第六筆「合縁」

「なぁ。聞いてくれよ、写楽殿」
「聞いておりますとも。本日も、藤仁が笑ってくれない話ですか?」
「そうだ」
 芦雪ろせつは尋夢庵の縁側にうつ伏せに寝転がり、暇をもてあます両の足で宙を掻いていた。
 漂う陽気は、宥めるように芦雪の身を包んでいる。お陰で、重ねた両腕を枕替わりに、このまま昼寝でも始められそうだ。
 庵の主である写楽は、行儀の悪い芦雪を咎めることもない。休日なのを良いことに、真昼間から尋夢庵にやって来た芦雪を穏やかに迎え入れ、面布かおぎぬの端を小さく揺らしながら苦笑を漏らしていた。
「藤仁はさ。仕事の時は話してくれるんだ。けど、それ以外では全くで。俺がずーっと名を呼んでも、遊びに誘っても、渾身の悪戯を仕掛けても、あいつは無視だぞ、無視!」
「まぁまぁ。……藤仁にも、何か考えがあってのことなのでしょう」
「どんな考えがあるって言うんだ。雑談のひとつやふたつ、そろそろ笑ってしてくれたって良いじゃないか……。俺は、藤仁の仏頂面よりも笑った顔が見たいだけなのに……」
 芦雪は唇を尖らせ、頬を膨らませた。
 藤仁の目付け役を任されてから、早ひと月とその半分が過ぎている。季節は待ち望んでいた春になり、尋夢庵の庭先に咲いていた水仙は、雪解けとともにどこかへ攫われてしまった。春風は藤棚の藤木に寄り添い、次々に若葉を芽吹かせては、凍えた庭を温めた。
 新たな季節の息吹は、万物に向けて外へと手招いている。今が盛りの桜を見ようと出かける行楽客もその一つだ。日本橋は、ますます人で湧きたっていた。
 世間では目に見えた変化がある中、芦雪と藤仁の関係は相変わらずだ。流屋の看板を背負う絵師と、その目付け役。それ以上でも、それ以下でもない。
 己にはにこりともしない藤仁が、反抗期の弟のように小憎らしくもあり、なんともつまらない奴だ、と芦雪の中で小さな反感が募るばかりだった。
 芦雪が求めてやまないゆかりの足跡も、砂粒ほども掴めていない。普段は流屋での奉公があり、来年の御用絵試に向けた準備もある。ゆかり探しに躍起になるわけにもいかず、変わり映えのない日々が続いていた。
 数ある不変に囲まれ、無為に日々を過ごしているようにも思えるが、徐々にわかってきたこともまたある。
 ──藤仁兄さんのこと? あの人があまり口を開かないのは、僕たち弟弟子や兄弟子たちに対しても一緒だよ。ね、大兄さん?
 ──そうさなぁ。俺は藤仁が十三の頃から知っちゃあいるが、あいつは昔から、あまり思ってることを口に出さねぇ。琳也先生に正式に弟子入りして、『住吉藤一とういち』の雅号〔絵師としての名〕を貰ってから、それはますます顕著になったかもな。
 ──あまり画室から出てこられませんものねぇ……。末の弟弟子である僕も、お話ししたことがあるのは片手で足りるくらい。たまーに、画室にある顔料が足りなくなって、藤仁兄さんが工房に来られた時、絵の助言を頂くことはありますよ!
 芦雪が幼馴染みから「図々しいやつ」とお墨付きを貰い受けているように、藤仁もまた、周囲からお墨付きを貰うほどに寡黙な青年であるらしかった。
 現に、藤仁の人柄をつぶさに話す兄弟子や弟弟子たちは、「藤仁に愛想がなく、人付き合いも淡々としているのは、いつものことだ」と肩を竦めていた。
 そばで話に聞き耳を立てていた他の絵師らも皆一様に首を縦に振っており、藤仁と彼らの交流の少なさが浮き彫りになっているようにも思えた。
 ──最初は『怖そうな人』って印象でしたし、苦手な兄弟子でしたねぇ……。
 ──……お前、そんなこと考えてたのか。
 ──だって。藤仁兄さんは何を言っても頷くか首を横に振るかで、滅多に言葉を返して下さらないんだもの。普段から工房で一緒に絵を描いてるわけでもないし。何考えてるか分からなくて、そりゃ怖いですよ!
 末の弟弟子は両の手のひらを握りしめ、隣に立つ体格の良い兄弟子に力説していた。
 しかし、何よりも興味深かったのは、彼のその後の言葉だ。
 ──藤仁兄さんは寡黙な分、絵に己の感情を雄弁なほどに乗せておられます。それが何にも代えがたいほどに繊細で美しい一方、嵐の中で何かを叫んでいるような激しさもあって……。だからですかねぇ。今では、藤仁兄さんのことが怖くなくなりました。彼の絵を見れば、その人となりも分かりますから。今では、僕の尊敬する兄弟子の一人ですよ。
 藤仁の寡黙さや、彼がまとう冷淡さに対する不満など、完成した彼の絵を前にすれば、瑣末なことのように思えてしまう。寧ろ、何者も寄せつけぬ孤高さがあるからこそ、このような絵が描けるのではないかと、弟弟子は笑って言った。締めくくられた言葉にまた、どの絵師も一様に頷いていた。
 これらの話や、藤仁との普段のやり取りを通して、芦雪はようやく理解した。藤仁は冷淡な人間のように見えて、その実、心の在り方を言葉で表すのが不器用なだけなのだ。
 己が思考したことについて、芦雪が写楽に語れば、彼は安堵したように息を吐いた。
「なら良いではないですか。特別、芦雪殿にだけ冷たいわけではないようですし……」
「それがどうも違うらしい」
「というと?」
「他の弟子たちは、藤仁の画室を訪ねても締め出されたりしないらしいんだ……」
 芦雪は両腕の上に顔を伏せ、蘇る悔しさに抗うように、両足をばたつかせた。
 ──藤仁! なぁ、藤仁ってば!
