甘くほどけて

(こんなものか……)
 藤仁ふじひとは静かに筆を置き、丸まった背を伸ばした。凝り固まった筋が少しばかりほぐれ、絵に向き合っていた時の長さを実感する。
 床に横たわるものを改めて見つめる。淡い紫をまとった花菖蒲。清香に誘われ、風を羽織って舞い降りる真白き胡蝶。紙面には、ひと足早い初夏が訪れていた。
 ──訳あって、花をいけられないんだ。だから自室に飾れる初夏の草花図が欲しくて……。
 完成したばかりの絵は、依頼主の慎ましい願いを反映させたものだった。
 輪郭線を用いることなく、色彩のみで花弁のふくらみや胡蝶の羽の重なりを一枚一枚表現したことで、繊細さと優美さが両立している。また、敢えて薄く幾重にも色を重ねることでより透明感が出た。
 初めて試みた技法ではあったが、現実の花々よりも瑞々しく、写実的だが幽玄的な絵に仕上がったように思えた。これならば、きっと依頼主も喜んでくれるだろう。
 小さな吐息が静寂に溶ける。
 衣擦れの音を落としながら襷を外せば、青褐色の袖がしなだれ落ちた。腕にかかる布地が少しばかり鬱陶しい。画室の窓から注がれる陽の眼差しは熱を帯び、季節の変わり目をようよう意識する。
「もう夏か……。早いな……」
 うっすら滲んだ汗が一粒の露となり、頬の輪郭をなぞった。
(……あぁ。だから、依頼主も初夏の草花図なんて頼んできたのか)
 己が描いた絵を見て時節の変化を感じるとは。絵以外のこととなると、自身の無頓着さが浮き彫りになって嫌になる。
 ──……藤仁。さてはお前、また飯を食ってないな?
 藤仁の常を詰る青年の声が、過去の耳朶を打つ。今はもう耳慣れた木漏れ日のようなそれは藤仁への心配と慈愛で溢れ、温かい。引き結ばれた唇が自然と緩んだ。
(そういえば、今日はまだ聞いてないな……) 
 街中を響いていた時の鐘によれば、今はちょうどおやつ時である。
 常の通りならば、「藤仁! おやつは!? おやつなら食べるだろ!?」と口やかましく騒ぐ声が響いても良い頃合である。
 藤仁は立ち上がると、画室の襖を開けた。
 ──藤仁。お前の好きな煎茶をいれたぞ。一緒に飲もう。
 襖の前に期待した者の姿はない。ただの想像に過ぎぬ青年の笑みが瞼の裏を過ぎり、藤仁はやはり息をこぼした。
(随分と絆されたものだな……)
 青年──芦雪ろせつが藤仁の目付け役となってから、もう少しでふた月経つ。相変わらず、藤仁は彼に明かせぬことを多く抱えたままだ。
 日々、七重、八重と花びらのように舞い落ち、重なっていく彼への想いは、心の底地で花筵を作っている。
 己が立場も事情も全てかなぐり捨てて、彼に打ち明けてしまえたら。できるわけもない夢想を浮かべては、暗鬱に思考が沈む。
 藤仁はもう一度小さく息を吐くと、ここにはいない青年の面影を追って画室をあとにした。


「松乃」
「あら兄上。この時間に居間においでになるなんて、珍しいですね」
 居間に足を踏み入れると、妹の松乃が出迎えた。
 今年で齢十五になるというのに、彼女は色恋や趣味にかまけることなく、絵屋の仕事を手伝っている。兄としてそれが心配でもあり、また要らぬ虫がつかぬことに安堵してもいる。
 今日は絵屋が定休日であるためか、鶺鴒にも似た忙しなさはない。松乃はゆったりと腰を落ち着け、煎茶を口に含んでいた。
 彼女の傍には数冊、草子が積まれている。懇意にしている貸本屋から借りたものを読み耽っていたのだろう。
「……芦雪は?」
