序章「尋夢」

 ──花がほころぶようなあの笑顔を、もう一度見たい。そう願い続けて、何年経ったのだろう。

 人の影も溶けゆく、新月の夜。私は縁側に腰掛け、かつての記憶に思いを馳せていた。
 頭上で瞬く星々はどこか頼りなく、頬を撫でる夜風は湿り気を含んで重たい。
 心細さから隣に視線を流しても、そこに温もりはない。少女だった娘が母となり、赤子は幼子に成長するほどの歳月を、私はここでひとり、過ごしてきたというのに。長年の癖は、いつまで経っても私から消えてくれない。
 これは疑いようのない現実なのだと、目の前で移り行くものたちは残酷なまでに語る一方、私は全ての変化を厭い、与えられた時の流れさえにも抗っている。私の中で刻まれていくはずだった季節は、きっと彼とともに消え去ってしまったのだ。
 彼に出会うまで、夜が孤独に苛まれるものだなんて知らなかった。彼と交わすありふれた言葉が、宝玉にも勝る大切なものになるなんて、想像もしていなかった。
 嗚呼。こんな時、月さえあれば。月見酒と称して酒を煽り、過去に溺れられただろうに。
 無意識に滲む水滴を仕舞うように、夜空を見上げる。どれほど願ったとて、闇の波間に黄金色の輪郭が覗くことはない。
「月がない夜に酒を飲みたいだなんて言ったら、あいつはなんて言うんだろうなぁ……」
 縁側に身を横たえ、ぽつりと呟く。当然だが、答えが返ってくることはなかった。
 ──はぁ……。またか。
 情けない私の姿を見かねたのか。記憶の中の声が、優しく耳朶を打つ。
 勘違いしてはならない。その声音は、今の私に放たれたものではない。ただひとり、縁側で晩酌を始めようとする、かつての私に向けられたものだ。
 私は耳をすませながら、ゆっくりと瞼を下ろした。
 ──悪いか? 俺はこうして、月を眺めながら酒に興じるのが好きなんだ。お前も、もうわかってるだろ?
 ──……あぁ。だからここに来たんだ。
 ──酒を取り上げるために?
 ──君の想像に任せる。
 ──可愛くないやつー。
 瞼の裏に浮かぶ、懐かしき面影。過去の足音は、縁側の床板を僅かに軋ませ、私の隣に腰掛ける。現れたの人は、呆れの色を隠す素振りもなかった。
 ──お前も一杯どうだ?
 ──遠慮しておく。
 ──どうして?
 ──……俺まで飲んだら、誰が酔いつぶれた君を介抱するんだ?
 酒に酔った私のありさまは、目も当てられないほどに酷いものだった。大声で気の向くままに音の外れた唄を か< んじ、そばにいる者に腕を伸ばしては、軽率に抱きつく。そして酒を飲むだけ飲んで満足すると、その辺の床でも地面でも寝転んでしまい、朝までぐっすりと夢の中へ沈んでいく。今でも、その悪癖は治っていない。
 ──気にしなくて良い。俺が酔いつぶれたらその辺に転がしておけ。いいから飲もう。
 ──俺が気にするんだ。君の身体が冷えると良くないだろう。
 ──頑固なやつだなー……。
 過去の私は彼の肩に頭を預け、調子良く絡んだ。頬に触れる温度は、今でも鮮やかに思い出せる。それほどには、彼と触れ合う時間を重ねてきたつもりだ。
  猪口ちょこ を片手に、今日はこんなことがあった、見かけた花々が綺麗だったと、私の舌は千鳥足で垂れ続ける。彼は「そうか」と頷くだけで、嫌がる素振りもない。ただ穏やかに、小さく口端を引き上げるだけだった。
 思いついた話をあらかた喋り終え、私は満足したように酒を煽る。すると、「まだ飲むのか?」と、の人は決まって眉尻を上げるのだ。悪戯心がくすぐられぬわけがない。
 ──我が背子とぉ、二人し居れば山高みぃ……。
 酔興にかこつけ、古歌を吟じて試すように揶揄からかう。にんまりと満面の笑みを向ければ、の人は少し拗ねたように唇を窄めてみせ、やはり微笑を浮かべるのだ。
 たったそれだけのことで、かつての私は満たされていた。されど、されど今は。空になった心の器に注がれるものなど。
(……満たされることなど、永遠にありはしない)
 指をやわく握りこむ。あの頃の温度はまだここにあると、確かめるように。
「おじうえ……」
 雛鳥がさえずるような声音が、丸まった背中を撫でる。過去に潜っていた意識は墨色の現実に引き戻され、私は息とも声ともつかぬ音を喉奥から漏らして、身を起こした。
「……ゆかり
 視線の先には、一冊の草子を抱えた幼子がいた。行灯あんどんの明かりが揺らぎ、小さな影を頼りなげに映している。私は立ち上がって部屋へ入り、障子を後ろ手に閉めると、幼子──ゆかりの足元に跪いた。
「こんな夜更けに、一体どうした?」
「あの、なんだか眠れなくて……。今日だけ、いっしょに寝ても良いですか……?」
 耳を刺すような無音の夜に、ある種の恐れを感じ取ったのか。ゆかりはこぼれ落ちんばかりの大きな瞳をうるませ、私の着流しの袖口を握った。
「もちろん。……だが、お母上やお父上じゃなくて、私で良いのか?」
