第二十五筆「後朝」

 赤く熟した果実のような夕日が、上野の空をようよう染め上げている。雨音は蓮の葉に白露を残して、いずこへと消えていた。
(結局、あんまり蓮見はできなかったなぁ……)
 薄桃の珠花たちはとうに眠りにつき、その花弁を閉じている。隣を歩く男と池の花々を見比べて、芦雪は苦笑した。
 蓮見のためにと設けられた貴重な休日は、その大半を褥の中で過ごすに終わってしまった。とはいえ、藤仁と互いの本心をさらけ出し、また想いを通わせることができたのだから、結果的には有意義な休日となったのやもしれない。
 芦雪が残念に思わずとも、蓮の時期はもう少し続く。次の休みにもう一度藤仁を誘い、蓮見のやり直しをすることもできよう。
 それを赦された己の立場が嬉しく、醒めぬ夢を見ているようで、芦雪の心は依然浮き足立っていた。
(俺は嬉しいけど……藤仁は……特にそういうわけでもないのかな……)
 ただ前を見て家路をたどる男の横顔は、常と変わらず涼しげだ。薄い唇は固く閉ざされ、先刻まで「君が好き」「俺だけの君でいて」と芦雪に囁いていたのが嘘のようだった。
 ──やはり、あれは都合のいい幻想だったのかもしれない。いや、でも。
 逢魔ヶ刻に唆され、芦雪の思考は再び巡り始めた。
 ひとから真摯に向けられる好意を、素直に受け取ることができない。自身にそんな資格があるはずはないと思い、芦雪はこれまでを生きてきた。過去が自ずとそうさせた。ましてや、恋焦がれた相手から慕われるなぞ、想像すらしていなかった。
 想いが結実した今、これは現実だと信じたい一方で、胡蝶が見ている夢なのやもしれないと、いずれ訪れる真実に身を固くしてもいる。
(俺は一体、何があれば、『これは確かなもの』だと信じられるんだろう……)
 どこまで欲深いのだろう。自身への嫌悪感が募り、芦雪はそっと息を吐いた。 
 不意に、藤仁の手の甲とかすかに触れ合う。距離が近すぎたせいだろう。芦雪は咄嗟に手を引っ込めた。
 花のかんばせが振り返る。黒鳶の瞳には茜が差し、茫洋とした様子で芦雪を見つめている。
 だからだろうか。夜着の中で注がれていた熱を、再び向けられているように思えて、芦雪の肩は小さく跳ねた。
 男はやはり、何も口にしなかった。家路へ誘う鴉の鳴き声が夕景を渡り、二人を隔てる沈黙に溶けていく。
 藤仁の睫毛がわずかに下向く。視線が落ちたことに芦雪が安堵したのも束の間、引っ込めた手は、男によっておもむろに掴まれた。
「っ!? ふ、ふじ……」
 芦雪の動揺を気にする様子もなく、藤仁は芦雪の手を包み、やがて指を絡ませる。ふたつの手と手は結ばれたまま、止まっていた足は再び並んで歩き始めた。
 どうして、と芦雪は疑問の目を向けるが、男の横顔は相変わらず淡々としている。
 地面に伸びた二つの影に、境界はない。歩くたびに輪郭は揺れ動くが、いつまでも重なり合ったままだ。
「……どうかしたのか」
 しばらくして、耳慣れた声が芦雪に問うた。視線の意味に気づいているであろうに、平然と言ってのけるのがまた小憎らしい。
 芦雪はしてやられた心地に陥り、開き直って藤仁の手を強く握り返した。
「別に! なんでも」
「……そうか」
 藤仁の唇からこぼれた吐息は、心なしか甘く響く。その微笑は己にのみ向けられるものだとも。この表情を見る機会がこの先、増えていくのだろうとも。
 手に馴染むぬくもりが、慈愛を含んだ春の眼差しが、「確かなもの」として芦雪の腕を伝い、澱んだ思考を優しくほどいていく。 
 芦雪はささやかな幸せにひたりながら、ひとり、笑みを深めた。


 湯屋で汗や雨埃を流し、流屋に戻る頃には、日も地平の果てへと落ちていた。日本橋の空に手招かれた瑠璃は色を深め、細月の光を澄明なものにしている。
 湯屋を出たあとも、藤仁はこれまでそうしてきたかのように、芦雪の手を取って歩いた。
 絵屋に着くまでに誰かに見られたら。見られたとしても、それはそれで嬉しいような。芦雪はこの不可思議な気持ちを忘れぬように、藤仁の手を強く握り返した。 
 皆帰路につく途中だったのか、通南を歩く人影は少なく、まばらだった。おかげで二人に目を留める人間もおらず、絵屋の前にたどり着くまで、手の結び目がほどかれることはなかった。
 流屋印の紺の屋根瓦が視界に入る頃、どちらからともなく手が離れていく。それを引き止めるかのように、湯屋でほどいた芦雪の髪が夜風の形に揺れて、黒鳶の髪尾としばし戯れていた。
 母屋へと続く細い路地に、二つの足音が静かに、また軽やかに鳴る。芦雪は藤仁と肩を並べ、路地を抜けて母屋へ向かった。
「お松には悪いことしたな。夕餉の準備もしてくれていただろうに……」
 勝手口からひかえの間を通り、静謐で満たされた廊下を歩きながら、芦雪は松乃の姿を思い浮かべる。よもや、ここまで蓮見に時間を要するとは考えてもみなかったため、「遅くとも夕方には戻る」と、芦雪は前もって彼女に言伝ことづてていたのだ。
 松乃は心配性だ。あまり外出をせず、流屋で皆の帰りを待つばかりの身であることも、拍車をかけているのだろう。日頃から藤仁のみならず、芦雪の帰りが遅いと、今にも泣きそうな顔をして「心配しておりました!」と叱る。
 そのうえ、松乃は藤仁や芦雪の分まで、夕餉の支度をこなしてくれている。心配以前に、作り手である彼女のお叱りもごもっともである。約束の時分を守らぬ藤仁と芦雪が悪い。
 松乃に謝罪をしておかねば、と芦雪が心中で平伏していると、藤仁が薄く口を開いた。
「……いや。その心配はないだろう」
「え? なんで?」
「それは……」
 藤仁の唇はまごつき、言葉の先を濁している。それを不思議に思っていると、廊下に薄く伸びた明かりが芦雪の目に触れた。それは、居間から漏れたもののようだ。
(ひょっとして、お松がいるのか?)
 夕餉の時間はとうに過ぎているが、二人の帰りを待つため、松乃が居残っているのかもしれない。思って、芦雪が襖を引けば、出迎えたのは瞳をうるませた少女……ではなく。
「……なんだ。帰ったのか」
 芦雪の郷里の友、幸之介がそこに座していた。
 彼は夕餉を終えて居間で寛いでいたようで、畳の上には湯気のたつ湯呑みが二つ並び、また彼の収集物である浮世絵が数枚、身を置いている。湯呑みの数からして、恐らく松乃も今しがたまでここにいたのであろうが、その姿は消えている。
 幸之介は藤仁に視線を移し、最後に芦雪をみとめてから、大仰にため息を吐いた。
「案外早かったな」
「すまんな。ため息つきたくなるような人間が帰ってきて」
「いーや。てっきり、今日は帰らないものと思っていたからな。つい先刻まで、松乃殿ともそう話していたところだ」
 浮世絵をせっせと懐に仕舞いながら、幸之介は嫌味を並べた。やはり、松乃も幸之介とともに居間にいたようだ。その時ふと、芦雪は藤仁が言葉を濁していた理由に思い至った。
(まさか藤仁のやつ、お松に「帰って来なくてよろしい」とでも言われてたのか?)