 開かずの襖を前に、芦雪は食事を知らせる以外の時間にも、日々声をかけ続けている。
 目付け役としての努めでもあったが、単に「藤仁と話をしてみたい」「他愛もない話で、彼の笑った顔を見てみたい」という、己の癇癪染みた欲求を叶えるためでもあった。
 だが、藤仁が呼び声に反応することはほとんどない。飯の時間の呼びかけに素直に応じることもあるが、ごくたまにだ。襖が開いたと思っても「……うるさい」と一言言うだけで、襖は再び目の前で固く閉じられてしまう。
 あまりにもそれが癪に障ったため、芦雪はつい先日、悪戯を仕掛けた。
 藤仁の画室前の壁一面に、「飯を食え」「夕餉も食いに来い」「味噌汁」「握り飯」「今日の夕餉はかぶら漬け」「春画でも読んでるのか」「何でもいいから飯」「次飯食べなかったら春画読んでるって言いふらす」などと書いた紙を貼り付けたのだ。
 藤仁はどのような反応を見せるだろう。幼馴染の幸之介であれば、烈火の如く顔を赤に染め上げ、芦雪を追い回すに違いない。
 藤仁のまだ見ぬ表情を頭の中で思い浮かべながら、芦雪はくすくすと悪戯な吐息をこぼしていた。彼が画室を出てくるであろう時機を見計らい、近くで今か今かと様子を窺った。
 けれど、部屋から出てきた藤仁は壁一面のそれらを無言で一瞥すると、眉一つ動かさず全ての紙を剥がし、四魂を呼び出して燃やしてしまったのだ。その時でさえ、藤仁の表情は一度たりとも動くことはなかった。
 悪戯が失敗に終わる時ほど、溢れる口惜しさは尋常ではない。芦雪がその日の夕餉に出たかぶら漬けを親の仇のように噛んでいると、珍しく藤仁が居間を訪れ、夕餉を口にした。
 悪戯の効果だろうか。ほんの僅かな期待を胸に宿らせつつ、芦雪は隣に座る藤仁の横顔を盗み見た。すると彼は、長い睫毛をかすかに伏せ、淡々と述べた。
 ──……君は暇なのか。
(暇なわけがあるか!)
 今思い出しても、言いようのない悔しさが募る。
 ならばやり方を変えよう。図々しさを失わぬ芦雪に、諦めるという二文字は存在しない。
 思い立ったが早いが、芦雪は昨日、藤仁が好んで飲むという煎茶と、近頃ちまたで流行っていると聞いたきんつばを携え、彼の画室を訪ねた。
 ──藤仁くん、藤仁くん。お時間よろしい? 芦雪お兄さんとすこーしお話しない?
 ──しない。
 瞬きほどの間に、にべもなく断られ、襖を閉められてしまった。常のように明快な拒絶の音をたてて。
「はぁ……。相変わらず前途多難だ……。他の弟子たちは、藤仁に笑いかけて貰ったことがあると言うんだ。俺にはないのに……」
 ひと月と半月のやり取りを一通り思い返し、芦雪は唸り声とともに深く息を吐いた。
 他人事である写楽は、芦雪の頭上に楽しげな笑い声を落とすばかりだ。
「そんなに、彼が笑わないことが気に入りませんか」
「気に入らん」
「何故?」
 何故と理由を聞かれても、芦雪自身も明確な答えは持ち合わせていなかった。
 小峰の陰が刻まれた眉間。底冷えするような冷淡な眼差し。色を宿さぬ愁眉な顔付き。理由を紡ごうと記憶を掘り起こしても、鮮明に思い出せるのは、悲しいことにそれだけだ。
 そもそも、常とは異なった表情が見てみたいと、単純な興味から思うのはおかしなことだろうか。もはや、意地になりかけている部分もある。
(あいつは……藤仁は……。俺に対して、どんな顔して笑うんだろ……)
 ──もし。ふとした拍子に見せる春花の微笑が、己だけに向けられたなら。笑った顔でなくとも良い。彼の驚きに満ちた顔や、慌てふためく顔も知りたい。
(……そうか。俺は……)
 藤仁が、感情に振り回されている姿が見たいのだ。あわよくばそれが、己が引き出した感情であれば良いと、芦雪は心のどこかで願っている。
「……よし、決めたぞ」
 芦雪は伏した身を起こした。思い切り伸びをすれば、凝り固まっていた考えも解れる。今なら迷いもなく、湧き出た思惑も行動に移せるような気がした。
「……? 何を?」
「内緒だ。上手くいったら教える」
 訝しげに唇を結ぶ写楽に、芦雪は弾けんばかりの笑みを向けた。


 春はあけぼのも良いが、夕暮れも捨て難い。
 沈みゆく陽が空を眠りに誘うべく、薄絹をかけたような薄明を作り出す頃合い。ほんの僅かな時のはざまで、空に季節の風情を感じながらも、「今日はこんなことがあったな」と漫然と考えられるのが良い。
 いにしえの時代、己が和歌を詠む歌人であったなら、きっと「春は夕暮れ」と記すだろう。芦雪は浮き足立った思考で、ひとり笑った。
 芦雪は流屋に帰宅するや否や、画室の主に許可も取らず、襖を勢いよく開け放った。
「藤仁! 俺と花見に行こう!」
「行かない」
「待って、襖を閉めないで!」
 案の定、藤仁は芦雪を一瞥すらせず、慣れた様子で画帳から四魂を呼び出した。彼に忠実なくずの四魂は、蔓で芦雪の背を押し、部屋から追い出しにかかる。
