天花の揺籃

 「ゆき兄上。何を読まれているのですか?」
 初夏を告げる雨燕のさえずり。澄んだ幼子の声音。
 耳慣れて久しいそれに導かれ、紙面から顔を上げる。障子を透かした午後の陽光が視界を埋めて、幸之介ゆきのすけは僅かに目を眇めた。
「静夏……。試し着はもういいのか?」
「はい。どれもわたしの丈にぴったりでした」
 幸之介の前に立つ幼子──静夏しずかは、淡い色の布地をいくつも胸元に引き寄せ、はにかむような笑みを浮かべていた。
 今年で齢八つになる彼の成長の早さは、まるで若木のようだ。するすると伸びやかに育つ四肢は、まとう着物の裾を瞬く間に短くしてしまう。
 ──とてもじゃないけれど、繕いものが追いつかなくって。眞魚まおは身体のこともあって、少しずつだったから……。 
 ひと月ほど前、困ったように、けれど我が子の健やかさに安堵の息をこぼしていたのは、静夏と眞魚──今は芦雪ろせつであったか──の母である。
 病弱な兄とは違い、静夏の身体は溌剌はつらつとしたものだ。口から体内に招き入れたものを余すことなく吸収し、いっそ笑えてくる程に日々成長する。
 それに加え、兄が江戸へ旅立ってから身近な話し相手を失い暇を持て余したのか、近頃は手習の筆子仲間に連れられて裏山を駆け回っているようだ。
 幼年らしく元気がいいのは大変よろしい。壮健な身体は金では買えない。兄の眞魚が良い例だ。
 とはいえ、衣を枝葉に引っ掛けただとか、転んだとかで、繕う頻度が途端に増えたのは些か頂けない。彼の母が苦言を呈すのもいたし方ないというものだ。
 腕白さが許される幼年とはいえ、仮にも武家の子だ。彼の兄が不在にしている今、幸之介がその代わりをこなさねばなるまい。
 長澤兄弟への世話焼きが異常であることは理解しているし、それに辟易して長い年月も経つ。けれど、幼馴染らに育てられたこの性分を無くす術なぞ当然持ち合わせていない。
 結局、裡に燻る妙な使命感に身を委ねて、静夏の行いについてどうしたものかと思い悩み半月が過ぎた頃、今度は幸之介の叔母から文が届いた。
 ──息子たちの古着が多分にあるが、知り合いに必要としている子はいないか。
 まさに天の采配。幸之介はすぐさま必要の旨をしたため返事を出した。
 流石は我が父の妹とでも言うべきか、はたまた気が短いと言うべきか。両の手指で日の経過を数えきらぬうちに、叔母の使いの者が従兄弟らの古着を持参した。それが昨日のことである。
 かくして、幸之介は古着を渡すという口実のもと静夏を屋敷に呼び、日頃の行いを振り返らせると同時に、古着の試し着をさせて今に至る。
 かつて従兄弟らが袖を通していたものとは言っても、目立ったほつれもない。彼らの物持ちの良さゆえか、着る機会がさほど多くなかったのか。
 どちらにせよ、新品同様に綺麗なそれらをあてがう静夏は、心なしか浮き足立っているように見えた。幸之介のたしなめに先刻まで頬をふくらませていたのが嘘のようだ。やはり、目新しいものを前にすれば誰でも心躍るものなのだろう。
 あらかた試し着も済んで満足したのか、静夏は着物を畳むのもそこそこに、幸之介の前に立って先の問いを投げたというわけである。
 幸之介は小さく息を吐いて微笑むと、胡座をかいたまま両手を広げてみせる。
 静夏は意味するところを察し、ぱっと花が開くような喜色を表情に宿す。彼は遠慮も戸惑いもなく、幸之介の膝上に座った。
 幼馴染の弟とはいえ、やはりいくつになっても静夏は愛らしい。大人になればいずれ失われていくであろう、彼の素直さと重みを膝越しに感じながら、幸之介は優しく頭を撫でた。
