第十一筆「夢幻」
──ひとに抱きしめられるというのは、かように胸が苦しくなるものなのか。
真綿でゆっくりと、喉が締め付けられていくような。けれど、包まれる腕から伝わる甘やかな痺れを、心地良いと思ってしまうような。
相反する不可思議な感覚は、
「写、楽……殿……」
藤仁、と名を呼びそうになるのを堪え、芦雪は彼の胸元をそっと押し返す。己の声が震えていないか、それだけが心配だった。
やわい力を受け、甘い拘束が緩やかにほどける。芦雪が顔を上げれば、
(いっそ、もう一度……)
芦雪は、柳色の布地に爪を立てる。二人の視線を隔てる白い布が、ひどくもどかしい。 薄絹に指をかけ、取り払ってしまうことは簡単だ。だが、顔があらわになったその時、写楽との今までの関係は、砂のように脆く、儚く、風に連れ去られて消えてしまうだろう。
刹那、息を飲む音が、かすかに芦雪の耳端を掠めた。
「……っ、失礼、いたしました……!」
写楽の慌てぶりは凄まじかった。彼は芦雪を膝上から下ろして隣に座らせると、謝罪とともに平伏したのだ。
「夢を……見ていて……。君……いえ、貴殿が私の前からいなくなってしまう、夢を……。申し訳ございません、とんだご無礼を……!」
近頃になって、ようようやわく解けていた言葉遣いは、再び他人行儀なものへと戻っている。越えようとしていた境界が亀裂に変わったように思えて、言いようのない不安と悲哀が芦雪を襲った。
(お前を
芦雪は焦燥を握る掌を開き、写楽の両頬に添えた。
「芦、雪……殿……?」
「……っ」
芦雪は衝動とも言うべき激情に飲まれ、写楽を抱きしめた。永遠のように感じられた先刻の刹那よりも、強く。
「……!? な、何を……!」
「……大丈夫。俺はここにいるから」
──お前が俺から離れていくことはあっても、俺がお前から離れていくことはない。
ただ、写楽を安心させるように。幼子を宥めるように、芦雪は広い背を優しくさする。写楽は初めこそ腕の中で身動いでいたが、やがて恐る恐る、芦雪の背中に腕を回した。
「ふふ。写楽殿でも、寝ぼけてしまうことがあるんだな」
「それが……その……はい……。お恥ずかしい話、私は寝ぼけ癖が酷いようで……。その上、しでかしたことを覚えていないものだから、よく妹にも叱られるんです……」
写楽は、今にも消え入りそうな声で白状する。今しがた芦雪を抱きしめたことも、あの艶事紛いの出来事も。彼は何一つ覚えていない。明確な意志も理由もなく、ただ彼の本能が為したことなのだ。随分と、
己への呆れを呼気にまとわせ、芦雪は写楽から腕を離して言った。
「……写楽殿にも、妹がいるんだな。藤仁と一緒だ」
「……はい」
眼前の男と藤仁の共通点をわざとらしく指摘してやったが、本人にその意地悪は届いているのだろうか。肯とも否とも取れぬ、曖昧に濁した一言が返され、話は打ち切られた。
「……芦雪殿。お久しゅうございます」
「そうだな、久しぶり……と言っても、半月ぶりだが」
「ひと月の間違いです」
同じような会話を松乃ともしたなと芦雪は苦笑したが、写楽は不満そうだ。形の良い唇をすぼませ、顔を庭へと背けてしまった。
「笑い事ではありません。ただ庵で待つばかりの私は、幾年もの歳月を感じましたよ」
「おおげさだな。すまない、少し……奉公で忙しくてな。文でも送ればよかったかな」
写楽と同様に、真実を口に出すこともできない。芦雪はへらりと形の崩れた笑みを浮かべ、写楽の顔を覗き込んだ。
「写楽殿こそ、うたた寝とは珍しいじゃないか。尋夢庵の仕事が忙しいのか? 無理はするなよ。なんなら、今日は出直そうか……」
