君の声

 白壁に囲まれた箱庭に、やわい光が降り注いでいる。
 地に敷かれた白の石畳には、草木が宿る隙間もない。その丁寧さが、かえって場の排他性を強調している。かすかな風音すらも、ある種の冷たさを孕んでいるようだった。
 殺風景な箱庭を彩るものと言えば、ここに住まう者たちの窓辺、、だけである。
 金の窓縁に光の粒が触れる。常と変わらぬ朝が訪れてようやく、箱庭の住人たちも動き始める。
(……もう朝か)
 重たげな吐息が空気に溶ける。住人の一人である紫苑しおんは、とこに敷いた布団からようよう身を起こした。
 波紋のごとく広がる豊かな髪を肩口で結わえ、浴衣を脱ぐ。衣擦れの音とともにあらわになるのは、陶器のように滑らかな背中。紫苑はそれを惜しげもなく窓の外へと向けた。
 これから日が沈むまで、一糸まとわぬ背を晒して過ごす。
 箱庭に足を踏み入れた者の視線が、束になって注がれようとも。紫苑には関係のない話だ。
 外に目を向けることもせず、ただ淡々と背中で受け止める。それが箱庭の持ち主との約束なのだから、箱庭の住人である以上は従うほかない。
(さて……。今日も退屈との我慢比べだな)
 今はもう、何も思うことなどない姿勢を保ち、紫苑は薄く笑んだ。


 窓の外では絶えず人が行き交っている。
 姿形は老若男女問わずだが、時折盗み見る限りでは壮年の男が多いように思えた。
 紫苑は箱庭に身を置くからこそ、箱庭がどのような場として機能しているのかをよく知らなかった。そもそも、関心がなかったと言った方が正しいだろう。
 ──いいかい、紫苑。ここは、外の人間にとっては休息の場なんだ。固まった思考や社会的なしがらみから解放されるための。
 箱庭に住み着いて間もない頃、箱庭の持ち主が放った言葉だけが、紫苑の知る箱庭の全てだった。それ以上知りたいとも、興味を持つ必要性も感じなかった。紫苑が為すべきことは、どこにいようと変わらないからだ。
 箱庭の主の言葉をなぞるように、窓のそばには布張りの椅子が等間隔で置かれている。
 そこに日がな一日座って漫然と窓辺を眺める者もいれば、窓奥の住人たちをじっと見つめ、値踏みする連中もいる。片や、窓下の窓辺の名と住人の顔を見比べては、頭を捻って小さくうなる者もいた。
 だが、大半が窓の中を物珍しげに覗くのみで、瞬きの間に箱庭から去っていく。窓辺の前を通る者の数はそれなりに多いはずだが、箱庭はいつもささやきの混じる静謐で満たされていた。
 暇を持て余した紫苑にとって、時折背を打つ音の白雨だけが唯一の楽しみだった。
 高揚を抑えた楽しそうな笑い声や、連れと思考を共有する声、少し恥ずかしそうに吐息をこぼす音。
 自身の窓辺の前でそれらが聞こえると、紫苑は己が存在意義に安堵するとともに、思わず振り返りたくなる。
(……いいな。話せる相手がいて)
 自分にも話し相手がいれば、この百数年と続く退屈にも飽き飽きしないで済むだろうに。
 声の主たちがどのような顔をして、何に対して笑んでいるのかを確かめることも許されず、紫苑の中ではただ、羨望と日々の虚しさが募っていくばかりだった。
「きれい……」
 肌寒い背に声が触れる。
 幼子のようだった。男か女か、その境目もまだ定まらぬ年頃だろう。まるで雛鳥のさえずりのようだ。
 珍しいこともあったものだ。この箱庭に幼子が訪れるとは。迷い込んでしまったのだろうか。
 紫苑は何故か不安に駆られて、ほんの少しだけ頭を動かしかけたが、どうにか理性が勝って動きをとめる。背を窓辺に向けたまま耐えていれば、雛鳥は誰かにさえずりかけていた。
「ねぇねぇ、お母さん。あのね、この……」
「うん? ……あぁ、また随分とおませねぇ……」