「幸兄上。それで、何を読まれていたのですか?」
 小さな頭が振り返って、幸之介を一心に見上げる。赤墨色の瞳は、夏の川面のように輝いていた。
 血の縁があるわけでもないというのに。こうして何かに心惹かれた顔は、悪戯好きのの男とそっくりだ。 
「……お前の兄上のことが書いてある文だよ」
 一抹の懐かしさと苦笑を口元に宿し、手にしていた紙面をかすかに揺らす。すると、静夏の一対の水面は瞬く間に輝きを増した。 
「兄上の!? 静夏も! 静夏も読みたいです!」
「こらこら、待て待て」
 短い腕が文に伸びるが、紙は軽やかに身をかわすばかりである。届かぬ先に向けて精一杯に手を動かすさまは、やはり愛いものだ。
 ──静夏は名前の通りというか、寡黙的で物分かりの良い子だよ。その分、からかうと可愛いんだ。俺の弟にはもったいない。
 の男が静夏をそう評した時、幸之介は目眩を覚えたのを今でもよく覚えている。
 静夏は確かに賢い子だ。ゆえに、自身が兄の目にどう映りたいか、理想を映すためにはどうすれば良いかを心得ている。
(少なくとも、お前の弟は物静かではない。……そう言っても、あいつは信じないだろう) 
 憧れる兄にとって、優秀で誇れる弟でいたい。
 静夏がひた隠している真意は、結果として現状に似つかわしくない落ち着きをもたらし、「寡黙で聡明な弟」という称号を得た。
 一方で、幸之介の前ではこうして年相応の無邪気さを振りまくのも、彼にとってはある種当然のことなのである。幸之介は取り繕いたい相手ではないからだ。
 幼いながらに二面性を巧く使い分ける静夏には、舌を巻くばかりだった。
(取り繕うことばかり巧くなりやがって……。いくら眞魚に憧れているとはいえ、そこまで似なくて良いだろうに……)
 今は遠く離れた淡墨が、瞼の裏に蘇る。
 捕まえようと手を伸ばしても、指の隙間をすり抜ける髪尾。こちらの口惜しさも、案じる心でさえも振り切ってしまう悪戯な笑み。
 今にも消えてしまいそうな身を分け与えるように、周囲には多分な情を捧げる一方、己に向けられた情には無関心。それでいて、他者を懐に受け入れることにはひどく臆病な男。 
 彼は、弟とはまた違った二面性を持っている。彼が身の回りにおいて陽のように振る舞うのは、己に強く差す陰を隠すためなのだろう。彼に明るく笑いかけられるたび、開きかけた口を何度閉ざしたかわからない。
 かつてのもどかしさと腹立たしさに嘆息をこぼしかけたところで、髪紐の先がかすかに引かれた。
「いいなぁ、千歳緑の髪紐……。静夏も、眞魚兄上からおそろいの髪紐をいただきたかったです……」
 つむじ越しにも見て取れる窄まった口先が、懐古と羨望を紡ぐ。静夏は幸之介の髪紐を弄り、再び頬を膨らませていた。 
「そう不貞腐れるな。……今度、眞魚とお前用に揃いのものを贈ってやるから」
「ほんとう!?
 その場しのぎのあやし文句であったが、静夏はすぐさま立ち上がり、子兎のように飛び跳ねる。膨らんでいたはずの頬は引き上がり、満面の笑みが広がっていた。
 喜びを身体で表す姿こそ兄そっくりだ。血の繋がりはなくとも、彼らは間違いなく兄弟なのだろう。
 父親から江戸行きの許しが降りた折、彼もこうして屈託なく喜びを表していた。
(今思えばあの時……。俺があいつの手を取ったのは、この顔が見たかったからなんだろうか……)
 満々と好奇心を湛えた、淡墨の瞳。知識欲に煽られ、僅かながらに上気した白雪の肌。卑しさのない無垢な言葉を紡ぐ、桜色の唇。 
 ──幸之介。ものは試しだ! 