写楽の正体である藤仁も、近頃は端午の節句に向けた絵の納品が重なっていた。画室の襖の隙間から、遅くまで明かりが漏れていたのを、芦雪は知っている。
流屋の筆頭絵師としての生活、ひいては尋夢庵の主としての二重生活は多忙だろう。飯を頑なに口にしようとしなかったのは、食べるのが面倒だったのではなく、食べる暇がなかったからなのだと、ようやく腑に落ちた。
(帰宅したら、藤仁の納品予定を見直そう。断れそうな依頼も切っておかないと……)
誰にも隙を見せぬ藤仁が、尋夢庵でとはいえ、うたた寝していたのだ。彼の身体が悲鳴をあげ始めているのは明白だった。
芦雪が縁側から立ち上がれば、行く手を阻むように手首を強く掴まれた。
「大丈夫です。ちゃんと休めておりますよ。今日はたまたま……お昼寝日和だったので。それに、明後日で大きめの納品が終わりますし、しばらくはのんびり過ごせそうです」
「……本当に?」
「本当です。嘘をついているように見えますか?」
──現に、写楽は藤仁だという大きな嘘をついているじゃないか。
喉元まで這い上がるそれを到底口にすることもできず、芦雪は結局「……見えないよ」と小さな嘘を重ね、再び縁側に腰を下ろした。
それから、二人で他愛もない話をふたつ、みっつと交わし、おやつに舌鼓を打って過ごした。常と変わりなく、ただ穏やかに。
茜色に染まる空の下で帰路につきながら、芦雪は肌守りを握らずにはいられなかった。
(写楽の時は楽しそうに笑うのに、どうして藤仁の時は途端に……俺に素っ気なくなるんだ……?)
藤仁の姿をした写楽と、写楽の姿をした藤仁。一体、どちらが本当の「彼」なのだろう。
芦雪の胸裡には、疑念と暗鬱とした陰が渦巻いていた。
ぬばたま色が一面に満ちている。月が支配する闇夜を思い起こさせるが、かの空には星月ひとつ浮かんでいない。深く濃い陰が、果てなく広がっているだけだ。
不可思議な虚空にひとり、芦雪は地に腰を落ち着けていた。
(夕方に尋夢庵から帰って、お松と飯を食べて、湯屋に行って、それから……藤仁と顔を合わせないように早々に寝支度をして……寝たはず……)
夜着を引き被った記憶はある。つまり、これは夢だ。しかし、こうも意識が明瞭とした夢は珍しい。いつにも増して奇妙にも思える。
藤仁と写楽のことを思い悩むあまり、かような夢を見ているのだろうか。
「この夢……。いつになったら覚めるんだ?」
手持ち無沙汰で、なんともつまらない。芦雪はその場に寝転んだ。視界にはやはり、宵闇が満々と広がり、星明かりは身を潜めていた。
「そう寂しいことを言うな」
軽快な声音が、光芒を引いて降り注ぐ。墨に一筋の朽葉色を差したような長い黒髪が、闇を孕んで軽やかに揺れた。
「こうして夢の中で
幼名を呼ばれ、芦雪は思わず半身を起こした。妖しい艶を身にまとう青年と、視線が交わる。歳の頃は芦雪より少し上だろうか。
肩下まである長い髪は縛られておらず、色のない空間に一筋の光艶を与えている。朽葉色の瞳に恐れや不安と言った面持ちはなく、堂々と芦雪を見据えていた。
薄い唇はやわく弧を描き、口元の
「誰だ……?」
芦雪が怪訝に思いながらも問えば、青年は胸元を叩き、自信に満ち溢れた様子で述べた。
「私はお前で、お前は私だ。お前が生まれた時から、私たちは一蓮托生の仲さ。また忘れてしまったのかい?」
「また……?」
また忘れた、の真意を咀嚼できず、芦雪は小首を傾げる。生憎と、青年に覚えはない。言葉を交わした記憶も、人生で同じ時を重ねた思い出さえも、何一つ。
しかし、彼は大仰に両腕を広げるばかりで、芦雪の疑問に明確な解を示さなかった。
