第三筆「招魂」

 写楽しゃらくに連れられ、芦雪ろせつは日本橋に舞い戻っていた。
 正確には宿泊している小伝馬町ではなく、日本橋で最も繁華な街、通南とおりみなみの方にだが。
 相変わらず人通りは多く、人々の生活の営みの声が鼓膜を震わせる。昨日、御用絵試の立札を眺めていたのが未だ記憶に新しい。
 やはり昨日と同様に、芦雪が右に左にと忙しなく視線をさ迷わせていると、前を歩いていた背中が足を止めた。
「ぶっ」
「……大丈夫ですか?」
鼻の頭が広い背にぶつかる。何かが潰れたような呻き声に、写楽は振り返って芦雪に目を下ろした。
 彼は本当に心配しているのだろうか。身の無事を確かめる声音は、やや楽しげだ。少し上背のある彼は、ほんのり赤く染まったそれがよく見えるのだろう。
 節のはっきりした指先が、芦雪の鼻先を撫でる。されるがままに「あー」だか「うー」だか唸り声のようなものを上げつつ、芦雪は写楽が止まった原因を上目遣いに見て尋ねた。
「ここは?」
流派ながれはの絵画制作工房──通称、ながれ屋です」
 写楽が指し示したのは、大通りの一角に座す二階建ての建物だった。屋根看板の「流屋 翠雨庵」の文字が黄金色に輝き、軒には「流屋」と記された軒看板が控えめに吊り下げられている。その背後には、流水紋に彩られた藍色の水引暖簾が、間口いっぱいに張られていた。
 この流屋という店は、どうやら小間物屋こまものや〔雑貨屋〕のようだった。扇や屏風などの紙製の日用品が品良く並んでおり、品を眺める客の身なりにも上品さが滲み出ている。
 小間物屋とは言っても、ある程度の財を成す人々で賑わう店なのだろう。客足は他の店々と比べても多く、日本橋の盛況に一役買っていると言っても過言ではなかった。
 ふと、店先の柱が目に入る。芦雪の視線を射止めたのは貼り紙だったようで、そこには「屏風絵、化粧箱、瀬戸物、小袖の下絵承ります」と記されている。写楽が先刻述べた「絵画制作工房」というのは、このことを指しているのだろう。
 しかし、この絵屋に一体何の用があるのか。芦雪が所望したのは口入屋であって、小間物屋ではない。
 写楽の意図がとんと分からない一方で、目の前に並ぶ品々に芦雪の気もそぞろになる。「これは何の品だ?」と視線を隣に流せば、そこにいるはずの写楽は姿を消していた。
 右も左も分からぬ雛を置いて、先導役はどこへ行ったのか。芦雪は湧き上がる焦燥を抑えつつ、店の列を抜けて周囲を見渡すと、流屋と隣接する建物の間にある路地に、写楽が慣れた足取りで入っていくのが見えた。
(まずい、置いていかれる……!)
 柳色の背を追って辿り着いたのは、流屋の裏口だった。店の前に佇んでいた時は気づかなかったが、流屋の裏手には店より二回り以上も広い敷地と、一つの屋敷がある。紺色の屋根瓦が陽光を返して煌めき、芦雪は目を眇めた。
 端から端まで順繰りに見ていくと、家屋から流屋へと歩廊が伸びているのが分かる。どうやら、この屋敷も流屋の一部のようだ。
(随分と立派な建物だ……。町民地に建てる家屋にしては、土地も武家屋敷並みの広さじゃないか? 下手すると、俺の実家よりも広いんじゃ……)
 一体、この屋敷にはどのような人間が住んでいるのだろう。町人地とはいえ、日本橋の一等地だ。流屋の敷地であると想像できる以上、流屋を営む人間が住んでいるのは間違いないだろう。
 芦雪が疑問を呈する中、写楽が流屋の勝手口を開けようと戸に指をかけた、その時のことだった。
 ひとりでに戸が開く。戸の向こうで二人を出迎えたのは、一人の少女であった。
(この娘……。昨日、立札の前にいた……?)
