第八筆「泡沫」
澄んだ青に、
常と変わらぬ賑わいは、行楽にざわめく
(藤仁には……申し訳ないことをしたな……)
温度を宿さぬ横顔を盗み見て、芦雪はそっと肩を落とす。本来であれば、今頃藤仁に写生の出来栄えを見せ、あわよくば指南に預かっていたはずだ。もしくは、美しい花々を肴に、酒のひとつやふたつ、ともに引っかけていたやもしれない。
酒を酌み交わし、絵の話をし、とりとめのないやり取りをする。藤仁との仲も、きっと今日こそは深められるだろうと思っていた。それを壊したのは、他でもない芦雪だ。
故意ではないとはいえ、四魂を暴走させ、藤仁に害を及ぼした。彼はあれから、芦雪の四魂について何も言及して来なかったものの、芦雪は花見を続ける気分にはなれなかった。
空気が湿り気を含み、沈んだ心にまとわりつく。身体が重たい。喉が少しの閉塞感を訴え、罪悪感からか胸が苦しくなった。
「けほっ、けほっ……」
かさついた唇から、咳がこぼれる。喘鳴が喉奥から込み上げ、上手く息ができない。
ある予感が背筋を舐め、肩が震える。本能の警鐘を肯定するように、天から一滴の雫が落ち、芦雪の頬を撫でた。
「雨……」
藤仁が発した一音が、耳端を掠める。刹那、芦雪の身体は、己の虚弱さを思い出した。緩慢に、真綿で首周りを締めつけるように。喉は呼気の出入りを狭めていった。
(なんで今……っ……! 橋を越えたらもう、流屋に着くってのに……!)
これ以上、藤仁に迷惑をかけたくはないのに。どれほど請うても、身体は一度として、芦雪の願いを聞き入れたことはない。
喘鳴が大きくなる。肩で息を放ちながら、芦雪はその場にしゃがみこんだ。
「げほっげほっ……はっ……はぁ……は……!」
「芦雪?」
ただならぬ様子に気付いたのだろう。藤仁は芦雪に目を下ろし、眉根を顰めていた。
「ふ、じ……っ……」
今の芦雪には、目の前にいる者の名さえ紡ぐことができない。掠れを伴った声は喧騒にかき消され、きっと藤仁には届いていない。
芦雪は喉元を抑え、苦悶と脂汗を滲ませた顔を上げる。芦雪を見下ろす涼やかな目元は色をなくし、
「まさか……喘病の発作か……?」
ひとつ、ふたつと雨が地に落ち、色を塗り替えていく。瞬く間に雨音は勢いを増し、芦雪らの肩を濡らした。意気揚々と歩いていた人々が、蜘蛛の子を散らすかの如く走り去っていく中、通りで唯一、その場から動いていないのは二人だけだ。
(雨宿り……、しないと……)
このままでは、二人して濡れ鼠になってしまう。頭では理解している。しかし、芦雪の足は一寸も動かない。咳が次々と胸元を突き上げ、息苦しさは増している。
──せめて、藤仁だけでも建物の影へ。
そう促そうと、芦雪がどうにか口を開こうとした時、眼前で瞠目していた切れ長の瞳が苦しげに細くなり、やがて緩んだ。
「……すまない。少し、我慢して」
何を、と問う暇もなく。芦雪は藤仁に肩を抱かれ、腰に手を回されていた。地面に着いた両足はいつしか宙を掴んでいる。
藤仁に横抱きにされているのだと気付くのに、芦雪は随分と時間を要した。
「……っ、ふ……っ……! ……ぁ……げほっ、げほっ……!」
「無理に喋るな。身体に障る」
藤仁は芦雪の返答を聞く前に、その場から駆け出した。雨に濡れるのを厭うこともなく。
「──まお」
小さく、祈るように落とされた声。芦雪が久しく慣れ親しみ、身体に馴染んだ音。
なぜ今、藤仁がその音を口にするのか。どうして名を知っているのか。雨音は藤仁の小さな声を掻き消しながら、周囲の音と芦雪の疑問を飲み込んでいった。
身体からは力が抜け、重さを含んだ頭が、自然と藤仁の胸元に吸い寄せられていく。
揺れる視界に、着物越しに聞こえる藤仁の鼓動。頭上から注がれる、はやる吐息。
(藤仁の、音……。ぜんぶ、温かくて……ほっとする……)
力強く己を抱く腕の中で、安堵に包まれたせいなのか。芦雪の狭まった喉元が僅かに開き、呼吸がほのかに楽になる。
──このまま、藤仁の腕の中にいられたら。芦雪は奇妙な欲に囚われたまま、熱に浮かされた意識を雨音にゆだねた。
芦雪の疑問と願いに応えるように、首から提がる肌守りは、淡く紅の光を瞬かせていた。
(今……俺は……。どこにいる……?)
