、私たちは一蓮托生の仲さ。また忘れてしまったのかい?」
「また……?」
 また忘れた、の真意を咀嚼できず、芦雪は小首を傾げる。生憎と、青年に覚えはない。言葉を交わした記憶も、人生で同じ時を重ねた思い出さえも、何一つ。
 しかし、彼は大仰に両腕を広げるばかりで、芦雪の疑問に明確な解を示さなかった。
「お察しの通り、ここはお前の夢の中。この私、守信もりのぶとお前が唯一会える場所。大丈夫、何も分からなくて良い。眞魚まおが忘れっぽいのは、もう慣れているからね」
 自らを守信と名乗った青年は、芦雪の隣に鷹揚に腰を落ち着ける。身動ぐ芦雪をよそに、滔々と話を続けた。
眞魚まおは小さな頃、よくここへ遊びに来ていたんだよ。……あぁ。小さく純粋だったあの頃のお前は、私の膝の上で『もりのぶあにうえ!』と舌っ足らずにさえずっていたというのに……。少し見ないうちに、図体ばかりでかくなって。あの愛らしい私の眞魚まおは、一体どこへ行ったんだ?」
 守信は、おもむろに芦雪の頬に手を伸ばした。存在を確かめるように、男の指先が芦雪の唇をなぞる。時折漏らす、すすり泣きに似た音がわざとらしい。
 だが、こうして触れられても、芦雪の本能の警鐘は鳴りを潜めている。奇妙な懐古感が、逆立つ思考の細波をなだめていた。
「なぁ。俺はお前に……守信にこうして何度も会っているのか?」
「そうだよ。お前が生まれた時から五歳ぐらいまでの間と、あとはここ最近……。そう、ちょうど眞魚まおが江戸に来てからだ」
 守信は素直に答える。彼の口は淀みなく動き、芦雪に触れる手も止まる気配はない。飽きもせず、今度は両手で頬を挟んで、弾力を楽しむかの如く揉み始める。
「あの……、もりのぶ?」
「あははっ、お前は相変わらず可愛いねぇ」
「俺は玩具じゃないんだが」
 頬に這う感触を引き剥がそうと芦雪は手を伸ばしたが、それは空を切った。守信が何かを思い出したように声を上げ、芦雪の頬を解放したのだ。
「あぁ、そうだ。夢の中ではないが、眞魚まおが江戸に来てから、もう二度は言葉を交わしたぞ。一回目は私のこんを宿した娘……松乃だったかな。あの子と会って絵合わせをした時と……それと、藤仁とかいう男と眞魚まおが花見に行った時だ。二回ともやっぱり私のことを覚えてなくて、お前は私に向かって罵詈雑言ばかりだったもんなぁ」
 しみじみとした様子で守信は語ったが、芦雪は薄く口を開いたまま、微動だにできない。
(なんで……二人のことを知っている……?)
 見知らぬ男の口から、松乃と藤仁の名が紡がれ、そればかりか身に覚えのない過去までも告げられて、芦雪の思考は混乱を増す。
 守信を見つめても、彼は笑みを深めるだけだ。彼の耳にかかる髪は静かにこぼれ、さ迷う芦雪の視線を弄ぶ。朽葉色の双眸に欺瞞はなく、ただ慈愛のみが滲んでいた。
(守信の言う通り、彼はもう一人の俺……というか、普段は心の奥底で眠っている俺なのかもしれない。本当に現実おもてに出てきてるわけではないはずだ……。夢の中だからこそ、こうして人の形を成している。『守信』という、一人の人間としての人格を持って……)
 故に、兄妹を知っている。正しく、彼は「芦雪」なのだから。
 一方、守信は、先刻まで噺家にも似た口上で言葉を放っていたというのに、今は静かに芦雪を見つめている。真摯に、言葉なく注がれる雄弁な眼差しに、やはり何故か、藤仁の顔がよぎった。
「……なぁ、眞魚まお
「な、なんだ……」
「あの男……藤仁のことだが……」
 脳裏に浮かべていた者の名を出され、芦雪の肩は不自然に跳ねた。
(もう、あいつの事を考えるのはやめろとでも言うつもりか? それとも、距離を置けとか……? いっそ、流屋を出ろなんて言うんじゃ……)
 藤仁が写楽だと知ってから、芦雪が彼らに抱く感情の輪郭は、曖昧に溶け始めている。藤仁に対して向け始めた想いも、写楽に感じていた温かな友情も、全てが水墨のように滲みを増している。筆先は行き先を見失い、その場に墨滴を落としてたたらを踏んでいた。
 しかし、目の前には本心のような存在が形を成して立っている。これから彼が告げようとしている言葉が、己が望む明確な答えになるのではないだろうか。
 芦雪は固唾を呑み、守信が放つげんに耳を傾けた。