 松葉色の小袖に、黒鳶くろとび色の髪。大きな瞳も髪と同じ黒鳶色で、愛らしさが際立つ。花のかんばせに見覚えがあることも加えて、芦雪は彼女から目が離せないでいた。
 少女もひどく驚いているようだった。暫し芦雪と視線を交わしていたが、大きな瞳はなおも見開かれたままだ。
 やがて、ゆっくりと黒鳶色の水面が瞬く。少女は芦雪の隣に立つ面布かおぎぬの男に視線を預け替えると、戸惑いを滲ませながらも口を開いた。
「……写楽様。本日はどうされたのですか?」
「ちょうど良かった。松乃、お前を探していた」
「私を……? 何故です?」
 写楽が親密な様子で少女の名を呼ぶところを見るに、知り合い以上の関係らしい。松乃と呼ばれた少女は、己を指さして鈴を転がすような声音を返した。
 彼女の返しはもっともだ。芦雪さえも同様の疑問を浮かべていた。
 写楽という男は、あまりに言葉足らずで唐突だ。それを自身で肯定するかのように、彼は松乃に向かってやはり淡々と言葉を重ねていく。
「以前、流屋で住み込みの奉公人を探していると言っていたな」
「は、はい。ちょうどこれから、口入屋に依頼をしに行こうかと思って……」
「行かなくて良い。奉公人は見つかったからな」
「え?」
「長澤殿。今日からここが貴殿の奉公先だ」
「へ?」
 松乃と芦雪は、各々上擦った声をあげてしまう。写楽の横暴とも取れる決定事項に、先に待ったをかけたのは松乃だ。
「ま、待ってください、あに……じゃなくて……写楽様。その……長澤様は、お武家様とお見受けします。今回欲しい人手は用心棒ではなく、流屋の店の手伝いですから、お侍様がうちで奉公というのは、流石にお受けしかねます……。それに、それは兄上がお決めになったのですか?」
「あ、俺の身分は気にしないでくれ。あってないような、その辺の下士だから」
 松乃と同じく待ったをかけるはずの芦雪は、「お武家様」の部分に丁寧に訂正を入れ、あっけらかんと言ってのける。松乃がますます戸惑いの色を濃くするのは当然であろう。
 写楽は憂えた息をまとわせつつ、身を縮こませる彼女に言い聞かせるように述べた。
藤仁ふじひとには俺から伝えておく。彼なら了承するはずだ。……そう心配するな。長澤殿は身分の隔たりを気にしない変わった御仁だが、浪人でもない。本人は謙遜しているが、身元もしっかりしている水仙の君だ」
 写楽が明瞭に放ったげんに、松乃の肩が小さく跳ねる。長い睫毛がゆっくりと上向き、一対の眼が芦雪を捉えた。
「このお方が……?」
 黒鳶色の瞳は疑念と期待の色を滲ませながら、芦雪の眼差しを受け止めていた。
(水仙の……君……? なんだ……?)
 言葉の意味を問おうと口を薄く開けば、それを遮ったのは他でもない、松乃である。彼女は納得したように頷き、写楽を真っ直ぐに見上げて答えた。
「……承知いたしました。では、善は急げと申しますので、すぐに長澤様のお部屋をご案内いたします」
「あぁ。くれぐれも失礼のないように」
「存じております。大事なお客様ですもの」
「では、藤仁ふじひとを呼んでこよう。この時間は母屋にいるんだったな。二人は先に居間にでもいてくれ」
 芦雪の中では溶けぬ疑問の雪が降り積もっていくばかりで、二人が一体何に納得しているのか、皆目見当もつかない。介入する間もなく、あれよあれよと決まっていく物事に目眩がする。
 そんな芦雪に気づいていないのか、はたまた気づいていて放っているのか。写楽は颯爽と身を翻し、流屋の背後にある大きな屋敷──母屋へと姿を消した。
 松乃と二人、その場に残され、芦雪は目眩に加えて頭痛を覚えた。口入屋の紹介を頼んだはずだが、どういうわけか直接奉公先に案内されてしまった。それも、かなり強引に。
 住み込みの働き口を探そうと考えていたがゆえに、示された話は手間が省け、渡りに船だったのだが、あまりに急すぎやしないか。未来の奉公先に向けて小さく嘆息を漏らしてしまうのも、いくらか許されるはずだ。
「あの……」
 少女の掠れた声とともに、遠慮がちに袖を引かれる。我に返って目を下げれば、謝意を多分に含んだ眼が芦雪を見上げていた。
