第五筆「友人」
慌ただしい夜は明け、朝日が地平から顔を覗かせている。江戸市中の遠く彼方まで響く明け六つ〔朝6時〕の鐘の音に、
手早く身支度を済ませ、目付けとしての役をこなそうと、軽い足取りで
しかし、部屋に彼の姿はない。布団が敷かれた形跡も、かといって片付けられた気配もなく、冬の冷気が空気を伝っている。
嫌な汗が背を這う。芦雪が画室へと足を伸ばせば、やはり予感は当たった。
「藤仁、
中に漂う人の気配に向け、観念しろと言わんばかりに、芦雪は声を張った。昨日と同じく返答はない。どうやら、部屋の主は居留守を使うつもりらしい。
音もなく襖を開ける。芦雪の視界を埋めたのは、昨日の昼間に見た通りのものだった。
藤仁は床に置いた紙面に向き合い、一心不乱に筆を動かしている。昨日と異なる部分があるとすれば、彼の周りに幾重にも紙が散らばっていることぐらいだろう。お陰で床の色は見えず、溶けぬ雪原が広がっている。
──予想していたとはいえ、まさかここまでとは。芦雪はその場に座ったまま、もう一度要件を声高に発した。
「藤仁。朝餉の時間だ」
「……」
「藤仁殿ー? 作業を一度お止めになってくださりませぬかー?」
「……ん」
「ん、じゃなくて……。もしかして、二人で話したあの後からずっと描いてるのか? まさか寝てない……? なぁ、聞いてる?」
昨日まで胸中を占めていた戸惑いはもうない。幼馴染お墨付きの図々しさを持つ芦雪は、遠慮なく言い募った。
「藤仁が請け負っている客への納品は、だいぶ先のはずだ。何も、一晩中描くほど根詰めることはないだろう」
藤仁の納品日程は、既に把握済みだ。今日から始まる絵屋の折衝役に備え、昨日店を閉めた後、流屋に属する絵師らの納品日程を松乃から聞き出していた。
目付けとしては当然のことだ。対象の今後の動きを把握しておくことで、不摂生な生活に口出ししやすくなる。
藤仁にとっては小言にも聞こえるだろうが、これは芦雪が松乃から与えられた責務だ。流屋の折衝役と目付役で、給金と衣食住を提供してもらうことになるのだから、嫌がられようが全うするほかあるまい。
だが、何を言っても、藤仁は絵から視線を外そうとしない。芦雪は立ち上がって画室に入り、藤仁の真正面に座った。
何の絵を描いているのかと、しげしげと紙面を覗きこむ。
藤仁が描いているのは、どうやら下絵のようだった。桜や梅などの春の花木に、その枝々に留まる小禽たちが墨で緻密に再現され、とても本絵に入る前段階のものとは思えない。
辺りに散らばるどの紙上にも、十数個の下絵が描かれている。そのほとんどが、花鳥図や草花図で占められていた。
(絵の構想を練るためだけに、こんなに描いたのか……。それも一晩で……)
彼は一体、これから何の絵を描くつもりなのだろう。今描いているものを本絵にするとも限らないため、尚更興味をそそられる。
そもそも、誰のために描く絵なのか。これほど根を詰めて描いているのだから、相当大切な……あるいは上客に違いない。
芦雪は、藤仁が受け持つ納品先をずらりと思い浮かべた。藤仁の後援者でもある大阪の蝋商人、もしくは最近納品の多い江戸の呉服屋か。だが、そのどれもが納品の日程上は当てはまらないようにも思われる。
視線を宙にさ迷わせて考え込んでいると、真摯に絵と向き合う藤仁の頭が目に入る。黒鳶色をかき分けるつむじが、一対の瞳の代わりに芦雪を見つめていた。
藤仁に対する少しの不満が湧くものの、またそれを発散させるための悪戯心も同時にくすぐられていく。
藤仁をからかったら、彼はどんな顔をするのだろう。想像しただけで、にんまりと口端が引き上がる。芦雪は欲のままに、人差し指を伸ばして藤仁のつむじに触れ、軽く押した。