「お察しの通り、ここはお前の夢の中。この私、
自らを守信と名乗った青年は、芦雪の隣に鷹揚に腰を落ち着ける。身動ぐ芦雪をよそに、滔々と話を続けた。
「
守信は、おもむろに芦雪の頬に手を伸ばした。存在を確かめるように、男の指先が芦雪の唇をなぞる。時折漏らす、すすり泣きに似た音がわざとらしい。
だが、こうして触れられても、芦雪の本能の警鐘は鳴りを潜めている。奇妙な懐古感が、逆立つ思考の細波をなだめていた。
「なぁ。俺はお前に……守信にこうして何度も会っているのか?」
「そうだよ。お前が生まれた時から五歳ぐらいまでの間と、あとはここ最近……。そう、ちょうど
守信は素直に答える。彼の口は淀みなく動き、芦雪に触れる手も止まる気配はない。飽きもせず、今度は両手で頬を挟んで、弾力を楽しむかの如く揉み始める。
「あの……、もりのぶ?」
「あははっ、お前は相変わらず可愛いねぇ」
「俺は玩具じゃないんだが」
頬に這う感触を引き剥がそうと芦雪は手を伸ばしたが、それは空を切った。守信が何かを思い出したように声を上げ、芦雪の頬を解放したのだ。
「あぁ、そうだ。夢の中ではないが、
しみじみとした様子で守信は語ったが、芦雪は薄く口を開いたまま、微動だにできない。
(なんで……二人のことを知っている……?)
見知らぬ男の口から、松乃と藤仁の名が紡がれ、そればかりか身に覚えのない過去までも告げられて、芦雪の思考は混乱を増す。
守信を見つめても、彼は笑みを深めるだけだ。彼の耳にかかる髪は静かにこぼれ、さ迷う芦雪の視線を弄ぶ。朽葉色の双眸に欺瞞はなく、ただ慈愛のみが滲んでいた。
(守信の言う通り、彼はもう一人の俺……というか、普段は心の奥底で眠っている俺なのかもしれない。本当に
故に、兄妹を知っている。正しく、彼は「芦雪」なのだから。
一方、守信は、先刻まで噺家にも似た口上で言葉を放っていたというのに、今は静かに芦雪を見つめている。真摯に、言葉なく注がれる雄弁な眼差しに、やはり何故か、藤仁の顔がよぎった。
「……なぁ、
「な、なんだ……」
「あの男……藤仁のことだが……」
脳裏に浮かべていた者の名を出され、芦雪の肩は不自然に跳ねた。
(もう、あいつの事を考えるのはやめろとでも言うつもりか? それとも、距離を置けとか……? いっそ、流屋を出ろなんて言うんじゃ……)
藤仁が写楽だと知ってから、芦雪が彼らに抱く感情の輪郭は、曖昧に溶け始めている。藤仁に対して向け始めた想いも、写楽に感じていた温かな友情も、全てが水墨のように滲みを増している。筆先は行き先を見失い、その場に墨滴を落としてたたらを踏んでいた。
しかし、目の前には本心のような存在が形を成して立っている。これから彼が告げようとしている言葉が、己が望む明確な答えになるのではないだろうか。
芦雪は固唾を呑み、守信が放つ
「藤仁は……」
「ふ、藤仁は……?」
「性格といい、顔といい、私の好みじゃないから、
「余計なお世話だ」
守信の助言を、芦雪は息つく間もなく両断した。
(確かに、あいつは無愛想だし、笑わないし、口は悪いし、俺に隠してずーっと写楽としてそばにいて、にこにこしながら自分の愚痴を聞いていたような男だ。何を考えてるのかもさっぱり分からない……)
これまで目にした藤仁を、ひとつ、ふたつと思い返す。静かに煮える情念は、いつしか芦雪の掌中に爪先を食い込ませていた。