 雛鳥の声に寄り添うのは、まだ歳を深く重ねる前の女人の声だった。雛鳥にやわく「お母さん」と呼ばれる彼女は、どうやら母親のようだ。
 雛鳥が箱庭にただ迷い込んだわけではないと知り、紫苑は胸を撫でおろした。親子連れがここに訪れることは、なかなかに珍しい。
「おませ? お母さん、おませってなぁに?」
 雛鳥の母親はほんの少し困ったように間を空けて、己が子に小さく息を落としている。雛鳥はきょとんとした様子で、母の答えを待っていた。
「そうねぇ……。あなたにはまだ早いって意味かな」
 背筋がかすかに震える。慣れた奇異の視線が向けられた気がした。
「……ほら、もう行こう。お父さんが向こうで待ってるから」
「でも……。あのね、お兄さんがね……」
 抵抗する雛鳥の声は徐々に遠く消え、窓辺には再び静けさが舞い戻る。文字通り浩蕩とした場に残され、理由もなく寂しさが込み上げた。
 寂しい、などという感情を心が未だ覚えていたことに驚きながらも、紫苑は髪先を指で弄んだ。


 音もなく戸が閉められていくように、雛鳥との邂逅はそれで終わったはずだった。この先、縁が続くこともないだろう。そう思っていた。
 しかしあの日以降、雛鳥は紫苑の窓辺の前にたびたび佇むようになった。
 母も他の連れもなく、ただひとり。箱庭の静謐に溶けこみ、顔も名も知らぬ幼子はじっと紫苑の背中を見つめ続けていた。
 それが何やら面映ゆいのと同時に、どうせならいとけないさえずりを聞かせて欲しいと思ってしまう。
 ちらつく気配に耐えきれず、紫苑は恐る恐る背後を見やった。
 視線が交わる。雛鳥のものではなく、箱庭を守る「岡っ引き」の眼差しと。
 明瞭な先鋭さに気圧され、喉奥を生唾が伝った。
 決まった時間に番を変わる岡っ引き連中だが、今の岡っ引きは年嵩の女人のようだった。箱庭の隅にある小さな椅子に腰かけ、紫苑を咎めるように見つめている。
(いや……違うか。俺じゃなくて、この子、、、を見てるんだ)
 雛鳥が窓に触れないか、大きな声を出さないか、岡っ引きは警戒しているのだ。加えて、紫苑が窓から外へ逃げ出さぬよう監視しているに違いなかった。
 紫苑ははらはらとした心地に陥り、慌ててもとの姿勢に戻った。
「……ね、お兄さん。ぼくの声、聞こえてる? 今、ぼくのこと見てたでしょ」
 紫苑の肩が小さく跳ねる。
 雛鳥には見えている、、、、、。紫苑が驚嘆の息を漏らす間もなく、雛鳥は続けた。
「きれいな背中と髪だねぇ。お兄さんみたいな髪の色って、くろとびいろ……って言うんだよね? お母さんがこの前教えてくれたんだ! ね、どうしてお兄さんはずっとこっちに背中を向けてるの? 服着なくて寒くない? 動けるのになんでお外に出ないの?」
 ささやき声は徐々に興奮の色を重ねていく。紫苑が応えずとも、雛鳥はお構いなしだった。
「お兄さん、お名前なんていうの? う、し、ろ……あ……さ、ず……? これがお兄さんのお名前?」
 雛鳥が一音一音丁寧に読み上げるそれは、この窓辺の名だ。
 紫苑は小さくため息をついて、背を向けたまま口を開いた。
「……それは窓辺の名だよ。俺の名は紫苑。君は……」
「ぼく? ぼくはゆき、、だよ。お空からふってくる雪に、きぼうの希で雪希ゆき!」
 ゆき。懐かしい二音が、静寂しじまに波を広げる。
 紫苑を産み落とした親も、雪という字を名に持つひとだった。紫苑にすがりつき、愛おしげに触れたかと思えば、深く深く哀しみに溺れていく彼の姿を今でもよく覚えている。
 ──ごめんな、紫苑。
 どうして謝る必要があるのか。紫苑はあるじの願いを叶えるために生を受けた存在だ。むしろ、彼の本当の願いを叶えてやれない己の方こそ謝罪すべきだった。