 明朗快活な声音が思考の水面を打つ。
 今となっては終わりを告げた、いびつな縁。二人の歪みのはじまりは、少年期と青年期の狭間で生まれた特有の衝動と、ほんの少しの興味からだった。そして男の喜ぶ顔が見れるならそれもいいと、ある種の傾慕も含まれていたはずだ。きっと。
 ──そうでなければならない。
 幸之介は、すっかり皺を刻み慣れた眉間を揉んだ。



 それは、十九になる年のことだった。
 風鈴の音が耳に心地よく、遠く聞こえる蝉騒にいよいよ煩わしさを感じ始めた溽暑の日。その日も変わらず、幸之介は眞魚の屋敷の前に佇んでいたのをよく覚えている。
 陰影を含んだ入道雲が天の青さを強調し、鮮やかに視界を彩る。一方で、眼前に佇む屋敷門は白雲の陰に紛れ、武家の栄光を語るには到底足りぬ物寂しさを漂わせていた。
 幸之介は勝手知ったる動作で門を潜り、下男すらいない玄関へ向かう。屋敷に足を踏み入れ、また廊下を歩くたび、床板は軋んだ音を返した。
 目的の部屋の前にたどり着くと、幸之介は迷いなく襖を開けた。
 淡墨の長い髪が、床に波紋を描いている。描き手は庭から射す翠影に身を寄せ、寝転んでいた。
 幸之介に気づいた眦は蕩け、まどろみに身を委ねている。幸之介は起き上がる素振りも見せぬ青年——眞魚の上に小さな息を落とし、そばに腰を下ろした。
「幸之介……。来てくれたのか」
「……当たり前だろ。お前を屋敷に一人残すなんぞ、恐ろしいにもほどがある」 
「ふふ。幸之介が心配性なのは、いつまで経っても変わらんなぁ」
 静かに、それでいて悪戯が成功したと言わんばかりの軽やかさで、眞魚はくすくすと笑い声をこぼす。それが妙に癪に触った。
 幸之介は男の前髪を掻き分けると、現れた額を指先で弾いた。 
「いでっ」
「誰のせいか考えろ」
 ひとかけらの嫌みを放って一睨みしてやれば、眞魚はやはり目を細め、とぼけた様子で額を押さえていた。
「で? お前のお父上とお母上は、いつまで屋敷を留守にするんだ?」
「んー……。あと六日、だったかな……。昔、父上たちが世話になったっていう人に会いに丹波篠山たんばしのやままで行くらしいから。積もる話もあるだろうし、もう少しかかりそうな気もするけど……」
 よいせ、と半身を起こし、眞魚は乱れた前髪をかき上げる。朧気にほどけた言葉は、どこか他人事のように消えていった。
 眞魚の両親は、幼い静夏と長澤家に仕える唯一の下男夫婦を伴い、昨日京を発ったばかりだ。眞魚は自ら留守番を名乗り出て、屋敷に一人残っていた。
(大方、路銀の心配だとか自分の身体では迷惑が、とか余計なことを考えたんだろう。どうせ、本当の家族水入らずで、なんて卑屈な気も回したはずだ。……気を遣いすぎなんだよ)
 幼き頃から、彼は過剰なまでに両親を気遣う。案じずとも、彼らは心から眞魚を愛し、また静夏も本当の兄として慕っている。でなければ、一体誰が病弱な眞魚を深く慈しみ、彼が十八になるまで育てるというのだ。眞魚が患う喘病の薬こそ、困窮する長澤家の家計を苦しめているはずだが、彼らはおくびにも出さない。
 半年前、張り詰めた糸が切れたように家を飛び出した眞魚を追いかけ、そう言い聞かせたのが記憶に新しい。
 ——俺は死んだ方が良いんだ!
 淡墨の瞳は大粒の涙をこぼし、太陽に愛されぬ白き頬を幾重にも覆う。流星のような光芒をいくつも落としながら、彼は闇夜の中で叫んでいた。
 ——うるさい! つべこべ言わず生きろ! 生きる理由がないってんなら、今! 生きて見つけろ!
 咄嗟に出たのは、怒りにも似た言葉だった。締め付ける胸の痛みを無視して、泣きじゃくる眞魚の手を引き、出奔同然に泡沫の旅路についた。思い返せば、あの時の幸之介は平生ではなかったのだろう。
 己では眞魚の生きる理由になれないことに、何故か苛立っていた。それゆえの衝動だった。
 結局、不意の選択は正しかった。眞魚は旅先の伊豆で、己が生きる導を見つけたのだ。
 ──幸之介、俺な。いつか……いつか身体が丈夫になったら……絵師になりたいんだ。この肌守りをくれたゆかり殿のような……人の心に寄り添えるような絵師に。
 春花のぬくもりに誘われ、淡雪が溶けていくように。冬の静けさにひとり身を置いて生きてきた眞魚はようやく、己だけの春に出会った。
 だからだろうか。生きる理由を見つけた眞魚の身体は、ここ半年でみるみるうちに活力を取り戻していた。本人も不思議に思うほどに、健やかに過ごす日が増えた。
(生きてさえくれれば、それでいい。理由が何であろうと。……眞魚が眞魚の存在を赦してやれるなら、何だっていいさ)
 ゆかりとの出会いは眞魚の心を救い、また幸之介に底知れぬ安堵を与えた。感謝こそすれ、密かに腹立たしさを覚えるなど、きっと罰が当たるだろう。
 ふと、眞魚の肌守りと目が合う。
 銀鼠ぎんねずあわせから顔を覗かせた万の桜。ゆかりから贈られたという季節外れのそれは、片時も眞魚から離れず彼の身を守っている。
 薄紅の花々に己の幼さを見透かされているように思えて、幸之介は視界を床に伏せた。 
「あ、そういえばさ。幸之介から借りてた本、全部読んだから返すよ」
 朗らかな声音に顔を上げる。
 眞魚は文机に積み上げられた小峰を掲げ持ち、幸之介に差し出していた。
「あ、あぁ……。そうか……」
 促されるままに受け取り、どうだったかと感想を求めようと再度口を開きかけたところで、幸之介は動きを止めた。
「……っ!?