「ふ・じ・ひ・と! あ・さ・げ!」
これには、流石に無視しようがなかったらしい。目論見通り、滑らかに紙上を走っていた筆先が動きを止めた。
「……少し待て」
「そう言って、昨日も昼餉を食べてなかったんだ。夕餉も後から食べたんだって?」
「今食べなくても問題ない。腹が空いたら食べる」
「そういう問題じゃない」
妹の松乃が手を焼く理由が、ほんの少し垣間見える。一度止めたはずの絵筆は、既に走り出していた。
こうとなれば、実力行使に出るほかあるまいて。
芦雪は、藤仁の手元に丁寧に並べられた数本の筆や、顔料がこびり付いた絵皿に手を伸ばした。彼に気づかれぬように、絵筆と絵皿を各々ひとつずつ、慎重に取り上げていく。
墨の乗った絵皿を手に取って膝上に置いたところで、藤仁はようやく己の手元の異変に気づいた。
「……芦雪。それを返せ」
藤仁と視線が交わる。それだけでなく、初めて名を呼ばれた。
些細な事実が何やら面映い。芦雪は調子よく人差し指を立て、言葉を重ねた。
「絵師と言えど、身体が第一だぞ。それを蔑ろにするのなら、ずっとここに居座って邪魔してやる」
最後に「俺はお前の目付け役だからな」と付け加え、薄い胸板を張って見せる。その姿に、藤仁は呆れたのだろうか。
海よりも深く吐かれた息が紙上に落ち、筆が置かれる。芦雪の表情には、瞬時に明かりが灯った。
ようやく、朝餉を食べる気になったのか。邪魔をした甲斐があったというものだ。
だが藤仁は、何故か部屋の隅にある文机のそばへと移動すると、机上の画帳を手に取った。その動作に違和感を覚える芦雪をよそに、藤仁は軽やかに頁をめくる。そして、ひとつの名を呼んだ。
「──
藤仁が開いた頁は紅の光で満たされ、赤錆色のもやが表出する。芦雪が後ずさりした時には、もう遅かった。
瞬く間に、葛花の蔓が勢いよく顕現する。避ける隙すら与えられず、芦雪の身体を絡めとられ、胴体を縛り上げられた状態で宙に浮かされてしまった。せめてと、唯一動く両足をばたつかせるも空を切るばかりで、何の抵抗にもならない。
「四魂を使うなんて卑怯だぞ!」
「紫季。このいたずら坊主をつまみ出せ」
「ちょ、藤仁!?」
芦雪は藤仁の忠実な四魂によって部屋から追い出され、廊下に転がされる。しまいには、二度と開けるなと言わんばかりに、襖が音をたてて閉められてしまった。
「藤仁! 藤仁ってば! 癇癪起こしてないで、飯を食え!」
「いらん」
襖を開けようにも何かに阻まれ、一寸も動かない。大方、
(くっ……。なんて頑固なんだ……!)
暫し、開かずの襖と格闘したものの、部屋の主が動く気配はない。芦雪は襖にかけていた指を離し、肩を落とした。
ここまで頑なに籠城されては、手の出しようもない。芦雪も四魂を出して応戦しても良かったが、それでは意味がないような気がした。
すっかり重くなった腰を上げても、目の前の襖は相変わらず静寂を保ったままだ。それが恨めしく、芦雪は襖向こうを睨みながら画室を後にした。
鉛の如き足を引きずり、居間へと向かう。朝餉の時点で抵抗されては、今日の昼餉や夕餉もどうなるか、分かったものではない。
「あら、芦雪様。いかがなさいましたか? 兄上は……」
居間の襖を開ければ、松乃が皿の乗った膳を持ったまま声をかけてきた。忙しない様子の彼女を引き止めるのも憚られ、芦雪は肩を竦めて首を横に振って見せる。
「……やはり、今朝も負けてしまったようですね」
松乃は藤仁と芦雪の膳を畳の上に置き、苦笑を漏らした。
膳の上に腰をすえるのは、炊きたての白米と味噌汁、