 松乃に視線を落とし、男の行方を問う。甘味好きの彼がおやつ時に居間を不在にするのは珍しい。
 大の甘党である松乃とともに、甘味に舌鼓を打っていると思っていたが、どうやら当てが外れたようだった。
「芦雪様ですか? 芦雪様ならお散歩に。写生をしに行くと仰っておられましたが……。その時の気分にもよるけれど、帰りに軽くお酒も飲むとか飲まないとか」
「芦雪様らしいですよね」と、松乃は手にしていた草子を小山の頂に置くと、くすくすと笑みを浮かべた。妹とは対照的に、藤仁の唇は固くなるばかりである。
(どこをほっつき歩いているんだ、あの人は……)
 近頃、芦雪は休日になると姿を消す。
 大概はここ日本橋から深川あたりの間を散策しているようだ。そうと分かるのは、夕餉の時間になると松乃や藤仁らにその日行った場所や目にしたこと、不思議に思ったことを楽しげに話すからだ。
 普段は藤仁の目付け役として鬱陶しいほどそばに在ろうとする一方、藤仁がふと芦雪に意識を向けた時には、既に隣にはいない。目に入るものには何にでも気を惹かれ、飛び込んで行ってしまう彼らしいと言えば彼らしい。
 自由闊達で、爛漫と周囲を振り回す芦雪を好ましいと思う反面、そのうち己のそばから飛び去ってしまうのではないかと不安に襲われる。
(だが……俺には芦雪を縛る権利も、理由もない)
 ──理由がなければ、作ってしまえば良い。
 ──芦雪が藤仁から離れられなくなるよう、彼の翼を溶かし、己だけの檻の中に閉じ込めてしまえ。
 醜いもう一人の自分が、心の隙間から顔を出す。
 次々と耳元で囁きかけてくる妄執を、藤仁は頭を振って追いやる。間違っても言葉にはせぬよう、唇を引き結んだ。
「そんなに不安なら、もう打ち明けてしまえば良いではないですか」
 鈴を転がすような松乃の声が、俯く顔を上げさせる。彼女に目を戻せば、鋭く冴えた視線が絡んだ。
「……何を?」
「全てを、です」
 物憂げな兄が何に苛まれているかなど、聡い妹にはお見通しだったらしい。平生、芦雪には決して見せぬであろう冷えた笑みを浮かべながら、松乃は続けた。
「兄上ったら、まるで雛鳥のようですよ。芦雪様の姿が見えないと探し回るんですから。そのくせ、普段は何とも思ってないように芦雪様に振る舞うものだから、もうはたから見てておかしくって」
「……」
「眉間に皺を寄せて睨まれても、何も怖くないです。だって事実ですもの」
 齢に似合わぬ大人びた瞳が詰問している。何を躊躇しているのかと。己と同じ色を宿したはずの黒鳶色はひどく淡々としていて、同時に切々とした哀願を湛えているように見えた。
 松乃は緩慢な動作で湯呑みを持ち上げ、今一度茶を口に含む。空になった陶磁を茶托の上に置くと、己の目の前に座るよう、ひらりと藤仁を手招いた。
「せっかくですから、芦雪様がお戻りになるまでここで少し気持ちを落ち着けて下さいな。たまには兄妹水入らずで積もる話でもしましょう。……そうとなれば、お茶を用意しなくてはなりませんね。今から淹れて参ります」
 藤仁の意見をはなから聞く素振りも意思もない。わざとらしい言葉の羅列に、藤仁は立ち上がった妹の肩に手を添えた。
「松乃、俺は……」
「お茶を、淹れて参りますね?」
「……」
「ふふ。やっぱり、兄上は素直な方が素敵ですよ」
 押し黙った藤仁を見て、松乃は口端をもたげている。己より六つ下の娘とはとても思えない。
(俺は一体、どこで松乃の育て方を間違えたのだろう……)
