第二十三筆「嫉妬」
松葉色の袖端が、空気を含んでひらりと舞う。廊下の薄闇にも品の良い色が踊り、芦雪と幸之介の行き先を優しく導いていた。
「こちらが居間です。朝昼夕の食事は、居間にて皆でとりますので、本日の夕餉も時間になりましたらおいでください」
「承知した。丁寧にありがとう」
幸之介の固い礼にも、松乃は微笑を崩さぬまま頷き、再び先を歩いていく。少女と見慣れた男の背を見ながら、芦雪はある種の懐古に駆られていた。
(江戸に来たばかりの頃を思い出すな……。俺も、お松に案内してもらったっけ)
幸之介の背中が、過去の己と重なる。かの日も、写楽に扮した藤仁の取り計らいにより、流屋に身を置くことが決まったのだ。異なる部分があるとすれば、此度は松乃の提案であるということぐらいである。
今思えば、かつての藤仁の強引さも、琳也と番頭が不在である絵屋の状況を憂いてのことだったのだろう。妹や母を大切に想う彼にとって、困り果てた二人を目にする日々は懊悩に満ちていたはずだ。奉公先を探していた芦雪が尋夢庵を訪れた偶然は、不意の天の助けだったに違いない。
(……つくづく、俺は運が良かったんだな)
どのような縁も、偶然の重なりにより紡がれる。どちらかの糸に綻びがあれば、交わり結ばれることはない。藤仁との出会いと繋がりは、まさに己が運にあやかったものだった。
その結び目も、もうすぐ解けて消えてしまうのだろうが、初めから固く結ばれていたわけでもない。たった一瞬交わっただけの糸先を、芦雪がただ一人、すがって引き留めていただけだ。糸先のほつれに気がついていたのにも関わらず、無理矢理に結んだ。それが今、元の形に戻るだけのこと。再び結び直せるやもしれぬなどと期待してはならないし、それを寂しいと思うのも傲慢でしかない。
(江戸に来た目的は、ゆかり殿を見つけて絵試を受けるためであって、好いた者のそばにいるためじゃない。……やっと、念願叶ってゆかり殿に絵の指南を請えるところまできたんだ。全てが手に入らないのは当たり前だ。諦めて、ひとや未来に期待しないのは得意だろ。それを藤仁にするだけ。……簡単な話だろう)
形だけの取引が解消されてから、何度この言葉を反芻しただろう。言い聞かせただろう。
頭では十分に理解していることを、心だけは未だ拒絶し続けている。
(本当に……簡単な話だったら良かったのに……)
一体いつから、かように諦めが悪くなったのか。藤仁との縁だからこそ、諦めたくないと足掻いてしまうのか。どちらにせよ、醜いことに変わりはない。
芦雪は二人に気付かれぬよう、そっと肩を落とした。
「あら、兄上。作業はよろしいので?」
床板の軋む音が、いっせいに鳴りをひそめる。幸之介の肩越しに映ったのは、青褐色の着流しだった。その麗美な眼差しは、怪訝に曇っている。
「藤仁……」
思わず、芦雪が一歩踏み出せば、幸之介の腕に阻まれる。藤仁の視線は、瞬く間に苛立ちを含んだものに変わった。
「……そちらの御仁は?」
「駒井幸之介だ。うちの
松乃や芦雪が口を開く前に、幸之介が淡々と名を名乗る。それが余計に癪に障ったのか。藤仁は、眉間に深い陰を刻みながら言った。
「うちの……
吐き出されたのは、幸之介の言葉をなぞっただけのものだった。男が発したのはそれきりで、常の通り沈黙を身にまとい直している。
一方、松乃は藤仁と幸之介を交互に見比べ、何故か口元の笑みを深めていく。その面持ちは崩さぬままに、彼女は幸之介に向けて「申し遅れました。兄の藤仁です」と簡潔に己が兄を紹介した。
平生の松乃らしからぬ表情に、芦雪の焦燥は募るばかりだ。場が剣呑としている理由すら、理解が及ばなかった。
思考を巡らせているうち、芦雪はふと、藤仁が警戒心を露わにしているのも当然だと気付いた。松乃や芦雪がともにいるとはいえ、屋敷の中を見知らぬ者、ましてや関係性も不明瞭な者が闊歩していれば、不審にも思おう。芦雪は慌てて幸之介の隣に並び立った。
「……紹介が遅れて悪い! 幸之介は俺の幼馴染なんだ。俺の両親の頼みで様子を見に来てくれたみたいでさ。しばらく江戸に滞在するんだよ。あ、
「知っている」
芦雪の説明を最後まで聞くことなく、藤仁は冷然と言い放った。
(知ってる……? それって、幸之介が俺と幼馴染だってことを? それとも幼名を? あれ? 俺、幼名について言ったことあったか?)
