胡蝶となりて

 春が来た。
 凍てついた江戸に暖かな風を呼び、うつむいた花蕾からいを上向かせる春が。
 雪解けを待つこの庵がわらう日も、もうすぐ訪れる。たとえ一時いっときの季節なのだとしても、幸いなことに変わりない。
 尋夢庵に届けられた一通のはるを手に、藤仁はかすかに口元をほころばせた。
「兄上。庭の手入れが終わりましたよ。今年の庵の水仙は長く咲いてくれそうで、ようございました。兄上のお好きなお花ですし……。兄上?」
 鈴の声音が呼んでいる。顔を上げると、庵の庭を背に妹が小首を傾げているのが見えた。
「……松乃。庭の手入れが終わったのか」
「もう……。先程からそう申し上げております。今日は父上の命日なのですよ。しっかりなさいませ」
 彼女は縁側に座す藤仁のもとへ歩み寄ると、隣に腰を下ろした。
「何を読んでいらしたの?」
 好奇心に染まった眼差しが、藤仁の手元に注がれる。
 父の命日という今日、そして彼が遺した庵とその庭が霞むほどのものとは何なのか、松乃は気になっているようだった。
 藤仁はちいさく息を吐き、手にした文を畳みながら口を開いた。
「写楽への……新しい依頼の文だ」
「そう……。今回はお受けするので?」
 文を仕舞った手が止まる。藤仁はどう答えるべきか考えあぐね、迷った末に言った。
「……『水仙の君』が、江戸に来ている」
 松乃の大きな瞳が、二度、三度と瞬く。彼女は淡雪の降る頬をほのかに紅に染めながら、藤仁ににじり寄った。
「まさか、依頼は『水仙の君』から?」
「あぁ……」
「まぁまぁ! なんて偶然かしら……! 大変に喜ばしいこと……! 彼は何と?」
「……『ゆかりという絵師を探して欲しい』と」 
 松乃の笑みが強ばる。思いもしない依頼内容だったのか、彼女の頬はみるみる色をなくしていく。やがて松乃は、朝顔がしぼむように顔を俯かせてしまった。
 己よりもよほど戸惑う妹が可哀想に思えて、藤仁は彼女の背を優しく撫でた。
「……そんな顔をするな。依頼は受けるつもりでいる」
「っ、でも、それは……!」
「わかっている。でも……それでも俺は……この一時いっときの幸いに、賭けてみたいんだ」
 藤仁は、ゆかりの行方を知っている。だが、彼を──「水仙の君」を、ゆかりに近づかせるわけにはいかない。
 何より、おのが復讐の渦中に巻き込むようなことだけは、決して。
 だからこそ、今になって現れた彼に、藤仁は賭けてみたくなった。ありもしない彼との未来を、望みたくなった。
 彼がゆかりのもとへ行くべき道の途中にいるのなら、今藤仁の前に現れたのもまた、天命なのかもしれない。
(彼と俺のえにしは、一体どこまで続いてくれるのだろうな……)
 冴えた風が、庭の水仙を揺らして消えていく。
 新たな季節を呼ぶ甘やかな香りが、ひとつ、ふたつと宙を舞い、藤仁の吐息を穏やかに包んでいた。


 冬が去り、待ちわびた春が過ぎて、早くも栗花落つゆりの季節が訪れようとしている。
 雨中に紛れ、芦雪と身体を重ねるようになってから数日が経つ。彼と肌を合わせるにつれて藤仁の思考は霞み、近頃は理性さえまともに働かなくなっていた。
(今日も……雨が降りそうだな……) 
 自室の障子窓に射す光も今日は弱く、窓を開けずとも曇天であることが窺える。藤仁は文机の前に座したまま、ちいさく身を震わせた。
 歳を重ねても、未だ雨は苦手だ。特に、雲が雷をまとい始めると、平静ではいられなくなる。父を喪ったかの日が脳裏を駆け抜け、また兄弟子を亡くした日のも、嫌というほどよみがえるからだ。
 ——な、藤仁。これなら……俺しか見えないだろ?
