第九筆「変化」

 藤仁と情のようなものを交わした、その二日後。芦雪ろせつは普段と何ら変わりなく、友が棲まう尋夢庵じんむあんを訪ねていた。
 写楽が茶を入れに奥に引っ込んでいる間、芦雪は勝手知ったる様子で縁側に腰掛け、藤棚が見頃な小さな庭に目を預ける。しかし、瞳はここにはない何かを映し、春の深まりを讃える藤花の花房も霞ませていた。
「芦雪殿。お茶が入りましたよ。……芦雪殿?」
 二度、名を呼ばれたところで、芦雪はようやく顔を上げた。盆に二つの湯呑みを乗せて歩み寄る写楽は、小首を傾げて芦雪を見下ろしている。
「……! あぁ……、すまない……。どうした?」
「どうした、ではありませんよ。芦雪殿こそ、どうされたのですか? 今日はどこかうわの空のようですが……。何か悩みでもできたので?」
 写楽はゆっくりと腰を下ろし、湯呑みを置きながら尋ねた。礼を述べつつ、芦雪が湯呑みを手に取ると、陶磁から熱が伝わり、強ばった心をほぐしていった。
 ——……もっと、君の可愛い声を聞かせて。
 耳奥に居座る声を追い出すように、芦雪は何度もかぶりを振る。
 自らの熱。触れ合った唇の感触。唾液が混じりあう音。藤仁の香り。無理矢理に引き出された快感。あの日の、たった半刻の出来事が度々脳裏に蘇り、何も手につかない。
 奉公の最中でも、筆を手に絵を描いても、頭の中を巡るのは藤仁のことばかりだ。同時に湧き上がる感情もまた、持て余している。
 羞恥といたたまれなさから終始落ち着かず、芦雪が居間近くの柱に頭をぶつけていれば、松乃に見咎められ、「お医者さまのところに行きましょう!」と心配される始末だった。
 京であれば、幼馴染である幸之介にすぐさま相談しただろう。けれど、ここは江戸だ。藤仁絡みのことで気軽に相談できる相手と言えば、松乃の他には写楽だけだった。
 芦雪は固く結んだ唇を緩めかけたが、理性が必死に袖を引き、それを押し留める。
 共通の知り合いの艶事を聞かせて何になる。写楽にも気まずい思いをさせるだけだ、と。
(そもそも、俺はこういうねや事絡みの経験が乏しい……。慣れない経験のせいで浮き足立っていて、混乱しているだけかもしれないし……)
 芦雪は茶を口に含み、喉を鳴らして飲み込む。意を決し、隣で茶を啜る写楽に問うた。
「写楽殿は……その……。口付けとか……それ以上のことをしたことがあるか?」
 我ながら生娘のような質問だなと内心呆れていると、写楽は急に咳き込み始めた。水滴の跳ねる音が縁側に響く。どうやら、茶でむせてしまったらしい。
「その反応はあるんだな?」
ん゛んっ……。わ、私のことは置いておいて下さい。何故、そのような質問を?」
 写楽は落としかけていた湯呑みを持ち直し、逆に問い返してくる。芦雪はどうしたものかと唇をまごつかせながら、言葉尻を濁して答えた。
「……それは、だな……。この間、事故的にと言うか……する機会があって……」
 ゴトン、と鈍い音が響いた。視線を巡らせると、写楽が湯呑みを落としている。持ち主を失った陶磁は、芦雪と写楽の間に鮮やかな萌黄の河を作っていた。
「し、写楽殿! 湯呑みが……! 火傷は……」
 床板に広がる茶の水溜まりに手拭いを掛けつつ、芦雪は慌てて写楽の膝に手をかざす。だが、その行く手は他でもない写楽によって阻まれ、手首を掴まれた。
「それは……。口付けだけでなく……それ以上のことも……?」
「へ? いや、今はそれどころじゃ……」
「答えて」
 焦燥が滲み、声は僅かに震えている。面布かおぎぬで表情こそ見えないが、芦雪の手首を掴む力は強く、唇はわなないていた。
 見慣れない写楽の姿に、芦雪も動揺を隠せず、うわずった声を絞り出した。
「あっ、あれは口付け以上というか、最後まではしてないがそれに近いというか……?」
 口付けや己の胸、陽物に触れられ、吐き出したものを口に含まれはしたが、そもそもあれは交合と言えるのだろうか。
 秘孔に藤仁のものを挿れられれば、もしくは芦雪が藤仁の秘蕾に挿れてしまえば、それは完全に閨事として成立するだろう。だが、あれは互いに合意もなく始まり、唇を合わせ、欲を抜いただけの行為だ。芦雪がよく知る戯れにも入らず、世間の定義が分からない。
