第一筆「別離」

 吐きだした息が、白く染まる。芦雪ろせつは鼻先を赤くしたまま、ついと視線を上げた。
 朝日を受けて、薄黄に輝く山々。連綿と続く峰上は、遠く彼方まで澄み渡っている。闇を孕んだ色彩に陽が近づくたび、瑠璃の淡いは若紫に、とき色にと染め変えられ、まるで瑞々しい柘榴ざくろのようだ。
 大きく息を吸い込む。胃の腑を撫でるような、冴えた空気が心地良い。
 冷気をまとった息がゆっくりと体内を巡っていく。芦雪は目を細め、ほのかに口端を引き上げた。
(春はまだ遠い、か)
 水仙の香りがひとつ、ふたつと寒さを包み始めた、今日この頃。京の都を吹きすさぶ、厳しい寒の明けもそろそろだと芦雪は思っていたが、少々気が急いていたようだ。
 その場に留めた足を動かせば、霜が割れる凛冽りんれつとした音がたち、描いた春を追い返した。
「おっかしいなぁ……」
 己の見立て違いに苦笑がこぼれる。ため息は凍てつき、芦雪の視界を狭めた。
 これから長旅が始まるというのに。やはり、現実は思う通りにいかないものだ。
「何がおかしいんだ?」
 耳慣れた声音に肩を叩かれる。芦雪は高く結えた髪先を揺らし、ゆっくり振り返った。
 視線の先には、一人の青年が立っている。眉間には山峰やまおのような皺が寄り、薄い唇は小さく嘆息を漏らしている。それでもなお、切れ長の目元から垢抜けた印象が崩れることはない。日頃から町娘にもてはやされているのも頷ける話だと、芦雪は素直に感心した。
「別に何も。幸之介ゆきのすけこそ、どうして不機嫌そうなんだ? あ、俺と離れるのが寂しい?」
 揶揄からかうように問えば、男の凛とした眦が細められる。どうやら彼——幸之介ゆきのすけの答えは否のようだった。随分とつれない見送りである。
 幼馴染である幸之介のしかめ面は常だ。特に芦雪に対しては顕著だった。見飽きたと思うのも、彼とはそれほどの年月を重ねてきたという裏付けに他ならない。
 だが、この表情と顔を合わせるのも、今日で最後になるやもしれない。そう自覚した途端、美しかったはずの明けの空が、随分と物寂しく見えた。
 夜明けはいつだって、別れの気配を連れてくる。新しい出会いの気配もまた。
 芦雪は、やわく垂れた目尻を屈託なく緩めた。
「まぁいいや。お前が不機嫌なのは今に始まったことじゃないもんな。わざわざ三条大橋まで送ってくれてるだけでも、ありがたいことだよ」
「……なんだ。お前が素直に礼を言うなんて気持ち悪いな」
「そりゃあ、俺だって礼ぐらい言うさ。朝早くから付き合わせてるわけだし」
「ふん。お前の無茶に付き合うのも、それに振り回されるのもしばらく無くなるんだ。今日ぐらい別に構わん。おかげで清々しい朝を迎えられて、逆に礼を言いたいぐらいだ」
 芦雪の日頃の行いでも思い返していたのか、幸之介はやれやれと肩を竦めながら続けた。
「お前のお母上やお父上が心配して、俺にここまで見送らせたのも分からんでもない。なんせ今回が初めての一人旅だろ? それも、屋敷に引きこもりがちなお前が江戸までさ」
「何を言う。ここ五年は屋敷から出てるぞ!」
「俺のお供付きでな」
 間断なく付け加えられ、芦雪の笑みは僅かに強張る。己をよく知る幼馴染は、この好機を逃すことなく、流れるように言い募った。
「いいか? 東海道の旅は危険なんだ。世間もろくに知らない、この世は義と人情で成り立っていると信じて疑わないお前みたいな武家の坊ちゃんなんか、その辺の賊にとっては良い獲物なんだからな」
「お前が言うほど、俺は育ちがいいわけでも、由緒正しい家柄なわけでもないけどな」
「うるさい。口答えするな」
「はいはい。してない、してない」
 軽く両手を挙げておどければ、冴えた容貌が歪む。幸之介が感情を表出させる様は、いつ見ても気分が良い。
(……っは。怒ってる怒ってる。やっぱり、幸之介はこうでないとな!)
