第七筆「切願」

「なぁ、もう食べないのか?」
「腹がいっぱいなんだ」
「相変わらず食が細いなぁ。そんなんじゃ、肉が付かないぞ?」
「そっくりそのままお返しする」
 芦雪ろせつが花見弁当に舌鼓を打つ中、藤仁ふじひとは早々に食べ終わり、画帳に筆を走らせていた。
 彼は芦雪に画帳の表紙を向けているため、何を描いているのかは不明だ。時折、桜の木や枝、宙を舞う花びらに視線を渡らせていることから、桜の写生をしているのだろう。
(俺も、そろそろ写生に取りかからないとな)
 だが、弁当を口内に掻き込むような無粋な真似はしたくない。芦雪が手にしている弁当は、藤仁や松乃が今日のために作ったものだ。大切に味わうのが食す者の努めである。
 芦雪はそう思い直し、悠然とした仕草で再び箸先を動かし始める。暇を持て余した思考のままに、眼前を彩る花びらを眺めていると、薄紅の花衣の隙間から、黒鳶の視線が芦雪を捉えた。
「なんだ、俺の顔をじっと見て。……もしかして、何かついてる?」
 言葉なく何かを語る瞳に疑問を覚え、芦雪は己の口元に触れる。藤仁はその様子に小さく息をこぼしてまた、粛々と画帳に向き直った。
(俺の顔……、ため息をつくほどに残念な顔か!?
 確かに、藤仁のような花も恥じらう端正な顔立ちに比べれば、芦雪の見目は物足りなさを覚えるであろう。
 郷里にて、幸之助とともに受けた、娘たちの色めきだった声が脳裏に響く。ただ、その大半は幸之助に向けられたものであった事実が苦い記憶として蘇り、芦雪は顔をしかめた。
(貰った恋文の数も、幸之介の方が多かったもんなぁ……。ひとの想いに数をつけるなんて、無粋だけどさ)
 芦雪は神仏に見限られている。藤仁らのように品の良い容貌を与えられず、ひいては皆が当然のように享受している健やかな身体さえ、授かることができなかった。
 二重の瞼や厚い睫毛は、世を知らぬ幼子にも似た淡墨うすずみの瞳を強調させ、陽の光に恵まれなかった白い肌は、病弱さを肯定されているようで、未だ好きになれない。芦雪を芦雪たらしめる容貌は、世間の普遍から逸脱している。それが時折、裡に燻る不安を煽った。
 麗らかな陽光が桜雲を透かし、芦雪の肩に落ちる髪を照らす。冬を含んだ淡墨うすずみ色は彩を奪われ、春を深める今の時節には不要だと言わんばかりだった。
 ——己が何者にも必要ない存在であることなど、とうに知っている。だと言うのに、周囲の優しさと向けられる慈愛に甘えて、今ものうのうと息をしている。
(……だから俺は、江戸に来たんだろう)
 指に掛かった箸に力を込める。芦雪は、弁当の隅に残った最後のかすてら卵を口の中に放り、喉元までせり上がった暗鬱ごと飲み込んだ。
「ごちそうさま! いやー、美味かったなぁ」
「……そうか」
 芦雪は膨れた腹を大げさに撫で、努めて明るく感想を述べた。
「おかげで腹がいっぱいだ。このまま桜の木の下でうたた寝してしまいそうだよ」
「写生しに来たんじゃなかったのか」
 藤仁は画帳から目を離すことなく、淡々と返した。紙上を走る筆の動きに淀みはない。流麗とも言える動作に、芦雪の肩は自然と跳ねた。
 もし、流れるような彼の動きを止めたなら。彼に、どのような表情を向けられるのか。 疑問は純粋な好奇心となり、理性をそそのかす。芦雪は藤仁の隣に座り直し、身を寄せた。
「なぁなぁ。藤仁は今、どんな絵を描いてるんだ? お手本として見せてくれよ」
「嫌だ」
「どうして? 恥ずかしがることないだろ」
「恥ずかしがってない」
「じゃあ見せて。な?」
「断る」
 距離を詰めれば詰めた分、藤仁は座ったまま距離を取る。言うまでもなく、画帳は彼の手の内に吸い付き、離れる気配はない。
 芦雪は意地悪く口端を引き上げると、じりじりと這い寄る。藤仁も同じだけ後ずさるが、逃げるなと言わんばかりに、桜の幹が彼の背を受け止めた。
 今の藤仁に逃げ場はない。芦雪は半ば覆いかぶさらんばかりの体勢で、四つん這いのまま標的を追い詰める。上目遣いに藤仁を見つめ、笑みを深めた。
「そう言わず。今日のお前は、俺だけの絵のお師匠様だろ? 見せてよ、藤仁せんせ?」
 藤仁の掌中のものに手を伸ばせば、彼の逞しくも長い腕は青褐あおかちの袖を伴って逃げていく。眉間には見慣れた皺が刻まれ、いっそう、芦雪の悪戯心を煽った。
「……こら。やめなさい」
 藤仁は弟妹にかけるものと同じ物言いをしながら、眼前の悪童をたしなめる。それでも、じゃれ合うような画帳の奪い合いは続いた。やわらかな春の眼差しを受け止めながら、藤仁と戯れを交わす。今の芦雪には、それが最上の幸福のようにも思えた。
「やりぃ! 取った!」
