第二筆「邂逅」

「はい! おまちどおさまです」
 弾けるような娘の笑顔とともに、芦雪ろせつの眼前に現れたのは、あられ蕎麦である。器からやわらかく立ちのぼる湯気は、かつおだしと醤油を合わせた芳醇な香りをまとっていた。
 蕎麦の上には海苔が敷かれ、青柳あおやぎ〔貝の一種〕の白き小柱がふんだんに散らされている。その様は、まさに雪あられのようだった。
 この蕎麦に「あられ蕎麦」と命名した江戸っ子は、なんと粋なのだろう。芦雪は感嘆の息を漏らした。故郷ではまず目にかかることのない発想と食欲を刺激する匂いに、腹の虫はいよいよ声高に鳴き始める。
「これは美味そうだ。わざわざすまないな」
「いいえ、そんな! 助けて頂いたのですから、ご馳走するのは当然のことです」
 娘は手にした盆を胸元に抱き寄せ、屈託なく笑みを深めた。
 切った張ったの騒動が三つの背中とともに消えたあと、芦雪は助けた娘——名をかよといい、予想通り料理茶屋の一人娘であった——に「礼をさせてくれ」とすがりつかれた。
 そもそも、浪人らが刀に手をかけた原因の半分は芦雪にある。もとより、この料理茶屋で昼餉にありつくべく、月白つきしろの力を行使した。有り体に言えば、いらぬお節介と勝手でおこなったことであった。
 気にするなと、かよの申し出を丁重に断ろうとしたが、彼女は「どうしても礼をしなければ気が済まない」と言い募り、頑として引こうとしない。
 ——……では、君の店で何か飯をご馳走してくれ。これでどうだ?
 郷里の弟に向ける眼差しと同じものをかよに注げば、彼女は何度も頷いて了承した。
 その結果が今、というわけである。芦雪は賑わいを見せる店内の最奥席に案内され、目当ての蕎麦を振る舞ってもらうに落ち着いていた。
「蕎麦は江戸の名物と言うからな。遅めの昼餉ひるげにと、蕎麦にありつこうとした矢先に居合わせたんだ。あの時、おかよを助けたのは、武士として当たり前のことだよ」
「江戸の名物……。というとお侍さま、もしかして江戸の外から来られたのです?」
「そういえば、どことなく西のなまりが……」と彼女は宙を見据え、小首を傾げた。
 遠く離れた地にいようと、故郷の空気は未だ身に宿り、見守っている。かよの疑問と指摘でそれをしみじみと実感し、芦雪は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「あぁ、そうだ。人探しのために京の都から。この蕎麦は江戸で初めてありつく飯だよ」
「まぁまぁ! それはありがたいことです。道中、大事ありませんでしたか? 近頃は箱根峠で野盗が出ると噂が立っておりますから……。でもお侍さまはお強いから、出くわしたとしても蹴散らしてしまわれたでしょうね」
「いや、俺は強くなんてないよ。居合は嗜む程度で……。騒動のあれは偶然だ。むしろ、先刻みたいに月白つきしろ……四魂に助けてもらうことが多いくらいで……」
「しこん?」
 かよにとって、そのげんは耳馴染みないものだったのだろう。彼女は再び頭を傾げた。芦雪にしてみれば日常の一部と化している存在であったために、かよの反応からようやく、己が何を口にしたのか思い至った。
「……いや、なんでもない」
 芦雪は「いただきます」と手を合わせると、会話の尾を濁すように箸を取った。
 四魂しこん。それすなわち、絵に宿った異形の魂のことを指す。先刻、芦雪が騒動に紛れて描いた胡蝶の絵、月白つきしろには、まさに、かの異形の魂が宿っていた。
 四魂は冠する名の通り四種あるとされ、各々異なる性質を持って生まれ落ちるという。
 親愛と守りの力をその身に宿す紅色の魂、和魂にぎみたま
 幸福と癒しの力を人々に捧げる黄金色の魂、幸魂さちみたま
 勇猛と矛の力で人々を鼓舞するはなだ色の魂、荒魂あらみたま
 知略と精神の力をもって知恵を授ける翡翠色の魂、奇魂くしみたま
 絵を形代として世に顕現した異形らは、あるじの願いと祈りを叶えるため、己の持てる異能を行使するのである。かの存在は、幼子の寝物語や御伽草子の世界で密やかに言い伝えられ、今も人々の中でかすかに息づいている。
(とはいえ、四魂は普通の人間には見えないもんなぁ……。やれ『幽霊が出た』だ、『奇跡が起きた』と騒がれる大体の原因は四魂の仕業だし……。せっかく江戸に来たんだ、騒ぎの渦中になるのはいただけない。これまで通り、開けっ広げに四魂に頼らぬよう、気をつけなければ)
 蕎麦を咀嚼しながら、芦雪はこんこんと物思いに耽る。濃茶色の水面に映った己と目が合ったところで喉を震わせ、小さくなった蕎麦を飲み込んだ。
 四魂を視認できる人間は、ごく僅かだ。芦雪のように四魂をこの世に顕現させ、己の手足として自在に操る異能の絵師──いわば、「直霊なおひの絵師」のみ。