「藤仁は……」
「ふ、藤仁は……?」
「性格といい、顔といい、私の好みじゃないから、なかになろうと思っているのなら、やめた方がいいと思う」
「余計なお世話だ」
 守信の助言を、芦雪は息つく間もなく両断した。
(確かに、あいつは無愛想だし、笑わないし、口は悪いし、俺に隠してずーっと写楽としてそばにいて、にこにこしながら自分の愚痴を聞いていたような男だ。何を考えてるのかもさっぱり分からない……)
 これまで目にした藤仁を、ひとつ、ふたつと思い返す。静かに煮える情念は、いつしか芦雪の掌中に爪先を食い込ませていた。
(けど……けど! ふとした拍子に見せる微笑だとか、絵を真剣に描く横顔、優しさを隠そうとする不器用さ、己に無理を強いてでも、人々に心を砕く姿……。その藤仁の全てが、愛しいと思うんだ……。なのにそれを、『私の好みじゃない』と切り捨てたり、『好い仲になるのはやめた方が良い』と断言してしまうなんて、この俺がするわけが……)
 どうどうと、滝の如く落ちゆく思考が止まる。芦雪は顔を上げた。
「……は?」
「ん? どうした?」
「……いや、なんでも」
 口を片手で覆う。己の本心とも言うべき者との口論で自覚することになるとは、一体誰が予想しただろう。芦雪は、自嘲の混じった笑い声をくつくつと漏らした。
(結局、答えなんて初めから出てるじゃないか。俺は、どう足掻いたって……)
 ──藤仁が好きなんだ。
 彼は男で、弟分で、友とも言うべき存在だ。それら全てを鑑みても、体内に宿る想いは熱を持ったままだった。
 藤仁に笑って欲しい。藤仁に振り向いて欲しい。藤仁に構って欲しい。だからこそ、両手では足りないほどの悪戯を仕掛けた。
(俺は……あいつの全てが欲しい……。藤仁に愛情を注ぐのは、俺だけであって欲しい)
 純粋な願いのようで、身勝手な欲望。これはただの男、弟分、そして友に向ける感情ではない。ひとつひとつ、丁寧に積み上げてきた想いに。目を背け続けてきた想いに、恋情という明確な名がついた瞬間だった。
 夢から醒めても、この想いで溢れていたなら。いっそ、思いの丈を伝えてしまおうか。
(そんなこと……できるわけがない……)
 単純な己に反吐が出た。身に余る衝動で、彼を困らせたくはない。
 心優しい藤仁のことだ。一縷の哀れみから、芦雪の想いに応えようとする可能性もある。
 そもそも、男から思いの丈を伝えられて何になる。己だけの感情を、藤仁の重荷にしたくはない。今の関係性に、亀裂を入れる刃にだけはしたくなかった。
(……そうだな。もし、俺が奥絵師になれたら……。もしくは、京へ戻ることになったその時に……伝えよう)
 想いを伝えるのは、藤仁に別れを告げる時だけでいい。それまでは、内に秘めたままで。
 これまで偽りで着飾っていた芦雪の唇は、いつしか心からの弧を描いていた。
「おい、眞魚まお。さっきからどうした? そんなに、あのいけ好かない男が……」
「なんでもない。……大丈夫だ」
 朽葉色の瞳が、芦雪を見透かすかのように見つめている。理由は定かではないが、彼は藤仁のことが気に食わないのだろう。
 芦雪は笑ってその場を誤魔化すと、話の矛先を変えるべく、守信に問いかけた。
「守信は、どうして俺に会おうなんて思ったんだ?」
 芦雪の真意を汲み取ったのか、はたまた藤仁の話が打ち切られたことに不満を覚えたのか。守信は目を細め、芦雪を恨みがましく睨めつけながら答えた。
「……会おうと思ったんじゃない。会えるようになったんだ。近頃は邪魔もなかったし」
 彼はやれやれと両手を上げ、肩を竦めて見せる。
「確か、写楽という名の絵師だったか。お前が持ってる印籠いんろうの……三椏みつまたの花の絵に奇魂くしみたまを生み落としたあいつだ。お前が幼い頃にあの絵師から奇魂くしみたまの呪いを受ける前は、それはよく二人で一緒に遊んでいたものだよ。……お前は覚えてないみたいだが」
 脈絡もなく出た、己がよく知る者の名。藤仁のもう一つの姿の名に、芦雪は首を傾げる。
 持病の発作を抑える薬を入れた印籠いんろうは、確かに幼い頃から父に持たされていたものだ。
 ——この三椏みつまたの花の絵と中に入っている薬が、お前の命を繋ぐのだ。決して……決して手放してはならぬ。