「っ、芦雪!」
 画帳を手にし、芦雪は満面の笑みを浮かべると、藤仁に奪われまいと大切に抱え込んだ。
「……返せ」
「やだね!」
 声音に無邪気さをまとわせ、藤仁の要望を突き返す。藤仁の眉間の山峰は陰を濃くするばかりだ。目の前に広がる光景が、芦雪には愉快でたまらなかった。
「ふふ。取れるもんなら……」
 ——取ってみろ。放たれるはずの言の端は、唐突に奪われた。藤仁に宿っていた僅かな嫌悪が、一瞬にして凪ぐ。男の瞳の奥には、冴え渡るような冷たい熱が見え隠れしていた。
 芦雪が息を飲んだ数瞬の間に、手首を強く掴まれる。抵抗しようと身をひねるうちに均衡を崩し、芦雪は地面に背を強かに打ち付け、呻き声をあげた。
「痛たた……背中打った……。おい、藤仁。いきなり掴むなよ……」
 痛みに耐え、瞼を押し上げれば。恐ろしいまでに整った男の顔が、視界に満ちた。
 鼻先が擦れ合うほどに顔が近い。耳をすませずとも、互いの吐息が聞こえてくる。倒れた弾みに髪紐が緩んだのか、艶のしたたる藤仁の髪は流れ落ち、芦雪の頬を微かに撫でた。
 拘束性のない狭い檻に包まれ、ほのかにたつ藤のこうに酔いしれそうになる。
「藤……仁……」
 男の名を、掠れた声で紡ぐ。それ以外に、何を口にすれば良いのかが分からなかった。
 藤仁は一瞬、僅かに唇を震わせたように見えたが、芦雪が次の言葉を発する前に身を起こした。触れそうで触れ合わなかった温もりが消え失せる。それを寂しいと、刹那でも思ってしまったのは、一体何故なのだろう。
 着物に着いた土埃を払い、藤仁は地に伏した今紫の髪紐と画帳を拾い上げる。背を向けて髪を結い直す姿は、後朝きぬぎぬの朝のそれのようにも見え、背徳感が芦雪の背をなぞった。
 芦雪もようよう身を起こすと、藤仁から目を逸らし、自身の乱れた衿元を整え始めた。
「……芦雪」
 低い声音が、身に馴染み始めた名を呼ぶ。顔を上げれば、やはり背を向けたままの藤仁が立っていて、芦雪を見ようともしない。何故、と小さな疑問が舌先を這った。
「絵は……、また今度見せる」
 藤仁は、呟くように述べた。色の見えぬ声には情が宿り、平生のものとは似ても似つかない。男の首筋には一筋の朱が差され、髪間から覗く耳端は僅かに熟れて見えた。
(藤仁のやつ、まさか照れてる……?)
 芦雪は薄く口を開き、藤仁の背を見つめる。耳を刺す沈黙に、彼はようやく振り返った。
 唇は固く結ばれたままだったが、芦雪と視線を交わす目元は色めいている。藤仁は再び、気まずいと言いたげに視線を外した。
(あの藤仁が! 照れている!)
 疑問は確信に変わり、芦雪の口端は止める間もなく緩んでいく。引き締めようとすればするほど笑みがこぼれ、為す術もない。
 感情表現に乏しい藤仁が、明瞭に己が心を示している。意図的ではないものの、芦雪が引き起こした行為によって。
 芦雪の唇が含みのある弧を描くと、藤仁はやはり、常と変わらぬ声音で言った。
「……写生。しないのなら俺は帰るぞ」
「えっ、うそうそうそ! これからちゃんと描くってば! そんなに拗ねるなよ。な?」
 芦雪は慌てて居住まいを正して座り、広げたままだった重箱を手早く片付ける。そして、愛用の矢立から筆を取り出して見せた。
 ご機嫌を窺うように、締まりのない笑みを向ければ、藤仁は大きなため息を吐いた。
 彼の吐息が静かに春の陽に溶け、そよぐ風にさらわれていく。やがて二つの肩が並び、嗅ぎ慣れた墨の香りが一寸の間を結んでいった。
 二人は各々、桜の木々や花びら、地に天に花見客に、と視線を適宜預け変えながら作業をこなす。暫し場を満たしていた沈黙は、音の外れた鼻歌によって均されていた。
 朱塗りの仁王門、花見に興ずる人々の表情、地面に敷かれた花筵。芦雪は心のままに、軽やかな筆致で画帳の紙面を彩る。
(これでよし……と。うーん……。ここはもう少し、画面を近くに寄せて描いた方が良いだろうか。桜の花の綻び具合がどうにも表現しづらい。藤仁に聞いてみるか……)
 桜の枝葉や花を描き終えたところで、芦雪は顔を上げ、指南を請おうと隣の横顔を見る。しかし、そこには真摯に画帳と向き合う姿があり、声をかけるのも気が引けた。
(それにしても……。本当、作り物みたいだよなぁ……)
 何をしても絵になる男というのは、藤仁のことを言うのだろう。芦雪の素直な感想は周囲も同様に持っていたようで、彼は今も、年若い娘らから随分と熱心な視線を浴びていた。
 藤仁の成す集中は、どのような場においても外界と自身とを遮断してしまうらしい。娘たちの色めきだった密やかな声にすら、気付いていないようだった。
「あの……」