 なんとも揶揄からかい甲斐のある男だ。説教を受けている身だというのに、自然と笑みが溢れる。
 芦雪は、濃く深く陰を刻む幸之介の眉間に指を伸ばし、戯れに触れる。すると、やはり彼は口端を歪め、芦雪の手を払う。それがますます、芦雪の愉悦を煽った。
「……とにかく! 道中はくれぐれも用心しろ。身の危険を感じたら、その腰の飾りをすぐ使え。いいな」
 幸之介は平生を取り戻さんばかりに、再び小言を口にした。
 彼の視線の先——芦雪の左腰には、無銘の二本差しが据わっている。それらは芦雪の身分を声高に宣言しているが、幸之介の言葉通り飾りに等しい。腰に当たる感触は、安堵ではなく違和感をもたらしていた。
「分かってる……。分かってるよ、大丈夫だ」
 芦雪は苦笑とともに頷いた。しかし、その返答は無理矢理に溜飲を下げたように重たい。誰が聞いても、中身は伴っていないと理解できよう。幸之介は、身体中の空気を全て吐き出してしまいそうな勢いで、息を放っていた。
「そんな顔するなよ。本当に大丈夫だ。これでも一応、田宮流居合は修めたわけだしさ。変な輩が現れても応戦できる!」
「……その細っこくて、なまっ白い腕で?」
「悪かったな、貧弱そうな身体で」
「誰も悪いとは言ってない。事実を言ったまでだ」
 今は、芦雪が何を言っても気に食わないようだ。幸之介は皮肉を込めて刺々しく言うと、腕を組んで視線を背けてしまった。
(相変わらず口は悪いけど、幸之介なりに心配してくれてるんだろうなぁ……)
 家族も相当に心配症だが、幼馴染の彼も大概だ。同年とはいえ、これまで兄弟同然に育ち、ずっとそばで芦雪を見守ってきたからだろう。過保護になるのも仕方がないように思えた。
 だが、誰にどれほど心配されようが、引き留められようが、芦雪の江戸行きは決定してしまったことだ。今更覆すつもりも毛頭ない。
 残された時間はたったの二年だ。一陣の風が吹き抜けるかのような。花弁が地に舞い落ちるまでのような、瞬きほどの歳月。芦雪が芦雪のまま息ができる時間は、無常なまでに短い。
 その二年で、必ずや江戸で目的を果たす。それが、何も持たぬ芦雪に与えられた、唯一の選択であり、千載一遇の好機だった。
 ——だからどうか。これきりの別れの餞で良い。お前だけでも、「仕方がないな」と呆れたように笑って。それだけで、きっと俺は俺のまま、江戸へ行ける。
 芦雪は瞼を伏せる。音もなく、本音を隠すように。
 紡がれた瞬きの間に、目を開く。眼前には、やはり不貞腐ふてくされたままの男がいる。芦雪は、にひ、と口端を引き上げると、幸之介に肩をぶつけた。別れていた体温は刹那に触れ合い、やがて境目をなくして混ざり合う。無骨な、されど互いに慣れ親しんだ仕草ひとつで、身を刺すような寒さも、孤独でさえも和らいだ気がした。
「なんだよ。痛いな」
「ふふ。幸之介」
「あ?」
「……いいや。呼んでみただけだ」
「用もないのに呼ぶな」
 他愛もないやり取りさえ、今は名残惜しい。幸之介に乱暴に頭を撫で回され、芦雪は常のように声をあげて笑った。
「……眞魚まお。くれぐれも無理はするなよ。お前は身体が丈夫じゃないんだから。薬入れの印籠いんろうは持ったのか? ほら、あの三椏みつまたの花の……」
「持ってるよ。子どもじゃないんだ、大丈夫だって!」
「お前なぁ……」
「本当に大丈夫だよ。自分のことだ。身体のことはよくわかってるし、無理はしない。……それに何度も言うが、俺の名は今日から芦雪だ。幼名はいい加減忘れてくれ」
「良いじゃないか。お前の弱っちい身体を、大事に守ってくれてた名なんだ。それにあやかって何が悪い。逆に、俺が今でも幼名で呼んでやってることに感謝して欲しいくらいだ」
「へぇ、それは初耳だ。どうもありがとさん」
 ずい、と幸之介に顔を寄せ、さざめく水面を見上げる。墨色の瞳には自信に満ち溢れた己の笑みが映り、目が合う。言いようのない充足感に満たされ、芦雪は胸板を反り返した。
「けど、今日からそれには及ばない。なんと言っても、俺にはこの肌守りがあるからな!」
 胸元に提げた紐を指先に引っ掛ければ、衿元から小さな木札が顔を覗かせた。
 小指程の画面に描かれているのは、幾分早い春の風景である。薄紅色の蕾を一つ、二つと綻ばせた花々が、見る者すべてにわらいかけている。