 はくはく、と餌を求める鯉のように、唇は空を切る。草子の表面に這う文字をひとつ追うごとに、熱と冷や汗が忙しなく顔を出した。
 一方、眞魚の口端は意地悪く引き上がっている。彼はさも愉快だと言わんばかりに、けたけたと声尻を跳ねさせて言った。
「そうそう。それも読んだよ。春画や春本は嗜む程度にお前と回し読みしてるけど、男色の指南書なんて初めて見た。面白いもんだな! 世にはまだまだ、俺の知らない知識ばかりだ」
「っ、これは、俳諧仲間の……!」
「あー、わかってるわかってる。みなまで言うと面白くない。幸之介の趣味じゃないことも、どこかの誰かから揶揄いの道具として押し付けられたのも、どう処分したものかと迷っているうちに、俺に貸す予定の本に知らぬ間に紛れて、そのまま俺の手に渡ったであろうことも理解してるよ。大丈夫、大丈夫」
 眞魚は込み上げる笑いを小さな雫に宿し、幸之介の肩を満足そうに叩いた。
 明晰な幼馴染の思考は、幸之介の過去の行動を読み解くことなど造作もないようだ。何が面白いのか、彼は相変わらず引き笑いを繰り返し、幸之介の険しい眉間に戯れに触れては、また笑い転げる。
 その様は、箸が転んでも笑い続ける赤子のようだった。
「……いい加減、笑うのをやめろ」
「いや、だってさ。お前の顔が白黒変わっておかしくって……! ひ、ひぃ……」
「お前ってやつは!」
「わっ! ごめんってば! ひ、あははっ!」
 眞魚のつむじに両手を伸ばし、結い上げられた髪を乱す。その手を押しのけようとしたのか、細い腕が幸之介の胸に触れた時のことだった。
 男二人分の重心が、数瞬の間に絡んで崩れる。かすかな衣擦れが重なり合い、ひとつの鈍い音が部屋に響いた。
「いってえ……」
「うるさい! 一体誰のせいだと……」
 げんが途切れる。目と鼻の先で、淡墨の瞳が幸之介を見上げている。蝉騒が場を満たし、ふたりの沈黙を強調していた。
「……なんだ、随分と熱烈だな?」
「っ……」
 吐いた息が互いの唇に触れ、桜色の繊月が美しい弧を描く。幸之介の薄い影の下で、眞魚の白い指先が袷の隙間を縫い、やわく下へと降りていく。
 整えられた爪先が揶揄うように肌を掠め、面映ゆいのと同時に、ひどくもどかしい。
「ん……、やめ……っ……」
「ふふ。あの指南書、あながち嘘を書いてるわけでもなさそうだなぁ……」
 指先が上へ下へ、胸元へと緩慢に動く。翠影を含んだ瞳は、幸之介の反応を一心に観察していた。
 厚い睫毛がかすかに伏せられ、また上向く。 
 再び現れた眼には、純な光と好奇心のみが宿っていた。
「なぁ。せっかくの機会だと思わないか?」
 ──思わない。思うものか。問いの中身が見えずとも、背筋を舐める嫌な予感だけは、いつだって幸之介を裏切らない。
 苛立ちと焦燥が輪郭を持つ前に、眼前の男は無邪気な面持ちで笑んだ。
「幸之介。ものは試しだ!」 
 頬に走る本能的な熱に惑わされたのか。はたまた、場を満たす暑気に気をやられていたのか。
 理性の警鐘が、蝉時雨にのまれて消えていく。幸之介は胸元に添えられた手に、ただ己が手を重ね合わせていた。



 穏やかな呼気が聞こえる。吸われては吐かれ、宵に染まった部屋に溶けていく。
 掠れ、また常よりも高く発せられていた二つの声は、黄昏とともに消え失せている。幸之介は半身を起こし、隣で寝息をたてる者を見下ろした。
 白皙はくせきの美青年。深雪の君。目の前の男をそう評し始めたのは、一体誰だったか。
(こいつに懸想する娘たちだったか……。大人しくも物静かな名を戴くには、随分と程遠いが)
 呆れとともに吐息をこぼし、小さく笑む。時節には幾分早い、雪が降り立つ頬を指の背で撫でた。
 眞魚に対する白皙、そして深雪の評は、年若い娘たちの羨望であると同時に、彼の虚弱さの象徴でもある。
 一方、それに気を悪くしているのが幸之介らと同年の男子たちである。眞魚の出自が長澤家の養子であること、その長澤家が同じ武家とは思えぬほど困窮している事実に、幸之介の交友間では嘲笑の的となっていた。
 ──男の白皙なぞ、病を呼び込む魔の象徴。
 ──貧乏武家の金食い虫。
 ──使えぬいらぬの貰われ子。 