 芦雪自身がそうであると自覚したのは、かれこれ五年前の話である。伊豆の三嶋大社でゆかりと出会い、別れを惜しみつつも帰郷した、その直後のことだった。
(あの時、ゆかり殿から何の気なしに聞いていた四魂や直霊なおひの絵師の存在が、まさか自分事になるとは思ってもみなかった。ゆかり殿が『私も直霊なおひの絵師の一人です』と話していたのも、冗談だろうと話半分に聞いていたし……)
 聞き手の意識の問題だったのか、彼と交わした四魂のことも、直霊なおひの絵師についての知識も一部が抜け落ち、今では曖昧なものが頭の端にしがみついているだけだ。芦雪は己が有する力について、あまりに無知であった。
 ゆかりの行方を追うのは、憧憬に手を伸ばすためだけでない。自身の力のためでもある。今でこそ感覚で四魂を操れているとはいえ、不安定な部分も多い。二年の間にゆかりが見つからなければ、これまで通り自力で力に向き合っていくしかないだろう。
 芦雪は、胸に巣食う不安をも嚥下するように器を持ち上げ、蕎麦のかけ汁を飲み込んだ。
 郷里で慣れ親しんだ味付けとは違い、江戸の味覚は濃いと聞いていたが、さほどその濃さは気にならなかった。むしろ、飲み干してしまいたいほどに舌上に馴染む。
 口元から椀を下ろせば、高台が盆と触れ合う。小さな音は店内の賑わいの中に消えていき、やがてかよの喜色を誘った。
「お侍さまのご出身を聞いて納得です。物腰や仕草がそれは優美で、洗練されてますから。お江戸の短気で荒っぽいお侍さまたちとは違うもの」
「君は口がうまいなぁ。おまけに、この通りの気立ての良さだ。店が繁盛するわけだな」
「ふふ。ありがとうございます!」
 かよは空になった椀を盆ごと持ち上げ、麗らかな笑い声とともに厨房へと引っ込む。
 束の間、彼女は湯吞みと小皿の乗った盆を手に持ち、再び芦雪の前に姿を現した。
「これはおまけです。他の方には内緒ですよ」
 悪戯を湛えたげんとともに床几しょうぎに置かれたのは、温かい煎茶とうぐいす餅であった。
 小豆餡を包んだ白い餅の上には、春告鳥である鶯の羽色を模した青きなこが掛かり、もうすぐ訪れる春を思わせる。湯吞みから上がる麦を燻した香りが晩冬の空気にほどけ、鼻腔を抜けていく。芦雪は思わず、形容しがたい安堵を吐息とともにこぼした。
 蕎麦を馳走になったというのに、菓子まで口にして良いのだろうか。申し訳なさも感じるが、芦雪は大の甘党だ。目の前に好意で差し出された菓子があるのに、それを食わぬは男の——いや、甘党の恥である。
「かたじけない……」と再び手を合わせつつ、いそいそとうぐいす餅をつつきにかかった。
「ようこそ、華のお江戸へ。ここは食い倒れの街ですから、ぜひたくさん楽しんでいって下さいましね」
「ありがとう。そうするよ」
 芦雪は茶を口内に招き入れると、温かくなった喉を滑らかに動かし、かよに問うた。
「時に看板娘のお嬢さん。この辺りで、安く泊まれる旅籠はたごを知らないか?」


 結論から言うと、芦雪は冬の野宿を免れた。かよに、彼女の親戚が営んでいるという旅籠はたごを紹介して貰えたのだ。日本橋の北側に位置する小伝馬町に、それは居を構えていた。
 小伝馬町は大小の旅籠がひしめき合い、様々な国や己が事情を抱えて江戸へとやってきた人間が行き交う町である。江戸の人々からは「通旅籠町とおりはたごちょう」の名でも親しまれているのだと、かよは芦雪を案内しながら歌うように説明した。
 目的の旅籠にたどり着くまでにも、木綿や繰綿問屋の呉服商が軒を連ねているのが見え、店先に並ぶものに芦雪の瞳は自然と吸い寄せられた。
 風が吹くたび、店々の藍の日よけ暖簾のれんが音をたてて煽られている。まるで太鼓のようだ。町の通りが狭い京では、決して見られない光景である。大通りが多くある江戸だからこそのものなのだろう。屋号が大きく染められたそれらは、江戸ならではの威光を放っているようにも思えた。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました。長澤様」
 旅籠の入口で柔和な笑みを浮かべ、深々と頭を下げたのは、かよの親戚である番頭だ。
 彼に通されたのは、二階の八畳部屋だった。障子窓を透かして西日が差し込み、芦雪の視界は茜色に染まる。障子を桟に沿って引けば、通りも一望できる良い部屋だった。
 混雑時の旅籠は、たとえ武士であろうと相部屋が一般的だ。芦雪が、決して多くはない荷を部屋の隅に置けば、「もっと広々と使ってくださいな」と、かよに笑われてしまった。
「だが……他にも客が入るだろう。この広さなら、あと二人ほどか?」
「いいえ。このお部屋は長澤様のみのお部屋です」
 彼女の言葉の意味に理解が及ばず、芦雪の口から呆けた一音がこぼれた。