 松乃は、人の機微に聡い娘だ。今思えば、彼女が藤仁と四魂を伴った大喧嘩をしたのも、芦雪と藤仁が腹を割って話せるよう、それとなく二人きりにしようとしていたのも。一方で、雨の日は決して藤仁らに近寄ろうとしなかったのも。少なからず、二人の仲を案じていたからに違いなかった。
 幸之介だけでなく、己よりも遥かに年下の娘に気を遣わせていたことが恥ずかしい。すぐにでもこの身を袋叩きにしてやりたいと、芦雪は指先を握りこみ、顔を俯かせた。
 ふと、濃い影が芦雪を包む。それにはっとするよりも前に無骨な手が芦雪に伸び、頭を乱暴に撫で回した。
「へ? わ、ちょっと、おい!」 
 水気を含んだ髪間に指が差し入れられ、常よりもくすぐったい。幸之介の腕をやわく押しのけて芦雪が顔を上げると、見慣れたしかめ面と目が合った。
「ふん。だらしない顔しやがって。……話はできたのか?」
「あ、あぁ……。悪い、心配かけたな」
「まったくだ」
 刺々しいげんの割にその声音はやわらかく、また安堵したようなぬくもりも湛えている。彼の変わらぬ不器用さは、いつだって優しく芦雪を導く。
「ほらな。俺の言った通りだったろうが。眞魚まおは考えすぎなんだ。これを機に、もっと素直に気持ちを受け取ることを覚えるんだな」
「そういう幸之介も、もっと素直になったら可愛いのにな」
「なんだと」
 ひとつ、ふたつと声が咲く。場に笑みの花弁もかろやかに開き始めた頃、芦雪の袖が、つい、と引かれた。
「藤仁……」
 袖端を握っていたのは、藤仁だった。銀鼠の布地には、遠慮がちにもほのかな皺が刻まれている。男は眉間にも薄い陰を宿し、芦雪の肩向こうにいる幸之介を見つめていた。
「……そんなに牽制するな。別に盗ろうってわけじゃない」
 藤仁の眉宇が小さく上がると同時に、幸之介は降参とでも言いたげに、両手を挙げた。
「俺と眞魚まおは、貴殿が心配するような関係でもない。そうなることも一生ないから安心してくれ。……ま、余裕のない男はすぐに捨てられるから気をつけろよ」
「俺は捨てたりしないけど」
「うるさい。お前は黙ってろ」
 芦雪のあっけらかんとした返答は、容赦なく跳ね除けられる。
 藤仁と芦雪の仲が形を変えたとて、幸之介の言動は相変わらずだ。彼は芦雪をひと睨みしたあと、再び藤仁に向き直った。
「……眞魚まおのこと、よろしく頼む」
 墨色の眼には、切々とした光が宿っている。
 口ではなんと言おうとも、彼は芦雪の行く末を、心の底から案じてくれている。唯一の友とも言うべき者の親愛に、芦雪の心は喜びに跳ね、ある種の面映ゆさを覚えていた。
 藤仁は幸之介の視線を一身に浴びている。拒絶するでも肯定するでもなく、ただ静かにそれを受け止めている。
 刹那の沈黙を経て、芦雪の袖から手が離れる。黒鳶色の水面は、未ださざなみを湛えたままだ。
 俯いた男の顔が、ようよう上がる。藤仁が惑う眼差しを幸之介に注ぎ、薄く唇を開いた時のことだった。
「あの……」
 小鈴の声音が、廊下に落ちる。三つの視線は束になり、その持ち主へと向かった。
 不安げな面持ちで三人を見上げていたのは、松乃だった。沈黙を得た少女は、少しばかり慌てた様子を見せ、すぐさま頭を垂れた。
「お話し中に申し訳ございません。……芦雪様、兄上、おかえりなさいませ」
「あぁ……。ただいま、お松。夕餉に間に合わなくてごめんな」
「いえ。もとよりご用意はございませんでしたので、お気になさらず」
 松乃は藤仁に視線を寄せたあと、芦雪に形の良い笑みを向ける。やはり、彼女は「話し合いが終わるまで帰ってくるな」とでも藤仁に言っていたのだろう。
 年下とは思えぬ気の回しように舌を巻くと同時に、芦雪の中で、再び罪悪感が芽吹いた。
 松乃は、そんな芦雪の心中を知ってか知らずか、兄らの帰宅時間を咎めることもなく、心苦しそうに眉尻を垂らし、要件を続けた。
「お戻りのところ、大変申し訳ないのですが……。芦雪様にお客様がいらしております」
「俺に? 誰だ?」
「湯屋のゆき様です。忘れものを渡しに、と……」
 ──これはまた珍しい。芦雪は小首を傾げた。
 ゆきは飲み友達とはいえ、彼から流屋を訪ねたことは、これまで一度としてない。忘れ物を届けに、とのことだが、こんな時分にわざわざ持ってくるほどのものを、果たして己は置き忘れただろうか。
(肌守りはある……。髪紐もあるし……薬入れも落としてない……)
 胸元や袂に触れ、命よりも大切なものたちの輪郭を確認する。それらは常の通り、与えられた己が場所に腰を据えていた。
 ほ、と息を吐く。芦雪の胸裡は、途端に安堵で満ちた。
 とすると、いよいよ何を忘れたのかが分からなくなる。芦雪は再び頭を捻りながらも「分かった、今から向かう」と松乃に返答し、ひとり母屋の玄関へ向かった。


「おう、せつさん。すまないね、こんな時分に」
「いや、こちらこそだよ。さっき湯屋に忘れ物してただなんて、気づかなくて……」
 式台に腰掛けていたゆきは、芦雪を見るなり立ち上がり、軽く頭を下げた。忘れ物を届けに来たと言う割に、心なしか落ち着かない様子だった。
「で、俺は何を忘れてたんだ? すまん、何を忘れたのかすら忘れていてな……」
「あ、いや。湯屋の忘れモンじゃないよ。昨日、店に忘れてったやつを渡しそびれてさ」
「昨日?」
「あー……そうか。せつさん、俺が行った時には、べろんべろんに酔っ払ってたもんなァ」
 ゆきは苦笑しながら、「ほれ」と芦雪に見覚えのある行李と竹筒を差し出した。
 それは昨日、幸之介の江戸観光のために用いていたものだった。
 何を忘れたのか、芦雪が思い出せなかったのも当然である。なにせ昨日は、愛宕山から下山して以降のことを、何一つ覚えていないほどに泥酔していたのだ。藤仁に甘ったるく絡み、蓮見に誘った記憶は、何故かかろうじて残っていたが。
 ゆきの口ぶりからすると、どうやら彼は、幸之介と芦雪が酒を飲んでいた席に居合わせたようだった。その店に置き忘れていた行李たちを、ゆきがわざわざ回収し、こうして芦雪に届けに来たのだろう。
「あ、ありがとう……。助かったよ。それにしても、俺、そんなに酔ってたんだな。ゆきが同じ店にいたことすら覚えてなくて……」
「同じ店にいたっていうか、まぁ……そのへんはいいや。それに、あそこまでせつさんが酔ったのも、全部あの人が……」
 げんが途絶える。ゆきの瞼は大きく上がり、濡羽色の瞳は驚いたように揺れていた。 
 不審に思い、ゆきの視線をたどる。芦雪が振り向いた先には、先刻まで言葉を交わしていた男がいた。
「……眞魚まおに客なんて、どんなやつかと思ったら。なんだ、お前か」
 男──幸之介は呆れたように言うと、芦雪の隣に並び立ち、式台からゆきを見下ろした。
 初対面とも言える相手に「お前」とは、随分と幸之介も偉くなったものだ。幸之介を諌めようと芦雪が口を開きかけた、その刹那。ゆきの両腕が、勢いよく芦雪の目端を掠めた。
「若っ!」 
「うわっ! 近い近い近い!」
「良いではないですか! お久しゅうございます、若!」
 喜色に染まった声が跳ねる。その持ち主であるゆきは、幸之介の首元に両腕を巻きつけ、今にも引き倒さんばかりの勢いで、墨色の頭を抱きしめている。まるで大きな犬が、不機嫌な猫にじゃれついているかのようだ。
 眼前の光景に思考が追いつかない。芦雪はゆきと幸之介を交互に見やり、脳裏に引っかかったその呼称を口にした。
「わ、若……?」
 芦雪の疑問に、幸之介は早々に合点がいったようだった。彼は、近づくゆきの顔に手を押し当て、無理矢理に引き剥がそうとしながら述べた。
「お・ま・え・は! 言ってなかったのか!」
「俺から言ったら意味がないでしょ……っていうかなんで! 邪険にするんです!」
「暑苦しいんだよ! いちいち抱きつくな! それぐらいわかれ!」
「わかりません!」
「はなせ馬鹿!」
「離しません! 俺、馬鹿なんで!」
「こいつ……!」
 幸之介は、頑固な汚れに格闘する掃除之者にも似た様子で、ゆきの拘束から逃れようとしている。二人のすったもんだは薄闇によく響き、手燭の明かりが揺れる。
 芦雪は、焔とともにしばし右往左往に慌てふためいていたが、場を収めようと意を決して声をあげた。
「ちょ、ちょっと待て……。ちょっと待てってば!」
「うるさいな、なんだ!」
「うるさいのはお前だ、幸之介! 若って何だ! そもそも、二人は知り合いなのか!?
