銀花のまにまに
幼い頃、神隠しにあったことがある。
妹が生まれた年のことだった。その日の空はどこまでも青く澄み、厚くふくらんだ白雲がよく映えていて。屋敷には絶え間なく蝉時雨が降り注ぎ、鬱陶しいほどの夏の空気が肌にまとわりついていた。
「どうした、まつの。そんなに泣いて」
妹は初めての季節に不安を覚えていたのか、たびたび声をあげては泣いた。彼女の泣き声は広くも人の気配の薄い屋敷によく響き、兄である
「ほら、もうだいじょうぶ。泣かなくて良い。おまえのそばには兄上がいるからな」
赤子のまろい頬を指の背で撫でる。藤仁はぐずり続ける赤子を抱き上げ、夏陰に覆われた縁側に腰を下ろした。
今思えば、その年の夏は随分と忙しない空気に包まれていた。屋敷では常に大人たちの密やかな声が行き交い、藤仁の耳奥を嬲った。
父も不在が多く、屋敷へと戻ってもすぐさま部屋に篭もり、どこか必死な様子で紙面に墨を走らせていた。母においては産後の肥立ちが悪く、床に伏せがちになり、赤子の世話をするのは自ずと七つを迎えたばかりの藤仁と乳母だけであった。
生まれて間もない妹が母恋しさと不安から涙を流すのも、いたしかたないことだったのだろう。
何の力も持たぬ腕で妹を包む。藤仁は彼女の恋しさが遠のくまで、小さき背をよしよしと撫でては揺らした。
だが、溢れては伝う大粒の涙が消えることはない。生まれて半年と少しの年月しか経ていない赤子が、どうして藤仁の宥めに耳を傾けようか。
──仕方がない。乳母に助けを求めよう。
小さな吐息がこぼれる。無力な自分がただ歯がゆかった。藤仁は重くなった腰を上げようと、足先に力を込めた。
「あーあーあー……。盛大に泣かせてるなぁ……」
蝉騒の輪郭がぼやけて、夏の時雨が止む。
夏陰に薄く影が重なる。風鈴の音がひとつ落ちた時、藤仁は顔を上げた。
桜色の唇が春の三日月を宿している。一対の眼は髪と同じ淡墨色に満たされ、慈愛に溢れた眼差しを藤仁へと注いでいた。
兄妹の前に忽然と現れたのは、見覚えのない青年だった。
「だれ……? っ、あ!」
「お松、どうした。……よしよし、大丈夫だぞ」
腕から妹の温もりが消える。藤仁に代わり、青年が松乃を抱き上げたのだ。火がついたような赤子の泣き声は男の声を瞬く間に塗りつぶしたが、彼は慌てる素振りひとつ見せない。手慣れた様子で身を揺らし、愛おしげに何度も松乃の名を呼んだ。
今紫の髪紐とともに青年の髪尾が揺れる。彼は赤子に視線を落としたまま、藤仁に背を向けた。
──人さらい。以前、乳母から聞いた馴染みのない言葉が脳裏を掠める。今にも遠のきそうな銀鼠の背が、一瞬にして思考を凍らせた。
──このままでは、まつのが!
藤仁は慌てて立ち上がり、眼前に佇む細い腰に腕を伸ばした。
「うわっ、なんだよいきなり!」
「人さらいめ! まつのをかえせ!」
「だーーっ! 大きな声を出すな! 腰を掴むな! お松が余計泣くだろ!」
大きな声を出しているのはどちらだ、と藤仁は反論したくなったが、今はそれどころではない。
屋敷の者を呼ぼうと大きく息を吸ったところで、赤子の泣き声がぴたりとやんだ。
手から力が抜ける。青年の肩口に飛びつき彼の腕の中を覗き込めば、すうすうと寝息をたてる顔が藤仁を出迎えた。
「ふふ。やっぱり眠かったんだな……。いくつの時も、お松は可愛い子だ」
花びらがこぼれるような、ひそやかな笑い声。
青年は松乃の背を撫でながら、やはり穏やかな微笑を湛えていた。
「どうして……。わたしがあやしても泣き止まなかったのに……」
「これが兄上さまの力というものだよ、藤仁くん」
青年は薄い胸板を逸らし、得意げに口端を引き上げた。
「兄上さま……? 藤仁……?」
言葉の意味が理解できなかった。青年は一体、何を言っているのだろう。
小首を傾げる藤仁を見て我に返ったのか。淡墨の瞳は大きく見開かれた後、諦めとも取れる色を差した。
「……そうだったな。今のお前は、
「まだ……?」
「そう。お前は藤仁であって藤仁ではない。まだな。この名はお前が大人になる時に、お父上がつけてくれる大切なものだ」
「父上が……? どうしてわかる?」
瞳の