 横で苦笑いを浮かべる番頭が耳打ちするに、かよは「長澤様に宛てがう部屋は一人部屋にするように」と、強引とも言える取り計らいを裏でおこなっていたようだった。騒ぎの中から助け出した一恩にしては、釣りが来る返しである。
 江戸の民はかように義理堅いのか、と芦雪は驚嘆しながらも何やら腑に落ちず、料理茶屋へと帰って行く小さな背中をいつまでも見つめていた。
 かよを見送ったあと、芦雪は旅装束を解き、着慣れた銀鼠の綿入れ小袖に袖を通す。かじかんだ指先を擦り合わせながら、番頭から借りた分厚い褞袍どてらで身を包み、背を丸めて畳の上に横になった。
 褞袍どてらには一寸の隙間もなく真綿が入り、肌に心地良い温もりを与える。晩冬とはいえ、まだまだ冷え込む。芦雪の身体をやわく包む衣の感触は、旅の緊張で張り詰めていた心をも緩めていった。
(随分……幸先が良いな……)
「情けは人の為ならず」とはよく言ったものだ。人のためにかけた情けは、決してその人のためだけに留まらない。巡り巡って自分のためになる。
 芦雪は数年前までとこに伏せがちな身であったことや、両親に過保護なまでに慈しまれて育ったこともあり、少々世間知らずである。その分、世間というものについて、幸之介から半ば脅しのようにあることないこと吹き込まれていたが、蓋を開けてみればどうだ。口うるさく教えこまれた事実よりも、存外に世は優しい。
 人は自分の鏡なのだと、東海道の旅路で思い知った。優しさを注げば、優しさが返ってくる。その逆も然りだ。
(この調子で……ゆかり殿との縁も繋がれば良いなぁ……)
 障子窓から差し込むやわらかな夕陽が瞼を撫でる。部屋のひのきの香りに包まれながら、芦雪は微睡まどろみの波に身をゆだねた。
 不意に、乾いた羽音が耳孔を叩く。霞む眼のまま、芦雪が音のした方に視線を投げると、一羽の鳥と目が合った。
 僅かに開いた障子窓の縁に留まり、愛らしく頭を傾げている。かの羽色は、先程料理茶屋で口にした菓子と同じ色をしていた。
「……うぐいす?」
 春を告げるには幾分早い。先刻まで梅の木で羽を休めていたのか、淡い梅花の香りが鼻腔を掠める。梅に鶯とは、随分とあわてんぼうな取り合わせだなと、芦雪は上半身を起こし、気の早い来訪者を見つめ返した。
「鶯くん。まだ春には早いぞ……。江戸に来るまで、春ももうすぐだと思っていた俺も人のことは言えないが……」
 寝ぼけ眼を擦りながら、大きなあくびを落とす。肩からずり落ちた褞袍どてらを引き寄せ直していると、たしなめるようにひとつ、ふたつと羽音が響く。
「分かった、分かったって……。寝るにはまだ早いって言ってるのか……? それは春を告げに来た君も……」
 ——同じだろ。芦雪の唇は、意思に反して凍りつく。小刻みに揺れる視界は、淡い紅の光を映し出していた。
「お前……四魂か……!?
 美しい若木の羽色には似つかわしくない、この世のものならざる光が、春告鳥の胸元を煌々と彩っている。その意味を知らないはずはない。
(光の色は紅……。恐らく和魂にぎみたまだが、こいつは俺の四魂じゃない。ということは、この近くに俺以外の直霊なおひの絵師がいる……)
 冷水を浴びたように思考は冴え、やがて願望とも言えるひとつの答えを導き出した。
「まさか、お前はゆかり殿の……」
 ありえない。芦雪自身がそれを一番理解している。
 ──数こそ少ないものの、直霊なおひの絵師は私以外にもいます。……特に江戸には。
 これまで固く閉ざされていたはずの記憶の蓋が、僅かに開く。かつて、ゆかりが口にした言葉が頭の中で木霊した。
 江戸は、日ノ本中の人間が最も集う場所だ。たとえ不可思議な力があろうとも、江戸であれば、その身を溶け込ませることも容易い。将軍が座す茫々ぼうぼうたる街で、どれほどの直霊なおひの絵師が身を潜めて生きているのか。想像に難くはない。
 芦雪の答えを静かに待つ鶯は、その中の誰かの四魂なのやもしれない。けれど、ゆかりに縁のあるものをひとつ見ただけで、凪いでいたはずの思考は冷静さを失ってしまう。五年という短くも長い歳月は、それほどまでに、芦雪の中で憧憬と渇望を育て上げていた。
 若木の彩りをまとう彼の鳥は、待ちくたびれたのだろう。たたらを踏む芦雪から明確な解を聞く前に、悠々と窓から飛び去ってしまった。
「あっ! ちょ、待っ……うわっ!」
 慌てて立ち上がろうとした矢先、褞袍どてらの長い裾に足を取られ、畳の上に身が沈む。受身を取り損ねたためか、鼻先にはひりついた痛みが滲んでいた。
「……っ、それどころじゃない……!」
 芦雪は褞袍どてらを脱ぎ捨てると同時に刀を携え、宿を飛び出した。


 地平に向けて、陽が身を隠しつつある。郷里より数刻ほど短い日足は、夜の気配を引き連れ、家族の待つ家々へと江戸の人々を帰し始めていた。
