第四筆「比隣」
一寸先も見えぬ、闇で満たされた場所。ぬばたまの水面に身を浮かべ、
(起き、ないと……)
不可思議な焦燥感が、芦雪の
熱を失った指先が、かすかに跳ねる。身体は間違いなく己のものだが、動く意思を強めるほど、自由は重しとなって芦雪の身体を水底へと導き始めた。
(寒い……)
口端からこぼれた息はきらめく粒となり、芦雪を置いて水面へと上がっていく。
光が遠い。僅かな水流に押し上げられる腕すら届かない。このまま、己は闇に溶けてしまうのだろうか。それもまた、ひとつの安寧の形なのやもしれない。
背後に迫る空虚感と寒さに身を委ねる。ふと、水を含んだ背に一筋の温もりが触れた。 下へ下へと引き寄せられていた身体は、何かに抱き留められている。視界もままならぬ間に、乾いた唇には小さな熱が舞い降りていた。
ゆっくりと、愛おしむようになぞられる。何者かの指先のようだった。
それはやがて唇から頬へ、最後に芦雪の手の上に重なる。壊れ物を扱うかの如く優しく、やわく、手のひらが重なり合い、互いの感触を食む。冷えて固くなったはずの指先は、己以外の体温にほぐれていた。
(俺に触れる君は……)
──誰。手を伸ばした先に、求めた人影はない。見知らぬ木目調の天井が淡々とした様子で芦雪を出迎えていた。
「……ここ……は……」
迫る闇も、水の気配も消え失せ、ただ静謐のみが場を支配している。目に映る天井は宿のそれではなかったが、どこか危険な場所に転がされているわけでもないようだった。現に、芦雪を丁寧に包む夜着が饒舌に物語っている。
薄闇に包まれた部屋は
(あれは……誰、だったんだろう……)
見知らぬ者の足跡をたどるように、芦雪は唇の表面に触れる。
夢から出てこられたことへの安堵、不意に触れた温もりへの名残惜しさが、静かにそこに宿っていた。
「気がつかれましたか」
馴染みのない声が耳端を撫でる。芦雪は瞬きを繰り返し、声の主に目を向ける。視線の先には、一人の青年が端座していた。
青年の背後で明かりが揺れ、彼の輪郭に影を添える。目覚めたばかりの芦雪の様子を窺っているのか、青年は小さく頭を傾げている。黒鳶色の長い髪がさらりと肩からしなだれ落ちれば、季節外れの藤花の香りがたった。
固く引き結ばれた薄い唇は、彼の性格を如実に表しているようだったが、髪色と同じ切れ長の瞳には熱が差し、矛盾を感じさせた。
「……誰……?」
芦雪の問いに青年は僅かに口端を緩め、ほっと小さく息を吐いた。
「……私は住吉
「松乃殿の……。ここは……」
「流屋の母屋です。写楽に呼ばれて私が居間に入った際、長澤様がお倒れに……」
「そう、だったか……。そうか……俺は、倒れたのか……」
翻る
写楽に導かれるまま、芦雪は流屋にたどり着いた。彼の紹介で松乃に出会い、彼女から今後の話を聞こうとした。真新しい記憶が、動きの鈍い思考にそう囁いていた。
だが、以降の記憶は途絶えている。鮮やかな反物が裁断されたように間断しているのだ。
松乃の兄だと名乗る青年──藤仁が居間に入ってきた折に倒れたのだと聞かされたが、とんと思い出せない。しかし、藤仁の容貌の節々には妙な覚えがある。恐らく、彼の言っていることは正しいのだろう。
芦雪は、その場でたたらを踏む思考を叱咤する。それでもなお、記憶は混濁したままだ。布団の中で小さく首を傾げていると、藤仁が再び口を開いた。
「旅の疲れが溜まっていたのでしょう。……貴方は元々、身体が丈夫でないようだから」
藤仁は、芦雪の夜着をかけ直しながら、最もな推測を言って聞かせた。
「今はもう、夜も更けてきた頃です。今宵はそのままお休み下さい」
「でも……宿に、荷が……」
芦雪の掠れた声が、静かな部屋に落ちる。藤仁は長い睫毛を伏せてそれを受け止めると、音もなく夜着の上に手を置いた。
「ご心配なさらず。写楽が引き取り、既に宿の者にも話をつけたそうです」
「そうか……。ありがとう……」
「今は、ゆっくり身体を休めて。──夢も見られぬほどに」
瞼の上に手をかざされ、揺らめく明かりは消え失せる。作られた薄闇に導かれるままに、芦雪は目を閉じた。
ぬばたまの水の気配に溶けていく夢を見たくはないが、温もりを分け合ったあの人影に、もう一度会えるのなら。それも悪くないかもしれない。
芦雪は徐々に身体のしがらみから離れ、再び眠りについた。
意識を手放す直前、額に触れる無骨な手の影に、淡い翡翠色の光芒を見た気がした。
(ここは……)
鳥のさえずりが耳朶に触れる。開けたばかりの眼は霞んでいた。
ゆっくりと瞬きを繰り返せば、瞳が捉える物の輪郭は徐々に鮮明になっていく。目覚めたばかりの芦雪を一番に出迎えたのは、やはり見慣れぬ天井だった。
(俺は……昨日、流屋に来て……。それから……松乃殿から奉公の話を聞こうとして……倒れたんだ……)
藤仁と交わした言葉の数々が思考を巡る。同時に、倒れた折の畳の感触を思い出し、芦雪は思わず顔をしかめた。藤仁が述べていた通り、旅路の疲れが尾を引いていたようだ。
半身を起こし、回る視界を暫し閉ざす。故意に作り出したひとときの闇の中で、何故か藤仁の顔が浮かんだ。
意識を失う寸前に目にした、幼子にも似た表情。どこか心細そうな視線は頼りなげに揺れていた。それだけは、今でも鮮明に思い出せる。
(話した時は、そんな顔ひとつ見せなかったのに……。見た目は寡黙そうな青年だったが、案外繊細なひとなのか?)