 数日前、芦雪が藤仁に告げた言葉が、たった今聞いたかのように、耳奥に息づいている。乱暴に重ねた唇のやわらかさも、彼の清澄な香りも。快楽に耽る声もまた。
 雨と雷は、藤仁にとって呪いであり、恐怖の象徴だ。けれど、芦雪と過ごす雨の時間だけは、その恐怖が少しだけ薄れる。芦雪の言葉通り、刹那に過去が閉ざされ、今だけを見つめられる。
(我ながら単純で、幼稚で……情けない……)
 快楽に身をゆだねたとて、過去が消えることもなければ、ましてや忘れることなどできない。芦雪を利用して、ただ見えないふりをしているだけだ。
 藤仁は己の未熟さを恥じ、瞼を伏せた。
 かた、と障子が音を鳴らす。耳をすませば、風が強く吹く音と、葉々が擦れ合う音が外から聞こえてくる。どうやら、雨音が混じるのも時間の問題のようだった。
 嫌な汗が身体から噴き出し、体内で煩わしいほどの早鐘が鳴る。藤仁はゆっくりと瞬きを繰り返して息を吐くと、文机の引き出しから巾着を取り、中から髪紐を出した。
 光の加減で独特な艶を放つ、千歳緑の髪紐。けれど、紐と呼ぶには些か身の幅が広い。もとは芦雪の豊かな髪を結い上げていたものだが、今となっては写楽の——藤仁のものになっている。
 ──では、貴方の髪紐を頂けますか?
 数ヶ月前、芦雪に向けて放ったげんが、あざやかに舞う。
 なんとも大胆なことを言えたものだ。一枚の布で顔を隠すだけで、人というものは、常からかけ離れた言葉も軽々と口にできてしまえるらしい。
 写楽ふじひとの願いに、当然だが、かつての芦雪はたいそう驚いた顔をしていた。
 ——芦雪が江戸にいる間、彼を己のそばに置き、ただ見守れれば良い。たとえ言葉を交わせずとも、それで彼を守れるなら。
 思って、流屋を奉公先として彼に紹介したのが、全ての始まりだった。
 人間とは欲深いもので、一つ手に入ると次が欲しくなる。写楽としてではあったが、刹那でも彼と言葉を交わし、また同じ時をともに過ごせたことが欲を呼び、結果、藤仁は芦雪に髪紐おもいでを求めてしまった。
「ん……」
 髪紐に鼻先を寄せる。かすかに残る清澄な香りが鼻腔をただよい、胸の早鐘が凪いでいく。
 肺の中に余韻が満ちる。瞼の裏で芦雪の面影が揺曳ようえいし、同時に、彼の肌の感触がよみがえった。
 かすかに腰の奥が疼く。下半身には張っている感覚があり、欲が「刺激を寄越せ」と頭をもたげ始めていた。
 藤仁は衝動のままに帯をくつろげ、着流しの合わせを大きく開く。現れた陰茎に親指と人差し指で作った輪をくぐらせ、刺激に弱い先端をやわく握りながら、軽く上下に擦った。
「……っ、は……」
 体温が上がる。呼吸は自然と早くなり、掠れた声が漏れた。
 ——藤仁。 
 耳奥で、己を呼ぶ声が響く。脳裏には、淫蕩な笑みを浮かべて藤仁に腕を伸ばす青年の顔が映っている。
「ん……っ……」
 手の中のものはますます硬さを帯び、鈴口からは透明な液がとろとろとあふれ出ていた。
 陽物を扱く手は己の出した液に濡れ、動きに淀みがなくなっていく。内に巣食う疼きが濃さを増し、藤仁の腰は自然と揺れた。
 ——な、藤仁。気持ちいい……?