 言いようのない懐古が掻き立てられる。けれど、どれだけ会いたいと願っても、生みの親とはもう会えない。彼は過去の者で、この世界にはいないのだから。
 紫苑はやはり深い息を吐いて、どこか諦めたように言葉を紡いだ。
「雪希、あのな。ここは静かにしないといけない場所で、この窓にも触れちゃだめだ。俺もここから外に出ちゃいけない」
「どうして?」
「そういう約束、、だからだ。ここで俺とお話しすると『岡っ引き』がやって来て、君を捕まえてしまうぞ」
「おかっぴき? なぁにそれ?」
 幼子が小首を傾げる気配がした。教え諭していた紫苑の口先は途端に弱々しくなる。
「岡っ引きは……岡っ引きだけど……。うーん、そうだなぁ……。悪いことをした奴を捕まえて、牢に入れる人間のことだ」
「悪いことをしたひとを捕まえる? おまわりさんってこと?」
「おまわりさん……? よくわからんが、まぁ悪い奴を捕まえるのがおまわりさんなら多分そうだ」
 紫苑は今一度かすかに頭を動かし、背後へ視線を投げた。
 雪希は男の子のようだ。歳の頃は五、六歳ほどだろうか。少女かと見紛うほどに大きく愛らしい瞳は、僅かに淡墨色を差して輝いている。あるはずのない鼓動が強く脈打ち、紫苑の懐古をいっそう乱した。
(あのひとに……あるじに似ている……)
 紫苑は髪先に絡めた指を離し、胸元を押さえる。
 息が苦しい。湧き上がる不可思議な愛おしさが裡を満たす。わずかに言葉を交わしただけの雪希に生みの親の面影を重ね、かような感情を抱くなど、己はついにおかしくなってしまったのだろうか。
 逃げるように目を動かす。目端を掴んだ岡っ引きの存在にはっとして、紫苑はささやくように述べた。
「……ほら、岡っ引きが君のことを見てる」
「あのひとがおかっぴき? おまわりさんの服きてないけどなぁ……」
「とにかく。ここで俺と話しちゃいけない」
「じゃあ、あのひとがいなかったらお話ししても良い?」
 何を言い出すんだ、と紫苑はつい大声を出しそうになった。だが、道理を知らぬ幼子には知ったことではないようだった。
「あのひとに捕まるといけないから、話しちゃダメなんでしょ? じゃあ、あのひとがいなかったら話しても大丈夫だよね?」
「それは……」
「わかった!」
 一体何が分かったのだろう。誤りを咀嚼し勝手に腑に落ちていることは間違いない。
 紫苑が止める間もなく、雪希はたったと岡っ引きのもとまで駆けて行った。
 雪希が捕まってしまうのではないかと紫苑は気が気でなかったが、彼と岡っ引きは何故か親しげに言葉を交わすと、やがて岡っ引きは箱庭から去っていった。
「ね。あのひといなくなったから、お話ししてくれる? 今、ここにはぼくと紫苑お兄さんしかいないよ」
 雪希に促され、慌てて視線を巡らせる。彼の言うように、確かに箱庭には雪希以外の人間はいなかった。
「……どんな手を使ったんだ?」
「え? あのひとお父さんの知り合いだったから、少しお話ししただけだよ」
「知り合い?」
「うん」
 無邪気に頷く幼子に、嘘や欺瞞といった暗色は見えない。ただ懐かしさのみを含んだ瞳が紫苑を見上げていた。
 胸の裡で、箱庭の主と交わした約束と戸惑いが大きく渦を巻く。けれど、同時に湧く淡い喜色がそれらを隅に追いやってしまった。
「……少しだけだぞ」
「やった!」


 その日を境に、紫苑と雪希は密会、、を重ねるようになった。密会とはいっても、周囲に人の気配がない時に二言、三言、言葉を交わすだけだ。
 今年で七つになる雪希は、普段は「学校」という名の手習に通っているらしい。二人で過ごすのは七日に一度だけで、時間も一刻ほどの短いものだった。
「紫苑兄さん! 来たよ」
