第十筆「白日」

「では、私は一旦、絵屋の方に寄りますので、ここで失礼いたします」
「あぁ。今日も長い時間、ありがとうな。楽しかったよ」
「こちらこそ。また尋夢庵でお待ちしております」
 流屋の裏口に辿り着くと、芦雪ろせつと写楽は慣れた文句を互いに口にし、手を振って別れた。
 戸の向こう側に溶けていった背を見送り、芦雪はようやく人心地がついた。
(御用絵試の話題で、一時はどうなることかと思ったが……。結局、あの後はいつもの写楽殿に戻って良かったな)
 春の陽光に似たやわい声音が、御用絵試の話題ひとつで、凍てつく吹雪の如く温度をなくした。理由は定かではないが、写楽が絵試に対し好感を抱いていないことが見て取れる。
 今後、彼の前で絵試の話題は出さぬ方が、芦雪の身のためだろう。これもまたひとつ、写楽の一面を知る良い機会だったと思う他あるまい。
 芦雪は掌中の紙袋を持ち直し、重い足取りで母屋の回廊に足を踏み入れた。
 勝手口から母屋へと入り、土間とひかえの間を通り抜けて薄暗い廊下へ出る。画室の前を通り過ぎ、真っ直ぐに進めば、晴れて自室に到着である。
 芦雪が自室の襖に指をかけた時、写楽の過去の声音が思考の水面を揺らした。
(そういえば、お松と話した後に藤仁にも話があると言っていたな。……お松にきんつばを届けるついでに、先に藤仁に声をかけておくか)
 藤仁は、一度筆を握ったが最後、集中力が切れるまで絵に向き合い続ける男だ。いくら親しい写楽が部屋へ訪ねてきたとて、絵を描いている最中であれば、筆を離すとも限らない。予め芦雪が声をかけておき、藤仁を写楽のいる絵屋の方へ向かわせておく、もしくは藤仁が今作業中である旨を写楽に伝えた方が、写楽の手も煩わせずに済む。
 芦雪は襖にかけた指を下ろすと、画室に向かった。
「藤仁。いるか?」
 静謐を保つ画室の前に座り、藤仁の名を呼ぶ。案の定、返答はない。普段通りで、逆に清々しさすら覚える。
「藤仁ー。芦雪兄さんが帰ったぞー」
 冗談を織り混ぜつつ、もう一度、部屋の主の名を紡ぐ。しかし、結果は変わらずだった。
 数瞬の間をもって、部屋に人の気配が無いことに、芦雪はようやく気が付いた。
 襖の縁に指を滑り込ませ、隙間から中を覗く。物が少なく、生活感のない部屋に見慣れた男の姿はない。床板には茜色の光が滲み、部屋の静寂をより侘しいものにしていた。
(珍しいな。自室にでもいるのか?)
 芦雪は襖を再び閉めて立ち上がると、今度は藤仁の自室へと向かう。念の為、同様に声を投げるが、望んだ者の返事はない。
「藤仁、開けるぞ」
 許可を述べる声が、芦雪の耳を打つことはない。襖を開けた先で芦雪を出迎えたのは、もぬけの殻になった八畳部屋だった。
 絵道具も出された形跡はなく、塵一つ見当たらない。藤仁の性格を如実に表すように、部屋は綺麗に整えられていた。
(出かける予定も特に聞いていないが……。散歩にでも行ってるのか?)
 写楽には面倒をかけてしまうが、出直しの可能性が出てきた。それを彼に伝えようと、芦雪が早々に襖を閉めようとした時のことだった。
「あれ……?」
 障子窓の下に置かれた、小さな文机。その上に端座するものに目を吸い寄せられる。
 翠玉のような千歳緑の光艶が、視界をやわく覆う。芦雪は部屋に足を踏み入れ、文机の前に腰を落ち着けてから、机上に置かれたそれを手に取った。
(なんで藤仁の部屋に……俺の髪紐があるんだ……?)