朧気な意識のままに、芦雪はふと考える。眼前は薄闇に包まれ、身体は横たわっている。
先刻まで、藤仁の腕の中にいたはずだ。安堵に包まれながら、いつしか意識を手放してしまったことだけは覚えている。だが、以降の記憶は断ち切られ、先には闇があるのみだ。
「……せ……さま……ほ……」
「わか……薬を……ませて……」
「……は、ここに……」
「……つの……は早……店……」
行き先もなく、ただ漂うだけ意識が、二つの声端を掴む。少女のものと青年のもののようだった。途切れ途切れにしか内容は分からなかったが、二人の声音は共に重く、低い。何かについて相談しているようにも聞こえる。
果たして、とうに耳慣れたはずの声も気配も、一体誰のものだったろうか。
静寂に包まれ、何も聞こえない。だが、気配はまだ、確かに一つだけ残っている。一体誰が、芦雪のそばに身を置いているのか。皆目見当もつかなかった。
重い瞼に力を込める。しかし、身体は言うことを聞かない。唯一動かせたのは、唇のみだ。声を出すことは生憎叶わなかったが、口を薄く開くことはできる。
そばにいる者の名を、理由もなく知りたいと願ってしまう。芦雪は微かに唇を動かした。
「ん……ぅ……」
やわい感触が唇を伝う。表面は少しばかり冷えていたが、触れ合う時を重ねれば、徐々に温もりを宿していく。芦雪の口端から、出なかったはずの声が漏れた。
(気持ちが良い……)
この感触をもっと味わいたい。この温もりがもっと欲しい。小さな欲に
(苦い……。大嫌いな……発作の薬みたいな味……)
舌を這う苦味を、やっとの思いで飲み下す。我が物顔で居座る味を上書きしたいがために、芦雪は触れる温もりを求め、引き留めるように唇を動かした。
やわらかく、また包むような感触は、やがて啄むように角度を変える。頭を撫でるように、優しく。それでもなお、舌奥に残った不快感は消えなかった。
音もなく、温もりは唇から離れていく。何故、どうしてと、焦燥だけが頭の中を占めた。
(もっと……。もっと、欲しい……。俺、から……離れていかないで……)
芦雪は喘ぐようにして、小さく口を動かす。それに、何かが身じろぐ気配がした。
離れたはずの感触が、再び唇に重なる。同時に、苦味を打ち消す水が舌上を撫でる。
「ん、ふ……ぁ……」
喉を鳴らし、水を体内に受け入れる。上手く動かない舌先は、全ての水を受け止めきれず、口端から一筋の雫を落とす。滴る露は顎から首元を伝ったが、熱を孕む身体を冷やしてくれているようで、気分が良い。芦雪が唇を動かすたび、ぬめりけのある感覚が舌に絡みつき、かすかに水音をたてた。
ほのかに甘さをまとう何かは、まるで菓子のようだ。芦雪は舌先を懸命に這わせ、水のようなそれを吸う。喉を震わせて飲み込むと、口内から苦味が消えたような気がした。
(あぁ……。もう、苦くない……)
押し当てられていたやわい感触が、名残惜しげに離れていく。再び独りになった唇で、芦雪は小さく息を吐いた。
口元が緩む。手招く闇に誘われるままに、朧気な意識は輪郭をなくして沈んでいった。
淡いぬくもりが、瞼を撫でる。透かした光のまばゆさに、芦雪は瞳の
(ここは……俺の部屋か……)
視界に映った天井は、今はもう見慣れたものだ。小鳥のさえずりと、明け六つの鐘の音が障子の隙間から響き、麗らかな春の朝日は畳に影を落としていた。
発作を起こし、意識を失ったことは覚えている。その後の記憶はなく、見たばかりの夢も朧だ。藤仁によって部屋へと運び込まれたあと、翌朝まで寝入ってしまったのだろう。
(発作の薬……。あれを飲まないと治らないのに、今は息苦しさもない……。いつの間に飲んだんだ……?)