 無邪気な笑みをたたえ、雪希が箱庭に足を踏み入れれば、瞬く間に人波が引く。
 というより、雪希が箱庭に来てしばらくすると、天から女人の声が降ってくるのだ。それを聞いて雪希以外の皆が足早に去っていくのである。箱庭の守り人である岡っ引きでさえも。
 雪希の父親は岡っ引きの知り合いだと口にしていたし、彼は箱庭の関係者なのやもしれない。
 二人だけの空間ができあがると、箱庭はいつも雪希の独壇場と化した。
「紫苑兄さん。ねぇ、出ておいでよ。もう誰もいないよ」
「……本当か?」
「うん! ほら、早く!」
 雪希が小さな指で窓辺に触れ、紫苑はようやく姿勢を崩す。警戒するように周囲を窺い、丁寧に浴衣を着直してから窓の外に出た。
 窓辺の前に置かれた椅子にふたり並んで座れば、雪希はたいそう嬉しげに口を綻ばせる。
 その花のわらう顔は、いつも紫苑の心に穏やかなさざなみを起こし、固くなった唇をたちまち緩ませてしまう。
 紫苑はいつしか、彼の笑みが曇ってしまう未来を何よりも恐れるようになっていた。
「……雪希。お前、友だちとは遊ばないのか?」
「友だちとも遊んでるよ。でも、紫苑兄さんと話すのも楽しいから。それに兄さんに会いたいから来てるんだよ」
 小さく鼓動が跳ねる。紫苑はわざとらしく咳払いしてから、ゆっくりと雪希の頭を撫でた。
「お前くらいの子は皆、友だちと一緒に過ごすものだろう。無理にここに来て、俺に構うことはないんだぞ。それに、見つかったらお前が捕まってしまう」
 箱庭の掟を違えている自分への戒め、そして危険な真似をする雪希を想っての言葉だった。
 しかし、幼い雪希にその真意が届いているはずもない。
「……紫苑兄さんまでそういうこと言うんだ」
「なんだって?」
 雪希は拗ねたように唇を窄ませ、宙に浮いた両足をふらふらと揺らして続けた。
「お母さんも友だちも、ここに行くって言うと変な顔するんだ。お母さんは……変な顔っていうか……驚いた顔をするだけだけど……」
 それは当然だろう。ここは外の人間にとって休息をとる場とはいえ、雪希のような幼子がひとりで来るところではない。母親や友人たちの反応ももっともだ。
「でも、お父さんは……お父さんだけは少し嬉しそう。ぼくがここに来れば一緒に帰れるからかも」
 雪希によれば、箱庭に来ると仕事を終えた父とともに帰路につけるようだ。
 箱庭と関係のある父を持ち、更にその力は雪希の一声にまで及んでいる。察するに、彼は父親から相当溺愛されているらしかった。
 実際、雪希はその名の通り、肌は雪華が開いたように白く、少女の如き愛らしい顔立ちをしている。目に入れても痛くないほど可愛がられるのも納得である。
「いつもここに来る時は、お父さんが向こうにある黒猫のカフェでケーキを食べさせてくれるんだ。ここに来れば紫苑兄さんとも話せてケーキも食べれるから、いいことずくめなんだよ」
「けーき……というと、甘味のことだったか。……それ、単に甘味が食いたいだけなんじゃないのか?」
「そんなことない! 紫苑兄さんと話す方が大事!」
「どうだかなー」
「ひどいひどい! ほんとだってば!」
 雪希の頬を軽くつまんで、くすくすと微笑をこぼす。雪希は不服そうに紫苑の胸板を叩き、そのまま不貞腐れてしまった。
(いつ見ても可愛い子だ。でも……いつかこの子も、俺に飽きていくんだろうな……)
 針で刺されたように、小さく胸が痛んだ。
 幼子の雪希にとって、紫苑は箱庭で見つけた物珍しい玩具に過ぎない。窓辺の向こう側で悠久の時を過ごす紫苑にとっても、雪希は都合の良い暇つぶしなのだ。
 そう言い聞かせなければ、不可解な胸の痛みを拭うことはできなかった。
 