 芦雪が目をとめ、思わず手にしてしまったもの。それは、かつて絵の報酬として写楽に渡したはずの芦雪の髪紐だった。
 一瞬、よく似た別のものだろうと考えもした。しかし、日ノ本由来でない手触りや、宝石の欠片を編み込んだような独特な艶めきは間違えようがなかった。
 ——確かに、少し珍しい髪紐ではあるけど……。この絵に比べれば安価なものだぞ? いいのか?
 ——はい。私は、この髪紐が良いのです。
 ふた月前、尋夢庵で行き交ったやり取りが、思考の湖面にさざ波を起こす。
 髪紐を受け取り、布地の表面を優しく撫でて微笑む写楽の姿が、昨日の事のように思い出された。
 写楽に渡したはずの髪紐が、藤仁の部屋にある。それが意味する事実を、芦雪は読み解けないでいた。
(写楽殿が流屋に来た時にでも落として……それを藤仁が拾った、ということだろうか。もしかして、今日藤仁に用があるというのはこれを取りに来た……?)
 懐かしい感触に指を添え、芦雪は小首を傾げる。丁寧に畳まれた髪紐を開けば、藤仁のこうの香りがたった。一筋の熱が頬に走り、香りは芦雪を揶揄からかうように、鼻先をくすぐる。
「芦雪?」
 鼓動が、耳奥で強く響く。低く、また艶を宿す呼び声に振り向けば、探し求めていた者の姿がある。男の眉間には皺が寄り、夕景の光を受けて、陰をより深く刻んでいる。
「っ、藤仁……」
「なんだ、何か用か?」
 芦雪は、手にした髪紐を咄嗟に後ろ手に隠し、慌てて口を開いた。
「……と……。写楽殿がお前に話があると……。それで、呼びに……」
「それなら、さっき済ませた」
「そう、か……。写楽殿はもう帰られたのか?」
「あぁ」
 藤仁の言動は、芦雪が出かける前と何ら変わりない。写楽は、芦雪が吐露した例の話をしていないようだった。安堵が心の底地に広がり、高鳴った鼓動も平静を取り戻す。
(それに……写楽殿はもう帰られたのか)
 つまり、先の髪紐の推測は違うということだ。なおさら、何故この髪紐が藤仁のもとにあるのか、謎が深まるばかりだった。
(……聞いてみるか。他に頼みたいこともあるし……)
 芦雪は視界を閉ざし、波打つ思考を落ち着かせる。灯ったばかりの決意を瞼の裏で見つめ直して、再び双眸を露わにした。
「藤仁。折り入って、話したいことがあるんだ。今夜、部屋に行っても良いか……?」
 目の前で佇む男の、艶めかしい喉仏が小さく動く。芦雪のただならぬ気配と、常とは異なる真摯な視線を受け、彼も驚いたのやもしれない。
「……わかった」
 藤仁は静かに頷いた。首肯を得られ、芦雪は細く息を吐くと、髪紐を後ろ手に畳み、文机の元の位置に戻してから立ち上がった。
「じゃあ、宵五つ頃に行くからな。居留守、使うなよ」
 牽制とともに藤仁の肩を叩き、芦雪は何事も無かったかのように部屋を出た。


 障子越しに月明かりが滲む。白く淡い光は、畳の上に寝転ぶ芦雪の頬を撫で、湛えられた暗色を払うように、一心に眼差しを注いでいる。
(やはり、駄目だったなぁ……)
 四半刻ほど前に交わした会話が脳裏に浮かび、芦雪は寝返りを打って背を丸めた。

 藤仁と取り交わした約束のもと、芦雪は定刻通り彼の部屋を訪れていた。居住まいを正し、深々と頭を下げて、開口一番に言った。
 ——ゆかり殿が見つかるまで……俺の絵のお師匠様になってくれ!
 ——嫌だ。
 間髪入れず断られ、芦雪は下げていた頭を勢いよく上げた。
 ——待て待て待て。断るのが早すぎる。もう少し悩むとか、理由を聞くとかさぁ……。
 ——君は、ゆかり殿の弟子になることが夢なんだろう。別に今すぐ絵の技術を向上させなければならない理由もないはずだ。
 ——それは……そうだけど……。
 御用絵試を受けるから、などと言えるはずもない。そのための準備期間があまりに短く、加えて独学だと限界があると思い至ったのだとも、到底口にできなかった。
 ——……逆に、どうして藤仁は俺に絵を教えたくないんだ? 俺の絵がどうしようもなく下手だから?