 己でも首を傾げながら曖昧に説明していると、その過程で羞恥が頬に熱を差し、芦雪の身体は瞬く間に火照った。
「……一体、どこのどなたとです?」
「え!? えーっと……」
「どこの馬の骨が貴方と口付け……いや、それ以上のことを……!」
 春の陽だまりのように、柔らかな声音で教え諭す男の姿は、今はどこにもない。何故か、今日ばかりは地を這う低い声で詰問してくる。
 端に艶の滲むそれは、未だ耳奥に残るかの人のものに似ているような気もしたが、考える余裕があったのも一瞬だ。芦雪の手首を握る力は徐々に強くなり、少しでも刺激すれば、骨を折られてしまいそうだった。
(相談する相手を、間違えたかもしれない……)
 一度出た言葉を戻すこともできず、芦雪は観念して再び口を開いた。
「ふ……」
「ふ?」
「藤仁……だ……」
 肌を重ねかけた相手の名を、芦雪は今にも消え入りそうな声で呟いた。
「実は先日……、藤仁と二人で花見に行ったんだが、帰宅途中で俺が喘病の発作を起こしてしまってな……。その看病を藤仁がしてくれていたようなんだが、朝起きた時に寝ぼけた藤仁と……その……それに似たようなことをしてしまって……。でも、あれは閨事に入るのかもわからないし……」
 どうしてこうも必死に、あれは事故的なものだと何度も言い訳を重ねているのか。未だ答えは出ない。
 寝ぼけていたとはいえ、何故藤仁は、芦雪にあのような行為に及んだのか。何故、熱を帯びた瞳で芦雪に微笑みかけたのか。……何故、愛おしげに芦雪の幼名を紡いだのか。考えても理由は仮定に過ぎず、事実を確かめる術も無い。芦雪の思考は混沌を極めていた。
「……藤仁は寝ぼけていたせいか、どうやらその時のことを一切覚えていないようなんだ。だから、俺一人がこんなに動揺しているのもおかしな話なんだよ……」
 頬にかかる長い前髪をかき上げ、芦雪は深く息を吐いた。
 幸か不幸か、藤仁の記憶からは、一連の出来事が抜け落ちているようだった。あの後、再び眠りについた藤仁を起こさぬよう、芦雪は慣れないながらに後処理をして自身の身を整え、藤仁を布団の上に寝かせて部屋を退出した。
 とてもではないが、あの狭い空間に二人きりになるのはいたたまれなかった。
 居間で松乃に甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、漫然と座って過ごしていると、昼過ぎにようやく目を覚ましたらしい藤仁が、同じく居間に訪れた。
 視線が軽く交わったが、「……熱は下がったようだな」と藤仁は一言述べただけで、それ以外には何も口にしない。
 まさか、とは思いつつも、芦雪は試しに先手を打った。
 ——藤仁……。その……、先刻のことだけど……。
 ——……先刻?
 ——お前が寝ぼけてた時のことだよ。まぁ、終わったことを俺は気にしないし、今は何とも……。
 ——……? 何の話だ?
 訝しげに眉根を寄せ、藤仁は常のように淡々とした表情で問い返してきた。
 芦雪はようやく確信した。本当に、彼は何も覚えていないのだ。心の中で安堵に包まれつつも、彼が覚えていないことを残念に思う気持ちも噛み締めることになった。
 ──なんだ。一人で意識してしまっている俺が、馬鹿みたいじゃないか。
 二日前に味わった泡沫の夢と苦い記憶に蓋をし、芦雪は瞬きを繰り返した。
「……だからもし。写楽殿がこういったことに慣れているのなら、動揺しない術を教えてくれないか? 恥ずかしい話、俺はこういったことにあまり慣れていなくて……」
 伏せていた視線を上げ、芦雪は目の前の人物に助言を請うた。
「……藤仁、と……?」
 写楽は件の中心人物の名を呟いたきり、何も言葉を発しない。驚愕からか、芦雪の手首を掴んでいた力は抜け、彼の無骨な手が離れていく。
「藤仁と……口付けを……?」
「写楽殿?」
「いや、そんなはずは……。俺はあの時……」
 写楽は己の唇を指先でなぞり、何かを呟いている。彼は落ち着かない様子で立ち上がり、その場に芦雪を置いて奥へと引っ込む。刹那、鈍い大きな音が静寂を破った。
「大丈夫か!?