 考えてみれば、その評は武家としての自覚が成熟する年頃であること、眞魚が年に見合わぬ聡明さを持ち、勉学に秀でていたことが良くも悪くも噛み合ってしまった結果だったのだろう。
 噂で陰口を耳にした眞魚は「事実だしなぁ」と軽やかに笑うばかりで、意に介する様子ひとつない。それがますます周囲の反感を煽った。
 ──お前たちに、眞魚の何がわかる!
 ──あいつが抱える孤独と苦しみを、欠片ほども知らないくせに!
 の男の代わりに何度、幸之介が憤ったか。叫んだか。拳を振り上げたか。手指の数では到底足りない。
 眞魚は神仏に愛されている。
 この世に彼を産み落とす折、すぐに天へと呼び戻せるよう、神仏は彼の身体を敢えて虚弱に作ったのだ。
 でなければ、彼はなぜ病弱なのか。自ら死を望むほどに苦しまねばならぬのか。
 何故、何故。答えなど誰も教えてくれなかった。ある時理解したのは、幸之介が眞魚のためにとるべき行動、ただひとつだけだった。
 ──俺が守らなければ。眞魚に向けられた理不尽な苦難、その全てから。
 思慕ではない。長く続く腐れ縁に誓って。
 幼馴染として。家族として。半年ほど年上の兄として。ただ「守ってやりたい」の優先順位が他よりも少しばかり高いだけだ。
 この人になら、と。眞魚を託せる人間が現れるその時まで。幸之介はあくまでも繋ぎであり、世を知らぬ幼子まおの夢路を守る揺籃に過ぎないのである。
 眼前の寝顔を見つめる。相変わらず、漏れ出る吐息は規則正しく、穏やかなまでに澄んでいる。
「人の気も知らないで……。暢気なもんだな」
 男の鼻を摘めば、むず痒そうに眉間が顰められ、顔に似合わぬ濁った音が跳ねた。



 夕景を映す川面が、赤々と輝いている。
 蕭々と流れゆくせせらぎが涼を誘うが、川に背を向けた途端、茹だるような暑気が首元にまとわりつく。
 屋敷にひとり篭もる眞魚を連れ、夕涼みに近所の川へ出向いたものの、それも無駄に終わったようだった。
 京は土地柄、冬は底冷えするような寒さを手招くが、夏は途方もない暑さで人々を悩ませる。
 幸之介は京で生まれ育っているものの、何年と時を経ようと、この地の色に馴染みきれないでいた。 
「なぁ、幸之介」
 不意に、隣を歩く眞魚が口を開いた。
 淡く茜に染められた白い首筋に、一粒の汗が滴っている。男から落ちる煌めきは、昨晩の戯れに見たそれと同じように思われて、一抹の後悔が胸中を占めた。
「……なんだよ」
 逡巡の末に答えると、溢れんばかりの笑みが咲く。己が気も知らないで、何がかように楽しいのか。内心でため息をこぼせば、眞魚は明るい声音のまま述べた。
「尻って気持ち良いのかな?」
「知らん」
 彼は閨事について思考していたようだった。肌を重ね合う時分にはいくらか早いというのに、昨晩花開いたばかりの、彼の性への知識欲は留まることを知らない。
「つれないなぁ。ちょっと気になってるから、試してみたいんだ」 
「ふん。どうせ痛いんじゃないのか。そもそも尻は挿れるとこじゃない。出すとこだ」
「でも、男色本には書いてあるんだよ。男同士はここに挿れるって」
 幼き頃は頻繁に繋いでいた手が、幸之介の尻に触れる。躾のなっていない手だと叩くと、重なった影に笑い声が落ちた。
「ちょっとでいいからさ。……な、今日もだめ?」
 眞魚は懲りもせず、幸之介の肩に腕を絡ませる。淡墨の眼差しは心なしか潤み、頬は夕景の色を映してほのかに染まっていた。
 流石は幼馴染と言ったところか。幸之介がこういったねだりに弱いことを、彼はよく心得ていた。
「……やるかやらないかは置いておくが。挿れるのと挿れられるの、どっちを試したいんだ?」
 呆れの吐息とともに問えば、やはり男は満面の笑みを浮かべて。息を詰まらせた幸之介をよそに、あっけらかんと答えた。
「どっちも!」
 ——この男は。
 これも甘やかしすぎたツケなのだろうか。幸之介は思わず、片手で顔を覆った。



 幼年の頃より、眞魚の探究心と好奇心にはまるで底がなかった。書から得た知識に新たな疑問が湧けば、すぐさま幸之介のもとへと駆け、「ものは試しだ!」と謎を紐解いていく。
 最悪なことに、開花が遅れた性への興味も同様であった。
 ──尻は感じるのか? 胸は?