真意を問いただすように、今一度藤仁を見つめる。けれど、彼は視線を床に伏せるだけで、相変わらず黙したままだった。
「そういうことですから、兄上。幸之介様には先しばらく、うちに滞在して頂きますね。……芦雪様と積もるお話もおありでしょうから」
松乃は藤仁にそれだけ言うと、迷いなく彼に背を向け、芦雪と幸之介に向き直った。
「お待たせして申し訳ございません。お部屋をご案内します。客間を……」
「いいよ、お松。幸之介には俺の部屋に寝泊まりしてもらおう。わざわざ用意してもらうのも悪いし」
同意を求め、横目に幸之介を見れば、彼はやれやれと肩を竦めた。
「構わん。お前の寝相の悪さにも慣れてるしな」
「ほっとけ」
余計な一言が癪に障り、芦雪は隣の肩に身をぶつけたが、当人は「痛いな。本当のことだろうが」と懲りもせず嫌味を垂れるばかりだ。加えて足先を踏みつけてやると、彼は一睨みしたのちに口を閉ざした。
とても成人した男とは思えぬ、幼年の
松乃は、愛らしい小さな笑みをいくつもこぼしながら頷いた。
「では、芦雪様のご提案通りに。これから芦雪様のお部屋に」
「松乃」
幾分やわらいだ場を、冴えた声音が一閃する。三対の視線が束になり、藤仁へと向かったが、彼は眉ひとつ動かさなかった。
「客間にお通ししなさい」
「でも……」
「芦雪の御客人だ。……失礼のないように」
藤仁は反論の余地すら与えず、話は終わったと言わんばかりにその場から去っていった。「あれが藤仁殿、ね……」
恐らく画室へと戻ったのであろう男の軌跡を目で追い、幸之介は彼の名を呟いた。
幸之介にとって、藤仁の第一印象は、言うまでもなく最悪なものとなったはずだ。
とはいえ、先の姿はあの男の本質ではない。冷淡な面持ちの下には、必ず深い優しさが隠されている。幸之介を客として、丁重に扱うようにと述べたのが良い例だ。
藤仁の不器用さに苦笑しながら、芦雪は幸之介の肩を軽く叩いた。
「悪いな。あいつ、今作業中で気が立ってるみたいなんだ。いつもはもう少し……、いや。無愛想なのはいつもと変わらんか」
「ふん。どうせ、お前が何かして怒らせたんだろ」
「うるさいな」
再び小突き合いが始まり、廊下は途端に騒がしくなるも、松乃だけは藤仁が消えた先を見据えたままだった。
「本当に、わかりやすいこと……」
「ん? どうかしたか?」
「……いいえ。何でもございません」
松乃は先刻までの微笑を取り戻し、「お部屋にご案内いたしますね」と軽やかな足音とともに客間へ向かっていった。
流屋に訪れたひと時の賑やかさは、夜更けとともにすっかり寝静まっている。日本橋は薄藍に包まれ、静かなものだ。
空の彩は、月明かりのもとで刻一刻と表情を変えている。やがて月が沈み、地平であたたかな光が瞬けば、江戸の空は美しい
「お松。飯を
陽が顔を出すよりも前に目を覚ました芦雪は、袖を上げて台所に立っていた。
「はい、大丈夫です。お二人分のお弁当ですか?」
「そうだ! 今日は一日、幸之介と江戸を散策するからな」
「ふふ。それは、めいっぱい楽しまねばなりませんね」
松乃は芦雪の跳ねる声を優しく受け止め、小さく笑む。昨日から一つ増えた膳の並びを改めて見下ろす彼女の面持ちは、どこか満足気だ。
身内を歓迎されて嫌な気はしない。むしろ、己との間に引かれた他人の境界が解けていくように思われて、芦雪の口端も自然と上がった。
芦雪は音の外れた鼻歌を口ずさみながら、流しへと移動する。用意した手桶の水に手を浸し、わざとらしく水面を波立たせて戯れる。しばしの間を置いて手を引き上げ、十分に水を切ってから白米を少しばかり取ると、白がまとう湯気ごと掌中に閉じ込めた。
固くならぬよう、米の表面にそうっと力を被せ、形を与えていく。自身にとっては郷愁を誘う俵型に整え、手を開けば、思い描いた通りの握り飯が姿を現した。
(惜しいなぁ……。黒胡麻があれば完璧だったのに)
京の握り飯は俵型で、表面に黒胡麻を散らしたものが主流だ。味噌を塗って焼いた江戸の握り飯も捨て難いが、此度は幸之介も口にする。
どうせなら、ともに故郷を懐かしみながら話に花を咲かせたいと思うのも、今ならば許されよう。
(生憎と黒胡麻は手元にないし……。残念だが、今回は海苔を巻くとするか)
芦雪は二つ目の握り飯を作るべく、追加の白米を手で包みながらそう思案した。
静けさが場に満ちる。その間にも、海苔で巻いた握り飯がひとつ、ふたつと行李に並んでいく。白き小さな山々は峰を連ね、あっという間に一人分の握り飯ができあがった。
(これから幸之介の分の握り飯を作って、味噌漬けの大根と
松乃の手を借りながら見よう見真似で拵えたが、初めてにしては良い出来栄えではなかろうか。芦雪はひとり胸を張った。
ふと、握り飯の峰々に薄い影がかかる。松乃が様子を見に来たのだろう。
思って、芦雪が満面の笑みで顔を上げた時のことだった。
「……君が台所にいるなんて、珍しいこともあったものだな」
切れ長の瞳が、冷え冷えとした眼差しを芦雪に注いでいる。唐突に投げられた言葉は苛立ちを孕み、低い声音をいっそう重たいものにしていた。
「藤仁……。今日は早いんだな」
芦雪は瞬時に平静を装う。歪みかけた口端を必死に持ち上げ返答を待つも、藤仁が問いに答えることはない。目下に並ぶものを一瞥し、眉根をひそめていた。
確かに、芦雪が領分外である台所に足を踏み入れるのは珍しいが、それは藤仁も同様だろう。
そもそも、藤仁が明け方に目を覚ますことの方が稀である。「珍しい」とは、まさに今の藤仁にも言えることだ。
嫌味とも取れる
「……弁当を作ってたんだ。今日は一日中、幸之介と江戸を散策するから。これから幸之介の分の握り飯を作るところでさ。というか、お前こそどうして台所に?」
藤仁は何も言わない。薄い唇は固く引き結ばれ、黒鳶色の眼は、芦雪が作った握り飯の並びをじっと見つめている。
「なんだよ?」
ひらり、と男の眼前で手を振る。陰を含んだ瞼が僅かに伏せられたかと思えば、藤仁は足早にその場から去っていった。
(なんだったんだ……?)
