春は遠けき

 橙の薄明かりが、見慣れた夜の自室を照らしている。襖には二つの影が山峰やまおのように伸び、楽しげに輪郭を震わせていた。
 行灯あんどん油の匂いと、甘く清涼な香り。早春の水仙にも似たそれは、武家を象徴する丁字ちょうじの薫香である。
 藤仁ふじひとは香気の行方を追うように、ゆっくりと手を伸ばした。
「……こら。あまりはしゃぐな。夜着も剥がない。風邪をひくぞ」
 隣で身を横たえる男の夜着を丁寧に掛け直す。
 平生とは少し違う夜に高揚感を煽られ、足先で褥を乱すさまは幼子同然だ。
 たしなめ染みた言葉が気に食わなかったのか、男は藤仁を軽く睨みながら頬を膨らませた。
「何を言う。今夜浮かれずして、いつ浮かれるんだ!」
 己よりも二つほど年上で、常に兄然と振る舞いたがる彼があからさまに拗ねている。呆れの吐息を落としてやりたいところだが、今夜ばかりは大目に見るほかあるまい。
 ──あのさ、藤仁……。今日だけ、共寝をしてくれないか……?
 湯屋から帰路につこうという時のことだった。男──芦雪ろせつは、珍しくもおずおずと伺いを立てたのだ。
 何故、と簡潔に問うと、やはり彼は言葉尻を弱めて言った。
 ──明日は俺が生まれた日だから……。その……目が覚めた時に、一番に藤仁の顔が見たいなと……思って……。
 雪華の肌がほのかに色づいて見えたのは、夕陽のせいだったのか。はたまた、湯屋帰りのせいだったのか。──それとも。
 数刻前に交わしたささやかなやり取りを思い出し、藤仁の唇は弧を描いた。
「……もう少しこちらに。まだ夜は冷えるから」
 細い腰に腕を回し、芦雪をやんわりと引き寄せる。分かたれた体温がひとつに重なり、冴えた空気は少しずつ追いやられていった。
 芦雪は導かれるまま、藤仁の胸元に顔を寄せている。乱れた袷の隙間から男の吐息が触れ、藤仁は形容しがたい面映ゆさに駆られた。
 ──この愛しいぬくもりが、誰にも奪われませんように。俺の前から儚く消えてしまいませんように。
 祈りにも似た願いが腕に宿る。藤仁は今ある幸せを確かめるように、芦雪を強く抱きしめた。
「ふふ。なんだなんだ。今日の藤仁くんはやけに素直だな」
「そっくりそのままお返ししよう」 
 冷えた足先が触れ合い、春陽を呼ぶ笑い声が跳ねる。常に静謐と清冽を湛える部屋は、木漏れ日のような温もりで満たされた気がした。
「なぁ、藤仁」
「ん?」
「この前さ……。俺も含めて、流屋の皆で貝桶と貝覆いに絵付したの、覚えてるか……?」
 藤仁を見上げ、芦雪は小さな声で問うた。
「あぁ……。君が出貝の貝桶に、俺が地貝の貝桶に絵付をしたな」
 藤仁は首肯するとともに、ほんの数日前の出来事に思いを馳せた。
 冬も深まり、遠き春に焦がれ始めた頃のこと。面布を着けた少女がひとり、さる身分の者の使いとして「婚礼調度の絵付を」という依頼と、目を見張るような金子を伴い、流屋を訪ねてきたのだ。
 名も明かせぬほどの高貴な御方の祝言なのだろう。思って渡された文を開くと、「我が子が好いた者のもとへと嫁入りするゆえ、くれぐれもよろしく頼む」と親としての情が綴られ、絵付けには子とその相手の幸せを願うあしらいについて、つぶさにしたためられていた。
「この世に生まれて、好きだと思える人に巡り逢えてさ。親にも認められたうえで、好き合った者同士で結ばれる……。それがどれほど稀有で尊いことか……。あの日、絵付しながら素直に良いなって思ったよ。末永く、幸せになって欲しいって……」
 声はわずかに濡れている。芦雪は再び、縋るように藤仁の胸元に顔を寄せた。
「誰が嫁入りするのかは……結局、分からず終いだったけど……。良い祝言になれば……いいな……」
 自らの行く末に重ね合わせるように。そうあれば良いと祈るように。芦雪は消え入りそうな声で吐露した。
 それに思うことがなかったわけではない。けれど藤仁もまた、願わずにはいられなかった。頷かずにはいられなかった。
「……そうだな」
 藤仁の肯定を聞いたきり、芦雪は何も口にしなかった。ただ、安堵したように瞼を伏せていた。
 手のひらにこぼれる絹の淡墨を弄び、髪間に指を差し入れる。優しく、そっと梳いてやれば、芦雪の強ばった口元は次第に緩んでいった。
 吸っては吐いて。規則正しくも穏やかな寝息が静謐にほどけていく。
(寝たか……)
 相変わらず、寝入るまでに時間がかからぬ男である。これでは幼子ではなく赤子だ。藤仁は苦笑をこぼした。
(俺はいつまで……君とともに在れるだろう……)
 先の依頼で描いたあしらいが瞼の裏に浮かぶ。
 名も顔も知らぬ二人が永くともに在れるよう。ともに紡いだ月日が雨水のように流れ、やがて稲穂の如くいくつもの幸せが実るよう。
 祈り、願い、描いた文様に四魂を込めた。未来を誓えぬ己の分まで。
 確かな未来を約束することが怖い。約束は、いつだって大切な者を奪っていくから。
 臆病だと謗られようとも、奪われるくらいなら。いっそ誓わぬほうが傷は浅い。ようやく手にした春を連れ去られてしまえば、己は二度と立ち上がれなくなる。 
 ──ならば、せめて。藤仁は掻き抱いた頭に唇を寄せ、やわらかな慈雨を落とした。
「ありがとう、芦雪」
 生まれてきてくれて。そして、出会ってくれて。未来は誓えずとも、今をともに在ろうとしてくれる彼へ精一杯の想いを告げる。 
(未来が怖くなるほどの幸せをくれる君に……。俺は、何を返してやれるだろう)
 さらさらと、淡墨の髪尾がこぼれ落ちていく。香り立つ丁子の匂いに包まれながら、藤仁は小さく息を吐いた。