 きつく肩を掴まれ、小さな手に握らされたのを、芦雪は今でもよく覚えている。記憶違いでなければ、芦雪が五つを迎える年だった。写楽は藤仁なのだから、二つ下である彼、当時三歳になるはずの藤仁に、精巧な三椏みつまたの花の絵など描けるはずがない。
 ならば印籠いんろうの絵は、全く別人の写楽が描いたとでも言うのだろうか。
「それに、奇魂くしみたまの呪いって……」
 奇魂くしみたま。呪い。その二つが結びつけるのは、ついひと月前の、花見での出来事である。
 芦雪の強すぎる願いが呪いと化し、歪んだ欲によって生み落とされた奇魂くしみたまの異形、常磐ときわ。藤仁の精神を、芦雪の願い通りに操ろうと、結果的に害を為した子犬の四魂も、まさに奇魂くしみたまの呪いだった。
 三椏みつまたの花の印籠いんろうも、そうだとでも言いたいのか。お守りにと親子の情から持たされたものに、写楽の呪いが込められた四魂が宿っているのだと。
 そもそも、印籠いんろうに四魂が宿っているというのも初耳だ。中に入れた薬を飲むため、印籠いんろうをしばしば手にするが、四魂特有の光を目にしたことは一度もない。
 芦雪は疑念を宿した目を守信に向ける。彼は、何故か気まずそうに顔を背けた。
「まぁいい。またお前に会えるようになったんだ。前みたいに、たくさん話をしよう」
 守信は長い前髪をかき上げ、へらりと芦雪に笑いかけた。
 この仕草と笑い方は大抵、困った時や何かを隠したい時にするものだ。芦雪自身の癖であるがゆえに、もう一人の芦雪だと称する守信の心が、手に取るように分かった。
 それはまた、逆も然りのはずだ。藤仁のことを深く聞いてこなかったのも、守信も配慮したのだろう。自身にも、聞かれたくないことがあるがために。
 芦雪は、小さく息を吐きながら、「そうだな……」と頷いた。
 奇妙な沈黙が二人の間を流れる。が、守信が両手を合わせて軽快な音を鳴らしたことで、場はすぐに男の声で満ちた。
「そうだ、絵を描こう。絵師は絵で語り合うものだからな。ここは夢の中なんだから、直霊なおひの力を解放したって構わない。この守信兄上が、四魂の使い方を指南してやる」
「それは……。いや、今は……描けない……」
 何が描けないのか。守信はすぐさま意味するところを察し、隣に座る芦雪に肩を寄せた。
「あぁ、そうか。お前、流屋で奉公するようになってから、直霊なおひの使い方が下手くそになったんだったなぁ。大丈夫かい?」
「うるさいな。俺だって理由を知りたいんだ。知ってるなら、むしろ教えろ」
 あまりに馴れ馴れしい守信の言葉が癪に障り、芦雪は乱雑に言い返した。
 花見の日以来、芦雪は絵に四魂を宿すことができないでいる。直霊なおひの力の暴走を恐れ、筆先が動かないのだ。
 元より、江戸に来て藤仁と松乃に出会ってから、何故か直霊なおひの力が上手く制御できなくなっていたのは事実だ。違和感を覚えるようになったのは、藤仁の名を初めて呼べた日の夜。奇魂くしみたまを降ろした子犬の四魂が、勝手に絵から抜け出した時からだった。
 以来、四魂が宿る絵をいくら描こうとも、上手く制御ができない日が続いた。主である芦雪の命を聞かないのだ。
 それを相談しようと藤仁を花見に誘った矢先、無意識に四魂の絵を描いた結果があれだ。
 藤仁を傷付けた事実が芦雪の中で大きな悔恨となり、四魂の宿る絵を描けなくなったというわけである。
 ただ、模写や写生であれば、四魂を宿すことなく絵が描ける。手本となる絵に集中するため、四魂の源となる己の願いや他者への祈りが、描く絵に入り込まないからだ。御用絵試の準備に際しては、そちらに専念しているのが現状だった。
 しかし、御用絵試で与えられる試験は、写生だけではない。手本もなく、ただ発想だけで自由に絵を描くものもある。力を操れないまま絵試に出れば、周りに被害を及ぼすのは火を見るより明らかである。
 芦雪はこめかみに指を添え、痛みを訴える部分を揉んだ。
「な、眞魚まお
 芦雪の耳を、密やかなさえずりが食む。今はそれが煩わしく、芦雪は守信に背を向けて座り直した。
「こっち向いて」
「やだ」
「どうして?」
「お前が嫌いだからだ」
「また癇癪を起こして。遅めの反抗期か? 仕方のない子だな。……よいしょっと」
「うわあっ!?