美しい容貌と淡泊な表情の裏には、一体いくつの感情が隠されているのだろう。昨夜、はっきりと見せることはなかったが、芦雪が目覚めるまで深い不安を抱えていたのではなかろうか。出会ったばかりの他人に心を砕き、夜更けまで芦雪の様子を見ていたような人間だ。相当繊細な人物に違いない。
藤仁は今どこにいるのだろうかと、部屋の中を見渡す。ふと枕元に目を下ろした時、竹筒と
よく見ると、それらは芦雪が江戸までの道中で用いていたものだった。写楽が宿から荷を引き上げたと聞いたが、彼の整理による名残だろうか。
(……書き置き?)
芦雪はそれを手に取り、紙上に綴られた筆致を追う。蝶が舞うような、軽やかな文字の流れ。「お目覚めになられた際、お召し上がりください」と、無味簡潔に記されている。ものの書き方とその印象から、女人が──松乃が用意したもののように思われた。
墨で彩られた言葉通りに、行李の蓋に手をかける。待ち構えていたのは、行儀よく並んだ二つの握り飯だった。
(変な形……。三角……いや、丸……?)
これまで目にしてきたものとは幾分、様相が異なって見える。京では俵形が主流だったが、江戸の握り飯は三角に握るのだと耳にしたことがある。けれど、目の前の歪なそれはそのどちらでもない。三角と俵を混ぜた丸だ。
とかく形は不思議なものだったが、米の白き艶めきは巻かれた海苔によく映えており、「食べてくれ」と芦雪の食欲を誘う。
喉が鳴る。理性と欲の狭間に迷う背中を押すように、腹の虫が声高に鳴き始めていた。
今思えば、昨日の昼から何も口にしていない。腹が主張を激しくするのも無理はない。
小さな手で握ったであろう松乃の姿を想像し、もう一度握り飯を見下ろして、息を吐く。
芦雪は「いただきます」と唱えてから、握り飯を口に運んだ。
「美味い……」
人が握った白米は、何故かように美味だと感じるのだろう。味付けは塩と海苔のみの淡白なものだったが、それでも握った者の優しさや温度がじんわりと身体に染みる。
手にあった握り飯を、あっという間に平らげる。竹筒の中に入っていた水を口に含み、芦雪はようよう一息ついた。
「失礼いたします。芦雪様、お加減はいかがでしょうか?」
部屋の襖を飛び越え、鈴を転がすような声音が芦雪の名を呼んだ。
「……松乃殿か。ありがとう。ちょうど起きたところだよ」
返答があるや否や、少女が襖を開けて顔を覗かせる。芦雪が浮かべるやわい笑みに安堵したのか、彼女は胸を撫で下ろしていた。
松乃は、芦雪の元までやって来て静かに腰を下ろすと、深々と頭を垂れた。
「お目覚めになられたようで、ようございました。ご気分はいかがですか? どこか身体が痛むなどは……」
「大丈夫だよ。ありがとうな、わざわざ様子を見に来てくれて……。出会って早々に世話もかけてしまって、申し訳ない」
「とんでもございません! ……その、芦雪様は江戸に来られたばかりだとか。恐らく、長旅の疲労のせいだろうと写楽様が……」
「多分な。元々体力がなくて、疲れやすい体質なんだ」
寝起きで乱れた前髪をかき上げ、芦雪は呆れたように苦笑をこぼして見せる。
「一晩寝たら、見ての通り元通りだよ。今からでも働けるぐらい回復した。これも、松乃殿と藤仁殿が看病してくれたおかげだな。……そうそう! 握り飯もありがとう。美味しかったよ。わざわざ松乃殿が置いてくれたんだろう?」
「書き置きもありがとう」と居住まいを正して頭を下げれば、松乃は身体を硬直させた。
「それは……」
黒鳶色の視線が畳の上で逡巡する。少女は柳行李と芦雪の顔を見比べ、そして喉元までこぼしかけた何かを飲み込んだ。
「……いえ。大したことはしておりません」
礼を言われるとは思っていなかったのだろうか。松乃は身分を殊更気にする性格のようであったし、芦雪の感謝にいたたまれなくなっているのかもしれない。
やや不思議に思いながらも、芦雪はもう一人の恩人の名を口にした。
「藤仁殿にも礼と、挨拶をしたい。これから厄介になる身だしな。藤仁殿は今どこに?」
「兄ですか? 兄なら今、作業で画室に……」
形を成しかけた少女の言葉は宙に浮き、再び唇が引き結ばれる。芦雪が小首を傾げれば、彼女の愛らしい花の