 一瞬の春を謳歌し、次の季節を迎え入れんと花を散らす儚い絵に、何を祈ったのか。その真意は、この絵を描いた者のみぞ知ることだ。
 芦雪は肌守りに触れ、遠き過去に想いを馳せる。喜びを隠そうともしないその姿に、何か思うことがあったのだろう。幸之介は口元を緩めて言った。
「……ふん。ま、江戸で見つかるといいな。その絵を描いてくれたっていう、ゆかり殿に」
 ——心から願っている。口にこそ出さないものの、彼の微笑は、不器用ながらに芦雪への親愛を雄弁なほどに語っていた。
 珍しい、と揶揄からかうのも野暮に思えて。芦雪はやはり、へらっと調子の良い笑みを返した。
「引き留めて悪かったな。時間もないし、そろそろ行け」
「あぁ。……じゃあな。幸之介も達者で」
「……っ、眞魚!」
 無骨な手が、離別を含んだ手首を掴む。振り返れば、幸之介の真剣な眼と視線が交わり、肩が跳ねた。
 山間から覗く淡い光を反射して、墨色の水面はかすかに輝いている。両親と同じ不安の色と歯がゆいと言わんばかりの焦燥が、瞳の水底で見え隠れしているように思えた。
 幸之介の真意をはかりかね、芦雪は小首を傾げる。一方、男はばつが悪そうに目を逸らしたかと思えば、刹那の逡巡とともに右の手のひらを向けた。
「なんだよ?」
「だから、手だよ手! 左手出せ!」
 問いただすように見つめても、幸之介は未だ唇を引き結んでいる。まるで玩具を取り上げられて、へそを曲げた童のようだった。
 沈黙の中、手は差し出されたままだ。二人の間には僅かな空白ができ、場の妙を強調する。
(……あ、なるほど。約束しよう……ってか。素直じゃないやつ)
 瞬きほどの思考の末、芦雪はふと、その意味を解した。現に、幸之介自身もらしくないとは思っているのだろう。彼の耳端は、寒さだけとは思えぬ紅色を差している。
 緩む頬はそのままに、芦雪は差し出された手のひらに左手を重ねる。冷えて固くなった手は冬の薄衣を溶かし、触れ合った熱を抱きしめる。隙間なくひとつに合わさった手は、離れていた天と地が重なり合ったかのようだった。
 幼き頃から自身を導き、また支えられた、友の温もり。芦雪にもたらされた懐古が、幸之介にも等しく訪れていたのか。彼は触れあった祈りの手をしばし見つめていたが、やがて呟くように誓いの言葉をたてた。
天涯比隣てんがいひりん。……天と地のように離れていても、心はいつもお前のそばにいる。忘れるな」
「もちろん。……巡逢雨花じゅんあいうか、だろ?」
 花へと降り立った天の雨が、地を伝い。いつの日かもう一度、雨となって再び花と巡り逢うように。
 ——君との再会を、ここに約束しよう。
 天涯比隣てんがいひりん巡逢雨花じゅんあいうか。それは親しい者と別れるための、優しい約束だ。幸之介との別れも永遠ではない。ほんの少し、離れるだけだ。
「心配するな。必ずまた会えるよ。二年の間にゆかり殿を見つけたら、すぐに京に戻る」
「約束したからな。俺との天涯比隣の誓いは絶対だ」
 生唾が喉奥を伝っていく。一心に己を射抜く視線に耐えかねて、芦雪は睫毛を下げた。
(すまない、幸之介……。お前に嘘をついてしまう俺を許してくれ)
 江戸でゆかりの行方を探すのは、目的のひとつに他ならない。それよりも、果たさねばならないことがある。
 たとえ、大切な家族や幼馴染に嘘を述べようとも。己の全てを賭そうとも。
 祈りの手が、二つにほどけていく。手のひらに溶け込んだ温度を誰にも奪われぬよう、芦雪は指先を強く握り込んだ。
 朝日が宵の衣を脱ぎ、もの言いたげな男の顔と、作り慣れた偽りの微笑を包む。
 ——どうか、達者で。
 別れの言葉は、一体どちらのものだったのか。受け取り手をなくした別離の輪郭は、霜を被った橋の上に落ち、ひとつの背中とともに消えていった。


(はー……。長かった……)
 京を出てから、早半月が過ぎた。晩冬だというのに、芦雪の額には薄らと汗が滲んでいる。頬を撫でる冷気がひどく心地良かった。
 二十三年という長くも短い人生の中で、芦雪はその大半を病床に伏して生きてきた。ここ数年は、出歩けるほどの壮健さを取り戻していたが、体力がついたかと言われれば頷き難い。
 東海道の旅路においては、一日に歩く距離は十里が基本と言われているものの、芦雪にはせいぜい七里が限界であった。己の弱さを夜ごと宿場で嘆く日々だったが、それも今日で終わりを告げる。