 何度目と分からぬ声に内心ため息を吐きながら、芦雪は画帳を閉じる。愛想の良い、貼り付けなれた笑みを携え、立ち上がった。
「おや。可愛らしい娘さんたち。どうかされましたか?」
「か、かわ!? ぇ、えと……そ、その……」
「可愛らしいだって! 大丈夫そうだよ。ほら、早く早く」
「頑張って……!」
 芦雪の目の前には、三人のうら若き乙女が佇んでいた。花見のために仕立てたであろう晴れ着が、彼女らの柔肌をより瑞々しく、はつらつとさせている。
 友二人に挟まれた娘は、淡い色合いの上等な振袖の袖口を握りしめ、頬をほんのり紅に染めて口ごもっていた。
「俺に何か用かな? それとも……後ろの俺の連れに用かい?」
「あっ、その……! は、はい……」
 親指で己の背後を指せば、娘はますます顔を上気させ、縮こまってしまった。
 歳の頃は松乃と同じか、それより少し上か。ちょうど、藤仁や芦雪と同じ年代の男に憧れを持つ時期であろう。彼女も例に漏れず、藤仁の持つ怜悧な雰囲気と、誰もが目を引かれる美しい容貌に魅入られたようだった。
「い、一緒にお茶でもどうでしょうか……? 良ければ、あ、貴方もご一緒に……!」
「俺も誘ってくれるの? 可愛いうえに優しいね」
「か、や、やさ……!?
「でも、ごめんな」
 芦雪は少女の目線に合わせて腰を落とし、己の唇に人差し指を宛てがった。
「あいつ、今逢い引き中なんだ。……俺とな」
「他の人には内緒だぞ?」とやわく眦を垂らす。刹那の静けさが場を包んだ後、三人の娘たちはようやく言葉の意味を咀嚼したらしい。彼女らの頬は、みるみる紅潮していく。
「あいつや俺には勿体ないお誘いだ。わざわざ声をかけてくれてありがとう」
 後腐れのないよう笑みを深め、芦雪は当たり障りなく礼を述べた。
 一方、誘いをすげなく断られたというのに、三対の大きな瞳は惚けた様子で、暫し芦雪を見上げていた。
 三度、乙女の白い瞼が瞬く。そして頬に朱を差したまま互いに顔を見合わせると、少女たちは何度も頷きながら、背を向けて去っていった。
(……やれやれ。このやり取りも何回目だ?)
 少なくとも、片手で足りぬ程には断りの文句を述べたはずだ。芦雪は長い前髪をかき上げ、断る苦労も知らず黙々と絵を描く背後の男を見やった。
 京にいた頃から、幼馴染と歩けば度々遭遇したやり取りである。芦雪ではなく、隣に佇む幸之介が声をかけられ、その断り方も下手と言わざるを得ず、結果、場が乱れる。ゆえに、芦雪が幸之介に代わって理由をつけては断り、場を収めてきた。今では慣れたものだ。
(男同士が付き合ってるのも珍しくないし、断る理由は結局これが一番なんだよな)
 幸之助の時もそうだった。二人がそういう関係なのだと明示するのが、最も手っ取り早いのだ。と言いつつも、この嘘と冗談を交えた文句は、断りと同時にていよく幼馴染を揶揄からかえたゆえ都合が良かった、というのもあるが。
 藤仁を男色扱いするのは気が引けたが、結局はこの断り方が一番楽だ。なにより、相手の娘も傷付けない。
 芦雪は藤仁のもとまで舞い戻り、深く吐いた息とともに、再び彼の隣に腰を落ち着けた。
(おーおー。俺が代わりに娘たちの誘いを断ってやってるってのに、聞こえもしてない。相変わらず、何度見てもどこから見ても、お綺麗な顔立ちのままだ)
 内心それが腹立たしくもあり、また藤仁に声をかけてくる娘らにも嫌気がさす。これでは、ただの八つ当たりだ。
 ——全部、藤仁のせいだ。筆を指先で弄びながら、芦雪は画帳を開いた。
(あの娘たちは知らないだろうな。藤仁の不機嫌に満ちた表情が、どんなに冷たいか。案じる眼差しが、どれほど痛々しく哀しみに溢れているか。……羞恥に染まったはだが、どれほど美しいか)
 墨に濡れた筆先が、過去の面影をなぞっては、紙上に軌跡を残していく。描き上げたばかりの桜花のそばには、ひとつ、ふたつと藤仁の姿が現れる。これまで己が目にしてきた様々な表情を一望し、芦雪は密やかに微笑をこぼした。
(でも……。藤仁が俺に笑いかけた顔だけは、ずっと知らないままだ……)
 たとえ、藤仁の心の機微を理解していたとしても。最も欲しい顔だけは、未だ知らない。
 初めはただ、藤仁が感情に振り回される様を見たかっただけだ。単純な好奇心だった。目論見通りとまではいかないが、今日も藤仁の新たな一面が垣間見え、心が躍った。本来なら、それで満足するべきなのだろう。だが、ひとつ手に入ると、次が欲しくなる。
(今日だけでいい。俺だけのために笑いかけてくれたら……。そしたら、俺は……)
 この胸中に巣食う哀思も、焦燥も、不安さえも。彼の綻ぶような笑みさえ見られれば、きっと何もかもが薄れる。一体、どうすれば藤仁は笑ってくれるだろう。