 ——そうじゃない。……花見で見た絵もそうだが、君の技術は独学の域を超えてる。むしろ十分過ぎるほどに備わってるんだ。うちの工房でも働けるくらいにはな。だからこそ、急いで俺の教えを請う必要はない。それに、俺も琳也先生の下で修行する身だ。諦めろ。
 藤仁は一息に理由を述べ、取り付く島もないほどに再度断りの文句を放った。
 しかし、芦雪は断られた身でありながら、ひとり顔を輝かせていた。なにせ、歯に衣着せぬ物言いをする男が、真っ直ぐに芦雪の腕前を評価したのだ。それも、江戸で名の知れた工房の筆頭絵師である、彼が。
 これまで、人知れず積み重ねてきた努力までもが、藤仁に認められた気がして。込み上げる不安から導を失い、闇で満たされていた道が一瞬、開けたように思えた。
(でも、今のままでは……きっと御用絵試には受からない……)
 芦雪の胸裡には、立札の前で写楽がこぼした言葉が、未だにくすぶっていた。
 芦雪には猶予がない上に、絵試を受けられる機会は一度きりだ。少しでも懸念があるのなら、なくしておきたい。より確実に奥絵師になれるよう、道を整えておきたいのだ。
 ——手習い程度で良いんだ。どうしても……駄目か……?
 手段を選んでいる場合ではない。ここまで来たら泣き落としだ。
 芦雪は、これまで両親や幸之介を陥落させてきた切なげな表情を作り上げ、目の前の黒鳶色の双眸を一心に見つめる。良心の呵責に訴えかける上目遣いと、潤んだ瞳に関しては負け知らずだ。
 二人の間には沈黙が流れ、形の無い行灯あんどんの明かりが揺れる。柔らかな橙の光に照らされて、藤仁の艶やかな肌が煽情的なまでに浮き上がって見えた。
 湯屋帰りのせいもあるのだろう。いつもは高く結い上げた長い髪は下ろされ、彼が身動ぎするたび、耳にかかった絹髪が彼の肩にしなだれかかる。
 生唾が喉を伝う。僅かに散る芦雪の視線は、早々に敷かれた布団を藤仁の肩越しに捉え、嫌でも数日前の情事を思い出させた。
(いや、やめろ……今あの時のことを思い出すな……。それに、ここで藤仁から目を逸らしたら、負けになってしまう……!)
 芦雪は下唇を噛み締める。藤仁の返答があるまで我慢強く、上目遣いに見つめ続けた。
 僅かな明かりを受け、黒鳶の水面が光を返して揺れる。藤仁の物憂げな吐息が、部屋の空気を震わせた。
 ——……駄目だ。
 紡がれた答えは、芦雪が望んだものではなかった。一縷の期待に高まった波は叩きつけられ、落胆の飛沫があがる。芦雪は身を乗り出し、すぐさま口を開いた。
 ——どうして……っ。
 ——君を……守りたいから……。
 藤仁は独り言のように呟き、長い睫毛を伏せる。陰を含んだ瞼は、橙の明かりを受けてなお、男が抱える暗鬱さを強調していた。
(俺を……守る……? それは、一体何から……? どうして俺に絵を教えないことが、俺を守ることに繋がる……?)
 告げられた言葉を何度も頭の中で反芻させ、隠された意味を咀嚼する。けれど、明確な答えが出ることも、藤仁が再び口を開くこともなく、芦雪は困惑するほかなかった。
 藤仁は緩慢に腰を上げ、芦雪の腕を取って無理矢理に立たせる。足裏に廊下の冷えた感触が伝い、目の前で無情に襖が閉められてようやく、芦雪は事態を飲み込んだ。
 ——え、は!? 藤仁!? 藤仁ってば!
 ——もう寝ろ。
 ——ちょっと! 藤仁ー!