 このままでは、常の流れになってしまう。今日は負けてなるものかと、芦雪は部屋の入口のへりにしがみつき、半ば叫ぶようにして言った。
「今、愛宕あたご山の桜が見頃だと写楽殿から聞いたんだ!」
 襖に掛かった指の動きが止まる。その一瞬を利用しない手はない。これ幸いとばかりに、芦雪は巡らせていた考えを思い切り吐き出した。
「絵の練習も兼ねて、桜の写生をしたいと思っているんだが……。一流の絵師である藤仁に絵の指南を請えたらなー、なんて……。それにほら、一人で花見は味気ないしさ。一人より二人の方が楽しいだろ?」
 藤仁の眉間には皺が寄ったままだ。芦雪は、へらっと形の崩れた笑みを浮かべる。だが、そこで皺をより深く刻むのが藤仁である。
「君には、ゆかり殿という大層なお方の弟子になる夢があるだろう。俺では役不足だ。他を当たれ」
「待て待て待て! ……そう! ついでに四魂の扱い方も教えてくれよ。最近、何故か力が前よりも安定しないんだ……。一度、開けた場所で俺の四魂を見てもらいたい」
「……」
「な? 頼む、この通り!」
 芦雪は藤仁の前で両手を合わせ、来迎した神仏を崇めるかのように、深く頭を下げた。
 実際は瞬きほどの間であろう長い沈黙が、二人の上に舞い降りる。
(……今日も、色良い返事はもらえないだろうなぁ……)
 目の前で懇願する男を、滑稽だとでも思っているのだろうか。しつこい奴だと、いよいよ辟易し始めている可能性もある。
 芦雪は口内に溜まる生唾を飲み、床板の木目を数えてその場をやり過ごした。
「……いつ行くんだ、その花見とやらは」
 凛とした低い声音には、呆れの色が溶けていた。藤仁のそれに導かれ、芦雪は勢いよく顔を上げる。藤仁は入口の柱に肩を預けて、嘆息をこぼしていた。
「え、えぇと……俺の次の休みが明明後日だから、早ければ明明後日とか……?」
「わかった。明明後日だな」
「いいのか!?
「いいと言わなければ、君はどうせまた、部屋の前に居座るだろう」
 どうやら、ここひと月とその半分を、ただ芦雪を無視して過ごしていたわけではないようだ。藤仁は眼前に佇む男の性分というものを、よく理解している。
「……なんだ、わかってるじゃないか!」
「なんで君が偉そうなんだ」
「歳だけで言えば、俺はお前より兄貴だからな! 偉くて当然だ」
 芦雪は、湧き上がる喜びのままに軽やかな勢いに乗り、薄い胸板を反り返して見せた。
「……はぁ。三日後、昼四つ〔10時〕に出る。それまでに準備をしておけ」
「分かった。二人で出かけるのは初めてだから、なんだかそわそわしてしまうな」
 心からの素直な感想を伝えれば、藤仁は視線を逸らした。向けられた青褐あおかちの背中は、芦雪の真っ直ぐさに耐えきれないと、吐露しているようだった。
「約束はした。……今日はもう、話しかけてくるな」
 言いたいことは言ったと言わんばかりに、今度こそ一寸の隙間も無く襖が閉められた。
「……ふふ。三日後が楽しみだ」
 拒絶を示す境界を前にしても、口元の緩みは留まることを知らない。芦雪は締まりのない顔のまま、自室へ戻った。


 日頃の行いというものが作用したのだろうか。待ちに待った花見の日は、運良く麗らかな陽気に包まれていた。空には薄雲がかかっているものの、気にならない程度には陽が顔を出しており、まさに行楽日和だった。
「はい! お弁当です。きっと人も多いでしょうから、お二人ともお気をつけて。いってらっしゃいませ」
「あぁ。ありがとう、お松」
 花見にともに行けないはずの松乃は、何故か上機嫌であった。彼女に重箱の包みを手渡され、芦雪もつられて笑顔で受け取る。途端に、石の如き重みに両手が支配され、足が僅かに前に出た。
 一体何を入れれば、かように重くなるのか。二人分の花見弁当にしては重量がある。芦雪が首を傾げる一方、隣では耳慣れた兄妹の会話が飛び交っていた。
「夕七つ〔16時〕までには戻る」
「あら兄上。たまには時間のことは気にせず、夜遊びのひとつでもされて来てくださいな。芦雪様とのせっかくの外出なのですし」
「……今朝は早く起きたから、早く帰って寝たいんだ」
「まぁまぁ、健康的だこと! いつもは夜更かしばかりなのに……」
「松乃?」
「なんでもありません。……芦雪様とのお花見、たくさん楽しんできてくださいませ。お土産話を楽しみにお待ちしております」
 珍しく眠たげに眦を下げている兄を、松乃はここぞとばかりに揶揄からかっていた。面倒見の良い妹が、年の離れた不精者の兄に茶々を入れる光景は、いつ見ても心が和む。
「芦雪様」
「ん? どうした」
 渡された重箱包を、未だ不思議そうに眺めている芦雪の心中を察したのだろう。松乃は悪戯を思いついたように、大きな瞳を煌めかせて手招きした。
 芦雪が腰を少し落として彼女の口元に耳を寄せると、愛らしい声音が密やかな吐息とともに紡がれた。
「実はね、このお弁当……兄上が作ったんですよ」
 考えもしなかった裏語りに、芦雪は思わず松乃を見た。
(弁当を作った? 藤仁が?)