 芦雪は人波に逆らい、熱気に気圧されそうになりながらも目を天へ上げる。鶯はご丁寧に、茜空にも負けぬ美しい紅色の光を軌跡に残していた。慌て者なのか、そそっかしいのか。はたまた、持て余した暇に乗じて、芦雪をからかっているのか。
 どちらにせよ、取るべき行動は一つだ。芦雪はただ、頭上の軌跡を追い続けた。
 宿から駆け続けて、四半刻〔30分〕は経っただろうか。喘鳴とともに、ぬめりけのある咳が数回、芦雪の胸を突き上げ始めた頃のことだった。
 鶯の四魂は忽然と姿を消してしまった。己のまとう、紅の光さえも残さずに。
 まるで、立札の前で見た少女のような消え方だ。よもや、あの不思議な少女も四魂だったのであれば、笑えない冗談だ。芦雪は乾いた笑いを小さくこぼしながら、口内に広がる鉄の味に顔をしかめた。
「ここ……どこだ……」
 汗で貼り付いた前髪を流し、周囲に視線を巡らせる。
 白の漆喰しっくい壁に囲まれた道は、武家屋敷の区画であることを声高に告げている。壁の向こうには、大名やその家臣が居を構えているに違いない。商人の街である日本橋から、遠く離れた所まで来てしまったようだった。
 来たばかりの江戸で、初日から迷子になろうとは。考え無しに走り出すからだと、頭の中で幸之介が嫌味を吐いている。
「あー、うるさいうるさい……」
 郷里の幻聴を追い立てる。再び顔を上げれば、芦雪の目はあるものに縫いとめられた。
 大仰な屋敷が立ち並ぶ場所にひっそりと建つ、ひとつの屋敷門。幅は二けん〔3m〕ほどの控えめなもので、二本の本柱の上に切妻屋根が腰を下ろしている。武家屋敷の表門とは異なり、あまりに簡素だ。周囲から些か浮いているようにも思われたが、かえって均整の取れた風格を漂わせているようにも見え、好ましい。軒先に掲げられた庵の名も威風堂々とした様子だった。
 元々、庵の名も金の筆致で彩られていたのであろう。風や砂埃を受けたためか、ややくすんで見え、経てきた時の長さを感じさせる。
「……尋夢じんむ庵……?」
 尋夢庵じんむあん。ありふれた夢が棲む庵。芦雪は確かめるように、綴られた名を音に乗せた。
(尋夢庵というと、確か……幸之介が言っていた、あの噂の……?)
 江戸、深川には、怪画かいが絵師が住まう庵がある——。大店おおだなを有す商家らの間で行き交う噂のひとつだ。庵に住まう絵師は、悩みを持つ者の為に絵を描く変わり者なのだという。
 更に荒唐無稽なことに、かの絵師が描いた絵には、悩みを解決させる不思議な力があるとも囁かれていた。
 ──どうしても解決できない悩みがあるのなら、その庵を訪ねると良い。運が良ければ、怪画絵師、深川斎写楽しゃらくが絵を描いてくれるだろう。
 そもそも何故、商人らにしか知られていない噂を、幸之介が知っているのか。それは、彼の父方の家が京でも有数の商家だからだ。
 芦雪と同じ下級武士である幸之介の身分は、元は商家である父方の家が、困窮に喘ぐ母方の御家人株を買ったことで得たものだ。つまり、幸之介は武家であると同時に商人の血をも受け継いでいるのである。
 武士らしくなく金の回りや人とのやり取りを気遣う彼の性格は、御家の境遇ゆえだろう。
(そうだ……。幸之介は、ゆかり殿を探すなら、まずはこの尋夢庵じんむあんを訪ねろと……。探す手間が省けたのは良いが、何故か腑に落ちない……)
 江戸に来てから、あまりにことが上手く運びすぎではないか。運が良いに越したことはないが、こうも幸先が良いと、同時に大きなわざわいを手招いているようで、恐ろしくなる。
 まさか鶯の四魂を追いかけた結果が、目の前の事実に結びつくことになろうとは思いもしなかった。
 これも神仏の導きによるものだろう。芦雪はひとり、頷きを深くする。
 とはいえ、芦雪はかの弘法大師、空海にあやかった幼名「眞魚まお」を授かっている身でありながら、取り立てて神仏に信心深いわけではない。その名をつけた両親の方が遥かに信仰心が厚かった。
 都合の良い時だけ神仏の存在を信じるのは図々しいとも思われようが、ようは気の持ちようだ。芦雪は目の前に横たわる流れをしるべだと信じ、身を任せることにした。
「もし。尋夢庵の深川斎写楽殿はおられるか?」
 門の向こう側へと声を張り上げる。しばし待つが、返答はない。留守なのだろうか。再び声を投げるも、やはり反応は得られなかった。
(そう、全てが俺に味方するはずもないか……)
 ため息を落としたものの、芦雪はふと思い立ち、門番のいない古ぼけた木戸に触れた。
 乾いた音を立て、小さな隙間ができる。戸は施錠されていないようだった。
 芦雪はもう一度、戸に指をかける。無礼千万だと理解しつつも、常では得がたい背徳感と好奇心に抗えず、慎重に引き戸を開けた。
(何だ、これは……? 木箱……?)