藤仁の真意が分からない。否、あの男の心の機微に関して分かったことはほとんどなく、理解が及ぶとしても、ある程度の時を経てからだ。
白飯を見下ろしながら芦雪が小首を傾げていると、水面の跳ねる音が耳端を掠める。どうやら、外の
松乃は膳を運ぶため、居間にいるはずだ。とすると、音の主は藤仁だろう。手でも洗っているのだろうか。
その時、先刻去ったはずの男が
藤仁は流しの手桶にしばし手を浸し、引き上げる。妙に既視感のある光景だと散漫に思考している間に、彼は手の水気をきってから芦雪が取り分けた白飯を取った。
節のはっきりとした両手が白を閉じ込め、音もなく力を与えてはその形を整えていく。片手の蓋が開かれれば、江戸の民が愛する握り飯が現れた。
刹那の間をともない、芦雪はようよう藤仁の横顔を見上げた。
「手伝ってくれるのか?」
「違う」
明瞭な否定が間髪入れず繰り出されたが、藤仁の手は動いたままだ。
白い粒だったものが藤仁の手によって端正な
それが居心地悪く思えたのか、藤仁はため息混じりに言った。
「……朝餉が冷めてしまうだろう」
「朝餉?」
「君の手際。幼馴染殿のことを想って、丁寧に作るのは結構なことだがな。このままだと、松乃たちが居間で待ちくたびれてしまいそうだから」
それを世間では「手伝う」と言うのではないのか。藤仁は嫌味のように述べたが、これでは芦雪の言葉を肯定しているのと同義だ。
(素直じゃないやつ……)
ここ数日、藤仁とはぎこちないやり取りが続いていた。芦雪はそれに気落ちしては、「諦めろ」と己に言い聞かせていたが、こうして彼の不器用な優しさを節々で見かけるたび、封じたはずの淡い期待がどうしたってよみがえる。
いっそ、思い切り突き放すなり冷たくするなりして欲しかった。完璧に諦められる何かが欲しいとさえ思った。
芦雪は湧き出た自嘲を振り切るように、行李に向き直る。行儀よく並んだ握り飯の脇に、味噌漬けの大根をはじめとするおかずを黙々と添えていった。
自身の行李に詰め終わったところで、次に幸之介のものに視線を落とす。藤仁によって理路整然と並べられた小さき山々をみとめて、芦雪の思考ははたと動きを止めた。
(あれ……? 藤仁のやつ、握り飯作るの上手くなってないか……?)
流屋に来たばかりの頃や、花見の折に目にした彼の握り飯。その輪郭はひどく曖昧で、歪とさえ取れる形をしていた。
三角と俵を混ぜたような、不格好な丸み。当時は慣れないながらに握ったであろう男の姿を想像しては、面映ゆくなったものだ。
一方、眼前にあるものは江戸で馴れ親しまれた形に美しく整えられている。芦雪の知らぬところで、料理の鍛錬でもしたのだろうか。
「終わったぞ」
藤仁の声に我に返り、目下に意識を向ける。そこには二人分の弁当が並び、楚々として芦雪を見上げていた。
無骨な手は再び流しの手桶に沈んでおり、静かに水面を揺らしている。歪む水鏡が藤仁の表情を映す前に、彼はさっと手を引き上げて水を拭った。
「……っ、藤仁!」
男の袖を引く。
「ありがとうな。手伝ってくれて」
たとえ、その瞳に己が映らずとも。芦雪は一心に藤仁を見上げ、礼を述べる。
愁眉な横顔がかすかに。音もなく。芦雪を振り返る。
視線が交わることはない。藤仁は芦雪の礼に頷くこともせず、広い背を向けたまま去っていった。
江戸の家並みが眼下に広がっている。遠く地平を覆う海は夏の陽を反射してきらめき、帆を張り波をたてる舟らを穏やかに見守っていた。
「で、どうだ?