「長澤様。不躾に申し訳ございません。写楽様はその……一度決めたら周囲が見えなくなるところがございまして……。決して、悪気があるわけではないのです。この奉公の件も、もし長澤様に不都合がございましたら、断って頂いて構いませんので……」
 写楽はやはり、日頃からやや強引な面があるらしい。松乃は困ったように眉尻を下げると、地面に膝をついて平伏しかねない勢いで、深々と芦雪に頭を垂れた。
「いやいやいや! とんでもない! 頭を上げてくれ。寧ろありがたい話だよ。写楽殿には礼を言いたいぐらいさ」
 紛うことなき本心だった。嫌ではない。随分と恵まれた話だ。
 ただ、慣れない唐突さに驚きが勝ってしまっただけのことである。松乃が頭を下げる必要など、どこにもありはしない。
 芦雪が松乃の顔を無理矢理に上げさせると、彼女はぎこちなくではあるものの、安堵の吐息とともに微笑んだ。やはり、彼女は笑んでいた方が愛らしい。少女の笑顔につられ、芦雪も固くなっていた表情を緩めた。
「申し遅れました。私は松乃と申します。ここ、流屋工房の棟梁とうりょう流琳也ながれりんやの娘です。若輩者ゆえ気が回らぬところも多く、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかよろしくお願いいたします」
 松乃は、再び深々と腰を折って丁寧に名を名乗る。十五、六ほどの見た目の割に、随分と大人びた口調と雰囲気だ。立札の前で見た折のものと変わらない。
 それに妙な違和感とざわめきを覚えつつも、芦雪は松乃の口から飛び出した「流琳也ながれりんや」の名に、小さく声を漏らした。
(流屋の名に聞き覚えがあると思ったら、ここは琳也殿の工房だったのか。ここ十数年ほどで、江戸の豪商から厚い支持を得ている絵師じゃないか)
 琳也は、遠く離れた京の地でも時折名を聞くほどの壮年の絵師だ。未だ若くも力のある弟子らを何人も抱えており、また四季に根ざし、情趣に通ずる彼の草花図や花鳥図は、洒脱で優美さに富んでいる。彼に憧れて絵師を目指す者も多い。
 戦国の世から脈々と続き、また大陸から渡ってきた力強い筆致に重きを置く狩野派に対し、流派ながれはは新進気鋭さと太平の世で育まれた穏やかな趣が先立つ。その開祖が構える工房で働けるとは。
 ますます運が良い。ここでなら、他の絵師の話も……ゆかりの噂も耳に入る機会が多いやもしれない。
 最初こそ困惑していた状況だが、今一度思い返してみれば、やはり幸先良いことこの上ない。芦雪は口端をもたげ、軽やかに唇を動かした。
「松乃殿、どうぞよろしく頼む。俺は長澤芦雪。京出身の下士……あ、さっきも言ったが、身分は武士といえど、そのへんにいるような徒士かちだ。これからやっかいになる身だし、身分のことは気にせず気軽に接してくれ。名も芦雪と呼んで貰って構わない」
 浮かべ慣れた人懐っこい笑みを松乃に向け、彼女の緊張を解すように名を名乗る。
 芦雪の思惑通り、朗らかな口調に毒気を抜かれたのか。肩を強ばらせていた松乃も、ようやく心からの頬笑を見せた。
「今すぐに、とはまいりませんが……。少しずつ、そうさせて頂きますね。改めてよろしくお願いいたします、芦雪様」


「そういえば、松乃殿と俺はどこかで会ったことがなかったか? ひどく……懐かしい気がするんだ」
 母屋の廊下を歩きながら、芦雪は眼前を行く少女に向かって問うた。
 この不可思議な感覚は、言葉では形容しづらい。彼女に会ったことは今まで一度たりともない。だというのに、遠い昔はずっとそばにいたような。己の半身に永い時を経て再会したような、穏やかで静かな感情が身に宿っていた。
 一方、問われた松乃も、暫し考え込むような声を漏らしていたが、すぐさま閃いたように答えた。
「昨日、日本橋の立札の前でお会いしたことを仰っておられるのでしょうか?」
「……あぁ、やはりあの娘御は松乃殿であったか。だが、それだけではなくて……。何か、本当に遠い昔に会っていたような……。そう、もう一人の自分とようやく再会したような気分なんだ」
「ふふ。それは、いわゆる『口説き文句』というものでしょうか?」
