第二十四筆「萌芽」

 地を打つ音は、激しさを増している。
 雨の薄衣が上野の街を包み、早朝だというのに薄暗い。先刻までの賑わいを塗り替えるように、紺や紅の傘地が通りをまばらに彩っていた。
 皆、雨宿りにと手近な軒下や店々に身を潜めているのだろう。例に漏れず、芦雪も藤仁とともに、何某なにがしかの店の軒を借り、空を見上げていた。
 背後のたなは、雨が降っているためか早々に閉めてしまったようで、暖簾のれんもなく、ひっそりと静まりかえっている。
(熱い……)
 雨に濡れ、芦雪の身体は冷え切っている。だが、無骨な手に包まれたままの右手だけは、静かに熱を宿していた。
 そろりと隣を盗み見る。藤仁は手の結び目を解こうともせず、平生と変わらぬ様子だ。淡々とした眼差しで天を見上げ、雨足の行方を追っている。
 濡れて束になった黒鳶の髪先から、露が滴る。それは彼の頬をなぞり、やがて顎を伝って、地へと落ちていった。
 濡れているのは髪だけではない。雨宿りの道中で、藤仁の着流しは既に十分すぎるほど水を吸っている。このままでは、きっと風邪をひいてしまうだろう。
 思って、芦雪は藤仁の頬に手拭いを添えた。
「……っ」
「あ、ごめん……。つい……」
 藤仁は何も言わなかった。ただ、青褐あおかち色の肩を小さく震わせ、よりいっそう芦雪の手を強く握った。
 何故、藤仁は手を離そうとしないのだろう。目的である雨宿りは、既に達成されているはずだというのに。 
(……雨が降ってるから……不安なんだろうか……)
 いつ雷が鳴るとも限らない。己が恐怖するものが近くにあると思うと、心細くなるのも理解できる。
 藤仁の癇癪を宥めるための取引はとうに終わったはずだが、やはり一度身に染みついた慣れというものは、なかなか抜けないようだ。
 たとえ不安を和らげるための行為なのだとしても、恋しい者に求められるのは素直に嬉しく、芦雪の鼓動はいっそう跳ねた。
 ──勝手に推測して納得して、本人に確かめもせず勝手に諦めて。相手の気持ちも聞かずにそんなことばかりしてると、いつか痛い目を見るぞ。
 芦雪の高鳴りを制すように、幸之介に呈された苦言がよみがえる。
(いや、違わないだろ。藤仁が俺の手を握る理由に、『不安』以外、何があるんだよ)
 芦雪はかぶりを振った。これほど明白な理由は他にない。この推測は間違っていない。何一つ。これまでもそうだった。
 ──でも、もし。
 もし、それ以外の理由があるとしたら、藤仁は何と答えるのだろう。
 未知への好奇心と恐怖が混じりあい、芦雪の心音は高く低く波打っている。薄く吸った息を深く吐き、時間をかけてなだめていく。
 内なる音が小さくなる頃、芦雪はようやく、惑う視線を男へ戻した。
 ガタ、と戸が開く音がした。芦雪の目は、思わず背後に向かった。
「おや。お客さまがいらしたとは……。気がつかず失礼いたしました」
 締め切られていた店の戸を開け、芦雪を見上げていたのは、ひとりの老婆だった。
 背を少しばかり丸めた彼女は、細い目で藤仁にも視線をささげる。最後に、結ばれたままの二つの手に目を留めると、老婆は何かを心得たのか、大きく戸を開けた。
「さぁさ、どうぞこちらへ。……雨が止むまでの短きあいだでも」
 老婆は招きの言葉をその場に残し、薄暗い店奥へと戻って行った。
「……藤仁。せっかくだし、中に入れてもらおう。このままじゃ、お前も俺も風邪をひきそうだし……」
 店の者であろう老婆の気遣いに甘えようと、芦雪は藤仁の手を引くが、彼は開かれた戸の奥を見つめ、動こうとしない。
「藤仁? どうかしたか?」
「……君は……」
 藤仁は何かを言いかけ、それを飲み込む。やがて彼は長い睫毛を伏せると、「……中に入ろう」と、ぎこちなくも頷いた。
 店の中へ入ると、二階へ続く階段が目に入った。雨のせいか店奥は暗く、上階の先は闇に包まれている。
 芦雪と藤仁は揃って土間に履物を脱ぎ、板の間に上がる。老婆の行方を探し、芦雪が視線を巡らせれば、階段のすぐそばに設けられた小部屋の窓から、老婆が顔を覗かせている。彼女は、近寄る芦雪に茶を乗せた盆を差し出して言った。
「二階座敷の蓮の間が空いております」
 老婆はそれきり何も言わず、盆が芦雪の手に渡ったのを見届けてから、そそくさと部屋の奥へ引っ込んでしまった。
 茶と部屋の名だけ残し姿を消すとは、随分と粗雑な案内である。そのうえ、客に茶を運ばせるなぞ。雨宿りにしばし屋根を借りるだけとはいえ、芦雪は妙な引っ掛かりを覚えた。
(いや、そもそも何か……。店の造りに、このやり取り……どこかで見たような……。なんだっけ……?)