「やっと……。やっと着いたぞ、江戸に……!」
 汗を拭う銀鼠の袖が、風を含んで軽快にはためく。開けた視界の先には、江戸の出入口、日本橋が姿を現していた。
 昼時を過ぎた昼八つ〔15時頃〕の時分でさえ、日本橋の往来は激しい。流石は五街道の始点である。
 橋は、人が横に七人ほど並んでも余裕があるほどに大きい。行商人を始めとして、野菜や魚の俸手振り、京から下ってきた酒を運ぶ男たちが行き交う。それに負けず劣らず、誇らしげに朱塗りの箱を持って闊歩する女髪結いもいて、その姿は実に様々だ。目まぐるしい人の流れと繁華な風景は、京の屋敷で見た浮世絵そのものだった。
(天子様のおわす京よりも賑わってるなんてな。『江戸は将軍様のお膝元』とは、よく言ったものだ)
 遠くに霞む雄大な富士の御山を横目に、芦雪は軽やかな足取りで橋を渡る。故郷の京もそれなりに賑わってはいたが、人の数も耳朶を叩く喧騒も、江戸とは比べるまでもない。
 人々の熱気に当てられながら日本橋を渡りきると、通南とおりみなみの名で親しまれる目抜き通りが芦雪を出迎える。江戸で一、二を争うほどに賑わうこの通りには、時の流れに逆らうような活気が満々と広がっていた。
 視線をあちらこちらにと忙しなく動かせば、瀬戸物、書物、畳表、砥石、呉服等の店々が両通りに所狭しと並んでいるのが窺える。
 藍染めの暖簾のれんはひらりと舞い、掲げられた屋号とともに客を手招きしている。男も女も関係なく発する、売った買ったの声が芦雪の耳奥を震わせた。
 生活の営みが音の洪水となって波を寄せるが、不快感はない。五感が感じ取る全てのものが、光となって輝いていた。
(伊豆の三嶋大社に行った時でさえ、身体がもたなかったのになぁ。あの時は確か、途中で駕籠かごを使ったんだ。……今回はちゃんと、最後まで自分の足で来れた)
 今更ながらに、達成感が心の端を喜色に濡らし、浮かべた笑みも自然と深くなる。芦雪は、そっと胸元を撫でた。
 慣れ親しんで久しい、小さな木肌の感触が手のひらを伝う。まるで、お前には俺がついていると語りかけているようにも思えた。
(きっと、ゆかり殿の肌守りが守ってくれたおかげだな……)
 ——早くゆかりに会いたい。かつて自身を死の淵から救い出してくれた、あの不思議な少年絵師に。今となっては、尊敬と憧憬のひととなった彼に。
 探し人であるゆかりと出会ったのは、今から五年前のことである。当時十八だった芦雪よりも少し歳下の、まだあどけなさが残っているようにも見えた少年だった。歳月を経て、今は精悍な青年へと羽化しているはずだ。
 ──桜吹雪は魔を祓い、やくを落とす。この小さな桜図が私に代わり、魔に魅入られた貴方を守ってくれる。
 月明かりの下、三嶋大社の境内で手を差し伸べてくれた少年の声が、今でも確かに残っている。年月とともに彼の顔も朧気になりつつあったが、芦雪の憧れは強くなる一方だった。
(ゆかり殿……。貴方は今、どこにいる?)
 瞼の裏で、かつての記憶がよぎる。あれはたった一度。今後の人生においてももう起こりえない、偶然で鮮烈な出会いだった。
 病に苦しみ、神仏に祈ることしかできなかった芦雪と、そんな芦雪のために祈るように絵を描いてくれた絵師。二人を結ぶのは、今となっては名前をつけるまでもない、希薄な縁だけだったが、憧憬を育てるには十分だった。
(ゆかり殿に会えたら、何を話そう……? 肌守りをもらってから身体が不思議と丈夫になったことと、貴方が憧れの人だということと、それから……それから……)
 人探しは、江戸へ来た目的のひとつに過ぎない。それ以外に考えねばならないこと、やらねばならないことは多分にある。だというのに、江戸に着いたという事実が高揚感となり、焦がれてやまない人への想いを掻き立ててしようがなかった。
「おい、そこの兄ちゃん。邪魔だよ。どいたどいた」
「っ……、これは失礼……」
 肩に何かがぶつかり、人々の喧騒が耳孔をすり抜ける。芦雪はようやく我に返った。
 前を見れば、何かを取り囲む民衆の頭が芦雪の視界を埋めつくす。どうやら、漫然と歩いているうちに、群衆の一部になっていたらしい。
 一体、何が人々の視線を射止めているのだろう。鳴りを潜めていた好奇心に導かれるままに、芦雪は足先に力を込め、背伸びをした。
(あれは……立札たてふだ……?)