 二人の動きが止まる。場の騒がしさが、一瞬にして凪いだ。
 ゆきと幸之介は顔を見合わせ、ふたたび芦雪を見る。薄闇には奇妙な静けさが舞い降り、芦雪の固唾を飲んだ音が、やけに大きく聞こえた。
 幸之介に絡みついた逞しい腕が、ようよう離れていく。幸之介がこれ幸いにと、乱れた衿元を直す一方、ゆきは土間に片膝をつき、芦雪に向けて深く頭を垂れた。
「──これまでの御無礼をどうかお許しください。幸之介様の命により、江戸では眞魚まお様の友人、ゆきとして、貴方様の守り役を仰せつかっておりました」
 見慣れた顔が緩慢に上がるが、芦雪を一心に見つめる濡羽色の双眸に、友の面影はない。ゆきは垂れた眦をよりいっそう緩ませつつ、愛おしげにその名を紡いだ。
「名を、行成ゆきなりと申します。行成ゆきなりは幸之介様のものであり、唯一の懐刀ふところがたなにございます」


 明け六つを知らせる時の音が、日本橋の空を渡っていく。
 夜はとうに越えたはずだが、芦雪の足元には、小さき望月の明眸が座している。芦雪が母屋の勝手口へと歩みを進めれば、それは黒い尾をゆるりと振り、首元の鈴を軽やかに鳴らしながら、芦雪の後を追った。
 勝手口に繋がる六畳間の小上がりに腰掛け、草履を履く。その様子が興味深いのか、小さき望月はじっと芦雪の足先を見つめ、動きの終わりを待っている。 
「ふふ。草履がそんなに珍しいか? 月夜つくよ殿」
 手のひらに収まるほどの頭を、やわく撫でる。望月の双眸を持つ黒き猫──月夜は、芦雪の手に自身の頭を擦り寄せながら、ナァー……と間延びした鳴き声を返した。
「猫はもとより、四魂は履物が必要ないからな。珍しくもなるだろう」
 声の主を想像しながら芦雪が振り返ると、やはり期待通りの男が芦雪を見下ろしていた。
「藤仁……。すまん、起こしたか?」
「……いや。強いて言うなら、采梅あやめ殿の使いの四魂だとかいう、月夜殿に起こされただけだ。君のせいじゃない」
 藤仁は眠たげに垂れた眼を伏せ、自らも芦雪の隣に座した。
 朝早くから芦雪が出かけようとしている理由。それは、采梅あやめからのとある誘いに応じるためであった。
 ──急に申し訳ない。先だって約束した写生の時間がようやく取れそうなので、早速ですが本日、ご都合がよろしければ、ご奉公前のお時間にいかがでしょう? 問題なければ、月夜にそのまま案内させます。
 流れるような細い筆致でしたためられた、一通の誘いの文。それが月夜によって届けられたのは、地平の彼方が明けの暁に染まり始めた時分だった。 
 憧憬のひとであるゆかり──否、采梅あやめからの念願の誘いだ。行かぬという選択肢は、生憎と芦雪の中にない。
 ゆかりは、今をときめく木挽町こびきちょう狩野家の絵師だと春久が口にしていたが、それはつまり、采梅あやめもそうであることに他ならない。奥絵師としての日々の勤めは多忙を極めているであろうに、芦雪のために時間を取ってくれた彼の変わらぬ優しさと、「今は流屋に身を寄せている」と述べた、己の何気ない言葉を覚えていてくれた事実が、芦雪には何よりも嬉しく思えた。
 芦雪は誘いに応じるため、褥をともにしていた藤仁を起こさぬよう、静かに抜け出たつもりであったが、どうやら失敗に終わってしまったようだった。
 未だ夢の欠片を宿す男の目元に芦雪が触れると、長い睫毛が小さく震える。「可愛いな」と口にすれば、きっと拗ねてしまうだろう。
(まぁ、それも可愛いんだけど)
 込み上げる愛おしさと、あふれそうになる笑みをどうにか押しとどめ、芦雪は藤仁から手を離した。
 一方、月夜は自身が嫌味を言われたと目敏く察知したのか、狭い眉間に皺を寄せながら、藤仁の周りをぐるぐると回り始める。
「ひとの家で動き回るな。行儀が悪い」
 わずかに険を含んだ藤仁の姿は、まるで妹を叱るそれだ。彼は月夜の首根を掴んで引き戻し、己の膝上に乗せた。
「誰彼構わず、喧嘩を買うんじゃない。君はひとを守る和魂にぎみたまだろう。主が泣くぞ」
 藤仁がたしなめるも、月夜は手足をばたつかせて抵抗の意を示すばかりだったが、己の背を撫でる手に落ち着きを与えられたのか、はたまた諦めたのか、彼女は徐々に大人しくなった。
 月夜は他人の四魂だ。間違っても藤仁の四魂ではない。だというのに、渋々とはいえ、こうして言うことを聞くとは、なかなかに珍しい。
 単に月夜という四魂が特殊なのか、藤仁の直霊なおひの技が為すものなのか。芦雪は感嘆の息をこぼした。
 藤仁はしばし月夜の背を撫でていたが、やがてその手を止める。そして小さく、本当に小さく。彼は呟いた。
「……最期まであの子を守れ。父上が、君に願った通り」 
 すがるように。託すように。親愛と守護を司る四魂・和魂にぎみたまの月夜に向けて、藤仁は祈りを捧げていた。
(あの子……? それに、『父上が願った』って……)
 あの子とは、一体誰のことなのか。唐突に彼の父が出てくる理由もわからない。
 そもそも藤仁は、月夜を以前から知っていたのだろうか。それも、彼女が四魂として生まれ落ちる前から。
 ならば、月夜の主である采梅あやめとは、元より知り合いだったとでも言うのか。仮に既知の仲であるなら、何故それを隠し、采梅あやめはわざわざ尋夢庵を訪ね、また藤仁は彼の依頼を受けたのか。
 芦雪の中で浮かんでは消える疑問に、答える者はいない。解を唯一知る者たちは口を閉ざし、六畳間の静謐には、夜明けの鳥のさえずりだけが響いていた。
「……つ、月夜殿。そろそろ行こうか」
 場を均す静けさに耐えかねて、芦雪は月夜に向けて両手を差し出した。
 月夜はぴんと耳を張ると同時に、藤仁の膝上を蹴り、芦雪の肩口に飛び乗る。最後、藤仁に繊月の眼差しを向けたかと思えば、ふんと鼻息を放った。
「……全く。失礼な四魂だ」
「あ、あはは……。仲が良さそうで何より」
 先刻耳にした祈りが嘘のように、男と四魂の仲は淡々としている。藤仁はため息を吐いていたが、月夜はこれみよがしに、短い手足で顔を洗っていた。
 二人を横目に草履を履き終え、身なりももう一度整えたところで、芦雪はようやく土間に足をつける。藤仁に落ちる過去の影を垣間見たせいか、常よりも地面を固く感じた。 
「じゃ、行ってくるな」 
「……あぁ」
「もー……。そんな心配そうな顔をするなよ。別に、木挽町こびきちょうなんてすぐそこだ。行って帰ってくるだけだよ。何も不安がることなんてない」