 春風が頬を撫でる。花宴に湧く人々の笑い声が、遠く耳奥に響いていた。
 ふと、芦雪の思考は、ひと月前の月明かりに照らされる。藤仁と互いに名を呼ぶようになった夜、藤仁は芦雪が描いた子犬の四魂を目にし、触れ合い、かすかに笑んでいた。
 芦雪は画帳の頁を手繰り、何かに取り憑かれるようにして、再び子犬の絵を描き始めた。
 優しく弧を描くふくよかな足に、ころころと今にも転がってしまいそうな丸い身体。見る者全ての眼差しが慈愛に満ちる、愛らしいひとつの真白き命。
(この絵を見れば、きっと……。藤仁も笑ってくれる……)
 仕上げに小さな尻尾を描き、筆先を離す。かつて描いた命を今一度再現できたことに、芦雪は喜びを噛みしめた。
「……? このもや……」
 子犬を縁取る墨の線から、赤錆色のもやが煙のように表出している。子犬の胸元には見知った光が輝き、淡い翡翠色に瞬いていた。
 しかし、翡翠色の光輝は、自身の輪郭を成す墨色や、もやの赤錆色と混じり合い、美しい翠玉の彩りを失っていく。全てを飲み込んだ魂は、闇に近い濃緑に変貌していた。
 ——良い出来じゃないか、眞魚まお。この奇魂くしみたまの力さえあれば、お前の望みは叶うぞ?
 脳裏で、聞き覚えのある男の声が囁く。目の前の出来事に心から悦ぶ、艶の滲む声音。
 一抹の懐古が胸中を占める一方、嘔気を促す嫌悪感も同時に掻き立てられる。誰、と問うこともできぬまま、芦雪は男の声に耳を傾けていた。
 ——さぁ、眞魚まお。私のはくの器よ。この四魂の名を唱えて、顕現させてやれ。この子は、お前の願いを叶えるために生まれたのだから。
 闇に閉ざされた思考が、薄明かりに照らされる。霞が晴れ、不鮮明だった男の顔が露わになる。春夜に浮かぶ、歪んだ繊月。それは三度、形を変え、翡翠の魂に刻まれた音を紡ぎ、芦雪の心臓を強く打った。
「……芦雪? どうした?」
 藤仁はいつしか画帳から顔を上げ、微動だにしない芦雪を見つめている。怪訝そうに名を呼ぶ声は朧気で、芦雪の凪いだ脳裏をさざめかせた。それが、今はひどく不快だった。
 藤仁の呼びかけには応えないまま、芦雪は子犬の絵に触れ、男が囁いた名を口にした。
「……常磐ときわ。俺の願いを……」
 ——叶えて。めいが形を成す前に、怒号にも似た藤仁の声が遮った。
「芦雪っ! その四魂を顕現させるな! 画帳から手を離せ!!
 画帳が芦雪の手から取り上げられるも、既に子犬の四魂の姿はない。藤仁の制止は瞬く間に意味を失っていた。
 ——ふん。眞魚まおの願いを叶えて何が悪い。……藤仁はまた、こうやって私たちの邪魔をするんだな。ひと月前もそうだった。この子は一体、何が気に入らないんだろうな?
 男はくつくつと喉を鳴らす。芦雪の頭に何かが触れ、やわく撫でる。満足げな吐息が耳朶を食んだあと、男は一切の気配を消してしまった。
「芦雪……芦雪!」
「……! 俺は……今、何を……」
 藤仁に肩を揺さぶられ、芦雪は我に返った。頭の中は、常の静寂を取り戻している。
 刹那の時の狭間で、己は一体何をしていたのだろう。つい今し方まで、絵を描いていたはずだ。誰もが口元を綻ばせるであろう、子犬の絵を。
(そこから俺は……どうした……?)
 額に手を当て、霧がかる記憶に懸命に目を凝らすも、晴れる気配はない。焦燥と動揺に、芦雪はすがるものを探して視線を宙にさ迷わせる。不意に、藤仁の一対の眼が芦雪を捉え、浮いた意識を地に留まらせた。
 たったそれだけのことで、不可思議な安堵が胸裡に滲む。束の間、藤仁の背後に濃緑の大きな影が忍び寄った。
「藤仁!」
 咄嗟に藤仁の手を掴んで引き寄せようとしたが、その行動は彼の方が早かった。藤仁は芦雪を守るようにして肩を抱き、自らの片腕の中に閉じ込める。そのまま瞬時に振り返り、己が四魂の名を口にした。
柳雨りゅうう!」
 緊迫した藤仁の声に従い、四魂は淡いはなだ色の光を羽織って、彼の胸元から飛び出す。途端に、濃緑の影を鞭打つ炸裂音が芦雪の眼前で響いた。
 細く、しなやかな肢体。長い黒檀のくちばしには雪のような白が映え、雪解けの景色を思い起こさせる。大きく翼を広げ、濃緑の影を威嚇する姿には覚えがあった。
(藤仁の画室の前にいた……白鷺の、四魂……)
 柳雨りゅうう、と名を呼ばれた白鷺は、胸元をなおもはなだの光輝で彩り、地面から季節外れの枝垂れ柳の枝々を生やしている。彼は柔らかな柳の枝葉を鞭のように操り、目前に迫っていた濃緑の影を薙いだようだった。
 思わぬところで鞭打たれた影は怯むことなく、赤錆色のもやをまとわせ、起き上がった。
(あれは……俺が顕現させた四魂……か……?)