生唾が喉を伝う。場を支配する沈黙に、藤仁は理由もなく緊張していた。藤仁がこくりとそれを飲み込んだ時、青年は静かに口を開いた。
「俺が……人ならざる者だからだよ」
やわらかな春の面影はない。己が発した言葉は正であると主張するように、青年は引き上げた唇に妖麗さをまとわせていた。
透き通るように白い肌。今にも折れてしまいそうなほどに細い腰。淡雪にも似た儚かなげな身体の線。無邪気な笑みに刻まれた陰。
その節々に懐かしさを覚えるのは何故だろう。
物心つくよりも前の、それよりも遙か遠き過去。もしくは、いずれ訪れる時の狭間で。己は彼と会ったことがある。そんな気がしている。
でなければ、この泣き叫びたくなるほどの切なさと哀惜は何だというのだろう。
(このひとは……。きっと……)
きっと、彼は神さまなのだ。人々に春を告げると消えてしまう、季節外れの雪華の神さま。
神としてこの世に顕現しているがゆえに赤子のあやし方を心得ているし、己の未来の名も知っている。彼に不可思議な懐古を掻き立てられるのも、藤仁が生まれ落ちる前、天上で出会っていたからではなかろうか。
きっとそうに違いない。藤仁は幼心にひとり頷いた。
しかし何故、彼は今になって兄妹の前に現れたのだろう。何か伝えたいことでもあったのだろうか。それとも、泣き続ける松乃を見かねて下界へと降りてきたのだろうか。
藤仁が慣れない思案を巡らせている中、青年は縁側に置かれた揺籃の中に赤子を寝かせる。抱きしめるように小さな頭を撫でるその姿は、まさに神さまにふさわしいもののように見えた。
「なぁ、藤仁」
いずれこの身に馴染むであろう名が呼ばれる。まるで心の足裏をくすぐられているようで、藤仁は面映ゆさを覚えた。
「……なぁに?」
おずおずと神さまを見つめる。すると彼は藤仁の前に跪き、一心に藤仁を見上げた。
惑いを含んだ淡墨の水面が優しくさざめく。藤仁は遠く聞こえる蝉騒に意識をゆだね、青年が紡ぐ未来の音をただ待った。
「少しの間だけ……、お前をさらっても良い?」
音の時雨がやむ。青年の髪が風のかたちに揺れて、時節のことわりを外れた水仙の香りが鼻先を掠めた。
ひどくおかしなことを願われている。ひとではなく、神さまに。
ひとの願いを叶えるはずの存在が、何の力も持たぬ幼き者に希っている。願わずとも思いのままに実現できてしまう事柄を、敢えて形にして。
それがどれほど面妖なことなのか、彼も理解しているはずだ。
今にも泣いてしまいそうな顔で笑わずとも。諦観と希望を混ぜた色を浮かべずとも。藤仁に赦しを請わずとも。
神さまだって願いを口にしても良いのだと伝えたくて。何より、彼の心からの笑みを見たくて。
「いいよ」
藤仁は迷いなく、神さまの願いを叶えた。
「で? その後どうしたんだ?」
「しばらく二人でともに暮らした」
「しばらくってどれくらい?」
「三年ほど」
「三年んん!?」
昼寝もはかどる、食後の昼下がり。
縁側にうつ伏せに横たわり、藤仁の思い出を興味深げに聞いていた
「お前それ……。神隠しじゃなくて間違いなく人さらいの類だぞ。よく帰って来れたなぁ……」
「まぁ、色々あって」
藤仁が神さまの袖元から離れて、早十三年の月日が経とうとしている。
既に遠くおぼろげな記憶となっていたが、彼と過ごした時の輪郭は、藤仁の中で未だ息づいている。
悲しいことがあれば素直に泣くことも、人への甘え方も、ちょっとした悪戯の仕方も。全て神さまが教えてくれたことだ。何にも縛られず、ただ心のままに絵を描く楽しさも。
藤仁を形作ったのは間違いなく彼であり、藤仁は彼に救われた。その事実だけは覚えている。
だからだろうか。色褪せ、霞とともに消えてしまったはずの彼の面影を、今でも夢に見る。
彼は今、何をしているのだろう。本当に、彼は人ならざる者だったのだろうか。
「藤仁? どうした?」
「……いや。なんでも」
──君は彼によく似ている。そう口にすれば、君は「一緒にするな」と怒るだろうか。それとも、「顔も覚えてもいないくせによく言う」と笑ってくれるだろうか。
そっと睫毛を伏せる。瞼の裏で、神さまの無邪気な笑顔が蘇ったような気がした。