 二、三年ほど前の記憶だ。さほど過去のことではない。確か幸之介と一度、そこを訪ねたような──。
 朧気な既視感に首を捻っている間に、藤仁は芦雪から盆を取り上げ、颯爽と階段に足を掛ける。段板が軋む音に我に返り、芦雪は慌てて男のあとを追った。
 老婆に示された部屋は、階段を上がってすぐに見つかった。襖を開け、すぐさま視界に飛び込んできたのは、部屋奥に設けられた大きな肘掛け窓である。
 窓の障子は閉められており、かすかに雨の影を透かしている。恐らく、障子の向こうには遠く不忍池が広がり、美しい蓮花の景色が一望できるようになっているのだろう。
 ──なるほど、だから蓮の間なのか。芦雪は暢気に考えながら目を降ろし、次の瞬間に息を止めた。否、止まったと言った方が正しかろう。
 二枚重ねの敷布団に、たたまれてもなお目に華やかな夜着、ふたつの朱塗りの箱枕。そのそばには水さしと空の茶碗に加え、薄墨の椿が描かれた薬包が置かれている。見慣れた一式が何を示すかなど、口にせずとも明白である。
(ちょっと待て……。ここ……盆屋だったのか!?
 江戸では、見合みあい茶屋の名で知られる場。茶屋は茶屋でも、いわゆる男女の逢瀬に使われる茶屋である。見合茶屋は、恋仲の男女に限らず、男色や関係を公にできぬ者たちが肌を合わせる場でもあった。先刻、老婆が芦雪らを見て得心がいったように店に案内したのも、そういった店の特性に起因しているに違いない。
(あぁ……。だから、藤仁は店に入るのに躊躇してたのか……)
 芦雪は片手で顔を覆った。そうとは知らず、なんという場に藤仁を誘ってしまったのか。偶然、雨宿りのために借りた軒先がそうだったとは言えど、申し訳がたたない。
 雨音が沈黙を強めていたが、藤仁は部屋のありさまを前にしても何も言わなかった。
 空気がかすかに揺らぐ。雨の匂いに混じって、藤花の香りが芦雪の鼻先をくすぐった。
 藤仁は無言のまま部屋に足を踏み入れ、畳に盆を置いて端座する。行灯あんどんの明かりが薄闇に浮かび、男の横顔をぼんやりと照らしていた。
「……君も部屋に入れ」
 常よりも低い声音が、芦雪を促す。藤仁が今何を考えているのかすら、芦雪には見当もつかない。
 芦雪は生唾を飲み込むと、おずおずと部屋に入り、襖を閉めた。
 何の気なしに藤仁の前に座ってはみたが、身に絡む視線が何やらいたたまれない。場は刻一刻と二人の気配のみが濃くなるばかりで、芦雪の内で理由もなく焦燥が募った。
 何か口を開ける理由はないだろうか。思考を巡らせた時、芦雪は思い出したように懐から手拭いを取り出し、藤仁の頭にかぶせた。
「あっ、雨宿り! できて良かったな! 風邪ひく前に俺が拭いてやるから、ちょっとじっとしててな!」
 芦雪は、手拭い越しに藤仁の頭に触れ、許可なく彼の髪紐をほどく。丁寧に、わざとらしく時間をかけて、男の髪から露を拭っていく。
 目の前の世話に集中するうち、芦雪はふと、これは好機なのではないかと思い至った。
(藤仁と二人きりで腹を割って話したかったわけだし……。よく考えてみれば、これは案外、怪我の功名なんじゃないか?)
 運の良い事に、今は雨音以外、藤仁と己を隔てるものもない。これならば、きっと互いに思っていることを吐露できるのではなかろうか。
 芦雪は思案を深めながら男の髪から手を離し、今度は彼の耳や首元に布地を添え変えた。
「あ、こら。動くなよ、拭けないだろ」
「ん……、それは……君が……」
「言い訳しない。ほら、水吸ってるだろうし、着流しも脱げ。風邪ひくぞ」
「っ、いい、自分で脱げる……!」
 藤仁は芦雪の手を腕で押しのけ、少し迷うような仕草で着流しを脱ぎ始めた。珍しく素直だな、などと感心しつつ、芦雪も自身の濡れた小袖と袴を脱ぎ、襦袢じゅばん一枚の格好になる。
「っ、へ、へっくし!」
「……君こそ、風邪をひきそうじゃないか。熱はないのか。発作は?」
 藤仁は芦雪の襦袢の袖を引き、くしゃみを放った芦雪を不安げに見上げている。
 相変わらず、藤仁は情の厚い男だ。互いの仲が険悪になろうとも、芦雪への気遣いを決して忘れない。彼のささいな優しさは、芦雪の身に再び微熱を灯した。
「ん、たまたまだよ。ちょっと鼻がむずむずしただけ。発作も大丈夫だ」
 胸板をどんと叩き、芦雪は藤仁に笑みを向ける。しかし、藤仁は納得するどころか、深い吐息を落としただけだった。あまりに暢気な返答に、呆れてしまったのかもしれない。
「……その手拭い、少し貸して」
 固く引き結ばれた唇が開いたと同時に、手拭いは無骨な手に渡る。芦雪の視界は、瞬く間に水浅葱の襦袢の色に染まった。
 壊れものに触れるように、藤仁は芦雪の髪に手を伸ばす。やがて今紫の髪紐が音もなくほどかれ、畳の上に落ちた。
 水を含んで束になった芦雪の髪が、手拭いをまとう手に梳かれていく。衣擦れの音には藤仁の呼気がかすかに混じり、芦雪の耳に一抹の心地良さを与えた。
 芦雪は瞼を閉じ、夢うつつの淡いに意識をゆだねる。耳に馴染み始めた音はいつしか遠のき、強まった雨音のみが場を満たしていた。
 芦雪の髪に触れる手は、未だ落ち着いたものだった。雷は現れていないものの、内心、藤仁は怯えていないだろうか。
 思って、芦雪が瞼を上げた時のことだった。
「芦雪」
「ん?」
「どうして、君は昨日……俺と蓮見に行きたいだなんて言ったんだ……?」
 ──どうして?