 もやの量が多く、姿は明確な形を成していなかったが、間違いない。赤錆の波間から覗く、短くもふっくらとした獣の手足は、白き子犬のそれだった。
 小さな身体は一面、赤錆色に覆われ、濃緑の濁った光を煌々と瞬かせている。愛らしさが先立つ姿は見る影もない。ただ異形のものとして、二人の前に悠然と立っていた。
 藤仁は、腕の中から芦雪を解放し、たもとから小さな短冊を取り出す。表面には白いはぎの花と、水面に浮かぶ月の絵が描かれていた。
 藤仁は自然な動作で絵に触れ、「水月すいげつ」と名を呼ぶ。白萩の絵はやはり淡い紅色の光を瞬かせながら、絵中から蔓を顕現させた。白萩がひらりと蔓を横に閃かせれば、濃緑の影を中心として、周囲一帯の地面から瞬く間に蔓と花々が芽生える。それらは天に向かって手足を伸ばし、空を覆っていく。
 やがて芦雪らの足下は澄んだ水面で満たされ、遠く目端にも映っていた薄紅の花雲も、花見に興ずる人々の姿すら消し去っていった。いつしか闇に包まれた頭上では、小さな星々と白銀の月が姿を現し、三体の四魂と芦雪たちを見下ろしている。
 まるで、短冊に描かれた秋夜に招き入れられたような感覚。外界から隔絶された空間に立たされ、芦雪の足は僅かに後ずさるが、砂利の感触が足裏を伝うことはない。冴えた水面が芦雪の姿を反射し、浩然と波紋を広げていた。
「ここ、は……」
「安心しろ。ここは水月の結界の中だ。水月が力を解かない限り、俺たちの姿が外界に映ることはない。何をしていようが、何者の目に留まることも、周囲の人間が四魂の力の影響を受けることもない」
 藤仁は一歩前へ歩を進め、芦雪を背に子犬の四魂に目を向けた。
 子犬は藤仁と目が合うや否や、大量のもやを表出させながら、身の大きさに見合わぬ狼にも似た遠吠えを弾き出した。地を這う低い鳴き声は夢幻の秋夜を軋ませ、空気を震わせる。耳朶を伝って脳を揺さぶられるような感覚が、芦雪の身体を這った。
「なんだ、これ……!?
「っ……、これは奇魂くしみたまの……! 柳雨りゅうう、あいつを黙らせろ!」
 藤仁も同様の感覚に苛まれているのか、苦悶を声端に宿しながら、白鷺の四魂に命ずる。
 主の命を受け、白鷺は子犬を鞭打たんと、地面から四方八方に柳の枝を生やして襲いかかるが、子犬は軽やかに身をかわし、じゃれつくように鳴き声をあげて笑っていた。柳の鋭い枝先が地面を穿っているというのに、それさえも愉快だと言いたげだ。
 子犬の鳴き声は、いたいけな童の笑い声と女人の叫び声が反響し合うような、禍々しい音を奏でている。生みの親であるはずの芦雪でさえ力の余波を受け、嘔気が込み上げた。
(あんな、おどろおどろしいものを……俺は……!)