喘病を患う身体は、
五年ほど前までは頻繁に発作に悩まされていたし、少し浮かれて外に出るだけで、熱に苛まれていた。故に、この虚弱な身体は、薬の支えなしでは生きていけない。
芦雪は胸元をまさぐり、薬の入った
不安に駆られ、上半身を起こそうと寝返りを打つ。不意に目の前に現れたものを視認し、芦雪は動きを止める。数瞬の間をもって、喉奥から反射的に声が出た。
「ふじ……っ!?」
寝返った先に、藤仁の寝顔があった。少しでも動こうものなら、互いの鼻先が触れ合ってしまいそうだ。
瞳を縁取る長い睫毛に、整った鼻梁。小さな寝息がこぼれる唇は薄く、艶めいている。指の関節が明瞭な手は、芦雪の着物の袖を握りしめており、緩ませようという気配はない。
藤仁は幼子のように、芦雪の隣で静かに眠っていた。
(……っ、びっくりした……!)
芦雪は思わず、片手で口元を押さえた。至近距離で藤仁の顔を見る機会など、そうそうあることではない。恐ろしいほどに整った顔立ちを不意に近くで見せられれば、自然と驚きの声が上がるのも仕方がなかろう。
(看病……してくれていたのか……)
横たわる藤仁のそばには、水を張った桶と手拭いがあった。雨に降られたためか、藤仁は普段の小袖から着替えていたようだが、髪は頭の高い位置で結われたままだ。
着替えを終えてからずっと、そばにいたのだろうか。不器用で頑固な藤仁のことだ。松乃が代わると言っても聞かず、寝ずの番をしていたのやもしれない。その姿を想像して、芦雪の口端は不謹慎ながらに緩んだ。
花見にともに出かける前までは、そんな素振りなど、露ほども見せなかったというのに。きっと、彼の中で何かが変わり始めている。これ以上ない、喜ばしい兆しだ。
芦雪は頬杖をつき、藤仁の寝顔を観察する。松乃同様に、歳不相応な落ち着きを持つ藤仁だが、寝顔だけは例外なようだ。目元にあどけなさが残っているように見えるのは、眠っている間は気が抜けているからだろう。
郷里の幼い弟の寝顔を思い出し、指先を藤仁の頬へと伸ばす。眠る弟にしていたように、彼の頬をやわくつついた。
「ん……」
藤仁の眉根が僅かに跳ね、身動いだが、起きる気配はない。
「ふふ……。お前はこんな顔をして、毎日眠るんだな……」
湯に身体を浸すように、胸裡に広がる温かな感情。親愛。庇護。思慕。慈愛。そのいずれにも当てはまりそうな形を成しているというのに、輪郭が重なることはない。
芦雪は男の頬から指を離し、彼の前髪を梳き始めた。幼子の頭を撫でるように、そっと。
やがて、藤仁の瞼が薄く開く。目尻は蕩け、自身に視線を落とす芦雪を見つめている。
小さな笑みをいくつもこぼしながら、芦雪は藤仁の乱れた髪を再び梳いて整えた。
「……藤仁。もう起きたのか? ここで寝てたら……」