 芦雪の裡で、凪いだ心がざわめき立った。
 藤仁の疑問はもっともだろう。彼と芦雪の縁はとうにほつれ、先日から今まで、二人の仲は険悪なものになっていたのだから、藤仁の中では、蓮見に誘われるいわれはない。
 その理由を詳らかにするのは簡単だ。当初の予定通り、芦雪は「藤仁が抱える本当の気持ちを知りたかったからだ」と言えば良い。そしてそのまま、互いに腹を割って話す場にする。藤仁が口にした問いは、芦雪にとって願ってもないもののはずだったが、いざその言葉を投げかけられると、苛立ちを覚えていた。
「どうしてって……それは……、お前と話したかったから……」
「なぜ?」
 重なる追及に、今ほど眼前の男が憎らしいと思ったことがあっただろうか。
 濁りのない眼差しが、純然たる問いが、真っ直ぐに芦雪を射抜いている。芦雪の琴線は不快な音を奏で、やがてぷつりと切れた。
「……なぜ? そんなの、お前が俺を避けるからに決まってるだろ! いや、全部俺が悪いんだけどさ!」
 止まらなかった。止めようがなかった。これを聞いて、あれを話して、こう返されたらこう言ってと、これまで慎重に積み上げ考えてきた芦雪の計画は、全て無と化していた。
 藤仁が瞠目しているのも当たり前だ。それに構わず、芦雪はこの際ままよと言い募った。
「『そばにいなくて良い』ってなんだよ! 俺のことが嫌いになったなら、はっきりそう言え! 突き放せよ! なんで今みたいに中途半端に優しくするんだ! その癖、自分から離れたら離れたで傷ついたような顔しやがって! もうわけがわからん!」
 堰切った想いは濁流となり、藤仁という岩肌に当たっては砕け、玉と散っていく。
 虫のいい話だ。芦雪はげんを重ねながら自嘲した。これまで歪んだ関係を肯定し、またそれが解消される時、己は抵抗もしなかったというのに、藤仁の行いだけをなじるなぞ。
 芦雪こそ糾弾されるべきだった。むしろそうして欲しかった。
 藤仁はただ小さく身じろぐだけで、やはり何も言わない。それが余計に、芦雪の苛立ちを煽った。
「幸之介が来てからはますます機嫌は悪くなるし! なんなんだよ一体! 幸之介がお前に何かしたのか!? 俺のことが嫌ならあいつにあたるなよ! 俺に直接言え!」
「っ、それは……」
「幸之介は俺の大切な幼馴染で……! こんな俺を見捨てずに、小さな頃からずっとそばにいてくれるような、優しいやつなんだ……。本当に、優しいやつなんだよ……。だから……あいつとお前が仲良くなれたら、どれほど嬉しいだろうって、俺は……」
 芦雪の頭を覆っていた手拭いが落ち、藤仁の手も離れていく。行き先を見失った男の手は、芦雪の吐露を拒絶するように、宙を掴んでいた。
 ──喉奥が痛い。目元が熱い。視界の水面はゆらぎ、麗美な男の口端が歪んで見える。
(なんだか……毒を飲んだみたいだ……)
 言葉として形にしたあとでさえも、芦雪は不安でたまらなかった。隠してきた本心をひとに晒すことは想像以上に恐ろしく、また苦しみを伴うものなのだとも、初めて知った。藤仁はどう思っているかと、彼の心に思考を馳せては、胸元を掻きむしりたくなった。
 芦雪は襦袢の袖で眼をこすり、もう一度藤仁の顔を見つめるが、彼が芦雪を見つめ返すことはない。藤仁は、茫洋とした眼差しを畳に下ろすと、静かに口を開いた。
「……あぁ、そうか。君は……そんなに幼馴染殿のことが好きか……」
 平坦な声音が、外界の雨音を消す。
 言葉の終わりがほどけ、男の影がゆらりと揺れる。宙をさ迷っていた手が、すがるように芦雪の肩を掴んだ。
「君のためにわざわざ江戸に来て。揃いの髪紐をつけて、君の隣にいるのが当たり前みたいに笑って。俺はそれが許されるあの人のことが嫌いで、憎くて憎くて……心底……」
「藤仁……?」 
「俺は……! 俺には理由がなければ……君のそばにいられないのに……!」
 血を吐くような、とは、今の藤仁のことを言うのだろうか。芦雪のみを捉えた黒鳶の視線は、いつしか力なく芦雪の膝上に落ちていた。
(藤仁も……俺と同じだったのか……?)
 取引がなくとも、理由がなくとも、ともに在りたい。けれどその資格を持ちえないからこそ、ともに在れる理由を欲しているのだと。
 それは芦雪の持つ想いの形とは違えど、幸之介のように親しき友として、芦雪のそばにいたいと、強く想ってくれていた。そう思うことは、果たして自惚れになるだろうか。
(お前は今、何を考えている……?)