 過去の幻影が、声が、髪紐の香りを伝って瞼の裏で明滅し、藤仁の昂りを煽る。
「あ……ぁっ……!」
 ぬめりけをまとった水音が静かな部屋に渡り、耳端まで熱を引き上げる。
 鈴口を親指で擦ると、襲い来る感覚に藤仁の足先は丸まり、それは耐えるようにして、乱れた着流しの裾を握った。
「ん、……ぁ……くっ……!」 
 強ばった身体がちいさく跳ね、奥からせり上がった欲を手の中に吐き出す。痺れるような快感が長く続き、口は空気を求め震えて、やがて喉の奥が鳴った。
 は、はと息をつく。手には、白き跡がねっとりとまとわりついている。芦雪の果てた顔が脳裏をよぎり、藤仁は唇を噛み締めた。
(なんて……醜い……)
 思い出として手にしたはずの髪紐に、彼の存在をみとめながら、こうして自身を慰めるなぞ。
 穢れを拭うように、藤仁は懐紙で白濁を拭き取る。それでも雄の臭いは消えず、肺にたまった淡い髪紐の香りを、みるみる掻き消していく。
 まるで、美しい雪原を身勝手に踏み荒らしてしまったように思えて、罪悪感が募った。
 藤仁は着流しを整えることすらせず、力の抜けた身をその場に横たえた。
(こんな俺を見たら……芦雪は、きっと幻滅する……)
 けれど、藤仁のよく知る芦雪は、たとえこの醜悪さを目の当たりにし、知ってしまったとて、「仕方がないなぁ」と困ったように笑って赦すだろう。その優しさに藤仁も甘え、今感じている罪悪感など忘れて、彼に深く深く溺れるのだ。これからそれを繰り返すであろうことは、火を見るより明らかだった。
 芦雪はそこにいるだけで、人々の中に花を咲かせてしまう。彼の分け隔てない優しさと爛漫さが、そうさせているのだろう。
 芦雪が「写楽と友になりたい」などと、簡単に言ってのけた時もそうだった。当時は冗談かと思っていたが、彼は言葉通り、休みのたびに庵を訪ねてくるようになった。
 芦雪が写楽じぶんのために庵に来るのだと思うと、心には大輪の花が咲くようで。藤仁は、写楽に身をやつす日を楽しみにするようになった。
 庵への道すがら、菓子屋を見つけると、藤仁は進んで店に入り、好んで食べぬ菓子を買うようになったし、茶とともにそれを用意して、庵で彼の訪れを心待ちにするようになった。彼を待つ無為の時間が、愛おしくなった。
 かりそめの姿とはいえ、芦雪とまるで友のように他愛なく言葉を交わすことが、藤仁にとってどれほどの幸いとなったか。芦雪は今生、知ることはないだろう。
 だが、振り返ってみればどうだ。胸裡に咲いたはずの花はいつしか毒の香を放ち、写楽として繋ぎとめた縁を歪ませ、今は望んでいたものとは違ったかたちをして、藤仁の中に根付いている。
(違う……。俺はただ……彼のそばにいられたら、それで……)
 ——本当にそうか?
 藤仁の中で、もう一人の自分が常に問うている。
 ——そばにいられるだけで良いならば、何故、彼に無体を働いた?
 ——雨の日に、彼に「どこにも行かないで」とすがった?
 ——何故、今も彼の優しさに甘え、のうのうと身体を繋げている?
 藤仁は地に根を張り、ただ空を見上げるばかりで、打ちつける雷雨には身を任せることでしか、苦難のしのぎ方を知らない。花木と同じだ。
 ゆえに、偶然に花木の前を通り過ぎただけの胡蝶を——芦雪を甘い蜜で誘い、地に縛り、すがりついて、おのが孤独と苦悶を紛らわせている。 
 これを依存つみと呼ばぬのなら、一体何だと言うのだろう。
「……すまない……。すまない、芦雪……」
 理解していても、彼を手放すことができない。今は彼と距離ができてしまうことが、胸裡の花が散ってしまうことが、藤仁には何より恐ろしかった。
 遠雷が聞こえる。藤仁は髪紐を抱きしめ、声を震わせながら、ただ赦しを請うていた。


 雨が降っている。
 藤仁が恐れをなしていた通り、暗雲は数刻と経たず雷鳴を含み、瞬く間に雨で市中を閉じた。真昼間だというのに外は暗く、揺れる行灯の焔だけが藤仁の部屋を照らしている。
 乱れた夜着の波を掻き分け、藤仁は隣で寝息をたてる者を引き寄せる。隙間なく肌を合わせれば、露に冷えた空気は逃げ出し、ふたつの温もりがひとつに溶け合う。
 淡墨の髪間に鼻先を滑り込ませ、息を吸う。肺は澄んだ丁子ちょうじの香りで満ちていった。
 先のように、髪紐に残る淡い面影も藤仁をなだめてくれるが、やはり本物には程遠い。
 肌の温もり、やわらかな声、感触。これら全てを感じて初めて、藤仁はようやく雷雨の中を過ごせるのだ。
(本当に……君は優しいな……)
 藤仁は眠る者——芦雪の長い髪を梳きながら、ほんの二刻ほど前に思考を馳せた。
 ——藤仁……!