 それでもなお芦雪を見上げる者は、不安の色を隠そうともしない。黒鳶色の水面は小さくさざめき、絵筆を握るはずの手は、引き止めるようにして銀鼠の袖を掴んでいる。
 ──雨が降っているわけでもなかろうに。一体いつから、この男は弟のように甘えたになったのだろうか。
「お前と言い、昨日の幸之介と言い、本当に心配性だなぁ……。ま、幸之介に関しては、だいぶ重症だと思うけどさ。自分の側仕えを江戸にやるぐらいだし」
「……それほど、君のことを案じていたんだろう」
 藤仁は再び瞼を伏せ、昨夜知ったばかりの幼馴染の強行に珍しくも同意した。
「君は放っておくと、どこかへ消えてしまいそうだから。待つ側からすれば、心配が尽きないんだ」
「なんだよそれー」
 芦雪は藤仁の意見を笑い飛ばしながら、昨夜のゆき──否、幸之介の懐刀である行成ゆきなりの言葉を思い返した。
 ──……藤仁殿と上手くいったようで、行成ゆきなりは安心いたしました。幸之介様は、眞魚まお様の元気がないことを俺の報告書づてに知って、ずっとずっと気に病んでおられたんですよ。『俺の代わりに眞魚まおを守れっていうめいは、身体だけじゃない。心も含めて守れって意味だ馬鹿』って、随分と叱られてしまいました。俺は守り役失格です……。
 行成ゆきなりは自身の身分を明かすと同時に、苦笑混じりにそっと芦雪に耳打ちした。
 ──それに眞魚まお様、首元に跡をつけたまま、湯屋に駆け込んで来られたことがあったでしょう。あれ、俺の知らぬところで変な虫がついたんじゃないかと、それは冷や冷やしたんですよ。そのあとから、眞魚まお様が気落ちされることが増えましたからね。若にどう報告するかも悩みましたし……。後々、変な虫ではなく藤仁殿だと分かって、安堵いたしましたが……。
 ──待て、そこまで幸之介に報告してたのか!?
 ──申し訳ありません……。それが俺の仕事ですから。……あ、でも、俺もお二人の仲の細かいことや、どこに行って何をしていたなんてことは、さすがに存じ上げませんよ! そこまで調べて報告しろとは言われておりませんし、そもそも野暮ですからね!
 謝罪しつつも、慌てふためく行成ゆきなりの姿を見て初めて、芦雪は腑に落ちた。
 幸之介が江戸へ来て早々、やたらと芦雪の首元を気にしていたのも。藤仁と好い仲なんだろうと確信を得たように、当初から断定していたのも。全ては、行成ゆきなりの報告の文を得て知っていたからなのだ。
 此度、江戸へとわざわざやって来たのも、芦雪の両親からの頼みもあるだろうが、行成ゆきなりから受け取っていた報告書も後押しとなったに違いない。
 幸之介の過保護さには驚いたが、ふと思い返してみれば、そうさせてしまう大きな原因は自分にあると、芦雪は思い至った。
 芦雪は日頃、幸之介にさえも自身の真意や体調のことを滅多に話さず、文となれば返事も遅い。そのうえ、書面上ならば、どうとでも美しい嘘はつけるのだから、芦雪の性質を知っている幸之介からすれば、芦雪からの文の内容を信用すること自体が難しい。
(となればまぁ……信用できる側仕えを江戸に送って、定期的に報告書を送らせた方がまだ安心できるよなぁ……)
 芦雪も幸之介の立場になれば、きっとそうしていただろう。幸之介の強行全てを否定できない己の行いに頭を抱えたのは、未だ記憶に新しい。
 しかし、彼の判断がなければ、行成ゆきなりと縁を結びえなかったのもまた事実だ。仕組まれた友人関係だったとしても、ともに過ごした時間や交わした言葉さえも偽りだったとは思いたくない。
 行成ゆきなりもそれには同感のようだった。流屋を去る間際、彼は常と変わらず、芦雪の頭に手を置いて言った。
 ──大丈夫。知り合い方は変わってるけど、俺は今まで通り、せつさんの飲み友達であり続けるさ。友との思い出に限っては、報告する必要もないしな。
 口端を大きく引き上げて笑った顔は、これまで目にしてきた友の姿そのものであった。
「どうした。そんなに笑って」
 過去に潜った意識が引き上げられる。黒鳶の双眸には頬を緩ませた己の顔が映り、自身に向けられた真摯さを余計に実感する。芦雪は藤仁の頬に手を添え、愛おしい目元を親指でなぞった。
「いんや。俺には、良い友と可愛い恋仲がいて幸せだなぁって思ってただけ」
「ふ……。そうか」
 藤仁の唇は淡くも美しい弧を描き、添えられた芦雪の手に己が手を重ねる。それでもなお、長い睫毛が縁取る眼はわずかに陰を含み、視線は迷いと憂いを帯びていた。
「藤仁……」
「ん……?」
「言いたいことがあるなら言えよ?」
「それ、は……」
「ほら、昨日した約束。もう忘れたのか? 『もやもやした時は』?」
「……『言葉にする』」
「よろしい。で、どうした?」
 幼子に語りかけるように、問いを重ねる。芦雪の手を包む男のぬくもりは少しばかり震えていて、先刻よりも力が込められていた。
「ゆかりに……采梅あやめ殿に、会わないで欲しい……」
 藤仁がやっとの思いで絞り出した気持ちは、芦雪を引き止めたいと願うものだった。
 芦雪は息をのみ、数瞬の間に薄く笑みを携え直して言った。
「ごめんな。でも、もう約束したことだから」
「わかっている……」
 芦雪が決めたことを理解していると口にしつつも、彼の瞳から寂寥が消えることはない。
 本当はもっと一緒にいたいのだと。自分以外のところに行かないで欲しいと言われているようで、不謹慎ながらも芦雪の心は甘やかに蕩けていく。
「そんな顔するなよー……。可愛すぎて、置いて行けなくなるだろ」
 からからと笑い声をこぼし、藤仁の頭を優しく抱きしめる。髪間に指を差し入れては梳き、彼の香りで肺を満たしていく。
 つむじに一粒の水音を落とすと、腕の中の頭が身じろぐ。幼子みたいだな、と慈愛と名残惜しさを伴うままに身を離せば、熱を孕んだ眼が、一瞬にして芦雪を絡め取る。
 あ、と声を漏らす前に顔を引き寄せられ、唇が重なる。表面をなぞり、境目が淡くなるほどにやわく食んでは、互いのぬくもりを確かめた。
 吐いた息を吸い合って、触れるだけの口付けが終わる。露に色付いた藤仁の唇は、未だかすかに開いている。
 ──もういちど、口付けられるのだろうか。芦雪のほのかな期待をよそに、藤仁は低くも甘さを帯びた声で述べた。
「……早く、帰ってきて」
 ──あぁ……あぁ……! なんて愛らしい!