「そうでした、芦雪様! 兄にご挨拶して頂く前に、今後お任せしたいご奉公のお話をしてもよろしいでしょうか? 兄にも関わることなので」
「あ、あぁ……。それは構わないが……」
あまりに唐突な流れのように思われたが、目の前の少女の中では、至極当然な順序のようだった。松乃の勢いに若干腰が引けつつも、芦雪は素直に耳を傾けた。
「当工房『流屋 翠雨庵』は、通称・流屋と呼ばれております。写楽様からお話は聞かれているかと存じますが、ここは工房と絵屋……いわば絵を制作する場と制作した絵を売る場の二つを兼ね備えた
松乃が言う芦雪に任せたい仕事とは、流屋の折衝役──つまり、工房に絵を注文するお客と店のやり取りを、店の顔として取りまとめるというものだった。それを慣しとして、最終的には、流屋の後援者とのやり取りも任せたいとのことだ。
今まで、これらは棟梁である琳也や番頭が担ってきたようだが、現在、件の二人が店自体を不在にしている最中だという。琳也の生まれ故郷である
彼らが帰ってくる日取りも未定のため、「あとはよろしく」と慌ただしく後を任された松乃は、ほとほと困り果てていた。
当初は折衝役を松乃が引き受けようとも思ったようだが、何せ彼女はまだ十五の娘だ。
読み書きができ、それなりの教養も受けているとはいえ、顧客の豪商や武家を相手とする文のやり取りに慣れていない。対面しての会話など尚更だ。
ゆえに読み書きができ、やり手商人らを相手に物怖じせず、なおかつ愛想が良い人間で、外部の人間との折衝を一手に引き受けられる人材を探していたのだと松乃は語った。
「写楽様はその……尋夢庵への依頼方法が物語っている通り、人を選ぶ方です。包み隠さず申し上げれば、人の好みがうるさい方なので……。そんな方が、芦雪様を流屋の折衝役にと推されたのです。きっと、このお役目は芦雪様に適任だと思います。我々が求めていたお人柄そのものだという意味でも」
知らぬ間に、芦雪は写楽に気に入られていたようだ。短い時間でどう判断したのかは見当もつかないが、人の好みにうるさいとされる人間に太鼓判を押されて、悪い気はしない。
ほのかに頬が火照る。面映ゆさを逃すため、芦雪は再び長い前髪をかき上げた。
「店は、朝五つ〔7時〕から七つ半〔17時〕まで開けております。店自体のお休みは毎月決められた三日間と正月、盆、五節句です。ですが、流屋に属する者は基本的に二日働いたら一日お休みする制度に従わねばなりませぬので、交代での勤務になります」
商家にしては柔軟、というより、変わった制度である。本来であれば、商家の奉公人は休みを取る際に番頭や当主の許可が必要な上、正月、盆、五節句以外は基本的に働く。
一方、流屋で敷かれている「二日働いて一日休む」形態は、琳也が独自に定めたもののようだ。商人というよりも役付きの武家奉公──いわば、城勤めのそれと同一だった。
(怠け者……なわけではないだろうな。やはり、絵師に限らず働き者は身体が第一だ。無理してまで働くなという考えの持ち主なのかもしれない……。定めた本当の意図は分からないが、人の上に立つ者としては至極真っ当なお人なのだろう)
流屋の働き方に、ここにはいない琳也の人となりが見えた気がした。
働く環境としては上々だ。これ以上考えることも無駄だろうと、芦雪は湧いて出た小さな疑問を頭の隅に追いやった。
(とりあえず、任される仕事は書面のやり取りが主になるのか。とはいえ、相手が上客に縛られている接客に変わりはない。……久しぶりになるんだ。気を引き締めなければ)
郷愁を誘う風景と、幼馴染みの顔が脳裏をよぎる。かつて、芦雪は屋敷から抜け出しては幸之介のもとへ押しかけ、彼の実家が営む大店の手伝いをしていた。今となっては遠い記憶だ。
武士が表立って商売するなど、両親が聞けば卒倒してしまうだろう。だが、見知らぬひとやものと数多接する接客というものが、芦雪は存外に好きだった。
当時、小さな鳥かごのような屋敷で淡々と日々を過ごしていた芦雪を、幸之介も少なからず不憫に思っていたのか。彼は居座る芦雪を軽く睨みながらも、「客商売とはこうするものだ」と、手取り足取り指南を施してくれたのが懐かしい。