 震える身体を叱咤し、白く汚した衣をどうにか処理し終えた時のことだった。雷鳴が轟き、雨粒が屋根を叩くと同時に、芦雪が小走りに藤仁の部屋へとやってきた。
 藤仁の身を案じる顔を見たその刹那、藤仁はうねる海流の中で、舟を見つけたような心地に陥った。
 ——あぁ。また、彼の優しさに甘えるのか。
 己の中から聞こえる苦言には聞こえぬふりをして、藤仁は芦雪に手を伸ばし、芦雪もまた藤仁の手を取って。冷えた心を温め合うように、身体を重ねた。
 収まらぬ癇癪のままに、藤仁は夜着を乱し、芦雪の中を暴き、何度も欲を吐いた。そのたび、彼は苦鳴も漏らさず、藤仁の頭を撫でては「大丈夫……。大丈夫だからな……」と囁いていた。
 赦せなかった。弱い己が、いつまでも芦雪にすがってしまう己が、どうしようもなく。
 荒れ狂う情を御することもできず、藤仁が不意に涙をこぼすと、芦雪は驚いたように目を見開いて。かと思えば、彼は藤仁を組み敷き、触れるだけの口付けをいくつも落とした。
 ——泣きたいときは泣けばいい。俺に甘えていい。……俺の前でだけは、我慢するな。
 彼の放つ言葉ひとつひとつが、甘美な毒のようだと思った。藤仁のうえで淫らに細い腰を振る姿が、藤仁の穢れた白濁を一滴とこぼすことなく、腹中に受け入れる姿が、何故か慈悲深く見えた。
(だから俺は……君のことを、どうしようもなく……)
 眠る芦雪を強く引き寄せ、肩口に顔を埋める。恋しい香りに心が穏やかに蕩けていくのを感じ始めた時、腕の中で芦雪がちいさく身じろいだ。 
「藤仁……。いたい……」
「……すまない、起こしたか」
「ん……。へいき……」
 腕の力を緩めると、芦雪は藤仁の胸板を軽く押し、垂れた眦で藤仁を見上げた。
「な、藤仁……」
「ん……?」
「藤仁は……花、好きなのか……?」
 唐突な問いに、藤仁は息を詰めた。真意が見えず首を傾げていると、芦雪は夢の欠片を声に宿したまま、たどたどしく述べた。
「今、夢で……お前が、綺麗な青い花……育ててるのを見て……。それで……部屋の前にある庭……。その隅に、空の植木鉢があったのを思い出してさ……。何か、花でも育ててたのかと思って……」
 どうやら、夢にまつわる問いだったようだ。藤仁は未だ茫洋とした眼差しを受け止めながら、口を開いた。
「……去年、植木鉢で朝顔を育てていた。絵の題材として、見ておきたくて……。花が好きかと言われれば……好きな部類に入ると思う……」
「ふ……。そうか、藤仁くんは花が好きか……。可愛いなぁ……」
 芦雪は、くすくすと淡く声をたて、穏やかに笑んでいる。久方ぶりに弟扱いされたような気になり、藤仁はほのかに険を含んで言った。
「からかってるのか?」
「いんや……。お前が好きなもの、俺、よく知らないから……。お前のこと知れて、嬉しいなぁと思って……」
 なだめるように、愛おしむように、芦雪は藤仁の頭を撫でながら続けた。
「それにさ、俺は花を育てたことがなくて……。実家では、父上が本業の傍らで、早咲きの草花を育てて売ってたけど……。俺はとこから見てるだけだったから……」
 唇は穏やかに弧を描いていても、おのが過去をはかなむ顔は、やはり諦観を湛えている。それがわけもなくやるせなく思え、藤仁は咄嗟に言った。
「……朝顔でいいなら」
「え……?」
「朝顔でいいなら、去年の種がまだある。植える時期も、今ならちょうど良い。……君にも、良い絵の題材になるだろう」
 ともに育てないか、とは言えなかった。それを言うには、芦雪と己を結ぶ縁の太さが、あまりに足りないように思えた。
 けれど、淡墨の眼は小さな星を宿してきらめき、藤仁を見つめている。そして、彼は頬を紅潮させ、花のような爛漫な笑みを咲かせて言った。
「育てたい! 俺、朝顔育ててみたい……!」

 栗花落つゆりの季節に入り、ひと月が経とうという頃。今日は珍しく晴天に恵まれ、母屋の縁側を見下ろす空は、初夏にふさわしい青さを湛えている。