 確かなものを求めて、藤仁の頬にあえかに触れる。
 嫉妬。苦悩。哀惜。暗鬱を湛えた瞳の奥底で、それらに似たものたちが輪郭をなくし、溶け合い、芦雪を見上げている。
 激情に抗えないのか、黒鳶の水面はほのかにゆらぎ、花のかんばせは今にも儚く散ってしまいそうだった。
 刹那、男の眼が獰猛さを取り戻す。驚く間も与えられぬまま、いつしかそれは芦雪を見下げていた。やわい布団の感触を背が受け入れて初めて、芦雪は藤仁に組み敷かれているのだと気づいた。
 黒鳶の髪尾がしなだれ落ち、芦雪の頬を撫でながら世界を閉ざしていく。地を叩く水滴の音は既に遠く、今は互いの吐息のみが、芦雪の耳朶をやわく食んでいた。
「……抵抗、しないのか」
「抵抗して欲しいのか?」
 とうに肌に馴染んでいる男の香りに身をゆだねながら、芦雪は彼の問いに答えた。
 小さき火花を煽り、焔となるのを待ち望む風のように。本当の想いを、願いを言ってくれとこいねがい、芦雪は続けた。
「理由が欲しいなら、雨のせいにしろよ。いつもみたいに。我慢も恐いものも全部忘れて、俺だけを見て、俺をめちゃくちゃにして、二人で気持ちの良いことだけに溺れれば良い。それでお前の気が晴れるなら、俺はどうなってもいい。……可愛いお前のためなら、俺はなんだってできるんだ」
 本心を覆う花びらを、ひとつひとつ落としていく。ひとたび緩んだ理性は、これまで口にすることすらできなかった芦雪の本音を、いともたやすく形にした。
 それが、投げやりのげんにも聞こえたのだろうか。冴えた男の容貌が、苦悩に歪んだ。
「どうして……どうして君は、いつも自分を大切にしない!? 諦めたように俺を受け入れる!? 俺が年下だからか? 庇護すべき対象だからか? だから……俺を突き放さないのか……?」
「突き放さないって……なんだよ……。俺はただ、お前の……」
 ──お前のそばに、いたいだけなのに。
 真意が輪郭を持つその前に、芦雪の唇は、藤仁のそれによって乱暴に塞がれた。
「っ、ん……」
「……っは」
 芦雪の想いなど聞きたくない。そう言わんばかりの口付けだった。一瞬、口内で舌先が触れ合ったが、絡み合うことはない。角度を変えて何度も互いの境目をなぞり、食み、吸い、二人の隙間を銀糸が繋ぐ。しばしの戯れを経て、藤仁の唇はようよう離れていった。
 冷えた眼差しが降り注いでいる。黒鳶の瞳に、不安定な情は見えない。ただ、諦観だけが静かに揺蕩たゆたっていた。
「もういい……」
 藤仁は漫然とした様子で己の襦袢を脱ぎ捨て、また芦雪の襦袢さえも邪魔だと言いたげに剥ぎ取る。彼は抜け殻となった自らの着流しに再び手を伸ばすと、重なる布地の波間から、ひどく見覚えのあるものを取り出した。
 行灯あんどんの橙色に映し出されてもなお、光艶を返す千歳緑。帯にするには短く、髪紐にするには長いもの。
 それは、かつて芦雪の髪を結い上げ、また写楽へ報酬として渡した髪紐であった。 
 あれだけ「着けられない」と言っておきながら、何故、今になってそれを芦雪の前に持ち出すのか。
 ある種の胸騒ぎに駆られて、芦雪は咄嗟に口を開いた。
「ふじ……」 
「黙って」
 芦雪の制止は遮られ、藤仁に掴まれていた両手首は髪紐によって固く戒められる。
「……全部、全部。君のせいだ」
 藤仁の作った影が、自由を失った芦雪を覆い尽くす。真意を紡ぎ、想いを伝えるはずの唇は、再び隙間なく塞がれていった。 
 芦雪は抵抗しなかった。男の自棄を、横暴を、全て受け入れた。晒したばかりの本心が嘘ではないと、証明するためだけに。
 理解し合うための言葉はない。欲と熱を孕んだ露のみが、二人の間を行き交っていた。


 一体、時の境目をいくつ越えたのだろう。
 疑問に思いはしても、時の鐘が鳴った回数など、今の芦雪には必要ないものだった。
 肘掛け窓の障子を透かす陽はなく、目はとうに淡い明かりの色に慣れている。地を叩く雨も弱まるばかりか勢いを増すばかりで、今が昼なのか、はたまた夜なのかすら、芦雪には分からなかった。
「ん、はぁ……は、あっ……!」
「は、……っん……!」
 雨音の隙間を縫うように、部屋の中で、二つの喘ぎ声と肌の触れ合う音が響く。
 自由を奪われた芦雪の両手は、布団の上に投げ出され、抵抗の意志は快楽の渦に消えている。藤仁に背後から腰を掴まれ、高く上がった尻に彼のものを抜き挿しされるたび、芦雪の思考は白く染まった。
「ふ、ふじ、ひと……! も、う……」
「まだだめ」
「や……っ、い、き……!」
 ぬめりけを含んだ水音が、何度も耳奥を突く。一定を保った動きに、芦雪の肉びらはそよぎ、微弱な快感を生んでいる。
 藤仁の手が芦雪の陽物を這い、溜まった欲を引き出そうと上下するが、こうして芦雪が訴えると、途端に手は離れていく。そのたび、芦雪の下腹に積み上げられた小さな昂りは、強い快楽を求め、ますます藤仁の肉棒に吸いつくのだ。
 これが延々と繰り返され、芦雪の理性はこと切れる寸前だった。
「あ、あ! も、い……──っ!」
「……っ、く……!」
 芦雪の腰が小さく何度も跳ね、中は藤仁の陰茎を食い締める。男の吐息が芦雪の背に落ちると同時に、中には欲が吐き出され、満々と輪郭を広げていく。それは、藤仁と繋がったところからあふれて、やがて芦雪の内腿へと伝った。