 ──素股って何だ?
 ──陽物でも、どの部位で一番気が善くなる?
 ──吐き出した精を相手に飲ませたいという心理は、一体どこから来るんだ? というか、精はどんな味がするんだ?
 眞魚はひとつひとつの問いに純な眼差しを注ぎ、また深く関心を寄せた。結果、彼は男色でもないと言うのに、胸の飾りを弄れば赤みを差して尖るようになり、またそれに比例するようにして手淫と口淫が達者になっていった。
 尻を試したいと言われた折は、互いに見よう見まねで解し合ったものの、やはり痛みと違和感しか感じられず、挿れるにも至らなかった。それでもと眞魚のねだりに負け、数回に渡って試したが、やはり上手くいかなかった。残ったのは中が僅かにやわくなった二人の尻だけで、得たかった実証は得られず、眞魚はやがて諦めたようだった。
「俺の健全な尻を返せ」と、非難とも悲鳴ともつかぬ声が喉元まで這い寄っていたが、彼の探究心に付き合うと決めたのも幸之介自身だ。ここで非難するのもお門違いだと思い至り、無理矢理に溜飲を下げた。
 不完全な交わりはやがて眞魚の知識欲を満たしたが、程良い快楽だけを共有する関係は細くも長く続いた。
 互いに余計な思慕も持ち合わせず、各々の欲を発散させるというただ一つの目的だけを目指し、肌を合わせる。見知った仲に走る特有の気まずさはとうになく、寧ろ相手のことを頭から爪の先まで理解しているからこそ、幸之介は閨の真似事にいとも容易く溺れた。この関係が存外に好ましいとさえ思った。
 耳慣れた声音が嬌声に色を変えれば、一筋の背徳感が背を撫でる。それが余計に、年相応の肉欲を煽った。
 罪悪感がなかったわけではない。眞魚の両親や弟の姿を見かければ、胃の腑の口が締まる思いがした。だが、それだけと言えばそれだけである。
 眞魚を組み敷き、また自身も彼に組み敷かれ、昂った悦楽を吐かされるたび、これまで慎重に積み上げてきた周囲の信頼が解けていくように思えた。
 の男が好きな落雁を、舌上で溶かすように。周囲も気付かぬうちに、少しずつ。
 今にも儚く崩れそうで、けれど崩れる一歩手前を保ち続ける危うさ。ゆえに、今の不適切な関係に快哉を見出している。
 そう至って初めて、己は歪んでいるのだと自覚した。
(皆に誠実で、常に正道に在りたい。そう思うのに、一度その道を踏み外して堕ちてみたら、なんて……。仁と義を重んじる父上の子が聞いて呆れる……)
 その時、「だからだ」と腑に落ちた。
 破滅にどうしようもなく惹かれてしまうのは、これまで何に対しても反抗の意思を持たず、父の教え通りに清く正しく生きてきたからだと。
(ならば俺は……無意識に眞魚を利用して……?)