 軽快な掛け声とともに、守信は芦雪の腰を引き寄せ、自らの膝上に座らせる。芦雪のものよりも幾分肉のついた腕が背後から回り、芦雪を包むようにして抱きすくめた。
「ふふ。大きくなったなぁ……。前は胡座をかいた膝の中に入る大きさだったというのに。……腰は細いままだが」
 芦雪の肩口に顎を置き、守信は吐息混じりに囁く。そして何を思ったか、彼は芦雪の頬に軽く口付けた。やわい感触が頬を撫で、怖気が芦雪の背筋を舐める。
「気持ち悪ぃな! やめろ!」
「ひどいな。昔はあんなに可愛がってやったじゃないか。頬への口付けも声を上げて愛らしく喜んでたし、私の頬にもし返してくれたのに」
「覚えてない!」
 芦雪は守信の顔を両手で押しのけ、口付けられた部分を袖口で拭く。強く擦りすぎたせいか、夢の中だと言うのに、乾いた痛みが頬を走った。
 腕の中から逃れようと、芦雪は身を捩ってもがく。しかし、守信の方が上背があるために抗いきれず、無駄な抵抗に終わってしまった。
「は・な・せ!」
「やだよ。離したら逃げてしまうじゃないか」
「当たり前だ!」
 手足をばたつかせようと、守信にとってはじゃれ合いのようなものだ。芦雪は再び膝上に引き戻され、背後から音もなく両手首を掴まれた。
「な、何を……!」
「まぁまぁ」
 自由が残った足で芦雪は反旗を翻そうとするが、空を蹴るばかりで何の意味もない。守信は鼻歌交じりに、空いた片手で芦雪の衿元を割け入り、中へ忍び寄った。
 人肌の温もりのない手が、腹の上を這う。慣れない感覚が頭の中を伝い、芦雪は半ば叫ぶようにして声を上げた。
「……っ、ちょっと、おい!」
「暴れるな。今、お前の中を見てるんだから」
「中ぁ!? やめろ勝手に見るな! 触るな!」
「藤仁と情を交わしかけた時は、借りてきた猫みたいに大人しかったのになぁ……。良い子の眞魚まおちゃんは、守信兄上にも気持ちいいことを教えてもらいましょうねー」
「何言って……っ、う、あ……!?