写楽に流屋を奉公先として紹介された時、芦雪はてっきり接客を主に任されるのだと勝手に想像していたうえに、そうであれば楽しみだな、などと暢気に考えていた。
仕事があるだけ恵まれた話だ。落胆する権利はないが、肩を落とさずにいられなかった。
だが、落ち込むのはまだ早いと言わんばかりに松乃は続けた。
「それともうひとつ、重要なお仕事をお任せしたく……。これは芦雪様にしかできないことなので、大変申し訳ないのですが、追加でお頼みしてもよろしいでしょうか?」
「……もちろん! 俺にしかできないことなんだろう? なんでもどんとこいだ」
「本当ですか? それはありがたいです!」
場合によっては表の接客も任せたいという話かもしれない。利己的な希望を胸に、芦雪は快諾の意を示した。話の続きを促せば、彼女は愛らしい唇を綻ばせて言った。
「そうしましたら、兄上の……藤仁のお目付け役をお任せしてもよろしいでしょうか?」
芦雪の瞼が、二度瞬いた。
「藤仁殿の……目付け? 俺が?」
「はい。我が愚兄は、絵に打ち込むあまり、食事や私生活を疎かにする節がございますゆえ。現に、そろそろ昼餉の時間ですのに居間に訪れる気配すらありませんし……。兄がきちんとした生活を送るよう、見張って欲しいのです。流屋の筆頭絵師という身なのだから、もう少し自覚を持って生活して欲しいのですが、私も自分の仕事で近頃見切れない部分も多々あり、困っておりまして……」
自らの頬に手を当て、松乃はわざとらしく大きなため息を吐いた。
(藤仁殿の目付け役が、俺にしかできない仕事……? そんなに難しいことなのか?)
己に追加で課せられたのは、藤仁に整った生活を送らせること。ただそれだけである。
しかし、彼に最も近い存在である妹が、兄の日頃の生活に困り果てている。藤仁は、自身を蔑ろにすることが習慣化しているのだ。そばにいる人間の心配を、意に介さぬほどに。
(あの几帳面そうなお人がなぁ……)
折り目正しく日々を送っていると明言するかのような端正な顔立ちの青年が、私生活においては混沌を極めている。好奇心がくすぐられぬわけがなかった。
宙をさ迷っていた視線を松乃に戻せば、彼女は芦雪の返答を落ち着かない様子で待っていた。口元には変わらぬ微笑が湛えられていたが、瞳には不安にも似た色が滲んでいる。
彼女の様子に苦笑を漏らしつつ、芦雪は首肯した。
「承知した。では早速、今からでも挨拶がてら藤仁殿のところに行ってこよう。ひとまず、昼餉を食べてくれと声がけすれば良いんだな?」
「……! はい! 芦雪様の分も用意しておりますので、もし食欲がおありでしたら、ぜひ召し上がってください」
「何から何まですまない。ありがとう」
「とんでもございません! こちらこそお引き受け頂き、ありがとうございます」
瞳の奥に
やはり、松乃には笑顔が一等似合う。年下の娘御の曇った顔を見ると、芦雪は身を切られるような心地に駆られてしまう。まだこの世の道理や理不尽を知らぬ年下の子らには、時が来るまで無垢なままでいて欲しい。それが、大人の傲慢な願いだとしても。
「では、芦雪様。お身体のこともありますし、今日は兄の様子だけ見て頂いて、明日から店のお手伝いをして頂けると大変助かります。改めてご奉公の内容をお伝えしますね」
「あい分かった。本日からよろしく頼むよ、松乃殿」
松乃の案内によりたどり着いた先で、芦雪は立ち尽くしていた。
二人のいた客間から、薄暗く長い廊下を渡らねば現れぬ部屋。母屋の中でも更に人目から隠すような位置にそれはあった。
「芦雪様。こちらが兄の画室です」
部屋の襖は、主の性格を表すかの如く固く閉ざされている。本当に中に人がいるのかと疑いたくなるほど、画室は森閑としていた。
(この襖の向こうに……藤仁殿が……)
藤仁は今、部屋の中でひとり、注文を受けた絵を描いている最中のようだった。
流屋では店の二階が工房に当たり、流屋に属する絵師らは工房に集まって絵を制作する。
だが藤仁だけは、母屋の画室で絵を描くことになっているのだと、松乃は説明した。