 己の破滅願望のために。持ちかけられた戯れに付き合うという体のいい皮を被り、己は眞魚を利用しているのだ。
 ──歪んでいる。心も、身に巣食う欲も、何もかも。
 しかし、現状の変化を厭い甘んじている時点で、自らこの関係を終わらせることはないのだろう。
 たとえ、紡がれた縁のほつれに気づいていたのだとしても。



 冬の気配も濃くなり始めた日のことである。
 父が背負い、また幸之介に常々示している正道へと戻る機会は、凍てついた風とともに訪れた。
「幸之介。満ちかけ屋の夕月が寂しがってたぞ。近頃、お前が来てくれないとか何とか」
 久方ぶりに屋敷を訪ねてきた友人は、揶揄いの混じった笑みとともにそう告げた。
 彼とは、花街での俳諧交流にて知り合った仲だ。眞魚が誤って男色本を手にするに至った原因も彼にある。
 友人が口にした夕月とは、幸之介が花街を出入りするようになってから懇意になった遊君の名であった。
 眞魚の肌を覚えて、早一年半が経つ。その間、夕月と顔を合わせてはいたが、彼女の柔肌に触れるような交わりは片手で足りるほどだった。
「ほい。夕月から預かった文」
 差し出された文を受け取る。
 夕月のことだ。艶文ではなかろう。いつも通り、「私を休ませに来い」との簡潔な旨が記されているに違いない。
 夕月は、幸之介のうぶを世話をした女人でもある。歳も二つほど上で、馴染みの遊君というよりは姉のようなひとであった。
 時折肌を合わせることはあれど、彼女も幸之介のことを馴染みの男としてではなく、ひと時の弟のように思っているようだ。
「たまには行ってやれよ? いい男なんだからさ」
「余計なお世話だ」
 友と軽口を叩きながらその背を見送る。姿が遠く、また十分に小さくなったところで、幸之介は手にしたものに視線を落とした。
 此度もまた、香を焚きしめた紙面には常と変わらぬ内容が綴られているのだろう。頭をがしがしと掻きながら、幸之介は文を開いた。
「……珍しいこともあったもんだな」
 夕月のしなやかな筆致には、しおらしい頼み事が記されていた。
 ──幸之介に、相手をして欲しい新造がいる。
 簡潔に言えば、夕月の妹女郎の水揚げの面倒を見ろ、というものだった。
 遊女の水揚げは価値が高い。通人であれば大枚を叩いてまで名乗り出て、「初めての男」としての栄誉を求める。一般的には置屋側が馴染みの大尽から品定めし、つつがなく事を済ませて新造を一人前の遊女にさせ、また水揚げをした者の名を借りて箔をつける。
 本来であれば、夕月に新造の相手を決める権利はない。最近になって天神の位についたとはいえ太夫ではないため、世話する禿も新造もいない。
 単に同じ置屋の新造に過ぎず、また面倒を見ているわけでもない者のために、何故彼女は頼みの文を出してきたのか。
 文の末尾には、「頼みについては、お母さん〔置屋の主人〕の了承あり」と記され、幸之介の疑問も逃げ道も既に塞がれていた。
(わけあり……か……)
 時折、彼女の横顔に滲む憂いの輪郭。あの女人もまた、己のようにひとには晒せぬ何かを抱えている。
「……返事を出さないとな」
 これは間違いなく、いい機会だろう。夕月にとっても、また己や眞魚にとっても。
 踵を返し、すぐさま自室へと戻る。幸之介は夕月に了承の旨をしたためるとともに、引き受けるための条件を追記した。



 色里の艶やかな明かりが、夜と男を引き止めている。もうじき、宵は男たちの帰路を阻むように濃く深くなるだろう。
 幸之介は馴染みの見世の玄関に腰掛け、頭上に据わる鯉と水車の欄間を見つめた。
 客の入りと一夜の恋。時の流れにさえ思いを馳せた意匠。美しさをたたえて客を迎え、また見送るはずのそれは、今宵ばかりは幸之介を睨んでいるように見えた。
「幸之介」
 穏やかな声音が背を撫でる。振り返れば、目元に愁いを湛えた幼馴染が立っていた。
「……泊まるか?」
「いや……。帰るよ」
 眞魚は幸之介の隣に腰掛け、用意よく出された草履に手を伸ばした。
 白皙には似合わぬ、白粉と甘い香の匂いが鼻先を掠める。夜半に汗ばんでいたであろうはだは僅かな紅を首筋に残して、常の白さを取り戻しつつあった。
「どうだった」
 眞魚の肩がかすかに震える。幸之介の問いが何を指しているかなど、聡明な彼には分かっているだろう。