 不意に、眼前に立つ青褐の背中が揺れる。芦雪は思わず手を伸ばし、藤仁の肩を抱いた。
 彼の額には大粒の汗が滲み、薄い唇は荒い息を吐き出している。鳴き声が空間を波打つたび、藤仁の目元には苦悶が宿り、瞼が伏せられる。生来の我慢強さがそうさせているのか、彼は奥歯を噛みしめるばかりで、呻き声ひとつ漏らさなかった。
 子犬の遠吠えが悪さをしているのは明白だ。芦雪は爪先を手のひらに食い込ませ、指を強く握り込むと、画帳を拾って異形のもとまで駆け出した。
「っ! 芦雪っ、行くな!」
 藤仁の焦燥を含んだ声が袖を引く。けれど、今の芦雪を止められる者はここにはいない。
 あれは、己が生み出したのだ。自身が為したことは、自身で片をつけなければならない。
 腰に佩いた刀の柄に手を掛け、左脚に力を込める。濃緑の影が不意に振り返って芦雪を視界に入れた瞬間、芦雪は白銀の光を勢いよく引き抜いた。
 赤錆色のもやを宙に振り撒きながら、子犬の異形は悲鳴とともに地面を転がる。芦雪は乱暴にその首根を掴むと、ずいと顔を寄せた。
常磐ときわ。……絵の中に戻れ」
 ——藤仁を傷つけるために、四魂を生み落としたわけではない。ただ笑って欲しくて。なのに、どうして。
 懇願にも似た主のめいを、異形と化した四魂が受け取ることは最早ない。芦雪の手の中で、常磐ときわはただ身を捩り、もがいていた。
「とき……」
 名が途切れる。常磐ときわは身に羽織るもやを瞬時に濃くし、芦雪の手に噛みついた。
 思わず、力を込めた手が緩む。その一瞬の隙を逃すはずがない。常磐ときわは拘束から抜け出すと、嘲笑うように再び遠吠えを発した。
 声の輪郭が衝撃波のように波打ち、芦雪の頭の中を掻き回すたび、身体の中から何かが吸い取られていく。芦雪は刀を地面に突き立て、揺れる視界を収めようとするも、あまりの目眩に立っていられない。
 膝が地面をついた時、下向く視界に濃緑の四肢が入り込んだ。芦雪が力なく顔を上げるも、そこに小さな異形の姿は無かった。芦雪の身体よりもふた回りも大きな濃緑の獣が、芦雪の顔を覗き込んでいた。
 喉奥から空気が消える。見たこともない、自身が生み出した巨大な怪物に、ただ呆然とする。常磐だったものは音を立てて口を開き、黒々とした口腔を芦雪に向けた。
(あぁ……。喰われる……)
 浅ましい欲へのとがなのだと思った。芦雪は、怪物の口を前にその場にへたりこんだ。
「ごめんな、藤仁……」
 届いているかも分からぬ謝罪を、小さく口にする。京に残した家族も、志半ばで絶えてしまうであろう未来にも、不思議と未練はない。身に訪れる終焉を、ただ静かに待った。
「本当に、君が萎らしいと俺の調子が悪くなるな」
 鞭打つ炸裂音が、力強く響き渡った。異形の身体はいとも簡単に吹き飛ばされ、遠く水面をさざめかせている。鳥の羽音が眼前に落ち、芦雪は柳の枝々に包まれていた。
「ふじ、ひと……」
「怪我……ないか……?」
 濃緑の闇に埋まっていた視界は、見慣れた青褐あおかちの背に染め変えられる。高く結い上げられた黒鳶色の髪尾がたおやかに揺れ、男の美しい頬の輪郭が現れる。唇は安堵したようにやや緩んでいたが、それがこぼす息は荒く、速い。
 芦雪が手を伸ばそうとするよりも前に、藤仁は地に膝をつき、崩れ落ちた。
「藤仁! 大丈夫か!?
「……問題、ない……」
「問題ないわけないだろ!? こんな時までお前は……!」
 藤仁を抱え起こせば、彼は小さく息を吐き、芦雪の肩口に顔を埋めた。
 あやすように広い背中を撫でてやると、藤仁も芦雪の背に手を回し、指先に力を込めた。
「……あの、遠吠えには……精神に感応、して……過去の、記憶を……引きずり出す力が、ある……。君は……」
「俺は大丈夫だ……。少し力が抜けてたけど、今はもう……。お前と、お前の四魂が守ってくれたからだよ、きっと」
 藤仁から少し身を離し、芦雪は彼の額に滲む汗を手拭いで拭う。藤仁は柳眉を震わせていたが、はやる呼吸は幾分落ち着いたようだった。
 芦雪は手拭いを持った手を膝の上に落とし、柔らかな布地に爪を立てた。
「今すぐあの四魂を絵の中に戻したいのに、命じても言うことを聞かない……。このままじゃ、お前が……」
「芦雪」
 強く握りしめている手を、藤仁が力なく包み込む。温かいとは言い難い、体温の低い手。芦雪は俯かせていた顔を上げた。
「藤仁……?」
「大丈夫だから……。そんな顔を、しないでくれ……」
 黒鳶の双眸が、潤んだ光を宿して芦雪を見つめている。
「芦雪……。俺の手を……握っていてくれないか……」
「手?」
「君に触れていると、少し……頭痛が和らぐんだ……」
 普段からは考えられぬほどの弱々しい藤仁の声音に、芦雪の喉が小さく上下する。
 藤仁が言うに、子犬の四魂、常磐ときわは、精神や過去の記憶に作用する奇魂くしみたまとしての力を揮っている。ともすれば、藤仁は過去の思い出したくもない記憶をも掘り返され、それに苛まれているのではないだろうか。