(けど……けど! ふとした拍子に見せる微笑だとか、絵を真剣に描く横顔、優しさを隠そうとする不器用さ、己に無理を強いてでも、人々に心を砕く姿……。その藤仁の全てが、愛しいと思うんだ……。なのにそれを、『私の好みじゃない』と切り捨てたり、『好い仲になるのはやめた方が良い』と断言してしまうなんて、この俺がするわけが……)
どうどうと、滝の如く落ちゆく思考が止まる。芦雪は顔を上げた。
「……は?」
「ん? どうした?」
「……いや、なんでも」
口を片手で覆う。己の本心とも言うべき者との口論で自覚することになるとは、一体誰が予想しただろう。芦雪は、自嘲の混じった笑い声をくつくつと漏らした。
(結局、答えなんて初めから出てるじゃないか。俺は、どう足掻いたって……)
──藤仁が好きなんだ。
彼は男で、弟分で、友とも言うべき存在だ。それら全てを鑑みても、体内に宿る想いは熱を持ったままだった。
藤仁に笑って欲しい。藤仁に振り向いて欲しい。藤仁に構って欲しい。だからこそ、両手では足りないほどの悪戯を仕掛けた。
(俺は……あいつの全てが欲しい……。藤仁に愛情を注ぐのは、俺だけであって欲しい)
純粋な願いのようで、身勝手な欲望。これはただの男、弟分、そして友に向ける感情ではない。ひとつひとつ、丁寧に積み上げてきた想いに。目を背け続けてきた想いに、恋情という明確な名がついた瞬間だった。
夢から醒めても、この想いで溢れていたなら。いっそ、思いの丈を伝えてしまおうか。
(そんなこと……できるわけがない……)
単純な己に反吐が出た。身に余る衝動で、彼を困らせたくはない。
心優しい藤仁のことだ。一縷の哀れみから、芦雪の想いに応えようとする可能性もある。
そもそも、男から思いの丈を伝えられて何になる。己だけの感情を、藤仁の重荷にしたくはない。今の関係性に、亀裂を入れる刃にだけはしたくなかった。
(……そうだな。もし、俺が奥絵師になれたら……。もしくは、京へ戻ることになったその時に……伝えよう)
想いを伝えるのは、藤仁に別れを告げる時だけでいい。それまでは、内に秘めたままで。
これまで偽りで着飾っていた芦雪の唇は、いつしか心からの弧を描いていた。
「おい、
「なんでもない。……大丈夫だ」
朽葉色の瞳が、芦雪を見透かすかのように見つめている。理由は定かではないが、彼は藤仁のことが気に食わないのだろう。
芦雪は笑ってその場を誤魔化すと、話の矛先を変えるべく、守信に問いかけた。
「守信は、どうして俺に会おうなんて思ったんだ?」
芦雪の真意を汲み取ったのか、はたまた藤仁の話が打ち切られたことに不満を覚えたのか。守信は目を細め、芦雪を恨みがましく睨めつけながら答えた。
「……会おうと思ったんじゃない。会えるようになったんだ。近頃は邪魔もなかったし」
彼はやれやれと両手を上げ、肩を竦めて見せる。
「確か、写楽という名の絵師だったか。お前が持ってる
脈絡もなく出た、己がよく知る者の名。藤仁のもう一つの姿の名に、芦雪は首を傾げる。
持病の発作を抑える薬を入れた
──この
きつく肩を掴まれ、小さな手に握らされたのを、芦雪は今でもよく覚えている。記憶違いでなければ、芦雪が五つを迎える年だった。写楽は藤仁なのだから、二つ下である彼、当時三歳になるはずの藤仁に、精巧な
ならば
「それに、
芦雪の強すぎる願いが呪いと化し、歪んだ欲によって生み落とされた
そもそも、
芦雪は疑念を宿した目を守信に向ける。彼は、何故か気まずそうに顔を背けた。
「まぁいい。またお前に会えるようになったんだ。前みたいに、たくさん話をしよう」
守信は長い前髪をかき上げ、へらりと芦雪に笑いかけた。