「兄は先生……棟梁である琳也の唯一の内弟子で、筆頭絵師として大口のお客様を数人請け負っておりますから、先生が特別にお部屋を与えてくださったのです。私たち兄妹が先生の養子だから、というのもあるとは思いますが……」
言葉尻には、「琳也は可愛い
彼女は開かずの襖に視線を移し、奥にいるであろう者に慈愛の眼差しを向ける。最後に、満足気に笑みを深くすると、「では、あとはよろしくお願いいたします」と言い残し、足取り軽く店へと戻って行った。
部屋の前にひとり残され、芦雪は廊下に腰を下ろす。襖を目前に、細い息を吐き出した。
いざ藤仁に対面すると思うと、理由も定かでない緊張が胸元までせり上がり、息をこぼさずにはいられなかった。
恐る恐る、襖の縁に指を掛ける。喉奥を生唾が伝い、瞬きの間に垣間見た、男の儚げな表情が脳裏をよぎった。
もし、再びあの顔を向けられたら。自分はどうするべきなのだろうか。明確な答えは、芦雪の中に今も欠片すら存在していない。だからと言って、部屋の前でたたらを踏んでばかりもいられまい。与えられた責務を放棄することになる。
簡単なことだ。襖を桟に沿って引き、声を掛けるのみ。頭を悩ませるほど難しいことではない。己が恐れている藤仁の未来の反応も、暗鬱としたものではなかろう。看病の際の芦雪への接し方を鑑みるに、むしろ前向きなものが返ってくる可能性の方が高い。
歳も近そうであったし、幾らか言葉を交わせば、自ずと関係の先行きも推し量れよう。それこそ、彼が江戸で初めての芦雪の友になることも十分にあり得る。
募る期待を裡に宿し、襖に触れていた指を握り込む。芦雪は意を決して声を投げた。
「……もし! 藤仁殿はおいでか?」
しばし反応を待つ。三度瞬きができる程の時が経つも、返事はない。
再び、大きく息を吸い込む。芦雪は、隔たれた襖越しにもはっきりと通る声を発した。
「本日から流屋で世話になる芦雪だ。改めてご挨拶をしたく!」
自身の用件を伝えるが、やはり返答はない。
「藤仁殿?」
部屋の主の名を紡ぐが、応えるはずの声は、耳端を掠めることすらなかった。
(……まさか、倒れてたりしないよな?)
寝食を忘れて絵に向き合うような人間だ。彼も気づかぬうちに空腹や心労がその身に忍び寄り、音もなく襲いかかっていやしないだろうか。
──それこそ、誰かに悟られることもなく、ひとり倒れ伏しているのではないだろうか。
恐ろしい想像が頭の中を占め、嫌な汗が芦雪の背中を伝った。
「すまない、開けるぞ!」
芦雪は我慢しきれず、指をかけるのさえ戸惑っていた襖を、勢いよく開け放った。
和紙を透かした薄黄が、淡く視界を埋める。目を眇めて部屋内部を見渡せば、求めていた青年の姿があった。
紙上を走る清冽な墨の音が、画室に響く。男は床に横たわる大きな紙面に向き合い、乱れの無い流麗な動作で筆先を動かしている。彼の面持ちは、横顔からでも分かるほどに真剣味を帯び、何者も寄せつけぬ空気をまとっていた。
(……綺麗だな)
ごく素直な感想が、芦雪の心の湖面を震わせる。黒鳶の瞳に鋭利な冷たさをも孕ませつつ、ただ静かに、ひたむきに絵を描く藤仁の姿こそが、一枚の絵のようだった。
芦雪は襖の縁に指をかけたまま、しばらく眼前の光景に見惚れていた。
「……長澤様。何かございましたか?」
己に刺さる視線にようやく気づいたのだろう。藤仁は顔を上げ、芦雪に目を向けた。
彼の耳にかかっていた一房の髪が、
「あっ、いや……。邪魔をしてすまない。改めての挨拶と礼を……そうだ、昼餉はどうするのかと松乃殿から仰せつかってな!」
見惚れていた、などと本人に言えるはずもない。その場しのぎの笑みは、きっと酷い形に歪んでしまっているに違いなかった。
しかし、それも杞憂に終わった。藤仁は顔色を変えることもなく、再び絵に視線を戻しながら口を開いた。
「……昼餉はいらないと、松乃にお伝え頂けますか。しばらく集中したいので」
飾り気のない態度で断りを口にすると、藤仁は芦雪に見向きもしなくなった。芦雪がその場に座り込んでいようが、見つめていようが、再び顔を上げる気配はない。
(……それだけ?)