味噌汁からはほのかに柚子の香りがする。膳の前に腰を下ろし、汁の中をしげしげと観察すれば、菜のものと豆腐、納豆の頭がちらりと覗く。近頃江戸で流行しているという「納豆汁」仕様だった。
一方、艷めく白米もふっくらと山状に盛られており、やわい湯気を放っている。
西の方では昼に白米を一気に炊き、夜と翌朝に漬物とともに冷や飯を食べるため、朝から温かい白飯を食べるのは、芦雪にとって贅沢なことのように思えた。
何故、こんなにも美味そうなものをわざわざ抜くのか。芦雪には到底理解できない。
「……大体、食うことは生きることだぞ。絵師だって、腕が動かせなけりゃ絵を描けない。腕を動かすには力がいる。その力は、食べることで生み出される。なのに……どうしてあんなにも頑ななんだ。このままでは、身体を壊してしまう……」
芦雪の苦言に同意するように、松乃は対面に座って、何度目と分からぬため息を吐いた。
「おっしゃる通りです。でも、私が言っても聞かなくて……。兄上は、一度自分の世界に入ってしまうと、それ以外、目に入らなくなる節がありますゆえ……」
とはいえ、藤仁の絵への入れ込み具合は異常だ。何が彼を絵の世界へ駆り立てているのだろう。
(絵師としての使命感? 絵への前向きな感情? それとも……強迫観念……?)
ここで様々な推測を立てようが、それらを事実と照合する術はどこにもない。芦雪は額に手を当て、「これは厄介な仕事を任されたな……」と呟いた。
「それにしても……。家族以外の芦雪様がおっしゃるならあるいは……、とも思ったのですが……。あの不精具合は、相当根深いようです。本当に困ったものだわ」
松乃は、藤仁とよく似た目元を伏せた。
困った人を見ると、どうにか助けてやりたいと気が急いてしまう。芦雪は厚いとは言い難い胸元を叩き、松乃に言った。
「この芦雪兄さんに任せなさい。あの不精者の生活を何とかしてみせるさ」
「ふふ。頼もしい限りです。……失礼ですが、もう一人兄ができたようで嬉しいです」
「失礼なんかじゃない。寧ろ俺の方が嬉しいよ。俺にも年の離れた弟がいるから、こうしたやり取りも懐かしいしな。……そういや、藤仁と松乃殿はいくつ離れているんだ?」
「六つです。私が十五ですから、兄は今二十一です」
「お! ということは、三人の中では俺が一番兄上だな! 俺は二十三だから」
藤仁の落ち着いた風貌から、彼は芦雪と同い年か、むしろひとつ上かと思っていたが、どうやら違ったらしい。
──やはり、兄貴分である己が、年下の兄妹たちの面倒をみてやらねばなるまいて。
芦雪は腹から湧き上がる熱い息を飲み込み、お節介な意気込みを新たにした。
先程までのやり取りで、松乃も少し思うところがあったようだ。彼女は年相応な無邪気さをまとって口を開いた。
「芦雪兄上様。では、私のことはお松と呼んでくださいな。兄上だけ呼び捨てで、私には敬称付きだなんて、なんだか寂しいもの」
「……それもそうだな。ではお言葉に甘えて。お松、改めてよろしく頼むよ」
「はい。兄共々、よろしくお願いいたします」
少女の愛称を優しく紡げば、彼女は冬の淡雪が溶けてしまうような笑みを浮かべた。
もし、自分に妹がいたら。今のように手放しで愛いと、そう思ってしまうのだろうか。
明確な形を成しつつある感情に突き動かされ、芦雪は郷里の弟にしていたように、松乃の頭に手を伸ばしかけた。
(いや、まだ出会ったばかりの相手に対して、あまりに馴れ馴れしすぎるだろう……)
理性が耳元で囁いたことで、半端に宙を彷徨っていた手は膝上に戻った。
藤仁とも、兄弟のように仲良くなれたなら。これでもかというほどに可愛がって、頭を撫でてやりたいと思うようになるのだろうか。