 芦雪は目を見開いたまま、何も口にできないでいた。松乃は小さな笑い声を絶やすことなく、「おかずはほんの少しだけ、私も手伝いましたが」と付け加えた。
「それは……つまり……」
 藤仁も、花見の日を密かに楽しみにしてくれていたと……そう思っても良いのだろうか。
 わざわざ眠い目を擦ってまで早起きをし、二人分の花見弁当をこしらえるぐらいだ。芦雪との花見にわずかでも心惹かれていたのだと、期待しても罰は当たらないだろう。
「私が言ったってこと、兄上には内緒ですからね」
 松乃は、唇に人差し指を当てて笑むと、芦雪の身体を藤仁の方へ押し出し、手を振って二人を送り出した。
「なぁ、藤仁」
「なんだ」
「お松は良い娘だなぁ」
 遠く離れて小さくなっても、二つの背中を見送る少女を振り返る。芦雪が大きく手を振れば、こちらに向けて手を振り返してくるのが見え、なんとも言えぬ庇護欲がそそられる。彼女が良い娘でなければ、なんだと言うのだ。
 その兄に同意を求めようと隣に視線を預け変えれば、彼は普段以上に唇を固く引き結び、美しい眉宇に険しい陰を宿していた。
 芦雪の発言を単純に厭うているというよりも、幼子が不貞腐れているような表情である。
「……嫁にはやらんぞ」
 藤仁からようやく絞り出された言葉は、妹の嫁入りを阻むものだった。何故、ここでその発言が出てくるのか。芦雪にはとんと分からない。
「嫁ぇ? 俺だってやりたくないさ。お松は可愛い妹分だ。俺が認める奴でないとな」
 至極当然のことを述べたところで、芦雪はふと、腑に落ちる。瞳の奥で辛酸を滲ませながら、何故藤仁が己に向けてその言葉を放ったのか、その意味に。
「もしかして……。俺がお松に惚れてるとでも思ったのか?」
「……だったら何だ」
 藤仁は、更に低い声音で開き直った。ようやく、藤仁の年相応の顔が垣間見えたような気がして、芦雪は吹き出した。
「そうだよなぁ、お松はお前の大事な大事な妹だもんな。そりゃ心配にもなるか!」
 芦雪は目尻に小さな涙を滲ませながら、腹を抱えてひとしきりその場で笑い転げる。一方、藤仁は不服そうに芦雪を見下ろし、やはり口噤んでいた。
 発作染みた笑い声をあげた後、芦雪は馴れ馴れしく藤仁の肩に腕を回し、口端を上げた。
「確かに、お松は良い娘さ。気立てが良くて見目も良くて、おまけに商人の出とは思えぬ程の知性がある。流石はお前の妹だ」
 藤仁の肩に体重を預けたまま、芦雪は歌うように述べる。最後に人差し指を宙で回し、藤仁に問いかけた。
「けどな、お松はお前の妹である前に、俺の大切な妹分なんだよ。妹を娶ろうと思う兄が、この世にいると思うのか?」
「それは……いない、が……」
「だろ? だから、俺がお松を嫁に取るようなことは永遠にない。ふふっ、安心した?」
「……それはそれで腹立たしいな」
「理不尽!」
 何を言っても、今の藤仁は気に入らないようだ。機嫌を直せと言わんばかりに、芦雪は松乃を着飾った言葉と同様のものを彼に向けた。
「そう言うなよ。もちろん、お前だって俺の大切な……」
 自然と紡がれるはずだった関係の糸の名は、理由もなくほつれてしまった。針の穴に入ることは叶わず、玉になったように芦雪の喉奥で留まっている。
 暫し舌上で転がす。だが、理由もなく転がしたとて、形を成し名がつくわけでもない。
 刹那の思考の末、芦雪は最も近しいと思われる形を選び取り、藤仁に渡した。
「……藤仁も俺の……俺にとって大切な弟だと……、そう思ってるよ」
 目付け役、あるいは友のような存在であるよりも前に、藤仁を弟のように見ている。ゆえに彼の身を強く案じている。だからこそ、藤仁には笑って欲しいと願ってしまうのだろう。この欲は、兄貴分という年上の立場から生まれたものなのだ。
 ようやくしこりが解消できたように思えて、芦雪はひとり頷きを深くした。
「ま、お前の場合は、お松と違って可愛くないが付く弟だけどな!」
 軽やかに頬笑しながら、藤仁の背中を叩く。彼は常のように芦雪を邪険に振り払うかと思えば、その場で足を止めた。
「……弟、か……」
 藤仁は、芦雪に示された形を前に、暗色を眼に宿し、瞼を伏せた。
「藤仁?」
 芦雪が顔を覗き込めば、とばりが上がったばかりの視線と絡む。黒鳶色の瞳はかすかに熱を孕み、芦雪の中の何かを探っている。一方で、己が奥深くに隠している何かをいっそ暴いてくれと、すがっているようにも見えた。