(今年は、栗花落つゆりの明けも早いかもしれんな……)
 雷鳴が早めに遠のくのは、藤仁にとってありがたいことこの上ない。一方で、芦雪と触れ合う機会と理由を無くしてしまうのはやはり恐ろしく、もう少し雨の季節が続いても良い、と藤仁は矛盾した願いを抱いていた。
 己の身勝手さに、ちいさく嘆息が漏れる。気持ちを切り替えようと、藤仁は養父より送られてきた文を手に、縁側の端に腰掛けた。
 播磨はりまから江戸まで遠き旅をした紙面には、見慣れた美麗な筆致で文字が綴られている。
「松乃は元気か」「お前は変わらぬだろうな」「ところで、私の甥御がまた生意気に育っていて」と、忙しなく話題が変わるさまは、文字となっても養父の気質がよく表れている。
 此度の本題は何だ、と藤仁は程々に前段に目を通し、しばしの時を伴って、ようやくそれを見つけた。
「『代筆を頼まれて欲しい』……」
 養父であり、また絵の師でもある琳也は、流屋の棟梁にして、先見の明を持つ豪商だ。
 出自も関係しているのか、彼は日ノ本各地の国の権力者や、あまたの豪商と繋がりを持ち、流屋への依頼もそれらを伝手に引っ張ってくることが多い。
 それゆえか、琳也は人と交流する時間の方が多く、反対に画業に専念する時間は非常に少ない。流屋に依頼を持ってくるためでもあるゆえ、彼が日頃から多忙なのは誰が見ても明らかだったし、それに文句を言う者も流屋にはひとりとしていなかった。
 だが、「琳也に絵を描いてもらいたい」「琳也の絵が欲しい」と頼む依頼人も少なくない。
 できうる限り、琳也はその依頼には応えているものの、彼の身体がひとつしかないのもまた事実だ。どうにも都合がつかず、手立てがなくなった場合、琳也は苦肉の策として、筆頭絵師である藤仁にこうして代筆を頼むことがあった。
 代筆は嫌いではない。仕事なのだし、そもそも琳也からの信頼の証しでもあるため、頼まれた場合、藤仁は二つ返事で請け負っている。しかし、此度の代筆はやや難題だった。
「今回の画題は……『楚蓮香それんこう』か……」
 楚蓮香それんこうとは、古代大陸に伝わると言われる絶世の美女のことである。
 ——その外に出づるや、蝶これを慕ひて従ふ。
 故事によれば、楚蓮香それんこうの美しさは、その身体がまとう香りにもあった。彼女がひとたび外を歩くと、その香りに魅せられて、蝶や蜂が付き従いながら翔び遊んだというのだ。
 容姿端麗にして、国色とさえ尊ばれた女性にょしょう。「楚蓮香それんこう」を画題にするということは、此度求められているのは美人画であり、また「香り」という目に見えるもの以上のことを描き出す画力が必要になる。
 藤仁は、美人画、仏画、風俗画と一通り描けるものの、最も得意とする画題は草花だ。美人画は久しく描いていない。むしろ、美人画は琳也が得意とするものだった。
 納品は三ヶ月後と余裕はあるが、楚蓮香それんこうという題材への取材のことも鑑みると、さほど時間はない。
 ——どうしたものか。藤仁は手早く文を畳み、固くなった眉間を揉む。
 ここで考え込んでいても、無為に時を浪費してしまうだけだ。すぐにでも蔵へと赴き、大陸の美人画なり、琳也がこれまで描いた美人画なりを元に、構想を練らねばなるまい。
 ちいさくため息を吐き、藤仁が立ち上がった時のことだ。銀鼠の塊が、目端を掴んだ。
 縁側の反対の端——ちょうど、朝顔の鉢の前にて、それは背を丸めて佇んでいる。
 藤仁が近づくと、銀鼠の塊ははっとしたように顔を上げた。
「あ、藤仁……」
「……どうした。そんなところでうずくまって」
 銀鼠の塊——もとい芦雪は、手にした画帳を閉じると、気恥ずかしそうに答えた。
「いや……。朝顔の様子を見てたんだ。本葉が増えて、つるも伸びてきたから、ちょっと前に支柱を立てたんだけど……。最近、あんまり成長してないみたいでさ……」