 一方、芦雪の先端から本来吐き出されるはずの白濁はなく、透明な液だけがぽたぽたと滴り落ち、敷布を濡らしている。涎にも似たそれは、十分に満たされない欲求に泣き喘いでいるようだった。
 藤仁は長い陽物を一度引き抜くと、芦雪の身体を天へと向けさせる。薄い影が芦雪の身に落ち、寄せられた男の唇に、芦雪は迷いなく吸いついた。
「っ、あ、ふ……」
「は……」
 口内を我がもの顔で這う舌に合わせて己の舌も絡め、藤仁の露を自ら手招く。奪ったそれを、喉を鳴らして飲み込めば、半端に積み上がったままの欲が、ひとときでも満たされたように思えた。
 ──でも、まだ。
(まだ……足りない……)
 曖昧な思考に導かれ、芦雪は二人の隙間で硬さを取り戻している藤仁の肉棒に、己のものを擦り付ける。渇いた心と身に甘雨を与えようと、精一杯に腰をよじった。
 そんな見え透いた求めを跳ね除けるように、藤仁の身体は無情に離れていく。両手が戒められているせいで引き止めることも許されず、芦雪は口端に藤仁の余韻を伝わせながら、みっともなく泣きすがった。
「あっ、やだ……! まって、もっと……」
「だめ」
「なんで……っ! や、あ゛ぁ……!」
 やわく緩んだ後孔が、再び藤仁によって押し広げられ、ぱちゅ、と耳慣れた音を弾く。
 揺さぶられるたびに声が漏れる。相変わらず煽るように屹立にも触れられるが、達しそうになると手は離れていく。
 高ぶった欲を吐き出すことも許されず、芦雪は涙を流しながら乞うた。
「も、と……っ、もっと、さわって、ふ、じ……っ!」
「……っ」
「ね、だし、たい……おね、が……!」
 満たされない快感に、理性はとうに消えている。触れてくれないのならもっと奥を、と芦雪は無意識のうちに腰をくねらせ、開いた両足を藤仁の腰に回して彼の身を引き寄せた。
「あ、あっ……、はぁ、んっ……」 
「ふ……。随分と、行儀が悪くなったな……」 
「ち、ちが……っ……」
 何が違うというのだろう。口は否定しても、相反する身体は藤仁から搾精しようと、男の象徴をやわく食んでいる。
 藤仁はそんな芦雪を前に薄く笑み、褒美を与えるように一際強く奥を突く。塞がれていた最奥が開き、藤仁の先が入り込んだ。
「あ! あ゛ぁ……っ、きもち、い……」
「っん……!」
 求めていた強い快楽を得、頬が緩む。藤仁は跳ねる芦雪の身体を押さえつけ、自らの欲を吐き出さんと腰を振った。
 しばらくして、最奥からほど浅い場所まで藤仁の先端が抜かれていく。引き留めようと芦雪は思わず中を締めたが、それは杞憂だった。硬く張った陰茎は、芦雪が好む腹側のしこりを擦り始め、再び芦雪を揺さぶった。
「ぁ……! ま、た……中、で……」
「ろ、せつ……!」
 悦楽に耐えようと、芦雪は両足で藤仁を強く抱きしめる。本能のままに咥え、また肉びらで舐めるたび、藤仁の形がありありと分かって、芦雪の欲求はついに頂点に達した。
 腹中が咥えたものを微弱に絞め続けていたせいか、ほどなくして中を濡らされる感覚が頭に入り込む。
「はっ……は……」
 荒い息をこぼしながら、藤仁は汗ばんだ身体を離す。昂った彼の陽物は白い糸を引きながら、芦雪の後孔からゆっくりと引き抜かれていった。
 もう満足しただろうか。形は違ったが欲しいものを手にし、芦雪が肩で息を放っていると、芦雪の垂れた陰茎が、長い指に包まれた。
「な、に……? もう……」
「触ってと言ったのは君だろう……」
「ちが……っ、いま、いきたく、な……! ……う、あ゛ぁ……!」 
 芦雪の淫蕩な前は、瞬く間に芯を取り戻す。藤仁の手のひらが色付いた亀頭を撫で、親指の腹は執拗に芦雪の裏筋をなぞった。
「あ、あ゛ぁ……ん……──っ……!」
 芦雪が好んで善がる場所に、数多の刺激が送られていく。陰茎が上下に一際強く扱かれた時、芦雪の身は悦びに震えながら、ようやく吐精した。
 出ようともがく欲が無理矢理に押さえつけられていたせいか、鈴口を濡らす白は色濃い。それは玉となってとろとろと溢れ、藤仁の手を汚しながら、芦雪の屹立を伝っていった。
 口端に自身のものともわからぬ唾液を伝わせながら、芦雪は果て続けていた。
 藤仁は己の手に放たれた白濁を満足気に口に含み、深い息を落とす。何を思ったか、彼は千歳緑の戒めをほどくと、芦雪に自由を返した。 
 芦雪の両手は白と汗を吸った敷布に投げ出されるだけで、藤仁への反抗はない。今は身体を弛緩させ、内に根付いた快感の熱を逃がすことで精一杯だった。
 は、は……と、身体中で息を放つ。自由とともに戻りつつある理性に咎められ、情けなさで死んでしまいそうで。芦雪は両腕で視界を覆った。
(嫌い……嫌いだ……)
 未だ残る快感とやるせなさに支配され、己が何を言いたいのか、何を言いたかったのかも分からない。何故、涙があふれて止まらないのかすらも。何もかもが滅茶苦茶だった。
 思考する間すら与えられぬうちに、芦雪の腕は取られ、刹那の薄闇は再び明かりに染まる。依然冷めやらぬ獣のような獰猛な眼が、じっと芦雪を見据えていた。
 ──どうして話が伝わらない? 想いが伝わらない? 想いが聞けない?  