 結局、頼み事が叶うことはなく、また髪紐の件について問いただすこともできず、藤仁とのやり取りは終わってしまった。
 芦雪は、自室で寝転んだまま、隣に横たわる掛軸に手を伸ばした。
「なぁ……。君は、どうしてだと思う……?」
 白椿の枝に止まり、雪解けの時を心待ちにする一羽の小禽しょうきん。ゆかりという春を求める芦雪のために、写楽の手によって生み出されたひとつの命は、今となっては大切なしるべだ。
 だが、かの鳥が芦雪の声に応えることはない。ただ、胸元を黄金色の淡い光で彩り、藤仁と同様に沈黙を守っている。
 何故、藤仁があの髪紐を持っていたのか。何故、藤仁は頑なに絵を教えようとしないのか。何故、「君を守るためだ」とこぼしたのか。いくら思考の海に潜ろうと、明確な答えが出るはずもない。
 絵の指南の件については、ゆかりさえ見つかれば、全てが解決するのだ。彼の弟子になれば、必ずや御用絵試を突破できる。何より、彼の画技を受け継いだ絵を御前に献上できるのだ。芦雪の兼ねてからの夢が叶う。
 しかし、いかんせん目の前の案内人が行き先を示さない。道は閉ざされたままだ。
 写楽に絵の指南を請うても良さそうだが、今日の様子を鑑みるに、藤仁同様に取り合ってくれないだろう。
 そのうえ、「御用絵試を受けるためだ」と素直に理由を口にすれば、恐ろしいほどに冷えた声で、何を言われるかわかったものではない。
(俺は一体……どうしたら……)
 重い瞼を閉じる。芦雪の意識は、宵闇の中に一歩、また一歩と踏み出し始めていた。
「芦雪様。今、よろしいでしょうか?」
 鈴を転がすような愛らしい声が、閉ざされた闇を晴らす。芦雪は慌てて身を起こし、「だ、大丈夫だ!」とうわずった声を返した。
「夜分に申し訳ございません。お忘れ物をお届けに上がりました」
 慇懃いんぎんな言葉とともに、静かに襖が引かれる。隙間から顔を覗かせたのは、松乃だった。
 彼女の手には、芦雪が愛用する矢立がある。わざわざ届けに現れたのは、少女の歳不相応とも言える過分な気遣いからだろう。
「……すまないな。ありがとう、助かるよ」
「いえ。芦雪様は夜に絵を描かれていると、以前仰っていたのを思い出しましたので。入り用かと思い……」
 松乃を中へと招き寄せれば、彼女は畳に横たわる絵を見て息を飲んだ。
「その絵……」
 松乃と目が合った小禽しょうきん図は、彼女と出会えたことを喜ぶように、胸元の光を強めている。異形の光輝を大きな瞳に映し、少女は瞬きも忘れて小禽しょうきんを見つめていた。 
「……そうか。そういえば、花見の時に藤仁から聞いたんだが……。お松も四魂が見えるんだったな」
「は、はい……。でも、絵師として四魂を生み出すことはできない半端者です……」
「そんなことはないさ。ほら、なんでも四魂に語りかけ、想いを通わせることができるんだろう? 素晴らしいじゃないか」
「素晴らしい……?」
「あぁ! 四魂は絵師の願いや祈りの塊だ。絵に込められた絵師の本当の気持ちを他者に伝えることができるなんて、普通できることじゃない。お松だけに与えられた才能だよ。大事にしないとな」
 芦雪は松乃から矢立を受け取り、彼女の小さな頭を撫でる。唐突に触れた手に驚いたのか、松乃はこれ以上ないほどに目を見開いていた。
 手の温もりと芦雪の言葉を噛み締めるようにして、彼女は小さく頷く。眦が僅かに煌めき、鼻をすする、ささやかな音が聞こえたように思えたが、気のせいだろう。
 松乃は目を細め、柔らかな笑みを芦雪に向けた。少しはにかむようなそれは、時折見せる年相応とも言えるものだった。