 鈍く痛むこめかみを押さえる。頭痛が治まるまでなら、と藤仁はしぶしぶ居間の定位置に腰を下ろした。
 松乃は兄の様子を満足気に見つめ、笑みを深めている。そのまま襖に指をかけた時、彼女は何かを思い出したように足を止めた。
「あぁ、そうでした。おやつなのですが、本日は珍しく井筒屋のきんつばが手に入りまして。……兄上は召し上がりませんよね?」
 松乃は頬に手を添え、ほんの少し残念そうに問うた。
 甘いものが得意ではない兄を慮っての言葉なのだろう。色良い返事は貰えないと、わかっているのやもしれない。
 自身の好きなものを共に食みながら話に花を咲かせたかったはずだ。そういうところは年相応である。
「あぁ。そうだな⋯⋯」
 妹の申し出に申し訳なさを覚えつつ、藤仁は睫毛を下げた。 
(あの人ならきっと……喜んで口にするんだろう)
 菓子を食み、やわい笑みを浮かべる男の顔が脳裏を過ぎる。彼の白い頬をたちまち緩ませてしまうきんつばに、ほんの少しだけ悋気が湧いた。
 ものにまで嫉妬してしまうなど、いつからかように器量の狭い男になったのだろう。そのうち、愛及屋烏ではなく「嫉及屋烏」になりそうだ。
 だが、もし。決して好ましくはない甘味を──芦雪が好むものを今ここで口にしたとしたら。
 この胸にすくう寒さも、不安も。一抹の寂しささえも和らぐやもしれない。何より、彼のことをより近くに感じるようになるのではなかろうか。
 下心から来る選択に呆れがないかと言えば嘘になる。だが、今だけは。先の見えぬ未来で後悔したくないと思うことは赦されるだろうか。
(我ながら単純だな……)
 小さく苦笑を漏らす。藤仁は肩を落とす松乃に向けて再び口を開いた。
「⋯⋯いや、折角だ。頂こう」
 松乃の瞳が三度の瞬き、不可思議な間が場を満たす。藤仁は小首を傾げた。
「松……」
「まぁ! まぁまぁ! 兄上が甘いものを召し上がりたいだなんて⋯⋯!」
 松乃は瞠目したのち、らしからぬ上擦った声をあげた。視線は上に下に、右に左にとさ迷い、まるで絵屋で動き回っている姿にも似た忙しなさである。
「今日は雨かしら……洗濯物には気をつけないと……」
「松乃?」
「いいえ、なんでもありません。では、お茶と一緒にお持ちいたしますね!」
「あぁ。ありがとう」
 松葉色の袖が空気を含み、軽やかに踊る。松乃は平生とは少し異なった忙しなさをまとい直して居間を出ていった。
 静謐が宿る場にただひとり、藤仁は己の隣に目を向けた。
 普段芦雪が腰を下ろし、桜色の唇でものを食んでいる場所。過去の面影が浮かびはしても、今ここに彼が現れるわけもない。
「……っは」
 片手で顔を覆う。刹那の暗闇の中で、皮肉を込めた吐息が響いた。
 春嵐の中心にいる彼は、きっと知らないだろう。花びらとともに周囲や藤仁を巻き込み、こうして心を酷く掻き乱しているなどという事実に。
(……君の笑顔が、平凡な日々を特別に変えているだなんて)
 彼は知らない。否、知らずとも良い。知る機会も、知る必要も。ただ己だけが手を伸ばし、焦がれ、生きる意味になっていれば、それで。
 ──藤仁。
 けれど。けれどもし。あの甘くほどけるような微笑が、いつか己だけに向けられたのなら。
 血と闇に塗れた手をなおも伸ばし、彼の光を掴もうさえする欲深さにつくづく嫌気がさした。
「早く帰ってこい……」
 藤仁の呟きを受け止める者はいない。身勝手な想いを咎めるべき者も。
 今頃どこかで酒でも引っ掛けているのであろうその人物に思いを馳せながら、藤仁はただ静かに瞼を伏せた。