 芦雪は自身を制御することもできず、膨らんだ激情を男に叩きつけた。
「藤仁なんか……藤仁なんか……っ、大嫌いだ……!」
 芦雪の口をついて出たのは、藤仁への拒絶だった。
 ──こんなに好きなのに。愛おしいのに。本当に嫌いなのは自分自身だ。欲に溺れ、何もかもを諦めようとする自分が。想いに形と名を与えられない自分が。待ち受ける未来を恐れ、「好きだ」と告げられない自分が。何よりも嫌いだ。
「俺は好き」
 雨音が凪ぐ。芦雪の裡を荒れ狂う嫌悪の波は、瞬時に鳴りを潜めた。
 濡れた視界が徐々に明瞭になる。眼前の男が、一心に芦雪を見つめているのがわかった。
「俺はずっと、君に出会った時から……。君だけが好きなんだ……」
「ふ、藤仁……? 何言って……」 
「どうすれば、この想いが伝わる……? 俺が君を心から愛していると……君はわかってくれる……?」
 藤仁の紡ぐ、飾り気のない言葉ひとつひとつが何を意味するのか、理解できなかった。
 真っ直ぐに芦雪を射抜く眼差し。頬に添えられた手。想いを告げる低い声。その全てが、これは都合の良い夢ではないと、確かに断じていた。
「ずるい……。藤仁はずるいよ……」
 芦雪の応えに、男の手が小さく跳ねる。添えられた温もりが離れようとしているのが分かり、芦雪は逃がすまいと、己が手を重ね合わせた。
「俺だって藤仁のことが好きなのに……! ずっとずっと隠して、諦めて、今さら言うつもりもなかったのに……!」
 止まったはずの熱が目元へと舞い戻り、昂った芦雪の心を揺さぶる。
 藤仁は何も言わなかった。慟哭にも似た芦雪のげんを静かに受け止め、ただ驚いたように目を見開いて、手を伝う芦雪の涙に見入っていた。
「お前がそんなこと言うから……っ、俺ばっかり……、俺だけが、もっともっとお前を好きになるんだ……!」
 芦雪はやっとの思いで述べると、藤仁の首元に腕を巻き付け、男の身を強く引き寄せた。
 ──藤仁がずるいなどと、どうして言えたのだろう。彼が抱えた思慕を知って初めて、全ての心を吐露できたというのに。芦雪は己の身勝手さを恥じ、藤仁の顔が見れなかった。
 遠のいていたはずの天と地を繋ぐ水音は、いつしか部屋を満たし、沈黙を守る二人を包んでいる。
 藤仁の身がゆっくりと離れていく。ほどかれ、布団の上に落ちた芦雪の手に男の手が重ねられ、待ちわびたように指先が絡む。乱れた黒鳶の髪が再び芦雪を閉じ込めて、熱を含んだ視線だけが、狭い檻の中でもつれ合った。
「藤仁……。俺、お前のそばに……いてもいい……?」
 絡めた芦雪の指は、かすかに震えている。芦雪はそれを叱咤するように力を込めながら、もう一度、藤仁に問うた。
「理由がなくてもお前のそばに……俺、いてもいいかなぁ……?」
 頬には涙の軌跡が這い、目は潤んで、鼻先は赤く染まっているはずだ。きっと今の芦雪の顔は、常とはかけ離れたひどい様相を呈しているに違いない。
 ──けれど、けれど。自分は今、精一杯、笑えているだろうか。男の隣に並び立つに値するだろうか。
 芦雪はただ、藤仁の答えを待った。
 刹那の間と音のない視線が、静かに二人をつないでいる。やがて藤仁は指先にやわく力を乗せると、迷うように、赦しを請うように、切れ切れに言った。
「……いて、くれるのか……」
「だからっ、いたいんだよ、俺が! お前の隣に! いてもいいかって俺が聞いて……」
 言葉は続かなかった。芦雪の身体は藤仁によって引き寄せられ、息が詰まるほどに強く、抱きしめられていた。
「いて。俺のそばに……」 
「……当たり前だろ……」
 何度重ねたかも分からぬ藤仁の身体に、ようよう腕を回す。
 そうして初めて、偽りと沈黙で覆い隠されていた二つの心が、ひとつに重なったように思えて。芦雪は頬に一筋の涙を落としながら、深い安堵と喜びに唇をほころばせた。


 地面を冷たく打つ音は、いつしか音色を変えている。
 雨滴を含んだ雲が消えつつあるのだろう。今では、天の川にも似た穏やかなせせらぎが、芦雪の耳朶を食んでいた。
 夜着に紛れた、肌に吸いつくような温もりが心地良い。春花の香りと覚えたばかりの多幸感に身をゆだねたまま、芦雪は瞼を上げた。
 薄く艶を返す鎖骨に、陰を刻んだ喉仏。布団の布地には黒鳶色の波紋が描かれ、芦雪の視界を埋める。芦雪が身じろげば、頭の後ろに回された無骨な手も同様に小さく動き、肌と肌が隙間なく触れ合った。
 ──もう少し、このままで。
 そう言われているようで、芦雪の頬は自然と緩んだ。
「藤仁……」
「……どうした?」
 男の名を呼ぶと、耳慣れた声が返される。そこには常とは異なる甘さが混じり、ひどく優しい。それがたった一人、自身に向けられているものだと自覚して、芦雪は一抹の面映ゆさと喜びに満たされた。
 藤仁への愛おしさを改めて噛みしめる。隠す必要もなくなった感情を唇に宿らせたまま、芦雪は再び口を開いた。
「いつ帰ろうか……」 
「……雨がやむまでは……ここで……」
「ふふっ。そうだな……。じゃあ、雨がやんだら……蓮を見ながら二人で帰ろう……」 