 音に驚き、写楽が消えた方へと駆け寄る。彼は、土間の小上がりから落ち、転んでしまったようだった。写楽は腰をさすりながらも、力なく手を振った。
「だ、大丈夫……。大丈夫です、どうかご心配なく……」
「少し転んだだけです」と苦笑していたが、十中八九大丈夫ではないだろう。芦雪は内心、冷や汗が止まらなかった。
 小上がりを降り、写楽を助け起こす。芦雪は、彼の袖を軽く握ってうなだれた。
「驚かせてすまない……。君の大切な友人との……その……艶事のような話なんて、話すべきじゃなかったな」
「いえ。寧ろ言って頂けて良かったです」
 芦雪は顔を上げ、面布かおぎぬの男を見つめた。やはり、布一枚を隔てた表情を窺い知ることはできなかったが、声色に嘘偽りはない。
「このまま知らずに、のうのうと過ごしていたらと思うと……。藤仁諸共、自分を殺しているところだった」
 写楽は口端を引き上げていたが、面布かおぎぬの奥に坐す瞳は、間違いなく笑っていない。
 心優しく、誠実な写楽のことである。同意を得ない行為で、芦雪が傷付いているのではと慮ってくれたのだろう。けれど、芦雪は生娘のような考えは生憎持ち合わせていなかったし、ただ一連の出来事に驚いていて落ち着かない、と言った方が正しかった。
 面布かおぎぬ越しでも分かるほどに憤る写楽の姿は、普段の浮世離れした雰囲気からはかけ離れて見え、彼も同じ人間なのだとしみじみ実感する。それを可愛らしい、と思えてしまう程には、芦雪は彼に親しみを覚えていた。
「ふふっ。随分物騒だな」
「当たり前です。寝ぼけていたとはいえ、芦雪殿に無体を働いたのですよ。……それ相応の報いを受けるべきだ」
 彼の言う報いは、一体何になるのか。芦雪にはとんと予想がつかなかったが、気遣いを宿した言葉の綾だということだけは理解できた。
「ありがとう、写楽殿」
「……? 何がです?」
「いや。ただ、礼が言いたくなっただけだよ」
 芦雪は笑みを深め、その場で大きく伸びをする。写楽と言葉を交わし、また燻っていた戸惑いを吐き出せたおかげか、常の冷静さが舞い戻っていた。
 結局、目下の出来事で湧いて出た悩みを解決したかった、というよりは、持て余した感情を誰かに聞いて欲しかったのだ。芦雪は無意識の図々しさを自覚し、ほとほと呆れた。
「藤仁が覚えていないのなら、それでいいか。……俺もあの日のことは夢だったと思って忘れるよ。……あ。この話、藤仁には内緒な?」
 写楽の唇に人差し指をそっと押し当て、秘するよう釘を刺す。
 この話には幕を引き、心の箱の中に仕舞うのだ。以降、蓋を開けて誰かに見せることもない。知っているのは己だけでいい。あの日感じた、藤仁への不確かな情さえも。
「芦雪殿」
「ん?」
 静かに佇む写楽に、名を呼ばれる。常と変わらぬ笑みを浮かべて聞き返すと、彼は少し迷うように唇を開き、再びそれを閉じた。
 写楽は最も言いたいことがある時ほど、この仕草をする。年の離れた弟がわがままを言おうとして、それでも言うべきでないと黙している時の雰囲気に似ている。
 芦雪は苦笑混じりの息を吐き、目の前の男から言葉が紡がれるのを、ただ待った。
 暫しの沈黙が二人を包む。場が均される前に、それは写楽の問いによって破られた。
「……もし、あの時。藤仁が口付けをした理由が分かっていたら……。貴方は、彼との行為を受け入れたのですか?」
 喉奥から空気が消える。芦雪の脳裏には熱が舞い戻り、視界を霞ませた。
 舌を絡め、全てを自分のものにしたいという欲を孕んだ、深い口付け。そして、安心を与えるように慈愛を込めた、触れるだけの口付け。それらを芦雪にした理由が、あの時わかっていたなら。自分は、一体どうしただろう。
 過去に思いを馳せ、睫毛を伏せる。散らばった感情をより合わせ、一つの答えを導き出すと、芦雪は笑みを崩さないまま告げた。
「……そうだな。受け入れていたと思うよ」
「どうして……?」
 何かを恐れるような。すがりつくような、疑問の声。芦雪はそれに気付かないふりをして、彼から視線を外して答えた。
「さぁて。どうしてかな」
 再び訪れた静けさを、鐘の音が破る。芦雪は天へと視線を上げた。
 昼前にここを訪れたというのに、時の巡りは早いものだ。写楽と言葉を交わす時間は、常に清流のように瀟々と流れ行く。岩で行く手を阻もうとしても、清冽とした流れは岩間をすり抜け、止めることは決して叶わない。
 芦雪は嘆息を吐き、写楽に向き直った。
「……昼八つか。そろそろ帰るよ。今日も付き合ってくれてありがとうな」
「もう、そんな時間でしたか……。貴方と話していると、本当に時が経つのが早い」