 芦雪を出迎えたのは、庵へ続く一本道ではない。目の前に鎮座していたのは、大きな木台に置かれた木箱だった。
 両腕で抱えられる程の大きさの木箱には、投書を差し入れるための小さな口が設けられ、まるで目安箱のような形状をしている。箱の角には一輪の花菖蒲の絵が施されていた。
 近寄って目を凝らせば、木箱の傍には漆塗りの文台が置かれ、細かな文字が綴られた短冊が身を横たえている。
 書いた人物は、相当几帳面なのだろう。一糸乱れぬ筆致で真っ直ぐに記された文字たちは、狭い短冊の中でもひどく流麗だ。芦雪は文字の上に指先を乗せた。
「『尋夢庵に絵画制作を依頼される方へ』……か」
 用意された短冊に依頼内容と名前のみ記入し、この依頼箱に投書するだけで、絵の依頼を仮に受け付けたことになるようだ。受けられる依頼に限り、二、三日後に写楽が依頼主を訪ねるものの、依頼を受けかねる場合は、文にて断りの文句をしたためるとあった。
 つまるところ、誰にでも依頼を出すことはできるが、依頼を受ける受けないは写楽の気分次第ということだ。まるで、買わねば当たることはない富くじのようではないか。
 すっかり拍子抜けしてしまい、芦雪の乾いた口内は途端に潤い始めた。
 用意された矢立から筆を取り、筆先に墨をつける。芦雪は軽やかな筆使いで依頼内容を書きあげてしまうと、清水の舞台から飛び降りる心持ちで依頼箱に投書した。
 これで写楽が芦雪のもとを訪ねて来なければ、手当たり次第に肌守りを見せながら、「この絵に見覚えはないか」と江戸中を聞いて回るほかあるまい。特定の蟻を見つけ出すような地道さと根気が必要になるが、仕方がなかろう。
 この日、芦雪は「あまり期待せずに知らせを待とう……」と尋夢庵を後にした。
 しかし、思いの外に、その知らせは早かった。投書した翌日の昼、来訪者が現れたのだ。
「長澤様。お客さまです」
「俺に? 誰だ?」
「深川の写楽と申しておりますが……」
「もう!?
 番頭に呼び出され、騒がしい音をたてながら階段を駆け降りる。旅籠の入口で芦雪を待ち構えていたのは、一人の男──深川斎写楽であった。
 すらりとした躯体が芦雪の方を向き、丁寧に結い上げられた黒鳶くろとび色の髪が揺れる。彼のかんばせは額から鼻下まで白い面布かおぎぬで覆われており、表情までは窺い知れない。
 予想外の姿に息を飲んでいると、写楽は感情を表す唇をほのかに緩めた。
「貴殿が、長澤芦雪殿……?」
「あ、あぁ……、そうだ。なぜ、俺がここにいると?」
「……申し訳ありませんが、依頼以外の事柄にはお答えしかねます」
 写楽は静かに告げ、再び口元を固く引き結んでしまった。必要以上にものを言わぬと決めている様は、まるで溢れ出る何かを堪えているようにも見えた。昨日、尋夢庵じんむあんで見た短冊の文字に人の形をまとわせたなら、きっと彼になるに違いない。
 ほぼ思い描いていた通りの人物に、芦雪はほんの僅かに胸を撫で下ろした。
「……では、参りましょうか」
 写楽は手を差し出した。柳色の袖が揺れ、墨と季節外れの藤花の香りが鼻先を掠める。
 出会ってすぐ、ともにどこへ行こうと言うのだろう。芦雪が頭を捻っていると、写楽はひどく飾り気のない答えを述べたのだった。
「我がいおり尋夢庵じんむあんへ。そこで詳しく貴殿の依頼を伺います。私はそのための迎えです」


 まさか二日と置かず、再びこの門前に来ることになろうとは。芦雪は頭上に据わる「尋夢庵じんむあん」の文字から目を離せずにいた。
「長澤殿。こちらへ」
「……」
「……長澤殿?」
 物思いに耽っていた芦雪を、写楽の声が引き戻した。彼に門の内側へと招き入れられ、芦雪は慌てて敷地内に足を踏み入れる。
「何か、気になることでも?」
「いや、その……。まさか、依頼を受けてもらえるとは思っていなかったから。少し驚いてしまってな!」
「……そうですか」
 多少なりとも温度はあるとわかる一方、返答の声音はやや固い。芦雪は向けられた背中を見つめがら、少し馴れ馴れしかっただろうか、と申し訳なく思った。