 くすくすと、やわらかく笑い声をあげる姿は年相応だ。彼女の揶揄からかい混じりの返答に、芦雪は何の考えもなく述べたばかりの文句を思い返す。今一度それを咀嚼したところで、頬に熱が集まった。
「ち、ちちちち違うぞ! すまない、そういうことじゃあないんだ! 気を悪くさせたなら謝る!」
「いいえ、そのようなことはございません。それに芦雪様の仰る不思議な気持ちは、私も同じです」
 歳下の年頃の娘に、なんてことを言ってしまったのだろう。芦雪は気が気でなかったが、どうやら口説き文句のようにも聞こえる言葉で言い表すしかない感覚は、己だけではなかったようだ。松乃は目を細め、遠い記憶に思いを馳せるように胸元に手を当てていた。
「芦雪様は、日本橋でお見かけした時から……。私も、失っていた自身の半身をようやく見つけたような心地なのです。……何故でしょうね」
「松乃殿……」
 驚きで目を見開く芦雪をよそに、松乃は居間に繋がる襖を開けると、中へ入るよう、ゆるりと手で指し示した。
「……お茶を淹れて参りますね。こちらで少々お待ちくださいませ」
 今度は松乃が気恥ずかしそうに頬を染め、芦雪に背を向けた。
(何か……言い足りないことがあるような……)
 再び己から離れていこうとする半身に、芦雪は思わず手を伸ばした。
 乾いた音が廊下に響く。
 二つの視線が束となり、床に刺さる。小さな黒艶。品の良い漆塗りの印籠いんろうである。その表面には、一輪の三椏みつまたの花が万華鏡の如く華やいでいた。
 花びらがひとつふたつと重なるように、優美に蒔絵まきえで表現されているかの花は、絵の題材にするには珍しい、素朴なもの。しかし、芦雪にとっては見慣れた文様だった。
「すまない……。俺の薬入れだ」
 腰をかがめて慌てて拾おうとするも、その動作は松乃の方が早かった。先に彼女が印籠いんろうに触れ、運悪く同じ時機に取ろうとした自らの手が、彼女のものと重なる。
 芦雪よりも一回り以上も小さく、力を入れれば壊れてしまいそうな、柔らかな少女の手。
 まるで離れていた天と地が交わるように、二つの手は合わさっていた。
 高く、低く。芦雪の心臓が波打った。
(なんだ……?)
 疑問とざわめきが募る間にも胸元の鳴動は強くなる一方で、薄い肌を突き破らんばかりに暴れている。額は大粒の汗を滲ませていた。
 持病の発作かと疑う程の息苦しさが肺を襲ったが、慣れた息苦しさとはまた違う。胃液がせり上がり、身体の中にある何かが出ようともがいているようだった。
 嘔気が重なる。気持ちが悪い。松乃を立札の前で見かけた時の感覚とよく似ている。
 芦雪は少女から手を離し、代わりに込み上げる嘔吐感を抑えようと、口元に宛てがった。
 ちかちかと、目の前で小さな火花が散る。脳裏には見覚えのない見知った顔がちらつく。
 ——……お。
 朧気に映る顔は、形の良い唇を妖しく歪ませ、誰かを呼んでいる。芦雪よりも歳を重ねた、されど若々しさの残る男の声。
 艶のある低い声音はひどく不気味で、耳触りが悪い。胃の腑の中の気持ち悪さを余計に掻き立てる。耳を塞げと思考が叫ぶ一方で、身体は相反するように耳をすませている。
 ——眞魚まお
 何故、名も知らぬ者が芦雪の幼名を口にするのか。それも、やっと会えたと言わんばかりの喜色をまとわせて。
 耳鳴りが酷い。細い針で頭を無数に刺されているようだ。霞みがかった男の顔を脳裏から追い出そうと、芦雪はかぶりを振った。
「そこを代われ、眞魚まお
 音の蝉噪せんそうが凪ぐ。男の口元を飾る艶めいた黒子ほくろが、彼の笑みをより深く、放つ言葉を明瞭なものにした。
 喉奥から空気が消える。芦雪は掻きむしらんばかりに両手を首元に添え、ふらつく足取りで一歩下がる。あまりの閉塞感に息ができない。
 耳鳴りで覆われたはずの耳朶が、乾いたひび割れの音を拾う。霞む眼で視線を落とせば、松乃が手にした印籠いんろう……それも三椏みつまたの花の文様に、ひびが這っていた。
 三椏の絵は、迫りゆくひび割れに抵抗しようとしたのか。かすかに翡翠色の淡い光をまとっていたが、力が及ばなかったのだろう。まもなく、光は力なく霧散してしまった。
「四魂……?」
 困惑する松乃の声。それが、芦雪が認識できた最後の音だった。
「あ……あぁ……ああああ……!!