「まずまずだな。
「ふふっ。言ってろ」
六十八もの石段を越え、芦雪と幸之介が辿り着いたのは、
江戸を一望できる物見台には風が吹き、芦雪の汗ばんだ肌を冷ましていく。炎天を忘れるほどの涼やかさがひどく心地良い。芦雪は東屋の
(ここに来るのも半年ぶりか。……早いもんだな)
かつて、広大な緑地を覆っていた白雲の如き桜の花々は、今や見る影もない。青々と茂った
当時の花見客の賑わいもなく、今では芦雪ら以外の参拝客も片手で足りるほどで、すっかり閑散としていた。
愛宕山は、春は桜、秋は月を愛でる場とも聞く。わざわざ青葉を見にやってくるもの好きは、幸之介のような観光客ぐらいなのだろう。
物見台の端には、
茫々たる江戸の町並みを前に、幸之介は浮き足立っているようだった。後ろ姿といえど、彼は実にわかりやすい。
芦雪は小さく笑みをこぼしながら、声を張った。
「幸之介! 景色も良いが、そろそろ飯にしないか!」
男の背中が小さく身じろぐ。振り返った幸之介と視線が絡み、芦雪は大きく手を振る。彼は何故か、呆れたように肩を竦めて、ようよう芦雪のもとまで戻ってきた。
「ほら、ここに座れよ。お前が
大仰な仕草で包みを解き、芦雪は二つの行李を指し示す。幸之介は訝しげにそれらを見下ろしていたが、芦雪が蓋を開けてやれば、ひどく驚いたように目を見開いた。
「お前、料理なんてできたのか? 随分と上手いじゃないか」
「そうだろう、そうだろう! もっと褒めても良いんだぞ!」
胸板を反り返し、芦雪は自身の行李を捧げ持って、中身をひとつひとつ説明し始めた。
「
「……まぁ、そうだな」
珍しく小さく頷きながら、幸之介はしげしげと己の行李を見つめる。やがて、彼は端正な握り飯をひとつ手に持ち、感心したように言った。
「聞いたことはあったが、江戸のむすびはやはり三角なんだな。同じ日ノ本の食べ物なのに、面白いもんだ」
「本当にな。あ、その三角のは藤仁が握ってくれたんだ。俺のは、こっちの俵型」
「……藤仁殿が?」
幸之介は眉根を寄せ、手に持った握り飯を改めて見る。そのさまが理由もなく奇妙に思えて、芦雪はからからと笑い声をあげながら続けた。
「そうそう。幸之介の分まで作るって言ったら、俺の手際が悪くて見てられないって、藤仁が手伝ってくれてさ」
「頂きます」と一言添え、芦雪は己が握った握り飯を手に取って口に含んだ。
固すぎず、量もちょうど良い。海苔の風味ともよく合っている。大根の味噌漬けも口に放りこめば、味噌の塩辛さが米のほのかな甘さと絡み合い、芦雪の舌上を喜びに染めた。
幸之介はやはり、芦雪を訝しげに見ている。そのうち考えることをやめたのか、彼も手にした白米の
「……そういや、流屋に来たばかりの時だとか、以前ここに花見に来た時も、藤仁が握り飯を作ってくれてさ。その時は俵と三角を混ぜたみたいな、歪な丸い握り飯だったんだ。今じゃこんなに綺麗に作れるようになって……。あいつ、いつの間に練習したんだろう」
自然と上がる口角はそのままに、芦雪は脳裏に浮かんだ思い出を友に語った。
幸之介の口が動きを止める。彼は食べかけの握り飯を唇から離し、芦雪に視線を投げた。
「お前……それは……」
「ん?」
「いや……」
「なんだよ。言いたいことがあるなら言え」
なかなか紡がれぬ
「藤仁殿のことだが……。もとより、料理は得意なんじゃないか?」
「……なんだって?」
「
幸之介は、つい今朝がた耳にした話を静かに語り始めた。
──私、お料理は兄上から習ったんです。
朝餉を前に、幸之介が昨晩の礼と味の評を述べた時、松乃はぽつりと告げたのだという。
聞けば、松乃の生まれは江戸ではあるものの育ちは異なり、一年程前に兄を訪ねて
松乃がこれまでどのような環境で育ったのか、仔細は定かではないが、「江戸に来たばかりの頃、流屋には琳也の方針で下男や下女がいないことにひどく驚いた」と述べたことから、彼女は豪商の娘として、大切に養育されてきたのだろう、と幸之介は述べた。
──働かざる者食うべからず。
「若輩者ゆえ、お料理は今でも端を焦がすことがありますが」と付け加えて、松乃は恥ずかしそうに笑っていたと幸之介は淡々と言った。
思えば、芦雪に出される食事は綺麗に整えられたものばかりだったが、松乃自身の食卓にのぼる魚や煮物は、時折焦げていることがあった。芦雪を「客人」として扱うがゆえの、彼女なりの気遣いだったのだろう。
黒く染まった部分を丁寧に端に避けながら食事を摂る松乃に、藤仁が無言のまま、己のものと取り替えてやっていた風景が漫然と蘇った。
「で、藤仁殿が作ったっていう歪なむすびの話に戻るがな。歪というよりは、三角と俵を混ぜた丸に近かったんだろ? それ、郷里を離れたばかりのお前を想って、俵むすびにしようとしてくれたんじゃないのか?」
「え……?」