 門から一筋に連なる石の小路の上で、二つの足音が重なる。綾なす紅葉の木々に葉々はなく、随分と心もとなく見えた。初夏にはみどり、秋には紅に色づくであろう並木の光景が頭の中を浮かび、さぞかし綺麗なのだろうなと、芦雪はまだ見ぬ季節に思いを馳せる。それを見ることは叶わないのが、ひどく残念に思えた。
 紅葉の並木を抜けて現れたのは、寂れたささやかな庵と小さな庭だった。
 今が盛りと言わんばかりに、池の周りでわらうのは水仙の花々だ。庭の隅には藤棚が設けられており、まだ花のない蔓が羨ましげに白花に向けて手を伸ばしている。
(水仙か……。実家の水仙はもう枯れ始めていたから、こうして満開に咲いているのを見ると、つい嬉しくなるな)
 冬の寒さを耐え忍びながらも白き花弁をまとい、凛とした姿を決して崩さない水仙。
 涼しげでほのかに甘い香りは、春を待つ人々の心をなぐさめ、冷たさを優しく包み込んだまま、やがて雪解けとともに消えていく。天仙の仙に通じ、春が来ると去ってしまうかの花は、長寿と知性を司る瑞兆花としても有名だ。
 芦雪が長きに渡って病床に着いていた頃、とこから見える庭先の水仙の存在は、心の支えだった。辛い寒さにも静かに耐え、真っ直ぐに美しくあり続ける姿に勇気づけられ、またこの世で息をすることに背を押されてもいた。
「なぁ。写楽殿は、水仙が好きなのか?」
 庵の襖に指を掛けていた柳色の肩が、かすかに跳ねた。
「俺も水仙が好きだから。この美しい庭を見て、もし写楽殿もそうだったら嬉しいなって思ったんだ。……すまん、さっきから馴れ馴れしいな」
「いえ……」
 写楽は肯定するでも、否定するでもなく、ただ面布かおぎぬの端を揺らし、小さく頭を下げた。
「……狭い所で申し訳ございませんが、どうぞ中へお入りください」
 庵の襖を開け、ただ淡々と温度のない声音で、写楽は自らの仕事場へ客人を招き入れる。
 また困らせてしまったなと、芦雪は己の口の軽快さにひとり、ため息をついた。
 くつ脱ぎ石の上に草履を並べ、恐る恐る薄暗い庵の中へ入る。庵の広さは八畳程で、狭い印象はさほど受けない。床の間には梅とうぐいすの絵の掛軸、水仙を一輪生けた花入れがある以外には、部屋の隅に小さな箪笥と書棚がひとつ置かれているだけだ。生活感はなく、門構えと同様に簡素なものだった。
 部屋の奥には円窓が設けられ、薄暗い庵の中に薄くやわい光を取り込んでいる。初めて訪れる場所だというのに、不思議と芦雪の心は凪いでいった。
(茶室のような場所だな。ひとさまの仕事場だというのに、ひどく落ち着く……)
 芦雪は睫毛を下げ、悠然と腰を下ろす。写楽もまた、それに向き合う形で端座した。
 無為の沈黙とともに二人の視線が交わった時、写楽が口を開いた。
「して、今回のご依頼ですが。大まかには、人探しということで相違ないでしょうか」
 昨日投書した依頼内容は、「ゆかりを探して欲しい」という、明瞭であり簡潔なものだ。
 性別は男、歳の頃は恐らく自身と近い二十から二十三の間。もし五年前から拠点を他に移していなければ、彼は今でも江戸で絵師を生業としているはずだ。
 写楽の問いに、芦雪は小さく頷いた。
「それで合ってる。……引き受けてくれるのか? その……聞いた話では、写楽殿は依頼人の悩みを解決するための絵を描いてくれるというものだったから、人探しは受けてくれないかもしれないと思っていたんだが……」
「『ゆかり殿が見つからない』ことが、長澤殿にとっての悩みなのでしょう。ならば、私が受ける理由には十分です」
 悩みというのは人それぞれですからと、写楽は安心させるように言葉を続けた。
「……私の絵は、あくまでも悩みを解決するためのおまじないのようなもの。必ずしも、依頼人の方々が望む結果になるとは限らない。それでも、藁にもすがる思いで来られる方のために、私は筆を執っております」
 怪画絵師の青年は面布かおぎぬの下で静かに、しかし強い意志を込め、げんを放った。
 深川斎写楽。尋夢庵じんむあんの主として、市井の人々に思いを尽くす絵師。彼がひとたび筆を手に絵を描けば、その絵には不思議な力が宿る。
 幸之介から写楽のことを耳にしてからというもの、芦雪の中ではひとつの仮説とともにある種の期待が浮かび上がっていた。
 ──写楽は、自分と同じ直霊なおひの絵師なのではないか?