「俺は……君の……」
 藤仁は唇を小さく開こうとして、けれど思い留まったように口を閉ざした。
 首を傾げて続きを待ったが、藤仁はただ指を強く握りこむばかりで、結局引き結んだ唇を緩めることはなかった。
「藤仁? なぁ、どうしたんだよ……って、なんで急に早歩きになるんだ? そんなに弟扱いされたのが嫌だったのか?」
「うるさい」
 藤仁は口を動かすよりも前に、止まっていた歩みを再び動かし始めていた。肩に乗った芦雪の温度を振り払わんばかりに、歩調を早めながら。
「あぁ、もう! 待てってば、藤仁!」
 ──やはり、藤仁は可愛くない弟だ。芦雪は、喉元で燻るもどかしさに歯噛みしながら、たおやかに揺れる黒鳶の髪尾を追いかけた。


「はー……。ここは武家屋敷の区画だというのに、やはり春となると人が多いんだな。全員、花見客か?」
「……そうだろうな」
 愛宕あたご山の麓の大通り、愛宕下。芦雪と藤仁は、大仰な大名屋敷の白壁が連なるみちを二人並んで歩きながら、道の先に据わる朱色の総門をみとめた。
 愛宕山の入口となる総門の前は、通りを行き交う人々で賑わっている。その姿は、武士から商人まで統一感はなく様々で、共通点と言えば桜を見に来たぐらいのものだろう。
 総門の前には濃紺の小川が流れ、朱色の太鼓橋が掛かっている。芦雪は軽やかに、藤仁は音のない静かな足取りで橋を渡った。小川は瀟々とせせらぎの音を奏で、他の行楽客と同様に二つの背を山へ送り出していた。
 門を潜った先で、石造りの鳥居が現れる。右手と左手に各々二つの階段があり、境内への道筋を指し示していた。
 左手の階段、いわゆる男坂は、山頂へと一直線に伸びている。参道としては最短のものだが、勾配は空に届きそうなほど険しく、石段の一段一段が厚い。六十八段もの数が重なりあっているためか、頂上には雲のような薄い霧がかかっているようにも見えた。
 男坂を見上げながら、芦雪は小さく喉を上下させた。
 不意に、鋭く空を切る音が耳端を掠める。驚いて振り返れば、芦雪が視界に留める暇もないままに、数人の青年たちが横を走り抜けていく。
 彼らは、己がまとう風の勢いに乗り、男坂の階段を駆け上がる。手には各々絵筆があり、自らの勢いで振り落とすまいと、力強く握りこんでいた。
 唖然とする芦雪をよそに、いくつかの背中はあっという間に見えなくなり、階段に掛かる薄霧の中に溶けていった。
「……なぁ、藤仁。何故、あの男たちは男坂の階段を駆け上がっていったんだ……? ゆっくり登れば良いじゃないか。それに、筆を握りしめたまま登っているのも妙だ」
 急いでいたにしては、緊迫感が薄かった。眼前で起きた出来事の因について藤仁に問えば、彼は一瞬、息を詰めた。世事に疎い芦雪の発言に、驚いたのやもしれない。
「……愛宕あたご山の頂上にある愛宕あたご神社は、立身出世のご利益で有名な場所だ。それにあやかろうとする参拝客も多い。特に、御用絵試の前はな」
 藤仁は感情を宿さぬ普段の面持ちに戻り、淡々と述べた。
 愛宕神社の由来は、今からおよそ百年ほど前。家光公の御代の時代まで遡る。
 増上寺に参詣の折、愛宕あたご神社の前を通りかかった家光公は、かの神社の梅花の香りに魅せられた。家光公は居ても立ってもおられず、供に「梅の花を手折ってこい」と命じた。
 けれども、どの供も目の前に立ち塞がる急勾配の階段に怖じ気づくばかり。誰かいないのか、と再び声を張れば、四国丸亀藩の藩士・曲垣平九郎が名乗りを上げた。
 彼は騎馬で男坂を駆け上がり、手折った梅の枝を、家光公に見事献上した。その姿を見た家光公は、平九郎を日本一の馬術名人と讃え、自らの小太刀を褒美として与えて、出世の道を示したという。
 この逸話は男坂が急坂ゆえに喧伝され、今では江戸っ子好みの話題となっているようだ。
 特に、半月後に開催される御用絵試は「泰平の世の下克上」とも呼ばれる絵祭である。
 今こそ出世の道を歩まんと、絵試に臨む男たちは皆絵筆を手にして、願掛けのためにこの急坂を駆け登るのだそうだ。
 藤仁から青年たちの行動の謂れを聞き、芦雪は素直に賛嘆した。
「来年は、俺も……」
 ──御用絵試を突破できるよう、願掛けしに来ようか。
 芦雪が呟きかけた言葉は、吹き抜けた春風に攫われ、最後まで続くことはなかった。
「来年……?」