この仕草と笑い方は大抵、困った時や何かを隠したい時にするものだ。芦雪自身の癖であるがゆえに、もう一人の芦雪だと称する守信の心が、手に取るように分かった。
それはまた、逆も然りのはずだ。藤仁のことを深く聞いてこなかったのも、守信も配慮したのだろう。自身にも、聞かれたくないことがあるがために。
芦雪は、小さく息を吐きながら、「そうだな……」と頷いた。
奇妙な沈黙が二人の間を流れる。が、守信が両手を合わせて軽快な音を鳴らしたことで、場はすぐに男の声で満ちた。
「そうだ、絵を描こう。絵師は絵で語り合うものだからな。ここは夢の中なんだから、
「それは……。いや、今は……描けない……」
何が描けないのか。守信はすぐさま意味するところを察し、隣に座る芦雪に肩を寄せた。
「あぁ、そうか。お前、流屋で奉公するようになってから、
「うるさいな。俺だって理由を知りたいんだ。知ってるなら、むしろ教えろ」
あまりに馴れ馴れしい守信の言葉が癪に障り、芦雪は乱雑に言い返した。
花見の日以来、芦雪は絵に四魂を宿すことができないでいる。
元より、江戸に来て藤仁と松乃に出会ってから、何故か
以来、四魂が宿る絵をいくら描こうとも、上手く制御ができない日が続いた。主である芦雪の命を聞かないのだ。
それを相談しようと藤仁を花見に誘った矢先、無意識に四魂の絵を描いた結果があれだ。
藤仁を傷付けた事実が芦雪の中で大きな悔恨となり、四魂の宿る絵を描けなくなったというわけである。
ただ、模写や写生であれば、四魂を宿すことなく絵が描ける。手本となる絵に集中するため、四魂の源となる己の願いや他者への祈りが、描く絵に入り込まないからだ。御用絵試の準備に際しては、そちらに専念しているのが現状だった。
しかし、御用絵試で与えられる試験は、写生だけではない。手本もなく、ただ発想だけで自由に絵を描くものもある。力を操れないまま絵試に出れば、周りに被害を及ぼすのは火を見るより明らかである。
芦雪はこめかみに指を添え、痛みを訴える部分を揉んだ。
「な、
芦雪の耳を、密やかなさえずりが食む。今はそれが煩わしく、芦雪は守信に背を向けて座り直した。
「こっち向いて」
「やだ」
「どうして?」
「お前が嫌いだからだ」
「また癇癪を起こして。遅めの反抗期か? 仕方のない子だな。……よいしょっと」
「うわあっ!?」
軽快な掛け声とともに、守信は芦雪の腰を引き寄せ、自らの膝上に座らせる。芦雪のものよりも幾分肉のついた腕が背後から回り、芦雪を包むようにして抱きすくめた。
「ふふ。大きくなったなぁ……。前は胡座をかいた膝の中に入る大きさだったというのに。……腰は細いままだが」
芦雪の肩口に顎を置き、守信は吐息混じりに囁く。そして何を思ったか、彼は芦雪の頬に軽く口付けた。やわい感触が頬を撫で、怖気が芦雪の背筋を舐める。
「気持ち悪ぃな! やめろ!」
「ひどいな。昔はあんなに可愛がってやったじゃないか。頬への口付けも声を上げて愛らしく喜んでたし、私の頬にもし返してくれたのに」
「覚えてない!」
芦雪は守信の顔を両手で押しのけ、口付けられた部分を袖口で拭く。強く擦りすぎたせいか、夢の中だと言うのに、乾いた痛みが頬を走った。
腕の中から逃れようと、芦雪は身を捩ってもがく。しかし、守信の方が上背があるために抗いきれず、無駄な抵抗に終わってしまった。
「は・な・せ!」
「やだよ。離したら逃げてしまうじゃないか」
「当たり前だ!」
手足をばたつかせようと、守信にとってはじゃれ合いのようなものだ。芦雪は再び膝上に引き戻され、背後から音もなく両手首を掴まれた。
「な、何を……!」
「まぁまぁ」