(……俺のせいだ)
 芦雪は奥歯を噛み締める。生唾とともに込み上げる罪悪感で心は掻き乱され、おかしくなってしまいそうだ。乾いた口内を潤すように、芦雪は溜まった生唾を飲み込んだ。
 ——せめて、藤仁の望みを叶えてやれることがあるのなら。
 藤仁がささやかに願った通りに、芦雪は彼の手をやわく握る。数瞬の間があり、やがて無骨な手は芦雪の手を強く握り返した。そばに己以外の温もりがあることで落ち着きを取り戻したのか、彼の額に滲んでいた汗は徐々に引き、蒼白の肌も赤みを差し始めた。
「芦雪……」
「うん? どうした?」
「君は毎日、どれだけ俺が無視しても……。飽きもせず、声をかけてくるだろう……?」
 唐突な指摘に、芦雪は目を瞬かせた。
「それはっ、今言うことじゃ……」
「日向みたいに温かい、君の声に……。俺が、毎日……どれだけ救われているか……。君は……、知らないだろうな……」
 苦悶の表情の隙間から、藤仁は呆れたように、かすかに口端を引き上げていた。
 藤仁が吐露した言葉は、まるで。これまでずっと、襖の向こう側で芦雪を気にかけていたと言わんばかりのものだった。
「それは、どういう……」
 芦雪は戸惑う唇を動かそうとするも、やはりたたらを踏む。柳の枝と異形の攻防を漫然と眺める藤仁の横顔を見ていると、問うことも憚られてしまったのだ。先刻の言葉は、水月が作り出した幻だったのではないか、と。
 芦雪の視界は自然と下向く。二体の四魂が争う打撃音の他に、夢幻の秋夜を震わすものはない。藤仁は暫し場に倣って黙していたが、やがて再び口を開いた。
「君は……、あの絵に何の願いを込めた?」
「願い……?」
「あぁ……。四魂は、直霊なおひの絵師の祈りと願いが具現化された存在だ……。他者への祈りには幸魂さちみたま和魂にぎみたまが、自己への願いには荒魂あらみたま奇魂くしみたまが絵に宿る……」
 目の前で柳の枝を振るう白鷺の四魂、柳雨りゅううは、「何者にも侵されぬ力が欲しい」と藤仁が自身に願ったことで生まれた荒魂あらみたまなのだという。一方で、外界との繋がりを断絶する結界を張った白萩の四魂、水月は、「大切なひとを守りたい」と他者のために祈ったことで生まれた和魂にぎみたまであった。
「君が顕現させたのは奇魂くしみたま……。奇魂くしみたま荒魂あらみたまと同じく、絵師の自身への願いで生まれる……。とりわけ、奇魂くしみたまは自身に精神的な変化を求めた時に宿るんだ……」
 奇魂くしみたまには、絵師の矛を司る荒魂あらみたまのような物理的な力はない一方、絵師本人の精神に感応する力がある。
 人に優しくなりたい。賢くありたい。何者にも惑わされぬ、強い心が欲しい——。絵師が何らかの精神的な変化を己に願った時、奇魂くしみたまは生まれる。早い話、奇魂くしみたまは絵師が願う「理想の自分」になるよう精神に力を波及させ、操るのだ。ある種の洗脳に近い。
 だが、奇魂くしみたまとして生を受けた常磐ときわは、どういうわけか芦雪の精神に力を及ぼしておらず、他者である藤仁へとその力を波及させている。
 それは何故か。答えは、藤仁が知っていた。
「強すぎる願いや欲は、四魂の本質を歪ませる。絵の器に収まらない願いは呪いとなり、他者へとその力を及ぼして暴走するんだ。……主である君から力を吸い取り、あそこまで肥大化してしまっては、四魂を生み出した君自身でも、もう制御できない」
 ──君は、あの絵に何を願った? 藤仁は、再度芦雪に問いかけた。
 芦雪が常磐ときわに望んだことは、ただひとつだ。ささやかでありながら、身勝手な願い。
(まさか……。『藤仁が、俺だけのために笑ってくれたら』と願ったことが……?)
 あれは、自身が変わるための願いではない。他者ふじひとが変わることを望んだ欲望のろいだった。常磐ときわ奇魂くしみたまとしてそれを素直に受け止め、変容し、暴走に至ったのだ。
 藤仁が笑わないのなら、その精神を操ってしまえば良いのだと。過去の記憶を掘り起こし、藤仁が頑なに笑わぬ理由や原因を、なかったことにしてしまえば良いと。
(俺は……なんてことを……)
 四魂が行使する力は、主の祈りと願いに直結する。常磐ときわは何も悪くない。心の奥底で、無意識のうちに醜い願いを吐露した自身に怖気が立った。
 ——彼の手を握る資格など、今の己にありはしない。芦雪が力なく藤仁から手を離すと、藤仁は独りになった手を握り込み、おぼつかない足取りで立ち上がった。
「……暴走を止める方法は、二つしかない」
「二つ? 一つ目は?」
「……松乃の力がいる」
 悪戯っ子のように笑んだ少女の顔が、芦雪の脳裏をよぎった。何故、彼女の名が出てくるのか。理由は、ひとつしかなかろう。
「まさか……お松も直霊なおひの絵師なのか!?