 風になびく己の横髪を耳にかけながら、藤仁が問いかける。彼の声音に肩を叩かれ振り返るも、芦雪の唇はただ、困ったように弧を描くことしかできない。
 薄紅色の花びらが数枚、宙を舞い躍る。風に乗り、気まぐれに頂上から訪れた春の軽雲は、芦雪と藤仁の間に音もなく降り立った。二人の心の距離を、肯定するかのように。
 藤仁は静謐を湛えた瞳で、迷いなく芦雪を見つめている。淡墨うすずみの眼を通し、芦雪の心の奥深くまで見透かすかのような真摯さ。それに応えることもできず、芦雪はわざとらしく藤仁の肩を抱いた。
「さ! 早く登ろう。生憎、あの青年たちのように駆け抜けることはできないがな」
 未だ疑念をまとった視線を振り切り、芦雪は意気揚々と急勾配の男坂に足をかけた。
 しかし、現実は時として、理想通りにはいかないものだ。
 男坂の階段を一段一段、時間をかけて踏みしめ、ようやく頂上の段へと足を下ろす。芦雪は喜ぶでもなく、手すりの終わりにかじりついたまま、その場にへたり込んでしまった。
「……大丈夫か?」
「も、問題……ない……こともない……」
「どっちだ」
 藤仁の気遣いに応えつつ、芦雪は何度も肩で息を放つ。喉奥から昇ってくる鉄のような味が口内を占め、嘔気さえした。
「身体が弱いのに、無理をするからだ」
 藤仁は涼しい顔で言った。息一つ乱れていないのがまた憎らしい。
 本当に芦雪と同じ階段を登ったのかと問いたいほどに、彼は平然としている。普段は部屋から一歩も出ることなく絵に向き合っているだけだというのに、この差は一体何なのか。
 一抹の悔しさを噛みしめ、芦雪は肺に巣喰う荒波の気配が無くなるのを待った。
「ほら。立てるか? 向こうで少し休もう」
 目の前で、藤仁の手が差し伸べられる。浅い呼気で思考が霞んでいるせいか、明瞭な指の関節が妙に色っぽく見える。芦雪は思わず、手を重ねるのに逡巡してしまった。
 恐る恐る藤仁を見上げれば、一対の切れ長の瞳と視線がもつれ合う。黒鳶色の水面には情けない顔をした自身の姿が映るだけで、彼の真意を汲み取ることはできなかった。
 不意に、男の唇の結び目が、ほんの僅かに緩んだ。
「藤仁……? ……っ!?
 名を呼んだ次の瞬間、芦雪は手首を強く掴まれ、藤仁の方へと引き上げられていた。
 おかげで立ち上がれはしたものの、あまりに突然のことで、身体は均衡を保てない。体勢を立て直そうと慌てているうち、あろうことか藤仁の胸元へと飛び込んでしまう。彼も思わず、といったように芦雪の腰に手を回したのが分かった。
 藤仁は少し上背があるせいだろう。我に返った時には、芦雪の身体は藤仁の腕の中に収まっていた。
(藤仁の……藤花のこうのかおりがする……)
 荒波を携えていたはずの呼吸は、いつしか凪いでいる。着流しに焚き染められた藤花の香りが、揶揄からかうように鼻先をくすぐる。視界は藤仁の着流しの色に染め上げられていた。
 目の前の胸板に、そっと手を置く。芦雪のそれよりも広く、存外に厚い。
 顔を上げれば、熱を孕んだ瞳と整った鼻梁が目に入る。その距離は、今にも互いの鼻先が擦り合いそうなほどに近い。
「……これで立てたな」
 吐息に濡れた低い声音が、芦雪の耳朶を食む。耳端を掠めた感触に、芦雪は身を竦めた。
 弟だと定義付けたばかりの青年が、知らない男のように見えた。
「あ、あぁ……。ありがとう……」
 藤仁の胸元を軽く押しやれば、芦雪の腰に回っていた手は小さく跳ね、ゆっくりと離れていく。再び、二人の間には人一人分の距離が作られていた。
(……何を恥ずかしがっているんだ、俺は……)
 相手は可愛い弟分で、純粋な気遣いから芦雪の身体を支えたに過ぎない。その上、いくら端正な顔立ちをしているとはいえ、藤仁は男だ。吉原の傾城の美女でもあるまいに。
 頭では理解している事実に反し、頬に走る無意識の熱が、ひどく身勝手なように思えた。
 芦雪は前髪をかきあげ、細く長い息を吐く。再度呼吸を整えれば、雑念で乱れていた思考は平坦に均されていった。
 凪いだ思考の湖面に、魚の銀鱗が閃く。
 ──身体が弱いのに、無理をするからだ。
 藤仁の過去のげんが飛沫となり、水面に跳ねては波紋を広げる。芦雪は小首を傾げた。
「そういえば……。俺は身体が弱いって、お前に言ったことがあったか?」
「……いや。松乃に聞いたんだ」
 藤仁は静かに瞼を伏せる。瞳を縁取る長い睫毛が、頬に小さな影を落としていた。