「だってそうだろう。今日みたいに、手慣れた三角にすれば綺麗にできたものをさ。たとえ歪だったとしても、
幸之介は手に残った握り飯のひと欠片を口に放り、ひとり納得したように頷く。彼は竹筒に入った水を流し込み、一息ついて続けた。
「優しいおひとじゃないか。……まぁ、随分と喧嘩っ早いみたいだけどな。さすがは江戸っ子ってやつ?」
「喧嘩っ早い……? 藤仁が?」
「まさかお前……気づいてないのか……?」
「何が?」
喧嘩っ早いなどという言葉に、藤仁ほど縁遠い者はいないだろう。彼は常に静謐を身にまとい、感情を露わにすることはない。むしろ、ひどく忍耐強い男だ。何を見て幸之介がそう思い至ったのか、芦雪には理解できなかった。
幸之介は、わざとらしく長い息を放ちながら、芦雪を横目に睨んだ。
「ふん。少しは自分で考えろ」
「考えても分かんないから聞いてるんだろ」
「はー、そうかそうか。じゃあ俺からも聞かせてもらうがな。お前、藤仁殿のどこが好きなんだ?」
「っ、ごほっごほっ!」
竹筒の水が喉を塞ぎ、芦雪は思わず咳き込んだ。地には小さく飛沫が散り、色が変わる。
唇から僅かに垂れた水滴を手拭いで拭い去り、芦雪は怖々と幸之介を見た。
「な、なんで……」
「何驚いてんだよ。どうせ恋仲なんだろ。じゃなきゃ、藤仁殿の俺に対する牽制は何だってんだ? お前の首元にあったっていうやつだって……」
「違うっ!」
芦雪の否定が、夏の静けさを震わせる。場を吹き抜けた風は茂る思ひ葉を鳴らし、訪れた沈黙をいっそう重たくさせた。
「藤仁と俺は……そんな関係じゃない……」
「じゃあ、どんな関係なんだ?」
幸之介は問う。淡々と。ただ、事実を知りたいだけなのだと。彼の真摯な視線が、今はただ身を貫くように痛い。
幸之介の言う通り、藤仁と己は恋仲なのだと明言できたなら、どれほど良かっただろう。
弟分と兄貴分、師と弟子、筆頭絵師と目付け役。恋い慕われる者と恋い慕う者。名ばかりの友人関係。……否、快楽と安寧を求め肌を重ねた時点で、友と言うよりも共犯者に近しいのかもしれない。
共に犯した罪がなくなった今、藤仁と芦雪の関係は、一体何と呼ぶべきものなのだろう。芦雪は、幸之介に自ら示すよりも前に、誰かに正しい名をつけて欲しいとさえ思った。
「俺と藤仁は……ただの友人だよ」
結局、芦雪が選び取ったものは、ひどくありきたりで陳腐なものだった。提示された答えに納得できなかったのか、幸之介は問いを重ねた。
「でも好きなんだろ?」
「いや、だから……」
「否定したいんなら。そんな不安そうな顔で『友人だ』なんて言うなよ」
「それは……その……。今は友人ですらなくなりそうっていうか……」
「……藤仁殿と、何かあったのか?」
生唾が喉を伝う。迷うように瞼が二度、三度と芦雪の視界を閉ざした。
芦雪は手にした竹筒を
江戸で藤仁と出会い、思い出を重ねるうち、少なくとも己は彼と友人として仲を深められていると思っていたこと。彼との記憶は次第に不確かな輪郭を持ち始め、彼への恋慕として形を成してしまったこと。弁えようと思った矢先、「そばにいたい」と想う欲に負けてかの男に傲慢な取引を持ちかけ、醜くもそれにすがってしまったこと。
取引が先日になって解消されたことで、藤仁との間柄は随分と冷え切り、彼と話す機会すらろくになくなってしまったことを、芦雪は温度のない小さな声で吐露した。
「だからさ。俺たちには、もう一緒にいる理由もなくて……。藤仁が俺によそよそしくなったのも、俺の自業自得というか当たり前のことで……」
「待て。それ、本当に藤仁殿が言ったのか?」
「何を?」
「『もう一緒にいる理由もない』って。どうせ言われてないんだろ。つまり、今の話は全部お前の推測に過ぎないってわけだ。避けられてる理由もな」
思考が止まる。数日前の声は雫となり、芦雪の脳裏を小さくさざめかせた。
──君が身を挺して、写楽の『顔』を務める必要もない。……雨の日に、俺のそばにいようとしなくて良い。
確かに、「一緒にいる理由もない」と藤仁から直接的に言われたわけではない。それが避ける理由だと明示されたこともなかった。
藤仁が芦雪を避けるのも当然だと思っていた。否、そう思い込んでいた。彼のそばにいても許される資格が、芦雪にはなくなってしまったのだから。
「
芦雪が黙しているのを良いことに、幸之介は言葉尻に怒気を宿らせ、芦雪の悪癖を滔々と言い募った。
事実なだけに、耳が痛い話だ。芦雪の視線は自然と下向いた。
刹那の沈黙が場を漂う。芦雪の顔を上げるように涼風が頬を撫でた時、何度聞いたかも分からぬ呆れの吐息が耳を伝った。
「……一度、藤仁殿と腹を割って話したらどうだ。お前は俺が煮え切らない答えを言うと、今みたいにずけずけ踏み込んで聞いてくるじゃないか。何故、それを彼にしない?」
幸之介の言葉に、芦雪の肩は不自然に跳ねた。