 写楽も同様に考えていたようだった。芦雪の心は喜色に濡れ、自然と口端が上がる。
「俺もだよ。写楽殿とは絵の話も、とりとめのない話も、共通の友の話もできるから本当に楽しくて……。だからかな。休みの度に、ついここへ足を運んでしまう」
「貴重な休日の度に、うら寂しい我が庵へ足を運んでもらえるのはありがたいことです」
 写楽は薄い唇に弧を宿すと、芦雪の隣に並び立って言った。
「では、流屋へ参りましょうか」
「え?」
「お帰りになられるのですよね?」
「そう、だが……。その言い方だと、写楽殿も流屋に一緒に来るのかと思って……」
 彼が流屋まで赴くと言うのなら、もう少し長く、ともにいられる。願ってもないことだ。
 二日に一度の頻度で顔を合わせているはずだが、別れる時はいつも、離れ難く思う。友としての仲を深めているからこそ湧く気持ちに、芦雪は素直に身をゆだねた。
 期待を込め、真っ直ぐに写楽を見つめる。彼は薄く口を開いたまま動かない。まるで、芦雪の指摘で初めて己の言ったことに気づいた、と驚愕しているかのようだった。
 束の間、写楽はすぐさま見慣れた笑みを携えた。
「……言葉足らずで失礼いたしました。芦雪殿を流屋までお送りします、という意味です。ちょうど流屋に所用がありましたので、そのついでとでも思ってください」
「所用? 何かものを届けるとか、そういう軽いものなら俺が代わりに請け負うが……」
「いえ。松乃に少し用と……藤仁にも話したいことがありまして」
 理由を告げる唇が、ぎこちなく動く。面布かおぎぬの端がかすかに揺れ、写楽は俯いていた。
(俺には言えない話でもするのかもな。……深入りは避けた方が良さそうだ)
 写楽とは、適切な距離を保った関係で。互いに少し、線を引いたままの友でいたい。
 何も、全てを話せる相手こそが友人というわけでもない。互いに深く踏み込まない距離感に居心地の良さを感じているからこそ、芦雪は写楽に心を許しているのだ。
「お気遣い、痛み入ります」
「ん? 何がだ?」
「……いいえ。ただ、言いたくなっただけです」
「ふふ。おかしなことを言うんだな、写楽殿は」
 青紅葉が綾なす小路に、二つの肩が並ぶ。石畳を軽やかに歩く足音と、音の少ない穏やかな足取りが重なり、芦雪の耳端をいつまでもくすぐっていた。


 二人が尋夢庵を後にし、日本橋に着いたのは、昼八つ半を過ぎた頃だった。時分に影響されたのか、芦雪の腹の虫がかすかに鳴き始める。
 橋の手前にある魚河岸うおかしからは、小麦の薄皮が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。芦雪の鼻は、子犬のようにひくついていた。
(これは間違いなく、井筒屋のきんつばが焼ける匂いだな。河岸かしで屋台売りしているせいか、ここら一体はいつも良い香りがする……)
 きんつばは、甘党である芦雪と松乃の好物である。日本橋河岸で「名代金鍔みょうだいきんつば」の名で屋台売りされているそれは、魚河岸の商人や軽子らの間では大評判の菓子であった。
 形は丸く、平たい。武士の刀の鍔によく似て見える。そこでついた名が『きんつば』というわけである。
 見た目ゆえに、江戸の武士の間でも人気になりつつあるようで、武家の若君たちもこぞってきんつばを口にするようだ。今や、「流石武士の子。金鍔を食べたがり」などという口上まで生まれる始末だった。芦雪は、なおも漂う香りにつられ、きんつばが出来上がっていく過程を頭の中で思い浮かべた。
 ごく薄い、小麦の薄皮にたっぷりと小豆餡あずきあんを包み、表面が黄金色になるまで焼く。熱々のうちに包み紙にくるんで、行儀が悪いとは思いつつも、その場できんつばの頭にかぶりつくのだ。
 皮の香ばしい香りとともに、皮から漏れ出る小豆のほのかな甘味が口内を占め、これがまた、たまらない。頭の中で想像しただけで、今にもよだれが出そうだった。
「あぁ、腹が減ったな……。なぁ、写楽殿もそう思わないか?」
 腹を撫でながら、隣を歩く友人を見る。彼は普段通り、口端を小さくもたげていた。
「さぁて。どちらだと思います?」
 写楽は時折、試すように質問返しをする。揶揄からかわれ慣れていない芦雪を見て、楽しんでいるのだろう。芦雪は人を揶揄からかうのが好きでも、逆は恥ずかしく思われて、性に合わない。写楽はそれを理解した上でやっているのだろうから、食えない男である。
「そういう言い方をする時、写楽殿は否って言いたい時だろう。つまり腹は減ってない」
「おや。ばれておりましたか」