 立札たてふだは、御公儀が民衆にお触れを示すものである。芦雪からそれは遠く離れていて、木肌に綴られた内容を読み取ることはできない。何か新しい決まり事、もしくは、重罪人の処刑でも行われるのだろうか。
 江戸に着いて初めて見る立札が捨札すてふだであれば、なんと縁起が悪いことか。触らぬ神に祟りなしと言うし、内容の良し悪しに関わらず、早くこの場から離れたほうが良かろう。
 そう考えていた矢先、隣に立つ町民の男二人が色めきだった声をあげた。
「今年もまた、御用絵試ごようえしが始まるのか」
「みたいだな。お前、今年は受けるのか? 金に困ってるそうじゃないか。参加資格に身分は問われねぇんだから、受けるだけ受けてみればいいんじゃないか?」
「馬鹿を言うな。俺は江戸っ子だ。宵越しの銭は持たねぇ。それに御用絵試ごようえしは、絵の腕に覚えがある猛者たちが参加する祭りみたいなもんだぞ? 金目当てで挑むだなんてそんな恥ずかしい真似、できるわけがねぇや」
「まぁな。絵試を突破した人間は狩野かのう派に加わって、奥絵師として公方様にお仕えすることになる。だからこそ、たいそうご立派な俸禄ほうろくが約束されるわけで」
「そうさ。腕に覚えがなくとも絵試を受ける輩にゃ、恥や矜恃ってものがないのかね」
「とはいえ。ほら、近所の京七郎が昨年受けてたじゃねぇか。あいつも金に困ってたのか、血迷ったのかは知らねぇがよ。絵の腕はからっきしだったのに、今じゃ天下の奥絵師様だ。人生、分からんもんだな」
「町民から一気に、旗本級の武士階級に昇格だもんな。これぞ、泰安の世の成り上がりってな。単に、絵の腕前だけが評価基準なわけじゃないのかもしれねぇ。そうならある意味、夢があって良いよなぁ」
 そう言った男のひとりは、夢を頭の中で思い浮かべたのだろう。彼は鼻下をこすりながら、目を閉じて口元を緩めていた。
 けれど、夢想に耽る男を意地悪く現実に引き戻したのは、隣に佇むもう一人の男だ。
「いやいや。晴れて奥絵師になれたとしても、だ。どこの狩野かのう派に所属するのかによって、出世云々の話が変わってくるぞ」
「あー。それ、あれだろ。本家の中橋なかはし狩野かのうと、分家の木挽町こびきちょう狩野かのう鍛冶橋かじばし狩野かのうとぉ、それから……なんだっけ?」
浜町はまちょう狩野かのうな。狩野かのう派は全部で四家に分かれてる絵師集団ってやつ。こんなの、子どもでも知ってる常識だ。小さい頃、手習のお師匠さんに教えてもらったろ」
「悪かったな、常識がなくてよ。まァ確かに、今最も公方様の寵愛が厚いのは木挽町こびきちょう狩野かのうらしいから、そこに入れるなら出世も間違いねぇだろうが……」
 それもそれで考えものだ、と二人は揃いも揃って小さく唸り声をあげる。すると、やがて片割れが思いついたように、ぱっと顔を上げて言った。
「それにしても、今回は随分と時期が早いな。今年の開催は春だと」
「そうだなぁ。御用絵試ごようえしを執り行っている狩野かのう派の都合かね? 日々のお勤めが忙しくてずらしたとか?」
「どうだか。絵試自体は、御公儀と狩野かのう派が共同で行うものだろ? 手が回ってないのなら、御公儀側がその分助けてやれば良いのに」
「うーん……。なら、今回の時期をずらしての開催は、何か意図があるのか?」
「それがわかったら、ここにいる者たちは誰もこの立札を見てないさね」
 それもそうか、と白い息を吐き出しながら軽やかに笑う男二人は、ひどく楽しげだった。
 御用絵試ごようえし。それは、芦雪が江戸に来た本当の目的の名だった。
 夢見心地で浮わついていた思考は叩き落とされ、途端に温かみを失ってしまう。
(家族に心配かけてまで江戸に来たのは、このためだろ。……すぐに目の前のことに浮かれるのは、俺の悪い癖だな……)
 長い前髪をかき上げ、芦雪はため息をついた。
 半月前、不安げな表情で送り出してくれた母、そしてとおになったばかりの幼い弟の顔が脳裏をよぎる。同時に、父と交わした会話が頭の中で重々しく反響していた。
 ——眞魚。何があっても、弟がいようと、お前は私たちの……長澤家の大切な息子だ。だからこそ、お前には長澤家の跡を継いで欲しい。
 ——父上……。ですが私は……俺は、長澤家の当主にふさわしい人間では……。
 ——此度、お前に与えた二年。思い残しのないように、自由に過ごしなさい。持病のためとはいえ、お前には長年、外を出歩くこともままならぬ生活を強いてしまったから。かねてより望んでいた江戸行きを許したのも、そのためだ。
 ——……っ、それは……!