 二人の密会、、は、存外長く続いた。
 いつしか時は流れ、雪希は十八になった。幼虫から蛹へ、蝶へと羽化するように、雪希の肢体は紫苑の心を置いてのびやかに成長し、美しい青年へと変わった。
 折に触れて横顔には陰が宿るものの、それでも彼は七日に一度、必ずここを訪れる。それだけは変わらなかった。
 雪希も年頃だ。色々と忙しい日々を送っているだろうに、箱庭に来て紫苑と話す時間だけは無くそうとしない。
 時とともに変わるものが多い中で、繊細に保たれる不変の刹那だけが、ひどく心地良かった。
 今日という日も、常と変わらず二人並んで椅子に座り、取り留めのない話をする。会話の種が尽きたところで、雪希は手に持っていた赤い表紙の本を閉じ、紫苑の目を真っ直ぐに射抜いた。
「紫苑」
「ん? どうした?」
「僕がここに来れなくなっても……。紫苑は、僕のことを忘れないでいてくれる?」
「え……?」
 それはどういう意味か。
 視線で問いかけると、雪希は誤魔化すように微笑んで立ち上がった。
「……ううん。なんでもない。……またね」


 それから、雪希の姿は箱庭から消えた。
 消えた、というよりは訪れる回数が格段に減ったのだ。外の世界で夏と冬が各々訪れ始める時だけ、彼は姿を現した。
「次はいつ会える……?」
 半年ぶりに会えたせいだろう。早々と椅子から腰を浮かせた雪希の腕を掴み、紫苑は思わず問うてしまう。
 何を馬鹿なことをしているのか。雪希には雪希の生活があり、この箱庭へ来るのは義務ではない。身勝手な縛りと願いは、ただ雪希を困らせるだけだ。引き止める理由も資格も紫苑にはない。
 それを理解しているのに、手は名残惜しさを叫ぶばかりだった。
 腕を掴んだまま俯く。雪希は何も言わなかった。
 刹那の沈黙が場を均し、やがて小さな苦笑が紫苑のつむじを撫でた。
「次は……夏かな。蝉時雨が聞こえ始める頃、また来るよ」
 ──俺はお前がいなければ、窓の外に出られないのに。蝉時雨の音なんて、どうやって聞けば良い。
 喉奥が乾く。ひび割れたそこに、醜い切望が這い寄っていた。
 奥歯を噛み締める。決してこぼさぬように。固く、固く。
 雪希の腕から手を降ろし、顔を上げる。また少しばかり高くなった淡墨の眼差しが、ただ穏やかに降り注いでいた。
「……そう、だよな……。悪い、変なこと聞いて。今日はありがとう。じゃあ……また夏に」
「うん。……またね、紫苑」


 それが三年続いて、二つの季節とともに箱庭に訪れていた雪希は、とうとう姿を現さなくなった。夏が来ても、また冬が来ても、彼の輪郭は箱庭になかった。
 ついにこの時が来たのだと思った。きっと紫苑に飽きたのだ。それが今日だった。
 紫苑は一糸まとわぬ背を窓に向け、今日も名も知らぬ者の視線を受け止める。
 静かなのは慣れている。単に、雪希に出会う前の日常に戻っただけだ。
 木漏れ日のように温かな声が背に触れない日が、何日も続いた。紫苑はただ淡々と、窓に背を向けて時を重ねた。
 日常と呼ばれる日々は、より静かになった。何も思わなかった好奇の視線と声音は、いつしか痛みを伴うようになった。
「会いたい……。お前の声が聞きたいよ、雪希……」
 紫苑の呟きは誰に届くでもなく、深い静寂に消えていった。
 

 一体、いかほどの歳月が過ぎたのだろう。変わらぬ虚しい日々は、未だ紫苑の心をすり減らしている。孤独を寂しいと思うようになるなら、いっそ雪希と出会わなければ良かった。
 朝を迎え、平生に倣って浴衣を脱ぐ。何の感情も持たぬままに、紫苑は窓の外へ肌を晒した。
「紫苑」
 かすかに低く、けれど己が名を紡ぐ時だけは、わずかに温もりを宿す声。