 食べてしまいたいとさえ思うこの感情に名があるのなら、誰か教えてくれないだろうか。
 この先、今ほど己の理性に感謝することはきっとない。芦雪は自身の目元が色めくのを感じながら、再び藤仁を抱きしめた。


「朝早くからすみません、芦雪。迷いませんでしたか?」
「あぁ! 月夜殿の案内のおかげで。今日はお誘い頂き本当にありがとう、采梅あやめ殿」
「ふふ。そんなに喜んでいただけるなら、こちらもお誘いした甲斐がありました」
 月夜の導きにより、芦雪は文に示された通り、木挽橋の前で采梅あやめと再会した。橋向こうには芝居小屋の軒が連なり、更にその奥には、中屋敷と上屋敷の錚々たる屋根瓦が遠目にも見える。
 日本橋に劣らず常にざわめきであふれ、人の頭で覆い尽くされている木挽橋の上は、早朝の今となっては静かなものだ。夜が明けて間もないためか、芝居小屋もまだ準備中のようで、人影もまばらだった。
 江戸で「木挽町こびきちょうへ行く」と言えば、芝居小屋へ赴くことと同義ではあるものの、町の約八割は武家地である。芝居小屋のある通りを横目に、東へと一歩踏み出せば、喧騒はあっという間に鳴りを潜め、武家屋敷の白壁が来訪者を出迎える。
 その武家屋敷の一角をなすのが、将軍の寵愛を一身に受ける奥絵師家系、木挽町こびきちょう狩野家の屋敷なのである。御用絵試に臨む者はみな、木挽町こびきちょうの通りや橋の麓から広大な狩野家屋敷を眺め、「いつか自分も、奥絵師としてあの家へ」と果てぬ夢を見るのだ。
「で、今日はどこで何を写生するので?」
 芦雪は、早速采梅あやめに問うた。誘いの文には、肝心の写生内容は書かれておらず、場所も待ち合わせとして「木挽橋の前で」と記されていただけだ。
 待ち合わせが木挽町こびきちょうの出入口である橋の前とはいえ、芝居小屋、ひいては狩野家屋敷に行くわけでもあるまい。
 とんと見当がつかず、芦雪が小首を傾げて見せれば、采梅あやめは悪戯を思いついた幼子のように笑みを咲かせ、唇に人差し指をあてがって述べた。
「それは、着いてからのお楽しみです」
「へ?」
「さ、参りましょうか」
 采梅あやめは紅海老茶の袖を揺らし、橋向こうを手で指し示す。鼻歌でも歌いだしそうな青年に導かれ、芦雪は緊張で頬を強ばらせつつも、橋に足を掛けた。
 三十間堀さんじっけんぼりの水面の上では、いくつもの舟が行き交い、水の流れとともに荷が運ばれていく。見慣れた日本橋の風景と遠く変わらず、芦雪は僅かながらに親しみを覚えた。
 橋を越え、「江戸三座」たる証しのやぐらや、座の演目を示す鮮やかな絵看板に視線を奪われながらも、紅海老茶の軌跡を追う。想像していた通り、采梅あやめは芝居小屋の通りには見向きもせず横断し、武家屋敷が建ち並ぶ大路へ颯爽と進んでいく。
采梅あやめ殿……いや。ゆかり殿は、一体どこへ行くつもりなんだろう……)
 この先は大名屋敷しかないはずだ。写生にめぼしい草木も川面のさざめきも、活気ある人々の営みとも無縁に等しい。ただ、厳格と矜恃を重んじる地が、漆喰壁とともに立ち塞がるのみである。
 と、その時。先を行く背が止まった。
 なめらかな線を描いた横顔がほんの少し上向き、芦雪を振り返る。
「歩かせてすみません。着きましたよ」
「もう? それよりここは……」
「僕が暮らす屋敷であり、写楽としての貴方が訪れたいと願われていた場所。──狩野家屋敷の画所えどころです」
 長大な長屋門に、終わりの見えぬ真白き塀。時の老中に下賜されたとされる屋敷の表門は両門開きとなっており、唐破風からはふ造の番所が左右に設けられている。門の意匠ひとつ取っても、他武家との格の違いが窺えた。
(ここが……公方様の寵愛を授かった狩野家屋敷……)
 自然と開いた口内が乾いていく。芦雪は今更ながらに、己がどれほど身の程を知らず、雲の上の身分へ挑もうとしているのかを実感していた。
「今日は、画所えどころで保管している古画の写生はどうかな、と思いまして。絵を写すので、写生というよりは模本になりますが、せっかくの機会なので……。中へ入りましょうか」
 采梅あやめは、手慣れた様子で潜戸くぐりどを開け、天上の地へと芦雪を誘った。
 戸の向こう側には、春久や冬吾の屋敷とほとんど変わらぬ、広大な武家屋敷が悠然と腰を据えていた。芦雪が所在なく右へ左へと目を動かしていると、紅海老茶の袖が眼前を舞う。采梅あやめはかすかに芦雪を振り返り、「さ、お早く。こちらです」と屋敷に続く石畳を迷いなく進んで、表玄関へ向かった。
「お戻りなさいませ」
 式台にふたりの女人が座し、深々と頭を下げる。刹那、みずみずしいふたつのかんばせが上がり、采梅あやめと芦雪に順に目を向けた。
 釉薬ゆうやくが施された陶磁の如きなめらかな肌は白く、世界を臨む瞳は切れ長で、両者とも均整のとれた顔立ちをしている。着物の襟から覗く首元はかすかに艶を弾き、美人画さながらの美しさがある。随分と浮世離れして見えるふたりだった。
「ん、ただいま。彼は僕の客人だ。彼がいる間は僕らに構わなくて良いよ。くれぐれも悪戯しないようにね。他の子にも伝えて」
「はい。承知いたしました」
 恐らく女中なのであろう女人らは、采梅あやめの言葉とともに立ち上がると、袖引かれる様子もないまま奥へ引っ込み、気配を消した。彼女らの軌跡に紅の光芒を見た気がしたが、芦雪がもう一度瞼を上げた時には、その輪郭はなかった。
(朝焼けの明かりが、目の奥に残ってたのかな……)
 視界を擦り、漫然と屋敷の奥を眺める。一方、芦雪の横で音もなく草履を脱いだ采梅あやめは、声をひそめて言った。
「……行儀が悪いんですけど、今日は特別。秘密にしてくださいね」
 采梅あやめは草履を指に掛け、素足のまま屋敷の中を歩いていく。芦雪も慌てて自身の草履を手に持ち、彼の後を追った。
「本来は外から回るべきなのですが、屋敷の中を通って行った方が早いので。今は咎めるような人もいないし」
 屋敷の主は自分だと言わんばかりの我がもの顔である。采梅あやめは流れるように解説しながら、廊下の果てを目指して進んでいった。
 磨きあげられた床板が、ふたつの足並みに軋んでいる。客間と思われる部屋の前を通れば、墨一色で描かれた走獣の襖絵と刹那に目が合い、やがて芦雪の背後に消えていった。
 流れゆく景色に合わせ、芦雪は屋敷の建具に視線を流す。そのたびに、極彩色の異国の獣や情趣に富んだ草花の絵が芦雪を捉えた。
(この屋敷……何かがおかしくないか……? 人の気配が薄いわりに、絶えず視線を感じる……。建具に施された絵も、異常なほどに多い……)
 背筋を冷たい汗が這う。芦雪が来た道を振り返ると、並ぶ襖絵には見覚えのあるはなだ、紅、黄金、翡翠の光が茫洋と浮かび、芦雪を窺っていた。
(まさか……この屋敷の絵……)
 肌守りを握る。脳裏では小さな笑い声が響き、憎らしい男が「相変わらず何も変わってないんだな。あぁ、懐かしい」と、これ以上ないほど口端を引き上げている。
「芦雪?」
 芦雪が歩みを止めたことに気づいたのだろう。采梅あやめは芦雪をみとめ、小首を傾げていた。