──風邪ひくぞ。藤仁を思いやる言葉は、唐突に断ち切られた。
軽やかな衣擦れの音とともに、芦雪の背は布団に押し付けられる。視界は美しい花の
「ふじっ……ん……!?」
藤仁の名を呼ぶはずの唇は、その名を持つ者によって塞がれる。目の前で弾ける小さな水音。唇に重なるやわい感触。もっと、と先を求めたくなる心地良さ。
──この感覚を知っている。夢の中で感じた、あの温もりと同じだった。
「ふぅ……ぁ……っ……」
自身に何が起きているのか。先刻の夢は本当に夢だったのか。芦雪がそれを理解するのに、そう時間はかからなかった。
藤仁に口付けられている。事実への驚きや羞恥よりも前に、頭の中を巡り始めた熱と小さな快感が、藤仁の唇を求めた。
どちらが先にけしかけたのかは分からない。啄むだけだった口付けは、やがて深みを帯び、互いの舌先が絡んでいく。くちゅ、と唾液を送り合う音が耳朶を打ち、息をつく間もなく、何度も角度を変えて互いの唇を貪った。
「藤……仁……」
「……芦雪」
名残惜しむように離された舌先が、艷めく銀糸で芦雪と繋がっている。糸はひとつの露となり、芦雪の口端を伝う。藤仁は眦を緩め、芦雪の頬を優しく撫でて微笑んだ。
春の花が綻ぶような。寒さに耐え忍んでいた蕾が、春の陽を受けてようやく花開いたような。どこか脆く、危うい儚さを含んだ微笑だった。芦雪は、ひとり息を飲んだ。
「これは夢だろう……」
藤仁はやはり、切れ長の瞳を細めている。目の前の存在を確かめるように。愛おしい者を慈しむように。彼は芦雪の
感覚のない髪先から熱が伝わったような心地に陥り、またそれが余計に、胸中でとぐろを巻く芦雪の渇きを煽った。
「夢なら……君に、触れてもいい……?」
(……夢、なら?)
目の前の男は、このやり取りを夢だと思っているのだろうか。芦雪の散漫とした思考をよそに、藤仁は芦雪の返答を待たぬまま、首筋に顔を埋めた。
「ふ、藤、藤仁! ちょ、ちょっと待てって! お前、寝ぼけて……」
藤仁が制止に耳を傾けることはない。首、頬、瞼、額へと口付けの雨を落としていく。
戯れのような慈雨に、芦雪は身を捩りながらも受け入れてしまう。先刻までの深い口付けといい、彼からの行為が嫌ではない自身の心の在り方に、驚きを隠せなかった。
「芦雪……。俺だけの……
教えたはずのない幼名を紡ぎ、彼は縋るように芦雪の耳朶を食んだ。ぬめりけのある水音が耳奥を刺し、発作でもないのに息があがる。首筋を慣れない感覚が這い、声が漏れた。
(藤仁のやつ……っ、なんて夢を見てるんだ……!)
意識が覚醒しないままに及んだ行為など、本人の意志とは何ら関係ない。
──藤仁の明確な意志のもとで、口付けをされたわけではない。その事実に、ひどく落胆しているもう一人の自分が顔を上げた。
(なんで……?)