 芦雪の喉は、意思に反して叫び声をあげる。激痛は脳を焼き、足から力を奪って床へと平伏させた。
「芦雪様!? ……っ、う……」
松乃は印籠いんろうを手放して芦雪のもとへと駆け寄ろうとするも、彼女も苦悶の表情を浮かべ、その場にへたり込んでしまった。愛らしい笑みはとうに消え失せ、額を押さえて苦痛の色を宿している。それでもなお、松乃は必死に芦雪に手を伸ばし、呼びかける。だが、彼女の温もりも悲鳴染みた声も、芦雪の耳朶は空を食むばかりで、何一つ届かない。
 印籠いんろうの乾いたひび割れ音が響くたび、芦雪の喉から吐き出される苦鳴は酷くなった。
 耐え難い苦痛と恐怖が荒れ狂い、全身を飲み込むように侵食していく。
(もう、耐えられない……。だれか……おれを、いっそ……)
 ——殺してくれ。
 僅かに残った気力を振り絞るように固く瞼を閉じ、芦雪はただ懇願した。
 興が乗った誰かが腰を浮かせたのか。その時、芦雪の中で何かが事切れた。
「……っは」
「芦雪、様……?」
 芦雪の叫びが、唐突に収まる。廊下には先刻と同じ静寂が舞い戻り、初めから何事もなかったかのようだった。
 心配と少しの恐怖を宿す松乃の声が聞こえる。自然と瞼が震えた。
 ゆっくりと瞳のとばりを上げると、視界にはやはり一人の少女が映る。先刻、脳裏で笑っていた男の面影はない。
(松乃殿……。すまない、突然頭が痛くなって……って、あれ……?)
 乾ききった喉を開き、松乃に呼びかけたつもりだった。だが、身体が応えることはない。
(声が……でない……? ……っ!?
 床に平伏したままの身体は聞く耳を持たず、自らの意思のもとで動き始める。芦雪の身体は、寝起きのように大きなあくびをしながら、重くなった腰を上げた。
「あー……、やれやれ。『私』が外に出るのは久方ぶりだな。……ふむ。身体の動かし方すら忘れかけているとは。とかくこの身体は使いづらい」
 芦雪の唇が、別者の言葉を紡ぐ。
 何故。どうして。意識のみになった芦雪は己を取り囲む澄んだ壁を拳で叩くが、それが崩れることはない。
 意識のみを細い糸で縛り上げられ、空になった身体を別の誰かに乗っ取られているような。けれど、身体の目の前で起きていることは、縛られた意識でも鮮明に見えている。
 まるで指をくわえて見ていろと、誰かにそう言われているようだった。
 身体はなおも芦雪の抵抗を嘲笑い、口元に妖しい弧を描かせる。芦雪に向き合う形で立ち上がった松乃は、垂れた眦を引き上げていた。
「貴方……芦雪様じゃないわね……? 誰なの?」
 松乃は、己と対峙する芦雪が芦雪ではないことに気がついているようだった。
 思わず胸を撫で下ろす。少しばかり反抗の意思を取り戻し、意識だけになった芦雪は壁に向かって叫んだ。
(お前は一体なんだ!? ここから出せ!!