「貴殿と出会って、もうふた月経つんだ。分かってくることもあるさ」
「ふふ。なるほど……」
 芦雪は僅かに頬を膨らませ、写楽の目論見通りの表情をしてやる。すると、彼は満足そうに微笑をこぼしていた。
 ——こうして、写楽が笑顔になるのなら、揶揄からかわれるのも甘んじて受け入れてやろうか。 胸裡で現実を受け止めようとしたが、それでも、相手の思い通りにしてやるのも気に食わなかった。ここで何かしらの仕返しをしてやりたくなるのが、芦雪という男のさがだ。
 芦雪は仕返しの内容を考えながら歩調を早め、日本橋に足を掛けた。
「芦雪殿」
 喧騒の中でも、写楽の澄んだ声はよく通る。否、彼の声ゆえに、耳朶は必ず拾うのだ。
 はやる足が、自然と縫い止められる。露わになる事実に一抹の悔しさを覚えて、芦雪は思わず歯噛みする。後ろを振り返れば、面布かおぎぬの男と視線が交わった。
「芦雪殿。その……少し、ここでお待ち頂けますか?」
「ここで? 構わないが……」
「良かった。すぐ戻ります」
 写楽は面布かおぎぬを翻し、芦雪に背を向けると、魚河岸通りの人混みの中へと消えていった。
(……気になる店でもあったのか? 言ってくれたら付き合ったのに)
 町をともに歩き、何気なく目に付いた店に入って、彼の好みや新たな一面を知る。友として、互いに仲を深める上では大切なことだ。写楽の何気ない仕草の端から、彼の性格や癖を理解することはできても、趣味嗜好を窺い知ることはできない。
(意外と、写楽殿のことを知っているようで知らないんだよなぁ、俺)
 写楽とは、互いに一歩引いたような間柄だ。それに安堵している一方、横たわる線を踏み越えたいと願う己も時折見え隠れする。
 だからこそ、己を置いて消えた事実が、少しだけ寂しい。果たして、そう思うことは友として許されるのだろうか。
「お待たせいたしました」
 芦雪が地に伏した顔を上げると、やはり見慣れた面布かおぎぬの男の姿がそこにあった。
「写楽殿……。早かったな。用は済んだのか?」
「はい。……これを買っておりました」
 写楽は、小さな紙袋を差し出した。袋の口は、細身の紐で封がしてある。質素な紙袋を彩るように、側面には春の日本橋の風景が描かれていた。
 芦雪が訝しげに受け取れば、紙袋の底から鈍くやわらかな熱が伝わってくる。まさか、と紐を緩めて中を覗くと、予想通りのものが出迎えた。
「これは、きんつば……」
 紙袋の底には、四つのきんつばが頭を揃え、仲良く並んでいた。袋を開けた途端、熱を帯びた湯気と、生地と餡の焼けた甘い香りが芦雪の鼻腔をくすぐる。
 ──どうして? 芦雪は疑問を滲ませた双眸で、言葉もなく眼前の友を見た。
「芦雪殿は、甘いものがお好きでしょう」
 薄い唇に、白き面布かおぎぬの影が僅かに落ちている。慈しみと親愛を宿す春月の弧が、穏やかに芦雪を見つめ返していた。
「茶請けに漬物をお出した時は、あまり召し上がらなかったのに、大福や草餅をお出しした時は、ぺろりと召し上がっておられたから。その時、口元に餡子をつけて、可愛らしく笑んでいた君の顔が忘れられなくて……」
 今は丁度おやつ時ですし、と写楽は芦雪の腹を指さし、やわい声の音を数滴、落とした。
「……もうふた月も、君とともにいるんだ。分かってくることもある」
 平生、頑なに崩れぬはずの敬語が、砂糖菓子のように甘く、ゆっくりとほどけていく。写楽の心の内に、ほんの少しだけ踏み込むことを今だけは許されたような気がした。
(……俺は、またしてやられたってことか)
 きんつばの温もりが手を伝い、空のはずの腹中を温めていく。目元にまでほのかに熱が宿ったところで、芦雪は照れくさくも頬笑した。
「ありがとう、写楽殿」
「こちらこそ」
 二つの背中は再び並び、揃って日本橋へと足を掛けた。
 芦雪は歩を進めながら、受け取ったばかりの袋に手を入れ、早速きんつばにかぶりつく。たったそれだけのことで、芦雪の心は浮き足立ち、足取りさえも軽くなる。普段は決してしない、行儀の悪い行為に、悪戯めいた感情を抱いているからだろうか。
「楽しそうですね、芦雪殿」
「まぁな。誰かさんのおかげで」
 写楽の指摘を軽やかに返しながら、芦雪はきんつばの欠片を口の中に放り込む。橋を渡り終えた時には、口内を占めていた幸せは淡雪のように消えていた。
 紙袋の中を、今一度覗く。あと二つほど残っているが、これは甘党仲間の松乃への土産だ。手を出したいのは山々だが、ここは我慢せねばなるまい。
 自然と下がる眉尻はそのままに、芦雪は泣く泣く目を前に向けた。
「おい。結果が貼りだされてるぞ!」
「何だって!?