(……まぁ、まずは仲良くなれるように頑張らないとだな)
先の見えない細い縁の糸に息をこぼし、芦雪は膳に目を戻した。
「生憎と藤仁はいないが、冷めないうちに朝餉を頂こうかな。一人で飯を食うのも味気ないし、お松も一緒に食べよう。君たちの御母堂はまだ準備をされているのか?」
おっとりとした微笑を湛える兄妹の母、野菊。兄妹と同じ黒鳶色の髪と瞳を持つ彼女は、血の
普段は松乃とともに絵屋で忙しなく働いているようで、絶えず彼女の隣にその身を置いている印象がある。
だが、今朝はその姿が見えない。
棟梁であり夫である琳也や番頭が店を不在にしているため、現状、野菊が店を切り盛りしている。今も、彼女は開店準備で慌ただしく働いているのやもしれなかった。
「店の準備をされているのなら、俺も手伝った方が良いだろう。その方が朝餉も皆で早く食べられるだろうし」
だが、申し出た気遣いは無用だったようで、松乃は桜色の唇に弧を宿して言った。
「母は既に朝餉を済ませたようですから、ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。それに、今は準備を終えて帳簿の確認をしているようです。お気遣い頂き、ありがとうございます」
彼女は瞼を伏せ、「少し寂しいですが、朝餉は二人で頂きましょう」と手を合わせた。
年不相応に店の中で動き回る松乃の母ともなれば、やはり働き者なのだ。芦雪が目を覚ますよりも前に早々と起き、二人の我が子や芦雪のために、朝餉の支度に取り掛かっていたのだろう。今後受けていくであろう恩も合わせて、それに報いるだけの仕事はせねばなるまい。
芦雪も松乃と同様に手を合わせて箸を手に取ると、膳の上で待ちわびるものたちに箸先を伸ばした。
「明日こそ、藤仁に三食きっちり食べさせるぞ。こんなにも美味い朝餉を用意してくれている野菊殿や、お松にも失礼だからな。……ま、その前に今日の昼餉と夕餉を食べさせるのが先だが」
白米を口の中に運びながら、芦雪は頑固者の顔を思い浮かべる。藤仁と親しくなりたいという気持ちよりも前に、お目付け役としての使命感が湧きたち始めていた。
「今に見てろ、四魂で抵抗する暇もないくらいに俺が……」と呟いていると、松乃は動かしていた箸先をぴたりと止めた。
「芦雪様。明日のご奉公はお休みですよ。昨日今日と、二日働いて頂くことになるので」
「二日に一度はお休みをして頂く、流屋のお勤め体制をお忘れですか?」と続けて尋ねられ、昨日彼女から受けた説明が、芦雪の脳裏を駆け抜けた。
「あー……」
出鼻をくじかれるとは、まさにこのことである。腹の底で煮えつつあった意気は、途端に熱を失って萎んでしまった。
慣れないことをすると、一日というものは慌ただしく過ぎていく。
芦雪は、流屋の馴染み客へ挨拶の文をしたためていた手を止め、障子向こうの景色を見上げた。
自室から見える空はいつしか橙、茜、紫へと染め変えられ、活気づいていた日本橋の人々の声も徐々に薄れ始めている。
(……もう、黄昏時か。そろそろ藤仁の様子を見に行かないとな)
筆を置き、一息こぼして腰を上げると、芦雪は藤仁のいる画室に向かった。
昼餉の時分にも「飯を食え」と催促をしに行ったものの、結果は蓋を開けるまでもなかった。部屋の前に、藤仁の四魂と思しき白鷺が佇んでいたのだ。
芦雪と目が合えば、白鷺の四魂は廊下の床からしだれ柳の木を生やし、しなやかな枝先を向けて威嚇する。まるで、襖を開ける者は問答無用で鞭打つと言わんばかりであった。
芦雪には手の打ちようもなく、また藤仁が昼餉を食べに居間に現れることもなかった。
(普通、ここまでするか?)