 どれだけ詰問しようと、また怒りという負の感情をぶつけられようと、芦雪の身体は見向きもしない。何者かが操る身体は顎に指を添えると、値踏みするようにして松乃の顔を覗き込んだ。
「ふむ。どうやら、察しの良い娘御が『私』のこんの器として選ばれたようだ。……おまけに黒鳶色の髪と瞳ときた。これはまた運が良い。……そなた、『鑑定士』だな?」
 芦雪のものではない、何者かの言葉を一身に受け止めた松乃は、抜けるように白い肌を瞬時に青ざめさせた。
「……まさか、貴方は……『私』の……」
 驚愕で松乃の唇はわななき、瞳孔が収縮している。しかし、その表情が作られていたのもほんの僅かな時だけだ。
 松乃は咄嗟の動作で袖口から巻物を取り出し、瞬く間に巻緒を解く。焦燥を滲ませる彼女を出迎えたのは、目の醒めるような青い朝顔の絵だった。
「──朝露あさつゆ!」
 触れた指と少女の呼びかけに応じ、朝顔の絵は紅色の光を煌々と発する。見慣れて久しい光輝に、意識だけの芦雪が目を見開いた、その時。
 絵から勢いよく顕現した無数の蔓によって、芦雪の身体は居間の中へと押しやられる。気がついた頃には蔓に縛り上げられ、足は宙を掻いていた。
(まさか……松乃殿も直霊なおひの絵師なのか……!?
 寸分の隙もなく繰り広げられる現実に、理解が追いつかない。芦雪が愕然とする一方で、身体は余裕綽々とした様子で口端を持ち上げる。
「ほう……。やはり『鑑定士』の力はすごいな。他人の四魂をこうも簡単に操るとは」
 男は再び顎に指を添えると、暫し何かを考え込むような素振りを見せる。三度、睫毛が目元と触れあったところで考えがまとまったのか、頬を引き上げて言った。
「こうして巡り会えたのも何かの縁だ。絵合わせでもしようじゃないか。どれ、私も四魂を呼び寄せるとしよう」
「何を言って……! 早く芦雪様の意識を戻しなさい!」
 松乃は緩みかけていた眦を再び吊り上げ、朝顔の四魂に命じて蔓の力を強める。一方、芦雪の身体は痛みを訴えるどころか、歌うように四つの名を紡いだ。
琥珀こはく茜音あかね萌木もえぎ浅葱あさぎ。──おいで」
 芦雪の口の動きに反応したのは、居間に飾られていた鶺鴒せきれいの花鳥図だった。
 かの鳥は胸元にはなだ色の光輝を宿すと、音もなく絵から抜け出る。男の呼びかけに喜びを讃えるようにして、芦雪の周囲を何度も旋回していた。
 鶺鴒せきれいが羽ばたく軌跡には、はなだ色の淡い光が舞い踊る。光は瞬時に無数の鋭い刃に変化し、いとも容易く朝顔の蔓を切り落としてしまった。
「ん。いい子だな、浅葱あさぎ
 銀鼠の袖がはためく。しがらみを解かれた芦雪の身体は、畳の上に降り立っていた。
 浅葱あさぎと呼ばれた鶺鴒せきれいの四魂は、褒められたことが余程嬉しかったのだろう。芦雪の肩口に留まり、小さく羽ばたいている。だが、身体が呼び寄せた四魂は、鶺鴒せきれいだけに留まらなかった。
 何かを突き破ったような鈍い音が、芦雪の背後から飛んでくる。それは外に繋がる障子を無作法にも勢いよく開け放ち、突風とともに姿を現した。浮世で見ることはない、白鳳凰ほうおう、鬼神、神鹿しんろくの形を成して。
 各々、黄金色、紅色、翡翠色と、宝玉に見紛うほどの光で色鮮やかに己の胸元を彩っている。このような状況でなければ見入ってしまうほどに、美しい四魂だった。
琥珀こはく茜音あかね萌木もえぎ。そして浅葱あさぎ。みな、久しいな。元気だったか?」
 芦雪の唇は、まるで子を想う父の如く名を呼ぶ。四体の四魂は、悠久の時を経て再会できたとでも言いたいのか、芦雪の周囲に一様に集まり、墨で形作られた身体をあるじの手や頬に擦り寄せていた。
 澄んだ薄い壁の前で、意識のみの芦雪は目の前の光景をただ眺めることしかできない。
(俺の描いた絵じゃないのに……何故……? 何故、俺の身体は他人の四魂を呼び出せている……!?