不確かな想いと渇きが不安を煽る。芦雪は藤仁から目を背けたが、すぐさま頬に大きな手が添えられ、熱を孕んだ視線と再びもつれ合った。
「……俺から、目をそらさないで。今だけは……俺を見て……」
藤仁の静かな声音とともに、やわい感触が瞼に落ちる。別れていた唇が再会を喜ぶかのようにひとつに重なり、瞬く間に呼吸を奪われた。僅かな隙間を縫って息を吸い込むが、何の抵抗にもならない。芦雪はただ、口内を興奮の熱で犯されていた。
本能的な高揚から舌先は震え、絡む感触に上手く応えることもできない。藤仁は芦雪が悶える様子を愉しむように、時間をかけて味わっているようだった。
「んん……っ! ふ、じ……、待っ……」
「待たない」
彼の長い指が、鎖骨をなぞる。口内に居座る柔らかな熱とは異なり、やや固く冷えているせいか、肌は粟立っていた。
この先、何をされるのか。どこに触れられるのか。聞かずともわかった。それにどこか期待している自分がいることも、全て。
案の定、節のはっきりした手は、小袖の合わせを割り開いて忍び寄る。男の手がまとう性急な動作は、芦雪の男にしては敏感な部分を軽く弾いた。
「……っ、ん……!」
なけなしの理性が首を横に振って必死に訴えるが、今の藤仁には届いていない。それどころか、芦雪の漏らした声に気を良くしたようで、今度は円を描くように指先を動かし、責めたてる。整えられた爪先が表面を小刻みに擦るだけで、胸の粒は固くなった。
芦雪の襦袢の衿元はいつしかはだけ、欲に熟れた先端が晒されていた。太陽に愛されぬ白い肌に、赤く染まった二つの蕾が映え、芦雪の羞恥を多分に煽る。芦雪は早まる呼気を抑えんと、思わず腕で口元を覆った。
「……随分と素直じゃないか、君の身体」
「んな……こと……っ、あ、……!」
藤仁は迷うことなく、尖ったそれを口に含んだ。つつ……と舌先を這わせて捏ねる感触が、脳をやわく刺激する。決定的でない感覚が、ある種のもどかしさを掻き立てる。素直にそれを肯定するのも憚られた。
藤仁も物足りなさを感じたのだろう。やがて強く吸う水音とともに、彼は再び胸の飾りに刺激を送り込み始めた。片方は柔らかな唇が吸い上げ、もう片方は節くれだった男の指で摘まれる。芦雪の身体は跳ね、微弱な快楽に耐えかねて、藤仁の頭を抱きしめた。
「……やめ、ろ……、ぁっ……」
行動と言葉が相反する芦雪の濡れた懇願に、藤仁が聞く耳を持つはずもない。嘲笑うように、わざとらしくじゅうっと音を立て、より強く食んだ。
「ッ、ぁ……あっ、あ!」
「本当に、嫌なのか……?」
妖艶に口端を引き上げ、なおも指先で捏ねながら藤仁が示したのは、彼の唾液でぬらりと照る己の乳嘴。固く尖り、薄紅に色付いた乳輪に露をこぼして、ひくついている。
──普段、寡黙なはずの男が、夢の中ではこんなにも饒舌に、妖しく笑うだなんて。芦雪の視界は、快楽によって引き起こされた涙で滲んだ。
藤仁の手は芦雪の下腹部へと伸び、腿を撫で上げる。指が徐々に上へ上へと登り、普段決して人に触れさせることはない私的な部分にまで這いよった。
興奮と悦びで膨らむそれを軽く握られ、焦らすようにゆっくりと扱かれれば、先端から蜜が滴る。藤仁の手の動きに合わせ、空気を孕んだ粘着質な音が部屋の中で響いていた。
「ぁ……っ、は……、ん」
互いに明確な意志がないままの行為で、快感を示すわけにはいかないのに。本能がそれを許さない。どうしようもなく悦楽を煽られ、もっと強く触って欲しいと願ってしまう。
目の前の男を刺激しないよう、芦雪は唇を噛んで声を我慢するが、余計に苦しくなった。
「……そんなに気持ちがいいのなら、声を我慢しなくて良いのに……」
「そ、……っ、あ、ふ……んぁ……!」
布団の敷布を握りしめれば、皺が幾重にも寄り、その度に藤仁は優美に笑んだ。