 ひと月前は、「芽が出た!」だとか、「葉っぱが増えたぞ!」だとか、朝顔の成長の一挙一動に喜びを表しては、逐一藤仁に報告していたというのに。今の彼の表情は曇っている。
 ひと目見ただけでは分からなかったが、どうやら、朝顔の経過が悪いらしい。
 藤仁は縁側から降りて草履を引っ掛けると、鉢の前に移動し、その場に片膝をついた。
 葉の裏をめくる。虫はおらず、食い破られた跡も縮れもない。芦雪が毎日、甲斐甲斐しく取っていたからだろう。虫害によるものではなさそうだ。
 本葉に覆われた根元を見る。青々と繁る葉を掻き分け、土に軽く触れるが、湿り気も十分だ。根腐れを起こすほどの水分量でもない。とすると、思い当たる原因はひとつだった。
「間引きはしたか?」
「へ? あ、いや……。特には……」
「原因はそれだ。鉢の土の量に対して、苗が多い。根元の土を覆うほど葉が多いから、風通しが悪くて日があたらない部分が出てきたり、養分が上手く行き渡らなくて、生育が悪くなってるんだ。……とりあえず、この調子の悪い二株は移動させよう」
 藤仁は慎重に支柱を外し、根を傷つけぬよう朝顔が植わった土を手で掻く。縁側の下に置いていた余った鉢を取り、その中に土を入れていく。
「ふ、藤仁! 大丈夫、俺がやるよ。お前の手が汚れる……」
「問題ない。これぐらい、あとから手を洗えば良い。気にするな」
 弱っている朝顔の二株を手早く別の鉢に移し終え、藤仁はようよう胸を撫で下ろした。
(土が足りない分は、自室前の庭から取ってくるとして。追肥に油かすを与えておこう。経過を見ながらだが、こっちの鉢にも支柱を用意しておかないと……)
 朝顔の世話について思案しながら藤仁が立ち上がると、芦雪は何を思ったか、藤仁に腕を伸ばして抱きついた。
「ありがとう、藤仁!」
「っ、いや……、俺は……」
「こうやって、藤仁も一緒に見てくれてるんだ。綺麗な花が咲くと良いなぁ……」
 そう言って、芦雪は藤仁から身を離すと、満面の笑みを浮かべた。
 そんな芦雪の表情こそが、朝顔にも負けぬほどの大輪の花のようだと言えば、彼は何と答えるだろう。
 言えるはずもないそれを頭の隅に留め、藤仁は芦雪に背を向けて、足早に自室に戻った。
 先まで頭を悩ませていた代筆のことなど、とうに忘れている。藤仁の脳裏は、刹那に身を包んだ芦雪のぬくもりと、ほのかにたった彼の香りに満たされていた。


 木の葉に夏の陽光が渡り、蝉時雨は栗花落つゆりの明けを煩わしいほどに伝え始めている。
 藤仁の見立て通り、芦雪の朝顔は移し替えた途端に息を吹き返した。今では、思い思いに支柱につるを巻き付け、太陽の恵みのもとで日々成長している。
 本葉は鉢を覆い隠すほどに茂り、ところどころに蕾を覗かせていた。あざやかな青を目にする日も、きっと近いはずだ。
 一方、朝顔の経過を見るたび、藤仁は時の流れを感じると同時に、焦燥に苛まれていた。琳也に頼まれた代筆が、遅々として進まないのだ。
楚蓮香それんこうがまとう衣装の模様や形、細かな装飾はすでに決まっている。彼女の周りに置く胡蝶の描き方についても、あんなにすぐ決まったのに……)
 当初、楚蓮香それんこうの故事を思い浮かべた折、藤仁は芦雪のことを漫然と思い出した。
 ひとつの場所に留まらず、心惹かれる香りには何にでも着いていき、どこへでも飛んで行ってしまう。楚蓮香それんこうを慕う胡蝶は、己が憧れる芦雪そのもののように見えた。
 大陸を経た遠き楚蓮香それんこうが、急に身近に感じられ、己の中に落とし込めた気がした。
 ——これなら、きっと上手くいく。
 けれど、藤仁がそう思えていたのも、つかの間のことだった。構図と女人の表情だけが、どうしても決まらないのだ。
 胡蝶ろせつが、つい惹かれてしまうような香りをまとう女人とは、一体、どのような美しさを持っているのか。どのような仕草であれば、彼女を美しく見せられるのか。その女人を国色たらしめる表情は、どのようなものなのか。