 耳端に、喜色に濡れた声が落ちて。痺れるような快感が全身を巡る。
 別れていたものが腹の中でひとつになっていく、奇妙な感覚。肉を摘まれたわけでも、捻られたわけでも、ましてや傷つけられたわけでもない。下腹に手を当てられただけだ。
 だというのに、芦雪の身体の内側では、どうしようもなく甘い悦楽が駆け巡っている。
「あ……っ……は、ぁ……!」
眞魚まお。ゆっくり、息をして……。お前の中に、私を受け入れるんだ……」
 芦雪の中を、ふたつの塊が擦れ合う。その摩擦が快楽を生み落とし、身体の感覚を狂わせていた。小刻みに震える芦雪の腹を、男の手が穏やかに撫でる。生まれようとする何かを、慈しむかのように。
「んっ……く……、ふ、っ……」
「いい子だな。……そう、私の形を覚えて。お前と私がひとつになるために必要なことだから。……どうした、随分と物欲しそうな顔をして。口吸いでもしてやろうか?」
「変、な……こと……言う、なぁ……!」
 歪んだ笑みが、芦雪の唇の前で止まる。芦雪の反応を見て、愉悦に浸っているのは明白だ。悔しさと快感に溺れ、芦雪の視界は涙で滲む。しかし、強く掴まれた手首が解放されるわけもなく、芦雪の快楽への抵抗の声が、ただ静寂しじまに消えていった。
「んぁっ……! あぅ……ん……っ……」
「ふふ。いい子、いい子。上手だね。ようやく、私たちがひとつになれそうだよ」
 守信の言葉通り、腹の中で絡み合っていた塊は徐々に摩擦を減らすと、隙間もなく重なり、ひとつの塊に変化していった。男は芦雪の頭に頬を擦り寄せ、ただ笑んでいた。
 やがて、腹中の蠢きが収まる。身体がようよう弛緩し、芦雪は肩で息を放ちながら、背後の肩口へとしなだれかかってしまった。
「はっ……はぁ……、んっ……。は……」
「……うん。今日はここまでにしようか。よく頑張ったね、眞魚まお
 汗で張り付いた前髪が、そっとかき分けられる。露わになった芦雪の額に、守信は軽い水音を落とした。
「お、前……。……おれに……何、を……」
 芦雪は残った気力を拳に込め、守信の胸元に叩きつける。しかし、腹中に残る甘い痺れが力を吸い取り、ひどく弱々しい反撃にしかならなかった。
 守信は幼子の癇癪をあやすように、甘んじてそれを受け止めて言った。
直霊なおひの力が安定するようにしたんだ。私とお前の魂が上手く融合できず、中途半端に形成された直霊なおひがお前の中で暴れ狂ってたから。気持ち良かっただろう?」
「うるっさい……」
「ふふ。否定しないんだな。ま、魂同士の触れ合いは、言わば裸で睦み合うのと同義だ。気持ち良いと思うのは当然のことだよ」
 ——誰が、お前なんぞと好き好んで睦み合うというのだ。 
 荒い息に遮られ、恨み言が形になることはない。せめてもの反抗にと、芦雪は守信を睨みつける。彼は、「あぁ、怖い怖い……」と悪びれもせず両手を挙げた。
「私はお前に嘘は言わない。試しに力を使って絵を描いてごらん。何でもいいよ」
 守信が人差し指で宙に円を描けば、二人が座る地に、紙と筆が現れた。
 腹の上に手を当てられ、抵抗できないほどの快感を与えられただけで、直霊なおひの力が安定することなぞ、あるはずがない。芦雪は既に、守信に対し嫌悪しか抱いておらず、素直に彼の提案に乗ることさえ癪に障った。だが、提案に乗り失敗すれば、それはそれで「ほら見た事か」と仕返しする口実になるやもしれない。
 芦雪は渋々、用意された筆を手に取ると、常のように紙面へ筆先を走らせた。
(自分があまりに無力だと思ったのは、後にも先にも今日だけだ。すぐにでも力が……あのくそったれに反撃できるだけの力が欲しい……!)
 純粋な怒りから湧く真摯な願いが、芦雪の手を一心不乱に突き動かした。
 力強く引かれた墨の線は、画面に満々と広がり、かの走獣の姿を映し出す。
 凛々しい目つきに、均整の取れた肢体。尖鋭さを和ませるように、やわく垂れた口元。竹林に雄々しい身を横たえ、じっと見据えた先で、何を射抜いているのだろう。
 ——あぁ、これだ。この感覚だ。芦雪は口端を引き上げる。一息に魂の器を描ききり、筆を置く間もなく叫んだ。
「山吹!」
 生みの親の声に、絵中の獣ははなだの光輝を放った。それは墨で形作られた肢体を瞬時に赤錆色のもやで覆い、地を這う低い鳴き声とともに絵中から飛び出した。