恐らく、藤仁は下絵を本絵に描き起こしている最中だ。余程集中を切らしたくないと見える。一体誰のために、何の絵を描いているのだろうか。
額に指を添えて思考するも、当然ながら答えは出ない。そもそも答えがなんだろうが、芦雪のやるべき事が変わるわけでもない。結局、芦雪は考えることを諦めた。
画室へと足を運ぶのは、本日三度目だ。何ら変わり映えのない光景が広がっているであろうと思いきや、昼間に見た四魂の姿はなかった。ただ静謐さのみを保ち、固く口を閉ざしている。
芦雪はそぞろ歩きで画室の襖前に腰を下ろし、一度息を整える。そして、朝や昼と変わらぬ調子で口を開いた。
「藤仁、今いるか?」
「……」
「いるな? 開けるぞ」
返事はないが、中から何かが
夕暮れの光を返す床板と、その上に色濃く落ちるひとつの影。藤仁はひとり、部屋の中央に座して、ぼんやりと宙を見据えていた。
彼の手元には、朝見た時のような絵道具は一切なく、綺麗に片付けられている。
「なんだ、絵はもう描き終わったのか?」
声をかければ、男は芦雪に顔を向けた。茜色の光が彼の影を濃くし、整った鼻梁と目元の美しい彫りを強調している。
芦雪の問いに、藤仁は小さく首肯した。
「いつ?」
「……半刻〔1時間〕ほど前だ」
「そうか。それは良かった。その様子じゃ、昼餉も食べなかったんだろ。昼間に見に来た時は、四魂に『部屋に入るな』と睨まれてしまったし」
「描き終えた時に、握り飯は食べた」
「ふーん……。まぁ良くはないが、ものを口にしたなら及第点だな。作業が終わったなら夕餉にしよう。今、お松が準備してくれているようだから」
芦雪の提案に、藤仁はやはり頷いた。朝や昼に苦戦していたのが嘘のように素直だ。
単に作業が終わったゆえなのだろうが、幼子のような純粋な素直さが、今の芦雪には嬉しく思われた。
朝は日の出とともに起き、夜は闇が濃くなる前に眠る。三食の飯で腹を満たすことを常として、休息時にはおやつを口にする。そんな当たり前の生活は、目の前の青年には難しい。彼が筆を握り続ける限りは。
このままでは、いつ藤仁の身体が悲鳴をあげるともわからない。壊れてからでは遅いのだ。せめて、春になる前には生活を正しておきたいのが本音だった。
だが、彼をそこまで導く明確な方法があるわけもない。未だ先行きは暗く、不鮮明なままだ。芦雪はため息をつかずにはいられなかった。
「……あー、そうだ。言うのを忘れていたが、明日、早速だが規定通り一日
「……わかった」
「本当は、休みの日でもお前についていたいのは山々なんだが……。明日は外出の予定があるからそうもいかないし……」
明日は、写楽に依頼した絵の納品日だ。ついに、ゆかりの行方を掴むための糸口を手にすることができる。
規則とはいえ、出だし早々に暇を貰うのは気が向かなかったが、絵を受け取りに尋夢庵に行くというその一点においては、運が良かった。
まだ見ぬ絵に一縷の希望を託し、芦雪は口端をもたげた。
「どこへ出かけるんだ?」
一方、藤仁の唇には訝しみが宿り、眉間には小峰の陰が刻まれている。出会った日以来、芦雪に関心を向けることも、表情すらも崩さない男が問うてくるとは。
珍しいこともあったものだと驚きを滲ませつつも、芦雪は素直に行き先を告げた。
「
「そうか、写楽の……。そうだったな」
藤仁は写楽の名を口にすると、長い睫毛を伏せて微笑んだ。
(笑った……。写楽殿と仲が良いんだな……)
そもそも、流屋を奉公先にと紹介したのは、他ならぬ写楽だ。仲が良いのも当然だろう。
慣れた様子で流屋の裏口に回ったり、松乃と親しげに言葉を交わしたりと、彼が兄妹との間に築いた関係の強さと、経た歳月の長さが窺えた。
写楽であれば、その名ひとつで無骨な藤仁から笑みを引き出してしまえる。それをほんの少しでも羨ましいと感じて、芦雪は自身のみっともなさに嘆息をついた。
どんなに抵抗しても、もしくは期待で今か今かと首を長くしていても、時の経過というものは誰にでも平等だ。芦雪にとって初めての休暇日も、自ずと訪れていた。
「長澤殿。お身体に大事ないでしょうか? 流屋にご案内したあの後、お倒れになられたと伺いましたが……」
「あぁ、あの時は多大な心配と迷惑をかけてしまって申し訳ない。宿の荷を持ち出したり、宿を引き払う手配もしてもらって……。もう今ではぴんぴんしてて、おかげで流屋でも働けてるよ。ありがとう、写楽殿」