 目の前の少女は、芦雪にとって可愛い妹分だ。彼女の幸せそうな笑みを見ると、己まで嬉しくなる。静かで穏やかな何かが、海潮うしおのように身体を満たしていく。藤仁に向ける、身が溶けてしまうような、熱を孕んだ感情とは明確に形が違う。
 芦雪は浮かべた笑みを深め、彼女の頭から手を離した。
「この四魂の絵はな、写楽殿に依頼して描いてもらったものなんだ。俺の探し人を見つけてもらうための」
「探し人?」
「あれ、話してなかったか? 俺が江戸に来たのは、昔、俺を助けてくれた絵師を探すためなんだよ。ゆかりっていう名のな。彼も俺や藤仁と同じ、直霊なおひの絵師なんだ。お松は名を聞いたことがあったりするか?」
「ゆかり……」
 恩人の名を咀嚼する松乃に、芦雪は首から提げていた肌守りを外し、表面の絵を見せた。
「これが、ゆかり殿が俺にくれた絵だよ。これにも四魂が……和魂にぎみたまが宿っていて……。俺の虚弱な身体を今も守ってくれている」
「美しい桜図ですね……。あの、触れても?」
「構わないよ。写楽殿の四魂とも話してやってくれ。お松が部屋に入ってきた途端、魂の輝きが増していたから。きっと、話ができる君に会えたのが嬉しいんだろう。……俺は、どうにも嫌われているみたいだが」
 松乃は音もなく肌守りの表面に触れ、紅の光を撫でると、かすかに肩を震わせた。
「ゆかり殿の四魂はなんと?」
「え、あ……えぇと……」
 黒鳶色の瞳が、ほむらのゆらめきとともにさ迷う。松乃は息を詰めて胸元に手をやると、再び芦雪に顔を向けた。
「芦雪様。ゆかり様のことを、この江戸で写楽様や私、そして兄上以外にお話しされましたか? この肌守りの絵をお見せしたりなどは……」
「え? あー、流屋でやり取りしている商家の旦那さん方に、『ゆかりという絵師を知らないか』と聞いたぐらいだな。肌守りの絵は見せてないよ。それがどうかしたか?」
「そう、ですか……」
 芦雪の返答を聞き、松乃は何故か安堵の吐息を漏らした。礼を欠いたことをしでかしていただろうかと、一抹の不安の末、芦雪が口を開こうとすれば、松乃が先手を打った。
「差し出がましいようですが、ゆかり様の行方を探される際は、肌守りの絵は見せない方が良いかと存じます」
「というと?」
「……この肌守りには、強力な祈り……呪いにも似た想いが込められているからです。直霊なおひの絵師や私には耐性があるので問題ないですが、力を持たない人間がこれに触れると、力に充てられて害が及ぶ可能性もあります。……それほどに、この子に込められた『あなたを守りたい』という想いが強いんです」
 松乃は手にしていた桜図を愛おしむようにもう一度撫でると、芦雪に手渡す。横たわる白椿と小禽しょうきんの絵にも改めて触れ、口端をもたげて続けた。
「……それに、写楽様の四魂に嫌われているということもございませんよ。ちゃんと、この子は役目を果たそうとしています」
「そう、なのか……?」
「はい。まぁ、四魂は少し気まぐれですから。気長に待ってあげてくださいな」
 松乃の言葉に同意しているのか、二つの四魂は、祈りの輝きを強く瞬かせていた。


 春の日差しが初夏の熱を帯び始めた、今日この頃。奉公に精を出して過ごしている間に桜は散り、残された僅かな花弁が、芽吹き始めた新緑に温かな眼差しを注いでいた。
 芦雪の友が棲まう庵の紅葉も、美しい緑を枝々に繋ぎ、石畳を緑陰で満たし始めている頃だろう。
「お松。尋夢庵に行ってくるな。夕方までには帰る」
「あら。あちらへ行かれるのは久方ぶりですね。きっと、藤棚も待ちくたびれて花を散らしているんじゃないかしら」
「何を言う。久方とは言っても、半月ぶりぐらいだぞ。……あれ、ひと月だったか?」