 この仮説が事実として実を結べば、彼がゆかりを知っている可能性が高まる。なにせ、江戸には稀有な存在である直霊なおひの絵師が人知れず集まっているというのだ。同じ力を持つ者として、一人ぐらいゆかりのことを知っている者もいよう。
 ゆかり探しの依頼を尋夢庵じんむあんに出すのは当然として、写楽にゆかり自身のことを尋ねるのも芦雪の目的の内に入っていた。
 どう聞き出そうかと芦雪が思案していれば、そうとは知らぬ写楽が「これは参考程度にお伺いしたいのですが……」と再び口を開いた。
「……何故、そのゆかりという絵師を探しているのか、理由を伺っても?」
 面布かおぎぬの薄い影が、畳の上で揺れる。男の口元には警戒の色が漂っていた。
 芦雪の胸裡は、ますます期待に膨らんだ。やはり、写楽はゆかりのことを知っているのだ。先走る思考を追いかけながら、やや前のめり気味に問う。
「ゆかり殿に心当たりが?」
「……いえ。ただ、純粋に気になったのです。同じ絵師として。それに絵師を探して欲しいという依頼は、なかなかございませぬゆえ」
 写楽の紡いだ答えは、芦雪が育てた大輪の春花を萎れさせていくようだった。意図せず大きく息がこぼれる。面布かおぎぬの男を一心に見据えていた視線は、自然と下向いた。
 これまでの仮説通り、写楽が直霊なおひの絵師だったとする。彼が同じ異能者であるゆかりを知っていて、且つ己の前にゆかりを探しているという身元も不明瞭な男が現れたとしたら。仲間でもあるゆかりを守るためにも、彼を探している芦雪を警戒し、嘘をついた可能性も否めない。
 身に余る力は奇異な目で疎まれやすく、また同時に不和を生みやすい。故に、他人に利用されることも大いにありうる話だ。よく知りもしない相手、しかも一般人と思しき者に仲間の情報を渡すのは、あまりに軽率的であり、命取りだ。芦雪が写楽の立場であるならば、それこそ嘘をついてでも真実を口にすることはないだろう。
 だが、そもそも写楽は直霊なおひの絵師ですらなく、ゆかりを本当に知らない可能性もある。写楽の問いは、彼の言う通り、純粋に湧いて出た疑問なのやもしれない。
 憶測や可能性、明確な輪郭を持たぬ欺瞞が芦雪の中を巡り、思考はたたらを踏む。
(ゆかり殿が俺と同じ直霊なおひの絵師だから探していると明かすのは、危うい賭けだ……。写楽殿も俺たちと同じ存在だと確信を持っているわけでもないし……。それは実際に描いてもらった絵を見て判断するしかない。それでもし、彼が直霊なおひの絵師だったら……。またお互いの素性を明かすと同時に、改めてゆかり殿のことを聞けば良い)
 焦ることはない。時間はまだあるのだ。急いては事を仕損じる。己の思い通りに上手く物事が進むはずがない。何を独りよがりに期待していたのだろう。
 頭を振って心持ちを正すと、芦雪は再び写楽を見据えて言った。
「俺がゆかり殿を探しているのは……、彼の弟子になりたいからなんだ」
「ゆかり殿の……弟子、に……?」
「あぁ。出会った時から、彼は俺の憧れで……俺の目指すべき導なんだよ」
 今から五年前。ちょうど芦雪が十八になったばかりの頃に、旅先の三嶋大社でゆかりと出会ったこと。その折、持病に蝕まれて思うように生きられないと吐露する自分のために、ゆかりが絵を描いてくれたこと。
 直霊なおひの絵師に関わる部分は伏せたまま、これまで七重、八重に募らせてきた思慕をこぼすように、ぽつりぽつりと語る。芦雪は自身の首にかけられた肌守りを外すと、畳の上にそれを置いて話を続けた。
「ゆかり殿が描いてくれたこの肌守りの絵が、俺の心を救ってくれたんだ。今でも、この絵に守られていると感じることがある。本当に、彼には感謝してもしきれない……」
 肌守りは芦雪の言葉に頷くかのように、淡い紅色の光を瞬かせていた。
 ゆかりの四魂が宿った絵は、文字通り芦雪の虚弱な身体を静かに守り続けている。
 たった一度、偶然出会っただけの者のために四魂の宿る絵を描き、あまつさえ寄り添う優しさをも与えた少年絵師、ゆかり。そんな人間に、憧れるなと言う方が難しい。
「俺も、ゆかり殿のようになりたい。苦境に立つ人々の心を救えるような……人の心を和ませ、温もりで満たせるような絵を描きたい。彼の画技を余すことなく受け継ぎ、そしていつか、俺を通して彼の素晴らしさを多くの人に……公方様にお認め頂けたら……」
 もし、ゆかりと再会できたなら。必ずや、彼に弟子入りを志願する。彼のもとで研鑽を積みながら絵を描き、直霊なおひの絵師として人を救えるような人生を歩むのだ。
 芦雪にとって、それは初めてできた夢だった。かつての己がそうされたように、直霊なおひの絵師の力を誰かのために使えたら。敬愛するゆかりのような姿になれたら。虚弱な身体を有し残せるものが矮小な己でも、この世で成せることがあるかもしれない。それは、今後どれほどの幸いとなろうか。心の支えとなろうか。いずれ訪れるかもしれない未来を頭の中で思い描き、芦雪は瞼を伏せた。
 写楽は畳の上に身を置く肌守りを手に取り、無骨な指で縁をなぞる。彼は暫し、語られる過去と夢想を静かに受け止めていたが、再び口を開いた。
「公方様に認められる……。それは、奥絵師を目指している、ということでしょうか?」
 鼓動が高鳴る。鳴動が耳朶を叩き、芦雪は瞬きほどの耳鳴りに襲われた。
 清廉な人間に自身の卑しい心の中をも見透かされたように思えて、口内には言いようのない苦味が広がっていた。