 頭を悩ませ、紙に筆を走らせては納得がいかず、紙を丸めて何度も床に投げ捨てた。ただ、時間だけが過ぎていく。
 何も成さぬまま夜を明かす日が続いた。それでも、藤仁は回らぬ思考で画題に向き合うほかなかった。
 ——……ひと。
 遠く何かが聞こえる。かの音は、何を指すものなのだろう。
 ——ふ……と。おい……。
 名前だろうか。音が明瞭なかたちを成す前に、藤仁の身体は大きく揺さぶられた。
「藤仁! 藤仁ってば!」
「……ん……」
「起きろ! 早く!」
 視界が霞む。瞼が重い。身体中の骨が軋み、悲鳴をあげている。
 どうやら、いつの間にか画室で夜を明かし、床に倒れるようにして寝入っていたらしい。
 身を起こすと、藤仁の視界は徐々に明るくなり、やがて見慣れた青年の顔を映した。
「……芦雪か……。なんだ、何かあったのか……?」
「いいから! まぁ、来てみろって!」
 芦雪に腕を掴まれ、藤仁は引きずられるようにして廊下に連れ出された。
 藤仁を導く淡墨の髪尾が揺れるたび、ほのかに丁子ちょうじの香りがたつ。今はもう嗅ぎなれたそれに、藤仁の逆立つ心は常のようになだめられていった。
 明けの光が瞼に触れる。芦雪は、藤仁を縁側まで連れてきたようだった。
「ほら! 見てくれ! 咲いたんだ!」
 よっこいせ、と芦雪が藤仁の前に差し出したのは、青々と葉が茂るひとつの鉢。そこには、美しいあざやかな青が、朝露を弾いていくつも開いている。その隣で、芦雪の笑顔も負けぬほどに輝き、咲き誇っていた。
 眇めた眼に熱が走る。藤仁の身体はかすかに火照り、今にも転がり落ちんばかりに、鼓動が大きく跳ねている。
 ——綺麗だ。
 言葉は出なかった。藤仁は何かに突き動かされるようにして、芦雪の頬に手を伸ばした。
「あ、蝶だ。お前も綺麗な青色だなぁ」
 不意に、芦雪が視線を流す。その先には、彼が言った通り、黒に薄い青の入った胡蝶がひとつ、ふたつと飛んでいる。
「ふふっ。朝顔に香りはないはずなのにな。花を見に来たのかな?」
 胡蝶は咲いたばかりの花にとまり、羽を休めている。芦雪が鼻先を寄せれば、胡蝶たちはからかうように彼の周囲を舞った。
 清澄な香り。大輪の花と見紛うほどの笑み。香りのない朝顔。二匹の胡蝶。そして。
 ——その外に出づるや、蝶これを慕ひて従ふ。
 楚蓮香それんこうの一説が、刹那に脳裏をよぎった。 
(そう、か……。胡蝶は……俺の方だったのか……)
 散逸した紙片がひとつのとなり、藤仁の眼前を染める。
 自由を求めて何処かへ飛んでいける胡蝶が眩しく、羨ましかった。自身は地に根付く花木でしか在れないのだから、なおさら。
 けれど、芦雪は胡蝶ではなかった。藤仁を置いて、ひとり飛んで行ってしまうような男ではなかった。
 彼のまとう清澄な香りは、いつだって藤仁に寄り添い、優しく行き先を示す。そうして藤仁はいつしか、楚蓮香それんこうに惹き付けられる蝶のように、彼のことばかり考えてしまうのだ。その残り香で、自身を慰めてしまうほどに。
(難しく考えずとも、『楚蓮香それんこう』の答えは、ずっと俺のそばにあったんじゃないか……)
 唇に、自然と弧が宿る。藤仁はわずかに瞼を伏せたあと、芦雪に目を戻して言った。
「芦雪。あとでいい。今みたいに植木鉢を持って、画室に来てくれ」
「え? いいけど……。なんで?」
「『美人画』の参考にしたくて」
「は? び、美人画……?」
 芦雪は藤仁が放ったげんを飲み込めぬようで、目を白黒させている。それにちいさく声をたて、藤仁は穏やかに笑う。
(俺は、芦雪を慕う胡蝶でありたい。彼に付き従い、守り、そして彼が俺を望まなくなった時は、すぐに身を引けるような……)
 まだ見ぬ楚蓮香それんこうが、小さな朝顔の鉢を抱えて胡蝶ふじひとを見据えている。彼女の唇は慈愛の色を溶かして、優しく微笑んでいた。