自由が残った足で芦雪は反旗を翻そうとするが、空を蹴るばかりで何の意味もない。守信は鼻歌交じりに、空いた片手で芦雪の衿元を割け入り、中へ忍び寄った。
人肌の温もりのない手が、腹の上を這う。慣れない感覚が頭の中を伝い、芦雪は半ば叫ぶようにして声を上げた。
「……っ、ちょっと、おい!」
「暴れるな。今、お前の中を見てるんだから」
「中ぁ!? やめろ勝手に見るな! 触るな!」
「藤仁と情を交わしかけた時は、借りてきた猫みたいに大人しかったのになぁ……。良い子の
「何言って……っ、う、あ……!?」
耳端に、喜色に濡れた声が落ちて。痺れるような快感が全身を巡る。
別れていたものが腹の中でひとつになっていく、奇妙な感覚。肉を摘まれたわけでも、捻られたわけでも、ましてや傷つけられたわけでもない。下腹に手を当てられただけだ。
だというのに、芦雪の身体の内側では、どうしようもなく甘い悦楽が駆け巡っている。
「あ……っ……は、ぁ……!」
「
芦雪の中を、ふたつの塊が擦れ合う。その摩擦が快楽を生み落とし、身体の感覚を狂わせていた。小刻みに震える芦雪の腹を、男の手が穏やかに撫でる。生まれようとする何かを、慈しむかのように。
「んっ……く……、ふ、っ……」
「いい子だな。……そう、私の形を覚えて。お前と私がひとつになるために必要なことだから。……どうした、随分と物欲しそうな顔をして。口吸いでもしてやろうか?」
「変、な……こと……言う、なぁ……!」
歪んだ笑みが、芦雪の唇の前で止まる。芦雪の反応を見て、愉悦に浸っているのは明白だ。悔しさと快感に溺れ、芦雪の視界は涙で滲む。しかし、強く掴まれた手首が解放されるわけもなく、芦雪の快楽への抵抗の声が、ただ
「んぁっ……! あぅ……ん……っ……」
「ふふ。いい子、いい子。上手だね。ようやく、私たちがひとつになれそうだよ」
守信の言葉通り、腹の中で絡み合っていた塊は徐々に摩擦を減らすと、隙間もなく重なり、ひとつの塊に変化していった。男は芦雪の頭に頬を擦り寄せ、ただ笑んでいた。
やがて、腹中の蠢きが収まる。身体がようよう弛緩し、芦雪は肩で息を放ちながら、背後の肩口へとしなだれかかってしまった。
「はっ……はぁ……、んっ……。は……」
「……うん。今日はここまでにしようか。よく頑張ったね、
汗で張り付いた前髪が、そっとかき分けられる。露わになった芦雪の額に、守信は軽い水音を落とした。
「お、前……。……おれに……何、を……」
芦雪は残った気力を拳に込め、守信の胸元に叩きつける。しかし、腹中に残る甘い痺れが力を吸い取り、ひどく弱々しい反撃にしかならなかった。
守信は幼子の癇癪をあやすように、甘んじてそれを受け止めて言った。
「
「うるっさい……」
「ふふ。否定しないんだな。ま、魂同士の触れ合いは、言わば裸で睦み合うのと同義だ。気持ち良いと思うのは当然のことだよ」
──誰が、お前なんぞと好き好んで睦み合うというのだ。
荒い息に遮られ、恨み言が形になることはない。せめてもの反抗にと、芦雪は守信を睨みつける。彼は、「あぁ、怖い怖い……」と悪びれもせず両手を挙げた。
「私はお前に嘘は言わない。試しに力を使って絵を描いてごらん。何でもいいよ」
守信が人差し指で宙に円を描けば、二人が座る地に、紙と筆が現れた。
腹の上に手を当てられ、抵抗できないほどの快感を与えられただけで、
芦雪は渋々、用意された筆を手に取ると、常のように紙面へ筆先を走らせた。
(自分があまりに無力だと思ったのは、後にも先にも今日だけだ。すぐにでも力が……あのくそったれに反撃できるだけの力が欲しい……!)