「今回は誰が……」
 橋の麓が騒がしい。一処ひとところから始まった一滴のざわめきは、瞬く間に波紋を広げる。幾人もの人間が押し合いへし合い、互いに顔を見合わせたり、何かをじっと見つめては一喜一憂し、顔を白黒させていた。
 江戸で最も繁華な街、通南とおりみなみは、常に人々の声で溢れている。普段と何ら変わりない風景にも見えたが、今日ばかりは何故か、飛び交う声音が高揚をまとっているように思えた。
 一抹の興味に袖を引かれ、芦雪はその場に足を止めて小首を傾げた。
「なんだ? 今日は随分と騒がしいな」
「あぁ……。あれのせいですね」
「あれ?」
「高札です。御用絵試の一次試験……『写生』の合格者の名が貼り出されたようです」
 写楽が冷めた様子で指をさしたのは、日本橋高札場に立てられた一つの高札だった。
「……なぁ。少し見てみても良いか?」
「それは構いませんが……。芦雪殿もやはり、御用絵試に興味がおありで?」
 芦雪の肩が跳ね、紙袋が掌中で音を鳴らした。
「尋夢庵の主」から「友」となった写楽にも、御用絵試を受けることは未だ打ち明けていない。絵試を受ける理由が理由のため、これからも告げることはないだろう。
 醜い一面を、友となった彼には知られたくなかった。作り上げた無邪気さと綺麗な上澄みだけ見ていて欲しいと思うことさえ、醜さに拍車をかけているようで吐き気がした。
「来年受けるからだ」などとは到底言えず、芦雪は「ただの野次馬根性さ」と笑って誤魔化した。
 芦雪たちは群衆に紛れ、立札の木肌に綴られた内容を遠目ながらに見やる。見慣れた墨の線は合格者たちの名を形作り、淡々と現実を伝えている。ざっと見ただけでも、合格者は三十名ほどであろうか。
「絵試、『写生』において、下記の者を合格者とす。該当者は七日後に行われる『発想』に出場されたし、か……。合格した人数を見るに、やはり厳しいんだな、御用絵試は」
「……そうですね。受けた人数は公にはされておりませんが、今回は数からして一次試験だけでかなり絞られたのでしょう。昨年は、もう少しおりましたから。恐らく、絵にそこまで覚えのない者も多く受けていたのでしょうね」
 写楽の「絵にそこまで覚えのない者」という言葉に、かつて高札場前で耳にした会話が朧気によみがえった。
 ——近所の京七郎が昨年受けてたじゃねぇか。あいつも金に困ってたのか、血迷ったのかは知らねぇがよ。絵の腕はからっきしだったのに、今じゃ大金持ちの奥絵師様だ。
 ——町民から一気に、旗本級の武士階級に昇格だもんな。 
 絵の腕前が明瞭でない者でも、昨年は奥絵師として選ばれた前例がある。今回の絵試は、一攫千金の可能性を夢見た者が多く受けていたのやもしれない。
 だが、並んでいる名から、そうでない者たちもそれなりに受けていることが窺い知れた。
「伊藤若演じゃくえん、勝川春郎、鳥居清長も合格者の中に入ってる……。皆、町絵師として有名な方々ばかりじゃないか!」
「そのようですね……。一次試験『写生』は、単に絵師の力量を測るものです。一定の基準さえ満たしていれば、誰でも通過できるもの。著名な彼らに関しては、腕試しも兼ねて受けているのかもしれません」
 写楽はもっともな推測を交えつつ、御用絵試の内容について淡々と語った。
「ですが、二次試験は『発想』。いわば、お題に沿った絵を描く基礎と、お題をどう解釈するかの理解力や発想力、知識量が求められる。……七日後の絵試がより厳しくなることは、間違いないでしょう。選定を務める狩野派の絵師たちも、余計に目を光らせているに違いありません」
 合格者らの名から視線を外すことなく、写楽は温度のない声で述べた。御用絵試に興味がないせいもあるのだろう。しかし、絵試を受ける者達への哀れみの色、絵試を開催する御公儀や狩野派への軽蔑の色も、僅かに宿っているようにも思える。
 やはり写楽に絵試を受けることを言わなくて正解だったと、芦雪は胸を撫で下ろした。
 春の麗らかな温もりのない、ただどこまでも冴え渡る声音を、彼から浴びせられたなら。間違いなく、芦雪は立ち直れなくなるだろう。