「……あー……。そう、だな。奥絵師にはいずれなれたら良いなって話だ。すぐの話ではない。それに、ゆかり殿の弟子になれなければ、御用絵試は受けないよ」
「そう……なのですか……?」
「あぁ。独学で絵を嗜んでいるが、まだまだ未熟な身だしな。そもそも、受けるのもおこがましいぐらいだ。流石に、俺もそこまで図々しいわけじゃない。……ゆかり殿が見つからなかったら、故郷に戻って大人しく家業を継ぐさ」
 芦雪はわざとらしく肩を竦め、戸惑いを見せる写楽を安心させるように言った。
 ——こういう時、流れるように嘘が出る己の口が、時折恐ろしくなる。幸之介にも吐いたそれは、芦雪の心のやわい部分を再び刺していた。
(ゆかり殿の弟子になってもならなくても。どれほど身のほど知らずだったとしても。俺は長澤家のためにも、御用絵試を受けなければならない……)
 人前では決して真意を晒さない一方、心の底では奥絵師になることに拘っているのは、美しい理想を叶えるためでも、万人に尽くすためでもない。ひどく身勝手な理由からだ。
 それは、「長澤家の当主にならないため」という理由と、もう一つ。
 困窮に喘ぎ、このままだと御家も断絶しかねない長澤家の、ふところ事情のためだった。
 奥絵師の地位を戴けば、莫大な俸禄ほうろくが手に入る。どうにか両親や弟に良い暮らしをさせてやりたい一心だった。全ては、生きるためだった。
 昨日、立札の前で町民の男二人が冗談交じりに話していた「金に困って御用絵試を受ける者には、恥と矜恃がない」という言葉は、まさに芦雪のことを指していると言っても過言ではない。耳が痛い話だ。
「ゆかりのように、人々を救えるような絵師になりたい」と純真な夢を口にする一方で、困窮する生活のために奥絵師を目指しているのだから。
 相反する理想と現実、卑しさがたいそう恥ずかしく、消えてしまいたかった。幼馴染、ひいては家族にさえも言えなかったことを、どうして会ったばかりの他人に言えようか。
 写楽は黙ってしまった。二人の間には沈黙が流れ、やがて場を均す。いたたまれず、芦雪は円窓に目を向けたが、やわい陽の光がただ眼を覆うばかりだ。
 しばしの間を持て余した後、芦雪は話題を変えるようにして再び口を開いた。
「絵の報酬はいかほどだろうか? 前金制なら今払ってしまうが」
「報酬……。あぁ……」
 写楽は、心ここに在らずといった力のない声音で問いを復唱する。ようよう言葉の意味を噛み砕いた彼は、少しの間を空けてから静かに告げた。
「前もって申し上げておきますが、法外な銭を要求することはいたしませんのでご安心を。……私もゆかり殿のように、長澤殿のお心に寄り添えるような絵を描かせて頂きます」
 伏せられていた写楽の頭が上向く。芦雪を捉えた唇は、僅かに震えているように見えた。
「……では、納品は三日後に。時間は今と同じ八つ時にいたしましょう。また、納品の日は尋夢庵じんむあんに来て頂くことになりますが、よろしいでしょうか?」
「あぁ、構わない。どうかよろしく頼む」
 江戸に来た目的の一つが半分ほど達成されて、芦雪は胸を撫で下ろした。
 だが、これからただ待つというのも、貴重な時間を浪費しているようで気が引ける。納品まで三日あるのなら、その間に何をするか考えねばなるまい。
「写楽殿。最後にひとつ聞きたいんだが」
 立ち上がった写楽を引き止め、芦雪は少し朱の混じった声で問うた。
「この辺に口入屋くちいれやはないか? 先二年ほど江戸に滞在することになっているんだが、これからの日銭を稼ぐために奉公先を探さないといけなくてな……」
 写楽は驚きと戸惑いで、引き結ばれた唇を余計に固くしてしまったようだった。やはり場違いな質問だった。芦雪は場を和ますべく苦笑し、写楽同様に立ち上がる。
「今のは聞かなかったことにしてくれ」と告げようとすれば、写楽が先手を打った。
「……恐れながら、長澤殿は武家のご出身かとお察しします。口入屋に行く必要はないかと思われますが……」
 写楽は、芦雪の腰のものについと視線を向けた。お仕えする殿の命で江戸へとあがったのではないかと暗に聞いているのだろう。いわゆる勤番侍というものだ。加えて、世の武家の者ならば実家からの仕送りも期待できるはずだった。
 しかし、その二つは芦雪にとっては無縁なものに等しい。
「俺は先二年ほど、跡目を継ぐのに猶予があるから、それまでは自由に過ごせと時間を貰っている身なんだ。……まぁ、武士とはいえ、徒士かちの家の懐に余裕があるわけもなくてな。自分で稼がなきゃならないんだよ。それこそ、住み込みで商家の用心棒や奉公人として働くのも悪くはないかもな」
 頬をかきながら己の身の上を気恥ずかしくも述べれば、写楽は指の背を唇に添え、黙り込んでしまった。
 芦雪の考えは、武士の肩書きを持つ者の中でも随分と変わっている。芦雪の御家のように困窮している下級武士は多い。一方で、それを周囲にひらくことは恥とされているため、本業の他に隠れて内職に勤しむ者がほとんどだ。ところが、芦雪は隠すどころか商人の中で彼らと共に働こうと言う。武士としての矜恃がないと明示しているようなものだった。
 とはいえ、先二年は一人で生き抜かなければならない。見知らぬ地、己を知る者は誰一人いない江戸で。潔く矜恃を銭に変える他に、選択肢は何一つ残されていない。
 写楽に視線を戻す。彼はなおも黙ったままだ。言葉を選んでいる最中なのやもしれない。
 今か今かと写楽の答えを待っていると、彼はようやく唇から指の背を離した。
「……承知いたしました。では、ご案内いたしましょう」