 ——ただし。二年経ったら京へと戻り、長澤家の跡を継ぐこと。これは当主命令だ。二度は言わない。
 ——父上……!
 厳格ながらも、病弱な芦雪を慈しみ、可愛がって育ててくれた心優しい父。父には恩がある。彼の言うことに逆らえるはずもない。
 だが、芦雪は長澤家の当主に値する人間ではない。虚弱な身体も理由のひとつだが、それ以前に跡継ぎたる資格がないのだ。
御用絵試ごようえしを突破して奥絵師の称号を拝命すれば、『将軍家のために一生絵を描く』という幕命を賜ったも同じ。父上も俺を当主の座につかせることはできないはずだ)
 御用絵試ごようえしを受けて奥絵師の地位を拝命すれば、当主にならずとも済む。自身よりもよほどその座にふさわしい、弟に与えてやれるのだ。
 幸いにも、絵の心得は人並みにはある。先の男たちの噂によると、単純な絵の技量だけで判断されるわけではないようだった。ともすれば、芦雪にも可能性はあるということだ。
 これまで絵試を突破した者たちの絵の傾向や、特徴などを入念に下調べし、準備を怠らなければ、勝算もそれなりには上がろう。
 しかし、独学でどこまで通用するのか。それも定かではない。
(ゆかり殿の行方さえわかれば、話は早いんだがな……)
 芦雪は肌守りに今一度触れ、同じ空の下にいるであろう憧憬の絵師を思った。
(困ったことに、今年は開催時期が早まるみたいだし……。準備のことも考えれば、今回受けるのは難しい……)
 与えられた猶予のうち、絵試に挑戦できる機会は来年の一度きりになる。時間はあって無いようなものだ。今は取り急ぎ、雨風を凌げる場所を——活動の拠点となる宿を確保することが最優先だろう。
 日本橋は旅籠はたごが多いと聞くが、満室だと締め出されてはたまったものではない。流石に冬の野宿は避けたいところだ。
 芦雪は立札から顔を背け、人混みからやっとの思いで抜け出した。人が密集していたせいか、先程まで感じていた熱が一気に失われる。
 芦雪が身体を震わせていると、反対側の道から視線を向けられていることに気がついた。
 それは、一人の少女のものだった。遠巻きに芦雪を、というよりは、立札の群衆を見つめいる。
 黒鳶くろとび色の艶やかな髪色に、松葉色の振袖が瑞々しく映えている。歳の頃は十五、六あたりだろうか。未だ幼さの残る顔立ちだが、年を重ねれば周囲にもてはやされる程に美しく成長するであろうと容易に想像できる。
 立札の群衆を見つめる瞳は、随分と大人びたように憂いを帯びている。外見と中身に妙な差異が見受けられ、芦雪は思わず小首を傾げた。
(まとう雰囲気もそうだが、あの娘御……どこかで会ったことがあったか……? 何故だろう、ひどく懐かしい気がする……)
 故郷で暮らしていた頃から、芦雪が屋敷の外へ足を運ぶのは稀だった。そんな人間に、江戸に知り合いがいるわけもない。だが、胸中を占める異様な懐古感は一体何なのか。
 視線や言葉を交わしたいと本能が囁いている一方、不安や恐怖を訴える心が暴れ回っているような。心臓を無理矢理に火掻き棒でかき回されているようで、怖気と嘔気が湧き立った。
 様子を探る視線に気づいたのか、少女はついに芦雪へと目を向けた。二対の瞳が向き合い、驚いたように大きく見開かれる。
 その時、立札の群衆が散り散りになり、人の大河が二人の沈黙を裂いた。
「えっ、ちょっ……」
 人の波に揉まれ、芦雪はあっという間に流される。人流の波間からやっとの事で顔を出し、再び道の反対側を見やれば。
「いない……」
 少女の姿は忽然と消えていた。まるで白昼夢でも見たような気分だ。芦雪の中で暴れていた本能と心も、いつの間にかせめぎ合いをやめ、鳴りを潜めていた。
 彼女は一体、何者……いや。何だったのだろう。一抹の不気味さを感じ、芦雪はその場で惚けてしまう。
 盛大な腹の虫の音が、沈黙を渡る。それが余計に侘しかった。
(まぁ、いいか。よく分からないものをここで考えてても仕方ない。とりあえず、先に宿を探さないと……)