 赤みを帯びた黄橙と、黒色の帯を差した見事な毛並みが芦雪の視界を一閃する。芦雪の手によって器を得た四魂は大きく口を開き、赤い口腔を見せつけながら獲物に牙を剥いた。
「おや。これはまた、随分と勇猛な虎の四魂だな」
 小夜衣さよごろもを羽織った闇が小さく震える。束の間、何かを弾いた音が、耳朶を強く叩いた。
「はい、残念。この私に勝とうだなんて、百年早いよ」
 守信へと放った虎の四魂は、彼が宙に描いた墨の一閃によって弾き返されていた。狙った獲物を逃した虎は地に転がるが、瞬時に体勢を立て直し、獲物に向けて唸り声をあげる。
「……山吹、もういい。戻れ」
 芦雪に名を呼ばれ、山吹は狭い眉間に皺を滲ませる。男を見据える視線には尖鋭を宿したまま素直に後退し、芦雪の手に頬を擦り寄せた。
 可愛らしくも美しい、日ノ本で見ることは叶わない異国の獣。その豊かな毛並みを撫でてやりながら、芦雪は振り返った。
 やはり、守信は飄々とした様子で二人を眺めている。音の外れた鼻歌を歌いながら、手にした筆を器用に回していた。
「……ちっ」
「あ、眞魚まおちゃんったらお口が悪い」
「ほっとけ」
 皮肉と悔しさを込めた一音が漏れる。同時に、芦雪の胸裡では安堵の色が滲んでいた。
(まだもやは出ているが……。それ以外は問題ない。俺の願いもめいも、ちゃんと届いてる。本当に安定したのか……)
 どうやら、守信の言葉とあの一連の行為には、明確な意味があったようだった。
「山吹、助かった。もう絵の中に戻って大丈夫だよ」
 絵中へ戻れと指示を出せば、かの獣はめいに疑問を持つこともなく、紙面へとその身を沈ませた。辺りには再び静けさと闇が広がり、地には虎の絵だけが残されている。遠くを見据えるはずの金の瞳は、星々のように燦々と輝き、暗色に濡れた芦雪の心を照らしていた。
「ほらほら。この私が、可愛い眞魚まおに嘘をつくわけがないだろう」
 いつしか隣に立っていた守信は、芦雪の頬を指でつつく。それがより癪に障り、芦雪は蝿を払うかの如く、手で邪険に払う。守信はそれに憤慨することもなく、再び口を開いた。
「もやが出てるのを気にしてるみたいだが、それは正常だから安心しなさい。直霊なおひの力が強い絵師の特徴だから。お前の場合、三椏みつまたの花の四魂の影響で力が抑えられていたから、もやが出ていなかっただけだ」
「……ということは、俺も元の直霊なおひの力は強いのか?」
「当たり前だ。なんせ、お前は私なんだからな」
 何故か誇らしげに胸を叩きながら、守信は続けた。
「ただ、まだ力は安定しきっていないから、本領発揮とまではいかない。あと数回は、先刻のように魂の擦り合わせが必要になるな」
「は? 先刻のあれをまだやるのか?」
「そうだ。良かったな、私とまた気持ち良いことができるぞ」
「全く良くないが?」
 芦雪は瞬時に否定し、眼前の自分とやらを睨みつける。一方、守信は悪戯が成功したことを喜ぶ幼子さながらに、満足気に笑みを深めていた。
 不意に、守信の身体が霞む。周囲の闇さえも白色を差し、灰に濁っている。芦雪が目を擦っていると、守信は苦笑交じりに眉尻を下げた。
「……そろそろ時間だな。今日はここまでだ」
 ——ようやく夢から解放される。守信と言葉を交わすのは、二度と御免である。早々に目を覚まし、夢の内容ごと忘れてしまいたい。芦雪は、そう思わずにはいられなかった。
 男はそれを見透かしたのか。朽葉色の双眸を細め、艶を帯びた唇を開いた。
「……あぁ、そうそう。言い忘れていたが。母屋の居間にある鶺鴒せきれいの絵、松乃の部屋にある白鳳凰の絵、あとは勝手口に繋がる六畳間の襖絵。あれ、私が描いた絵なんだ。私の四魂が宿ってるから、眞魚まおも使役できる。今度試してみなさい」
 何故、唐突に守信の絵が出てくるのか。そして彼の……芦雪の絵が流屋に飾られているというその意味も、とんと見当もつかない。
「守信。お前は、一体……」
 闇に身の淡いを委ねる男に向け、手を伸ばす。二人を隔てるものは何もない。守信は目の前に掲げられた芦雪の手に己が手を重ね、指を絡ませた。
「私はお前で、お前は私だ。かつて自由を望み、そうあれなかった私の姿。……もう、何にも縛られなくて良い。我慢しなくて良い。心のままに絵を描け、眞魚まお
 あわせ鏡のように触れた温もりが、儚く解けていく。もう一人の己が芦雪の問いに答えることはなく、慈愛と悲哀が入り混じった弧を唇に宿したまま、姿を消した。