働き者も暫しの休息を取る、昼八つ〔15時〕の頃。芦雪は約束通り尋夢庵を訪れ、写楽と向かい合って座っていた。
相変わらず、写楽の額から鼻下までは白い
「お元気そうで、安心いたしました。流屋でも、くれぐれもご無理はなさらぬように」
「あ、あはは……。そうするよ……」
どこに行っても、己は他人に心配をかけてしまう
「……さて。では本題に移りましょう」
写楽の咳払いが場を
「こちらが、本日納品させて頂く絵になります」
写楽の声と共に目の前に差し出されたのは、
うっすらと雪がかった白椿と、その枝先に止まって花を見つめる、一羽の
溶けゆく雪と凛とした姿で咲く白椿に、春の訪れを思わせる一品だ。透明感のある豊かな彩色にも、麗らかな陽の眼差しを想起させる。絵を見る者と同じく、画中の
「なんて……美しい……」
自然と漏れ出た、しかし人並みな語彙しか浮かばぬ頭に、芦雪は思わず歯噛みする。形にならぬ感情を写楽に伝えようと顔を上げかけた時、
「これは……四魂の、輝き……」
「写楽殿……。やはり、貴殿も俺と同じ……」
「……あぁ。申し遅れておりましたね」
「藤仁から話は聞いておりました。……そうです。私も、貴殿や彼と同じ
「やはり……」という確信と期待が、芦雪の中で深まった。当初の見立て通り、写楽は
「
江戸では、の部分にやや強めの語気を感じ取り、芦雪は「ならば」と、今にも写楽にすがりつかんばかりに言葉を募らせた。
「なら、ゆかり殿のことを知らないか!? 肌守りを見せたからわかるとは思うが……。彼も
「申し訳ございません。藤仁にも聞いてみましたが、私と同様、知っている
これ以上ないほどに降り積もっていた期待が、音をたてて崩れていく。芦雪は分かりやすいほどに肩を落とし、うなだれてしまった。
だが、諦めるにはまだ早い。手元には写楽の四魂が宿った絵がある。
「どんな困り事や願い事でも叶う」と噂されている絵だ。上手くいけば、彼の四魂がゆかりの行方を掴む手がかりを運んできてくれるやもしれない。
膝上に置いていた指先に力を込める。芦雪は、ほんの少し歪んだ笑みを浮かべて言った。
「そう、か……。でもまぁ、写楽殿の四魂が宿った絵があるんだ。わずかでも、ゆかり殿の足跡を掴めると信じている。俺も
「いえ……。しかし、その絵もどこまで貴殿のお力になれるか分からぬゆえ、私の方でもゆかり殿の行方を個人的に調べておきます。藤仁にも話を通しておきましょう」
写楽は芦雪の肩に手を置き、穏やかな声音で慰めの
一抹の優しさと気遣いをありがたいと思うと同時に、心の隅にうずくまっていた何かが、顔を上げて囁いた。
──写楽は、彼を「藤仁」と気軽に呼べるほど、彼と良好な仲を築けているのだな、と。
昨日、藤仁との会話で感じた悋気が、芦雪の中で再び湧き立っている。さほど藤仁と関係を深めているわけでも、歳月を重ねているわけでもあるまいに。浅ましいにも程がある。
「藤仁と……仲が良いんだな」
言うつもりもなかった本音が、庵の沈黙に響く。言葉としての形を成して初めて、己が何を口走ったのかを理解し、芦雪は慌てて口を塞いだ。
写楽の唇が、驚いたように小さく開く。暫しの間を持て余した末、彼は苦笑をこぼした。
「藤仁とは腐れ縁です。仲が良いというわけでもありません。……寧ろ、嫌いに近しい」
嫌いに近しい。最後の言葉に妙な暗色を感じたものの、信頼しているからこその言葉の綾なのだろう。でなければ、写楽が流屋を奉公先として紹介するはずがなく、藤仁もそれを受け入れることはない。何より、流屋の母屋にも好きに出入りできるぐらいの人物だ。
それこそ、写楽の言うことならば、藤仁も素直に耳を傾けるのではないだろうか。
「ただの腐れ縁とおっしゃるが、写楽殿は彼が笑った顔を見たことがあるのだろう?」
「笑った顔?」
「……妹のお松に対してだとか。ふとした拍子に藤仁が笑んでいるのを見かけはするが、俺相手にはその……笑ってくれなくて。昨日も、写楽殿のことを話した時は表情を崩していたものの、それ以外では見たことがなく……。俺は嫌われているのではないかと……」
「それはありえない」
力もなく不明瞭になっていく言葉尻を、写楽は端的に両断した。
「藤仁は、貴殿のことを何よりも大切に想っている。それだけは信じて欲しい」
「写楽殿……」
──まだ出会って数日と経っていない相手が、自分を大切に想っている?