藤仁に「心配した」と言って欲しかったわけではない。だが、他に何か言うことはないのだろうか。
身体はもう大丈夫なのか、とか。これからよろしく、だとか。……元気そうな顔を見られて良かった、とも。
(なんだ……。あれは見間違いだったのか……)
ひとときとはいえ、泣き出しそうな顔をするほどに、芦雪のことを案じていた。そう、思い込んでいた。気を失う前に目にした彼は、夢幻だったのだ。
現実の藤仁にとって、芦雪はやはり、たまたま助けてやっただけの人間に過ぎないのだろう。出会ったばかりなのだから当然だ。一体、何を期待していたのだろう。
「承知、した……」
身勝手な暗雲を心に抱えながらも、芦雪はやっとのことで短い返答を絞り出す。藤仁には届いていないだろうが、また声をかけると一言付け加え、襖を閉めた。
(馬鹿みたいだ……)
襖に背を預ける。強ばった身体から力が抜けていくと同時に、このやり取りがきっかけで仲良くなれるやもと夢想していた先刻までの自分が、あまりに滑稽に思えた。
「本当に恥ずかしいやつだな、俺は……」
吐き出す自嘲の声すら恥ずかしい。久方ぶりに走る頬の熱を移そうと、両手で顔を覆い隠す。「お前は、少し好意を向けられただけですぐに調子に乗るところが駄目なんだ」と、頭の中で郷里の幼馴染が小うるさく説教を垂れていた。今日ばかりはその通りとしか言えず、芦雪はますますため息を深くした。
(……あー。もう考えるのはやめだ、やめ。松乃殿の所へ行こう。今からでも手伝えることがあるなら、手伝った方が良いな。……うん、それが良い)
いつまでも熱が冷めないのなら、何も思考できぬほどに身体を動かしたい。今すぐに。
芦雪は、松乃が消えた方へと歩を進めた。
それからの芦雪の行動は、実に早かった。
店先に立つ松乃のもとへ訪れるや否や、「俺にできそうな仕事を何かくれ」と詰め寄り、半ば無理やりに絵屋の接客をもぎ取ったのだ。
「芦雪様に表立った接客をお任せするのは、流石に……」
「それは俺が武士だからか? 大丈夫だ、接客には慣れてる。故郷で商家の出の幼馴染に仕込まれたんだ。そいつの実家で働いていたこともあるし……」
「でも……」
「今の俺は帯刀もしてない、ただの芦雪だよ。お願いだ、松乃殿。俺を助けると思って……! 危なっかしいと思ったなら、すぐに下げてもらって構わないから!」
手を合わせて、何卒と頼み込む。眼前に下がる淡墨の頭を見て、松乃がひどく慌てたのは言うまでもない。小さく息をこぼしたあと、ついに松乃は根負けした。
「……少しだけですよ」
彼女は己の袖端を握りしめながら言うと、芦雪を店先へと送り出した。
結果から言えば、芦雪の評判は上々だった。幸之介仕込みの客への接し方はもちろんだが、人懐っこく浮かべた笑みや明朗な話し方に、親近感を抱く客が多かったようだ。
一方、それを後ろから見守っていた松乃は気が気でなかったらしい。何より、武士の身である者に客商売をさせていることが彼女の中でしこりになっていたようだった。
店仕舞いを手伝う折、「私の心の臓がもちそうにありませんので、もう二度と、このようなお申し出はおよしになって下さいませ」と薄く水面を張った眼で叱られてしまった。
(松乃殿には悪いことをしたが……。身体を動かして人と話していたおかげで、何も考えなくて済んだ。一日があっという間だったな)
芦雪は自室にと通された部屋で寝転がり、障子の向こうに佇む空に目を向けた。
明日からいよいよ、流屋での奉公が始まる。心が浮き足立ち、落ち着かない。
期待、高揚、そして僅かな不安。それらが渦を巻いて
冴えた風が鼻先を掠める。頭上では、凛と澄んだ夜空に小さな星々が白く瞬いていた。
ひときわ輝く星明かりが頬を優しく撫で、暗色漂う視界に一筋の煌めきを与えている。
かの星は、まるで流屋のようだと思った。これまで琳也が積み上げてきた、流屋の威光そのもの。それを自らが曇らせるわけにはいかない。今にも飛び立ちそうな心を、不安が重しになって地に留める。芦雪は肩を落とし、大きなため息をついた。
「……気晴らしも兼ねて、寝る前に絵でも描くか」
落ち着かぬ時こそ、平生通りに過ごすのが良い。心も平静さを取り戻すはずだ。
障子を閉め、芦雪は再び畳の上に腰を下ろすと、早速、画帳と使い慣れた矢立を取り出した。
(今日は何を描こうかなぁ。走獣? いや、それだといつも通りすぎて面白みがない……。もうすぐ春になるだろうから、春の花でも描くか? 春の花……梅に桜、
淡い紫の花名が、喉の縁にかかる。芦雪は思わず、生唾とともにそれを飲み込んだ。
幾重にも重なる藤浪の隙間から、かの花を戴く青年が顔を覗かせた気がしたのだ。
(藤……の花……は……。……いや、草花図はやめよう。余計なことを考えそうだ……)
強く
画帳を開き、手に馴染んだ動作のままに筆先を走らせる。墨で紙上を彩れば、瞬く間に真白き命が宿る。