 過去のおのが選択に、芦雪は密かに安堵の息を落とした。
徳兵衛とくべえ……?」
 写楽の唇が固まる。彼は高札に連なる一筆を見つめたまま、誰かの名を呟いていた。
「どうかしたのか?」
 写楽の袖を僅かに引く。彼は我に返ったのか、面布かおぎぬの端を揺らして答えた。
「あ、あぁ……いえ……。知り合いの絵師が合格者の中に含まれていたものですから、少し……驚いてしまって……」
「そうなのか。それはめでたいことじゃないか。一次とはいえ、御用絵試に合格するということは、名のある方なのかな。何というお方なんだ?」
 知り合いが御用絵試を突破するなど、滅多にない。その上、写楽の口から藤仁や松乃以外の交友関係を知るまたとない機会だ。ほんの好奇心から問えば、写楽は歯切れ悪く口を動かした。
「……安藤徳兵衛という名の、まだ名の知られていない絵師です。彼も貴殿と同じ武家出身の方で……。普段は火消同心ひけしどうしんを生業としております」
 火消というと、江戸の町人による消防組織、町火消の印象が強い。江戸では火事が多いため、町火消が駆り出されているのを芦雪も度々見かける。
 しかし、徳兵衛は武家出身の火消同心だという。いわゆる、江戸城とその市中の火消を管轄する「武家火消」だ。身分は御家人に相当するものの、芦雪の実家と同じ下士に位置し、賜う年貢も微禄である。
 れっきとした家業を全うしつつも、絵師としても活動している。二つの事実が意味することは、一つしかあるまい。
「徳兵衛はまだ齢十五にも関わらず、安藤家の当主です。彼にはその……絵の才があったことも幸いし、本業をこなす傍らで、御家の生活のために絵を描いている絵師なんです」
 徳兵衛という少年はまさに、芦雪と同様の状況に置かれた武家絵師だった。
「以前顔を合わせた時、『独学ではやはり限界があるから、いずれどこかへ入門する』とは言っておりましたが……。まさか、御用絵試を受けていたなんて……。彼も……私たちと同じ直霊なおひの絵師なのに……。何故、相談もなく……」
 ——どうして。写楽の呟きは、疑問と後悔の念で溢れていた。
 同じ力を持ち、助け合うべき者の心情や逼迫ひっぱくした状況を、何故汲めなかったのか。写楽は自責の念に駆られているようだった。
(徳兵衛殿と俺は、同じだ……)
 写楽から聞く武士の少年の輪郭は、今の芦雪と寸分の狂いなく重なる。徳兵衛が何故、写楽に黙って御用絵試を受けたのかすらも、芦雪は己のことのように分かった。
 徳兵衛は少年とはいえ、武家当主の身である。どこかへ入門する時間すら惜しいと、それほどに御家の財政が非常に逼迫しているなどと、どうして親しい者に言えようか。武士としての体面を保つためにも、彼はおくびにも出さなかっただろう。
(彼には、当主として守るべき家族と家がある……。その重圧は、俺の抱えるものよりもずっと重い……)
 絵の才に恵まれているという徳兵衛のことだ。本来であれば、その才をゆっくりと伸ばしていきたいだろうに。御家事情のため、御用絵試をすぐにでも受けようと選択したことは、どれほどの苦痛であったろうか。歯痒さであったろうか。
 彼は今も、絵試に受からず、困窮によって御家がお取り潰しになるかもしれぬ恐怖と、御家存続のためという重責を背負いながら、筆を握っているはずだ。
 芦雪の指先は、無意識に強く握り込まれていた。
「徳兵衛は、きっと奥絵師として選ばれる……。それも狩野家の本家により近い、木挽町狩野こびきちょうかのうへ……」
 現実が受け止めきれないのか。写楽は独り言のように呆然と呟き、高札から目を背けた。
 そもそも、将軍家に仕える奥絵師の一族は、大きく分けて三家あるとされている。
 大和絵やまとえの系譜を引く住吉家、板谷家、そして唐絵からえの系譜を引く狩野家。三家の中でも、最も強い勢力を誇るのが狩野家である。
 およそ百年前から現在まで続いている御用絵試制度を作ったのは、今を時めく狩野家に他ならない。
 ——御用絵試で一番になった者は、たとえ商人であろうと、武士からも賞賛される。