「ふふ。芦雪様はお休みの日の度、声をかける間もなく尋夢庵へ駆けて行っておられましたから。庵にとっても、写楽様にとっても、お久しぶりになるのでは?」
「……お松。あまり年上をからかうな」
 季節の移ろいとともに、相応に日が経っていることを松乃に指摘され、少し決まりが悪い。上手い言い訳も見つからず、芦雪は誤魔化すように彼女の頬を軽く引っ張った。
「いひゃいです~……」
「芦雪兄上様を揶揄からかうからだ」
 とはいえ、芦雪が尋夢庵に足繁く通っていたのは事実だ。それがひと月前に途絶えた。
 流屋での奉公が忙しなかったこともあるが、休みの度にゆかりの行方を追うほか、短期間でも絵の指南を請け負ってくれる絵師を探していたのだ。帰宅すれば、これまで通り流屋の作品の模写に励み、その筆致や作風を真似て全く別の絵師の絵を描き写すなど、引き続き独学での研鑽を積んでいる。
 少ない一日の時間を、奉公、人捜し、自己研鑽と費やしていれば、自然と尋夢庵から足が遠のいてしまうのも致しかたあるまい。芦雪は松乃の頬から指を離し、嘆息をこぼした。
「……お松」
「はい? なんでしょう」
「藤仁はその……今、外出中だよな……?」
「えぇ。墨を買いに燕居堂えんきょどうへ。兄上のことですから、その後は写生の散策にでも行くかと。本日の帰りは結局、芦雪様と同じになると思います」
「尋夢庵へは……行く予定はないのか?」
「はい、恐らくは……。あの、どうかされましたか?」
 珍しく食い下がれば、松乃は不思議そうに首を傾げていた。その理由を聞かれぬよう、芦雪は慌てて話を切りあげた。
「そうか……。ありがとう。じゃ、行ってくる」
「はい、お気をつけて」
 流屋の裏口で松乃に見送られ、芦雪は逃げるように尋夢庵へと向かった。日本橋の人混みに紛れながら、写楽と藤仁、二人の姿を脳裏に浮かべる。
 尋夢庵から足が遠のいていた理由。目付役を半ば放棄してでも、藤仁の行動を把握していない理由。二つの事柄は、一つの事実に起因している。
(何故、俺の髪紐を藤仁が持っていたのか……。結局、藤仁に弟子入りの相談したあの夜から聞けずじまいだ。藤仁とは気まずくて意図的に避けてしまうわ、写楽殿にもどう聞けば良いのか分からなくて行きづらくなるわで……。散々だな……)
 幼馴染の幸之介であれば。彼になら、疑問に思ったことや不審に思ったことは、すぐにでも聞けたというのに。考えても意味のない仮定に、芦雪はかぶりを振る。
 ——……お前はいい加減、その図々しさを直せ。
 幸之介の拳骨の感触とともに、耳慣れた文句が頭の中で蘇る。懐古と郷里への恋しさが、余計に掻き立てられた。
 芦雪が幸之介に対して図々しく在れるのは、幼い頃から積み上げ、深めてきた信頼関係があるからだ。芦雪のことを、簡単に嫌うような男でもないという自負もある。
 とはいえ、問いを重ねることによって、顔を白黒させる幸之介が面白くて図々しく振る舞わざるを得なかった、というのが一番大きな理由だろう。
 だが、藤仁に対しては違う。彼の僅かな表情の変化で、芦雪は一喜一憂してしまう。何より、彼にだけは嫌われたくないと思っている己が、確かに息づいている。
(俺は、一体いつから臆病になったんだろうなぁ……)
 藤仁に出会ってから、知らない自分ばかりが顔を出す。まるで、新たに生まれ変わったかのように。
 芦雪は前髪をかき上げ、肺に溜まった息を吐く。胸元が空になり、さざめく心が凪いだところで、見慣れた門を視界に入れた。周囲には武家屋敷の白壁が道なりに並んでいる。
 意識的に考えずとも、芦雪の両足は尋夢庵までの道のりを覚えている。身体に染み付いてしまうほどまでに、芦雪はこれまで、この庵に通い詰めていたのだ。