藤仁に真意を聞けない理由。それは単純に、彼と迎える結末を恐れているからだ。
芦雪は、ひとに期待することをずっと恐れていた。ひとを信じ大切になっていく分、のちに深く傷つくのが怖かった。
幼き頃、芦雪が養子として長澤家へ出されたのも、身体が虚弱で、跡取りとして使い物にならなかったがゆえだ。子がいなかった長澤家の両親は、武家の子として使えぬ者を押し付けられたのにもかかわらず、芦雪を実の子のように愛し、大切に育ててくれた。芦雪も、彼らを実の両親のように慕った。
幼心に、もう捨てられたくないと思った。ようやく成された温かな繋がりを失いたくないと。二人の顔色をつぶさに窺い、せめて身体以外のことでは迷惑をかけぬよう、優秀でいようと、芦雪は必死だった。
やがて幾ばくかの歳月が過ぎ、両親から与えられた愛を指折り数えるほど、期待が育った。もしかしたら、彼らは本当に己を必要とし、愛しているのかもしれないと。
蓋を開ければ、結局それも幻想に終わった。
五年前、芦雪を養育することへの報酬として、両親が金子を受け取っているところを見たのだ。彼らはこれまで、受け取った金子で、武家としての体面をどうにか保っていたようだった。
結局、「芦雪だから大切だ」などという甘い理想は、そこにはなかった。ひどくやるせなかった。生きている意味もないとさえ。何より、期待した自分が悪いと思った。
それ以来、ひとから向けられる好意が怖くなった。受け付けなくなった。それでも、どこかで他者を求め期待してしまう自身に嘔気がした。ゆえに、芦雪は与えられた感情に無関心でいるようになった。そのうち、相手の顔色を窺うことが達者になり、また向けられた好意に気付かぬふりをするのが上手くなった。
過去とともに湧き上がる不安に耐えかね、芦雪は肌守りを握りしめた。
「……怖いんだ……。藤仁に真意を聞いた時、あいつとの間に残された最後の縁が、夢のように消えてしまうじゃないかって……」
──もう、誰にも期待したくない。誰かを好きになりたくない。傷つきたくない。幼い頃の自身が膝を抱え、今でも心の片隅で泣いている。叫んでいる。
だというのに、幸か不幸か、神仏の悪戯か。決して失いたくないと、失うことを恐れるような存在に──藤仁に、出会ってしまったのだ。
だからこそ、芦雪は藤仁のことが好きだと肯定すると同時に、彼は庇護すべき「弟」なのだと己に義務を課し続けてきた。そうすれば、彼から向けられた感情や言葉を簡単に否定できたし、また期待せずに済んだ。
「弟だから」可愛いと思える、「弟だから」守る、「弟だから」藤仁も芦雪にすがってくれるのだ、と。全ては、己の心と独りよがりな想いを守るためだった。
幸之介は何も言わなかった。繰り出される言葉を待ちながら恐る恐る顔を上げると、芦雪だけを真っ直ぐに映した瞳がそこにあった。
「それだけで壊れてしまう関係なら、いっそ壊しちまえよ」
「え……?」
「相手の真意を聞いて壊れるような関係なら、ここで壊せって言ったんだ。所詮、藤仁殿とはそれまでだったってことさ」
幸之介は、行李に残された最後の握り飯を頬張りながら、なんてことはないと言ってのけた。
「ひとの心なんてもんはな、膝を突き合わせて話してみれば、案外単純だったりする。何を考え込んでいたんだろうって馬鹿らしくなるくらいな。物事の因果ってのは、必ず当事者にしか分からん事実があるんだ。それを外側の人間がとやかく推測して決めようとするから余計複雑にもなるし、途方に暮れるんだ。……なに、実際に話してみて思うような結果にならなかったら、京に帰ってくればいい。不服だろうが、その時は俺が慰めてやる」
己のものよりも幾分大きな手が、芦雪の頭を撫でる。射抜くような先鋭さがあった眼差しは緩み、含みのない優しさが滲んでいた。
たったそれだけのことで、芦雪の裡を巣食っていた不安はほどけていく。月日を経ても変わらぬ情に促されるまま、芦雪は小さく頷いた。
「よし。なら、善は急げだな。
「はぁ!? あ、明日!? 無理無理無理! 昨日の今日でそれは無理だろ!」
「今さら怖気づいてるのか? らしくないな」
「当たり前だろ!」
芦雪が勢いよく首を横に振れば、幸之介は「やれやれ、世話の焼ける……」と、わざとらしくひとりごちる。何を思ったか、彼は荷の中から数枚の浮世絵を取り出すと、
「選べ」
「は? 何を?」
「いいから」
──幸之介が何をしたいのか、全くわからない。いつ藤仁と話をするのか、それを決めようとしていたのではなかったのか。
芦雪はしぶしぶ視線を下に落とし、並べられた浮世絵を順に見やった。
多色刷りのそれらは、出版された当時、それは華やかに視界を彩ったことだろう。今は幾分かの年月と、大切に何度も見ていたことが窺えるほどの手垢がつき、古ぼけていた。