「母上は、お身体のぐあいが悪いですし……。父上は、おくづとめの宅下たくさげ〔残業〕で、お部屋にこもられているので……その……」
 口ごもりながら、ゆかりは袖を握る力を強めた。 銀鼠ぎんねず の布地に小さな皺が刻まれるたび、幼子は何かに耐えるようにして唇を噛む。彼はどうやら、四つという齢には似合わぬ気遣いを、実の両親にしているらしい。
 それをいじらしく思うのと同時に、かつて己にも似たようなことがあったと思い出す。
 子というのは、親が子を想うように親を愛している。ゆえに、表情に滲む好悪を窺う。 年を重ねて親のような立場に立っている今、それは杞憂だと言える。だが、私はゆかりの肉親ではない。彼が望む心からの安堵を、彼に与えてやることはできないだろう。
 慰めの言葉を選び取ることもできず、私は彼の黒鳶くろとび色の髪を梳いてやるに留まった。
「……お父上とお母上がお忙しいなら仕方ない。ほら、おいで」
 ゆかりに両手を差し出せば、彼は素直に飛び込んでくる。遠慮などせずとも良いのだと、私は彼を守るようにして、ぎゅっと抱き寄せた。
 ──否。守る、というのは些か傲慢だろう。私は、心のどこかで彼の温もりにすがっているのだ。そして救われている。彼の人と血の えにし を結ぶ、懐古を孕んだ人肌に。
「おじうえ、いたいです……」
「……すまん。ゆかりがあんまり可愛くてな。こうして、抱きしめてしまいたくなるんだ」
「ふふ。母上と、おなじことをおっしゃるのですね」
 ──そうやって悪戯っぽく笑う君は、若い頃の母上にそっくりだ。
 口にしても理解できぬであろう言葉を飲み込み、代わりに自嘲を漏らす。私はずるい人間だ。幼子に過去を重ね、現実から救われようとしているのだから。
 懺悔をうちに秘めたまま、ゆかりを己の布団に横たえると、私も横に寝転んだ。
 月のない、無音の闇の中。幼子の腹の上を撫でる衣擦れの音が、優しく耳朶を打っては消えていく。ゆかりは眠る気配もない眼を私に向けた。
「……おじうえ。眠くなるまで、お話してください」
「お話? そうだなぁ……。何が良い?」
 あくびを噛み殺しながら問えば、ゆかりはたちまち瞳を輝かせ、今まで懐に抱え込んでいた絵草子を差し出した。
「『怪画かいが絵師の祈り』が良いです!」
 赤い表紙には手垢と小さな皺が刻まれ、やや古ぼけて見える。持ち主が好んで読んでいることを証明するかのようだった。一抹の嬉しさが胸裡きょうりを満たしたが、それを素直に表すのも大人げなく思え、私は誤魔化すように、ゆかりのまろい頬をつつく。
「お前さんは本当に好きだなぁ、この話が」
「だって、主人公の二人がかっこいいですから! 私も大きくなったら、このお話の二人のようになりたい。……それに、主人公の一人とわたしの名がいっしょなのも好きです」
 行灯の柔らかな明かりに照らされ、一対の黒鳶色の瞳が硝子細工のように輝いている。
 浮世に揺蕩たゆたう穢れや腐敗を知らぬ、純粋な光。彼に抱く憧憬にも似た気持ちは、かつて江戸中を駆け抜けていた二つの背中を思い出させる。私は、赤い表紙を優しく撫でた。
「おじうえ、早く読んでくださいませ!」
「……おや。まさか眠れないのではなく、これを読んでもらう為に来たのかい?」
「ち、ちがいます」
 やわく笑んだ声で揶揄からかえば、彼は頬を膨らませてしまった。些細な反抗と虚勢が滲む愛らしい表情には、彼の人が不貞腐れてしまった時の面影が宿っていた。
「冗談だよ。さ、夜着を被って。夜風に身を冷やさぬよう、温かくして」
 ゆかりはつい先日、腹を出して寝ていたことが祟ったのか、風邪をひいたばかりだ。寝汚いのは、一体誰に似たのだろう。
「あなた様に似たのですよ」とは、ゆかりの母の言葉である。彼女は形の良い微笑をこぼし、私はただ苦笑するばかりだった。血のえにしはないはずの私に、どうやって似るというのだ。
 ため息をつき、蹴飛ばされた夜着を再び引き上げる。私は、ようやく絵草子を開いた。
「……今はむかし、江戸にゆかり眞魚まおという二人の絵師がおりました。彼らには、ある噂がありました。彼らがひとたび筆を持ち、墨で絵を描けば、絵に不思議な力が宿るというのです。二人は、その力を弱き人々のために使うことを誓い、力を合わせ、彼らの元に舞い込む依頼を次々に解決していくのでした……」
 紙の擦れる音が生まれるたび、色のない文字が視界に溢れる。だが、音に乗せて紡ぎ直せば、墨一色の現実は彩りを取り戻し、色鮮やかに過去を蘇らせた。
 この物語に綴られるありふれた夢は、今の私にはあまりに眩しい。私の望む夢は全て、彼の人が隣にいなければ何の意味も持たないのだ。
 ならばせめて。幼子の寝物語の中だけで良い。もう一度、ひと目逢いたいと願うことだけは、どうか許して欲しい。
 お前のために生きられないという現実に、向き合うために。