「……もっと、君の可愛い声を聞かせて」
耳端に、艶の滴る低い声と熱を孕んだ息が落ちる。舌先が耳朶を這い、未だ奥深くに眠る芦雪の欲を引き出そうとしていた。
藤仁は何故、こんな時に限って、最も求めていた表情を向けるのか。
(ずるい……。藤仁は、ずるいよ……)
強く抵抗もできず、再び視界が滲む。止めさせなければという義務感と、藤仁を求めて叫ぶ本能がせめぎ合い、頭がおかしくなりそうだった。
芦雪の微弱な嬌声は絶え間なく響き、声に合わせて濡れた音がより激しさを増した。
「あっ……ひ、あぁっ……!」
「君は……裏筋と先、どちらをいじめれば、より可愛い声で啼くんだろうな……?」
指先が裏筋をなぞり、身体が小さく跳ねる。その様子を丹念に観察しながら、藤仁は固く腫れ上がった陰茎の鈴口に、先走りに濡れる親指を添えて擦った。
「あ……? あっ……ぁあ……!!」
暴力的な快感が身体を貫く。どれほど泣き喘いでも、藤仁の指は止まらない。品のない音が鳴り止むことはなく、身体が快楽を深めるほど、透明な体液が溢れ、陰茎の輪郭をなぞる。頭に入り込む甘い愉悦の濁流に、芦雪は抵抗する暇もなかった。
「や、やめ……、ごめっ、ごめんなさ……ッ……! ぁ、もう……むり、むり……!!」
「相変わらず、君は泣き虫なんだな……」
藤仁は、芦雪の目尻に溜まった雫を舌先で舐め取ると、苦笑をこぼした。
昔を懐かしむような、穏やかな口調。疑問と驚きから、芦雪は小さく口を開いた。
「ふじ……っ! ……ん……っ……」
「……ん……。ね、……口、開いて……」
隙間ができた一瞬を逃さず、藤仁の舌先が口内に侵入し、芦雪のものと絡んで深くなっていく。息継ぎも惜しいとばかりに舌を吸われ、上顎を舐められる。唾液が音を立て、互いの口内で混じり合う。どちらのものとも分からぬそれは、芦雪の喉を通って体内へと吸い込まれていった。
藤仁の手は、芦雪が流す先走りでより滑らかに動き、徐々に早まる。触れ合う唇と下腹部から伝う快楽に、頭の中では火花が散っていた。
「っは……! んっ、ぁ……も、……! ね、あっ……いっ……く……っ!」
「好きなだけ、果てるといい……」
投げ出した足先がぴんと張って、布団の布地に皺を刻む。くつくつと満足そうに笑う声を聞きながら、芦雪は藤仁に言われるがままに吐精した。
藤仁の手に落とされた白い欲が、彼の指に絡みついている。無理矢理に吐かされた生理的な反応とはいえ、汚いものを美しい彼の身に着けてしまったことに罪悪感を覚えた。
「藤仁……。そ、れ……ごめん、な……。……汚いから、早く拭かないと……」
「どうして?」
藤仁は伏せ目がちに問い返すと、至極当然のように、白濁を着けた自身の指をひとつひとつ口に含み、妖艶に笑った。
芦雪の欲を飲み込んだ喉が、目の前で上下に揺れる。ある種の背徳感が芦雪の背を舐めた。
藤仁は再び芦雪の頬に手を添え、触れるだけの口付けを落とす。唇が離れれば、互いの睫毛が触れ合い、熱に潤む黒鳶色の瞳と視線が交わる。
「俺だけの、水仙の君……。君だけはどうか……ずっと、俺の……そば……に……」
祈りのように。情愛の囁きのように。放たれた言葉は、静けさを取り戻した空気に溶けて、泡のように消えていく。藤仁は陰を含んだ瞼を閉じ、芦雪の上へと倒れこんだ。
「っ、藤仁……!?」
恐る恐る黒鳶の髪に触れる。伏せられた顔を覗き込むと、元のあどけない寝顔があった。
(この状況で……寝たのか……?)
静かに寝息を立てる弟分がたいそう憎らしかったが、叩き起こすのも気が引けた。何より、今は気まずさが勝り、顔をつき合わせて言葉を交わすのは不可能に近かった。
「な……んだ……ったんだ、今の……」
まるで、本当に夢の中の出来事だったように、部屋から音が消える。藤仁の吐息だけが、規則正しく空気を震わせていた。