 絹のような髪がひと房、彼の肩上に落ちていく。冬待つ朽葉の瞳は薄闇の中でもかすかな光を映し、芦雪を見つめていた。
 ──あぁ、懐かしい。
 青嵐をまとう男の言う通りだった。屋敷に住まう者たちの気配が、息も詰まるほどの視線が、芦雪の中で懐古を掻きたてる。
 かつて己に与えられ、ひとり暮らしていた広い屋敷も。弟たちが公方様に下賜された屋敷も、この屋敷も。繋がれた技も、朽葉が示す血も。
 全部全部、あの時から何一つ変わっていない。
 それに安堵する一方で、芦雪の裡はまた、憎悪に駆り立てられている。不変は狩野家に課された義務であり権力の象徴だが、それに与することは罪だと何故気づかぬのか。自由の搾取に抵抗を示さぬのか。
 ──あぁ……。懐かしくて、愛おしくて、愚かしくて……なんて苛立たしい家だろう。そうは思わないか、眞魚まお
 耳元で囁かれた言葉たちは、自身の思考のように脳裏を流れ、やがて馴染んでいく。
 守信との境が淡い。一体いつからだろう。近頃は夢の中でさえも、姿かたちを現すことはなかったというのに。
 以前のように、守信に侵食されている気配はない。自分は今、一体誰の人生を生きているのかと疑問に思うことも、それに嫌悪することも。ただ、芦雪の身体の内では、これまで感じたことのないほどの欲が静かに根付き、居場所を広げている。
 まるで、二人分の欲望を奥底に溜め込んでいくようだった。
「芦雪? どうかしましたか?」
「あ、いや……。なんでもない……」
 芦雪はかぶりを振った。自身は間違いなく「芦雪」だ。ゆかりを敬愛し、家族の幸せを願い、藤仁を愛している心は何一つ変わらず胸裡に宿っている。
 湧き上がる懐古が、かつての守信じぶんのものであろうと関係ない。今の己が「芦雪」であるならば、不安にならずともいい。
 芦雪は肌守りを握ったまま、気の抜けた笑みを采梅あやめに向けた。
「……悪戯するなと言ったのに」
 采梅あやめは小さく呟き、息を吐く。彼は眉間に寄った皺を指で押さえながら、「……画所えどころはこの廊下を抜けた先です。行きましょう」と再び歩み始めた。


 采梅あやめが示した通り、廊下の突き当たりは、屋敷の外と繋がる回廊に通じていた。
 回廊の終わりには、長屋造の建物が見える。それは屋敷の敷地内にはあるものの、狩野家の者たちが日々の暮らしを営む場とは独立しているもののようだった。
采梅あやめ殿。もしやあれが……」
「はい。木挽町こびきちょう狩野家の画所えどころです」
 采梅あやめが首肯した時、画所えどころの出入り口から三つ、四つと人影が覗き、回廊の端をまばらに埋めていく。それらは采梅あやめが向かってくることに気づくと、慌てたように動きを波立たせてから、その場で立礼した。
「あぁ、いいよ皆。頭なんて下げなくて。今日は当主も不在だし、気楽にして」
 采梅あやめはひらりと手を振り、頭を垂れる若々しい稲穂らに声をかける。恐る恐る顔を上げた四人は皆男子おのこで、顔立ちには一様にあどけなさが残っている。十三、四歳ほどであろうか。松乃と同年か、それより少し下の子らのように見えた。
(皆……瞳の色が朽葉色だ……)
 采梅あやめと芦雪を怖々と見上げる眼差しは、嫌というほどに見知った色を湛えていた。
「普段は五、六十人ほどの門弟たちが画所えどころに詰めておりますが、今日は江戸城内にて急ぎの襖絵注文が入っただとか、火事に見舞われた屏風絵の修繕だとかで、当主ともども皆出払っておりまして。この子たちは、まだ彩色の手伝いを許されていない若い門弟なので、今日は僕とともに画所えどころに残されているんです。……とはいえ、彼らは狩野家直系の子息ですし、再来年にはもう一人前になってくれていることでしょう」 
 采梅あやめの紹介を皮切りに、門弟たちは「深春みはると申します」「自分は夏芽なつめです!」「秋穂あきほです……」「……千冬ちふゆ」と口々に名乗った。 
「あの、采女うねめさま……。そちらの方は新しく入られる門弟の方ですか……?」
 一際萎縮した様子の男子──名を秋穂と言ったか──は采梅あやめ采女うねめと呼び、千冬の後ろに姿を隠しながら問うた。
「うん。そのようなものだよ。……少し特別な方なんだ」
「それは采女うねめさまより?」
「こら、失礼だぞ夏芽なつめ!」
 無邪気に問う夏芽なつめを、深春みはるが諌める。彼は何故か、夏芽なつめの代わりに「申し訳ございません……!」と頭を下げた。
「ふふ。さぁて。どうだろうね」
 采梅あやめは悪戯っぽく解を放ち、「特別な客人が来たことは他の人には内緒だよ」と深春みはる夏芽なつめの頭を優しく撫でて続けた。
「これから少し古画の部屋にこもるから、皆は時間になったら、いつもの彩色画の練習と決められた模本をこなすように。その前に朝餉を済ませるんだよ」
「はい、采女うねめさま」
 四人の若き門弟たちは、再び采梅あやめらに立礼してから背を向け、その場から去っていった。
采梅あやめ殿」
「はい?」
「貴殿は……ゆかり殿は……『采女うねめ殿』……だったのか……?」
 静けさが場を満たす中、芦雪は小さくなっていく門弟たちの背を眺めながら問うた。
 木挽町こびきちょう狩野家の次期当主。画所えどころの塾頭。狩野探幽の再来。絵試荒らしの筆頭。
 その全ての異名を冠するのが、江戸一番の絵師とまで謳われる若き天才、采女うねめである。
 また、「写楽を画所えどころで迎え入れる」と紹介状を書き、その後ろ盾になることをも了承した変わり者だ。
 その采女うねめが──江戸中の絵師から憧憬と羨望の眼差しを一身に受ける男が、目の前にいる。芦雪は緊張で締まる喉を痛めながら生唾を飲み込み、采梅あやめを見つめた。
 彼はきょとんとした様子で、芦雪に視線を返している。その後、しばしの間を伴いつつ首を傾げ、あっけらかんと言い放った。
「……あれ? 言ってませんでしたっけ? 僕の雅号」 
「聞いてない! いや、ちょっと待ってくれ。一旦整理させて欲しい……」
「どうぞ」
「まず、尋夢庵に訪ねてこられた采梅あやめ殿は、数年前に俺と三嶋大社で会ったゆかり殿で」
「はい」
「そのゆかり殿は画所えどころの現塾頭で、絵試荒らしの筆頭でもあり……次代木挽町こびきちょう狩野家を率いるとされる采女うねめ殿だった」
「えぇ」
「つまり……その……。采梅あやめ殿とゆかり殿と采女うねめ殿は……同一人物?」
「その通り」
 足から力が抜けていく。芦雪は思わず、その場にへたりこんでしまった。
「俺は一体……これから貴殿をどの名でお呼びすれば……。いや、そもそも交流をすること自体不敬に……」
「どうかお気になさらず。名についてもご自由に、お好きな名で呼んでください。……そうですね、強いて言うなら采梅あやめの方が嬉しいです。采梅あやめは唯一、僕の自由の象徴だから」
 采梅あやめも芦雪の隣にしゃがみ、膝に頬杖をついて楽しげに芦雪を見ていた。
(あぁ、そうか……。だから、采梅あやめ殿は守信に似てるんだ……)
 今思えば、彼に守信の面影があるのも納得できる話だ。彼はただの武家でも、ましてや御用絵試を突破して奥絵師になった者でもない。もとより、正統な狩野家の血を引く特別な貴人なのだから。