ぷっくりとした足を前に投げ出し、小首を傾げて座るは一匹の白い子犬。つぶらな瞳にころころと丸っこい肢体を持つ愛くるしい生き物は、たとえ絵であっても、見た者全てを和ませるに違いない。
「ふふ。この子犬は、結構良く描けてるんじゃないか?」
画帳を持ち上げ、自らの絵の出来栄えに笑みを深くする。
もし、この絵を見せたら。彼は──藤仁は、笑ってくれるだろうか。
(いやいやいや。何考えてるんだ。藤仁殿のことは一旦忘れようと決めたじゃないか)
出会ったばかりの青年にこだわるのは、彼の一抹の優しさに触れたからなのか。それとも、優しさなどなかったかのように、自身に淡々とした表情を向ける彼の内側を、もっとよく知りたいと好奇心が刺激されるからなのか。
(……両方だな、多分)
頭の隅でうずくまっていた何かが、静かに背中を押す。湧き出るばかりの想いを受け止めるように、芦雪は伏せた睫毛を上げた。
(明日、もう一度声をかけてみるか……)
無視をされたわけではない。素っ気なくはあったが、突き放すような態度を取られたわけでもない。そもそも、彼とはまだ交流を重ねる前の段階だ。諦めるには早計である。
「……そうだ。俺はしつこいんだ。図々しさに至っては、幸之介のお墨付きだぞ。ここで萎縮するなんぞ、らしくない」
「そうだろ?」と、芦雪は紙上で小首を傾げる子犬の絵を指でなぞる。白き獣が頷くわけもない。——それが普通の絵であったならば、の話だが。
「……っ!?」
異変に気づく頃には、時既に遅く。芦雪の意に反し、眼前の子犬は淡い翡翠色の光を瞬かせ始めていた。濃い血の香りをまとわせた、赤錆色のもやを表出させながら。
(なんだ、このもや……? それに四魂が何故……何故、この絵に宿って……)
四魂を生み落とすためには、確固たる意志や願いが必要だ。「目の前の敵を倒せ」、「俺の身を守れ」という、明確な
昨日、茶屋の前で浪人らを撃退するために顕現させた胡蝶の四魂は、まさにそうだ。
──おいたをする子どもたちを、叱ってやれ。
芦雪の願いが四魂の命の核となり、絵から抜け出すための糧となる。
だが、今回は違う。芦雪は何も
「戻れ……、頼む……!」
筆を放り投げ、先走る焦燥のままに子犬の表面を押さえるが、当然のように何の意味もない。寧ろ、触れたところから、もやの表出は酷くなるばかりだ。子犬に宿った四魂の光は輝きを増していた。
疑問や焦りは募るばかりだが、子犬の四魂には枷にすらならなかった。翡翠色の光輝は、外の様子に興味津々といった風に、芦雪の指の隙間から顔を出した。
「……っ!? ちょっ、待て!」
主である芦雪の言葉を無視し、子犬の四魂は紙面から抜け出す。顕現したそれは大きく伸びをし、畳の上にあくびを落とした。
子犬はふくよかな肢体を右に左にと小さく動かすと、軽やかな足取りで外へと出ていってしまった。蝶や小鳥を追って遊びに出かける、本物の子犬同然に。
白き小さな後ろ姿が消えてしまったあとも、芦雪は暫し部屋の襖を眺めていた。
「……いや、惚けてる場合か!」
逃げ出した四魂を、早く捕まえなければ。主の
小袖が乱れるのも構わず、芦雪は慌ただしく部屋を飛び出した。
翡翠の光芒をたどり、廊下を歩く。いつしか、足元は月の薄明かりに彩られていた。
どうやら、母屋の縁側に出たようだった。月の在り処を探そうと視線を上げる。雲間に満ちては欠ける月明かりに、丁寧に整えられた枯山水の庭が浮かび上がっていた。
夜の息吹が頬を撫でる。月光に立ちすくむ身体に、小さく震えが走った。
(早く四魂を見つけて、部屋に戻ろう……。流石に外は冷える……)
先程の勢いはどこへ行ったのか。芦雪は心細さを覚えつつ、とぼとぼと縁側を歩いた。
この寒さも、四魂のこともなければ、ここで月見酒に興じることもできただろうに。状況にそぐわぬ理想に耽り、本日何度目とも分からぬ大きなため息を吐いた。
「……ふ。随分と人懐っこいな。主に似たのか?」
ふと、やわく笑った声が耳端を掠めた。芦雪は弾かれるようにして顔を上げ、縁側の端にひとつの人影をみとめる。
薄明かりに照らされ、声の持ち主の肌は陶器のように艷めいていた。
「……藤、仁……殿……?」
あぐらをかいて腰を据える彼は、忘れたくとも忘れられない春の花の君。青年の膝上には小さく愛らしい生き物が座り、甘えるように彼の指に擦り寄っていた。遠目から見てもわかるほど、それは胸元を翡翠色の光で満たし、ひどく満足気だ。
青年は誰のものとも知れぬ四魂の頭を愛おしげに撫で、薄い唇を僅かに緩めていた。
(藤仁殿が……笑ってる……)
昼間に見た表情からは想像もできない藤仁の微笑に驚くとともに、困惑を隠せなかった。
(藤仁殿には、四魂が見えている……?)
藤仁は、芦雪が顕現させた子犬の四魂に触れ、あまつさえ撫でている。つまり、彼も芦雪と同じ
かすかな雑音と灰色の
(昨日……俺は倒れる前、彼の四魂を見た……?)