「いや、その前に腹ごしらえか?」と、胃の腑を鳴らす己の腹をさすりつつ、芦雪は再び通りを歩き始めた。
「んー、蕎麦に田楽、焼き魚におでん……。色々あって目移りしてしまうな……」
 料理茶屋や立売り、担ぎ屋台からは、醤油や出汁の混じる匂いが漂っている。芦雪の腹も今か今かと食べ物の降下を待ちわびて、いっそう高く音を鳴らしていた。空腹のせいか、目の前で立ち並ぶ店々が極楽浄土のようにも見え、黄金色の光を発しているとさえ思えてくる。
 ——さて、どこに入ろうか。芦雪が店々の暖簾のれんを順に指で指していると、とある料理茶屋の暖簾が手招くようにはためく。それに、四つの人影が入り込んだ。
「ん……?」
 影の持ち主は、三人の武士の男と一人の町娘のようだった。彼らは対峙するように向き合い、双方火花を散らしながら店の前で睨み合っている。
「俺たちが一番に入れないとは、一体どういう了見だ? えぇ?」
「み、皆さんは、順番待ちをして入られているんです。お武家様だからといって、特別に早くお通しするわけには……!」
「誰に向かって口聞いてんだ、この小娘は。俺たち武士とお前ら商人、どっちの立場が上か分かってないのか?」
 はたから見ても、町娘の——恐らく料理茶屋の娘なのだろうが、彼女の言い分が正論だ。それに食ってかかっているのが、身分を笠に着た武士の男ときた。身なりから浪人であることが窺えるが、それでも同じ身分の者としてはなんとも情けないと、芦雪は嘆息を吐いた。
 まじまじと目を凝らせば、男三人の顔には仄かに朱が差している。昼から酒でも入って、気が昂っているのやもしれない。
 本来であれば、周囲の人間が娘に助け舟を出すところだろうが、生憎と、彼女の周りに気概のある者はおらず、見世物のようにして遠巻きに様子を窺っているだけだ。
「あの娘、大丈夫なのか? 浪人とはいえ、あんなに食ってかかって……」
「勝手に言わせておいて、さっさと店に通してやればいいのに」
「相手は仕えるお殿様もいねぇ浪人だ。あれじゃ、斬り捨てられても仕方なかろうな」
 通りを行く者も皆、自ら関わろうとする意志はない。ただ、ひそひそと町娘の不運さと彼女の誠実さをなじっていた。
「ふむ……」
 ——これはどうしたものか。気分良く飯にありつこうとした矢先、こういうものを目にすると、台無しにされた気になる。芦雪は唇に指を添えて、しばし思考した。
「……よし。決めたぞ。ここの店にしよう」
 場の空気にそぐわぬであろう笑みを浮かべると、芦雪は懐からひとつの画帳を取り出す。中の頁を開き、矢立から持ち出した筆に素早く墨をつけて、真っ白な紙面に筆先を走らせた。
 芦雪の手によって墨の息吹が与えられたのは、一匹の胡蝶である。舞い踊るような筆致で描きあげたそれに芦雪は指を添え、ゆっくりとなぞる。赤子の頭を撫でるように。愛おしむように、優しく。
 すると、画中の胡蝶は赤子がきゃらきゃらと笑い声をあげるかの如く、羽を動かした。
「──月白つきしろ。おいたが過ぎる子どもたちを叱ってやれ」
 はなだの淡い光をまとう、繊細な羽。月白つきしろと名を与えられた胡蝶は音もなく羽ばたき、当然のように紙面から抜け出すと、あるじの差し出した指先に止まった。
「俺の昼飯のために、よろしく頼むよ」
 芦雪から授かった初めての願いが、よほど嬉しかったのか。月白は風を羽織り、再び宙へと舞い上がる。鱗粉を落とすかのように後に続く青の軌跡は、やがて浪人たちと娘の間に割って入った。
 胡蝶が冬の終わりを告げに現れるには、幾分早い。春を象る月白つきしろの存在は物珍しいはずだが、道を行き交う人々が目を留めることはない。騒ぎの中心にいる武士たちも同様だ。彼らの口から出る卑しい言葉の数々は留まることを知らず、未だ娘に食ってかかっていた。
 内心で、月白つきしろも気を悪くしていたのやもしれない。汚い音などもう耳にしたくないと言わんばかりに、浪人らの頭上に淡い青の鱗粉を降りかける。月白つきしろが見える者からすれば、神仏から慈愛の光を授かったかのように、たいそう美しく見えたはずだ。