 芦雪の身体を操っている男が、直霊なおひの絵師であることは間違いない。己が身体を好き勝手に使い、一体誰の四魂を呼び寄せたのか。そもそもこの男は一体何者で、目的は何なのか。それが全くもって不明瞭で、不気味ですらあった。
 まばゆいほどの色彩を前に呆然とするのは、何も芦雪だけではない。朝顔の四魂を操っていた少女もまた同様だった。
探幽たんゆう様の四魂たちが……!」
 彼女の声音には、疑念が確信に変わった色が滲み、絵を抱える手は小刻みに震えていた。
「ほら。私の四魂は揃ったぞ、鑑定士のおひい様。絵合わせといこうじゃないか」
 芦雪ではない者が、場にそぐわぬ笑みを湛えて唇を開く。
 自分であるはずのない者が、己の身体を用いて何を為そうとしているのか。意識だけの芦雪には、彼の思考が手に取るように分かった。
(やめろ……やめてくれ……!)
 芦雪の懇願は、誰にも届かない。切望と絶望の入り混じった声が紡がれることはなく、鶺鴒せきれいの四魂の名だけが静寂しじまに響いた。
 浅葱あさぎは、与えられためいに疑問を持つこともなく主の肩口から飛び立つと、身にまとうはなだ色の光を徐々に強めていく。
(前にも、こんなことがあった……)
 意識だけの芦雪は、長い前髪を乱しながら掻き上げる。脳裏に浮かぶ灰色の記憶と既視感に、ただかぶりを振った。
 まだ物心がつく前。今の両親に会う前の話だ。三椏みつまたの花の印籠いんろうをこの手に握らせた男に、芦雪は己を乗っ取る男と同じことをした覚えがある。
 あの時、結局その男はどうなったのか。思い出せない。——否。
(思い出したくない……!)
 ——誰でもいい。誰か。芦雪が天を見上げても、切なる祈りを受け止める者はいない。
「さて、君はどうする?」
 芦雪の身体は薄らと笑みを浮かべたまま、対峙する少女に手をかざし、そして。
 その手をゆっくりと、握りこんだ。
「……っ! 朝露あさつゆ!」
 松乃が息を飲み、己の四魂に語りかけたのが遠目にも分かった。だが、芦雪の身体の合図によって放たれた鶺鴒せきれいの光刃の方が、幾分早かった。
 芦雪の慟哭が、薄い壁に反響して暴れ回る。叫びは枷にすらならない。
 お前を助ける者は誰もいないのだと。芦雪の身体はただ、満足げに眼前を臨んでいる。
 松乃は朝顔の絵を守るように胸元に抱きかかえ、目を固く瞑っていた。
「──これは一体、何の冗談だ?」
 静かな湖面に、一滴の雫が落ちて。緩やかに波紋を広げていくように、静謐さをまとった声音が耳に届いた。
 それが空気にほどけた頃。鶺鴒せきれいが放った刃は、何かを鞭打つ炸裂音とともに消え去っていた。
(……っ、四魂……?)
 予想すらしなかった出来事に、芦雪の喉が僅かに上下したのがわかった。松乃の前には雪のような白さを宿すさぎが舞い降り、彼女を守るようにして大きな羽を広げる。かの鳥の胸元は、鶺鴒せきれいと同じはなだ色の光で彩られていた。
(誰……だ……?)