身に覚えのない、されどこれは実際に起きたことだと囁く記憶。胸中で渦を巻く疑問と不安に、芦雪はすがるものを求めて、衿元を握りしめた。
「長澤様」
名を呼ばれて我に返る。藤仁が座ったまま芦雪に視線を投げ、眉根を顰めていた。
先刻までの微笑はどこへ追いやったのかと問いたくなるほど、彼の冴えた面差しは感情を宿さぬものに戻っている。
(……ずっと、笑っていれば良いのに)
残念に思いながらも、芦雪は貼り付け慣れた人の良い笑みを湛えた。
「こんばんは、藤仁殿。すまない、その子犬は……あの……」
「貴方の四魂……でしょうか?」
言い難い事実を、藤仁はいとも簡単に口にした。芦雪は驚きで目を見開くが、藤仁は視線を外し、さも当たり前のように子犬の頭を撫で続ける。
「……ご安心ください。見ての通り、俺も貴方と同じ
何も言わず、口ごもったままの芦雪を慮ったのだろう。藤仁は長い睫毛を伏せ、自ら己の異能について触れた。
混濁する記憶が囁いていたことは、嘘ではなかったようだった。やはり昨日、藤仁が操っていたと思われる白鷺の四魂を、芦雪は本当に目にしていたのだ。
いつ、どこで、何故かという仔細は定かでない。しかし、倒れる前に松乃と何かを話し、数多の四魂を一度に見たような。形を持たぬ不明瞭さに一抹の不安がたつが、今考えるべきはそれではない。
芦雪は藤仁のもとへ歩み寄り、小さく頭を下げた。
「捕まえてくれてありがとう。貴殿の言う通り、そいつは俺の四魂だ。急に逃げ出してしまって……。迷惑をかけたな」
「いえ……」
藤仁の短い返答を最後に、沈黙が舞い降りる。それが妙に気まずい。互いをよく知らぬ者同士特有の空気だ。芦雪は場を均すようにして、子犬の首根を掴んで抱き上げた。
一方、主の心情など知らぬ存ぜぬの四魂は、手足をばたつかせている。藤仁から離れたくない、と声高に叫んでいるかのようだ。柔和に垂れたはずの眦は、随分と不満げな皺を滲ませている。あまりにふてぶてしい四魂である。
本来であれば、子犬の四魂に構っている場合ではない。四魂のこと、異能のこと、そしてゆかりのこと。今すぐにでも子犬を放り出し、己と同じ
(でも、それを聞くのは今じゃない……)
今なすべきことは、不本意だが子犬の四魂を絵に戻すことだ。子犬がまとっている赤錆色のもやの正体も不明なままだ。顕現させておくことで、周囲に害を及ぼす恐れもある。
何より、藤仁と言葉を交わすこと自体、今は気が進まない。明日から奉公に努めながら、徐々に関係を築いていこうと決めたばかりだ。
心づもりも不明瞭な現状で藤仁と接すると、また彼の淡々とした態度に勝手に落胆してしまいそうで、怖さが勝った。芦雪はそそくさと口火を切った。
「……とにかく、助かった。もう夜も遅いし、俺は部屋に戻るな」
「承知いたしました。……おやすみなさいませ」
「あ、そうだ。それ。これから世話になる身なんだ。身分のことは気にせず、俺には気軽に接してくれ。共に暮らすのにやれ武士だ、商人だと言うのも馬鹿馬鹿しいだろう。だから敬語もいらない。改めてよろしく頼むよ、藤仁殿」
己が言いたい最低限を形にし、芦雪は藤仁に背を向けた。
「長澤様」
短く、芯のある声音。それに袖を引かれて振り返れば、男と視線が交わった。
月明かりに揺らめく黒鳶色の瞳は、暗鬱とした闇と、何かを求めてさまよう熱を孕んでいる。芦雪は一対の水面に吸い込まれ、一瞬を永遠のように感じていた。
藤仁は一度名を呼んだきり、何も言わない。芦雪が続きを促すように小首を傾げても、視線を外されてしまうだけだった。
一体どうしたのだろう。言いたいことを忘れてしまったのだろうか。そもそも、名を呼ばれたのは気のせいだったのだろうか。
芦雪が疑心暗鬼に陥りかけたところで、藤仁はようやく口を開いた。
「……藤仁でいい」
「……へ?」
「名前。殿は要らない。藤仁……と呼んでくれ」
呟くように。突き放しているようでいて、遠く離れなくとも良いと告げるように。目の前の男は簡潔に
藤仁が何を言ったのか。芦雪はしばらく理解できないでいた。聞き間違いでなければ、彼は名を呼んで欲しいと言ったのだ。「藤仁」と。
単に、「敬語は取って気軽に接して良い」と言う芦雪への返答だったのかもしれない。
けれど、名を呼ぶことを許されただけでも、彼との心の距離がほんの少し埋まったような気がして。芦雪の目元に、一筋の温度が宿った。
湧き上がる喜びは、泉のように止めどない。芦雪は、彼の名を幾度も舌上で転がした末に口端を引き上げた。
「俺のことも芦雪で良いからな。……藤仁!」
晩冬の夜に、花と雪を戴く音が二つ、ほどけていく。明瞭に形を成していた二音は輪郭を無くし、互いに溶け合って。やがてゆっくりと、