純粋な怒りから湧く真摯な願いが、芦雪の手を一心不乱に突き動かした。
力強く引かれた墨の線は、画面に満々と広がり、かの走獣の姿を映し出す。
凛々しい目つきに、均整の取れた肢体。尖鋭さを和ませるように、やわく垂れた口元。竹林に雄々しい身を横たえ、じっと見据えた先で、何を射抜いているのだろう。
──あぁ、これだ。この感覚だ。芦雪は口端を引き上げる。一息に魂の器を描ききり、筆を置く間もなく叫んだ。
「山吹!」
生みの親の声に、絵中の獣は
赤みを帯びた黄橙と、黒色の帯を差した見事な毛並みが芦雪の視界を一閃する。芦雪の手によって器を得た四魂は大きく口を開き、赤い口腔を見せつけながら獲物に牙を剥いた。
「おや。これはまた、随分と勇猛な虎の四魂だな」
「はい、残念。この私に勝とうだなんて、百年早いよ」
守信へと放った虎の四魂は、彼が宙に描いた墨の一閃によって弾き返されていた。狙った獲物を逃した虎は地に転がるが、瞬時に体勢を立て直し、獲物に向けて唸り声をあげる。
「……山吹、もういい。戻れ」
芦雪に名を呼ばれ、山吹は狭い眉間に皺を滲ませる。男を見据える視線には尖鋭を宿したまま素直に後退し、芦雪の手に頬を擦り寄せた。
可愛らしくも美しい、日ノ本で見ることは叶わない異国の獣。その豊かな毛並みを撫でてやりながら、芦雪は振り返った。
やはり、守信は飄々とした様子で二人を眺めている。音の外れた鼻歌を歌いながら、手にした筆を器用に回していた。
「……ちっ」
「あ、
「ほっとけ」
皮肉と悔しさを込めた一音が漏れる。同時に、芦雪の胸裡では安堵の色が滲んでいた。
(まだもやは出ているが……。それ以外は問題ない。俺の願いも
どうやら、守信の言葉とあの一連の行為には、明確な意味があったようだった。
「山吹、助かった。もう絵の中に戻って大丈夫だよ」
絵中へ戻れと指示を出せば、かの獣は
「ほらほら。この私が、可愛い
いつしか隣に立っていた守信は、芦雪の頬を指でつつく。それがより癪に障り、芦雪は蝿を払うかの如く、手で邪険に払う。守信はそれに憤慨することもなく、再び口を開いた。
「もやが出てるのを気にしてるみたいだが、それは正常だから安心しなさい。
「……ということは、俺も元の
「当たり前だ。なんせ、お前は私なんだからな」
何故か誇らしげに胸を叩きながら、守信は続けた。
「ただ、まだ力は安定しきっていないから、本領発揮とまではいかない。あと数回は、先刻のように魂の擦り合わせが必要になるな」
「は? 先刻のあれをまだやるのか?」
「そうだ。良かったな、私とまた気持ち良いことができるぞ」
「全く良くないが?」
芦雪は瞬時に否定し、眼前の自分とやらを睨みつける。一方、守信は悪戯が成功したことを喜ぶ幼子さながらに、満足気に笑みを深めていた。
不意に、守信の身体が霞む。周囲の闇さえも白色を差し、灰に濁っている。芦雪が目を擦っていると、守信は苦笑交じりに眉尻を下げた。
「……そろそろ時間だな。今日はここまでだ」
──ようやく夢から解放される。守信と言葉を交わすのは、二度と御免である。早々に目を覚まし、夢の内容ごと忘れてしまいたい。芦雪は、そう思わずにはいられなかった。
男はそれを見透かしたのか。朽葉色の双眸を細め、艶を帯びた唇を開いた。
「……あぁ、そうそう。言い忘れていたが。母屋の居間にある
何故、唐突に守信の絵が出てくるのか。そして彼の……芦雪の絵が流屋に飾られているというその意味も、とんと見当もつかない。
「守信。お前は、一体……」
闇に身の淡いを委ねる男に向け、手を伸ばす。二人を隔てるものは何もない。守信は目の前に掲げられた芦雪の手に己が手を重ね、指を絡ませた。
「私はお前で、お前は私だ。かつて自由を望み、そうあれなかった私の姿。……もう、何にも縛られなくて良い。我慢しなくて良い。心のままに絵を描け、
あわせ鏡のように触れた温もりが、儚く解けていく。もう一人の己が芦雪の問いに答えることはなく、慈愛と悲哀が入り混じった弧を唇に宿したまま、姿を消した。