 これまでのように、雨を待ち焦がれることも、やまないでくれと切願する必要もない。雨が上がったとて、これからは藤仁の隣に在れる。
 そう理解してはいても、雲間から光が差せば、何をするでもなくただ漫然と互いの肌を触れ合わせている今は終わってしまう。それはやはり、芦雪には名残惜しく思われた。
 藤仁も、今が続いて欲しいと願っているのだろうか。芦雪は伺いをたてるように、夜着から出た足先で藤仁のそれに触れた。
 男の足先は芦雪の戯れを受けとめ、ゆっくりと擦り合わせる。分かたれていた二人の足がゆるく絡むと同時に、藤仁はどこか満ち足りた微笑をこぼしていた。 
 これまで芦雪に示してきた拒絶の色は、とうに消え失せている。己が受け入れられたのだという事実に、芦雪の心は、寄せては返す波のように浮き足立っていた。
(でも……。どうして藤仁は、これまで俺を避けてたんだろう……)
 互いに抱える思慕を打ち明けたがゆえに、長い間、藤仁と己は好き合っていたのだと知った。ならば何故、藤仁は取引を解消したあと、芦雪を避け始めたのか。
 先刻こぼしていた言葉から推測するに、芦雪と同様、理由がなければそばにいてはならないと自身を戒めていたがゆえなのだろうか。
 薄く溜まった固唾を飲み込んで、芦雪は静かに問うた。
「な、藤仁。……どうしてお前は、俺のことを避けてたんだ……?」
 眇められていた切れ長の双眸が、虚をつかれたように開かれる。男はしばし目を惑わせていたが、芦雪の視線に観念したのか、やがて睫毛を伏せて応えた。
「……君は優しいだろう。今日のように、取引がなくても俺の横暴を受け入れるほど。理由なく君のそばにいると、君の優しさにどこまでも甘えてしまいそうだったから……。欲深い自分が恐ろしくて、でも君の行く道を邪魔するような真似だけはしたくなくて……。結局、君から離れる以外の方法が思い浮かばなかった」
 藤仁はそっと瞼を上げると、「それと……」と遠慮がちに続けた。
「すまない……。君の幼馴染殿に無礼を働いて。……羨ましかったんだ。無条件に身も心も君のそばにいられる彼のことが。隔てる壁もなく、同じ目線で対等に在れる彼が……」
 切々と紡がれる告白は、芦雪の脳裏に幼馴染の苦言をよみがえらせた。
 ──ひとの心なんてもんはな、膝を突き合わせて話してみれば、案外単純だったりする。何を考え込んでいたんだろうって馬鹿らしくなるくらいな。
(つまり……。幸之介が来てから無視が悪化したり、当たりが強くなったりしてたのは……幸之介に嫉妬してたから?)
 幸之介の言う通りだった。芦雪の歪んだ認識が、これまで事を難しくしていたのだ。
 何も言わない芦雪が呆れているとでも思ったのか、藤仁は己を恥じるように、頬をほのかに染めていた。
「俺は、どうしたって君より先に歳を重ねることはできない。それに、君のように皆に心を配れるほど、精神が成熟しているわけでもないから……。何も口にせずとも、互いに通じ合えるほど歳月を共にしてきたと分かる二人が羨ましくて、眩しくて……。それがどうしようもなく苦しくて……」
 藤仁はすがるようにして、芦雪を強く引き寄せる。芦雪の肩口に顔を埋めたまま、男は今にも消え入りそうな声音で言った。
「……どこまでも自分が子どもっぽくて、本当に嫌になる……」
 嫌わないで、と言われているようだった。
 何を嫌になることがあるのか。これまで押さえ込んできたのであろう想いを滔々と口にする藤仁を愛おしいと思えど、それを厭うことなどありはしない。惚れた弱みとはつくづく恐ろしいものだと、芦雪は苦笑をこぼした。
「ばーか。そこがお前の可愛いところだろ」
「それは……俺が年下だから……?」
 切なげに絞り出された疑問に、芦雪は均整のとれた胸板をやわく押し返すと、かすかに揺れる黒鳶の眼を見つめて答えた。
「違うよ。藤仁だから可愛いと思うし、お前が欠点だと思ってるところも、俺は愛おしく思うって話」
 大丈夫、と藤仁の額に口付けを落とす。一方、自身に降る慈雨に藤仁は少し不服そうだ。それがまた可愛らしいのだと思ってしまうあたり、芦雪はもはや引き返せぬ境地に至っているようだった。
(あぁ……幸せだなぁ……)
 雨中に浮かぶ、愛おしき泡沫の時間。自然と垂れる眦を藤仁に向ければ、彼はそっと顔を寄せて、芦雪の唇に己のそれを重ねた。
 やわい感触が輪郭をなぞり、戯れに食む。水音を含む前に藤仁の影は遠のき、恋慕を孕んだ眼差しは一心に芦雪を映していた。
 恋い慕う者の温もりと穏やかな雨音に包まれるうち、芦雪の意識はうつらうつらと夢の淡いを揺蕩たゆたい始める。
「眠いのか……?」
「ん……。ちょっとだけ……」
 指の長い手が芦雪の頭を撫で、優しく髪を梳く。その手つきは、芦雪が熱に苛まれている時のものと何ら変わりない。
 まるで、藤仁が芦雪を大切に想ってきたこれまでは、事実だと言われているようで。芦雪は小さく笑みを浮かべた。
「なぁ、藤仁……。寝物語をしてくれないか……」
「寝物語……?」
「眠るまで……お前の声を聞いていたいんだ……」
 残りの時間を眠って過ごしてしまうのは、もったいないことのように思えたが、今の芦雪の身体は、ひどく重かった。どうせ意識を手放すのなら、幸せに浸ったままが良い。