 松乃の背後から現れたのは、一人の青年だった。
 頭の高い位置で結い上げられた長く艶やかな髪は、松乃と同じ黒鳶色。切れ長の瞳を縁取る睫毛は長く、筋の通った鼻梁は品が良い。
 雪月風花をその身に羽織ったような、風雅で俗離れした容貌。彼の佇まいと滲み出る雰囲気は、春風を受けて静かに揺れる、藤花さながらのたおやかさを湛えていた。
 一方で、怜悧さを含む瞳の奥には暗鬱な陰が揺蕩たゆたい、己の外にいる者に対して一切の容赦というものがない。芦雪に向ける眼差しは、まさにそれを剥き出しにしていた。
「兄……上……」
 青年の広い背を視界に映し、松乃は崩れ落ちる。兄の姿に安堵を覚えたのだろう。
 松乃の兄と思しき青年は彼女を支えて助け起こすと、芦雪の周囲にいる四魂からは目を離さないままに問うた。
「あれは……蔵にあった探幽たんゆうの絵の四魂……? 松乃が顕現させたのか?」
 青年は訝しげに、白鳳凰ほうおう、鬼神、神鹿、鶺鴒せきれいへと順に視線を動かしている。松乃は兄の腕にすがりつつも、迷いの滲む弱々しい声で答えた。
「違います……。顕現させたのは……芦雪様です……」
「なんだって……?」
「顕現させたのは眞魚まおというより、この『私』だがな」
 芦雪の身体は、今の状況が愉快でたまらないようだった。差し出した自らの指に鶺鴒せきれいを留まらせ、小さく低い声を漏らしながら笑う。
 青年は眉宇を僅かに動かし、警戒の色を強めていたが、芦雪の身体にとっては瑣末なことのようだった。
「ふーん。兄妹二人とも四魂が見えるんだな。ということは、兄の方は直霊なおひの絵師であり、鑑定士である妹の守護者として選ばれたわけか」
「……貴様、何者だ? 明らかに長澤殿ではないな。長澤殿をどこへやった? 何故、鑑定士のことを知っている?」
「ふ……。兄妹揃ってそう急くな」
 芦雪の身体はやはり楽しげな笑みを崩さず、己の薄い胸に手を当てて意気揚々と答えた。
「『私』は眞魚まおで、眞魚まおは『私』だ。……まぁ、眞魚まおのもう一つの人格とでも思っておいてくれ」
 身体は兄妹に向けて調子よく手を振っていたが、何故か突然、その動きを止めた。
「……ん。そろそろ時間切れか。また会うことがあれば、その時はちゃんと絵合わせをしよう。それまでは、この眞魚まおの身体を大事にすることだな」
 含みのある言葉を最後に、縛られていた芦雪の意識はようやく解放される。やがて、自らの身体に浸透していく感覚に支配されていった。
 自由に操れていたはずの四肢は、今や石のように重い。力を失った芦雪の身は、畳の上に倒れた。
(ようやく……戻れた……)
 松乃を傷つけずに済んだ。身体も取り戻せた。今だけは、刹那の安堵感に沈んでしまいたい気分だった。
 ——眞魚まお。また、夢の中で会おう。
 先刻まで自由を奪っていた男の声が、頭の中で響く。凪いでいたはずの思考は風に煽られ、男の声は跡形もなく消えてしまった。
 あれは誰だったのだろう。考える暇もないまま、身体に馴染み始めた意識は再び闇の中に沈もうとする。
 重たい瞼が瞬きを繰り返す。視界が霞で満たされるままに、芦雪は固く目を閉じた。
「長澤殿! ……っ、眞魚まお……!!
 青年は芦雪に駆け寄り、伏した身体を抱え起こす。彼の声は朧げに耳朶に触れるばかりで、放たれたげんを解するのに、芦雪は随分と時間を要した。
 ただ一つ分かったことは、消えゆく意識の波間に見えた彼の表情が、親に捨てられた幼子のように、酷く傷付いていたということだった。
(そんな……今にも、泣きそうな顔を……するな……)
 青年の頬に手を伸ばし、やわく撫でてやる。固く引き結ばれた唇が、ほんの僅かに緩んだような気がした。
 ——もう、泣かなくて良い。
 あやし文句すら、音の輪郭を持つことはない。けれど、芦雪は浮かべた笑みを深めたまま、意識を手放した。