 果たして、自身の身体の虚弱さについて、芦雪は松乃に語ったことがあっただろうか。
 記憶違いでなければ、己の身体のことを明かしたのは、写楽にのみである。それも尋夢庵へ依頼を出す折、ゆかりを探している事情を説明するためにやむを得ずだ。
 松乃に「疲れやすい体質だ」と漏らしたことはあっても、自身の持病や身体に関しては明らかにしていない。とすると、藤仁は写楽から聞いたということになる。それと混同し、松乃から聞いたものだと勘違いしているのだろう。
(まぁ、いいか。今更だな……)
 藤仁は芦雪が病弱だと知っても、両親や松乃のように過度な気遣いは見せないはずだ。現に、芦雪への接し方が如実に物語っている。
 互いに気を遣わない、今の関係が心地良い。故に、芦雪は藤仁の隣で安心して息ができるのだ。
 芦雪は唇に春月の弧を宿し、陽を羽織った微風に導かれるままに、重箱包を掲げた。
「……さて。先に腹ごしらえといこう。腹を膨らませておかないと、存分に絵に向き合えないからな」
 なおも静謐をまとい、その場から動かぬ藤仁を先へと促す。
「ほら、早く!」
 痺れを切らして藤仁の手首を掴むと、芦雪は軽やかな足取りで朱色の仁王門を潜った。
 門が落とす大きな影を抜ければ、麗らかな陽光とともに、桜雲が視界を埋める。広大な緑地を覆う白雲の如き桜の群生に、芦雪は賛嘆の息を漏らした。
 敷地の奥には、愛宕神社の社殿が腰を据えている。佇まいに宿る寂れは、満開の桜によって取り払われ、幾分明るく見える。祀られた神々も、花宴を楽しんでいることだろう。
 潜ったばかりの仁王門の横には物見台の東屋が建ち、人々で賑わっている。その前には小さな茶屋があり、花見弁当を売る掛け声が遠く響いていた。
 東屋に並ぶ床几しょうぎに腰掛け、眼下の景色と桜の共演を眺める者もいれば、各々気に入った桜の下で敷物を広げ、弁当に舌鼓を打つ者もいる。花見の楽しみ方は皆それぞれのようだ。
「藤仁。あの桜の木にしよう。あそこなら人も少なそうだ」
 芦雪が指し示したのは、社殿に程近い位置に根を張る、大きな桜の木だ。運が良いことに誰にも占拠されておらず、行楽客の喧噪からも離れている。
 藤仁は珍しく素直に頷いたが、芦雪の手に包まれた手首は強ばっていた。はしゃいだ末に、いつの間にか強く掴んでしまっていたのやもしれない。
 芦雪は、慌てて藤仁の手首を解放すると、程良い距離を改めて刻み直し、桜の下へ足を運んだ。
 緩やかな風が頬を撫でる。薄紅の花びらがいくつも宙を舞い、風花のように幻想的だ。
 芦雪が手を差し出すと、一片の春の雪が儚い軌跡を描いて降り立った。
「これはまた見事だなぁ……。愛宕あたご山は毎年こうなのか?」
「あぁ……」
 隣に立つ藤仁も、芦雪と同じように桜の木を見上げていた。
 横顔なぞ、とうに見飽きているはずなのに。花弁がなぞる整った輪郭から、芦雪は何故か目が離せなかった。春の薄紅が、彼の冷淡な美しさに温度を与えているせいだろうか。
「綺麗だな……」
 ──桜の下に佇む、お前の姿が。
 芦雪は、紡がれかけたげんを慌てて飲み込んだ。
(なんだ今のは……。これじゃ口説き文句じゃないか。藤仁は男だぞ)
 自然と口をついて出そうになったそれに、思考は混乱を極めていた。
「……そうだな」
 芦雪の思考をなだめるように、男の同意の声が穏やかに芦雪の耳奥で響く。
 藤仁の視線の先に桜はない。ただ真っ直ぐに芦雪を見据え、わずかに口端を緩めていた。
 花弁を孕んだ春風が強まり、音が遠のく。ひくり、と芦雪の喉が上下した時、藤仁は芦雪から重箱を取り上げ、常と変わらぬ淡々とした様子で言った。
「飯にするんだろう。早く広げよう」
「あ、あぁ……。そうだな」
 芦雪はようやく現実に引き戻される。意識が揺らいでいると悟られぬよう、持ってきていた敷物を慌てて地面に広げた。
「……君。今日はどうした?」
「何が?」
「いつもより静かだから。体調でも悪いのか?」
「それ、俺がいつもうるさいってこと?」
「違うのか?」
 やや揶揄からかい染みた、やわさを含んだ声が耳端をなぞる。今日は散々だ。藤仁が見せる、ほんの僅かな変化に、芦雪の調子は驚くほどに狂っている。
 ──全部、お前のせいだ。
 そう言いたいのをどうにか堪え、芦雪は「違いますー」とおどけながら返した。