 御用絵試とともに、異様な価値観を泰平の武家社会に植え付けた狩野家は、文化興隆の面だけでなく、世の金回りの面においても、将軍家に多大な功績を献上した。将軍家からの信頼や寵愛が他家よりも篤いのは、言わずもがなである。
 それゆえ、狩野家は分家を持つことが許されており、本家の中橋狩野の他、分家の木挽町狩野こびきちょうかのう鍛冶橋狩野かじばしかのう浜町狩野はまちょうかのうの計四家で奥絵師界を独占している。
 同じ奥絵師の称号を持つはずの住吉家や板谷家の名は昨今聞こえず、それほどに狩野四家の地位が未だ高いことが窺えた。
 つまり、御用絵試を突破した者は、四家のいずれかに所属することが約束され、また武家の中でも相応の地位を約束されるのだ。身分に関係なく、日ノ本中の人間が絵試を受けようとするのも、当然の時流なのである。
 帯刀と将軍に謁見できる貴い地位も、下層から己の手で成り上がったという名誉も、莫大な銭も、全てを手に入れることができるのだから。
「狩野四家の位の順は確か……本家の中橋狩野、木挽町狩野こびきちょうかのう鍛冶橋狩野かじばしかのう浜町狩野はまちょうかのうだったか?」
「……世間では、そのように言われておりますね。まぁ、実際の四家の絵師そのものには、さほど力量の差はないように思いますが……」
「そうは言っても、徳兵衛殿はその中の木挽町狩野こびきちょうかのうに入れる程の技量があるんだろう? 木挽町狩野こびきちょうかのうというと、奥絵師に選ばれた者の中でも、特に画技に優れた絵師が振り分けられる狩野派じゃないか。公方様からの寵愛も近頃特に篤いと聞くし……。きっと素晴らしい絵を描かれるんだろう。いつか見てみたいなぁ」
 顔も知らぬ徳兵衛の絵について、芦雪は素直な感想を述べるが、写楽に普段の穏やかさが戻る気配は一向にない。寧ろ、形の良い唇を噛み、手はより固く握りこまれていた。
 一体、どうしたものか。芦雪は腕を組んで、密かに唸る。
(下手に深く考えるよりも、とりあえず場の空気を変えることだけを考えるか)
 兎にも角にも、冬の肌寒さが舞い戻ってきたようなこの空気を、どうにかしたい。
 芦雪はわざとらしく、声音を普段よりも少し高くして、押し黙る写楽に声をかけた。
「なぁ、写楽殿。俺がもし、奥絵師になれたら。俺は、どこの狩野派に入れると思う?」
 丁度、写楽から己が絵への評価を聞きたかったというのもある。様々な意味を含めて動悸が走る心臓を抑えながらも、芦雪は無邪気に問いかけた。
「そんなこと、はなから分かりきって……!」
 言葉が途切れる。何を言おうとしたのか、写楽はもう一度考えたのだろう。
 それが功を奏したのか、彼は元の穏やかな口調を取り戻して答えた。
「……そう、ですね。むしろ、芦雪殿はどこが良いんですか?」
「その言い方はずるいぞ。俺は写楽殿の見解が聞きたいのに」
 芦雪は人知れず、安堵の息を吐く。頬を膨らませ、わざとらしく視線を背けた。
「すみません。少し、意地悪したくなったんです。君が拗ねる顔があんまり可愛いから」
「か、かわ……?」
「大丈夫。君はちゃんとした師がつけば、奥絵師なんて目に入らないぐらいの絵師になれる。今はゆかり殿を探しながら……君の思うままに、絵の才を伸ばしていけば良い」
 写楽はそう言って、芦雪の膨らんだ頬を指の背で優しく撫でた。
 ——そんなこと、はなから分かりきって……!
 あの言葉に続くはずだったものは、一体何だったのか。「ちゃんとした師がつけば」という助言に隠された真意についても、芦雪は推し量ることができなかった。
(やはり今の俺の絵では、奥絵師になることは難しい……ということなのだろうか)
 人並みに絵が描けるとはいえ、所詮は独学で筆を執る未熟者だ。流行りの浮世絵や、寺社に奉納された古画の筆致をただ真似たとて、己の画技として昇華できるわけもない。
 徳兵衛の言う通り、独りでは限界がある。このままでは、来年の絵試に間に合わない。
(……ゆかり殿以外の絵師に、指南を請う他ないのかな)
 ゆかりの弟子になることは夢だ。だがそれは、限られた時間の中で見るには幾分難しい、うたかたの夢なのだろう。