 直系ではないにしろ、彼の身には守信の──狩野探幽の血が受け継がれているのだろう。
裏表のない純真な采梅あやめの頬笑に、脳裏に居座る男は、「……可哀想な子だ」と、常の姿には似つかわしくない哀思を吐露していた。


 たどり着いたその部屋は、画所えどころのもっとも奥まった場に座していた。
 陽を入れる小窓ひとつなく、出入口は雄々しい唐獅子と松が描かれた杉戸ひとつのみ。部屋の広さは八畳ほどで、床の間が設けられている。
 床の間以外に部屋のしつらえがないせいか、部屋はより広々と、寒々とした印象を与える。磨きあげられた床板は、画所えどころへ来る途中に見た屋敷のものと一様だったが、建具に至っては鮮やかさや豪奢の欠片もなく、似ても似つかない。
 采梅あやめは部屋へ足を踏み入れると、画室から拝借した絵筆と紙を取り出して板の間に並べ、芦雪を小さく手招いた。
「さ、芦雪。今日はこちらの絵を写しましょうか」
 端座した采梅あやめが示したのは、床の間に掛けられた一幅の掛軸だった。
 薄い青で彩った、三本の藤の花房。輪郭線を用いることなく、色彩のみで花のふくらみや花弁一枚一枚が表現され、繊細さと優美さをたたえた春が絵中を漂う。
 房となった花は、先端に向かって次第に小さくなっているものの、下三分の一からは蕾が整然と連なっている。作者が花の柔らかさと蕾の固さを意識的に描き分けた優品であることが、一目でわかった。
 芦雪は恐る恐る部屋の中へと歩を進め、采梅あやめの隣に座す。今一度、目を凝らして絵を見つめ直し、大きく息を吐いた。
(落ち着け……。この予想はきっと外れてる。だって一介の武士に過ぎず友人とも弟子とも言えるような仲でもない者に、そんな大切なものを見せるはずがないだろう……)
 ──狩野家と藤花図。その二つの関係にまつわる謂れを思い出しながらも、芦雪は口を開いた。
采梅あやめ殿……。その……まさかとは思うが、あの絵……。奥絵師以上でなければ見ることが許されないという守絵まもりえではないよな……?」
「はい。その守絵まもりえです」
「は!? い、いやいやいや! あれを見れるのは奥絵師になれた者の特権だ! そもそも俺に見せて良いものではないはずだろう……!」
 芦雪は慌てふためき、歓待に花開いた藤花図に背を向けた。
 御用絵試に挑み、奥絵師の仲間入りを果たした者に与えられるのは、狩野家としての高い地位や富、栄誉だけではない。
 狩野家と将軍家が秘するとされる部屋──通称、守絵まもりえの間に入る権利を得る。
 守絵まもりえとは、狩野派の二代目当主、狩野元信もとのぶが描いたものとされている。
 元信は狩野派が狩野派たらしめる画風、いわば大陸の線と、日ノ本由来の澄明な彩色を融合させた平明で装飾的な画面を確立し、狩野派の力を広く世に知らしめた絵師だ。
 加えて、絵師としての権威を巡って対立を深めていた宮中専属絵師の家系、土佐派の娘を妻として迎え、幕府だけでなく朝廷との縁を結んだのも、元信その人である。
 現在は、探幽の名ばかりが神格化されているものの、探幽まで血脈と技を繋ぐに至ったのは元信とその孫、狩野永徳えいとくの功績あってこそだ。
 そんな元信が描いたと言われる守絵まもりえは、各時代の時の権力者の手に渡った経緯があるためか、長きに渡り、市井において憶測が憶測を呼んだ。
 ──権力者が欲しがるということは、それほどに美しい絵なのだろう。
 ──噂じゃ、藤花の絵らしいぞ。藤花は『不死』や『不変』を司ると言うし、きっと何でも願いを叶えてくれる特別な絵に違いない。
 ──とすると、江戸で泰平の世が百数十年と続いているのは、歴代の公方様が泰平の世を絵に願い、その願いを今も絵が聞き届けているからでは?
 ──きっとそうに決まってる。その絵は守絵まもりえなんだ!
 かくして、藤花図は願いを叶える守絵まもりえと呼ばれるようになったわけだが、所詮は絵だ。ものとして永遠を刻めはしても、時を経れば、彩色や地となる紙の状態は悪くなる。
 それを定期的に修復するのが狩野派──つまり奥絵師なのだ。守絵まもりえの修繕は御公儀により任ぜられた、れっきとした奥勤めであり、また修繕のためには守絵まもりえを安置した守絵まもりえの間に入らざるを得ないため、御用絵試を突破し奥絵師になった者にも、その権利が付属的に与えられるというわけである。
 そのように特別に扱われてきた絵を、己のような者が見て良いはずがない。芦雪は悠久を生きてきた藤花の視線を背に受けながら、尻の下で重ねた足先をもぞもぞと動かした。
「真面目なひとだなぁ。別に僕たちが見たって何も変わりませんよ。ただの絵です」
 どこか間延びした声が、緊張の糸を断つ。芦雪は振り返り、呆れたように細くなった朽葉の眼を見つめた。
「……そうなのか?」
「えぇ。それに模本するためには、対象の絵を細部まで観察する必要がある。きっと貴方だから見えるものもあるだろうと思って、今日お招きしたんです。……当主や他の者の目が薄い今日だからこそ」
 采梅あやめに促されるまま、芦雪は再び居住まいを正して、絵に向き合った。
 当たり前だが、戸から見た時よりも絵を近くに感じる。当初では見切れなかった細部に目を凝らし、芦雪は絵の端から端まで、寸分の狂いなく記憶するように見つめた。
 経年が原因だろう。本紙にはところどころ薄い染みが浮き、また蕾部分は退色している。定期的に奥絵師たちが修繕を重ねているとはいえど、直せない部分もあるに違いない。
 視線を上に移す。その時ふと、藤花図の中心に小さな瞬きが浮かんだ。
 陽も射さぬ部屋で、藤花の花房は白く、小さく、今にも消えそうな灯火を宿している。
「この藤花図、まさか四魂が……?」
 芦雪の呟きに、采梅あやめの唇は僅かに弧を描く。彼は迷いなく首肯した。
「おっしゃる通り。守絵まもりえ……藤花図には、四魂が宿っています」
「だが、四魂の色ははなだ、紅、黄金、翡翠の四種のはずだろう。藤花図の光は白だ。白い光を放つ四魂なんて、見たことがない……」
「あぁ……。それは、全ての四魂が宿っているから白いのです。藤花図は荒魂あらみたま和魂にぎみたま幸魂さちみたま奇魂くしみたまが込められた特別な絵。だから、『何でも願いを叶えてくれる』という市井での噂もあながち間違いではない。……まぁ、『江戸で泰平の世が百数十年と続いているのは守絵まもりえの力のおかげ』というのは間違いですが」
「そんな……。いや、そもそも絵に宿る四魂はひとつではないのか?」
「基本はそうです。ただ、僕の先祖である元信に限っては、そうではなかったということなのでしょう」
 つまり、四魂を宿す絵を描いた元信は、芦雪らと同じ直霊なおひの絵師だったのだ。それも常ということわりを捻じ曲げるほどの力を持っていた。
 そんな直霊なおひの絵師が戦国の世より存在していた事実に、芦雪は驚きを隠せなかった。
(いや、待て。守絵まもりえは四魂の宿った絵だ。経年によるものといえど、一度本体の絵に傷がつけば、四魂は消滅するはず。なのに何故、この絵は四魂を維持できている……?)