美しい青海を見渡す愛宕山の風景。夕立に降られる隅田川の大橋。降り注ぐ藤花を横目に、亀戸天神の太鼓橋を下る母子。煌々と照る秋の名月に見守られ、京橋を潜り川を下っていく船頭。どれも江戸では名所と呼ばれる場所が描かれたものだった。
ふと、薄桃の色彩が目端を掴む。思わずそれを手に取れば、芦雪は瞬く間に絵中の風景に釘付けになった。
池に佇む中島の弁天堂を中心に、花浅葱の水面からひとつ、ふたつと数え切れぬほどの珠花たちが茎を伸ばし、顔を覗かせている。池には小舟が浮かび、美しい女人らが舟上で蓮見を楽しんでいるようだった。
(これは……上野の不忍池か……。そうか、もう蓮見の時期だったな)
かつて、尋夢庵の依頼人として現れた春久の姿と、彼が願ったささやかな未来が脳裏を過ぎる。今年も変わりなく花開く蓮を前に、彼は今、何を思うのだろうか。
芦雪が漫然と思考の海に沈んでいると、幸之介は芦雪の手から絵を取り上げて頷いた。
「……不忍池だな。じゃあここに明日、藤仁殿を誘って行ってこい」
「いや、何でだよ!」
「ちっ、察しが悪いな。藤仁殿と出かける理由だろうが! ちょうど今、江戸では蓮が見頃だろ。『蓮見に行こう』とでも何とでも言って、二人で行ってこい。軽率に人に絡んで遊びに誘うのは、お前の
広げた浮世絵を手早く集めながら、幸之介は口を休めることなく続けた。
「二人きりになる時間を作って、腹を割って話せ。緊張するなら酒も飲め。蓮見なら、酒を飲んでも不自然じゃないからな」
「……」
「返事は?」
「無理!」
明瞭な返事が、愛宕山の
幸之介の冴えた目元が、すっと細くなっていく。発言を誤ったかと、芦雪の背筋には冷や汗が伝ったが、気づいた時には既に遅い。
「……なら、こちらにも考えがある」
幸之介は空になった行李を片付けると、芦雪の腕を取り無理矢理に立たせる。芦雪の弱々しい抵抗も虚しく、二人は
閉ざされた暗闇に、一筋の温もりが注がれる。頬にはやや固い感触が添えられ、芦雪の輪郭をやわくなぞった。
「……せつ」
耳慣れた音が遠く聞こえる。それは何を意味するものだったか。不明瞭な意識は沈んでいき、やがて芦雪の身に馴染んでいく。
「芦雪」
音が意味を持った時、芦雪は瞼を上げた。
日の出を告げる鳥のさえずり。障子を透かす朝の眼差し。鼻先を季節外れの藤花の香りが掠め、霞む視界の端で黒鳶色が揺れる。
「藤、仁……? あれ、なんで……?」
「なんでも何も、約束の時間になっても君が起きて来ないから」
藤仁は芦雪の頬から手を離し、安堵したように息をこぼした。
(約束の……時間……?)
藤仁は何故、芦雪の枕元に座っているのだろう。なにより、何故芦雪は、自室で身を横たえているのか。
芦雪は必死に記憶の糸を手繰り寄せるが、幸之介と愛宕山を下山して以降の記憶が断たれ、何一つ思い出せない。いつの間に夜を越え、朝を迎えたのか。
霞む思考を叱咤しながら、芦雪は半身を起こす。傍らに座す男と久方ぶりに視線が絡み、未だ夢を見ているようだった。
「蓮見。行かないのか」
「蓮見……?」
「昨日、君が約束したんだろう」
はて、と芦雪は小首を傾げた。藤仁を誘って蓮見に行けと散々幸之介に言われたが、果たして「行く」と言っただろうか。藤仁を誘った記憶すらないというのに。
頭の奥を、一筋の痛みが襲う。芦雪の思考は灰に染まり、過去の
──ねぇ、藤仁。俺と蓮見に行こう。俺、ずっとお前と一緒にいたいんだ……。
藤仁の首元にやわく腕を回し、甘ったるくねだる己の声と、動揺しきった麗美な男の顔。
ひと月前まで、雨が降るたび吸い合っていた二つの唇が待ちわびたように近づき、重なりかけたところで、芦雪の記憶の
肌に貼り付くような暑さは、すでに逃げ出している。芦雪の身は、冷水を浴びたかの如く、瞬く間に冷えていった。
「……っ、あ、い、行く行く! すまん、すぐ準備するから、居間で待っててくれ!」
訝しむ藤仁を慌てて部屋から追い出し、芦雪は再び夜着の上に倒れ込んだ。
(お、俺は……なんてことを……! それも、お松や幸之介の前で!)
羞恥で頭がおかしくなりそうだった。それもこれも昨日、愛宕山を下山したあと、幸之介と深川で浴びるほど酒を飲んだためである。
間違いなく、幸之介は確信犯だ。「誘う前から緊張しているのなら、ともにお前の好きな酒でも飲んで心を落ち着かせよう」と芦雪に妙な親切心を見せたところで、暴れるほど抵抗すれば良かったのだ。
幸之介は、芦雪の酒癖の悪さを知っている。昨日はそれをまんまと利用された。
酒のせいか、記憶は断片的なものばかりだった。恐らく、幸之介の甘言に誘われ、芦雪は一定量の酒を飲み、誰彼構わず抱きついて甘え始めるという悪癖を発揮したところで、流屋に連れ帰られたのだろう。
(最悪だ……。藤仁にあんな姿を見せたうえに抱きつくだなんて……。お松もさぞかし驚いたろう……。一生の恥だ……。他に変なこと言ってないよな……言ってないよな!?)