 けれど、光の粒を受けたはずの男達は次の瞬間、町娘を見て「ひぃっ……!」と喉奥から悲鳴を絞り出した。
「……なんで、お前が……? お前はとうに斬ったはずじゃ……」
「ひっ……! ち、違うんだ。俺が悪かった、悪かったから! どうかお助けを……!」
「お、俺のせいじゃない! あれは俺がやったわけじゃねぇんだ! 死にたくねぇ……、死にたくねぇよぉ……!」
 淡い光が楽しげに円舞するたび、三人の身体には震えが走る。情けなく後ずさりする者、地面に額を擦り付けて許しを乞う者、何かの責任から逃れ、目尻に涙を浮かべて髪を掻きむしる者と、三方様々な反応だ。
「な、何……?」
 娘は大いに戸惑っているようだった。浪人らの視線の先には彼女しかいない。だというのに、彼らは娘を見て怯え、命乞いを始めている。
 周囲で息を潜め、経緯を見守っていた人々も、困惑や疑問の色を深めている。一体、浪人らは何を見て怯えているのか。
 男たちが半狂乱に陥る姿を不気味に思いこそすれ、愉快だなんだと腹を抱えて笑うのは、芦雪ただ一人だった。
月白つきしろ、やりすぎだよ。戻っておいで」
 目尻に滲む涙を拭いながら胡蝶を手招けば、小さく細い肢体は芦雪の指先に降り立った。
 ——こんなにも愛らしく頼もしい存在が、他の者の目には映らないだなんて。芦雪は小さく苦笑をこぼした。
「あいつらには、何の幻覚を見せてやったんだ? 随分とまぁ怯えているが……」
 月白つきしろは得意げに羽ばたくばかりである。悪戯好きなその心は、一体誰に似たのか。
「……あ。俺か」
 芦雪は納得を深め、長い前髪をかき上げた。
「う……ぁ、あ、ああああああ!!
 狂気染みた叫び声が、奇妙な静寂を切り裂く。腰を抜かしていたはずの男の一人が立ちあがり、自らの腰のものに手をかけている。泰平の世では滅多に目にかかることはない白銀の光が、娘の前で鋭く輝いていた。
「っ、まずい……!」
 芦雪は瞬時に駆け出した。このままだと、娘の身が危ないのは明白だ。
 どよめく人々の間を割って入り、へたりこむ娘の前に躍り出る。放たれた刀身は、娘を背に庇う芦雪の眼前に迫っていた。
 鈍色の牙が、今まさに二人の身体を喰らわんとした、その刹那。
 風を切る音とともに、芦雪の抜刀した光が対峙する銀光と交じり合う。生まれた火花は儚く散り、明瞭な一音が場の沈黙を引き裂いた。
 一振りの白銀は浪人の手から逃れ、宙を舞う。固唾を飲む人々が瞼を閉じて、また開けた時には、浪人が手にしていた刀は地面に突き刺さっていた。
「綺麗……」
 場違いなげんが娘の口から漏れる。震え混じりの声音に背を撫でられ、芦雪の肩が跳ねた。
 振り返って娘と視線が合えば、彼女は頬に差した薄紅を瞬く間に消し去り、放った言葉を引き戻すようにして口元を押さえた。
「怪我はないか!?
 刀を素早く鞘に収め、芦雪は娘の前に跪く。己の放った胡蝶の力で、助けるべき人間を危うく傷つけるところだったのだ。己の良心に従い、軽率に振りかざした義で娘が怪我をしたのであれば、本末転倒な話である。
「だ、大丈夫です……。ありがとうございます……!」
 娘の言葉を咀嚼するよりも前に、彼女の顔、胸元、手、足を見やり、外傷が無いことを確認する。浪人らに絡まれる前と姿は変わっておらず、芦雪はほっと息を吐いた。
「貴殿も大丈夫か?」
 抵抗する術を失い、腰を抜かしたまま放心する男に芦雪が手を差し伸べると。
「ひっ、ひぃいいい……!!
 月白つきしろが再び、彼の頭上に鱗粉をばら蒔く。男は喉奥から悲鳴染みた声を発し、地面に刺さった刀には目もくれず、地に腰を擦りつけたまま後ずさった。
 やがて浪人たちは一処ひとところに身を寄せ合ったかと思えば、一目散に逃げていった。
「……ありゃ。とんだ腑抜けだな」
 差し出した手は握り返されることもなく、虚しく宙を掻く。芦雪の肩にとまった胡蝶は、ただ悠然と羽ばたき、小さくなっていく三つの背中を見つめていた。