 確かに、芦雪や藤仁らが生み出した四魂らに比べれば光は弱々しく、今にも消えてしまいそうなほどに儚い。
 それを保てているのは、絵の修繕を重ねていることも関係しているのだろうか。
 不意に、藤花の花びらがひとつ、ふたつと絵中で落ちていく。芦雪は思わず瞠目した。
「絵が……朽ちてる……?」
 芦雪が呈した疑問に、采梅あやめはやはり頷いた。
「この様子だと、もってあと一年ほどでしょうか。……正しい修復を行っていない反動なのかもしれません」
「正しい修復……? では、今奥絵師がしている修復は間違っているということか?」
「間違っているというより、その場しのぎの修復になっていると言った方が正確ですね」
 藤花図の四魂の光に力強さがないのも、修復方法に問題があるというわけだ。
 だが前提として、本絵が傷付いた四魂を元通りに治すことは不可能である。かつて愛宕山で藤仁とともに破壊した子犬の四魂、常磐ときわの姿が芦雪の脳裏をよぎった。
 本絵を引き裂いたあと、常磐ときわは跡形もなく霧散した。己の手で下し、消えていく瞬間をこの目で見て確かめたのだ。これは変えようのない事実だった。
 当時のやるせなさと己の心の弱さを思い出し、芦雪は強く瞼を閉じる。行き場のない手は赦しを請うように、肌守りにすがりついていた。
「……芦雪。あなたは、『怪画絵師と墨愛づる姫君』を覚えておいでですか?」
 采梅あやめは再会した時と変わらぬ美しい微笑を湛え、芦雪を見つめて問うてきた。
「そりゃあ……。あれは日ノ本の者なら誰だって知ってるおとぎ話だ。覚えているよ」
「では、どんな内容でした?」
 幼年の頃より、母に聞かせてくれと何度もせがみ、また昨日も、藤仁の腕の中で聞いた寝物語だ。内容を忘れることも、また間違えて覚えていることもない。
 何故、唐突におとぎ話の話題が引っ張り出されるのか、芦雪には理解が及ばなかったが、采梅あやめなりに考えがあるのやもしれない。
 芦雪は顔を上げ、采梅あやめに向けて視線を返した。
「友のいない怪画絵師の少年・四郎二郎が、友となった小鳥の絵の行方を探して冒険に出る話で……。そのあと、四郎二郎は怪画たちの怪我を癒し助けてくれたみつ姫と恋に落ちて、夫婦めおとになる……」 
「そう……。では、怪画を従える怪画絵師とは何なのか、これまで考えたことは?」
「それは……、四郎二郎が直霊なおひの絵師だということが言いたいのか? それなら、ゆかり殿であった貴殿が教えてくれたことじゃないか。……まぁ、物語の怪画絵師が実在するだなんて、自分が直霊なおひの絵師だって気づくまでは、冗談だろうと思ってたけど」
 朽葉の瞳がほのかに揺れる。陰を含んだ瞼が刹那に大きく上がったようにも見えたが、采梅あやめは恥ずかしげに唇に指の背をあてがって言った。
「……あぁ、そうでしたね。僕が貴方に教えたんだ」
 采梅あやめは今一度その場に座り直し、芦雪を真っ直ぐに見据えて、再び口を開いた。
「言い方を変えましょうか。四郎二郎のような存在が今の世にも存在している。……ということは、墨愛づる姫君も存在していると思いませんか?」
「え?」
「四郎二郎は四魂を生み出し、それを自在に操る直霊なおひの絵師だった。ならば、他人の四魂である小鳥と意思を交わし、また怪画たちの傷を癒した姫のような存在もこの世にいたっておかしくない」
 みつ姫のような存在。他人の四魂と意思を交わす娘。ふたつの事柄が松葉色の袖を振る少女に向かい、音もなく結ばれていく。一筋の冷たい汗が、静かに芦雪の背筋を流れた。
「狩野家は……長い夢を見ているんです。この絵を完全に修復し、元信様の四魂と意思を交わして我らの願いを叶える。いつか必ず、それを実現させる者が現れると。ゆえに探し続けている。……生きているかも分からぬ墨愛づる姫君を。この日ノ本中を巻き込んで」
 采梅あやめは芦雪を通して、別の誰かを見ているようだった。細められた眼に光はなく、ただ目の前に広がる事実に、なすすべなく立ち尽くしている。
 彼も墨愛づる姫君を探しているのだろうか。木挽町こびきちょう狩野家を時期に背負う者として、一族が叶えたいと長年願い、見続けている夢を現実のものとするために。
 ──もし、そうなのだとしたら。
 仮に松乃が墨愛づる姫君と同じ存在なのだとすれば、彼女は狩野家の夢に利用されてしまうのではないか。彼女が狩野家の目に留まってしまったら、意にそぐわぬことを強いられるのではなかろうか。
 人間の欲とは恐ろしい。芦雪はそれを誰よりも知っている。
 最悪な想像を否定しながら、芦雪は祈るような気持ちで采梅あやめに問いかけた。
「もし、墨愛づる姫君がいたとして……。采梅あやめ殿は……ゆかり殿は、姫の力を借りて願いを叶えてもらいたいと思うか……?」
 声尻が震えているのが、自分でもわかった。
 長年焦がれ、生きる指標にもなった憧憬の絵師に、ずるい質問をしていることは十分承知だ。彼にも背負うべき家と責任がある。だからこそ、芦雪は彼自身の答えを聞きたかった。
 形の良い唇が、薄く開く。それはやがて見知った男の面差しを映して、不敵に笑んだ。
「そんなの、つまらないじゃないですか」
「つま、らない……?」 
「えぇ。夢や願いは自分で叶えるものです。ひとに叶えてもらうものじゃない。僕は僕の意思で、僕の力で、自分の願いを叶える」
采梅あやめ殿……」
「それに、僕はこの家自体、好きではなくて。血と立場を重んじるあまり、僕の大切なひとを……敬愛する叔父や従兄妹を死に追いやってしまいましたから……。だからこそ、こんな馬鹿げた夢から早く目覚めさせないといけないんです。他ならぬ僕が。この家の在り方を、内側から変えていかなければならない……」
 朽葉は冬など待っていなかった。己の手で冬を切り開き、春を迎えてやるという強さをその身に降ろしていた。
「絶対に、あの子にだけは手出しはさせない……。たとえ、どんな手を使ってでも……」
 采梅あやめは膝上に置いた手指を強く握りこんでいる。白魚のような滑らかな手の甲には、迷いのない意志の輪郭が浮かんでいた。
采梅あやめ殿は……お松のことを知っていて、その力にも気づいているのかもしれない。藤仁のことも……)
 彼が尋夢庵を尋ねた本当の理由も、画所えどころの紹介状を写楽に手渡した意味も。
 どういった経緯かは知らないが、松乃の存在にいち早く気づき、兄妹を守る盾として先回りしようとしていたのではなかろうか。
 やはり芦雪が焦がれ続けた人は、名を変えようとその性質はかつてのままだった。己の身を挺してでもひとに尽くし優しさを分け与える姿は、今でも芦雪の憧れであり指標だ。
(彼の力になりたい……。いや、俺もそう在りたい。奥絵師の一員になることで、家族だけでなくお松や藤仁を守れるなら、これ以上幸せなことはきっとない)
 ──己も采梅あやめと同じ狩野家の者となり、彼とともに狩野家を内側から変えていけるのなら。非力な己でも、大切なものを全て、守れるかもしれない。 
 御用絵試への意志を新たに刻み、芦雪はひとり頷いた。
 ふと、闇夜に紛れ、ひとり四魂と戦う背中が思考をよぎる。藤仁は今も、夜な夜な寝床を抜け出ては、何者かの欲望を身ひとつで跳ね除けているのだろうか。
(あれはやはり、お松の力が関係してるのか? お松を守るために戦っている……?)
 ──それは一体、何と?
 以前目にした者たちは狩野家の手の者なのか、はたまた全く関係のない直霊なおひの絵師たちなのか。藤仁は未だ口噤んだままで、芦雪は何一つ真実を知らない。
(藤仁……。俺は今でも、お前を守るに値しない人間なのかな……) 
 関係が形を変えても、自身の背を預けるには不安だと思われているのかもしれない。ゆえに、恐怖や身に降りかかっているわざわいについて、一切打ち明けようとしないのだろう。
「素直に守られてくれ」と懇願する男の声が忘れられない。本来守られるべき立場の藤仁は、何を恐れているのか。
 そして、彼の恐怖を祓うため、芦雪にできる最善は何なのか。
 ──……いいかい、眞魚まお。使えるものは、全て使え。
 かつて守信が囁いた言葉が、芦雪の耳奥で強く響いていた。