 間違えるはずがない。待ち望んでいた音が紫苑の背をそっと撫でた。
 窓の外には、幾度となく思い描いた青年の姿があった。雪華をまとった白い肌に、初冬の日差しを含んだ淡墨の瞳。唯一、紫苑の名を紡ぐ唇は、やわく弧を描いている。
「雪、希……」
「久しぶり、紫苑。……会いたかった」
 雪希は壊れ物を扱うように窓に触れる。周囲への警戒など忘れ、紫苑は窓枠に手をかけ外へと飛び出した。
 己の腰に無骨な手が回る。男の胸板に熱を孕んだ視界を押しつけ、彼の胴に両腕を巻きつけた。
「ふふっ、勢いがいいね。どうしたの、急に抱きついて。今の紫苑、弟みたいだよ」
「うるさい……弟はお前だ……。俺に何も言わずにどっか行きやがって……。心配したんだからな……」
 涙が出るはずもないのに、紫苑は溢れそうになる何かを堪えようと、雪希に回した両腕に力を込めた。
(幻なんかじゃない……。雪希だ……雪希の匂いだ……)
 焦がれ続けた存在が目の前にいる。紫苑の裡は、安堵にも似た喜びに満ちていた。
 雪希はただ、苦笑をこぼすばかりだった。しばし紫苑の背中を優しく撫でていたが、やがて彼はゆっくりと身を離した。
「心配かけてごめんね。でも安心して。これからは、ずっと君と一緒にいられるよ。もう消えたりなんてしない」
 人懐っこく笑う顔は、出会った時から何も変わっていない。それがいっそう、眼前の男は現実に存在しているのだと実感させた。
 だが、何故雪希は「これからずっと」などと断言しているのだろう。間に合わせの言葉ではないのかと怪訝に雪希を見つめていると、彼は首から提げた一枚の札を掲げて見せた。
「ここに戻ってこれるか五分五分だったんだけど……。君のそばにいられる資格がとれたんだ。これでも頑張った方なんだよ」
 札には淡々と文字が連なっている。それが何を意味するのか理解できず、紫苑は首を傾げた。雪希はその表情を汲み取ったのか、「さかい美術館学芸員 住吉雪希って書いてあるんだ」と嬉しげに説明し、わざとらしく胸を張った。
ここ、、……さかい美術館の採用に無事受かったんだ。昔、父がここで上席学芸員をしてたっていう縁もあってさ。晴れて、この春から君を専門に研究する学芸員だ」
「がくげいいん……? それは何をする人間なんだ?」
「んー……。君に世界で一番詳しい人間が僕、ってことかな。君と出会ってから、君から離れることが考えられなくなって……君とずっと一緒にいるためにはどうしたらいいだろうって考えて考えて……。その結果がこれってわけ。父にも憧れていたし、昔から絵も好きだったし、僕にぴったりだと思わない?」
「驚いた?」と破顔するその様は、かつて岡っ引きを追い払ってしまった時のものとよく似ていた。
「紫苑。君の声を聞かせて。離れていた分、たくさん話をしよう。この先ずっと。……僕が生きている限り」
 静けさの中で、雪希が落としたげんの雫が滲んでいく。
(ただの絵でしかない俺とともに在りたいと……。そう言ってくれるのか……お前は……)
 喉奥が痛い。熱い。体内で満ちる何かがなおも溢れそうで怖い。
 けれど、けれど。これはきっと、恐れるべきものではない。雪希とともに分かち合い、また重ねていくものだ。二人の間に、いつか別離が訪れるその時まで。
 今はなきあるじの面影が浮かぶ。彼も途方もない哀しみに溺れ、紫苑にすがるほどに、こうして誰かを想っていたのだろうか。喪失感に苛まれながら、ずっと。
 生みの親は、何故自身をこの世に生み出したのか。ほんの少し前まで理解しえなかったそれが、今だけは分かるような気がした。
「大きくなったなぁ……。雪希」
 男の広い背に腕を回す。返る温もりとやわい力を受け止めながら、紫苑は淡く上がる口端に身を委ねた。