「いや。松乃は絵師じゃない。あの子には他人の四魂に直接語りかけ、それを使役する力がある。少し……特殊な存在なんだ」
「それは……」
 思わぬところで松乃の秘密を知ってしまい、芦雪は何を口にするべきか分からなかった。絵師ではないのなら、彼女は一体何者だというのだろう。松乃と初めて出会った時に感じた、異様な懐古感と関係があるのか。そもそも、他人である自分が耳にして良かった事実なのだろうか。
 芦雪はかぶりを振った。今は、余計なことまで思考するべきではない。
 松乃はここにはいない。とすると、提示された一つ目の方法を実行するのは難しい。ならばと、芦雪は問いかけた。
「二つ目は……?」
 先を急かすように藤仁を促す。彼の唇はやや逡巡の動きを見せたが、答えを述べた。
「……最も簡単な方法。四魂の本体を破壊することだ」
「四魂の本体?」
「あの四魂が抜け出した絵。今回はその画帳だ」
 藤仁が指し示したのは、芦雪が手に持った画帳だった。彼の視線はかすかに伏せた瞼に遮られ、陰を含んでいた。
「じゃあ……!」
「だが本体を破壊すれば、直霊なおひの絵師本人の精神や身体にも反動が来る。……君が、傷つくことになる」
 未だに、遠吠えの残滓が耳奥にあるのだろう。藤仁は眉根を寄せ、大きく息を吐いた。
 ふと、芦雪は腑に落ちる。藤仁が迷いの滲む瞳で、二つ目の方法を告げた事実に。彼はどこまでも不器用で、心優しい青年だ。芦雪の四魂に今も苦しめられているというのに、それを口にすらしない。
(そういうお前だからこそ、俺はお前を……)
 芦雪はひとり、手のひらを強く握りしめた。子犬の四魂を描いた頁を開き、目を落とす。探し当てた頁には、常磐ときわが確かに息づいていた証しである、不自然な空白があった。
 常磐ときわは、ただ芦雪の願いを叶えるために生まれてきただけだ。なんの罪も咎も受ける必要などない。身をもって罪を贖うべきは、己だけであるはずなのに。
 かつて宿っていた温もりの輪郭をなぞるように、芦雪は頁の表面を撫でる。
「……ごめんな」
 我が子同然の者へ、懺悔の言葉を呟く。芦雪は頁にかけた手を、迷いなく引き下ろした。
 紙が裂ける。繋がっていた縁が解けていく。眼前の争いの音と混ざり合い、途絶えゆく命の儚さを強調する。耳奥に居座っていた遠吠えが、いつの間にか止まっていた。
 静かに佇む白鷺の前で、異形は悶え苦しんでいた。澄んだ水面に身体を伏せ、肥大した手足で宙を掻いている。終わりに抗うように、大量のもやを噴出させていた。
(すまない……。もう、無駄に苦しませない。一思いに壊してやる……!)
 画帳の頁が、三つ、四つと音をたてて裂けていく。水面に舞い落ち、僅かながらに波紋を生む紙片は、桜の花びらのようだった。粉々になった紙片は全て、凍てついた夜風にさらわれ、芦雪の手から離れていく。
 常磐ときわは原形を失い、やがて獣の唸り声とともに、もやとなって霧散した。
「……っ、あっ……ぐ……ぅ……!」
 心臓を刺すような痛みがのしかかり、喉元が狭まる。肺から空気が消え、芦雪は口端を僅かに動かすことしかできず、力の抜けた手からは音もなく画帳が滑り落ちた。
「芦雪……!」
「……いい……っ、触るな……! これは、罰なんだから……」
 藤仁を傷つけてしまったことへの。四魂の願いを叶えてやれなかったことへの。醜い願いを生み出してしまったことへのとがなのだ。
 瞼を閉じ、嵐が過ぎ去るのを暫し待つ。早鐘を打つ鼓動が、耳鳴りのように頭の中を掻き回した。胸元に下がる肌守りを握りしめ、赦しの時が訪れるのを待つことしかできなかった。……否。赦されずとも構わないとさえ思った。
「芦雪……」
 如何ほどの時が経ったのか。藤仁の不安げな声音が名を乗せる。目を開ければ、薄く露を宿した眼が芦雪を見つめている。芦雪は、弟を安心させるように笑みを浮かべた。
「もう、大丈夫だ……」
 神仏も満足したのだろう。心臓を突き破りそうだった鼓動と痛みは、形を残すこともなく消え去っていた。
 いつしか、藤仁の四魂はいずれも消えており、夢幻の秋夜は麗らかな春の喧騒に変わっている。四魂たちが大立ち回りを繰り広げていたというのに、周囲は依然として明るい笑い声と表情に満たされ、誰も二人のことを気に留めていない。芦雪は胸を撫で下ろした。
 不意に、目の前を通り過ぎようとする幼子と目が合う。彼女は不思議そうに芦雪に視線を返したあと、己の手を引く母親を見上げた。
「ねぇ、かかさま! ここだけ、お花の雪が積もってるみたい! きれいだねぇ」
「あら、本当ねぇ。……この桜の木だけ、せっかちさんなのかもしれないわね」
「せっかちさん!」
 可愛らしい親子の会話に、芦雪はようやくその意味を理解した。
「……っは。俺のせいで、桜の花も台無しだな」
 見上げた先には、二人が花見に興じていた桜の木が佇んでいる。四魂の乱闘に巻き込まれたせいか、花はそのほとんどを散らしていた。葉桜でもない木は若葉も少なく、ひどく殺風景だ。僅かに残る花びらが、芦雪の前を舞い落ちる。静かに、涙をこぼすように。
「ごめんな、藤仁。……もう、帰ろうか」
 眉尻を下げたまま、けれど半ば無理やりに口端を上げ、芦雪は隣に立つ藤仁を見る。
「……そうだな」
 向けられた眼差しに、何か思うところがあったのだろうか。何かを紡ごうとした唇で、藤仁はただ、芦雪の言葉を肯定した。