──それも、己に微笑みかけることすらなく、常に淡々としているあの男が?
到底、信じられる話ではなかった。
依然、
「……ありがとう、写楽殿。たとえ気遣いの言葉だとしても嬉しいよ。どこまでも話を受け止めてくれる貴殿だからこそ、藤仁も貴殿を信用しているのだろう」
「長澤殿、これは本当の……」
「写楽殿に話してよかったよ。藤仁が信頼している貴殿が言うんだ。俺も、彼に信頼されるように地道に頑張るさ」
写楽は、まだ何か言い足りないのだろうか。唇を薄く開いては、閉じている。やがて諦めたのか、彼は視線を下に逸らし、口を閉ざしてしまった。
庵に漂う空気が、妙に重苦しい。芦雪は慌てて人差し指を立て、尋夢庵にとって大切なことを口にした。
「……して、絵の報酬はいかがいたそう? こんなに素晴らしい絵を描いて貰ったんだ。いくら銭を払っても足りないぐらいだが……。なぁに、今まで貯めた分があるんだ。どんと報酬額を言ってくれ!」
無邪気な感想を含みつつ、芦雪が浮かべ慣れた人当たりの良い笑みを向ければ、写楽は少し考えるように顔を伏せる。暫し黙したあと、彼はようやく顔を上げた。
「では、貴殿の髪紐を頂けますか?」
「俺の髪紐? それは構わないが……」
元々、千歳緑の紐は髪を結うには長く、帯紐にするには短い無用の品だった。出島から取り寄せた品箱内に、偶然紛れていたのだ。
絹とはまた違った光沢と艶があり、光の加減で色味が変わって見える。
──売り物にもならないものを欲しがるとは、お前ももの好きだな。
幸之介が呆れた様子で髪紐を寄越した記憶が、僅かながらに懐古を掻き立てた。
髪紐を解けば、小さな衣擦れの音とともに
「珍しい髪紐ではあるけど……。この絵に比べれば安価なものだぞ? いいのか?」
「はい。私はこの髪紐が良いのです」
念を押すように何度も写楽に尋ねるが、彼は受け取った髪紐の表面を優しく撫で、唇を緩ませるだけだった。
「何故、報酬が髪紐なんだ?」
「……それは、秘密です」
口元でしか窺えぬ穏やかな笑みが、心の足裏をくすぐる。写楽の人としての優しさも勿論だが、報酬の髪紐を手にした彼の素顔と、その理由をもっと知りたいと、芦雪は刹那でも願ってしまった。それは、人に対して抱く純粋な好奇心だったのかもしれない。
「写楽殿」
「なんでしょう?」
「また……、貴殿に会いに来ても良いか?」
芦雪の申し出に、写楽は驚いたようだった。髪紐を撫でていた指先が、かすかに跳ねた。
「その、今度は同じ
指先を遊ばせ、しどろもどろに尋ねる。肩肘に緊張の糸を張り巡らし、返答を待てば。
「……はい。お待ちしております」
芦雪が童のように見えたのか。はたまた物珍しい奇妙な存在に思えたのか。写楽は笑みを深め、楽しげに頷いた。