 敷物を敷き終え、二人はようやく腰を落ち着けた。力が抜けたせいか、芦雪の脚には男坂での疲労が舞い戻る。できることなら、この場で大の字になりたい気分だった。
 一方、藤仁は顔色を変えることもなく、重箱の包みを解いていく。現れた漆塗りの地を目にした芦雪は、咄嗟に藤仁の手を掴んだ。
「俺が開けても良い?」
「それは構わないが……」
「ふふ、やった!」
「何がそんなに楽しいんだ」
「楽しいだろう! 俺は花見の中でも、弁当を開ける瞬間が一等好きなんだ」
「……花より団子なんだな、君は」
「うるさいな。ほっとけ」
 間断なく軽口を交わしつつ、芦雪は三段から成る重箱を一つ一つ下ろしていった。
「これはまた……」
 重箱に詰まった色彩に目を奪われる。結ばれかけた言葉尻は、あっという間にほどけてしまった。
 早竹の子の旨煮に、かすてら玉子の黄色。かまぼこの紅白、早わらびの緑。花見にあやかったであろう桜鯛の刺身の薄紅に、若鮎の色付け焼き。帯に赤唐辛子を巻いた干大根、つくしと嫁菜のひたし物。春の彩りに富んだ並びは、弁当だということを忘れてしまいそうなほどに美しい。旬の食材も余すことなく贅沢に使われ、胃の腑がやわく刺激される。
 一介の町人や下級武士では到底口にすることも、ましてや弁当にする機会などない高級な食材たちが芦雪を見上げており、目が回りそうだ。
 流石は日本橋の豪商、流屋の筆頭絵師である。絵屋の威光が花見仕様の弁当にさえも映し出され、つくづく良い奉公先に恵まれたと、芦雪は感じ入ってしまった。
(食材もそうだけど、それよりも……。すごく、丁寧に作られてる……)
 やや端が焦げているものもあったが、凝視しなければ気づかない程度だ。食べる者のことを考え、時間をかけて作り、また並べたであろう者のことを思うと、面映ゆくなった。
 眠たげに目を擦っていた藤仁の顔を思い出し、芦雪は小さく微笑んだ。
「……随分、彩り豊かな弁当だな。食べるのがもったいない」
「大げさだ」
「本当のことだ。何よりこの弁当は……」
 事実を述べようとしたところで、楽しげに笑んだ少女の顔が脳裏を過ぎる。
 ──私が言ったってこと、兄上には内緒ですよ。
 身体が不自然に硬直し、骨が軋む。芦雪は慌てて咳払いをすると、放つはずだったげんを別のものに置き換えた。
「……そう。この弁当は、お松が作ってくれたんだから。大切に頂かないとだろう」
「……」
「なんだよ?」
「別に」
 安堵したようで、拗ねているような。藤仁は、何とも形容しがたい表情を浮かべていた。
 藤仁と出会って、ひと月と半月。感覚的にではあるものの、芦雪は彼の心の機微が少しばかり分かるようになった。だが、その意味までは未だ掴めないでいる。
 ともに過ごす時を重ねていけば、いずれ藤仁の真意にも気付けるようになるのだろうか。
 ──そうであればいい。芦雪はそっと息を吐き、三段目の蓋を開けた。
 重箱の三段目には、握り飯たちが理路整然と並んでいた。海苔で丁寧に巻かれたものもあれば、表面を焼いて味噌を塗ったものもあり、米の香ばしいかおりが鼻腔をくすぐる。
 おかずと同様に味の種類に富んでおり、食欲をそそる姿であることに間違いはない。だが、芦雪の関心は握り飯の形に引き寄せられていた。
 俵型と三角を混ぜたような、やや歪な輪郭。手馴れていない者が握ったようにも見える立ち姿には、覚えがある。
(この握り飯……。流屋に来たばかりの頃、枕元に置かれていた……)
 芦雪の身を案じたがゆえの、小さな気遣いが記された書き置き。柳行李に並べられた、二つの握り飯。
 炊きたての白米を乗せた手が脳裏に浮かぶ。空気に溶けゆく湯気を内に閉じ込め、慎重に形を与えていく手は、いつしか少女のものから無骨な男のものへと変わっていた。
(……藤仁のやつ。不器用すぎだろう)
 芦雪は重箱の蓋を持ったまま、何も口にできなかった。言葉として形にすれば、ようやく見えた藤仁の優しさが、儚く消えてしまいそうで。それは、あまりにもったいない。
「……どうかしたのか?」
「ふふ。いや、なんでも」
「変なやつだな、君は」
 理由もなく喜色を表す芦雪に呆れたのだろう。藤仁の皮肉めいた嘆息は、花弁とともに地面に落ちていく。藤仁の素顔を垣間見た今、それすらも可愛らしいと、芦雪は思った。
「そう言うお前は良いやつだよ、藤仁」
 芦雪は歪な握り飯を手に取り、口端をもたげた。