 思って、芦雪は藤仁の手に頬を擦り寄せてねだるも、彼は少し考えあぐねているようだった。ならばと、先刻男に欲を注がれ、今も満たされたままの己の腹に彼の手を触れさせれば、流石に罪悪感に駆られたらしい。
 藤仁は芦雪の髪に指を通したまま、掠れた声で物語を紡ぎ始めた。
「……今は昔。公方さまが京のみやこにおわしたころ。山の緑も深きところに、四郎二郎という怪画絵師の少年が暮らしておりました」
「なんだ、『怪画絵師と墨愛づる姫君』か。俺がお前に聞かせてやった時と同じだな」
「別にいいだろう。……そらんじれる寝物語なんて、松乃が好きだったこの話以外にないんだ。我慢してくれ」
「ふふ……。お前、小さい頃もちゃんと子守りしてたんだなぁ……。子どもの時の藤仁もお松も、さぞ可愛かっただろうに。見たかったな……」
 芦雪の揶揄からかい文句に、藤仁は無視を決め込んだようで、再び芦雪の髪を指で梳き、物語の続きを静かにたぐった。
「……いなくなってしまった怪画の友、小鳥を探すため、四郎二郎は旅に出ることにしました。お供は、四郎二郎が生命を吹き込んだ神鹿しんろく、鬼神、白鳳凰の怪画たちです。彼らは力を合わせ、四郎二郎の弱き身体を道中守り、傷を癒し、また困難に挫けそうになる四郎二郎の心を支えました。山を越え、川を渡り、ひとつの季節を終えた時のことでした。慣れぬ長旅が祟ったのか、怪画たちはひとり、またひとりと倒れていきます。四郎二郎は助けを求めて方々を歩き、やがて、静かな山あいに佇むひとつの屋敷を見つけました」
 抑揚のない、静謐をまとう声色のせいだろうか。もしくは、頭を這う指の動きに心地良さを感じているせいなのだろうか。芦雪の意識は、いよいよ輪郭を失い始めた。
(これから……四郎二郎たちは……どうなるんだっけ……)
 芦雪の頭の中で、記憶の墨滴が落とされていく。初めは思考の紙に滲みができるだけだったが、いつしか藤仁の声が手となって筆を握り、落ちた墨で一人の少年と四つの怪画、加えて一人の少女のを描きあげていった。
(あぁ、そうだ……。四郎二郎は、その屋敷で小鳥と再会して……。小鳥を助けてくれたみつ姫に……墨愛づる姫君に出会うんだ……)
 墨愛づる姫君。またの名を、みつ姫。
 彼女は、帰路に迷ってしまった四郎二郎の小鳥と、また倒れてしまった他の怪画たちを助けた心優しい少女である。
 みつ姫は、怪画である小鳥たちと言葉を交わすだけでなく、怪画たちが負った傷をも癒す、不思議な力を持っていた。
(俺……みつ姫が怪画たちを癒す場面が、一等好きだな……)
 芦雪は、藤仁の声によって描かれていく脳裏のみつ姫を、じっと見つめる。
 彼女は細い手首に巻かれた木綿を迷いなくほどき、滴る血を墨に数滴落とすと、勇ましく筆を手に取り、まるで紅の錦繍を重ね織るように、怪画たちの傷を血墨で塞いでいく。
 見ず知らずの者に手を差し伸べ、自ら身を分け与えるように愛を注ぐ彼女の強さは、幼い頃からの憧憬そのものであり、また今でも芦雪が手を伸ばしているものだった。
(俺がゆかり殿に憧れたのも、彼にみつ姫の姿を重ねたからなんだろう……)
 藤仁の声で形作られた絵筆が、過去の面影を静かに消していく。芦雪はずいぶんと重くなった瞼を薄く開いた。
 不明瞭な視界には、穏やかに弧を描く藤仁の唇が映る。それに何故か安堵して、芦雪はほっと息を吐いた。
「……眠れないか?」
 物語を織る声が止まり、芦雪の頭に回った手が頬に添えられる。「だいじょうぶ……」と意味の通らない返答を投げれば、頬への温もりは、名残惜しげに離れていった。
 行灯あんどんの薄明かりが藤仁の腕に陰を乗せ、宙に浮いた彼の手元を淡く照らしている。
(傷跡……)
 細く小さな一筋の隆起が、藤仁の手首を這っている。それも最近できたものではなく、古傷と呼べるものだ。これまで雨の薄闇に紛れて肌を重ねていたためか、はたまた余裕のない交わりをしていたせいか、芦雪は藤仁に古傷があることを知らなかった。
 今になって思い返してみれば、藤仁は不安になると手首を握る癖があった。誰のものともしれぬ四魂に襲われていた、あの夜の日もそうだった。あの時の藤仁は、手首を握る、というよりは、この傷跡を覆っていたのやもしれない。
(みつ姫みたいな傷……。嫌な思い出でもあるんだろうか……)
 男の身体に刻まれた過去。それが何を意味するのか、芦雪が聞くべき時は今ではない。
 だがもし、これまで誰にも明かせず、今もずっと苦しんでいる記憶なのだとしたら。
「芦雪……?」
 戸惑う呼び声に応えることなく、芦雪は藤仁の手首に触れ、傷跡に口付けた。
 息を飲む音が空気に溶け、雨音に紛れて消えていく。瞠目する男を胸元に引き寄せて、芦雪はそっと彼の頭を撫でた。
「お前が怖いと思うもの全部から……俺が守ってやるからな……。ずっと……お前の……そば、で……」
 祈りにも似た願いと決意は、果たして届いただろうか。曖昧な視界は重い瞼に閉ざされ、芦雪の意識は、胸元をかすかに濡らす熱とともに、夢の中に落ちていった。