布団の敷布に顔を埋め、芦雪は浮いた両足で宙を掻いた。
こうして部屋で悪足掻きをしていたところで、昨夜の出来事がなくなるわけも、藤仁が居間で待っている事実も変わらない。幸之介の思惑通り、蓮見の機会が強引に取り付けられてしまった以上、もはや腹を括るしかあるまい。
覚悟を決めたとて頬の熱は一向に冷めず、芦雪は身支度に移るまでひどく時間を要した。
上野の不忍池といえば、江戸でも指折りの観光名所である。まるで池に浮いているようにも見える中島は、かつて将軍に仕えた僧侶が、琵琶湖の竹生島に見立てて整備した人工の島で、弁天堂が安置されている。
遠き過去は離れ島であったために、弁天堂への参詣は舟が必須だったという。今では島から陸地まで石橋が築かれ、簡単に島へと渡れるようになっている。
中島にかかる石橋を前に、かつて幸之介に語られた不忍池のいわれを、芦雪はぼんやりと思い出していた。
朝五つ〔8時〕だというのに、不忍池の周辺は人々の喧騒で満たされ、随分と盛況だ。
蓮の花が咲くのは、明け方から昼前までの僅かな間であるため、皆一様の時間にこの地に集まるのだろう。芦雪と藤仁は肩を並べ、石橋に足を掛けた。
まるい葉々が水面を覆っている。薄桃の花弁は浮世絵で見るよりも瑞々しく、鮮やかだ。
葉のうえに溜まった露は、雲間に射す陽光を透かし、見る者の心を浄化するようにきらめく。花弁のなりたちをよく見ようと、花々に顔を近づければ、やわらかくも清澄な香りが芦雪の鼻腔をくすぐり、思わず息が漏れた。
(綺麗だな……)
橋の欄干に手を添え、芦雪は蓮花の群生に目を奪われていた。
──藤仁は今、何を考えているのだろう。己と同じく、眼前の景色を美しいと思っているのだろうか。
芦雪は、隣の男を見上げる。花々を映すはずの黒鳶色の瞳は、芦雪を見下ろしていた。
綺麗だとも、美しいとも言わぬ薄い唇は、相変わらず固く閉ざされたままだ。男は視線にわずかな熱を灯して、ただ一心に芦雪を見つめている。
「……っ、き、綺麗だな、蓮の花! 藤仁は毎年見てるのか?」
「……」
「俺、ここまでの群生を見るのは初めてでさ! 不忍池の蓮は江戸一番だなんて言うし、江戸にいるうちに見れて良かったなぁ、なんて。……お前は俺と見に来るの、あんまり気が進まなかっただろうけど……」
「……」
「……何か言えよ」
芦雪は思いつくままに
芦雪の今日の目的は、腹を割って藤仁と話すことだ。互いに何を思っているのか。これからどうしたいと思っているのか。切り出す時機をいかにするべきか迷っているのもあるが、こうも藤仁が頑なに口を開かないとなると、そもそも話が成立せず、今日の計画は頓挫してしまう。見えぬ先を思い、芦雪の心は早くも挫けそうだった。
芦雪の頬に、冷えた感触が伝わる。普段は絵筆を握る男の手が、芦雪に触れている。壊れ物を扱うかのように。その存在を確かめるように、そっと。
親指の腹が、芦雪の目元をやわくなぞる。藤仁の真意を紐解かぬうちに、芦雪の思考は羞恥に濡れた。
「君は……昨日……」
藤仁が何かを紡ぎかけた、その時のことだった。
「かかさま、はやくはやく!」
「おいら、はすのはめし食べたい!」
「こら、待ちな! 走らない!」
芦雪の背後を二人の童が走り抜け、その後を一人の母親が追いかけている。人混みの中、子を見失わないよう焦っていたのだろう。彼女の肩先が芦雪に当たり、不意の衝撃が芦雪の均衡を崩した。
「っ……」
藤仁の手が芦雪の腰に回り、二人を隔てるものがなくなる。肺いっぱいに吸い込んでいた蓮の芳香は瞬時に消え失せ、芦雪の中は藤花の甘やかな香りで満たされていく。
藤仁に抱きとめられたのだと気づいたのは、芦雪が顔を上げた折のことだった。
口よりも雄弁に語る眼差しが降り注いでいる。大丈夫か、と芦雪の身を心配する言葉もなく、ただ視線だけが芦雪を包んでいた。
昨夜のことが尾を引いているのか、足先から頭の先まで熱が駆け巡る。芦雪は均整の取れた胸板を勢いよく押し返し、元の通りの距離を作り直した。
「は、
咄嗟に出た提案だったが妙案やもしれぬと、芦雪は頭の片隅で何度も頷いた。
弁天堂の周辺には茶屋が軒を連ねており、
店によっても
藤仁とどの店にするのか話しつつ、
そうと決まれば、早いに越したことはない。芦雪は藤仁の横をすり抜け、足早に中島へと向かい始めた。
「芦雪、少し待っ……」
言葉が途切れる。不思議に思って芦雪が振り向いた時、頭に一粒の水滴が落とされた。嫌な予感はそのままに、芦雪が目を上げると、曇天は雨滴を含んだものに変わっていた。
石橋は瞬く間に濃い色に塗り替えられ、池の水面はいくつもの波紋を作って、互いの輪郭を溶かしている。
橋を渡っていた人々は、弁天堂へ急ぎ向かう者と陸地に繋がる
(またこんな時に雨か!? くそっ、このまま弁天堂まで急ぐか? だが、この人の量だ。茶屋も混んでいるようなら、雨宿りは難しいだろうか……)
かつては待ち望んでいたはずの天の恵みに、芦雪は舌を打った。
「芦雪」
先刻まで頬や腰に回っていた手が、力強く芦雪を引き寄せる。藤仁は芦雪の返答を聞く間もなくその手を握り、陸地の
「藤仁……その、手……」
「雨宿り。しないとだろう」
池や蓮を打つ雨音は強くなり、周囲や芦雪の声を掻き消していくが、藤仁の低い声音だけは、迷うことなく芦雪の耳に届いた。
藤仁に導かれるまま橋を渡り、先を急ぐ。池の淵に並んだ桜の葉々からは
手を繋いでいるだけだというのに、芦雪の鼓動は理由もなく跳ねている。
(これ以上恥ずかしいことなんて、とうにしてるってのに……。なんで今更……)
芦雪の疑問に答える声はない。雨中に繋がれた手は、ただ静かに二つの熱を灯していた。