 先刻まで女を知らなかった男は、ゆっくりと顔を上げた。 
「……たいそう、美しいひとだったよ」
 ほんの少しの間とともに、眞魚は静かに評した。幸之介に視線を向けることはなく、淡墨の瞳は夜の気配をただ見つめていた。 
 どうやら、夕月は幸之介との約束をつつがなく果たしたようだった。幸之介もまた、彼女の願いを聞き届けた。今頃、夕月も満足していることだろう。
 思わぬ機会を与えてくれた姉貴分には、一生頭が上がりそうもない。
(眞魚も、このまま……)
  ──このまま、女の肌を覚えてしまえばいい。
 幸之介の心には、不思議と安堵が広がっていった。
 幸之介との戯れでしか知りえなかった快悦以上のものを、手練手管を知り尽くした柔肌に与えられたのだ。眞魚の心も、あるべき道へと戻ろうと腰を上げたはずだ。
 ようやく、罪悪感と歪んだ破滅願望から解放される。たとえ、守るべき者の温もりを二度と思い出せなくなったとしても、構いはしない。
 眞魚とともに、清く正しい道に戻るためならば。
 伏せた睫毛を上げる。唇には温度のある笑みが自然と宿った。
 ふと、淡墨の瞳が幸之介を捉える。迷いなく一心に捧げられる視線にたじろげば、見慣れた顔が近付く。男の長い前髪の尾が、音もなく目の前で揺れていた。
 耳元に濡れた息がほのかにかかり、肩が跳ねる。なんのつもりだ、と眞魚を押しやるよりも前に、彼は幸之介の耳朶に小さな笑い声を与えながら囁いた。
「……まぁ、俺は幸之介とじゃれてる方が好きかな」
 再び現れた眞魚の唇は、夜着の中で目にする繊月の弧を宿していた。
 ──この男は!
 頬に一筋の朱を差し、幸之介が勢いよく拳を振り上げたのは、言うまでもない。


 結局、眞魚との戯れに似た不完全なまぐわいに終わりが訪れたのは、彼が京を離れる数日前のことだった。
 夜半に火照る白皙が離れて、半年が過ぎようとしている。暇さえあれば、発散と快楽を求めて肌を重ね合わせてはいたが、記憶に刻まれた温もりは既に輪郭を失い、遠く彼方へと消えつつある。
 それを寂しい、などと思うことは生憎とない。元気にやっているだろうか、発作に苛まれてはいないだろうかと、その身を案じることはあれど、の男の温度を恋しいと思うことなどは、決して。
「どうされたのですか?」
 雛鳥のさえずりに、意識が引き戻される。一対の赤墨色が幸之介を見上げ、小首を傾げていた。
 お前の兄との欲に塗れた日々を思い出していたなぞ、どうして口にできようか。
 静夏は生涯、知らぬままでいい。己の友も、あの男に好意を寄せる娘たちすらも。二人の過去の仲を知るのは、この世には二人だけで。
 そう思うのも、後腐れなくこれからも気楽に生きていきたいがためだ。互いに。自分だけの思い出にしたいからなどという独善的な欲求なぞ、欠片ほどもありはしない。  
「……お前の兄上は、人を振り回す天才だなと思ってただけだ」
 幸之介はこんこんと沈んだ思考を水面から引き上げて、淡く笑みをこぼす。けれど、それは静夏が求めていた答えではなかったようだ。
 彼はむっとした様子で再び立ち上がり、眦を吊り上げた。
「静夏の兄上は、いつだってえらいです! むずかしい御本だってたくさん……たくさん読まれてたもの! それに優しいし、居合のお師匠さまに褒めてもらえたって言ったら頭を撫でてくださいますし……。静夏のわがままも、笑って聞いてくださるんです!」
 視界が瞬く。二人の間には、妙な沈黙が揺蕩っていた。
 真面目な顔をして何を言うかと思えば。幸之介が口にした天才とは、静夏が思い浮かべるものとは似ても似つかぬ皮肉だ。
 やはり、彼はどこまでも兄への思慕のもとで生きている。しかし、それを兄の前では決して晒そうとはしない。
 本人に言ってやれば、たいそう驚くと同時に溢れんばかりの喜びを表すだろうに。
 兄と同様に賢しい一方で、ひどく不器用な子だ。幸之介は小さく苦笑しながら、「そうだな」と静夏の頭を撫でた。
「……そろそろ、顔を見に行くか」
 触れれば溶けて消えてしまいそうなほどに儚い、真白き天花の幼馴染。彼の無垢なる夢を守る揺籃の役目は、今頃何者によって果たされているのだろう。
 筆無精な男に代わり、彼の地から送られる報告の文を畳んで、幸之介は瞼を伏せた。