「吉原の花魁もびっくりだな……」と自嘲し、芦雪は木戸に指をかけて中に入った。
「写楽殿!」
 普段と変わらぬ声音を意識して、芦雪は小路を歩きながら声を張り上げた。
 写楽は出てこない。常であれば、「ようこそおいで下さいました」と穏やかな春月を唇に湛えて現れるはずだが、今日は面布かおぎぬの白さえも見当たらない。 
「写楽殿? おかしいな、いないのか……?」
 庵に向けてもう一度声を投げるが、柳色をまとう輪郭はない。主の迎えもないまま、ついに庭先まで辿り着いてしまった。
 写楽は留守なのだろうか。芦雪が訪ねる時は、一度も留守にしていることはなかったため、少し驚いてしまう。
(今日のところは出直すか……)
 障子が締められた庵を目にして、踵を返そうとした時だった。白が、視界の端を掠めた。
「写楽殿……?」
 縁側の端。床板と障子を日向が照らしている。
 陽の中に腰を下ろし、柱に寄りかかる人影。近寄って姿を詳らかに見れば、庵の主、その人であった。
「寝てる、のか……。珍しい……」
 晩春の陽気にあてられて、眠気を誘われたのだろうか。相変わらず顔は面布かおぎぬで覆われ、寝入る姿は不明瞭だ。薄く開いた唇と、漏れる小さな息遣いだけが、彼が眠りについていることを示していた。
 芦雪は隣に腰掛け、暫し写楽を見つめる。
「写楽殿は、俺を可愛い可愛いと言うが……。君も随分と可愛らしいじゃないか」
 膝に頬杖をつき、芦雪は吐息とともに呟きをこぼす。温度を含んだ風が、白き面布かおぎぬの端をかすかに攫った。不意に現れ、ほんのひと時目にした美しい鼻梁に、芦雪の旺盛な好奇心が刺激される。
 自らを怪画絵師と名乗り、市井のために直霊なおひの絵師の力を使っているのだ。義賊のように顔を隠している理由は、容易に推測できた。
 たとえ同じ直霊なおひの絵師であったとて、芦雪には彼の素顔を見る権利も、知る権利もない。無理矢理に暴くのは悪い事だと、頭では理解している。しかし、目の前に引かれた心の線かおぎぬを飛び越えたいと、強く思わずにはいられなかったのだ。
 芦雪は好奇心に導かれるままに、そっと白き布に指をかけた。
「……っ!」
 筋が通り、整った鼻梁。長い睫毛が縁取る瞳はとばりが下ろされ、頬に小さな影を落としている。写楽の容貌を目にした途端、芦雪の喉奥からは空気が消え、唐突に首を締められたように鈍い痛みが走った。
(藤、仁……?)
 芦雪がよく知る、花のかんばせ。凛と冴え渡るように美しい寝顔が、そこにあった。
 指にかけた布が、再び音もなく男の顔を覆っていく。芦雪の頭は混沌を極めていた。
 写楽と交わした言葉も、重ねてきた時も、髪紐の真相も、全てがない交ぜになっていく。
(写楽殿は……藤仁、だったのか……!?
 写楽が今まで己に向けた言葉は、写楽としてのものだったのか。偽りだったのか。それとも、藤仁としての想いだったのか。
 分からない。何が分からないのか。どうしてここまで混乱しているのかさえも。何一つ。
 その場から立ち上がる。おぼつかぬ足で砂利を踏みしめた音が、静かな縁側に響いた。
「……芦雪、殿?」
 男の肩が小さく動く。耳によく馴染む澄んだ声が、芦雪の名を呼んだ。
「しゃら……!?
 怪画絵師の名を呼び返す前に、芦雪は腕を強く引かれた。身体は均衡を崩し、いとも簡単に男の膝上に乗せられる。気がつくと、息が止まりそうなほどに強く、彼に抱きしめられていた。
「お久しぶりです。……会いたかった」
 これまでと何ら変わりない、春陽をまとう声が耳元に落ちる。同時に、嗅ぎなれた藤花の香りが鼻腔を掠めた。
 眼前の男は、間違いなく写楽だ。だが、それを演じているのも間違いなく、藤仁だった。